『幽玄』 玉三郎✕鼓童

先週は観劇週間でしたが、風邪のため、先ずは観劇優先と何とか制覇できました。季節がら温度差がありすぎ、身体は温度調整が壊れているようです。そして書くという行為が体調の悪いときには疲れが襲います。

オーチャードホールでの『幽玄』では、玉三郎さんの世界が圧倒的な空気で包んでくれました。来ました!

映画『セッション』『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督にこの舞台を観てもらい是非感想をお聴きしたかったです。どう評されるか。

薄暗いなかを奏者が裃で静かに下手から進んでこられたときは、平等院鳳凰堂から雲中供養菩薩が奏者の中に降り立ったような空気が、奏者の動きに従って舞台の下手から上手に向かって流れていきます。

修練の苦しさなど微塵も表出させない規則的な太鼓とバチで響く音のリズムと一体感。こちらはただただ音を捕えようと美しい単調な動きをながめつつ見つめていましたが、そのうち音の魔法にかかったように、ただただその音の世界に漂っていました。

音のなかで舞われる羽衣、道成寺、石橋の獅子たち、それぞれの場面にそれぞれの幽玄さをこめられた舞台演出。太鼓を芸術の域に高めたいとする玉三郎さんの意志が伝わってきます。

チラシには、玉三郎さんの羽衣の写真がありましたので、羽衣を舞われるのだなとの予想はしていましたが、道成寺と獅子の登場の舞台の展開は新鮮でひたすら楽しませてもらい、あらためて舞台構成のながれに感嘆していました。

ロウソクの灯り。

玉三郎さんの小さな腰鼓の羯鼓(かっこ)と太鼓のセッションも素敵でした。あんなに小さい羯鼓がと驚きました。

道成寺の鐘から出現した蛇にも驚きました。こうくるのですか。日本の古来からの祈りなり祭りなり、人々が守り大切にしてきた心と音を伝えてくれます。

獅子たちの登場では、この音を聴けば獅子たちもその音のありかを探して訪ねてくるであろうと思いました。獅子の毛のゆれが、言葉を交わしているようにふわりふわりとゆれて頷き合っています。音に満足した獅子たちが、それを讃えるように毛ぶりとなります。その世界に無心に遊び遠吠えしているかのようでした。獅子が遠吠えするかどうかはしりませんが。

『セッション』『ラ・ラ・ランド』を観たあとでもあるためか、東洋と西洋の文化、芸術の違いが舞台の作り出す中で感じられました。

歌舞伎はもとより、中国の崑劇、琉球舞踏などを肉体に取り込み体感されている玉三郎さんならではの、鼓童太鼓集団を導いての太鼓の音を集約することで出来上がる<和>の世界の舞台化でした。

映画『ホワイトナイツ 白夜』のミハイル・パリシ二コフさんとの舞台、その他、アンジェイ・ワイダ監督、モーリス・ベジャールさん、ヨーヨー・マさんなどと組んで仕事をされ、東洋のみならず、西洋文化にも深く入り込んでおられる玉三郎さんが、太鼓という打楽器から生み出した最新の舞台が『幽玄』でした。

花道がないのがかえって舞台と観客席との境がはっきりしていて舞台上の幽玄さが際立ち、オーチャードホールという場所も微妙な音を伝えてくれる環境としてベストだったのでしょう。

もう一回この音の世界に浸りたいです。

歌舞伎座の團菊祭五月大歌舞伎についても少し。

見どころは、彦三郎さん改め楽善さん、亀三郎さん改め彦三郎さん、亀寿さん改め坂東亀蔵さん、新彦三郎さんの子息の亀三郎さんへの襲名披露ということでしょう。新彦三郎さんも新坂東亀蔵さんも脇役が多く、新彦三郎さんは、国立劇場での『壺坂霊験記』での沢市で役者さんとしての印象を強めました。今回は『石切梶原』の梶原、『寿曽我対面』の曽我五郎で荒事などもこれからの活躍が楽しみなかたです。新坂東亀蔵さんも、『四変化 弥生の花浅草祭』で、松緑さんと組んでの舞踏で、こんなに身体の動くかただったのかと、これまた今後の修練の花開く日が楽しみな役者さんです。この勢いに新亀三郎さんも巻き込まれていくことでしょう。

七世尾上梅幸二十三回忌ということもあってか、菊五郎さんのお孫さんの寺嶋眞秀さんの初お目見得もあり、十七世市村羽左衛門十七回忌でもあるためゆかりの盛りだくさんな月となっています。

十七世市村羽左衛門さんに関しては、偶然目にした30年まえの雑誌『演劇界』に先人の芸をふくめたお話しが載っていて興味深く、連載されているようですので、このあたりを今後探索したいと楽しみがふえました。

 

映画『ラ・ラ・ランド』

映画『ラ・ラ・ランド』は、かつての映画に対するオマージュで溢れている映画です。観た人の観た映画によってあの映画ねと想起させます。

ミュージカル映画に対して自分の中で混濁した部分があって、『メリー・ポピンズ』に到着した時、一枚のチラシから、千葉文夫さんというかたの話しを聞く機会にめぐまれました。聞き手の方がいるのでトークショーといっていいのでしょう。

話し手の千葉文夫さんも聞き手の郡淳一郎さんも全く知らない方です。そのチラシは「千葉文夫のシネマクラブ時代」とあり、千葉文夫さんというかたは、早稲田大学の教授で今年の春大学を辞められ、最終講義の最後『踊る大紐育』の I’m so lucky to be me を口ずさんで終わったということで、『踊る大紐育』に反応しました。

