舞台『おもろい女』

<天才漫才師ミス・ワカナ>半生の舞台化で、藤山直美さんが演じられた。かつてテレビで、森光子さんが、ミス・ワカナを、藤山寛美さんが、相方の玉松一郎をされ、さらに森光子さんが舞台で演じられたそうであるが、観なかったのが不幸中の幸いとも言える。

ミス・ワカナさんについては、どこかで知りたいなあと漠然と思っていたのである。今回、藤山直美さんで出会えたのである。真っ白であるから、直美さんのミス・ワカナをギンギラギンの眼で観させてもらった。おもろかった。

ミス・ワカナがまくし立て、相方の一郎はボーッとしていてそのアンバランスに受けたという話しは知っている。漫才芸人や落語家を主人公にするドラマがあるが、その芸を披露するのは難しく、まあ仕方ないであろうと妥協するが、直美さんのミス・ワカナのしゃべくりは、おもろかった。ミス・ワカナに似ていようといまいとどうでもよいのである。そのしゃべくり自体が楽しませてくれたのである。

大正14年から昭和21年の敗戦直後、西宮球場での演芸会に出演し亡くなるまでのミス・ワカナさんの半生である。西宮球場が漫才などの演芸をみるために人で一杯に成ったと言うのにも驚かされた。それだけ戦争で人々は笑いに飢えていたのである。ワカナさんは激動の時代のなかで、時には薬に頼り、漫才という芸能を抱えて自爆したともいえる。

前進あるのみのワカナさんであるが、時には愛らしく時には凄味、荒み、自暴自棄の中からよみがえり、これから思う存分自由に漫才の時代だという時にこの世を去ってしまう。その起伏を演じる直美さんの身体表現と顔の表情が凄かった。こういう時のこのかたのそばには居たくないと思わせる鬼気迫る場面もあった。

一郎がそばにはいられないというのが納得できた。一郎役の渡辺いっけいさんはワカナとの夫婦のときもリードされっぱなしで、それで上手くいっていたのが一郎は置き去りにされる形となり、その難しいもどかしさをいっけいさんは、なるほどなあと思わせるかたちで表した。ワカナと離婚し、次の仕事の日時を告げ去る時の何事もないかのような、少しありそうな匂わし方も上手い。

九州の女興行師の山本陽子さんの鉄火な貫禄もいい。九州といえば、炭坑である。その男たちの賑わいの中での興行師である。と思わせてくれる締め具合である。

浪花の興行会社の女社長の気の回し方の正司花江さんは、それと対照的に争わず実を取るこまめさを表す。

そして、興味深かったのが、秋田實さんである。こんなにワカナさんのしゃべくり漫才に入れ込んでいたとは知らなかった。田山涼成さんが、常に穏やかにワカナさんの後押しをする。

詩人で作家、文芸評論家でもある富岡多恵子さんが、『漫才作者秋田実』を書いている。読みたいと思いつつ、上方漫才など判らないしと思っていたのであるが、ミス・ワカナさん、直美さんのワカナさんのお蔭で読めそうな気がしてきた。そのため、田山さんの秋田實もじっくり観させてもらった。

ミス・ワカナの生きた時代の渦の中で、何かしらワカナさんと接点を持ちつつ生きた人々がそれぞれの立場で生き方を求めるのが印象的である。そしてよく笑わせ、ときには、しんみりとさせてくれる。

漫才のために何でも吸収しようとするワカナさん。笑いのために、面白いものは天才的感覚で取り入れたワカナさん。次のステップがあるのにそのステップを踏むことなく消えてしまった。

直美さんは、同じように喜劇のために様々の舞台をこなされてきた。時には、これ直美さんがやる必要があるのかなと思うような舞台もあった。今回は、一つ一つ積み重ねられてのこれぞ藤山直美さんだと思わせてくれる舞台である。きちんと、次のステップを踏まれたのである。

作/小野田勇、潤色・演出/田村孝裕、出演/藤山直美、渡辺いっけい、山本陽子、田山涼成、正司花江、黒川芽似、篠田光亮、山口馬木也、井之上隆志、小宮孝泰、石山雄大、臼間香世、武岡淳一、河村洋一郎、菊池均也、戸田都康

日比谷・シアタークリエ  ~30日(火)

新派 『十三夜』『残菊物語』

三越劇場での新派名作劇場『十三夜』『残菊物語』である。

『十三夜』は樋口一葉原作である。せき(波乃久里子)は、身分違いの高級官僚に請われて嫁いだのに、その夫は子供が出来ると出て行けよがしに辛く当る。親にも話さず6年間我慢したが、どうにも耐えられなくなり実家にもどり事情を打ち明け離縁をとってくれと両親に頼む。せきは考えたすえの事であるが、親の当惑することも知っていて、静かにひれ伏して事情の説明をする。母親(伊藤みどり)は同じ女として婿の仕打ち我慢がならない。気持ちよいくらいまくし立てる。しかし父親は、婿によって助かっている家の事情と孫を一人にするのかと諭し、せきは納得して帰る。

外からは何処かに駅があるのか汽車の発車の音がする。納得はしたが、せきの辛さを思うと、この両親同様の気持ちとなり、、せきが汽車に飛び込むのではと思いめぐらしてしまう。

