井上ひさし 『太鼓たたいて笛ふいて』

太鼓たたいて笛ふいて』は林芙美子さんの評伝劇である。井上さんの評伝劇は、資料を調べるだけ調べて、そこから井上さんの思いを込めて人物像を造形していく。

林芙美子さんに関しては、母と養父の行商について歩く貧しい少女時代。本に夢中となり、職を転々として詩や小説の創作に打ち込む時代。長谷川時雨主宰「女人芸術」に発表した『放浪記』がベストセラーとなり流行作家となった時代。日中戦争が始まり戦争従軍記者として活躍する時代。戦後一転して戦争が引き起こす女性の悲劇を描いた林芙美子さん。その林さんを生活する庶民と文学者の境界を造る事無く走り続けた小説家として肯定し、そこから見えてくる、物書きとしての矛盾をも映し出す井上戯曲。歌を挿入することによって、攻撃性を弱めたり、雰囲気を明るくしたり、理論性で疲れる脳を休めてくれ、新たな問題点、思考すべき事がないのかなどを提示してくれる。

この芝居の中の林芙美子と一緒に林芙美子を探している。戦争従軍記者として戦地におもむいた作家は日中戦争前からいた。あの正岡子規さんも新聞記者として従軍しその報告を書いている。林さんは、東京日日新聞(毎日新聞)の従軍記者として、南京に一番乗りし、女性で一番乗りということもあって脚光を浴びる。そして、火野葦平さんの芥川賞受賞が内閣情報部の目に止まり、作家達による「ペン部隊」がつくられ、林さんはその一員として漢口に行き、またまた一番乗りとなり、一段と名を売るのである。日本へ帰ってからも、現地の様子を知りたい残されている家族は、林さんの講演会に殺到する。内閣情報部は見せたいものと、見せたくないものはコントロールしているので、その中で動いた林さんの見たものは、戦場の全貌では無かったであろう事は想像できる。内閣情報部の狙った通り、作家の戦場と銃後をつなぐ一体感は上手くいくのである。戦後そのことに気付いた林さんは、戦争で傷ついた女性たちを題材として小説を書くのである。

『太鼓たたいて笛ふいて』には、驚くべき人が登場する。それは、島崎藤村さんの『新生』で書かれた藤村さんの姪御さんの島崎こま子さんである。芝居は芙美子さんの家で、そこに芙美子さんのお母さん、レコード会社の人、昔の行商隊の人などに交じって島崎こま子さんも登場するのである。これには芝居を観ていて驚ろいた。帰りに慌ててパンフレットを購入する。それによると、こま子さんは藤村さんと別れ結婚もするが、幼い娘を抱え、貧しさと過労から倒れ養育院に収容され、林さんはこま子さんを訪ねる。そして、そのことを「婦人公論」に手記として発表していたのである。

「女の新生 島崎藤村氏の姪荊棘の道を行くこま子さんを訪ひて」  <「新生」と云う作品は岸本と云う男の主人公の新生であり、そうしてまた藤村氏自身の新生でもあって、作中の不幸な女性節子さんの新生ではあり得なかったのだと思います。>

芝居では、こま子さんが突然林さんを訪ねてくる。彼女は貧しい子供たちの託児園の仕事をしていて、「新生」の中では言えなかった事を語る。

小説の中ではない現実のこま子さんと芝居の中のこま子さんを知りそして観ると、小説のこま子さんは藤村さんに作られたこま子さんであるという視点に立つ。

『新生』  「節子の残して置いて行った秋海棠の根が塀の側に埋めてあった。『遠き門出の記念として君が御手にまゐらす。朝夕培(つちかい)ひしこの草に憩ふ思いを汲ませたまふや。』」(岸本はこの節子の言葉が気になり、引っ越しで慌ただしく植えたのが気になる。その根は土の中かから転がって出ていた。二人の子供と一緒に植え直す。)「こういふ子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部にいるばかりでなく、庭の土の中にも居た。」

