国立劇場 新春歌舞伎 『しらぬい譚』

国立劇場の新春歌舞伎は『通し狂言 しらぬい譚(ものがたり)』でした。

さてお話は・・・いえいえ書きません。テレビ放映があるようですので。

「プレミアムステージ」(NHK BSプレミアム)
放送予定日:2月6日(月)0:00~2:55《5日(日)深夜》

私も録画します。そして、上演台本を購入していますので、一言、一言、チェックすることにします。それは冗談ですが、とても判りやすい内容です。ちょっと物足りない感じでした。もう少しひねってくれてもよかったかな。役者さんが揃っておられるのに少しもったいなかったです。

歌舞伎に馴染のないかたは、海底の様子から始まり、化け猫が出てきたり、菊之助さんの宙乗りがあったり、乳母が、育てた若様に恋狂いしたりと、驚き桃木山椒の木状態かもしれません。気軽に観られれば良いとおもいます。

個人的には、人が合体して、北斎さんの寄せ絵のように猫の顔を作ったのですが、その動きを映像でしっかりとらえたいと思っています。

左近さんの名前があったのですが、なかなかでてこなくてどうしたのかなと思っていましたら、最後に居並ぶ面々のなかでともにしっかり収まっていました。竹松さんは足利家の家臣として萬次郎さんの指図に従っていましたが、『あらしのよるに』のはくがぴったりだったなあなどと思いつつ、のんびりとお正月気分での観劇でした。

今年は、竹の子の伸びの速さが思われる新春歌舞伎でした。と言っているうちに早、もう少しで如月となります。

 

映画『ざ・鬼太鼓座』(1)

ざ・鬼太鼓座』 <映画監督加藤泰 生誕100年 幻の遺作 遂に封印が解かれた!>のチラシの文を見た時は、加藤泰監督がドキュメンタリー映画を撮られていた、それも鬼太鼓(おんでこ)を、と驚きと好奇心で観なくてはと心がはやりました。

1月21日公開 渋谷・ユーロスペース。そう長くはやっていないであろうと気にかかり、やっと観れました。朝10時からの一回上映で金曜日までは上映しているようです。カラーのデジタルマスターになっています。チラシの少ない映像部分を見ても、加藤泰監督ならドキュメンタリーからはみ出した映像なのではないだろうかと想像していましたが、やはりそうでした。

加藤泰監督の映像美学に鬼太鼓座の一人一人がはめ込まれ、そこから一人一人が飛び出すといったような感じです。

映画を観つつ、佐渡の四季ってこんなにはっきりと美しい四季なのであろうか。私が行ったときは、バスの中から見た、美空ひばりさんの歌「佐渡情話」の ~佐渡の荒磯岩かげに ~咲くは鹿の子の百合の花~ の風景と宿から見えた海に沈む大きな赤い夕陽が印象づけられていて、もう少し色調の素朴な感じに思えていました。

見終わってチラシをよく読んでみますと、『ざ・鬼太鼓座』の脚本・助監督の中倉重郎さんの文があり、撮影は1979年2月から1981年2月までの2年間で撮られ、最初の年は佐渡には雪の無い冬だったので、雪を求めて新潟の小出市へ、春は桜を求めて御殿場へ、秋は会津の裏磐梯、宮崎の都城と回っていました。納得です。

やはり加藤泰監督は、監督の美意識の中に組み込んでいたのです。それを知ったからといってそれがドキュメンタリーとしておかしいとは思いません。鬼太鼓座の人々の走る姿、太鼓と闘う姿は、それだけの自然に対峙して負けないだけの意気込みがあります。

映画館のロビーに映画の企画書が張られていて、<四季>を軸にしたのは「四季の変化は自然の変化にとどまらず、心の変化でもあるだろう」とあります。秋の風景の中には、座員の剣舞の姿があったり、冬には津軽三味線を弾く姿があったりと、民族芸能としての位置を季節とともに探し求めぶつかっているようで、それと向き合う心の変化でもあるとも思えます。

そういう意味あいからも、美しい四季の自然の映像を享受できる立場に座員の人々はいるのです。衣裳の色の組み合わせも綺麗です。

加藤泰監督の生誕100年は昨年でした。その時、どこかの映画館で「東映キネマ旬報」という小冊子を手にしまして、そこで女優・富司純子さんが監督について語られています。「加藤さんはいつも、女性を愛おしく描いてくださいました。」

この映画でも、男性陣には語らせませんが、女性達だけには本音はどうかなという女性陣の会話を入れています。男性と同じように走る彼女たちにだけ、語る機会を与えられているのです。監督の女性に対する愛しさととれました。ひばりさんの歌の恋の部分は彼女たちにとっては、どうやら鬼太鼓座への恋となって走り続けるようです。

映画の中で、「櫓のお七」の人形振りの踊りがでてくるのですが、企画書によりますと、この演目が鬼太鼓座の単独公演のときはいつも冒頭に設定されていたようで、全くの映像用として作り挿入しています。