せきは人力車に乗っている。ところが、この車夫が気まぐれでここで降りてくれと告げる。上野公園の中でここで降ろされては困るとせきは告げる。その車夫に見覚えがあった。幼馴染の録之助であった。名前を呼ばれた録之助(松村雄基)は驚く。彼は語り始める。それは、せきが嫁いでから荒れてすさんだ生活を過ごし、家を没落させ車夫になっていたのである。

誰も知らないが、二人はお互いに想い合っていたようである。せきはそれを知り、今の仰々しい姿で逢う自分を恥じている。言いようによっては、嫌味になるところを、素直に録之助が受け取る感じで言い二人を同等にした。そして、もう録之助の車には乗れないから、一緒に公園下まで歩こうといい、録之助も素直に無人の車を引いて歩きだすのである。良い幕切れとなった。二人の出会いは、二人に一瞬十三夜の明るさを取り戻させた。

原作は、二人の関係の差をだし現実味を加えている。脚本は久保田万太郎さんで、新派らしい幕切れとしたのであろう。波乃久里子さんと松村雄基さんは大人の儚い清々しさを出してくれた。父の立松昭二さんと、母の伊藤みどりさんは、男親と女親の違いを上手く出していた。(演出/成瀬芳一、尾上墨雪)

『残菊物語』は、人気歌舞伎役者・菊之助とその弟の乳母・お徳が恋仲となり、親に勘当され、大阪に落ちるが役者として不遇な時を過ごす。少し認められた時、周りの勧めもあり、お徳は菊之助を親元に帰す。親の後ろ盾のお蔭もあって菊之助は成功し、お徳は死ぬ間際、女房として認められるのである。

菊之助(市川春猿)は、人気が自分にとって実体のない掴みどころのないもので、周りの女性達は騒ぐが、自分の人気に付きまとう実のないものと思って居て、弟の乳母・お徳(水谷八重子)にその純粋な実を感じ、想いを打ち明ける。ここの部分が、菊之助を取り巻く女達の争いなどでお徳との比較をするが、お徳の良さを見せるまでには至らず、お徳同様観ているほうも唐突であった。

お徳が怖れていたように、二人の仲は認められず、菊之助は勘当される。勘当の場面はよく纏まっていて、菊之助が養子で、実子が生まれたが、義父の菊五郎(柳田豊)は菊之助を跡目として考えているゆえの意見であるとしている。おそく出来た実子の乳母がお徳なのである。六代目菊五郎の名前など欲しくない。お徳と一緒になりたいと菊之助は主張し勘当される。菊之助を諌める兄(松村雄基)と義理の母(波乃久里子)の位置関係もいい。

菊之助とお徳は大阪に来ているがお徳は病気である。後ろ盾もなく良い役もつかないが、面倒見の良い周りの人達に助けられひっそり生きている。やっと、『伊賀越』の仇役・数馬で褒められたと喜ぶ。お徳は、菊之助の先輩たちが菊五郎の勘当をとく算段をしてくれている手紙を読み、自分は病気を治すため一人転地療養するからと言って、菊之助を菊五郎のもとに帰す。このあたりは、八重子さんがお徳としてリードし、役者しか知らない心もとない雰囲気の春猿さんの菊之助の後押しをする。

菊之助が成功し、船乗り込みで、晴れの姿を部屋の窓から眺める病身のお徳の八重子さんは後姿の形でその想いを表現した。船の提灯の灯りがお徳の顔を照らして横切っていく。その顔に当たる光が、菊之助の成功の光としてお徳にだけ当てられた特別の光である。このあたりは、照明の細やかさも加わり新派らしい美しさである。

なにくれとなくお徳の世話をする元俊(田口守)が、芝居小屋に駆け付けお徳の死が近いことを告げ菊五郎の許しも出て菊之助はお徳の所に駆け付ける。菊五郎も後から姿をみせ、お徳と菊之助は晴れて夫婦として認められるのである。ここで初めて菊之助の春猿さんは、心の底から自分の感情をお徳に激しくぶつけるのである。

芝居に歌舞伎を出すわけにはいかず、め組の火消の衣装でそれらしさを出した。そのあたりの事情もあり、芸道ものというより、恋物語に重心をおいている。

大阪での生活も周りが大阪弁でその雰囲気を出し、実際には見えぬが船乗り込みを使うことで、菊之助の晴れ姿を見せるという展開は上手いと思う。(原作/村松梢風・脚色/巖谷槇一・演出/成瀬芳一)

五月の歌舞伎座でお隣に座られたかたが、かなり年配の男性のかたではあるが、金沢から観劇にこられていたお客様であった。明治座、国立劇場(前進座)、中村座、歌舞伎座と観られてその日帰られるとのこと。北陸新幹線ができ楽になったと言われていた。学生時代から毎月出かけてこられているのである。観劇の時は進んで話しをしないのであるが、二言三言で話しが通じ、中村座は観ていないが、後は70%同じ意見であった。20%はその方の上方歌舞伎の面白さで、あと10%はかなり辛口のご意見だった。そしてその時、新派のある時は新派も観ますということだったので、暫く新派ご無沙汰だったので今回の観劇となった。以前は、京都、大阪にも行かれたそうである。今月は新派もご覧になったことであろう。

国立劇場 『壺坂霊験記』

歌舞伎鑑賞教室なので、学生さんが主客である。「歌舞伎のみかた」の解説があり、小さいが優れもののパンフも配布される。今回字幕表示もあったが、字幕表示を見ていると役者さんの演技を見落とすので、最初目にしたが忘れてしまった。