この前に節子の手紙もあり、そこからの流れは、節子も<新生>を成し得たように読者は思わせられる。林さんは、そこのところを突いているのである。井上さんは藤村さんに異議ありとした林さんの一本気なとこと、それが、<太鼓たたいて笛をふく>ことにもなる全ての林さんを芝居にしている。林さんを見ると同時に自分を肯定しなくては生きていけない人間の強さと弱さの表裏一体を見るのである。

それは大文豪にも言える事である。しかし、『新生』は書く必要があったのであろうか。物書きの<業>であろうか。

永井荷風・森鴎外・井上ひさし・林芙美子・火野葦平~

どんどん繋がっていくのであるが、北九州市の文学サークルの活動も歴史がある。

驚いた事が幾つかあった。、北九州市立文学館の第9回特別企画展のチラシに 『いつもそばには本と映画があった』 とあり、ウラに <あなたは「読んでから観る」派?「観てから読む派」?> とある。2011年(平成23)4月23日~6月19日であるから、今年5月から7月にかけて開催した東京芸大美術館『夏目漱石の美術世界展』の <みてからよむ> に先駆けて既に使われている。東京芸大美術館のほうが二番煎じのようで後味が悪い。

2010年(平成22)1月~4月にかけては 『筑前のおかみさんの東路をゆくー田辺聖子「姥ざかり花の旅路」と小田宅子 「東路日記」-』 を開催。この旅は天保12年(1841年)のことで、この小田宅子さんは俳優高倉健さんの祖先にあたるという。歌仲間の桑原久子さんと連れ立って赤間関(現・下関市)から伊勢詣でに出かけ、伊勢・善光寺・日光・江戸をめぐり旅からもどって10年かけて『東路日記』を書きあげたのである。小田宅子さんも日光街道杉並木を歩いたのである。その時同時開催として 『2010年収蔵展 火野葦平の没後50年』 があったがその詳しいことはチラシからは残念ながら分からない。

火野葦平さんの旧住居は北九州市指定文化財になっている。そのしおりによると <史跡、火野葦平旧居「河伯洞(かはくどう)」河童をこよなく愛したことから名付けた。><「河伯洞」は父、玉井金五郎が息子、葦平のためにとその印税によって建てたものです。葦平は、戦地での戦友達の苦労への思いから、後々もこのことを負担に感じていたといいます。>

火野さんは若いころ同人誌「第二期九州文学」を創刊しその時の参加仲間に、小説『富島松五郎伝』で直木賞候補になった岩下俊作さんがいる。この作品が映画「無法松の一生』の原作である。この映画も検閲でカットされたシーンがあり、稲垣浩監督は伊丹万作のシナリオの原型を残すべく再度映画にする。それがベニス映画祭で金獅子賞をとる。

松本清張さんは、森鴎外さんが小倉にいたころ書いた『小倉日記』をもとに小説『ある「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。そのお祝いの言葉を、火野さんと岩下さんが送っているが、火野さんの言葉は強烈である。

「芥川賞に殺されないようにしていただきたい」(昭和26年・1月)

林芙美子さんは下関市生まれで、幼いころから母と義父とともに、九州を行商して歩いている。『太鼓たたいて笛ふいて』には「行商隊の唄」も歌われる。

どうもどうも ご町内の皆さま こんちわこんちわ 行商隊です

 

『永井荷風展』 (3)

今回の図録には、平成16年の井上ひさしさんの講演の抄録も載っていた。どうやら私の聞いた講演である。9年前になるのだ。私の記憶違いが判明した。

「私の見た荷風先生」(井上ひさし)。私が書いた 【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 は実際は次のようになる。

井上さんが一度目に荷風先生を見た時のこと。やくざを追い払う役もしていて、<ある日スーと背中に気配を感じて「またやくざかな」と思って見たら、なんとそれが荷風先生でした。体が震えました。それはすぐわかりますから。ちょうど一本歯が欠けていました。><先生に会ったというので、私はもうれしくて、その晩はそれで終わりました。>

