加藤健一事務所 『滝沢家の内乱』

『滝沢家の内乱』は再演である。2011年に加藤健一さんが劇団で100本目のプロデュース作品として選んだ作品である。『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴家の内幕である。

劇作家の吉永仁郎さんが、馬琴さんの残っている日記を探り、文字の演劇の馬琴像を作り上げた。あの『南総里見八犬伝』を書いた戯作者がどんな生活をしていたのか興味があるが、自分で日記を読んで馬琴像を作り上げる努力をする気がないので、吉永仁郎さんとカトケンワールドに任せることとする。

これが、面白かった。よく<面白かった>という言葉を使うと自分で自覚しているが、先ずは何かを食して「美味しかった。ご馳走様でした。」の感覚である。それから、味わいがあれば、何か言葉が生まれて来るであろう。

登場人物は、馬琴と、息子の嫁のお路である。初演も再演も、馬琴は加藤健一さんで、お路は加藤忍さんである。滝沢家の家族構成は、馬琴、妻のお百、息子の宗伯、嫁のお路、その後孫が二人と増える。お百は、高畑淳子さんが、宗伯は風間杜夫さんが声だけでの出演である。基本的に二人芝居であるが、声の出演の応援もあって、『滝沢家の内乱』がよくわかる。お百は神経の病気で宗伯も身体が弱く明るさの微塵もない家庭である。さらに暮らしは慎ましく、観ていると逃げ出したくなる状態である。

お路は二人の子を産み、筆記など出来ないほど目の不自由な馬琴に代わって口述筆記の代筆をして、『南総里見八犬伝』を完結させるのである。それが、7か月半の間で、漢字の書けないお路は漢字を馬琴から習いつつ書き上げるのである。初演のパンフレットに、代筆を始めたころの文字と八犬伝脱稿の文字の写真が載っていたが、信じられないほど美しい文字となっている。

再演のほうが、笑いが多くなった。なぜか。馬琴とお路の生き方のすれ違いである。それが顕著になり可笑しさを誘うのである。お路は、家族皆で話しを楽しむ家庭で育ち、『南総里見八犬伝』の作家の家に嫁にこれて、楽しい話しが沢山あるであろうと思ったのに、想像外のしつけに厳しく、倹約、節約の家である。お路の驚きと落胆、馬琴のお路に対する驚きと教育が、他人ごとなので可笑しい。お路の加藤忍さんが、どうすりゃいいのよこの私、バージョンである。

それに輪をかけて、声の出演だと思って勝手なこと言わないでよの高畑さんと風間さん。馬琴の加藤健一さんは屋根の上でしばし、現実を忘れるしかないのである。

お路さん次第に馬琴さんが、一人で滝沢家を守っていることが分って来る。世間で本が人気でも、その頃の戯作者の手にするお金は、今の流行作家の足元にも及ばない。さらに、滝沢家の内乱は、馬琴さんが戯作を書きたいう願望と息子を自分の思う方向に育てたいとの願望から生じた亀裂なのであるが、それは口にせず、お路さんは自分の役目を自覚する。そして、一度だけ、渡辺崋山が幕府からお咎めを受けた時、自分の気持ちを主張する。魅力的な女性である。馬琴さんが、ちょっと夢をみるのもわかる。

最期のお路さんの活躍は『南総里見八犬伝』の代筆である。お路さんが、滝沢家で我慢出来たのは、お路さんが『南総里見八犬伝』の読者であり、現実から逃避できたのは、『南総里見八犬伝』があったからで、漢字を知らないお路さんが代筆ができたのは、登場人物らがお路さんの中に生きていて、その名前などが漢字となる事に、お路さんは喜びを感じていたのであろう。ふりがなで読んでいたものが、自分で漢字を書くことが出来、登場人物との関係に新たな光がさし、読者として一番に八犬伝の先がわかるのである。これこそ、『南総里見八犬伝』の戯作者の家に嫁に来た時の自分の気持ちになれるのである。

演出の髙瀨久男さんがお亡くなりになられ、加藤健一さんが今回演出をされたようであるが、髙瀨さんの演出されたものに、二人の役者さんのさらなる演技が加味され、滝沢家の内乱は、より明確に個々を確立してくれた。偏屈であったと言われる馬琴さんも<馬琴の事情>として加藤健一さんの馬琴はよく判ったし、加藤忍さんのお路も大戯作者馬琴に負けないだけの生き方を示してくれた。『滝沢家の内乱』も<忠・孝・悌・仁・義・礼・智・信>をもって納まったわけである。

下北沢・本多劇場 8月26日~30日

滝沢馬琴さんは、江戸時代で亡くなられている。今、河竹黙阿弥さんと三遊亭圓朝さんが、江戸から明治を超えて生きたことに興味がある。

そして、やっと山田風太郎さんの『忍法八犬伝』に入れる。『滝沢家の内乱』を観てからと思っていた。山田風太郎さんのことである、滝沢馬琴さんもびっくりの世界であろう。

 

 

『春琴抄』

NHKBSプレミアムの『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』で、作家の島田雅彦さんが、佐助が眼に縫い針を刺す箇所の文章に言及されていた。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程度這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのがわかった出血も発熱もなかった痛みも殆ど感じなかった此れは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起こしたものと察せられる

 

島田雅彦さんは、金目鯛の目で試されたそうで、谷崎さんも試したのではと言われていた。そのことで面白い文を見つけた。

佐藤春夫さんは『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』という文章の中で『春琴抄』を作品として高く評価している。そして、徳田秋声さんのこの佐助の失明の部分が不用意で痛くない訳がないとの意見に対し、佐藤春夫さんは専門家の意見を聞き、医学的には間違っていないらしいとしている。