物凄い元気の良い学生さん達で、どうなるのかと思って居たら、場内が真っ暗になるとピタッとおしゃべりが消えた。幕が開くと何もない広い舞台である。花道のすっぽんから亀寿さんが上がってくる。効果的な出であった。歯切れよく説明され学生さん達も興味深々である。女形さんのお姫さまのお化粧から着付けまでの仕上げを見せ、映像つきなので細かいところまでよく判った。一緒に参加して女形の基本を教えてもらった男子学生さんも、笑いをとりつつ、楽しんでいた。

『壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)』は奈良にある壷阪寺の観音様が、眼の不自由な夫と献身さゆえの信仰深い妻との夫婦愛に、命を救い、眼も見えるようにしてくれるという霊験のお話である。

パンフ等の説明によると、『観音霊場記』というのがあり、西国三十三ヶ所の霊場を一つを一段として、三十三段で構成されているらしい。そのうちの一つが第六番札所の南法華寺で、壺阪山にあるので、「壷阪寺(つぼさかでら)」と呼ばれている。清少納言の『枕草子』にも出てくるお寺である。

浄瑠璃では、桓武天皇が奈良の都におられたとき眼病を患い、壺阪の尊像に道喜上人がご祈祷し平癒されたという言い伝えがあると語られ、眼病にきくお寺として名が通ていることがわかる。そういう事も踏まえ、『壺阪霊験記』が浄瑠璃となり、現在の歌舞伎となって残ったのである。

眼の不自由な沢市を亀三郎さん、お里を孝太郎さんでの舞台である。役者さんは二人だけで、最後は奇跡が起こるハッピーエンドである。舞台も「歌舞伎のみかた」の時には何もなかったのが、沢市の家、壺阪観音堂の前、谷底と三つの場面があり、何もない舞台に作られる舞台装置にも学生さん達は目がいったことであろう。

孝太郎さんと亀三郎さんは初役だそうであるが、声質が似ていて、気持ちが響きあう。孝太郎さんは、最後まであきらめず沢市を快活さも出しつつ励まし、沢市に夜な夜な夫のためにお詣りに行くのを、男があるのではと疑われ、時にはきりっと情けなさをあらわした。

二人で明るく壺阪にお詣りに来るが、沢市は三日間断食をして祈願するから用事を済ませにお里は家に帰るようにと、お里を家に帰す。そこからの沢市の絶望的な心の内と死までの過程を亀三郎さんは変化をつけ表現する。

もどって沢市のいないのが信じられないお里。貧乏にも耐えてきたのは誰のためなのか。お里の後追いにも嘘が無い。それを見ていた観世音が現れ、命をのばしてくれ、沢市の目を治す奇跡を起こしてくれる。その後の二人の倖せさは、花道の引っ込みで充分表現された。

若い人たちのせいか、幕が引かれての拍手の響きいい。拍手の叩きかたにも年の差があるのであろうか。耳の錯覚か。

 

新橋演舞場 『プリティウーマンの勝手にボディガード』

<熱海五郎一座 新橋演舞場 進出 第二弾><爆笑ミステリー>となっている。

ハリウッドスターのニコラス・ケイジ(パンフ買ってないのでどんな字か不明)をガードする、警備会社の面々とその社長の元奥さん。キャバレーの関係者。刑事二名。殺人未遂事件を中心に新橋演舞場のムーランルージュはグルグルまわる。

警備会社社長の元妻で、伝説の元SPで、ニコラス・ケイジに命を助けてもらった元16才の乙女である大地真央さんの参加である。成りきっていて、メンバーの突っ込みにも動じない。フリフリのドレスでアイドルとして歌ってしまう。他のメンバーが崩れても、微動だにしないさすが元宝塚トップスターである。

爆笑ミステリーであるから、観客も演者も、ミステリーに期待はしていない。解決しそうもないコンビの刑事。筋はあるが、その筋よりも、間に展開されるコント(と言っていいのでは)などの見せ場が楽しい。

三宅裕司さん(警備会社社長)と小倉久寛さん(キャバレーレビューの演出家)の<流される>の間は、ギター伴奏と歌を含めて絶妙である。渡辺正行さん(刑事)の上落語を受けての春風亭昇太さん(ニコラス・ケイジ)の下落語。三宅裕司さんのパソコンの指タッチに合わせた大地真央さんのタップ。渡辺正行さんの演技説明をする役目の東貴博さん(刑事)。たとえば「たそがれているんです」。ラサール石井さんの中途宙乗り。小倉久寛さんのダンスと側転もありました。

犯人は意外なところに。しかし、捜す気を起こさせないのが、爆笑ミステリーと知りました。

豪華幕の内弁当。いやいや、豪華コメディアン弁当で、どこから食べてもそれぞれの味わいがあるというところである。

恒例になっているので、二回目のカーテンコールも楽しみなデザートである。楽屋裏や、それぞれの観察眼などの話が口当たり微妙。録画カメラが入っていたが、かなり噛んでいて、大丈夫だったのであろうか。よく噛む人をネタにしていたのも適材適所である。