面白いのが、「昨冬、歌舞伎座で玉三郎がお七を演じ、その人形振りが評判をとったのは耳新しい。」と記されていることです。玉三郎さんの評判が人形振りだけを入れるきっかけになったと取れます。

その後、「鬼太鼓座」は新たに佐渡を離れて活動され、佐渡に残った人々が「鼓童」となります。そして「鼓童」と玉三郎さんが関係するとは、加藤泰監督が知ったら驚かれることでしょう。

映画に行かれましたら、是非この企画書お読みください。加藤泰監督やスタッフのこの映画に対する思いがわかります。

「生まれて初めて思う通りのことをやれた映画」と監督が語ったという映画ですが、長い間一般公開されませんでした。この機会に、劇場で観れたのは嬉しいかぎりです。この映画にも加藤泰監督ならではの真骨頂が出ていました。

ユーロスペースさんの承諾を得ていますので、長くなりますが、企画書の 【 7、映画<鬼太鼓座>の目指すもの 】を書きしるします。

「この映画には、セリフは殆どない。登場する鬼太鼓座の若者たちは、決して、自らをかたらない。若者たちは、ただ黙々と太鼓を打ち、三味線を弾き、笛を吹き、踊り、そして走るのみである。かれらの扱う楽器は、伝統的な邦楽器だけであり、その集大成である。その意味で、この映画はまさしく、日本の音だけによる音楽映画である。そしてまた、若者たちの寡黙に音と格闘し、走る、その一途な姿の哀しさが、私たちに彼らの青春のひたむきさを伝えてくれる。その意味で、この映画はまさしく、青春映画なのである。」

電子音楽が入るのですが、それがまた違和感なく邦楽と合い、映像を高めています。セットの中での演奏も、自然との対比でこれまた面白い場面となって奏者の肉体の力と迫力を伝えてくれます。

加藤泰監督と鬼太鼓座の若者とが、作品を作るうえでの音と映像のぶつかり合いが伝わって来て、清々しい心地よさでした。

 

民俗芸能『早池峰神楽』『壬生狂言』『淡路人形芝居』(3)

淡路人形芝居』は、人形浄瑠璃成立よりもずーっと前からあったのです。上方で人形浄瑠璃が盛んになるとそれを取り入れて座を作り巡業にでたのです。一番盛んなときは、40座以上あったそうで、今は淡路人形座だけとなりました。南あわじ市福良港に専用劇場があて定期公演をしているので、そこに行けば手軽に観劇できそうです。

女流義太夫の竹本駒之助さんのお話を聞く機会があり、駒之助さんが淡路島のご出身でその原点に興味があったのですが、この空気の中で頭角をあらわされていたのだとその才覚の一端に触れたような気がしました。 邦楽名曲鑑賞会『道行四景』

文楽では上演されない演目もあり、今回の『賤ヶ嶽七本槍(しずがたけしちほんやり)』もそのひとつでした。本能寺の変で小田春永(信長)が亡くなり、武智光秀も滅び、そのあとの跡目相続で争う柴田勝家と真柴久吉(秀吉)との賤ヶ嶽の戦いの中で、翻弄される足利政左衛門(利家)とその二人の娘がからむ複雑な人間関係の話しであります。

娘の深雪は出家して清光尼になり庵室にこもっています。そこへ、遠眼鏡を持参して父が現れ、久吉にも勝家にも加担しないで遠眼鏡で戦を見物するというのです。さらに、清光尼に還俗するようにうながすのです。遠眼鏡といい、還俗といい、何が始まるのであろうかと観ている方も謎が解けるのが楽しみです。

女中たちが遠眼鏡をのぞき、いい男がいるから清光尼に覗いてごらんなさいとすすめます。清光尼はこばみながら覗いてびっくりです。叶わぬ恋とあきらめて出家した相手、恋人の柴田勝家の息子・勝久が戦っている姿がみえたのです。父には還俗など何んという事をといっていた清光尼が恋人を眼にした途端に破戒するとして袈裟から姫の姿へともどってしまいます。浄瑠璃も歌舞伎もお姫様は大胆です。

観客席の後方からほら貝の音がして、戦う勝久と兵士たちの人形が登場し、深雪姫が見ている戦いの状況を通路にて再現してくれるのです。人形浄瑠璃では、初めての光景です。

父・政左衛門は、勝久は討死するからこの世では添えられぬ仲あの世で添い遂げよと告げ、父の本心を語ります。深雪の姉・蘭の方は、実は父の恩人の娘で久吉が後見の三法師の母君なのです。蘭の方はさらに滝川家に養女に入り、その養父が小田家に反逆した者なので、三法師の母として相応しくないから殺すように久吉から政左衛門は言われているのです。そのため義理ある蘭の方の身代わりになってくれと打ち明けます。