さらに佐藤春夫さんは、谷崎潤一郎さん本人に尋ねている。「谷崎は自信に充ちた顔つきで、僕は専門家をそれも二人まで意見を微して安心して書いているのだからね」と書いている。

これらは失明の描写の問題であるが、作品の中での佐助の失明について、佐藤春夫さんは失明以後を好むとし、かれの小説は佐助の失明によって始まるとし「春琴抄」は寧ろ「佐助抄」であろうとしている。

佐藤春夫さんはさらに谷崎潤一郎さんに意見を言う。「作中の春琴の小鳥道楽の部分は甚だ手薄で間に合せな素人くさいものに見えたと言ってみると、すぐ兜を脱いで、あれはあんなに詳しく書かないですませて置けばよかったのに、とあっけなく承認してしまった。」谷崎さんは佐藤さんの自分の作品に対する意見を素直に認めているところに、佐藤さんと谷崎さんの関係が垣間見えて面白い。

谷崎夫人だった千代子さんが谷崎さんと離婚して佐藤さんと結婚したのが昭和5年(1930年)、谷崎さんが丁未子(とみこ)さんと再婚したのが、昭和6年(1931年)、『春琴抄』が発表されたのが昭和8年(1933年)、谷崎さんが丁未子さんと離婚して後の松子夫人と同棲したのが昭和9年(1943年)である。

佐藤春夫さんの『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』が書かれたのが昭和9年(1943年)であるから、佐藤さんと谷崎さんの関係は良好で、佐藤さんにが谷崎文学を好意的に論じるだけのゆとりがあり、谷崎さんも佐藤さんからの意見を素直に受け入れる創作上の環境が出来たということである。

松子さんに対する谷崎さんの手紙は『春琴抄』の佐助である。佐藤さんが『春琴抄』は「佐助抄」であると言われた意見に賛成である。失明することによって佐助は、自分の中に永遠の<春琴>を完成させる。肉体関係にありながら最後まで師と弟子という関係を保つ。それは、失明しても<春琴>は永遠であり、失明することによってさらに研ぎ澄まされた<春琴>から学んだ<音>は常に自分の手の中にあり、再現できるのである。

佐助は春琴が亡くなってから21年後の同じ日に亡くなっている。この21年間のために<春琴>は存在してたともいえる。<春琴>も自分が亡き後、<佐助>のなかで生きる自分の存在を、佐助が失明した時悟ったのであろう。佐助が失明したのを春琴が知った箇所が次の文である。

佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生まれてから後にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた

 

その後に例えとして、失明した悪七兵衛景清のことを書き足している。

佐助は、春琴に滅私奉公するが、きちんと検校となるだけの技量も会得している。現実離れしているが、きちんと土台も出来ていて、滅私奉公も耽美に描かれ、この辺りは谷崎さんの狡猾に構築された構成力と物語性である。

佐藤さんは、『春琴抄』に対する泉鏡花さんの受け取り方も書かれている。

「鏡花先生はめくらの女の琴の話の出るのは朝顔日記以来閉口(何でも少年時代にでもへたな村芝居か何かでいやな印象を得てしまったらしいので)で、好きな作者のもので少しでもいやな気がするのは不本意で読了せぬと理由は先生らしい特別なもので」「好きな作者のものでいやな気がしたくないというのは尤も千万な心理と僕にもうなずける。」

『春琴抄』から、作家達の感想、谷崎作品の分析、谷崎さんとの直接の会話など、作家佐藤春夫さんならではの文であった。この佐藤さんの文があるから、折り畳まれた『春琴抄』を開いてみたが、不用意な開きかたでありながら、手を離せば何もせずとも元の『春琴抄』にもどる力がある作品なので、安心して遊ばせて貰った。

 

 

歌舞伎座 八月 『京人形』『芋掘長者』『祇園恋づくし』

『京人形』はかつて観たとき、面白い作品とは思えなかったが、今回は面白かった。その第一の要因は、七之助さんの人形である。左甚五郎(勘九郎)が廓で見た太夫が忘れられず自分で太夫の人形を彫ってしまうのである。そして出来上がった人形を前に、本物の太夫と逢っている気分を味わうのであるが、この時は女房(新悟)も気をきかしてお酒を用意して人形と夫だけにしてやるのである。

人形の箱を開けると太夫の人形が現れる。この場面の人形(七之助)がいい。箱から出しこれからお座敷遊びと甚五郎はわくわくである。ところが、さらに嬉しいことにこの人形が動くのである。甚五郎が彫った人形なので、動きが男の動きである。そこで、廓で拾った太夫の鏡を人形の懐に入れると太夫の動きになり、甚五郎は太夫との逢瀬を愉しむのである。この、人形の動きの変化が、人形の基本を保ちつつ甚五郎と共に観客をも楽しませてくれる。

もう一つの話しが隠れていて、甚五郎は元ご主人の妹(鶴松)を匿っていて立ち回りとなる。この立ち回り、甚五郎は右手を切られ左手での大工道具を使っての動きとなる。左甚五郎にかけた立ち回りで、勘九郎さん爽やかにきめた。