大地真央さんの音楽性は別格として、三宅裕司さんと小倉久寛さんには、思いがけずその点を楽しませてもらった。

レンタルで『たまの映画』というのが目についた。名前は耳にしていたバンドグループだが実態は知らない。三宅裕司さんのテレビ番組「いかすバンド天国」でブレイクしたらしい。三宅さんの名前につられて借りた。このグループは解散していて、その後の各自の今の音楽活動を追っている。それぞれが自分のよしとする音楽を突き進んでいて、自分の歌を歌っている。こだわりは相当あるのであろうが、そのあたりを軽くかわしているところが、絡めとられることの煩わしさを知っての進み方なのであろう。三宅裕司さんの名前から、おそまきながら<たま>というグループのほんの僅かな部分に触れられたのは幸いである。好感が持てた。映画に三宅さんは出てこないので悪しからず。

音楽好きの三宅さんはビッグバンドを組んでいるようでチラシもあった。

さてさて熱海五郎一座は、熟し加減の素材を生かしつつ、これからも、笑いの世界を料理していくのであろう。器が立派で中身が少ない懐石料理にだけはしてほしくない。

 

白狐の「こるは」

『保名』から『葛の葉』について書いたが、『白狐』が素晴らしい姿を現してくれた。

岡倉天心さんが、信太(しのだ)の森の葛の葉伝説をオペラの台本『白狐(びゃっこ)』として作られていた。そして、その作品の作曲の一部が見つかったのである。悲しいことに、そのかた村野弘二さんは、東京音楽学校から学徒出陣され、終戦を知らずに1945年8月21日に自決されていた。

1942年4月に東京音楽学校予科に入学され、1943年の11月に校内演奏会で『白狐』を披露、12月には陸軍通信隊に入営。その一年後にはフィリピンのマニラへ。ルソン島の山岳地帯では飢えと伝染病の為に多くの死者がでる。村野さんは見習士官であったが、マラリアにかかり歩くこともままならず部下を指揮することも出来ない状態で、覚悟の自決であったようだ。

村野さんの同期に作曲家の團伊玖磨さんがおられ、村野さんの作曲を「傑作」として楽譜を捜したが見つからなかった。その一部が発見されたのである。

『白狐』の狐は<こるは>という名前で、この、<こるは>がピアノ伴奏で独唱する第二幕の楽譜の一部と「こるは独唱」のレコードも見つかったのである。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

詳しい事を知りたい方は、図書館ででも、「毎日新聞」の6月19日、20日、21日の朝刊のお読みください。

戦争によって夢多き時代に夢破れた人々の想いはどこかで息づいていて、姿を現してくれたり、捜し出してくれるのを待っているのである。余りにも多くの人々がいるので、村野弘二さんはその方々の代表として<こるは>を送り届けてくれたのであろう。

友人が、「読売新聞の19日の夕刊に谷崎潤一郎の佐藤春夫あての書簡が見つかったと出ているわよ。」と知らせてくれた。図書館でよんだが成程である。横浜の神奈川近代文学館での『谷崎潤一郎展』でも、谷崎さんと佐藤さんのその後の関係は円滑であったと思えたので驚きはしなかったが、谷崎さんの佐藤さんに対する信頼度を示す書簡で、谷崎さんの無防備さがわかる。 『谷崎潤一郎展』

もう一つ、同じ新聞に思わぬ発見をさせてくれる記事にあう。東京国立近代美術館工芸館の建物が旧近衛師団司令部であったことである。その日にこの工芸館を訪れていたのである。何回か訪れていて、いつも、古い建物だがいつ頃の物なのだろうとは思って居たが調べもしなかった。新聞の記事が無ければ、あの『日本のいちばん長い日』の舞台となった場所とは思ってもいなかった。 岡本喜八監督映画雑感

こちらは、21日までという「近代工芸と茶の湯」を観て、その作品の一つ一つの美しさに人間技なのであろうかと感嘆したのである。時代劇小説だったと思うが、銀と銅と金の合わせ方に<四分一>というのがあるというのが出てきてその<四分一>だけ記憶にあって、その水指があった。「これがそうなのか。」と想像していた色合いで嬉しくなってしまった。調べたら<四分一>でも色々あるらしいが、最初に出会えた色合いに満足である。

その場所が、時間の経過によって、全然違う想いの人間の感情を受け止めているのである。平和という時間が如何に大切な時間であることか。

ここに並べられるような技を具えていた人で亡くなられた方もいたであろう。こんなものは戦争の役には立たないとされ仕事を止められた方もいたであろう。見るのさえ出来ない時代である。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

<こるは>のこの願いの言葉と同じ想いでお月さまを眺める人は沢山いるであろう。

 

 

気分回生には玉三郎舞踊集

気分転換でなくても当たると思うのが、玉三郎さんの舞踊集DVDである。明治座5月の『男の花道』で、猿之助さんが、歌右衛門がお風呂帰り花道を、長谷川一夫さんが、長唄の『黒髪』の独吟に乘って出るという情報を得た。猿之助さんの出がそうだったかどうかは、観た後の情報なので捉えていない。その程度の音感ということである。

ただ、金谷の宿でだったと思うが御簾から良い音曲が流れていたのは記憶にある。なんだろう後で調べようと思って詞を気をつけていたが、見事に忘れている。それはいいとして、『黒髪』が気になる。手もとには玉三郎さんの舞踊集の地唄の『黒髪』がある。やっと手が伸ばせる時間がめぐった。今回は詞の字幕、解説つきで観る。人の意見に左右されやすいので、解説つきでみるのは初めてである。こちらの想いの邪魔にはならなかった。次が大好きな地唄の『鐘ケ岬』である。もうはまってしまった。