勝久が討ち取られたと知った深雪は、生きている意味もないと、父の手にて浄土へと旅立ちます。

政左衛門は、本当に久吉が三法師を奉るか疑って三法師を隠していました。そこへ、蘭の方の首実験のためにせ三法師を従えて久吉が現れます。疑う政左衛門の前で、連れていたのは実子・捨千代で、三法師への忠心のため久吉は自らの手で捨千代の命を奪ってしまいます。これが<清光尼庵室の段>です。

そのあと<真柴久吉帰国行列の段>で三法師を守り安土城へ向かう久吉の行列が続き<七勇士勢揃の段>では、賤ヶ嶽の先陣での久吉に仕える加藤清正ら槍の七勇士の戦支度の姿が紹介されたり戦いぶりが披露されて久吉は勝ちどきをあげるのでした。

戦いの場では、遠くの崖の上での戦いとして小さな人形を使い崖から落ちたと思ったら、前面で本来の大きさの人形が戦うといった趣向もあります。

文楽にくらべると、淡路人形はかしらが大きく、早替わりなどの趣向があるのが特色で、『仮名手本忠臣蔵』の二つ玉や『妹背山女庭訓』の入鹿御殿の段の早替りなどもあるようです。

とにかく長い歴史の中で培われたり守ってきた民族芸能ですから、まだまだ解説がありますが、個人的興味のあるさわりだけ参考にさせていただきました。こうした民族芸能がこれからも人々に広く知られ楽しまれ、永く受けつがれていくことを願うばかりです。

現地に行くことが出来たならば、芸能は観られなくても、想像のアンテナが反応してくれることでしょう。

 

民俗芸能『早池峰神楽』『壬生狂言』『淡路人形芝居』(2)

壬生狂言』は正しくは、壬生寺で行われる「壬生大念仏狂言」をさし、親しみを込めて「壬生さんのカンデンデン」とよばれていて七百年続いているそうで、この「カンデンデン」はお囃子を聴くとなるほどと思います。

お囃子は金鼓と太鼓と笛の三つで、始まりは単純な繰り返しで、狂言も無言のパントマイムの様相を呈しています。金鼓というのは、銅鑼のような感じで、木槌のようなもので打つのですが、それが<カン>となり太鼓が<デンデン>で、それに笛がはいるのです。金鼓のひとは、演者や観客に背を向けられていて、演者の様子は何んとなく感じているのでしょうが、単純なだけに集中力を持続するのが大変であろうなどと思いました。

起源は円覚上人が仏の教えを伝えるために始められた無言劇だったものに、能や物語を取り入れ庶民が楽しみやすい内容へと広がったようです。演者は全て面をつけます。

今回は、「道成寺」「愛宕詣(あたごまいり)」「紅葉狩」でした。「道成寺」は能と同じように白拍子が鐘の中に入り、中から蛇体が現れるというかたちをとり、上半身が鱗文様の衣装になっています。最初に僧が二人でてきてその二人が鐘を持ち上げようとして落としたり責任のなすりあいをして頭をかく様子などで可笑しさを加えてくれます。上手側の僧の仮面は伊藤若冲らが寄進したものだそうです。

「愛宕詣」は愛宕山の茶屋に母と娘があらわれ休んでいます。そこへ、供を連れたお金持ちがあらわれ、愛嬌者の供と茶女の駆け引きがあり、その内お金持ちは笠をかぶった娘がきになります。なんとかねんごろになりたいと思い供に言い渡します。着物の刀も差しだしてやっと承諾を得たのに、笠をとった娘は想像していたような美しい娘ではなかったという話しで、土器(かわらけ)投げのかわりに、おせんべいを観客に投げるという趣向つきです。

「紅葉狩」は、戸隠山での平惟茂(たいらのこれもち)の鬼退治ですが、この鬼は惟茂の刀を奪います。惟茂の夢枕に地蔵尊があらわれ、太刀を授けてくれ、地蔵尊の加護によって見事鬼を退治します。壬生寺の本尊が地蔵尊でもあります。惟茂がたすきをかけるとき<早たすき>といわれ、これも見ものの一つで、鬼が下がっている青紅葉をむしりとり苦しむあたりもこの狂言の独特な「紅葉狩」の面白さがあります。

壬生寺の大念仏堂(狂言堂)は能舞台のように橋懸りがあります。そして本舞台のほうには低い囲いがあり、演者がそこへ腰かけたり、足を乗せて凄さをみせたりという能舞台とは違う動きをもみせてくれます。壬生寺に行った時は新撰組がらみで『壬生狂言』の注目度ゼロでした。狂言のやっていない時でも狂言堂はみれるのでしょうか。見れるなら見たいです。今週には2月の節分会での狂言があり賑わう事でしょう。『壬生狂言』の定期公開は年間三回あるようです。

 

 

民俗芸能『早池峰神楽』『壬生狂言』『淡路人形芝居』(1)

