村山源氏

下北沢の本多劇場「バカのカベ」の観劇のあと古本屋で村山リウさんの「源氏物語」と遭遇。一度だけ村山源氏の講義を受けた事がある。主婦の友社であったような気がするのだが。
物語よりも衣装・色・髪かたち・着こなし・道具の事などを詳しく説明された。

「平家物語」を読んでいて、例えば維盛が頼朝追討の出陣の容姿は<赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着て、連銭葦毛の馬に黄覆輪(きぷくりん)の鞍(くら)をおいて乗っている。>とある。こういう出で立ちがぱっと絵になって目に浮かぶともっと楽しいと思う。

時間的余裕がなく村山源氏の講座は一回しか聴けなっかたが、こういう入り方も今となれば面白い。「源氏物語 ときがたり」は全二冊で読みやすそうである。前回の古本屋は映画関係の本であったが、今回は古典関係の本に目がいき、古典は人気がないのかかなり安価で買うほうはニコニコで加減しつつも相当の重量を我慢して持ち運んだ。

「日本列島恋歌の旅」~梁塵秘抄と後白河院~では後白河院の今様への愛着は半端ではなく、<三度も声帯を破ってしまったというのだから、相当のマニヤ、歌キチ。プロ級の打ちこみ方といえるだろう。>と杉本苑子さんは書かれている。<艶っぽい歌詞の氾濫かと思うと、さにあらず。圧倒的な量を占めるのは神や仏への信仰歌なのだ。> さらに<したたかな策士のように見られているけれど、運に恵まれて危急を切りぬけた場合も、なるほど多い。帝王などになるより皇族のまま、グループ・サウンズでも結成し、気楽な一生を送ったほうが、あるいはお仕合せであったかもしれない。>と結んでいる。

重いおもいをしても、書物からほとばしる面白さは、それを忘れさせてくれる。

村山リウさんで思い出すのは<友人たちとの外での食事などは割り勘にさせてもらってます。はじめの頃は、多少仕事もし収入もあるので皆さんの分を払った事もあったのですが、自分の名を鼻にかけていると言われ、お金を払ってまで言われたくない。割り勘にして、ケチと言われるほうがまだいいですよね。>と言われて皆さんを笑わせていたのをなぜか覚えている。かなりの年齢になられていたが自分の意見をはっきり言われ清々しいかたであった。

 

 

忠度(ただのり)・経正(つねまさ)の都落ち

清盛の弟、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は都を去るとき歌の師である藤原俊成を訪ねて、世の中の乱れから数年歌の道を粗略にしていたわけではないが疎遠となっていたこと詫びる。自分は都を離れるが勅撰集のご沙汰があった時は一首なりとも入れていただきたいとお願いする。世の中が鎮まってから俊成は『千載集』の中に一首入れる。ただし帝からとがめを受けた平家の人なので「読み人知らず」と名を伏せ「故郷花(こきょうのはな)」という題の歌を一首。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな

敦盛の兄であり、経盛の長男である経正(つねまさ)は仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所に八歳から十三歳の元服まで稚児姿でお仕えていた法親王(ほっしんのう)にいとまごいに訪れる。法親王は戦の出で立ちなので遠慮する経正を庭から大床(おおゆか)まで上げさせる。経正は琵琶の名手でもあったのでお預かりしていた赤地の錦の袋にいれた琵琶<青山(せいざん)>を名残をおしみつつ、都に帰って来る事があればまたお預かりしますと言ってお返しした。

法親王はたいそうかわいそうに思われ歌を詠まれて一首おあたえになった。

あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

経正の返歌。

くれ竹のかけひの水はかはれども なほすみあかぬみやの中(うち)かな

この琵琶は仁明(にんみょう)天皇の御代に唐から伝えられた名器で、仁和寺の御室に伝えられたもので、経正は法親王の最愛の稚児であったので、十七歳のときこの名器を賜ったとある。

心に残るいとまごいである。

 

平家の笛

大原富枝の平家物語」を読み始めた。読みやすく、見逃していた細かいところに興味がいく。

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が大切にされていた笛のことなど。宮は<小枝(こえだ)>と<蝉折(せみおれ)>二本の笛を所持されていた。二本とも中国産の竹からできている。<小枝>は宮が御所から逃れる時忘れたのを信連が届け最後まで所持されていた。