舞踏集2と6を一気に観た。詞の重なり、枕詞、などなどもうたまらない。なんでこう遊び心を挿入しつつ人の想いを伝えられるのか。そしてそこに玉三郎さんの踊りがある。『鷺娘』など<妄執の雲 晴れやらぬ 朧夜の恋に迷いしがわが心・・・>とはじまり、最後は地獄の呵責の責めに合い死んでいくわけだが、その間に傘づくしなどがあり、傘を車に見立てた箇所では、『日本橋』のお孝を思い出す。『鷺娘』は舞台でも何回も観ているのに改めてその新鮮さに驚愕してしまった。

荻江節の『稲舟』は、最上川を渡る稲穂をつん小舟のことなのだそうで、最上川特有の風物だったそうだが、玉三郎さんは、遊女の恋という設定である。日本各地の風物も詞に入っている。

『藤娘』では、近江八景が歌いこまれている。行ったところが半分、行っていないところが半分。この機に、今年は制覇しようなどと余計なことも考える。

『保名』は、どうも中だるみしてしまう。<男物狂い>で気がふれて亡くなった恋人を捜したり、幻覚をみて恋人の打掛を恋人にみたてたりする。この作品は保名の美しさだけでは物足りないのである。具体的な物語は語られないのである。

そこで、大川橋蔵さんの映画『恋や恋なすな恋』を見直す。1962年の作品で監督は内田吐夢監督である。1959年に萬屋錦之助さんの『浪花の恋の物語』を内田吐夢監督が撮っていて、橋蔵さんの役の流れに違う流れも入れてみようとされたと思う。脚本・依田義賢、音楽・木下忠司、美術がのちに『トラック野郎シリーズ』の監督・鈴木則文、撮影・のちに任侠映画の吉田貞次。1962年には橋蔵さんは大島渚監督の『天草四郎時貞』にも出られていて、時代劇スターの変わり目の時期であることがはっきりしてくる。『天草四郎時貞』は、橋蔵さんに合わなかった。権力者と宗教、信者のキリスト教の解釈も絡んでくるので大島監督流の問題提起の映画である。

『恋や恋なすな恋』は、保名(大川橋蔵)が天文博士・加茂保憲の一番弟子なのであるが、跡目相続の争いに負け、師匠の娘で恋仲の榊(嵯峨美智子)にも死なれ気がふれてしまう。その場面を踊り『保名』として作ったわけである。映画のなかでも保名は踊るのである。そのあと、狐葛の葉(嵯峨美智子)との場面となるが、保名に恩ある狐が、榊の妹・葛の葉(嵯峨美智子)になりすますのである。映画ではその場面は舞台上での物語として設定している。いわゆる安倍清明の誕生と狐葛の葉との別れである。幕がぱっと落とされたような場面展開や、一面菜の花での保名の狂乱振りなど映画と舞台との共存のようである。

最期は、病が治ったと思った保名は踊っていた保名で、恋人の小袖をかぶって伏してしまう。そして、狐の葛の葉の鬼火であろうか、石の周りを飛び回っている場面で終わりである。あの石は、保名なのであろうか。理解に苦しむ終わり方である。保名と榊との関係から舞踏『保名』が生まれ、保名と葛の葉の関係までは、歌舞伎や文楽では『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』がある。通しで観たくなる。

トントンとノックして返事の無い部屋に入り、様々な想いをもらって後にするプロの部屋は新たな気分を発酵させてくれる。素人に媚びたプロの仕事は爪痕しか残さないが、素人に媚びないプロの仕事は足跡を残す。時には、痕跡さえも消え、ふたたびノックさせるのである。

歌舞伎座6月 『天保遊侠録』『夕顔棚』

『天保遊侠録』。十一代将軍家斉の時代とあり、この芝居の主人公、小吉の息子の鱗太郎が言うように、新しい時代のくる兆しのあった時代である。それは、小吉が、無役から役につこうと、向島の料亭で上役に接待し、上役が傍若無人という武士の腐敗した姿を映し出している。

小吉は後の勝海舟(鱗太郎)の父である。小吉は勝家に養子に入った人物で、養子でありながら成人してからも放蕩生活を続け、座敷牢に入れられた、その時期にできたのが鱗太郎である。それらの事はセリフで語られる。

武士の腐敗と小吉の生き方などを全てセリフで理解し、小吉の生き方から、到底我慢できる世界ではないということがわかる。観ていて思ったのだが、小吉が爆発して全てをぶち壊すのは、甥の庄之助が一同にばかにされてである。小吉は、庄之助の姿に役についた時の自分の姿を見たのである。鱗太郎はその父の姿を見て呑み込み、父に代わって若君のお相手としてお城に入ることを決めるのである。

今回、残念だが鱗太郎のセリフにさらわれて人情噺になってしまった。小吉の橋之助さんには、もう少し大きな小吉を見せてもらいたかった。小吉に対しては、姉である阿茶の局である魁春さんが、きちっと一同に言い渡してくれる。小吉が父として息子に見せたくない部分を息子はしっかりわかっている。小吉は自分の行動を理路整然とは語れず、啖呵を切るだけである。それがこの人の生き方であり魅力である。この時代の風の中で遊侠でしか自分を表せられない小吉である。そこのあたりの人間像をもう少し骨太に押し出して欲しかった。

かつて駆け落ちした八重次の芝雀さんとの最後の場面に、小吉の照れ隠しの本音が上手くおさまり、良い幕切れであった。勘三郎さん、三津五郎さん亡きあと、橋之助さんに対する期待が大きいゆえの感想になってしまった。