国立小劇場での【第129回民俗芸能公演】が2日にわたってあり、見たいと思っていたものばかりで意気揚々とでかけたのですが、時間をかけて市井のひとびとが守り続けてきた芸能の重さと力に負けてしまい、どっと疲れてしまいました。しかし、観ておいて良かったと思います。月並みな言い方ですが、風雪を乗り越えて今にいたっているのです。庶民が楽しんでいたものだからと簡単に考えていましたら、どうしてどうして、こちらの気で返すことができなかったらしく、次の日ダウンでした。年末からの疲労の限界だったのでしょうが、この芸能で負けたのは満足です。

2日間にわたっているとはいえ、岩手県の『早池峰神楽』、京都の『壬生狂言』、淡路島の『淡路人形芝居』を観れたのですから贅沢このうえないです。国立劇場さんは、50周年記念企画の意気込みをこれからもお願いしたいです。

これらの伝統民族芸能に関して、書き始めは花道からの押し戻しのような体力の必要性を感じています。民俗学に関しては奥がずずずいーと深いので、パンフレットを参考にさせていただきつつ、こちらも確認しつつ思い出しながら書いてみます。

早池峰神楽』は<大償(おおつぐない)>と<(たけ)>の二つがあり、今は決められた日に公開されますが、かつては、Y字の右から左、左から右へと一年交代で集落をまわり、娯楽のない農繁期の人々にとっては、待ちわびていた楽しみでもあったのです。今回その両方が観れたのですから、かつての二年分を一気に観させてもらったのです。

調べましたら、花巻市大迫交流活性化センターで、第二日曜日を「神楽の日」として神楽公演をしているようです。

能、狂言の前に猿楽があり、「都で流行していた猿楽が、各地を行脚(あんぎゃ)する山伏たちによって東北地方に運ばれ、それが残されたのではないか」(本田安次氏説)ということなのですが、山伏というのは、今でいえば映像の電波のような役割をもしていたことになります。

義経を逃がす時山伏と強力となってというのも、道なき道を歩いていたとしても怪しまれません。ただ関所は難関です。そして『勧進帳』のようなドラマが生まれます。『黒塚』も、はるかかなたの熊野のからの阿闍梨と山伏ですから、老女・岩手がもしかして救われるのではと期待をふくらませるのもわかります。

神楽のほうは、<大償神楽>が、鳥舞、天降、鐘巻、<岳神楽>は、天女、五穀、諷誦、権現舞が披露されました。最後の権現舞は常に最後に舞われるもので、獅子の頭が舞台に捧げられていて、『鏡獅子』と同じようにそこから踊り手は下舞のあと獅子頭(ししがしら)を受け取るのです。この獅子頭は、旧南部藩領内では「権現様」と呼ばれていているそうです。獅子舞と同じように、権現様の幕にひとが入り舞います。

この舞以外には頭に鶏を付けた鳥かぶとをかぶっています。鳥かぶとの下には左右にシコロ板というのが下がっていて、動きによってそれが動いて羽が動いているように見えるのです。「鳥舞」は舞うのは男性ですが、着物は女性物です。

鶏は、私たちにとってなくてはならない存在です。鶏の命をもらって、自分たちの命をささえているともいえます。かつては農家の庭を走りまわっていたり田舎の家には鶏小屋があったりして卵の恩恵にあずかっていました。鳥かぶとの横には、赤と緑の葉っぱのような上に白い丸が描かれていて卵を意味しているのでしょう。

色々な神様との関係があるのですが、個人的にはそれよりも、人と鶏が一体になって踊るところに、この神楽の<命>に対する土着性のようなものを感じました。

「鐘巻」は道成寺ものですが、安珍、清姫ではなく、鐘巻寺が女人禁制のためその寺の鐘の緒を切って蛇になるというのです。凄い女子力です。蛇は、白い布を棒に結んで控えている人がいて、その白い布を持って肩にかけて離すといった感じで、巻くまでにはいたりませんがヒューヒューという蛇の鳴き声が聞けます。

「天女」は、女性用の着物の上半身を脱ぎ後ろにたらし、綺麗いなブルー系の上半身の着物で、白い二枚扇で舞います。「諷誦(ふうしょう)」は、荒々しい神が悪神悪鬼を退治するというもので、二本の刀を使い、演者さんは肩で息をしていました。

「早池峰神楽」と早池峰に住む人々を映像にしたのが、羽田澄子監督の『早池峰の賦』です。悔しいことに昨年観逃してしまったのです。1982年の作品ですので、35年前の地元の人々と神楽の関係が残されているとおもいます。出会えるのを楽しみに待つことにします。

 

新春浅草歌舞伎『傾城反魂香』『吉野山』『角力場』『御存 鈴ヶ森』『棒しばり』

浅草公会堂は、声を張ると響き過ぎるということに気がつきました。

傾城反魂香』の又平のおとくの壱太郎さんの声。『角力場』の放駒長五郎の松也さんの声。響き過ぎて、情や稚気さが壊れてしまうのです。この書き方の雰囲気では何か注文を出しそうと思われるかた、浅草歌舞伎に出演役者さんのファンのかたは読まぬが花です。