<蝉折>は鳥羽院の時宋の皇帝から贈られたもので、蝉のような節のついた竹で作られた由緒あるもので、宮が笛の名手でいられたのでご相伝になった。宮はいまは最後と思われたので三井寺の金堂の弥勒菩薩に奉納されたとある。

よく知られているのは敦盛の<青葉>の笛であるが、「平家物語」では敦盛が熊谷次郎直実に討たれたとき身に着けていたのは<小枝(さえだ)>となっている。敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛を父経盛からやはり笛の名手であった敦盛に譲られたとある。<小枝>が(こえだ)と(さえだ)の二通りの呼び方で二本の笛があるのが面白い。

須磨寺には、敦盛卿木像(熊谷蓮生坊作)と青葉の笛が展示されていて、青葉の笛の説明がつぎのようにあった。 [ 弘法大師御入唐中 長安青龍寺に於いて天竺の竹を以ってこの笛を作り給ひ 笛を加持遊ばされしところ不思議に三本の枝葉を生す。大師帰朝の後 天皇に献上。天皇青葉の笛と命名。後 平家につたわり敦盛卿の笛の名手にて愛玩。肌身放さずもつ。] 右に青葉の笛、左に細い高麗笛があった。この笛も敦盛所持の笛なのか。

平家の公達は歌・舞・音曲・御所での儀式のしきたりを心得、さらに武芸にも優れていなければならなっかたわけで、これらすべてを兼ね備えられるとしたらスーパースターである。頼朝が鎌倉に幕府を開いた意味もそこにあるのか。

『バカのカベ~フランス風~』(加藤健一事務所)

時のながれも粋なもので、風間杜夫さんと加藤健一さん息もぴったりである。

風間杜夫、加藤健一とくれば<つかこうへい>だが、その頃は演劇雑誌か何かで「熱海殺人事件」を読んで、こんな台詞をどうやって料理して舞台に載せるのかと想像がつかなかった。舞台の汗だらけの役者さんの写真と劇評を読んでもやはり想像力はこの台詞たちを突き抜けられなかった。つかこうへいさん作・演出の初めての舞台は、「熱海殺人事件/モンテカルロ・イリュージョン」で感じはつかめたので、最初に読んだ戯曲の舞台を楽しみに待ちやっと見れた時は嬉しかった。台詞と役者の動きが突発的であるのに必然でもあるようにも思わせ、それは不合理だと思わせていつの間にか納得させられてしまうその押し寄せる波は、怖さと快感を伴っている。今度はだまされないぞと思っているのにまた裏をかかれる。世の中よく見つめなければ。

とにかく動き回りしゃべりつづけたお二人の30年ぶりの共演(競演)である。文句なく楽しい。登場人物になりきっていただければ話の展開としては笑わせてくれる話なのであるが、そう簡単なものではない。ドタバタで終わってしまう可能性もある。

ピエール(風間杜夫)は毎週火曜日、変わり者を招待し本人には気づかれないように「バカ」として仲間内で笑って楽しむという悪趣味がある。そんな事を知らず招待されたフランソワ(加藤健一)は自分の趣味のマッチで作る橋や塔の事を理解してくれる新たな友人が出来ると思い込んでいる。ピエールがぎっくり腰になってしまいフランソワと自分のマンションで待ち合わせて行こうと思っていた悪趣味のパーテーにいけなくなる。動けないピエールはやってきたフランソワに来週に延ばすことを了承してもらい、来週の為にフランソワから笑いのねたを捜しておこうとする。動けないピエールの事を思ってやるフランソワの行動は自分の思い込みを優先させ脱線し誠実でありながらどんどんピエールを窮地に追い込んでいってしまう。動けないといってもフランソワとのからみで動かざるえないピエール。つかさんが見たら30年後のおまえたちの動きにしては上出来だといいそうで可笑しい。笑い者にされかけたフランソワが引き起こす渦はあるところでキュウーと上手く治まるかに見えて・・・・

風間さんと加藤さんのそれぞれが歩まれた芝居の経験のコラボの上手さだと思う。ピエールとフランソワの人物像がしっかりしているのできちんと役の登場人物を楽しめる。そこの基本はお二人共通していると思える。どんなに笑っても観たあとで、ピエールはこんな人、フランソワはこんな人と人物像が残る。お二人気が合って楽しそうに演っておられるがそれだけの役者魂とは思われない。よく笑わせてもらいました。つまらぬ事をぐだぐだ書いて笑われているのは承知のうえである。

 