團蔵さんが、聞きやすいセリフで、ややこしいしきたりなどを説明してくれたので、小吉の押さえが効かなくなっていく流れ上手くかぶさった。庄之助の国生さんは、セリフの多い役だけに、時々言葉がはっきりしないのが残念であった。

『夕顔棚』は、菊五郎さんと左團次さんは地そのものではないかと思われるような息の抜き方が楽しかった。お風呂からあがったお爺さんとお婆さんが、お酒を酌み交わしつつ、盆踊りのお囃子にのって昔を思い出しながら踊るのである。

清元と三味線を聞いていると、この老夫婦の若い頃の色気が彷彿としてくるから不思議である。このあたりに邦楽の艶の力を感じる。里の若者たちが二人を誘いに来て軽快に踊る。舞台がぱっと明るくなり良い感じである。里の女の梅枝さんと、里の男の巳之助さんのコンビがほのぼのとした健康的な色気を振りまく。

たわいない老夫婦の倖せが心地よい舞台となるとは、菊五郎さんと左團次さんのたわいなくはない舞台裏のありそうな芸道であろうか。

 

 

歌舞伎座6月 『新薄雪物語』

『新薄雪物語』は昼夜にまたがっており、昼が<花見><詮議>、夜が<広間><合腹><正宗内>であった。

奉納の刀に、鑢(やすり)で傷目がついていたことから、天下調伏の疑いをかけられた幸崎(さいざき)家と園部家の悲劇の話しである。

鑢で傷目をつけるのが、団九郎で、それを操っているのが、秋月大膳である。証拠隠滅で、普通下手人は殺されるのであるが、大膳は団九郎を殺そうとするが見逃すのである。この部分が以前から納得いかなかったが、今回分かった。

団九郎は吉右衛門さんである。大膳が仁左衛門さん。あらすじを読んでいなかった。<正宗内>という場面がある。今回は、刀に関係する刀鍛冶の話しがついているのである。団九郎が殺されなかったのは、<正宗内>で団九郎の話しとなるからである。今まで、<正宗内>はあまり上演されないので、団九郎は中心人物ではなかった。

夜の部の入場口で、よろしければ参考にと、昼の部の簡単なあらすじと、人物相関図の紙を渡された。<合腹>までは以前観ているので、<正宗内>の人間関係が一目瞭然で助かった。

園部家の子息・左衛門(錦之助)は、刀を打った名匠・来国行(らいくにゆき・家橘)、奴・妻平(菊五郎)と共に清水寺に刀を奉納に来る。先に花見に来ていた幸崎家の息女・薄雪姫(梅枝)は、腰元・籬(まがき・時蔵)と妻平に左衛門との仲をとりもってもらう。その時の艶書には、「刀」の字の下に「刀の絵」その下に「心」で、「忍」となり、忍んで逢いにくるようにと薄雪姫の想いが書かれていた。美しい梅枝さんと、しっかり柔らかさの身についた錦之助さんを取り持つ、余裕の菊五郎さんと時蔵さんで安心して観ていられる。

薄雪姫に心ある秋月大膳は、団九郎に奉納の刀に鑢目を入れさせ、それを来国行に見とがめたれ、小柄を投げ殺してしまう。ここで、団九郎も殺すつもりであったが、見逃すのである。この時の仁左衛門さんと吉右衛門さんの悪の呼吸の決めがいい。久しぶりの空気の振動である。大膳の園部家と幸崎家を失脚させる策略であった。

<花見>の場の最後は、妻平が、大膳側の水奴との大立ち廻りである。水奴ということから、水桶を持ったり。傘をもったりで、二回ほど妻平を囲んで三角形の幾何学模様を作り、見た目にも楽しい立ち廻りであった。

<詮議>は、幸崎家邸にて、葛城民部(菊五郎)と大膳の弟・大学(彦三郎)を上段に、下段には、園部兵衛(仁左衛門)、左衛門(錦之助)、幸﨑伊賀守(幸四郎)、薄雪姫(児太郎)が控えているが、国行も殺され、左衛門と薄雪姫には身の潔白を証明できない。兵衛と伊賀守の辛抱どころであり、二人は花道に渡り話し合い、それぞれが相手の子供を預かり詮議して事の次第を白状させることを申し出る。民部も承諾し、左衛門と薄雪姫との手を自分の開いた扇の下で重ねあわさせ、いずれはと希望を持たせる。重苦しい中にわずかな情をかもしだす。錦之助さんと児太郎さんのそれぞれ顔を合わせつつの交叉する別れに悲哀があった。幸四郎さんと仁左衛門さんの親としての腹の据えどころもいい。

<広間・合腹>である。薄雪姫は今回、梅枝さん、児太郎さん、米吉さんの三人がそれぞれ勤めた。ここは米吉さんで、三人三様の薄雪姫であった。何れは通しで演じることを胸に闘志を燃やしてほしい。兵衛は薄雪姫を逃がすことに決める。この場ですすすっと別室から出てきた腰元の足さばきがよい。腰元・呉羽の高麗蔵さんであった。ちょうど、先代の又五郎さんと佐貫百合人さん共著『ことばの民俗学 4 「芝居」』を読んでいたら、歌舞伎についての実践的なことや色々多義にわたることが書かれてあって、そのことが頭にあってか、足さばきが目に入ってしまったのである。