世の中がゴダールとか言っているときに、アステア&ロジャースなどについて語っておられてもいたようなのです。これは面白いかもということで参加したのです。

三つの映像を見せてくれまして、一番目が、アステアとロジャースの優雅なダンス場面でした。完璧なんです。カメラに納まって踊るということは、計算尽くされた動きでないとできないと思います。ステップを踏んですっと横に飛んだとしてもその一歩は決められた通りでなければ映像からはずれてしまいます。

千葉文夫さんも、この二人を乗り越えられないでしょうと言われていましたが、本当です。私の中にミュージカルといえば、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどの歌と踊りが古典のごとく光輝いていて、それが新しいミュージカルを弾き飛ばしてしまうようなのです。千葉文夫さんの話しは、もっと深いところにあると思いますが、私にとってはアステアとロジャースのダンスで充分でした。

その映像の中でジンジャー・ロジャースさんのドレスが光で透けて、足の付け根から踊る足が見えるのですが、それがまた美しいのです。制作側はサービス精神でお色気もと考えたかもしれませんが、ロジャースさんの足は踊っていてもこの美しい足を維持しているのを見なさいという自信に溢れてみえました。どこかで次のステップのために力を入れたりもするでしょうが、不自然な形とならないのです。すーすーと流れるように動き、カメラの長回しでそれをやってのけるのですからミュージカルスターの頂点です。

アステアさんにしろ、ジーン・ケリーさんにしろ、少し高い所に乗ったり下りたりしても、あくまでも美しくダンスのリズムと身体が崩れるということがありません。

『ラ・ラ・ランド』でも、アステアさんたちに比べれば短いですが、主人公二人のダンス場面があり、アステア時代の優雅なダンスを意識して入れているなと思いました。

『ラ・ラ・ランド』は、評判が高過ぎて観ていなかったのですが、トークショーでこの映画を観た人が多く、好きか嫌いかということでは好きの人が多かったようでした。観ていないのでやはり観ておかねばならぬかと映画館をさがした時は一回上映が多く、一度目は一時間前で満席で、時間調整と映画館の場所に苦労して観るかたちとなりました。

ジャズ演奏の店を持つ夢を追いかけるセブ(ライアン・ゴズリング)と映画のオーデションを何回も受けて女優の夢を追うミア(エマ・ストーン)の二人が恋に落ちて、それぞれの夢のために別れて、再会するというありふれた展開ですが、そこには観る者がかつての映画を思い起こす材料が一杯詰まった映画で、それと話しの流れが上手く重なっている作品でした。

映画の『理由なき反抗』がでてきたり、ミアが何回もオーデションを受ける場面では映画『コーラスライン』を思い出したり、セブがジャズにこだわるところでは映画『ニューオリンズ』などのジャズの音楽映画を思い出したりしてました。

再会するところでは、『シェルブールの雨傘』が浮かんだり、朗々と歌い上げないので上手くこちらの遊び心を浮遊させつつ、映画自体を楽しませてくれます。

挿入歌の[City Of Stars]などのメロディーも心地よく音楽と映像に突入です。

映画の冒頭が高速で渋滞する車の列の中で、車体に乗ったりして踊るという群舞で、導入としては、さすがハリウッドのミュージカル映画やりますねという感じです。こういう感じが続くのかなとおもうと、しっかり主人公二人の現在の状況を映し出し、ふたりを引き合わせていきます。衣裳も身体に合ったきちんとスタイル線を見せるもので、踊っても優雅なダンスになります。

ミアはハリウッドの撮影所のカフェで働いていて、スター女優が立ち寄ってコーヒーをテイクアウトしてミアは「お金はいいです」というのですが、スター女優は「そうはいかないは」とお金を置いていき、憧れの眼差しで女優を追います。そのスターの立場になったミアも同じことをするのですが『イヴの総て』がぱっとひらめきます。

ラストの捉え方は、観る者にゆだねられているのでしょうが、別れても、別れてなくても人生は素晴らしいのさという、ちょっと甘い感じですが、観る人の年齢層によっては、やり直せる力をもらえることでしょう。

面白そうなので映画『セッション』をレンタルしていたのですが、『ラ・ラ・ランド』と同じデイミアン・チャゼル監督作品だったのには驚きでした。『セッション』も面白い作品でした。

『セッション』に出てくる、有能なミュージシャンを育ってるのが夢で、異常ささえ感じてしまう指導者・フレッチャー役のJ・K・シモンズさんが、『ラ・ラ・ランド』にも出ていて、『スパイダーマン2』にも新聞社の編集長役で出ていたのです。スキンヘッドということもありますが、フレッチャーの強烈な演技から同じ人とは気がつきませんでした。『スパイダーマン』3部作全部に出ているようです。

エマ・ストーンさんは『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の主人公・落ち目のハリウッド俳優役のマイケル・キートンさんの娘役でして、印象的な演技だったのでこの人はと思っていましたが、まさかミュージカル映画にでるとは思いませんでした。そしてなんと『アメイジング・スパイダーマン』というのがあるらしくそこにでているらしいのです。『アメイジング・スパイダーマン』、見ない訳にいきません。蜘蛛の糸の粘着力は予想以上に強力でした。

バットマン!救出にきておくれ!どのバットマンでもいいわけではありません。好みがありますから。検討中です。マイケル・キートンさんは『バードマン』からブレイクしていてイメージが変わっていますので除外します。

自分で脱出できることに気がつきました。映画の帰り神保町の本屋さんでフレッド・アステアさんのDVDBOXを手に入れたのです。映画料金二回分で2箱、18枚のDVDです。まさしく有頂天時代です。蜘蛛の糸などなんのそのです。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』出演者のなかで抜かしていましたのがジャン・レノさんですが、なんと言いましても『レオン』ですね。教育を受けていなくて、少女マチルダに何かやってよと言われて、チャプリンの真似をしてわかってもらえず、ジーン・ケリーの『雨に唄えば』をやってもわかってもらえず、あの場面最高でした。