 

平家伝説と歌

平家伝説が様々のところにあるらしい。そしてそこには歌も残されている。

宮崎県の椎葉村にも平家の落人伝説がある。壇ノ浦で敗れた平家の残党が椎の里に隠れ住んでいた。残党狩りのため探索に来た源氏方の那須大八郎宗久(那須与一の弟)はこの隠れ里を見つける。しかし、慎ましく静かに暮らす落人の生活に感銘し、この地に留まる。やがて大八郎は、平清盛の末裔である鶴富姫(つるとみひめ)と恋仲となるが、鎌倉の命で帰国してしまう。鶴富姫は大八郎の子を産み、その女の子に婿をとりこの地の那須家の始祖としたとのはなしである。

民謡「ひえつき節」は大八郎と鶴富姫の悲恋を歌ったものだそうで歌詞を見ると出てくる。

庭の山椒の木 鳴る鈴かけて ヨーオーホイ (これは聞いたことがある)

おまや平家の公達ながれ~

那須の大八鶴富捨てて~

しっかりと二人のことが歌詞になっている。気にもかけずに聞いていた事になる。

宮崎県の民謡「五木の子守唄」も五木村に平家の落人伝説が語り伝えられ、落人伝説と関係があるともいわれているようである。

 

 

歌舞伎 『将軍江戸を去る』

友人がNHK「にっぽんの芸能」「歌舞伎・将軍江戸を去る」での市川海老蔵さんの声の出し方が変わったのではないかと思うが、との感想があり急いで録画を見る。この演目は澤瀉屋襲名の演目の一つである。

海老蔵さんが渋い。お腹のあたりが膨らんだりへこんだり。複式呼吸である。台詞の声の幅が豊富で安定している。声を荒げるわけではない。あれだけの呼吸の上下運動があれば声にその息の動きが響くのではと思うがいたって穏やかである。ただ慶喜に対しての場面であるから役柄として当然力の入るところであるが、力みは押さえ、慶喜を刺激し過ぎず、慶喜に<時には裸身に成りたい時も或る>と言わせるあたりの引っ張り方も、ついに慶喜が<鉄太郎を呼べ>と言わせるまでもって行く手順の運びもこの声でやるのである。こういう脇も固められるのだと歓心した。

『将軍江戸を去る』は、江戸城を渡す日、徳川慶喜が水戸に隠棲するため静かに江戸を去るまでの前日と当日のはなしである。

大政奉還も終わり、江戸城無血開城も決まり、慶喜(市川團十郎)は上野大慈院の一室に謹慎している。ところが明日水戸に退隠する予定が慶喜病気のため延期になったと聴き伊勢守(市川海老蔵)がその真意を確かめにくる。謀反を勧めるものもあり慶喜が退隠の意志を翻すのではとの心配からもう一度真意を確かめたいとするのである。同じ様に思った山岡鉄太郎(市川中車)と門前で行き会い鉄太郎を拒む彰義隊を静め同道する。

伊勢守は槍の指南役で慶喜の薩長に対する怒りを一身に引き受ける。慶喜の気持ちが解かりすぎるくらいわかるのである。そう思わせる海老蔵さんの伊勢守であった。そこに別室に控えていた鉄太郎の声が響く。水戸は幽霊勤皇だと叫んでいる。(このあたり意味不明であった)慶喜はついに我慢できなくなり鉄太郎をそばに呼ぶ。ここから鉄太郎=中車さんの見せ所である。

鉄太郎は時には慶喜を刺激し熱弁である。意味不明であった<尊王>と<勤皇>の違いもなんとなく理解できた。<頼朝以来の武士の政権を壊す><国土と民を皇室に返し徳川家は一代官となる>そこまでやらなくては徳川家の権力をまだ夢見ている人々と薩長との争いで江戸は火の海となり、罪無き江戸の民が巻き込まれてしまう。(そのように理解した)鉄太郎は二回ほど言ったと思う。自分も時の流れの中でそのことが解かったのだと。

このあたりは鉄太郎=中車さんの何とか慶喜の怒りがあらぬ方向へ行かせず決めた真意を貫かそうとする姿と襲名した一役者の一生懸命さが重なる。

印象的なのが後ろに控えている伊勢守である。鉄太郎の考えをじっと聴きつつ、そっと目線が慶喜の方に動く。その目が何とも言えない。慶喜に対する不安と慈愛と祈りが混ざりあっているように見える。そこで初めて解かる。伊勢守は自分では慶喜の気持ちが解かり過ぎ慶喜の情に負けてしまうと考え、鉄太郎なら慶喜の進むべき道を間違わせずに解き明かすであろうと考えたのだと。