『傾城反魂香』は、吃音の障害をもった絵師といってもまだ弟子の段階ですが、又平というものが、死を覚悟して師匠の家の庭の手水鉢に自画像を描きます。その絵が描いた側から反対側に抜けて、反対側にも描かれていたというお話です。そして目出度く画家として、土佐の名前をゆるされ、土佐の又平光起と名乗ることを許されるのです。

その前に弟弟子が、絵から抜け出て来た虎が草むらから顔を出し、それを絵筆にてかき消して兄弟子の又平より先に土佐の名前をゆるされますが、『雙生隅田川』では絵から鯉が池に逃げ込んだりと、どちらも近松門左衛門さんの作品です。

又平のモデルは、岩佐又兵衛という江戸初期の絵師で、そういえば今、出光美術館で『岩佐又兵衛と源氏物語』を開催しています。

岩佐又兵衛に興味のある方は 映画『山中常盤』 もどうぞ。

歌舞伎にもどって、この又平(巳之助)を支えているのが女房・おとく(壱太郎)で、又平が上手くしゃべれない分、ぺらぺら自分でもしゃべりすぎたと弁解するほどなんですが、壱太郎さんの声が響きすぎて、竹本に乗るところを邪魔してしまいます。師匠にも見捨てられたとして二人でもう死のうというとき、又平の手をとり、<手も二本、指も十本なのに、どうして不具になったのでしょう>というところが嘆きではあるのですが、押さえて欲しかったです。しみじみさが欲しかったです。個人的好みではありますが。

巳之助さんは、名前をもらって姫君を助けに行きますが、そのために師匠から裃と刀の大小を貰い着替えます。着替える時、黒御簾の音楽にのせてリズム感をもって喜んで着替えるのですが、ここの喜びを押さえ着替え、大頭(だいがしら)を舞う時に愛嬌をみせていました。これは巳之助流なのかなとも思いました。ただ、大頭のところは役者の大きさを見せるところですから、いつかは、そこらあたりを検討してもらいたいです。又平の苦悩、それを支える女房とお二人の息はあっておられました。

土佐将監光信(大谷桂三)、将監北の方(中村歌女之丞)、土佐修理之助(中村梅丸)

角力場』ですが、先ず錦之助さんはつっころばしの与五郎役者さんでこの役の柔らかさと可笑しさはぴかいちです。今回は濡髪長五郎ですが、やはり与五郎をやりつつも、濡髪長五郎の役も自分なかにおさめられていたのですね。違和感なく、顔の作りの茶の色の線が綺麗に顔に映えていました。声もよく、それに対する松也さんの放駒長吉の幼さを出す台詞の伸ばし方の語尾が響きすぎで、錦之助さんの台詞とのバランスが崩されてしまいました。

長吉の濡髪に対抗する幼さを表現する演技は上手いですので、声をのばして張り上げなくても充分だと思います。それと、力士ですので、つま先で腰を下げる姿勢で贔屓の話しを聞いたりしますが、どこで膝を下につけてよいのかはわかりませんが、染五郎さんは、贈答の口上のときもずーっとつま先でお礼の時もその姿勢で、そうかそうするべきなのかと思ったのですが、このあたりどうなんでしょうね。ただ、松也さんは、もう少し踊りの下半身をしっかりさせたほうが良いとおもいます。踊りのときの足の美しさに影響するとおもいます。『吉野山』の忠信の屋島の戦さ物語の部分でも感じました。静御前の壱太郎さんとの男雛女雛は絵になっていました。巳之助さんの早見藤太は真面目な中での可笑しさがよかったです。

隼人さんの与五郎もやはりまだですね。この役難しいということがよくわかりました。『御存 鈴ケ森』の白井権八は良かったです。これは、やはり国立劇場での『仮名手本忠臣蔵』の力弥の形を身体に取り込んだためとおもいます。立ち廻りの姿勢も若者の姿が崩れずにできていました。この演目好きではないのですが、錦之助さんの番隨院長兵衛ともども、バランスの良さで楽しませてもらいました。若い役者さんの中に入ると、やはり錦之助さんは先輩たちから盗まれてこられているのだなあと思わせられました。そういう陰の差が観ていて彷彿としてきて面白かったです。

棒しばり』は松也さん、巳之助さんコンビで若さの勢いのおかし味はありますが、まだまだ踊り込んで欲しいですね。隼人さんも加わってバランスはとれていましたが、可笑しさのみの味わいのない身体でした。

梅丸さんは、基本形で今のうちにひとつひとつひとつ身体に身につけ先輩たちの演技を盗んでほしいです。

若手の役者さんは、今様々なことに挑戦されていてお忙しそうです。若さゆえに初めて見る若いお客さんを集客していると思いますが、見栄えの内容的可笑しさだけでなく、芸の可笑しさになるような練習時間をとって欲しいものです。

個人的芝居の好みの感想です。

 

 

新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~  夜の部

義賢最期』は、立ち回りに<戸板倒し>があり、義賢の最期が<仏倒れ>で終わるので、アクロバット的な趣向があるとして上演され続けてきた感じがありますが、それだけではないと思います。