『ラ・ラ・ランド』で[City Of Stars]を歌う時のセブの帽子、あれってチャプリンかもしれませんね。ほんのちょとしたことで思い出させてくれるのです。懐かしいのではなく、それを土台にどう次につないで、新しい楽しい世界が展開できるかということです。そして、これまでの映画人に敬意を表しているようにもとれる映画でした。

 

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(4)

ウォルト・ディズニーの約束』は、ウォルト・ディズニーさんが、『メアリー・ポピンズ』を映画化したくて原作者のパラ・L・トラヴァースさんと交渉するのですが、なかなかその許可を得られないのです。やっと許可がおり契約するのですが、その契約にはトラヴァースさん側からのと色々な制約があり、トラヴァースさんとウォルト・ディズニーさんとのそれぞれの主張が交差し、さらにそこに携わる音楽関係、美術関係のかたなどの制作過程などが描かれていて、予想以上に面白く楽しいものでした。

パラ・L・トラヴァースさんがエマ・トンプソンさんですからもうしっかり見せてくれます。そこにウォルト・ディズニーさんのトム・ハンクスさんが何とかしようと奔走するのですから面白くないわけがありません。

最初から、トラヴァースさんとディズニーさんの感覚の違いがわかりどうなることかという感じです。されに実写映画にアニメが入るわけですから、トラヴァースさんにとっては考えも及ばないことです。あなたは何をかんがえているのというところです。こういうところは、エマ・トンプソンさんならではの雰囲気です。エマ・トンプソンさんは上手さを突き抜けた好い女優さんです。

トラヴァースさんの少女の頃が明かされていきます。お父さんが社会の中で上手く対応して生きていける人ではなく、お父さんが大好きな少女は悲しい場面にも遭遇するわけです。そんな中、お父さんが亡くなり、失意の家族のもとに現れたのが母方の叔母さんでした。実務的な人で、どうしてよいかわからないお母さんを中心とした残された家族に代わって実務をこなしていくのです。それが、ファンタジーな話となって完成したのが『メアリー・ポピンズ』なのでしょう。

それをさらに、明るく楽しいディズニーの世界として展開していくのが『メリー・ポピンズ』なのです。ディズニーの世界しかないようなウォルト・ディズニー役のトム・ハンクスさんの行動が自信たっぷりで、これまたトラヴァースさんとの感覚とずれていて可笑しいです。

その間にはさまり、駄目だしを出されながら、ひたすらいい曲と歌を作ろうとする制作スタッフの様子も必見でした。

ウォルト・ディズニーの約束』と『メリー・ポピンズ』は、二作見ればそれなりに面白さが加わりますが、見なくても、それぞれの映画をそれぞれに楽しめる作品だと思います。

メリー・ポピンズ』は、深く考えなくて楽しめる映画ですし、音楽、動き、アニメが上手く総合された映画です。ジュリー・アンドリュースさんの動きも歌も自然で違和感なくその世界に入らせてくれます。ミュージカル映画というものを、あらためて考えさせられました。

ミュージカルという映画も舞台も、個人的には冷めてしまうんです。深刻になって高らかに歌われるとどうもそこで芝居が途切れてしまい歌を聞いていなければならない。これでもかという感じで歌で訴えられるのは苦手なのです。ミュージカルと名がつけば、歌って踊れなければ不満なのです。そうでなければ、音楽劇として欲しいです。これは、『ラ・ラ・ランド』に繋がりますのでこのことは別にします。

締めとしましては、DVD『新約聖書 ~ヨハネの福音書~』を見ましたので、そのことを少し。

映画の冒頭に次ぐように記されています。

「ヨハネの福音書はイエスが十字架にかけられた後、次の世代に書かれた。ローマ帝国がエルサレムを支配していた時代である。十字架につける刑はユダヤ人の処刑方法ではなくまさにローマ人の処刑方法だった。イエスと初期の信者たちはユダヤ人だった。

「ヨハネの福音書」には台頭してきた教会とユダヤ人の宗教制度の間に起きた論議と対立が反映されている。

この映画は「ヨハネの福音書」を信仰的に再現したものである」

映画の最後には次のように記されている。

「このDVDの日本語版はアメリカ聖書教会の翻訳の「Good News Bible」を基にドラマの台詞用に翻訳した。」

福音書は四つありその一つの「ヨハネの福音書」に則って作られた映像で、初心者には判りやすいものとおもわれますが、イエスの語る言葉が中心なのでそれを深く考えようとすればそう簡単ではありませんが流れはわかります。

ヨハネの前にイエスが現れ、ヨハネはイエスの洗礼をおこない、この方が道を示すかただと宣言します。ヨハネは神の使者で、イエスが、神のただ一人子であることがわかります。ここから、イエス自ら神の子であり自分の言葉が神の言葉であり、自分を通して神に近づくことができるのであるから自分を信じなさいと説きます。

そして病人を治したり、目の見えない人を見えるようにしたりし、最後の晩餐、ユダの裏切り、磔刑、復活などが描かれているのです。三時間という長さで、イエスの言葉が多いですが、「ヨハネの福音書」にはこういうことが書かれているのだなということがわかり、読むことを考えると楽をさせてもらいました。

今まで観てきた絵画の構図なども思い出され、こういう場面を描いていたのかということなども浮かびます。一応、「ヨハネの福音書」の基本線はこれとして一つのピリオドとすることにします。

次の行先は、スパイダーマンのように蜘蛛の糸を投げ、ビューンと飛びたいものです。

 

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(3)