『芋掘長者』。十世三津五郎さんが、45年ぶりに復活させた演目で、これから再演されて深めてゆく作品であった。この作品、再び一に戻っての形となった。踊りの腕の見せ合いという作品で、そこの部分が難しい作品である。芋掘りを踊りを加えることにより笑いとなるのであるが、踊りの上手さの落差も出さなくてはならない作品で難易度の高い作品と思う。芋掘り(橋之助)がお姫様(七之助)を好きになり、姫の婿選びの舞いの会に、踊りの上手い友人(巳之助)にお面を付けさせ代わりに舞わせ上手くいくが、もう一舞い所望されて芋掘り踊りを踊り、その面白さに姫に気に入られるのである。橋之助さんと巳之助さんのコンビ、味は薄いが爽やかであった。

『祇園恋づくし』は、上方と江戸の文化や人柄の違いのぶつかりあいが如実に現れる作品で、言葉、仕草、間などの相違が面白、可笑しく演じられた。

江戸っ子の代表が勘九郎さんで、上方が扇雀さん。扇雀さんは、茶道具屋の主人と女房の二役でこれが上方の男と女をもきちんと見せてくれて二役の効果が上手くいった。勘九郎さんも上方で一人で江戸っ子奮闘記で頑張り、その頑張りもウケる。その間に入って、お嬢さんと駆け落ちしようとする手代の巳之助さんが、あんたは何なのと思わせる弱者の自己主張が笑わせる。歴代三津五郎路線にはない空気である。

この作品は、勘三郎さんと藤十郎さんに当てて作られた作品らしいが、新たな違う面白さを出したのではなかろうか。

場所が京の三条で、時間が祇園祭りの時期で山鉾当日の床でのやり取りもある。祇園祭りはよくしらないが、色々な行事が一か月あるのだそうで、こちらは、中村錦之助さん(萬屋錦之助)の制作した映画『祇園祭』を是非観たいと思っている。年に一回京都の京都文化博物館のフイルムシアターでだけで上映されるのであるが、なかなか日にちが合わない。ここのシアターは、かなり以前から京都に行って予定の無い夜利用させてもらっている。

京茶道具屋の次郎八(扇雀)は江戸でお世話になった息子の留五郎(勘九郎)が伊勢参りに来たおり京に寄るよう誘い、留五郎は次郎八宅に世話になる。祇園祭とあって次郎八は忙し忙しいと言って出歩いている。お祭りだけではなく、芸妓染香(七之助)に逢うのがお目当てなのであるが、染香は渋ちんの次郎八を上手くあしらい他に旦那がいるのである。お茶屋の女将(高麗蔵)の雰囲気もいい。

次郎八の女房おつぎ(扇雀)の妹おその(鶴松)は手代の文七と恋仲であるが許されずひょんなことから、留五郎は若い二人の肩を持ち、おつぎに染香のことを、教えてしまう。それを知った次郎八と留五郎は犬猿のなかとなり上方と江戸の自慢とけなし合いとなり、祇園囃子と江戸の祭り囃子の競争になったりもする。

ちとら江戸っ子が、祭りを一か月も悠長にやってられるか。何んといっても祇園囃子どす。コンチキチン・・・。てやんで。テンテンテレツク・・・。

間のいい丁稚や、江戸っ子が嫌いな女中なども配置され緩急自在な上方と江戸のリズム感や言い回しの違いが楽しめる。夏の夜、お江戸の芝居小屋に京の鴨川の風が渡る。

仁左衛門さんが重要無形文化財保持者(人間国宝)となられ、より一層、上方の芸が若い役者さんに伝わり、江戸と上方の歌舞伎のそれぞれの面白さが浸透することであろう。

八月納涼歌舞伎に出演できることは、若手の役者さんにとっても、良い汗をかく価値ある機会である。

 

歌舞伎座 八月 『おちくぼ物語』『棒しばり』『ひらかな盛衰記ー逆櫓』

八月納涼歌舞伎である。三部構成で、『ひらかな盛衰記ー逆櫓』以外は、踊りと新作歌舞伎で気楽に観れる演目である。八月の若手での納涼歌舞伎に尽力された十世坂東三津五郎さんに捧げる演目も二つある。子息の巳之助さんが参加されているが、面白いことに、巳之助さんは歴代の三津五郎路線と違う味わいの役者さんで、これからどのように成長されていくのか楽しみなところである。

『おちくぼ物語』は、シンデレラストーリーで、落ち窪んだ場所に暮らしているので、おちくぼの君(七之助)と呼ばれている。侍女の阿漕(あこぎ・新悟)とその夫帯刀(たてわき・巳之助)が味方で、帯刀は貴公子の左近少将(隼人)とおちくぼの間を取り持つ。ところが、継母(高麗蔵)は自分の娘に左近少将をと考えている。それを知ったおちくぼは落胆するが、左近少将は計略を考え、鼻の大きな兵部少輔(宗之助)を娘のところへ行かせ、目出度くおちくぼと夫婦となる。

左近少将の隼人さんが、美しい貴公子を作りあげた。おちくぼの本来の性格をきちんと解かっているのだが、その包容力までは出せなかった。七之助さんのおちくぼは、押し込められた本心をちらりと見せ、お酒に酔って変貌するあたりも上手く演じ分けた。帯刀の巳之助さんもひたすら二人のために尽くす誠実さを見せた。父役の彌十郎さんさんが頼りなく、それでいて最後に鷹揚に二人を祝福して大きさを出す。継母の高麗蔵さんグループがもう少し丁寧にいじめの演じ方を工夫すると芝居に厚みが加わると思うのだが。夢ものがたりの美しさが見せどころともいえる。