二回目は<荷風先生に憧れていた文学青年としては手厚く、といってもイスをすすめただけですが、もてなしました。> その頃、谷さん、渥美さん、関さんの芝居は鉄砲が出る乱暴な芝居で、その音を出すため、舞台の袖の先で引き弾を引く役もしていて、荷風先生のお気に入りの踊り子さんの時もその役目があった。荷風先生の座った位置がその近くで音がうるさいので、先生のイスを移動させようとするが先生は気が付かないで熱心に舞台を見ている。しかたがないのでひもを引いたら、先生がイスから転げ落ちてしまった。<人間国宝みたいな人をイスから転げ落として申し訳なくて助け起こしました。そうしたら先生、何でもなく、にこっと笑ったときのその歯の汚かったこと(笑)。> 三回目はなかった。でもこの事があったからこそ、井上さんは荷風さんの住んだ市川に、一時住むことになるのである。

【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 それにしても随分創作したものである。【荷風さんとは、一度だけ口をきいたことがある。引き弾の役目をしていて、荷風さんをイスから転げ落としたことがある】である。いい加減なものである。図録を買ってきてよかった。

荷風さんの事から井上さんの舞台『太鼓たたいて笛ふいて』、林芙美子さんの評伝劇の話に移りたい。それは、火野葦平さんとも関係することである。

市川市文学ミュージアムの上階は資料室になっており、そこに市川市ゆかりの文学者の資料がまとめられている。さらに、地方の文学活動のチラシや図録もあり、そこで、北九州市立文学館の資料もあった。

『永井荷風展』 (2)

岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗 (上)(下)』(磯田光一編)を買い足す。しかし、これも全文から抄出したものなのである。文庫なので扱いやすい。

年譜によると、1916年(大正5)、父の住まい牛込区大久保余丁町の来青閣(この時代の人は自宅に名前をつけるのが好きだったようである。その名ですぐ仲間が共通理解できるからであろうか)の玄関の6畳を断腸亭と命名している。このとき既に荷風さんの父上は他界している。『断腸亭日乗』の書き出しは、1917年(大正6)9月。

森鴎外さんと荷風さんが初めて会ったのは、市村座で小栗風葉さんの紹介である。その後鴎外さんと上田敏さんの推薦で、荷風さんは慶応義塾大学文科の教授になる。(1910年)。1916年3月には、教授職を退く。アメリカ、フランスに行かせてくれた父を一応安心させ、その後は自分の生き方を貫くこととなる。文学者森鴎外さんを敬愛する荷風さんは、鴎外さんによって父の生前中に形を整えられた感謝の気持ちも含まれているのであろう。

1918年(大正7)1月24日には、鴎外先生から文をもらう。「先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後(じご)全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。」

1922年(大正11)7月9日、鴎外先生亡くなる。「早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属(ぞく)せらる。悲しい哉(かな)。

前日、7月8日にも見舞っており、特別に病室に入ることを許される。通夜、葬儀。

鴎外さんに比して、幸田露伴さんとは、近くに住みながら会うこともなく、葬儀は外から見送っている。荷風さんは、全てを焼失してから、鴎外さんと露伴さんの全集だけは揃えている。荷風さんが菅野に来て(昭和21年1月16日)、その後、露伴さんは娘の文さん、孫の玉さんと引っ越してくる(1月28日)。露伴さんは高齢で外に出ることもなく、昭和22年7月30日亡くなられる。

荷風さんは、露伴さんの葬儀には喪服がないからと、外にたたずみお別れをしている。この露伴さんの葬儀の映像が、今回の展示で見る事が出来る。鴎外さんは、私的と公的を区別されていて、私的には親しみやすい方であったが、公的な仕事になると上下関係などをきちんとされたようである。人付き合いの苦手な荷風さんにとって露伴さんは私的に接する人ではなかったのかもしれない。喪服がないからと中に入らなかったのからして、荷風さんにとって露伴さんは鴎外さんとは違う位置に立つかただったのであろう。

さらに、市川市の市民の方が、市川市文学ミュージアムの協力のもと、自分たちで制作した映像『荷風のいた街』(発売)の中で、当時近くに住んでいて人が沢山集まるので露伴さんの葬儀を見に行っており、荷風さんの様子も話されている。さらにその他、荷風さんの日常の様子を知ることが出来る。戦後から亡くなるまで、市川に住まわれていたということは、一人で暮らすには荷風さんの好む街だったのである。