ロード・オブ・ザ・リング』は見始めてからすぐ、この映画を見なくてはならないのかと気分が乗りませんでした。美術が綺麗じゃないのです。我慢して見ていました。イアン・マッケランさんのガンダルフが出てきました。ガンダルフは真っ白い衣裳で白馬に乗り、妖術も使えるらしく格好いいのです。

どうすりゃいいのさと思っていましたので助かりました。ひたすらガンダルフが出てくるのを待ちます。判断力あり、統制力あり、台詞もいいのです。ガンダルフのお陰で最後まで見ることが出来ました。

セットとか、美術とか、特殊メイクなど凄いとはおもいますが、これは好みの問題でしょう。そして長いです。現実の戦争には正義などなく殺し合いです。ゾウの大きいのが出て来て兵士を踏みつけたり、投げ飛ばしたりしますが、踏まれたりとばされたりするあれって自分だなと思いました。戦争で犠牲になるのはヒーローではなく多くの一般の人々です。近頃ファンタジーなのに現実味を帯びて見てしまい楽しめません。

アリンガローサ司教のアルフレッド・モリーナさんは、『フリーダ』に出られていたのです。この映画、都民劇場から券が届いていたのですが見に行く時間が取れず、友人に見に行ってもらった映画で、映画を観たと聞いたことのない友人がとても良かったよといっていましたが、素通りしていた作品です。良い作品でした。フリーダさんは実在のメキシコの女性画家で、アルフレッド・モリーナさんはフリーダの夫の役でした。

フリーダは感性豊かで情熱的で気性の激しいかたで、18歳の時バスの事故に遭い、何回も手術を受け、生涯で30回以上受けているということです。痛みとの闘いでベッドで絵を描き、歩けるようになり結婚した相手がアメリカのロックフェラーにまで依頼される人気壁画家・ディエゴで、その壁画家の夫役がアルフレッド・モリーナさんなのです。

こちらは、美術も美しく、CGも使われますがこの映像にマッチしていて効果的です。音楽もメキシコの色と香りが伝わってくるような良さです。

<太鼓腹さん>の夫のディエゴは浮気ばかりしてフリーダを悩ませますが、フリーダの絵の才能とその感性を一番理解しているのがディエゴで、フリーダ役のサルマ・ハエックさんの夫役はアルフレッドさん以外に考えられない雰囲気の演技でした。フリーダさんが伝説的な女性画家らしいのですが、映画を見ると伝説になってしまいます。

アルフレッド・モリーナさん『スパイダーマン2』では悪役だそうでこの映画も見ない部類で、アルフレッド・モリーナさんが悪役なら見ないわけにはいきません。スパイダーマンは普段は大学生で、そこがこちらにしてみれば若すぎて物足りなく、『バットマン』のほうが面白かったです。モリーナさんも味薄かったです。この映画はスパイダーマンの蜘蛛の糸と、人工的装置が主役ですね。

トム・ハンクスさんは沢山ありますが、ロン・ハワード監督は<トムと僕はジョークを言ったものだよ。>といわれています。

「僕らは水の中で『スプラッシュ』を撮った。それから10年後には、宇宙を舞台に『アポロ13』を撮った。そして今回はルーヴル美術館だ。僕らは極端な場所でばかり、映画を作る運命にあるようだね(笑)」

スプラッシュ』見ていませんでした。『アポロ13』のころは、『フィラデルフィア』『フォレスト・ガンプ/一期一会』が出てましたから、初期のは見る気がしなかったのですが、この際と見ました。そしてトム・ハンクスさんが動きがよく映画の撮り方の力もありますが、身体にリズム感がありあらためて喜劇役者さんとしても一流と思いました。

ビッグ』の子供が突然大人になってしまうとか、『ターナー&フーチ/すてきな相棒』のブルドッグとのコンビは最高でした。ブルドッグのほっぺたの下にあんな大きな口があるとは。突進してくるフーチの凄さと、すてきな相棒になるまでの過程と別れ。そうなるであろうと想像していましたが見せてくれます。台詞のユーモアが笑えてしゃれています。

スプラッシュ』の人魚姫と人間の青年の恋物語ですが、人魚姫の泳ぎ方がリアルなので驚きました。下半身を魚の衣装で押さえこまれたかたちで優雅に上下に動かすのですが、これは大変な撮影だったと思います。演じるほう撮るほうも。そこに登場した海老と小太りの魚のキャラが特殊な二人の関係を楽しいファンタジーを加えていました。海老ちゃんの名前メモしていませんでしたのでわからないのですが、海老が厨房に紛れ込み調理されそうなりながら上手く逃げるのがこれからどうなるのという現実感に息抜きを与えてくれました。

違う世界に来てしまった人形姫の悲しさも出ていて、まさかトム・ハンクスのほうが海の世界にいってしまうとは予想しませんでした。この映画、どこも引き受け手がなくて、ディズニーが引き受けてくれたらしいのです。それで『メリー・ポピンズ』かな。ちがいます。もう一つクッションがあります。トム・ハンクスさんの映画がお気に入りのかたには、そんなの知ってるよとブーイングされてるでしょう。

ウォルト・ディズニーの約束』です。ウォルト・ディズニーを讃える伝記映画かなとおもいましたら『メリー・ポピンズ』の原作者との関係を描いたもので、いかにして映画『メリー・ポピンズ』が出来たかという内容なのです。

 

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(2)

やはり気になるのが、ルーヴル美術館での撮影です。パンフレットによると、閉館後の撮影許可がおり皆さん感動されたようです。ロン・ハワード監督は、一人ルーヴルの中に立つと人類の作り出した宝物、至高の美術品と一緒に洞窟の中にいる気分だったと表現しています。もちろん殺人現場などはセットで、このセットの美術監督が、アラン・キャメロンさんで、名画は背景画家のジェームズ・ジェミルさんが150もの絵を描いています。