鉄太郎もそのところは解かり、慶喜も二人の思いが解かったと思う。

次の朝、千住大橋で江戸の人々に見送られる。鉄太郎が<その一歩が江戸の端です>と。焼け野原の江戸ではなく、昨日と同じ江戸を残して慶喜は江戸の人々と別れをつげるのである。

山岡鉄太郎は山岡鉄舟である。あの『塩原太助一代記』を書いた圓朝と一時期住まいが近く交流もあった人である。またまたここでお会いできるとは、まだ他でもお会いしてるのです。映画「勢揃い東海道」で片岡千恵蔵さんの清水次郎長に市川右太衛門さんの山岡鉄舟。実際に繋がりがあったようで、山岡鉄舟という方はかなり広範囲の方と交流のあった方らしくその辺を考慮するなら中車さんはもっと味のある山岡鉄太郎も作りあげられるのではなどとも考えたのだが。

作・真山青果の維新三部作の三部目である。『江戸城総攻』『慶喜命乞』『将軍江戸を去る』

 

 

歌舞伎・書物混合の建礼門院周辺

歌舞伎の『建礼門院』での建礼門院徳子と右京大夫の語らいをもう一度おさらいした。右京大夫は自分が資盛の後をどうして追わなかったのか、母の病を理由にして逃れようとしたのではないか、と自分をさげすむ。それに対し建礼門院は資盛の最後の様子を語る。<資盛は美しく死んでくれました。最後と決まると都の空を眺め、右京と呼んでいるのを私に聞かれ頬を赤らめておりました。><もう一度会いたかったのであろう。>

小説を読んでいる前と後では、台詞の厚みが全然違う。

歌舞伎ではこの場に後白河法皇が御幸されるのであるが、『平家物語』の「大原御幸」には右京は登場しないし、小説「建礼門院右京大夫」では右京は大原を訪ねるが、後白河法皇が大原御幸したという記述はない。北條秀司さんの脚本は、建礼門院と右京、建礼門院と後白河法皇との対話で一層平家一門の悲哀と人間のどうすることも出来ない無常を劇的に強め救済へと導いている。

ここでもう一人<大原>で共通する登場人物がいる。大納言左局(だいなごんすけのつぼね)である。清盛の五男・重衡(しげひら)の正室で安徳帝の乳母であり、壇ノ浦で入水するが彼女も源氏の手で助けられてしまう。夫の重衡は<以仁王(もちひとおう)の乱>の時大将として鎮圧にあたり、その乱に加担した園城寺を攻め炎上させ、さらに園城寺に加担する奈良の東大寺・興福寺を攻め、奈良も炎上させ東大寺の大仏殿の二階に非難していた千余名の人を犠牲にする。

その重衡が一の谷の合戦で生け捕りにされる。彼はそこから京都、鎌倉へと送られ奈良の衆徒の要求で奈良に送られ斬首される。彼は鎌倉へ下る前、彼の希望で法然から戒律を授けられている(『平家物語』)が、実際には法然は重衡とあえるところにはいなっかたようである。(永井路子著「平家物語」)「建礼門院右京大夫」では、隆信が法然に帰依しての出家としており、どちらにせよこの時代に法然がでてきたのかと時代背景が記憶された。

『平家物語』では左局は壇ノ浦で助けられてから姉の所に同居し奈良に送られる重衡に会っている。そして打たれた首と体とを一つにして丁寧に葬っている。それを終え、建礼門院のそばで平家一門の菩提を弔うのである。そして阿波内侍と二人で建礼門院を見取られ仏事は忘れずにいとなみ、最後には二人とも、往生の素懐をとげたということである。

(歌舞伎・平成7年での大納言左局は中村歌女之丞さんが演じられていた。)

 

小説 「建礼門院右京大夫」 

建礼門院右京大夫>(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という方は、建礼門院に仕えていた女房・右京大夫の事である。建礼門院は、清盛の娘で高倉天皇の中宮・徳子、安徳天皇の母である。院号は実際に出家しなくても与えられるもののようで徳子も出家する前に院号をもらっている。建礼門院と呼ばれるようになるのは出家してからと思うが、この頃の一人の呼び名が色々かわり、主語が変わるので惑わされてしまう。だれだれの娘であったり、結婚しても夫の官職の名前に北の方とついたり、その前誰かに仕えていればご主人の名前や御殿の名前がついたり、あるいは住んでいる場所の名前がついたりと慣れるのが大変である。