平家の時代、源義明と木曽義賢兄弟は、兄は破れて亡くなっており義賢は平家側につき今は病で屋敷に引きこもっています。その義賢(海老蔵)に、平家から白幡の詮索があり本当に平家側なら兄・義明のしゃれこうべを踏んでみろと言われます。義賢は踏めません。義賢にとって、肉親と源氏の御印の白幡両方が等価値なのです。この人には、屍を踏み越えて進むような道は自分の中にはないのです。自分は屍となって託す側になるその道を選ぶのです。

その義賢の生き方の壮絶さが<戸板倒し>であり、<仏倒れ>なのだと、海老蔵さんの義賢から感じました。声の押さえ方、苦悩の見せ方、下部折平を源氏側の多田蔵人(中車)と見抜き白幡を見せる場面、娘・待宵姫(米吉)を去らせる親心、白旗を託す小万(笑三郎)とのからみ。小万は、義賢の最期の壮絶さで白幡を守るべきは自分しかいないと思わされてしまうのです。このあと「実盛物語」へと続くためには、これだけの仕掛けがないと収まりがつかないだけの『源平布引滝』というお芝居だったのだろうと思ってしまいました。

義賢の海老蔵さんと折平(蔵人)の中車さんの台詞のトーンも海老蔵さんが受けるかたちでバランスよく収まりました。折平の女房・小万の笑三郎さんは義賢を気遣いつつも自分の役目をもしっかり受けとめられていました。

お腹に義賢の子を宿す葵御前(右之助)と義理の待宵姫(米吉)の関係、待宵姫が折平を想いそこへ、折平の女房と子どもと舅(市蔵)が現れての関係などが織り込まれていますが中心は義賢の生き方です。

梅玉さんだけが裃の色が違うという引き合わせで『口上』がおこなわれました。ここで知ったのですが、柿色の裃の姿も可愛らしい新右近さんは6歳とのことでした。千穐楽まで頑張ってください。そして、右之助さんのお祖父さんが二代目右團次さんだったのです。浮世絵にもありましたのでもっと昔のかたと思っていましたが、右團次さんの名前が復活して、広く知られるということは喜ばしいことです。どこかでまた古いものの中で名前を見つけたときには親近感がわきます。三代目猿之助さんのもとで修業された心構えで、三代目右團次さんは一層頑張られることでしょう。

錣引』は、これまた源平の争いなのですが、平家の悪七兵衛景清(右團次)と源氏の三保谷四郎国俊(梅玉)の一騎打ちを見せ場としています。三代目右團次襲名披露狂言としていて、動きの速い立ち回りのイメージのある元右近さんとは違う、様式美の立ち回りということで、梅玉さんと組まれたことで、違う息を学ばれている様子でした。こういう動きで美しさを見せるのも難しいものだと思いながら観ていました。

この前に、平家の三位中将重衡(友右衛門)らがの摂州摩耶山への戦勝祈願にやってきます。源氏の次郎太(九團次)は待ち構えていて平家の重宝を奪おうとしますが、伏屋姫(米吉)との取り合いになり谷底に落としてしまい、そこに、名を変えた景清と四郎国俊がいて、後日一騎打ちとなるのです。『平家物語』から黙阿弥さんが考えたらしいのですが、一幕なので深くはわかりません。『平家物語』十一段目の<弓流し>のところのようですが、三保谷四郎国俊の名はないのです。

その他、寿猿さんの平経盛、家橘さんの天井寺住持。

黒塚』は、四代目猿之助さんの『黒塚』として定着してきたかなと思わせられます。舞台装置や照明の感じなど、単なる奥州の安達ケ原の鬼女としてではなく、この老女にも違う人生があったのではないかとふとそんな気にさせられました。老女・岩手は自分ではもうこの状況から抜け出せません。

ところが、熊野からやってきた阿闍梨祐慶(右團次)と山伏大和坊(門之助)、山伏太郎坊(中車)に頼まれて糸を括りながら唄を聞かせ話をし、今の自分ではない自分に立ちかえることができます。その喜びを一人山のなかで表現する姿は月のあかりも優しく、影も喜んでいます。しかし、それは束の間でした。住まいの一間に隠した自分の拭いがたき今の鬼女である本性を強力(猿弥)に見られてしまうのです。逃げる強力からそれを知った老女は、あの月の下の老女は跡形もなく鬼女の恐ろしさだけが姿をあらわします。

鬼女と阿闍梨と山伏の祈りとの対決となります。

猿之助さんは静かに山道を歩きつつ次第に柔らかくゆっくりと人としての喜びを踊りであらわしていきます。そして一変、鬼女となって今までの姿の微塵もないその対極をみせます。そのことによってこの老女の哀れささえ感じさせます。

右團次さんと門之助さんはこの作品を知り尽くしているので、猿之助さんの鬼女に対します。中車さんが、驚いたことに遜色ない山伏の動きとなっていました。まだであろうと思っていましたのに。この公演でこの身体は覚え込まれるでしょう。ひとつひとつ体得されている感じがします。猿弥さんはどうしてあの巨体でこんな柔らかさと動きができるのかと不思議に思う軽妙さです。この作品に効果的なエッセンスを振りまいてくれました。