 

『永井荷風展』 (1)

市川市文学ミュージアムで『永井荷風 -「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日ー』を開催しているのを知る。何んとタイミングの良いことか。<市川文学プラザ>としていた展示フロアーを、<市川文学ミュージアム>としてリニュアールしたらしい。<市川文学プラザ>の時、一度行っている。市川関係の文学者や芸術家の資料を丁寧に保存、収集し、整理されて展示されていた。

今回は「市川市文学ミュージアム開館記念 特別展」で有料であった。荷風さんは昭和21年から亡くなるまで市川市菅野、八幡を終の棲家としている。「断腸亭日乗」の原本も当然あり、清書した時期もあり、その紙の質などからも荷風の心の内、時代の流れなどを分析した解説も面白い。その時々のスケッチや地図もある。亡くなる前日まで書いている。 【昭和三十四年四月廿九日。祭日。陰。】(陰は曇りということである)筆跡も当然変化していき、そこには、荷風さんの生きた証がある。

谷崎潤一郎さんから送られた「断腸亭」の印章が展示されている。その印章は、昭和16年に送られたもので、昭和30年の東京大空襲の時、偏奇館とともに焼失。ところが次の日、従弟の杵屋五叟(きねやごそう)さんが、焼け跡の灰の中から堀リだしたものである。この印は、戦後も、全集の検印や蔵書印として使われている。

私が「断腸亭日乗」を読んだ箇所に、荷風さんが岡山の谷崎さんを訪ねる前、昭和20年7月27日、岡山駅に谷崎さんから送られた荷物を受け取っている。品物は鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、その他である。「感涙禁じ難し」と書き加えている。焼け出された文学者に対する谷崎さんの心遣いである。それは、荷風さんが自分の作品を認め評価してくれたことによる作家として誕生できた谷崎さんの思いであろう。

8月15日、宿屋の朝食(鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚付け焼き、茄子香の物)に、八百善の料理を食べている心地であると書いていたが、その八百善の煙草箱が愛用品として展示されていた。これは、八百善で売っていたのであろうか。煙草箱の中には、ピースが10本。箱の外の絵は、江戸時代山谷にあった時の老舗割烹八百善の絵図である。それでいながら、自炊に使用していた釜は、使わない時は洗面器と兼用である。

森鴎外さんを敬愛し、鴎外さんの子息たちとも交流している。森茉莉さんも荷風さんの菅野の家を訪れている。どんな話をされたのであろうか。茉莉さんの作品と晩年を思うと、自分の好みがはっきりしている荷風さんは、茉莉さんの先駆者だったかもしれない。森於菟(もりおと)さんは、森鴎外記念館設立のための協力を願う手紙をだしている。この展示の図録によると荷風さんは、記念館設立のため高額の寄付をしている。すぐには記念館とはならず、文京区図書館の一部に鴎外記念室として残したりしていたが、2012(平成24)年11月1日に「文京区立森鴎外記念館」として開館した。森於菟さんの手紙が1956年(昭和31年)であるから約56年目である。鴎外記念室の時一度訪ねたが想像と違いがっかりしたことがある。

5月に森鴎外記念館を見学し「特別展 鴎外の見た風景~東京方眼図を歩く~」を見た。今度は記念館として充実していた。鴎外が考案した地図「東京方眼図」。鴎外は与えられた仕事を成し遂げる。それが、小説家森鴎外の痛手であった。鴎外は翻訳、評伝など、さらに軍医としても、多くの仕事をしている。だが一番時間を使いたかったのは小説を書くことではなかったのか。その時間が生涯充分にとることが出来なかった。

荷風さんは、世間から一歩引くことによって維持した自分の小説家としての位置と、森鴎外さんのように世間にいながら小説家としての位置を何とか確立しようと闘っていた人としてへの敬愛であったのであろうか。