足さばきだけではなく、役の性根もしっかりしていた。この場の主人・園部夫婦(梅の方・魁春)の窮地、薄雪姫を守れという任務。ことは重大である。その責務を受ける腰元としての動きがいい。この人なら、おぼつかない薄雪姫を守って行けるであろう。やはり託す人によって、その場の雰囲気も変わってくる。左衛門に会えないのを悲しがる薄雪姫と自分の娘として送り出す園部夫婦。

幸崎家から左衛門の首を落としたとして、その刀が使者(又五郎)によって届けられる。その刀で薄雪姫の命をとの口上である。その刀を見て、兵衛は伊賀守の真意を悟る。お互いに通じ合った二人は、蔭腹を切り子供たちの命を嘆願する行動に出るのである。伊賀守、梅の方、兵衛、三人の泣き笑いとなる。ここが見せ場、聞かせどころである。幸四郎さん、魁春さん、仁左衛門さん、それぞれの役者さんがどう表現するのか。こちらも息をつめてその笑い方を待ち、圧倒された。伊賀守の妻・松が枝(芝雀)も訪ねてきて、男親二人を見送るのである。

<正宗内>。殺された国行の父と師弟関係なのが団九郎の父五郎兵衛正宗(歌六)で、団九郎は父の師匠の息子国行の打った刀にやすり目を入れたのである。国行の息子・国俊(橋之助)が放蕩から父に勘当され身を隠して正宗の弟子となり、娘のおれん(芝雀)と恋仲である。

仕事場で三人が刀を打つ音がいい。正宗は、息子団九郎の悪事を見抜き、刀鍛冶の秘伝である焼き刃の湯加減を息子には教えず、風呂の湯で国俊にそっと伝授する。それを察し、湯に手を入れた団九郎の手を切り落としてしまう。父・正宗に諭され改心した団九郎は、追われてきた薄雪姫を助すけるべく、片腕で捕り手と大立ち回りとなる。

<正宗内>は初見なので期待していたが、吉右衛門さんの息子と歌六さんの父との名コンビのセリフが深くならず、団九郎の改心がすんなり心に落ちてこなかった。立ち廻りも工夫しすぎの感があり、ツケの効いた基本的な立ち廻りにして欲しかった。期待しすぎで少し気がぬけた。

しかし、これだけの役者さんを揃えての、<正宗内>までの『新薄雪物語』は暫くはないであろう。

 

 

新宿区落合三記念館散策

新宿中村屋のビル三階に<中村屋サロン美術館>がある。この案内チラシもどこかで手にしたのであるが何処であったのやら。そして、この<中村屋サロン美術館>で、<佐伯祐三アトリエ記念館>のチラシを手にした。そのチラシの裏に、落合記念館散策マップが載っており、<中村彝(つね)アトリエ記念館><佐伯祐三アトリエ記念館><林扶美子記念館>の三館をまわるマップである。

中村屋サロンというのは、明治から大正にかけて、中村屋が若き芸術家のサロンのような役割を果たしていたのである。中村屋の相馬愛蔵の郷里である穂高の後輩・荻原守衛(碌山)が、中村屋の近くにアトリエを作り、そこに彼を慕う若き芸術家が集まってきた。このサロンの中心は萩原守衛さんであるが、それは置いておく。その中に、画家の中村彝さんがいた。

佐伯祐三さんの足跡を訪ねてパリまでいった、佐伯祐三大好きの友人が、山梨県立美術館の『佐伯祐三展』に行けなかったので、この散策に誘うと是非という。

佐伯祐三さんは大阪生まれで、大阪の中之島に佐伯祐三の専属部分を持つ美術館を建設したいとして、その準備機関が資金調達の意味もあって『佐伯祐三展』を開催しているようである。大阪でも開催され、その時は友人も大阪まで出向いたらしい。大阪の中之島では、大阪市立東洋陶磁美術館は好きである。良いところなので、新しい美術館が出来、佐伯祐三の常設もできるなら喜ばしいことである。

山手線の目白駅から先ず中村彝さんのアトリエに行く。中村彝さんは、中村屋の長女俊子さんを好きになるが、反対され、失意のもと下落合にアトリエを建て、肺結核のため若くして亡くなってしまう。俊子さんは、中村屋がお世話していたインド独立革命家と結婚するが、彼女も20代で亡くなっている。このあたりの事情は中村屋サロン美術館で知っていたので、ここが、彝さんの孤独に苛まれたアトリエなのだと光の入り方などを確かめる。アトリエの庭に椿が咲いていて、係りの人に尋ねると、彝さんは椿が好きで大島にも行っているとのこと。調べたら彼の記念碑が大島にあった。大島ではそんな情報は何も掴まなかったので驚きである。

ここでだったと思うが、佐伯祐三さんが中村彝さんにも影響を受けていたとあり、繋がって友人には喜んでもらえた。

次に佐伯祐三さんのアトリエに向かう。友人は佐伯さんの絵は頭に入っているので、この周辺の風景画と現在の写真が載っている資料に感動していた。ボランティアの方の手によるものであろう。映像やパネルなどから、友人の解説を聞き、一通りの絵は見ていたので良く理解できた。佐伯さんも結核のためフランスで亡くなるが、神経も侵されてしまう。