<右京大夫>の名も、女房名で後ろ盾となってくれた藤原俊成のその時の官職名から付けられたものである。官職の上下もよく解からないのでこの時代の事が理解できたかどうか疑問であるが、なんとか建礼門院右京大夫の心の流れと、著者・大原富枝さんのこの小説を書かしめた心の芯となっているものは見えたように思う。

この話は、右京大夫と二人の男性との恋の話ともとれるが、そこを取り巻く世界は平家の繁栄と衰退の時間の流れと重なり、権力争い、武士と貴族、当時の男と女の関係、歌の力、自然に対する感じ方等々、豊かに織り成しているので簡単にこうでしたとは言えないのであるが、ここはここで一度整理するためにやらずばなるまい。

右京大夫は高倉天皇の中宮徳子の御所へ宮仕えしそこで、清盛の長男・重盛の次男である平資盛の思われ人となり結ばれる。右京大夫の父は名筆家の出で「源氏物語」の研究もされ、母は琴の妙手であり、彼女は文にも書にも音楽にも歌にも造詣が深った。彼女は見るもの聴くものことごとく深く感じ入り、さらに臆することなく自分の気持ちを表現できる力を持っていた。そんな彼女を思う人がもう一人いた。藤原隆信、似絵を見出した方で、神護寺の源頼朝像・平重盛像などは彼の作ではともいわれている。彼は貴族で歌も優れていて右京よりかなりの年上。世の中を斜交いに眺めている所もあり、右京は年下の未熟ではあるがどこかに武士としての定めをいつしか身に付けていた資盛に魅かれて行く。

<あなたは武士の家の子としての私を考えられたことがおありか?ないだろう?武士は宮廷の守護のためにある家柄のもの、命を受ければどちらへなりと忽ち兵を動かさなければならぬ。兵を動かしては勝つか負けるか、二つに一つ。生か死か、名誉か汚辱か、それだけだ。><祖父君は別格にお強い方だ。ときに敢えて法皇の君にさえ否とお応えなされる力がおありだ・・・> これは右京に語った資盛の言葉である。

右京は母の病気のため御所から退がる。安徳帝のお生まれの時も、その後平家一門が戦に破れ西国に落ちていく時も、外からでしか情報を得られない。そんな中、資盛は覚悟を決め、もうたよりはしない、決してあなたをおろそかに思っているわけではない。と伝える。ところが押さえがたくおのれの禁を破り文と歌が届く。このやりとりの箇所で、これはあの昭和の戦争の若者たちと同じではないかと感じた。こうやって文を交わせる者もいれば、その機会も閉ざされて死に立ち向かわなければならなかった者もあった。そんな事なども思って読み終わり作者のあとがきを読む。

<資盛の運命は第二次世界大戦に死を覚悟して出陣した学徒兵たちの心情に重なり合い、彼女の歌集は彼等に愛読されたと申します。><私自身、ある人の戦死を今も胸に刻んで生きており、これがこの作品を書くモチーフともなっています。>

清盛の直系として重盛は平家一門の統帥となるが、大納言成親が鹿ケ谷の陰謀で清盛を裏切る。重盛は成親の妹を娶り、重盛の長男維盛は成親の娘を妻としている。父重盛が亡くなる。東国の頼朝との戦で大敗する維盛。祖父清盛が亡くなり、平家一門は清盛の後添えの時子の息子宗盛たちに中心は移って行く。一族から孤立していく維盛、資盛たち兄弟。維盛が戦局から離脱し入水。右京は西山にこもりつつ資盛を思いやる。生け捕りにだけはならないことを願いつつ。ついに安徳帝も二位の尼(時子)に抱かれ入水。女院(徳子)も入水するが助けられてしまう。そして資盛も兄弟たちと共に入水したと知らされる。彼女の長い長い悲嘆の時間が続く。

大原に建礼門院を訪ねる右京大夫。訪ねるといっても正式には届け出をしなくてはならないらしく、隠れての訪れであった。平家に対してはたとえ出家し山の奥で篭っていてもうるさかったのであろう。それだけ不自由な侘しいくらしであったということか。