永井荷風 『断腸亭日乗』

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>で下記のように記した。

【フランス座に関しては井上ひさしさんの講演でも聞いたことがある。警察沙汰の時の一応脚本家としての責任で警察で泊まる役目の話。一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか、荷風さんが踊り子さんに差し入れられたカレーを芸人さんが少し頂戴してそれを小麦粉かなにかで量を増やして食べていたなど例のごとく軽妙洒脱に話してくれた。ただそれだけではなく、荷風の日記から日常からみた戦争もしっかり語られていた。】 (一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか→この部分は8月24日『永井荷風』(3)2013年8月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com) で訂正しています)

作家達の戦中の記録として永井荷風さんの日記『断腸亭日乗』、井上ひさしさんの話されていた箇所が知りたくなった。それは、荷風さんが昭和20年7月末に東京を離れ岡山から勝山の谷崎潤一郎さんの所に寄った時の事である。

岡山から勝山に行く列車の中。 「この媼(おうな)も勝山に行くよし。弁当をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片をを取りて口にするに味案外に佳し。」

8月13日、勝山の谷崎さんの仮住まい屋にて、 「佃煮むすびを恵まる。」 宿に案内され、 「白米は谷崎君方より届けしもの。膳に豆腐汁。渓流に産する小魚三尾。胡瓜もみあり。目下容易には口にはしがたき珍味なり。」 広島が焦土と化し、この地の配給も停止し、他郷からくる避難民は殆ど食料を得ることに困窮している。(原爆の記述がないので詳しい事は知らないのであろうか)

8月14日、 「事情既にかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し。」 その夜 「谷崎氏方より使いの人来り津山の町より牛肉を買ひたれば来れと言ふ。急ぎ赴くに日本酒も亦あたゝめられたり。」

8月15日、 「宿屋の朝飯。鶏卵、玉葱の味噌汁。ハヤ附焼、茄子糠漬けなり。これも今の世にては八百善(やおぜん)の料理を食する心地なり。」 終戦を知る。

8月16日には奈良にいる。

8月17日、 「朝稀粥(きしゅく)を啜り(すすり)昼と夕とには粥に野菜を煮込み飢えを凌ぐ。唯空襲警報をきかざることを以て無上の至福となすのみ。」

『断腸亭日乗』は日常のことを細かく書いている。井上さんは、その中の食べ物のことを拾っていくだけでも戦争中の生活が分かると話されていた。谷崎さんの接待は谷崎さんらしいと思った。ある面では居づらい事ともなるであろうが。荷風さんは自分の動きに合わせて、その周辺の風景、接した人々、物の値段、食べた物などを、1917年(大正6)から1959年(昭和34)まで書き綴っていたのである。

私の所持している『断腸亭日乗』は(抄)とあり、ところどころの抜粋であるが、日記の書きようはわかる。荷風さんが、大正9年(1920)から昭和20年(1945)まで独居していた、木造ペンキ塗り洋風二階建ての家<偏奇館>を昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失している。その様子も詳細に記録している。この<偏奇館>跡へは、ある町歩きの会で行ったことがある。六本木一丁目で違う建物が建てられていた。

昭和20年10月には、荷風さんは熱海で、雨宿りした旅館の道を隔てた前に<金色夜叉の碑>を見ている。 「道を隔てゝ一老松あり。金色夜叉の碑を建てたり。小栗風葉の句を刻む。」私の『金色夜叉』の読書は読む速さが遅々としていて、なかなか進まない。少し気張らねば。

もう少し付け加えるなら、<金色夜叉の碑>から荷風さんは次の様に書いている。 「これ逗子の海岸に不如帰の碑を見ると同じく、わが国民衆の趣味を窺ひ(うかがい)知らしむるものなり。予はその是非を論ぜむと欲するも、到底(とうてい)能ふべからざるを知る。唯一種不可思議の感に打たるゝのみ。」 この様に 、自分の思いや感慨なども加えている。