友人が思うに、佐伯さんは結核を遺伝性の病気と思い、自分の命の短いことを感じていて生き急いだのではないかという。娘さんも幼くして結核で亡くなっている。感染してしまったのであろう。奥さんの米子さんは二人の遺骨を抱え、佐伯さんの絵とともに帰国するのである。その後画家として生きられる。友人と米子さんの絵を観て、なかなかよね!と感嘆する。友人は持っていない図録を購入。こちらもかなり、佐伯祐三さんに精通してきた。志し半ば亡くなられていて、これが佐伯祐三だというところに到達する前に思える。到達点などはないのであろうが。

昼食を済ませ林夫美子記念館へ。私は何回か来ている林夫美子記念館であるが、説明されるボランティアのかたが変わると、また新しい発見があって楽しい。入口に昭和初めの新宿駅前の地図があり、友人のお父さんは田舎から出てきたとき、新宿の駅前に住んだということで、父に帰りに地図を買って行こうかなと言っていたが、帰りに何も言わないので買わないのだなと声もかけなかった。帰り路途中で、急に、地図を買って来るから待たないで先に行ってていいわよという。

彼女は、どこかうわの空だったのかも知れない。きっと佐伯祐三さんの世界の中だったのであろうなと感じたので、待たないで帰ることを告げる。何かにこだわっている時は、一人もいいものなのである。

後日、他の行きたくて行けなかった友人に地図を渡したら、かなり早い段階で行ってきたという知らせを貰った。この散策は手頃でよい企画であった。

驚いたことに、劇団民芸が10月頃、中村彝さんを中心にした『大正の肖像画』(作・吉永仁郎)を上演するらしい。新作のようである。忘れないでいれば良いが。

もう一つ、気がついたことがある。萩原守衛さんが、<文覚>像を作っているのである。文覚とは、袈裟御前を夫と間違えて殺めてしまう遠藤盛遠である。<碌山美術館>では気が付かなかったが、<文覚>の作品を通しての萩原守衛さんの心のうちも透かし見ることができる。映画「地獄門」や「平家物語」に接していなければずーっと気がつかなかったであろう。

 

『大佛次郎記念館』は鞍馬天狗

『谷崎潤一郎展』の帰りに、大佛次郎記念館に寄る。時間が無かったが、『鞍馬天狗』関係の展示があるようなので、軽く見学する。『鞍馬天狗』のコレクターの故・磯貝宏國さんが、コレクションを寄贈され、その第一回目の展覧会というこである。嵐寛寿郎さん主演の映画ポスターや、映画館の週報、メンコなど、いかに大衆に愛されていたかがわかる。

落語家の林家木久扇さんの「私と鞍馬天狗」の寄稿文も展示されていた。「杉作!日本の夜明けは近い!」は、木久扇さんの造語とのこと。杉作とくれば、美空ひばりさんの杉作と歌を外すわけにはいかない。

木久扇さんの『木久扇のチャンバラスターうんちく塾』にはお世話になっているがその本でもトップバッターは嵐寛寿郎さんである。何作目の作品かは忘れたが、軸足一本でくるくるまわりながら斬っていくのに驚いたことがある。殺陣も様々に工夫されたようだ。大佛次郎さんは嵐寛寿郎さんの映画に不満があり、自分で制作されたが、やはりアラカンさんでなくてはと、鞍馬天狗ファンは納得しなかったようである。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』(柴田錬三郎著)の解説を書かれた清原康正さんが、その解説の中で、2003年に県立神奈川文学館で「不滅の剣豪3人展 鞍馬天狗、眠狂四郎、宮本武蔵」が開催されたことを紹介されている。それぞれの原作者は大佛次郎さん、柴田錬三郎さん、吉川英治さんである。清原さんは、「眠狂四郎」について一文を寄稿され柴田錬三郎さんの死生観にも触れている。この三剣豪の中できちんと映画を観ていないのが『眠狂四郎』である。観ていないのにイメージが固定化されていて観たいとおもわないのでる。『徳川太平記 吉宗と天一坊』を読んで柴田錬三郎さんの面白さに触れれたので、時間を作って観たいとは思っている。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』の中に、盗賊<雲切仁左衛門>が出てきて、こちらの方は、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』(池波正太郎原作)をレンタルしてすぐに観た。時代劇映画に関してはまたの機会とする。

『鞍馬天狗』も一冊くらいは、原作を読んでおいたほうが良いのかもしれない。

話しは飛ぶが、嵐寛寿郎さんと美空ひばりさんの関係書物で竹中労さんがお二人のことを聞き書きも含めそれぞれの本にされている。これはなかなか面白い。嵐寛寿郎さん(「鞍馬天狗のおじさん 聞書アラカン一代」)のほうが飾りなく豪胆に話され人柄がよく出ていて好著である。

その竹中労さんのお父さんが画家であることを知った。山梨県の甲府は太宰治さんが新婚時代を過ごした町でもある。その間、甲府にある湯村温泉郷の旅館明治で、太宰さんは滞在し作品を書いている。そのため、太宰さんの資料も展示されているということなので、山梨県立美術館へ『佐伯祐三展』を観に行ったおり、寄って、見させて頂いたのである。その帰り道に『竹中英太郎記念館』の看板があり、その日は休館日であった。聞いたことがない方なので気になって調べたら、竹中労さんの父で画家だったことが分った。意外な組み合わせである。機会があれば訪ねたいと思っている。

思っていることが沢山あって、思い風船がどんどん膨れて行く。割れないうちに飛ばして誰かに拾ってもらうのがよいのかもしれない。

横浜から甲府まで飛んだが、次は東京新宿区にでもしようか。