『棒しばり』(十世三津五郎に捧ぐ)は楽しい踊りである。勘三郎さんと三津五郎さんの時は、結構力を入れて観ていたが、勘九郎さんと巳之助さんのは、楽しんで気楽に観られた。良いとか悪いとかいうことではなく、ここがどうでこうでとか考えずに観れたのである。棒に手をしばられても、後ろ手にしばられてもなんのその。お酒の好きな困った次郎冠者と太郎冠者である。

『ひらかな盛衰記ー逆櫓』。橋之助さんがしっか演じられるであろうと想像していたが、その通りになった。すっきりとして芯のある松右衛門、実は木曽義仲の家臣・樋口次郎兼光であった。樋口は漁師の権四郎(彌十郎)の娘・およし(児太郎)の婿として入り、逆櫓という櫓の使い方を習得する。梶原景時にその技量が買われ、義経の船頭を仰せつかる。その様子を義父と女房に話す時の松右衛門の自慢げなのも良い。

漁師・権四郎の家にはもう一つ事件が起こっている。およしの息子の槌松(つちまつ)が三井寺参詣のおり、大津の宿で取込みがあり、他の児と取り違えとなりその子を連れて帰り、その子の親が槌松を連れて来てくれるのを待っているのである。

実は連れてきた子供は、木曽義仲の遺児・駒若丸であった。訪ねて来た腰元のお筆(扇雀)は、そのことを告げ、槌松に早く逢いたいと思っている権四郎とおよしに残酷にも、槌松は駒若丸の身代わりとなって殺されたと伝える。権四郎は嘆き怒るのである。ここは、映画『そして父になる』を観ていたので、取り変えられたその後の深刻な問題も、二人が生きているということで生じるが、どちらかが亡くなっているとするなら、その嘆きはこの権四郎やおよしのような立場で、権四郎の彌十郎さんの怒りが響く。

義仲の家臣である松右衛門は、自分の素性を明かす。現代の感覚からすれば理不尽であるゆえ、ここでの樋口の大きさが物をいう。権四郎に駒若丸の前で頭が高いと言って頭を下げさせるのである。権四郎も婿の主君とあれば納得しないわけにはいかないのである。この場面の橋之助さんはしっかりと抑えた。

ことの次第がはっきりすると、駒若丸を助けるため権四郎は畠山重忠に樋口を訴人する。樋口と他の船頭たちとの立ち廻りも形よく決まる。権四郎は、駒若丸を槌松とし、樋口とは何の係りもない子供であることを強調する。権四郎が、駒若丸の命を守ろうとしているのを知った樋口は、おとなしく重忠(勘九郎)の縄にかかるのである。

『そして父になる』の映画の影響もあるが、それぞれの立場の役者さん達のしっかりした役の押さえどころによって、時代物に血が通って観れた。

時代物でも、武士と庶民の悲哀が重なる物もあるが、『逆櫓』もその一つである。その二重性をしっかり映し出してくれた。

映画『父ありき』

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

旧東海道歩きの<箱根湯本>から<畑宿>まで歩きバスで元箱根の芦ノ湖前にきて湖を見つつ食事して、前から気になっていた<曽我兄弟の墓>に行くことにしたのである。映画では芦ノ湖の先に富士山がくっきり見えるが残念ながら霞んでいる。<六道地蔵停留所>で降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われたらしい。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしいが、違いなど判らずに歩いてしまった。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

映画『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』

岩波ホールの企画『戦争レクイエム』<戦後70年特別企画 黒木和雄監督4作品+α>のおかげで、観ていなかった『TOMOURROW/明日』と『美しい夏キリシマ』を観ることが出来た。

『紙屋悦子の青春』を観たあとに、『私の戦争』(黒木和雄著)を読んだが上手く頭に入りきらない部分があったが、『TOMOURROW/明日』、『美しいキリシマ』、『父と暮らせば』を観てから読み返すと岩波ジュニア新書版ということもあって、映像と監督の思いが重なって嬉しいほど想像力が加速する。

『TOMOURROW/明日』(1988年)は長崎に原爆か投下された1945年8月9日午前11時12分の24時間前の結婚式に出席した人々の日常が描かれ、その24時間と同時にそこまでつながっていた人々の命が一瞬にして、この世から消えてしまったということである。それぞれの生きてきた道が、光と共に消失してしまう。結婚し、これから、お互いの気持ちが解かり合えると予感させる新婚夫婦。8月9日にやっとこの世に誕生した小さな生命。まだ誕生していないが、そのことを相手に伝えられない女性。毎日、路面電車の運転手の夫にお弁当を届ける妻。赤紙の来た恋人同士。捕虜収容所に勤務する青年。結婚式の写真を撮った花婿のもと父親。その写真に写された人々が写真と共に消えてしまう。長崎弁が、日本という国にそれぞれ存在している生活のなかの言語を主張する。

この写真に写っていた人々を代表者として、生きていた証として黒木監督は映画を撮られたのであろう。物言わぬ人々への鎮魂の一つの形であり、それを観たことによって、鎮魂の一つとして隅のほうに位置できればよいのであるが。

「1945年7月16日、人類史上最初のプラト二ウム爆弾の実験がアメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で行われたました。7月23日には、広島、小倉(現北九州市)、新潟の順で攻撃目標が選定され、準備が整い次第、気象条件さえ許せば、8月1日以降いつでも攻撃できるということになったのです。」

4番目として京都が候補にあがるが古都ということで、軍需産業の街長崎となる。その日、第1目標が小倉、第2目標が長崎。小倉上空は断続的に雲でおおわれ、2日前の八幡製鉄所を爆撃した硝煙がながれ目視爆撃ができなかった。目標を長崎にかえる。雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所をとらえ投下。長崎には、連合軍捕虜が500人収容されていた。アメリカはそれも承知していた。(『私の戦争』より)