巖谷大四さんは、尾崎紅葉さんの未亡人が重体となり、生活に困窮していることを志賀直哉さんに話したところ、志賀さんと広津和郎さんが発起人となってくれ見舞金を集めることになり、一番先に荷風さんを訪ねるように言われる。荷風さんはにこにこしながらその趣意書を目読し、「一金参万円也 永井壮吉」と書き、その上に手の切れるような百円札を三万円のせ、「よろしく、たのみます」と丁寧に言われた。ある人から「永井先生からお金を引き出すことに成功したのは、あなたがはじめてじゃないですか?」と言われている。

志賀さんが一番先に荷風さんを訪ねるように言ったことなど、文学者の思惑と交流は、その文学的個性と相まってニヤニヤしてしまう部分である。

『従軍作家達の戦争』

NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』。

8月は知らずにいた事が明らかになり、考えさせられる時期でもある。

火野葦平さんが1938年に小説『糞尿譚』で芥川賞を受賞する。その時、火野さんは日中戦争のさなか中国の戦地に兵隊として従軍しており、そこで小林秀雄さんを迎えて授賞式となる。以前から報道記者ではない立場の人に、戦場と兵隊の様子を知らせる必要性を感じていた軍部の報道担当官は、これに目をつけ火野さんを報道部に配属する。火野さんは軍事手帳に小さな字で日々の記録をしたため、太平洋戦争末期まで書き続け、その軍事手帳は20冊にもなる。それをもとに「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作を書き、銃後の人々と兵隊との連帯感を深めベストセラーとなる。しかし、当然そこには軍部の大きな制約があり、火野さんが手帳に書いた全てを小説に書けたわけではない。戦後、火野さんはその事で苦悩する。

作家の従軍記が戦争高揚のプロパガンダとして非常に有効と考えた軍部は菊池寛さんを通じて、多くの作家を戦地に従軍作家として送り出す。普通の日常とは違う戦地である。庶民の生活を冷静に見つめ小説という作品に作り上げていた作家も、戦地を目の当りにすると感情的になり、戦後批判を受けるような従軍記を発表することとなる。

火野さんはその後、戦中と戦後の価値観の違いや、自問自答の狭間の中で自らの命を絶つこととなる。火野さんの遺品の中に、『麦と兵隊』の原稿があり、そこには書く事の出来なかった、手帳に書かれた事実の記録文章が貼り付けられていた。作家であれば多くの作家が受けたいと思う<芥川賞>。その文学的権威ゆえに翻弄される事になった一人の作家の苦悩と、本当に書きたかった作品の原型が静かに伝わる。

戦争は芸術も庶民の楽しみも、お国のためとして規制し、統制していくのである。

 

 

八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (2)

八月納涼歌舞伎の、雑感を加える。

『野崎村』のを観るのは久し振りのような気がする。六月の『助六』。海老蔵さんの助六、実は曽我五郎のヤンチャぶりが面白く、それを支える福助さんの揚巻がしっかり者で、そのコントラストが舞台を生き生きとさせていた。それがあったので、今回のお光はどうなるであろうかと楽しみであった。この作品、前半のお光が久松との祝言の浮き浮きした様子、久松の奉公先のお嬢さん・お染が出現して焼きもちをやく様子と可笑しみの場面に捉われて、お光が久松とお染を結ばせるため尼になるところが弱くなる事がある。福助さんはその辺りも心して演じられ、可笑しみが悲恋へと変化する流れを上手く演じられた。駕籠と舟で別々に帰る久松とお染の旅路もいずれは一つと成る喜びを含ませているのに、お光にとっては、そこにとり残されながら一人旅となる悲しさを押さえつつしっかり表現していた。友人は、何年振りかの歌舞伎なのでお染・七之助さんが、一つ一つの仕種と表情が丁寧で成長したのに感動していた。