絵画の複写は、オリジナルカメラで撮影したものを拡大し、壁に投射し、その上から描いていってすべての絵をオリジナルとまったく同じように描き、つや出しやひび割れをもほどこしています。光が反射したとき印刷か描いた物かがわかってしまうのだそうです。

緻密に計測し、幅木や窓周りの大理石に合わせて大理石のサンプルもつくり、グランドギャラリーの床は大工係りがベニヤ板で床板を作って、それを写真に撮ってプラスチックのシートに印刷して床に敷いたのだそうです。今度見直すことがあったらその辺もしっかり見ることにします。

映画の大半はヨーロッパの歴史的な名所でのロケで、そこで小さなドアを通たり、はいつくばったりしてラングランをより深く演じることが出来たとトム・ハンクスさんは語ります。

ロン・ハワード監督とトム・ハンクスさんは、この役について話し合った時、『アポロ13』の時と同じようなポジティブな感覚を味わったそうですが、私とトム・ハンクスさんの映画との出会いは『アポロ13』なんです。ここから映画鑑賞の復活だったのです。それまで空白だった洋画を、ここから埋めていきました。

先ず『アポロ13』に出て来た、トム・ハンクス、ケヴィン・ベーコン、ゲイリー・シニーズ、エド・ハリスなどの出ている映画を映画好きの友人から次から次へと教えてもらいレンタルして観ました。観ては、そこにでてくる気に入った他の俳優さんの作品を教えて貰い、好きな映画に偏りそうなので、都民劇場の映画サークル会員になったりもしました。今は映画サークルはなくなったようです。

アメリカン・グラフィティ』にロン・ハワード監督が俳優として出ているのを教えてくれたのも友人でした。アメリカの青春映画の代表作ですね。

アメリカ映画は、俳優は人気がでてくると、先輩スターとの共演があったり、スター同志の共演があり、そのガチンコが面白いです。

マグダラのマリアの子孫であるソフィー役のオドレイ・ヌヴ―は『アメリ』でした。おかしな映画で、アメリのお父さんが医者で、お父さんが診察してくれるとドキドキして、お父さんは心臓病だと診断して、学校に通わせず自宅でお母さんの家庭教師で過ごし、感覚が人と少し違うんですよ。それでどうなっちゃうんだっけと思って見直しました。

ちょっと人と違うキャラクターのアメリですが、何となくアメリのペースで他人同志の関係を上手くさせたり失敗したりして、アメリ流のやりかたで自分の恋人を見つけてしまうのです。コメディぽくもあり、ミステリーの謎がとけるようなラストで、これがフランス流なのかなあと不可思議でした。。あの大きな目が『アメリ』ではもっと発揮されていました。

修道僧シラスは、アリンガローサ司教に敬虔なしもべで、言いつけ通りに従う狂犬的存在で不気味さも醸し出し、ポール・ベタニーさんは初めてで、ロン・ハワード監督の『ビューティフル・マインド』に出ているというので見ました。この映画は、ロン・ハワード監督がアカデミー賞の監督賞を受賞しています。エド・ハリスさんも出演していました。

最初は全然見ている方も分からないのですが、途中で主人公が<統合失調症>のため幻覚を見ているということが分かるのです。主人公がラッセル・クロウさんで、でルームメイトがポール・ベタニーさんです。ところが、このルームメイトは幻覚で実際には存在しない人物なのです。主人公も自分が病気であると知りますが、その後も様々の幻覚はあらわれます。ルームメイトには姪がいまして、姪が一緒に出現しますが、年数が経ってもその姪が成長しないのに気がつき、ルームメイトが幻覚の中の人であることに気がつきます。

雑誌などあらゆるものから、暗号として読み取り組み立ててしまいます。その能力がかわれて秘密機関に暗号解読の任務を任せられますがそれも幻覚です。そうした病気がありながら、後にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュさんという方の実話に基づいた映画です。

自分の病気を自覚しつつ、それと折り合いをつけつつ研究に勤しむのですから、つらいだろうなと思いました。自分自身の本質を確かめ確認しつつ進まなければならないのですから。

<統合失調症>という言葉は耳にしていましたが、症状は様々でしょうが、こういう状態との闘いの中にいる人もおられるのだということを知りました。見えすぎてしまうということも辛い事です。

ロンドンのスタジオに作られたリー・ティービングの暮らす書斎などは、ティーヴィングの性格を考えながら小道具のデザインをしてキャメロンさんは楽しかったと語っています。

ティービング役のイアン・マッケランさんは、『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフ役ということですが、好きな分野の映画ではないので見ていなかったため、今回、三部の<王の帰還>を見ることにしました。

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(1)

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のパンフレットがでてきました。捨てに捨てていますのですっきりしてきました。もっと早くにやっておけばよかった。時間が経過してしまい、テンションが上がりませんので、DVD『ダ・ヴィンチ・コードの謎』『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデット』というのを見つけ、見てみました。

ダ・ヴィンチ・コードの謎』を見て、錯覚を起こさせられたことを思い出しました。ダ・ヴィンチさんの絵「岩窟の聖母」はパリとロンドンにと二枚ありまして、パリのルーヴル美術館のほうの絵でマリアが右腕に回している子供がヨハネですが、こちらがイエスと最初思ったのです。

よく見ると、マリアの右横の子は、下の子に手を合わせているのです。ヨハネが下のイエスに手を合わせ、左下の子は、ヨハネに対して右手で祝福をあらわしており、マリアがその子の頭上に左手をかざしているのですからイエスなのです。ヨハネのほうが位置的に高く、マリアに近いので優位に見てしまいイエスと見誤ったのです。ところが、この優位がヨハネがイエスより上であったということを表しているというのです。洗礼者ヨハネを端に発するキリスト教のもう一つの解釈があってそれを暗示しているというのです。