 

原作・井上光晴(「明日ー1945年8月8日・長崎」)/監督・黒木和雄/脚本・黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎/撮影・鈴木達雄/音楽・村松禎三/出演・桃井かおり、南果歩、仙道敦子、大熊敏志、黒田アーサー、佐野史郎、岡野進一郎、長門裕之、殿山泰司、草野大悟、絵沢馬萌子、水島かおり、森永ひとみ、伊佐山ひろ子、なべおさみ、入江若葉、横山道代、馬淵晴子、原田芳雄、二木てるみ、田中邦衛、賀原夏子、荒木道子

 

『美しい夏キリシマ』(2002年)。題名のようにキリシマの自然は美しい。しかし、霧島連山が邪魔をして沖縄を隠しているとして、孤児になった沖縄の少女は引き取られた遠い親戚の屋根に登って、霧島連山の見えない先を見ようとしている。

この作品は黒木和雄監督の自伝のような映画でもある。黒木監督は満州国からの引き上げ者で、満州国という日本の後押しで作られた国を子供の目から実際に見ている。日本へ帰ってから、登校拒否児の形となり映画ばかり観て、家族と別れ、宮崎県えびの市の祖父母のもとで生活する。国民勤労動員令により、都城市の航空機の工場に動員され寮生活を送る。1945年5月8日米軍機の爆撃で級友が11人なくなってしまう。その時、友人を救うことをしないで逃げてしまった。

「頭が、ざっくりと真ん中割れて、脳漿があふれてくる瞬間を見たような気がします。両手を私のほうにさしのべて、「たすけてくれ・・・・」というようなしぐさをします。眼は空をみつめて放心して・・・・。ただただ恐怖のあまり、私は立ち上がるやいなや、後ずさりすると、そのまま夢中で走り出しました。」

この後この中学生は、学校にいくことができず、いまでいえば、PTSD(心的外傷ストレス)で医師の診断は肺浸潤ということで、家でぶらぶらすることとなる。祖父が、地主で女中さんがいるような、中学生にとっては違和感のある家であった。

この、ぶらぶらした中学生が見た終戦までの自分の周辺の人々の「美しい夏キリシマ」の生活である。どう生きればよいかわからない中学生の主人公を、柄本佑さんが、演技しているのかしていないのか、主人公そのままの中学生として、映像の中に存在している。助けなかった級友の妹が、屋根の上の少女で、彼女にどうしたら兄を見捨てた自分を許してくれるか尋ねると、妹は「敵をとって」という。主人公は、敗戦となり、ジープとともにゆっくり美しい村の道を歩く米兵に竹槍で一人突き進むのであるが、相手にされず道路から下に転がされてしまい笑われてしまう。主人公は叫ぶ「殺せ」と。米兵は、ライフルを上に向けて撃つ。その時、主人公に見えていた蝶が撃ち殺されてしまう。

霧島連山を望む田の稲は青々と優しく風になびいている。

この村にも敗戦までの夏、生きるために人々には様々なことがある。自分自身さえ支えられない主人公は、キリストの絵を自分の部屋に張り、回答を求めているようでもあるが、人の質問にも、そうとは思わないという能動的な回答しかできない。現実の捉え方ができないので、憲兵にも、解からなとしか答えられず鉄拳をうける。主人公だけでなく大人もどう捉えたらよいのかわからない状態だったのである。

 

監督・黒木和雄/松田正隆、黒木和雄/撮影・田村正毅/音楽・松村禎三/出演・江本佑、原田芳雄、左時枝、牧瀬里穂、宮下順子、平岩紙、石田えり、小田エリカ、倉貫匡広、中島ひろ子、寺島進、入江若葉、香川照之

 

黒木監督はドキュメンタリーやPR映画を撮っていて、劇映画の撮影所には入ったことがない 。

「ああ、劇映画というのは誰でも撮れるのだ。文法というのはあまり必要ないのだ。多くの映画を観て、自分が撮りたいものを撮ろうとすれば劇映画はなんとか、できあがるものだ。何も撮影所にはいって巨匠について学ばなくても、劇映画のイロハ、ABCを現場で覚えなくても映画館こそが学校ではなかったのか」

そう思わせたのが、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』である。映画監督となった黒木監督は自分の仕事で亡くなった級友たちの代弁をされ、生き残った者と戦争の犠牲となって亡くなられた人々との交信を映画という媒介を通して教えてくれている。

さらに黒木監督には、撮りたいものがあった。

「じつは私は25年以前から、28歳10カ月戦病死した天才映画山中貞雄を主人公にし、山中の戦友で脚本家の三村伸太郎との友情と確執を描いた企画をあたため続けています。」

残念ながら撮る時間が黒木監督には残されていなかった。

『僕のいる街』は、1989年に撮られた短編である。銀座の空襲で一人だけ亡くなった泰明小学校の少年が、幽霊として現れ、戦争をはさんでの前、中、後、現代の銀座の路地などを歩き走り周るのである。映像と写真の中を。銀座という街が通過した時間がわかる。

長野の棚田、姨捨(おばすて)に行ってきた。青々とした田が観たかったのである。太陽の日を受けて緑が美しかった。美しさと暑さが比例していた。この青さを眼にしたかったのだから仕方がないが、暑さのため棚田は一時間弱しか歩けなかった。映画のキリシマの稲と信州の稲の色が重なる。

 

 