『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』(髪結新三)は、名場面は沢山あるが、今回は、新三・三津五郎さんと弥太五郎源七・橋之助さんとのやり取りに緊迫感があった。新三は小悪党で弥太五郎源七は乗物町の親分である。新三は親分が事を大きくしたくないために我慢しているのを良い事に言いたい放題である。新三の子分の勝奴・勘九郎さん、これがまた小憎らしい。観ている方も弥太五郎源七の顔を潰され刀に手をかけたくなるのが分かる。それほど三津五郎さんはキリキリと親分を嘲弄し、大きく構えてきた橋之助さんもドンドンプライドを潰されていく。そのため、深川閻魔堂での親分の仕返しが納得でき、この新三は何時かは誰かに殺される小悪党である事が宿命と思える。その小悪党が苦手な大家・彌十郎さんとのお金のやり取りも程々で気を抜いてくれる。

『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(かさね)は、因縁が分からないと理解しがたい踊りのように思える。単にお岩さんのように醜くなりその恨みと思うが、そうではなく、与右衛門が殺したかさねの父親がかさねに憑りつくのである。かさねはその為に本来のかさねではなくなり、与右衛門はかさねを殺すことになる。殺しの美学的所作事が、今回は暗すぎ気が乗らなかった。福助さんと橋之助さんのコンビ、息が合うはずなのにしっくりしなかった。こちらの見方が悪いのかも知れない。五月の『廓文章(くるわぶんしょう)』(吉田屋)の仁左衛門さんと玉三郎さんコンビが良く映らなかったので、ショックを受けており、自信がない。

『狐狸狐狸ばなし』は可笑しさと同時に、シリアスな話でもあると思った。いつも笑わせられるだけでなのであるが、伊之助・扇雀さんと又市・勘九郎さんが浮気な伊之助の女房おきわ・七之助さんを仕返しに気をふれさせ、<「狐狸狐狸ばなし」だねえ>と言いながら花道を去る時、本当に狐と狸の化かし合いだと思わされる。さらにもう一つの化かし合いが加わり、終わることのない『狐狸狐狸ばなし』である。適度のダマし合いは笑いで済まされるが、これが際限なく続くとなると笑いでは済まない『はなし』となる。扇雀さんと勘九郎さんが体の動きで笑いを誘ってくれる。

 

八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (1)

勘九郎さんの『春興鏡獅子』、勘九郎さんのものになっていた。
勘三郎さんの弥生の愛らしさが頭の中にあるので、その姿とだぶるのではと危惧していたが、全く勘九郎さんの弥生であった。体形が違うので、勘九郎さんは自分の体形で美しく見える形を追求し、その身体的美しさに惚れ惚れしてしまった。相当身体的負担を自分に課していたことと思う。扇に余り気を使い過ぎない方が良いらしいが、二枚扇も綺麗であったし安定していた。そして眼が良い。視線が無理なく体の動きに合わせて涼やかすうーっと伸びる。迷いや力みがなく、江戸城の御殿で指名されて素直に踊りの世界に入っている弥生である。その為、獅子頭が蝶と戯れて動き出す時の驚きも、踊りの世界に入っているその世界で起こったことのように、現実に戻る前にすーっと引っ張っていかれたようで最後までその身体は美しく花道を消えていった。
獅子になって出てきたときが立派で、やはり、弁慶役者に成れると思った。大きく、ジャンプ力もあり、膝を痛めたことがあるのに大丈夫なのだろうかと心配になったほどである。友人が、涙するのではないかとハンカチを用意していたが、大丈夫であったようである。彼女は、勘三郎さんを勘九郎さんを通して思い出すと思ったようである。私は、勘三郎さんを自分の回りから消し、勘九郎さんの『春興鏡獅子』にした練磨に涙した。これからさらに、どんな『春興鏡獅子』にしてくれるのであろうか。今はただ<勘九郎>その人の『春興鏡獅子』であった。これを観て、これは『棒しばり』が面白くなると、心が踊る。期待した通りであった。
三津五郎さんが、やはり上手い。手を棒に縛られていても、下半身と足さばきはさすがである。勘九郎さんも対等に自分の踊りを披露する。狂言舞踊ということで楽しい踊りであるが、腕が固定されているだけに、身体のバランスと動きがあからさまにもなる。それをやはり優雅さも加味しつつ楽しさへともっていかなければならない。程良い次郎冠者と太郎冠者の明るさと連れ舞いの息の合い具合。主人が帰ってきて<お酒を飲んだであろう><わたしは知りません>の最終やり取りも、二人が存分に飲み踊りあかし、それを楽しませて貰った観客も、<知りません>と一緒に言いたくなる可笑しさである。
勘三郎さんと三津五郎さんコンビの『棒しばり』は忘れることはない。だが、新しい組み合わせで前進する役者さんの心意気には拍手を惜しまない。