ロンドンのナショナル・ギャラリーほうの「岩窟の聖母」は、依頼者によって書き直されたと言われています。ヨハネに十字架を持たせ、イエスとヨハネに光輪を加え、ヨハネを指さしていた天使ガブリエルの指さす手は消されています。私が誤って見たように見られないようにはっきりさせたのでしょう。最初に描いた時、ダ・ヴィンチはヨハネがイエスよりも上の立場であるということを意識して描いたとの解釈もなりたつということです。

娼婦とされたマグダラのマリアもカトリック教会は1969年に娼婦ではなかったと従来の見解が誤りであったことを認めたとのことです。

『ダ・ヴィンチ・コードの謎』は、『ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く』の著者であるサイモン・コックスさんが制作していて、『ダ・ヴィンチ・コード』の著者・ダン・ブラウンさんも出て次のように述べられています。

「カトリック教会は他のキリスト教義を異端と見なし排斥し続けてきた。『ダ・ヴィンチ・コード』はマグダラのマリアを<イエスの子どもたちの母>と位置づけている。この仮説は13世紀悪名高き異端審問のはるか以前に十字軍による血の粛清を引き起こした。フランス南部のカタリ派信者大虐殺である。残念ながら僕には絶対的な信念はない。でも常に探しもとめている。」

最後に「私は歴史の歪曲がどのように起きたのか、未来にどう関わるのかを書きたいと思った。」としています。

イエス中心ではなく、ヨハネ中心の時があり、それがイエスに置き換えられ、またマグダラのマリアの力をを恐れて男性優位の世界に位置づけしたということです。と、私は解釈したわけです。それにしても、ダ・ヴィンチさんは巧妙に見る者に錯覚をおこさせる手を使います。この手法が謎に謎を生んでいて、ワクワクさせるわけです。凄いプロデュースぶりです。後の世の人をこれだけ巻き込んでしまうのですから。信じるか信じないかはそれぞれの思いで映画『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しむには参考になりました。

ダ・ヴィンチ・コードデコーデット』では、ダン・ブラウンは、次のように言っています。

「有史以来、歴史は、勝利者によって記されてきました。社会や信仰は征服し生き残った側のものです。」

<歴史は、勝利者によって記されてきました> これはトンチンカンな私でも心に沁みて納得できます。後の世に何が残るのか。残した者の勝ちです。信仰は難しいです。制服しようとしまいと信仰という行為は続いているでしょうから。信仰を権力とつなげたいと思う人が現れれば信仰ゆえにそれに従ってしまうことになるでしょうし。

研究者5人ほどが自分の説を説いていますので盛りだくさんで書きようがないのですが、「レンヌ=ル=シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説』の共著の一人であるヘンリ・リンカーンさんが、「私は区別したいと思っている。信仰の象徴のキリストと歴史上の人物イエスを。キリストの子孫の話じゃない。キリストは信仰の象徴だよ。だがイエスは人間だ。」その人間としてのイエスを研究するのは、他の歴史的研究と同じに考えて欲しいということです。信仰とは別に研究するのは自由だと思います。

『ダ・ヴィンチ・コード』では、ルーヴル美術館の館長ソニエールが殺されたことから謎ときが始まるわけですが、19世紀に実際にフランスの田舎の教会にソニエールという名前の司祭がいて、その司祭がまた謎の行動をしているのです。

若い司祭ソニエールは、南フランスのレント=シャトー村の教会に赴任して教会の修復にかかります。そのあとで、豪華な別荘を建て家政婦と住むのです。急に金使いが激しくなり、教会の修復で財宝を見つけたか、あるいは教会を揺るがすような重要秘密を握って大金を得たのではないかという説があるというのです。

こうした書物らも読み、ダン・ブラウンさんは小説構成の参考にされていることでしょう。テンションを上げつつ、他の資料からは潔く敗退し、これから見るトム・ハンクス出演のDVDを横眼で眺めつつ『ダ・ヴィンチ・コード』の映画の美術や出演俳優の他の出演作品に移りますが、ダ・ヴィンチさんが異教徒だったかどうかは別として科学者ですから、偶像イエスよりも人間イエスのほうに強い関心があったように思います。偶像化に対しては斜に構えていたと思います。

それが、天才ゆえに、色々なところに謎を残したのかもしれません。「最後の晩餐」しかりです。

『ダ・ヴィンチ・コード』が<歴史は、勝利者によって記されてきました>に一石投じたかたちとなったことは間違いないでしょう。

そうしたこととは別に、テンプル騎士団が現代の銀行のかたちを考え出したというのには驚きました。『ダ・ヴィンチ・コード』の中でティービングが言います。「ヨーロッパの貴族にとって、金塊をかかえて旅をするのは危険きわまりなかったが、テンプル教会はそれを預かって、ヨーロッパじゅうのどこのテンプル教会でも引き出せる仕組みをつくった。」「必要なのは適切な書類と、、、ちょっとした手数料だ。」そういうことを知る楽しみもこの作品にはあります。

パンフレットで、アリンガローサ司教役のアルフレッド・モリーナさんが、次のような冗談を言われています。

<妻とバケーションに行った時、ホテルのプールサイドで10人が『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいたんだよ(笑)。そのとき考えたのは、本に対する興味よりも、ダン・ブラウンって奴は、相当儲けてるなってことだよ(笑)>

こちらは取りかかるのが遅かったので、古本で手にいれましたので、貢献度は低いです。

 

 