『画鬼暁斎展』幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドルと絵の師である河鍋暁斎のジョイント展覧会である。開催されている<三菱一号館美術館>はコンドルの設計したときの建物の解体後に再建されたレプリカである。

展覧会には、鹿鳴館の階段の一部が切り取られた形で展示されており、暁斎の<河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」パリ劇場表掛りの場>の行灯絵があり、明治の一部分も見せてくれる。

河鍋暁斎さんのこと、そして、ジョサイア・コンドルさんとの関係を知ったのは  河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)  からである。

そのあと、埼玉県蕨市にある『河鍋暁斎美術館』も訪ねた。今回の展覧会は、師弟二人の作品が観れるわけである。

コンドルさんは建築家でもあるので設計された図もあるが、こちらの興味は絵と、日本舞踊家であった奥さんと踊られた時の『京人形』の時の写真などである。京人形の扮装のくめさんの指に三つほど指輪をしているのが面白い。コンドルさんも彫り師の扮装である。『鯉の図』の鯉の目を見て、金目鯛の目を思い出す。これは、谷崎潤一郎さんの『春琴抄』のことに関係するのであるが、後日書くこととする。暁斎さんの<鯉>の絵は口を開けていてその口の強調と詳細さ、水を動かして泳ぐ律動感ある水面の描き方などに惹きつけられるが、コンドルさんは、穏やかな絵である。

暁斎さんと旅を共にし師の絵を描く姿を描かれているが、絵も描書き方もスケッチということもあるのか、絵の中の暁斎さんも力の抜かれたもので、狂画師の趣きはない。

暁斎さんのほうは、才能のほとばしりが感じられ、展覧会での解説でもかつては評価が難しかったとある。美人画なら、美しく描けばそれで評価の高い作品となる腕があるし、そうした作品もある。ところが、それだけでは暁斎さんはあきたらない。美人の眺める先には沢山のカエルが描かれていたり、美人のそばに飾りものではない動物の姿が加わっていたりする。美しい太夫も『閻魔と地太夫図』となる。

鳥花図や自然の中の動物も、生きて行くための狩りや弱肉強食の世界がある。花が美しく咲き、うさぎがそれを愛でていると思ったらその下には蛇が頭を持ち上げて待ち構えている。鷲がゆうゆうとその雄姿を誇っていると思うと、その下では、猿が頭を抱えて震えている。赤い柿を狙う鴉。蛙を口に咥える猫。戸隠神社の中社の帰りに出会ったという生首を加えた狼の絵。

そうかと思うと、楽しい鳥獣戯画的作品がある。『風流蛙大合戦之図』『猪に乘る蛙』など。

さらに、『鷹匠と富士図』は、鷹を手に、富士を眺めている穏やかな鷹匠の後姿。子供が盥に入れた金魚と遊びその後ろで木に縛られた亀が何んとかして逃れようとしている絵。あらゆる感情を喚起してくれる絵の数々である。

コンドルさんは、噺家の圓朝さんの落語を書き起こしていたが、暁斎さんの幽霊の絵は『牡丹灯籠』の新三郎にまとわりつく幽霊のお露さんを見たという伴蔵の話しから想像する幽霊を思い出す。美しいのとは反対のあばら骨の見える恐ろしい姿である。こちらも『牡丹灯籠』は読み終わったのだが、新三郎の住んで居た根津の清水谷はどの辺りかと思っていたところ根津神社のすぐそばらしい。本に地図があったので、森鴎外さんの作品散歩の時、二つ合体で楽しむこととする。

鴎外さんが大正6年に総長となった帝室博物館の東京帝室博物館はコンドルさんの設計で、この時はまだ現存している。関東大震災で崩壊してしまう。この大正6年に竣工したのがコンドルさん設計の、古河虎之助邸で、現在の旧古河庭園にある洋館である。

暁斎さんもコンドルさんも多くの現物が失われているが、残されているもので今も、まだまだ楽しませてくれている。暁斎さんは観るたびに、どうしてこの作品からこの作品に飛ぶのかと、その腕と想像と創造力に呆れさせてもらっている。分類、分析などを超えたところに暁斎さんの楽しみ方があるように思う。

 

 

新橋演舞場 『もとの黙阿弥』

井上ひさしさん原作の『もとの黙阿弥』である。場所を強調するためか、小さく<浅草七軒町界隈>とある。浅草七軒町にある大和座という芝居小屋を軸に芝居は展開される。男爵の相続人と政商の娘の縁談がきまり、鹿鳴館の舞踏会で踊ることに取り決められていた。その西洋踊りの指導をすることになったのが、大和座の座長である。本人に相談もなく勝手に取り決められ、男爵の相続人・隆次は、書生の久松と入れ替わり相手をじっくり観察することにする。 政商の娘・お琴も同じことを考え、女中のお繁と入れ替わる。

同じ事を考えるわけで、これは相性が良いはずである。入れ替わった書生(愛之助)と女中(貫地谷しほり)は相思相愛となってしまう。このお二人苦労したことがないから、愛一筋である。一方、隆次(早乙女太一)とお琴(真飛聖)に入れ替わった二人にも恋が芽生えるが、お琴から女中のお繁に戻ることができなくなってしまうという、思いもしない結果が生じてしまうのである。

大和座の座長・飛鶴(波乃久里子)が、自分の現実がみじめすぎて、入れ替わった華やかさからもどれなくなったと説明する。では、そのみじめな現実に隆次とお琴は身を置くことができるのであろうか。