志の輔さんの『牡丹燈籠』

『牡丹燈籠』は大変ややこしい話である。歌舞伎でも観た事があるが、カランコロンと美しい娘お露さんと乳母のお米さんが牡丹燈籠をもって恋しい恋いし新三郎さんに会いに来るということがすぐ目に浮かぶ。ところがこの話は敵討ちの話でもありながら、怪談話として一番印象的でゾクゾクする部分を話されることが多い。と同時に長すぎて1、2時間で話せるような内容ではないのである。それを、志の輔さんは2時間半ほどでやってしまおうという企画である。行ってみて初めて知ったのであるが。

始めに『牡丹燈籠』の全てをお客様に判ってもらう事を説明され、その複雑な人間関係を先ずおおきなボードと磁石の付いた名前札で説明に入った。それをここで説明することは出来ないが、よく理解出来た。『塩原多助一代記』に出てくるようなイヤーな継母も出てくる。圓朝さんはこういうタイプの女性に会った事があるのであろうかと考えてしまう。志の輔さんは圓朝全集でこの『牡丹燈籠』を読んだとき、聴きなれているお露さんやお米さんなどの名前が幾ら立っても出てこないのに驚いたそうであるが、そうであると聴いているので、こちらの方はなるほどと思って志の輔さんの解り易い講義を受ける。頭の中で複雑な人間関係が整理されていく。今でもボードの名札が浮かぶのであるからなかなかの工夫である。志の輔さんの出演されているテレビ番組のスタッフの力ということであるが事実のほどは解らない。ここまでは一人の男の仇討に到る経緯であるが、その仇討の相手は討たれる事を覚悟している。ところが違う人間に理不尽にも殺されてしまい、その男は、さらなる仇討に向かうのである。

ここで休憩となり、その前に休憩のロビーの様子も再現する。「<これから話にはいるのよね。あなた聴いていく。あれだけ説明されたんだから聴いていったほうがいいんじゃない。そうお、あなたが聴いていくなら、私も聴いていこうかしら。>などという会話がこれからロービーで交わされることでしょう。」そういう会話はありませんでした。今の登場人物がどう話と繋がるか楽しみであった。90分の長丁場である。実際にはもう少し時間がかかったが。

話のほうは、お露さんと新三郎さんの出会いから始まる。お露さんは会えない新三郎さんを恋焦がれて死んでしまうのである。『四谷怪談』のお岩さんとここが違うのである。<恋しい>と<恨めしい>は。なるほどと思った。ここからは歌舞伎でも観ていながら忘れていた部分が蘇ってきた。そうだ、そうだったんだよなあ。お蔭さまで『牡丹燈籠』の全容が判明しました。

志の輔さんの目的はそこにあると理解しました。それが判ると、『牡丹燈籠』のどの部分の話を聴いたとしても、その噺家さんの語り口の違いが分かるとおもいます。今度は、話だけではなく、噺家さんを味わう事ができます。そんなわけで、後日、圓生さんの『牡丹燈籠』のテープを聞きました。「栗橋宿」と「関口屋のゆすり」です。面白い。話の中のこの場面だなと思うから圓生さんの上手さもであるが、どう圓生さんがその場面を現したいかが微力ながら分かるのである。すご~い!さらに有料放送で放映された志の輔さんの『牡丹燈籠』を友人に頼んで録画してもらっていたのである。実は忘れていたのであるが、他のものを探していて発見。すご~い!すごすぎる!しっかり聴き直しました。

これで『牡丹燈篭』どの部分が出てきても完璧です。ただし時間は強いですからね。忘却とは忘れ去ることなり。こういう場合も<恋しい>でいきます。