その後右京は後鳥羽帝の内裏に宮仕えする。これは想像であるが、右京は不自由な建礼門院のために品物を送り助けていたのではなかろうか。20年仕えるが後鳥羽院も隠岐に流されるという事となり、それを機に御所を退がる。この時代は平家滅亡という後でも何も変わらぬ御所の様子を、かつての心躍らせた時と対比し冷静にみつめている。

そして70代半ばにして、藤原定家から新しく勅選集を編むので歌を見せて欲しいと文がくる。そして名前は何としますかと尋ねられ<「建礼門院右京大夫」の方>と答えるのである。

<あの世とやらがあるものならば、そして死者に魂があるものならば、必ずや資盛の君がそこで、「建礼門院右京大夫」という名でわたくしの歌を残ることを眺め、どんなに喜んで下さることであろうか・・・・・。>

流れとしてはこんな感じであるが、定家の父・俊成と右京の母とは愛し合って子までもうけている。それを年下の右京の父が思い入れ右京の母と結ばれるのである。そして生まれたのが右京。その俊成の後添えに入った方の連れ子が隆信である。隆信は右京の母を理想の女性と見ているところもあり、なかなか趣がある愛の形も描かれていて一筋縄ではいかない。

右京が身近に言葉を交わし、歌を差し上げたり、合奏を楽しんだり、舞を見たりし楽しませてくれた平家一門の美しき公達の変わりようは貴族ではなく武士であったという事である。一人一人のしぐさ、口ぶり、冷やかしなど浮かんでくる細かなことから平安から鎌倉への大きな世の中の流れまで喜怒哀楽すべてを歌で表現したのが建礼門院右京大夫なのである。

としたり顔で締めくくろうとしているが、<歌>難しい。小説の流れの中でなんとか汲み取った気にしているが指と指の隙間から逃げていくような感覚である。こちらが先に逃げる事とする。

 

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (夜の部)

熊谷陣屋』。これは今迷走なのである。観る前に、永井路子さんが平家物語を旅した著「平家物語」を読み始めたら序から<『平家物語』は史実を必ずしもそのまま伝えていない>とあり、例として<熊谷直実が一の谷の合戦で平家の公達、敦盛をわが手にかけたことから世の無常を感じ、これが出家の契機となった、というのだが、事実はまったく違う。>とある。

『平家物語』は琵琶法師に語られていくうちに多少変わっていったであろう。『平家物語』で清盛が白河院の皇子であるらしという事も清盛が死んでから、巻の六「祇園女御」で出てくる。「大原御幸」も清盛と後白河法皇の双方の権力争いから考えると有り得ないのではと思ってしまう。《物語》であるからそれはそれとして楽しめばよいとするが、かなり動揺。歌舞伎の『熊谷陣屋』自体が『平家物語』から自立している話で、熊谷は敦盛を助け、自分の子小次郎を犠牲にし、小次郎の菩提を弔うために出家するのであるから、それを組み立てた作者も凄いものである。それだけに観ている内にまたまた混乱。

弥陀六という石屋がいる。実は平家の武将宗清で台詞を聞いていると重盛(清盛の長男)に使えていたようで、重盛に平家一門の菩提を弔う使命を受けさらに重盛の娘小雪をたくされている。あれ、 宗清は頼盛(清盛の弟)に仕えていたのでは。宗清は頼朝を捕らえるが頼盛の母池禅尼の嘆願で頼朝は命を助けられるのである。池禅尼は清盛の継母である。

歌舞伎では、義経はこの宗清の育てている娘小雪への土産として敦盛が潜んでいる鎧櫃を宗清に託すのである。

そもそも歌舞伎では義経は後白河院の落胤敦盛を小次郎を身代わりにして助けるべしとの暗号を出す。それが<一枝を切らば一指を切れ>の制札。熊谷はその暗号を正しく読んだかどうか義経に小次郎の首を差し出し確かめる。小次郎の首を義経は敦盛の首に相違ないと答え熊谷は主君の意を正しく理解した事に安堵する。一方熊谷の妻相模は敦盛が討ち死にしていると思い敦盛の母藤の方を慰めていたが、敦盛と思っていたのが自分の子小次郎と知り動揺する。ここで周囲に小次郎の首と疑われてはならないので熊谷は、相模と藤の方の動揺をしずめる。相模はそれを察しつつ母としての悲嘆を押し殺しつつ熊谷と藤の方と観客に伝える。