 

新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~ 昼の部

新橋演舞場の新春歌舞伎は、市川右近さんが三代目市川右團次を、子息の武田タケル君が二代目市川右近を襲名のお目出度い公演です。

雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』は、隅田川物といわれるものの一つで近松門左衛門さんの作品です。と書きつつ、チラシの内容を読んでいませんでしたので、新右近さんが二役で、出番の多いのには驚きました。そして宙乗りもされて、その落ち着きぶりには何ということであろうかとあっけにとられてしまいました。初舞台でもあります。

近江の国の吉田家が、帝から山王権現二十一社の鳥居建立の命をうけます。そのために比良ケ嶽の杉の木を伐り出したところ、そこに住む天狗が怒り、当主の吉田少将行房(門之助)は病となり、次郎天狗(廣松)とお家を狙う勘解由兵衛景逸(猿弥)が手を握ります。吉田家の跡取りは双子で、松若丸(市川右近)は別のところで育てられ父の見舞いに屋敷に姿を見せますが天狗にさらわれ、少将は殺されてしまいます。

どうにか梅若丸(市川右近)が吉田家の家督相続を許され母の班女御前(猿之助)や局・長尾(笑三郎)も安堵します。悪賢い勘解由は、一計を案じます。

朝廷からの預かり物の「鯉魚の一軸」の中の鯉に眼を入れて鯉が絵から飛び出すかどうかを梅若丸にためさせます。そそのかされて梅若丸が眼をいれると、絵の中の鯉が池に飛び込んで逃げてしまいます。困惑する梅若丸は、勘解由に一時的に身を隠すよういわれ屋敷から去ります。そして人買いの淡路の七郎(右團次)のもとで折檻されて亡くなってしまうのです。

狂乱しつつ子供を探す母の班女御前は、程ヶ谷から隅田川までたどり着きます。ここで隅田川が出てきます。対岸には筑波山が見えています。北斎さんの『隅田川両岸景色図』にも筑波山が描かれていました。母は子の死を知り悲しみにくれます。

<ふたご>とありますが、では松若丸はどうしたのか。実は人買いの淡路の七郎は、もと吉田家の家来・猿島惣太といい、傾城狂いからお家のお金を使いこみ、吉田少将に命は助けられ、傾城の唐衣(笑也)と下総で人買いになっておりました。惣太は唐衣にも内緒で、主人の恩に報いるため使ったお金の一万両をためていたのです。主君の子とは知らず、梅若丸を十両で売れば一万両となるのです。あと十両とのおもいが梅若丸をとんでもないことに死なせてしまいます。

捜し訪ねて来た県権正武国(海老蔵)の前で事実を知らされ、惣太は貯めた小判をまき散らし悔やみます。その一念は切腹して七郎天狗となり、隅田川の班女御前の前にさらわれた松若丸を連れてきます。喜ぶ親子。七郎天狗、松若丸、班女御前は、宙乗りで、急ぎ吉田家目指して飛び立ちます。

逃げた鯉は奴軍介(右團次)が見つけだし、絵に戻すべく本水で「鯉つかみ」の奮闘の場面となり無事鯉は絵にもどり、絵は松若丸の手にしっかりと手渡されます。

三代目猿之助(二代目猿翁)さんが築かれたものが、新しい世代に手渡された瞬間でもあります。

右近さんの出番が多いのわかってもらえるでしょう。絵の中の鯉のように、しっかり芝居の中に入り込んでいました。そして、宙乗りで跳ねられました。

猿之助さんが、隅田川での母の嘆きを丁寧に表し、海老蔵さんが脇にまわり芝居に厚みを加えられました。

中車さんは、台詞を慎重に工夫しつつ言われているのためでしょうか、瞬きの多いのが少し気になりました。門之助さんと猿弥さんは澤瀉屋ならこの人でしょうの持ち役です。笑三郎さんの局も安心して観ていられる役どころです。

笑也さんが、国立劇場の『仮名手本忠臣蔵』で一層身体的にも心根もしっかりされてきました。それと同じように、米吉さんも、国立劇場の経験から独り立ちしたようなそんな感じを漂わせていました。男女蔵さんは浅草歌舞伎からどんどん遠のいての惣太の父役で渋さを増してきました。廣松さんまだ悪になりきっていず、弘太郎さんも悪役としては今回甘いです。

芝居の流れは、台詞で説明するようにした部分もありますが、台詞がはっきりしていてよく聞き取れ判りやすくなっており、何より三代目市川右團次さんと二代目市川右近さんの親子共演の襲名公演としてたっぷり楽しめる演目となりました。

 

すみだ北斎美術館

葛飾北斎さんの生まれて住んだ地の『すみだ北斎美術館』ができ開館しました。旅行会社のツアーにも入っていたので、日が立ってから行こうと思っていましたら、開館記念展がこれまたギリギリで行けました。