『築地にひびく銅鑼』と映画『さくら隊散る』

憲法記念日です。教育勅語を暗記するなら、日本国憲法の前文を朗読したほうが、崇高な気持ちになれるとおもいます。憲法について話し合うことは良いことだと思います。しかしどうも、今の政府は都合の悪いことは隠し、言葉巧みに解釈し、棄民しそうで不信感をつのらせます。国民を守るといいつつ、法規制ばかり強化して、いいように解釈されそうで素直な気持ちにはなれません。かなり疑っています。

広島で被爆され亡くなった俳優の丸山定夫さんの伝記小説『築地にひびく銅鑼 - 小説 丸山定夫』(藤本恵子著)を手にして、さらに新藤兼人監督の『さくら隊散る』を見ることができました。

丸山定夫さんは、新劇のかたたちの間では伝説化されているかたでもあり、同じ劇団で被爆され亡くなられた園井恵子さんは宝塚出身で、坂東妻三郎さんの映画『無法松の一生』の吉岡夫人として知られています。この映画『無法松の一生』は見ていましたので知っていましたが、園井さんが宝塚で男役であったのは知りませんでした。

映画での楚々とした吉岡夫人から宝塚の女役と思っていました。稲垣浩監督から「園井さん女になってください」と言われたそうで、どうしたらよいかわからず、まず母親になろうと吉岡少年役の沢村アキヲ(後の長門裕之)さんと撮影の合い間に一緒にいて話しなどをしたということです。

それに比して丸山定夫さんの情報が少なく、藤本恵子さんの本で、こういう経過をたどられたかただったんだという事がわかりました。藤本さんは、評伝ということではなく、伝記小説として書きたいとして書かれているので読みやすく、登場人物もいきいきと描かれています。

丸山さんは、広島での歌劇団から出発していて、浅草では榎本健一さんとも仕事をしています。そして、下火となった浅草オペラの状況から、榎本さんに<新劇>にむいているかもしれないよと言われます。「築地小劇場」の設立に参加するかたちとなり研究生となり、築地小劇場の開幕招待日の小山内薫さんの挨拶のあと、銅鑼を鳴らす役を丸山さんは任され、そのことから『築地にひびく銅鑼』が本の題名となったのでしょう。

この劇場に住み込み、新劇への道にはいるのですが、小山内薫さんの死後劇団内部の対立が表面化して、土方与志さん側の丸山さんは他の5人(山本安英・薄田研二・伊藤晃一・高橋豊子・細川ちか子)とともに「新築地劇団」を結成します。

1930年になると国の検閲がきびしくなり、再び榎本健一さんの「エノケン一座」に加わっています。このとき榎本さんは何も言わず百円という大金をさしだしていて、かつて一緒に巡業した時丸山さんがお金を作ってくれた時のお返しでした。

丸山さんは、榎本さんに「帰るのか?えっ、あのしちめんどくさい、エラソーなお芝居に」と悪態をいわれつつも解かってくれている榎本さんの一座を後にし、「新築地劇団」に復帰、東宝の前身であるPCLの専属俳優となります。

戦局は激しくなり、「新築地劇団」は満州巡演にでます。もどって二か月後、国情に適さないとして劇団は解散させられます。活動は11年でした。

1942年、徳川夢声さんの声かけによって、丸山定夫さん、徳川夢声さん、薄田研二さん、藤原釜足さんの四人で「苦楽座」を結成します。薄田研二さんは、私たちが見られる時代劇映画では品ある家老から人のよいじい、さらに悪役などもこなすお馴染みの役者さんですが、この時、俳優の芸名が廃止され本名の高山徳右衛門に改名しています。また藤原釜足さんは、大化の改新での功臣の名前を使うとはけしからんとして鶏太に改名した時期でもあります。

「苦楽座」の<苦楽>は、丸山定夫さんが、1924年に創刊された『苦楽』に小山内薫さんの名前があり、小山内さんの名前に魅かれて買った雑誌が頭にあったようです。

私が雑誌『苦楽』を知ったのは、鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>でです。 雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

新たなる仲間を募り、日本移動演劇連盟に加入し<苦楽座移動隊>として各地で公演し、1945年6月22日<苦楽座移動隊>は<桜移動隊>と名をかえ東京を出発します。そして広島での8月6日を迎えるのです。

その後のことについては、新藤兼人監督作品『さくら隊散る』が詳しいです。桜隊に参加されていた方々については多くの関係者がインタビューで語られています。

<桜移動隊>で被爆されたかたは9人で、丸山定夫さん、園井恵子さん、高山象三さん、仲みどりさん、森下彰子さん、羽原京子さん、島木つや子さん、笠絧子さん、小室喜代さんで、皆さん即死されたり、8月に亡くなっておられます。

高山象三さんは、薄田研二さんの息子さんで、演出のほうを勉強されていました。時代劇映画では悪役の上手い薄田研二さんが出てくると、今回は主人公の味方なのと思ったりして楽しませてもらっていた役者さんに、こんな悲しい事実があったとは知りませんでした。

仲みどりさんは、やっとのおもいで広島から東京にもどり、東大病院で診てもらいます。白血球の数が異常に少なく、検査間違いではないかと疑われます。放射線医学の権威である都築正男教授がいたため、仲みどりさんは、人類はじめての原爆症患者に認定されますが8月24日に亡くなられてしまいます。仲さんの臓器の一部は標本として保存され、その後すぐ、都築正男教授は広島入りをして原爆症にたずさわるのです。そんなこともはじめて知りました。

目黒区にある五百羅漢寺には「桜隊原爆殉難碑」が建っていまして徳川夢声さんが中心なって建立されたようで、かなり以前、五百羅漢寺で見ていましたが深くは知りませんでした。

丸山定夫さんの名前は知っていても、演技は見た事がありません。映画館ラピュタ阿佐ヶ谷で丸山さん出演の『兄いもうと』(木村荘十二監督)を上映していますので昨日観に行ったのですが、到着が遅くて満席とのことで観ることができませんでした。定員48名という小さな映画館ですが、みたい人がいたということで良しとします。東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品ですのでまた出会えるでしょう。