それを受けつつ熊谷は出家を決意している。平家の宗清に敦盛を託する事を確認し役目も終わったと旅だつのである。

歌舞伎と書いたがもとは浄瑠璃の義太夫狂言である。色々錯綜したがこうするならこういう人物関係でと話の筋は上手く整えている。それだけに役者の力量が問われるのである。熊谷の松緑さん、よく頑張られた。台詞がよく聞き取れた。まずはそれだけでもあっぱれである。色々な思いで気もせくであろうがよく押さえられ一つ一つなぞられていた。周りもご自分の演技で受けられ魁春さんの相模は出の大きさから次第に悲しみに移行し良かった。

『平家物語』とのコラボだったが、書き終わってみるとしっかり義太夫狂言の中にいる。次の『汐汲』も須磨で、須磨寺と須磨の浜辺を思い出している。

熊谷直実(尾上松緑)・弥陀六(市川左團次)・相模(中村魁春)・藤の方(片岡秀太郎)・義経(中村梅玉)

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (昼の部)

片岡仁左衛門さんが体調不良のため休演である。一番ご本人が気にかけておられると思うが体を労わり大事にされて欲しい。

双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』。今回は「井筒屋」が東京では戦後初めての上演との事。「難波裏」も見ていないのでこの二場面をみてからの「引窓」の台詞がよく理解できる。南与兵衛(なんよへえ)の女房お早(もと遊女都)が姑のお幸から、<ここは廓ではないのだから>とその振る舞いを注意される。そこでお早は遊女だったのだとわかる。与兵衛の家に関取の濡髪長五郎(ぬれがみのちょうごろう)が訪ねてくる。この時お早と長五郎が廓で知っている仲だということがわかる。長五郎は恩のある息子のために人を殺め母親に暇乞いにきたのである。そこでお早はお幸が与兵衛の父の後妻となり、与兵衛は義理の子で長五郎は実の子である事もわかる。

また、長五郎が<同じ人を殺めても運の良いのとそうでないのとがある>と呟くが、これは与兵衛も人を殺めているのであるが、都(お早)の機転から救われるのである。その辺りの事が「井筒屋」と「難波裏」を見ていると納得できるのである。「引窓」だけでもお幸・お早・長五郎・与兵衛の四人の情愛の絡みは解かるがところどころの台詞がやはり鮮明になる。

運の良さから武士に取り立てられながらそれを捨てる人、それを喜びながら苦悩する人、そうさせては義理が立たぬと考える人、間に入って気遣う人それらを引き窓を開けたり閉めたりする事によって明暗を表現する。ベテランならではの舞台であった。

お幸(坂東竹三郎)お早(中村時蔵)長五郎(市川左團次)与兵衛(中村梅玉)

人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』。円朝さんの噺。本所の長屋に住む、娘が親のために吉原へ身を売ろうとして貸してもらえた金50両を50両取られて身投げしようとした男に、借りた50両を渡してしまう左官屋長兵衛さんの噺。

娘のお久役が清元延寿太夫さんの息子さんで役者になった尾上右近さん。好演である。右近さんが本名岡本研祐さんで舞台に立った舞踊『舞鶴雪月花(ぶがくせつげっか)』は忘れられない舞台である。右近さんが可愛らしく評判になった。三つの踊りからなり、「さくら」が坂東玉三郎さん・「松虫」の親が勘九郎(現勘三郎)さん、子供が七之助さんと研祐さん・「雪達磨」が富十郎さんでそれぞれ味わいのある舞台だった。もう一度見たいので配役を考えた。「さくら」(七之助)・「松虫」(勘九郎・鷹之資・七緒八)・「雪達磨」(勘三郎)。

『文七元結』にもどって、長兵衛と藤助のやりとりが楽しい。長兵衛の性格を知りつつ上手くあしらう客商売の技が藤助から読み取れる。大川端での長兵衛と文七はそれぞれの性格が現れている。その場になると人の意見は消えて自分の感情を優先させる長兵衛。しっかり者ゆえに自分の落ち度に気がつかず突き進む文七。こうなればこうなってこうなるとその場が上手くいけばよいのとこうなれば周囲がどうなるかを考える違い。それゆえ文七は新たな商売方法を考え出す。その辺の違いがよく出ていた。菊之助さんすっきりといい形である。

左官屋長兵衛(尾上菊五郎)・文七(尾上菊之助)・藤助(市川團蔵)