時は明治である。浅草七軒町周辺から、オペレッタが生まれ、隆次の姉で男爵未亡人(床嶋佳子)と飛鶴の演劇改良劇と黙阿弥先生の劇とが一騎打ちとなる。条件は、物を食べ、実は何々であった、取込みを入れるのが設定条件である。

庶民の生活から、大きな問題を提起するのが、井上ひさし戯作者の手である。ここがおざなりになっては、何の必要があったの、あの芝居の中の芝居場面となってしまうのである。

後半のこの部分が見ものである。演劇改良劇のリアルさの可笑しさと、歌舞伎を演じたことがない人々が演じる黙阿弥歌舞伎。歌舞伎役者が演じる、歌舞伎を演じたことのない人に成りきっての歌舞伎。それも、その身は男爵を引き継ぐ立場の若者である。このあたりの演じ分けは、愛之助さんの腕である。それを受けての貫地谷さんも恐れをしらぬお嬢様としての度胸がいい。

明治の価値観の混沌を上手く出していた。ただ、もうすこし泥臭さ、バタ臭さがあってもよかったと思う。周囲にもう少し色が欲しい。オペレッタ。座長と姉君との言葉による演劇論の対決など。周囲の人々の個性が薄い。原作者の役づけは用意周到であり台詞も多い。それに乗っているだけでは、原作者に押しつぶされてしまう。国事探偵さん(酒向芳)は儲け役であったが、お繁に匹敵する久松の生い立ちが上滑りで追跡の緊迫感からの可笑しみとまではいかなかった。

大きな劇場で通用する井上さんの戯曲であるが、一人一人の姿が霞み気味なのが残念である。しかし、ラストの照準は外さずしっかり合わせて見せてくれたのは見事である。実は ・・・

浅草七軒町というのは、現在の元浅草だそうで、都立白鴎高校のあたりであろうか。大和座は実際にあった小屋でモデルがあったわけである。新橋演舞場の場内には、花道の上に大和座と書かれた大きな提灯と、<もとの黙阿弥>と書かれたの舞台幕が迎えてくれる。

 

原作・井上ひさし/演出・栗山民也/出演・片岡愛之助、貫地谷しほり、早乙女太一、真飛聖、渡辺哲、床嶋佳子、浜中文一、大沢健、酒向芳、石原舞子、前田一世、浪乃久里子

8月1日~8月25日

 

 

映画 『父と暮せば』

原爆を主題とした映画の中で、多くの会話で構成されている映画が『父と暮せば』(2004年)である。井上ひさしさんの原作で舞台化され舞台のほうは観ている。これを映画にしたのが、黒木和雄監督である。

黒木監督は、『私の戦争』(岩波ジュニア新書)の本も出され、自分の戦争の体験と映画への想いを語られている。今、岩波ホールで黒木監督の戦争を題材とした映画が四作品と劇場初公開の短編が上映されている。そのチラシにも載せられているのが次の文である。

これは大事なことですが、私たちの現在の日常の中に「戦時下」のあの日々の姿が形を変えて、再び透けて見えてくるような危機感を私はいだきます。これが「昭和ひとけた世代」特有のとりこし苦労であることを願います。(「私の戦争」より)

 

黒木監督が映画化されたのは、舞台『父と暮せば』を観られ、海外でも公演されているが映画のほうがもっと多くの人々にこの作品を観てもらえると考えたからで、井上ひさしさんも自由に撮って下さいといわれている。

広島原爆から3年たち、1948年夏の火曜日から金曜日までの四日間の父と娘の交流である。実はこの父は広島原爆投下の日に亡くなっているので、幽霊ということになるが、途中で観客はそれに気がつく。なぜ幽霊なのか。戦争や大きな災害などを体験された方は、その現実を共有した人とではなければ、そのことを語ることが出来ないほどそれぞれの心に大きなものを抱えておられる。原爆病との闘いをしつつである。

娘は恋をするが、同じ原爆の体験をして亡くなった方達に、生き残ったことへの罪悪感や後ろめたさがあり、倖せになることを拒否してしまう。その娘の気持ちの解かる亡くなった父は、恋の応援団として登場し、娘の気持ちを全て話させるのである。

終戦から70年、話すことを拒まれてきた方々も、忘れられる戦争について、これではいけないのではと、思い出したくない気持ちを抑えられ話し始めておられる。

原爆投下から3年目の設定で、話し相手を父の幽霊としているのが、井上ひさしさんの被爆者されてこれから生きて行かれる方々への想いがある。

娘の恋する心から父は胴体が出来、手足が出来、心臓が出来て姿を現すのである。日常生活を共にしつつ、娘と父は語り合う。この会話は、井上ひさしさんが2年かけて調べ、被爆された方々の手記を読まれ、それらをもとにして組み立てられた言葉の数々である。舞台はその息遣いが伝わるが、映画は、その言葉が頭の中で、文字となってひと言ひと言が浮かぶ。

原爆の熱は、すぐ頭の上で太陽が二つあった熱さであり、爆風は音より速い。原爆かわら。熱さのためにかわらが溶けて毛羽立ってそれが冷えてトゲのように表面に残っている。水薬ビンが溶けてぐにゃぐにゃになりそれが冷え固まった形となっている。爆風でことごとく窓ガラスなどが割れ飛び散り人の身体に刺さったガラスの破片。これは、原爆記念館から借りて来られたのかと思わせるが、小道具係りの方が苦心して作られたもので、映像でみることにより想像を実感に近づける。