追記1: 神保町シアターで上映している『旅役者』は、昭和15年という戦時色強い中での成瀬己喜男監督の喜劇で驚きました。主人公が藤原釜足さんで、クレジットには藤原鶏太とあり、成瀬監督の新劇人のスピリットに対する応援と思いやりと映画人としての逆説的心意気のようにも感じました。見ている方も気持ちよく笑わせられました。成瀬己喜男監督の変化球味わいました。

追記2: 日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研)が設立70周年の記念式典(2017年6月19日)で現理事長さんが、放影研の前身である「米原爆傷害調査委員会」(ABCC)が、治療はしないで調査だけをしていたことに言及し謝意を表明されました。悲しい事実ですが、きちんと知らしめ、犠牲者の苦しみを再度思い起こすことは大切なことと思います。

 

 

四世宗家新内仲三郎披露・七代目家元新内多賀太夫襲名披露演奏会

国立劇場大劇場での<四世宗家新内仲三郎披露・七代目家元新内多賀太夫襲名披露演奏会>大盛況でした。予定があり、前半だけ鑑賞させてもらいましたが、盛りだくさんで後半には菊之助さんと染五郎さんの踊りと津川雅彦さんの浄瑠璃もあったのですが、残念でした。

多賀太夫さんの浄瑠璃『道中膝栗毛 ー赤坂並木の段』には、こんな新内もあったのかと新内に対するイメージを拡大させられました。<赤坂並木>とありますが、赤坂宿まえの<御油の松並木>のことでしょう。弥次さんが狐のお面をかぶり、喜多さんを驚かすという流れで、三味線もその雰囲気の調子で、浄瑠璃の節回しとのミックスさがなんとも楽しいです。

『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)』は、歌舞伎でよく知っていますから聴いていてもよくわかります。『明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)』『蘭蝶』などは新内の代表作ですが、歌舞伎でよかったという記憶がなく気が乗りませんでした。ところが、『明烏』を『明烏異聞録』として朗読の語りを入れて三味線だけではない楽器を加えて新内とのコラボでやってくれまして、新内だけの『明烏』とは一味ちがうそれでいて新内の印象も深いものとなりました。

その前に『口上』がありまして、松本幸四郎さんが中央で紹介されご披露されたのです。歌舞伎役者幸四郎さんの声が国立劇場大劇場にぴしっと響き、よい口上となりました。高麗屋と新内仲三郎さんとのご縁は初代白鴎さんからのつながりがあり長いとの事。新内仲三郎さんの長男である剛士(たけし)さんが、祖父の名跡である七代目新内多賀太夫を襲名されたわけです。新内は直接生活の場に流れ親しまれた古典芸能でもありますが、時代の流れで今は劇場内での楽しみ方にかわってきています。そうした流れの中で、新・多賀太夫さんは期待されているかたです。

『口上』のあと休憩がありまして、面白いチラシをみつけました。『日本音楽の流れⅠ』「日本の伝統音楽の楽器に注目し、その音楽の歴史について紹介する新シリーズ〔日本音楽の流れ〕。第一回の今回は<筝>を特集し、多彩な筝曲をお届けします。」面白そうです。さっそくチケット売り場でゲットしました。

次の演奏『明烏異聞録』にお琴が二面加わっていました。お琴の音色を頭の中で浮かべると出てくる感じがありますが、それとは違う低い音のお琴が一面ありまして、その効果にも注目しました。チケットを買ってのすぐのお琴との対面で興味ひかれます。

その他、笛、尺八、パーカッションが加わり、語りは、風間杜夫さんと名取裕子さんです。そこに新内多賀太夫さんの弾き語りが加わるのです。そのバランスが絶妙でした。新内の弾き語りもきちんと浮き立ち、若旦那・時次郎と遊女・浦里の心中への物語性もしっかり構成され、そこに侵入するそれぞれの楽器の音色も無駄な添え物のまやかしの音ではないのです。

時次郎と浦里が船で逃げて逃げ切れるわけでもなくその上で心中するというのも終わり方としてよかったです。歌舞伎などですと、道行が長くないと見せ所が減りますので、船上での心中は駄目でしょう。良く計算された舞台でした。

この後、新内協会関係者の挨拶があり、理事長の鶴賀若狭掾さんの「古い物をどう伝え、新しいものをどう取り入れていくかが大事である」というようなことを言われていましたが、古典芸能の場合のあらゆるものの課題です。

鑑賞する側としては、迎合して鑑賞者の鑑賞する力を落としてほしくないでし、新しいからといって、その話題性で終わってしまっては、話題性だけを追う観客を育てることになります。

新内を味わうためには、国立劇場大劇場は大きすぎると思いますが、こうした大きな会もやりようによっては面白いという証明になりましたから、七代目新内多賀太夫さんのような若い力の活躍がこれから一層期待されることとなるでしょう。

神保町シアターで<映画監督成瀬己喜男初期傑作選>が始まっています。芸人ものも入っています。『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『女人哀愁』は観ていますから他作品がお目当てです。そういえば、風間杜夫さんは、波乃久里子さんと、三越劇場で『鶴八鶴次郎』を演じられていますね。

ついでにとは失礼ですが、染五郎さんと猿之助さんの弥次・喜多コンビ、シネマ映画『東海道中膝栗毛<やじきた>』の宣伝紹介でラップをやっております。こちらも古いものと新しいものとをどう進めて行かれるのか、それぞれの分野での闘いは続いています。

先ずは、<新内>の世間様へのさらなる浸透が大きな任務とおもわれます。期待大です。