娘の恋人は、こうした品物や原爆の資料を収集し保存することの必要性を感じている。当時進駐軍の目が光り、図書館に勤務する娘は原爆の資料を集めることが、困難なことを知っている。

娘の恋人は岩手出身で、娘は民話の語り聞かせのボランティアを女専の学生時代からやっており、宮沢賢治が好きで特に詩が好きで、父に「星座めぐりの歌」を歌って父に聞かせる。父はエプロン劇場と称して一寸法師が、赤鬼のお腹の中で、原爆かわらでおろし器のようにお腹を傷つけ、人の身体に食い込んだガラスの破片で攻撃する。そして、自分で作った星の歌などを歌い、娘に様々の考え方のあることをそれとなく教える。

娘は、父との最後の別れから自分が生きて来た3年間を語り、父から、亡くなった者はその問題は解決済みで納得していることを語る。父の死後3年間、自分の生きてきた事を認めてもらい 娘は踏みだせるのかもしれない。

「おとったん、ありがとありました。」

広島弁が、何とも切なく、優しく、特別の響きがある。

娘の宮沢りえさんが、思いを込めて丁寧に丁寧に演じ、父の原田芳雄さんは、娘の細い美しい線を、いびつでもいい、太さが違ってもいいと介入していくところに父親の想いを込めている。恋人の浅野忠信さんの物静かさも、父と娘からの言葉で形作る人物像を浮き彫りにさせる。

美術監督が、木村威夫さんで、『紙屋悦子の青春』も木村さんであるが、台詞を邪魔せず、登場人物の位置関係の流れを生かす配置で、心も写す。

撮影/鈴木達夫、音楽/松村禎三

岩波ホール 8月1日~8月21日 <戦争レクイエム 黒木和雄監督>

『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』『紙屋悦子の青春』 (18時30分上映は『ぼくのいる街』併映)

 

松竹歌舞伎 『河内山』『藤娘』『芝翫奴』

松竹歌舞伎の地方公演ということになる。幾組かの役者さんの組み合わせで地方を」回られているが、こちらのコースは、橋之助さんを中心に児太郎さん、国生さん、錦吾さん、秀調さん、友右衛門さん等である。

『河内山』。江戸の末期に無頼に生きた6人を六歌仙に準え、<天保六花撰>といい、講談から歌舞伎に取り上げその中心がお数寄屋坊主の河内山宗俊である。ユスリもなんのそので、悪を美しく描くのが歌舞伎であり、スカッと恰好良くなければならない。そろそろ橋之助さんに乗り移るのではと期待していたら、形となった。色気もあるし、大きさも出た。悪の妖しい凄みには少し弱いが、上々である。

質屋の上州屋の場面で娘を難儀から救おうとするが番頭に難癖をいわれ、じゃ、俺は降りるよというあたり、話が決まり花道で算段を思案して思いつくあたりがいい。花道がないので気の毒であったが充分観客を納得させた。ただ、肝心のもし失敗すれば命がないというところがあっさりして薄味であった。

朱の衣もよく似合い品もある。山吹の小判を所望し、それを確かめる仕草も、時を告げる時計の音にびっくりするあたりの崩しかたも崩し過ぎずに気持ちよく収めてくれた。玄関前での啖呵も楽しませてくれる。死と背中合わせ悪事の無頼さの光はこれからであろう。数馬の国男さんは若すぎで浪路の芝のぶさんとのバランスがとれていなかった。大膳の橋吾さんが頑張った。秀調さん、芝喜松さん、錦吾さん、友右衛門さんがツボを押さえられた。

『藤娘』の児太郎さんは踊り込んだとの印象である。身体をよく使って覚え込んだ身体であると思って観ていたら、左右中央と挨拶をされる。観客に媚びづに静かに挨拶されるのも今の児太郎さんには合っている。何か舞台に落ちた。何がどこから落ちたのかは不明。舞台上に落下物がある。どうされるか意地悪く観察していた。身体の形が崩れる恐れもあるから、無視されるか、それとも処理さえるか。観客に気がつかれるなら手を付けないほうが良い。伊勢音頭のあと、座って自分もお酒を飲むところで、左手に落下物のある良い状態の位置につく。立ち上がる寸前、左手で落下物を隠す。隠すといっても、自然にそこに手がいった。立ち上がった時には落下物は無かった。袖にいれた様子の手の動きも見えない。余りにも自然であった。落下してから、児太郎さんの視線も動きも不自然な個所は一つも無かった。

児太郎さんは、器用なかたとは思えない。外野からの音に惑わされず一つ一つを身体で覚えていかれる。と思っている。これからもその様に進んでいかれてほしい。そして、そろそろかなと思う時、自分の息のあった色をさし、自分の色香として欲しい。急がないでじっくりと。

『芝翫奴』。『供奴』は、二代目芝翫さんが初演されたことから『芝翫奴』とも呼ばれる。踊られた国生さんが七代目芝翫の孫ということもあってであろうか。『芝翫奴』の題名で観たのは初めてである。若さ溢れ、国生さんもしっかり身体をを目いっぱい使われる。花道での左右の足を前で反対の足の膝まで上げ、そのあと爪先をさらに跳ね上げる所作があり、この足さばきも初めてである。主人を迎えにいく逸る気持ちや、仲之町への心の浮立ちであろうか。足踏みも元気であった。愛嬌が出るまでのゆとりは無かったが、これからもっと欲がでてくることであろう。

暑い夏には、演目の選び方もよかった。初めて歌舞伎を観られるお客様も楽しまれたことであろう。こちらも、溜飲が下がり、涼やかな美しさを味わい、元気の気を頂いた。