「北斎の帰還 ー幻の絵巻と名品コレクションー」の『隅田川両岸景色図』が目玉品で、100年ぶりに日本へ帰還した作品なのです。北斎さんと交流があった烏亭焉馬(うていえんば)さんが注文されたとのこ。

烏亭焉馬(うていえんば)さんというのは、落語中興の祖であり戯作者で、北斎と同じ本所相生町でくらし、五代目團十郎さんの大ファンでもあったようです。

隅田川両岸景色図』は絵巻になっていまして、<両国橋>から始まって、手前の岸に<柳橋><首尾の松、御米蔵><駒形堂>と続き対岸と結ぶ<大川橋>(吾妻橋)<浅草寺>、対岸に<三囲稲荷><長明寺>、手前に<待乳山聖天>、対岸に<木母寺(もくぼじ)>、そして<日本堤><吉原大門>となり、この絵巻は両国橋から吉原までの隅田川の両岸を描いているわけです。そして、吉原の室内の絵となり、真ん中に盃を持っている男性が北斎であるという説もあります。最後に焉馬(えんば)さんの狂文が書かれています。

吉原に進む客を乗せた駕籠の提灯の小さな灯が赤で描かれています。残念ながら混んでいてゆっくり見れませんでしたが、優しいタッチで絵の雰囲気はわかりました。展示前の壁にレプリカも展示されていてそちらでも楽しむことができました。

『仮名手本 後日の文章』『忠孝潮来府志』のように忠臣蔵の後日澤を焉馬(えんば)さんが書かれていてさし絵は北斎さんという半紙本もあり、庶民にとっての忠臣蔵の強さが感じられます。北斎さんは、吉良家の家老・小林平八郎の一人娘が鏡師・中島伊勢に嫁入りしその実子、あるいは養子との説もあります。

『当時現在 広益諸家人名録』には、名前と住所が書かれているのですが、<葛飾北斎 居所不定>とあるのが、北斎さんの引っ越しの回数の多さを思わせます。

興味ひかれるものは沢山ありましたが、『詩歌写真鏡 木賊刈』は、木賊(とくさ)を刈ってそれを束ねたものを肩に担ぎ橋を渡っている男が描かれているのです。国立劇場の伝統芸能情報館で公演記録映像の鑑賞会がありまして「人間国宝による舞踏鑑賞会」の中に、京舞井上流の井上八千代(四代)さんの「長唄 木賊刈(とくさかり)」があり、「木賊刈」には引きつけられました。木賊(とくさ)というのは、観賞用として、または砥石のように茎でものを研ぐことができるのだそうです。

長唄には、木賊から<磨かれ出ずる秋の月><心を磨く種にもと いざや木賊を刈ろうよ>などと、木賊のかけた詞がでてきます。もちろん井上八千代(四代)さんの舞は磨きぬかれたものでした。

井上流と言えば新派の『京舞』で知られていますが、ちょっと旅の途中での思い出があります。奈良に旅している時、新聞に祇園甲部歌舞練場で井上流の会があって、四代目のお孫さんの井上安寿子さんが、名取になってはじめての出演という記事が載っていました。電話で問い合わせると切符はあるということで、急きょ旅の日程を変更して京都へ。こういう時ひとり旅は拘束されずに勝手ができます。ずらりと舞妓さんや芸妓さんが並ばれていてお客さんをお出迎えで、古い建物に不思議な雰囲気でした。

安寿子さんが踊られる前になると、井上流の幹部さんというのでしょうか、先輩格の方々が立ち身で端で見られていて、終わると、表情をゆるめられ、中にはお互いにうなずかれる光景を目にしました。芸をみせる場所祇園を支える井上流ですから、継承者とされる方の踊りがどうであるか芸を支える方々としては、期待感があったのでしょう。祇園という場の艶やかさを越える芸の真摯さの怖さを感じさせられました。

公演記録鑑賞会には、京舞の手打ちの映像もありました。独特の華やかさと調子が見る者を魅了します。(そのほかの人間国宝の舞踊/二代目花柳壽楽・一中節「都若衆万歳」、吉村雄輝・地唄「桶取」、藤間藤子・常磐津「山姥」)

北斎さんの『元禄歌仙貝合 あこや貝』では、歌舞伎の『阿古屋』をかけて、中央に琴が大きく描かれています。シネマ歌舞伎の『阿古屋』の宣伝をされたようで、大丈夫です見に行きますからと、特別展を後にしました。このほか、常設展があるのですが、長くなりますから機会があれば。

この美術館美しい建物ですが、一つ問題があります。一階から三階までエレベーターしかないのです。階段が無いため、混雑するとエレベーターに乗るため並ばなくてはならず、時間が無い時は考え物です。急ぎますのでとは言えないのです。下り専用階段だけでも作ってほしかったですね。

さて、北斎さんの絵巻は個人の手から海外に流失して100年めに帰って来たのですが、国立西洋美術館の実業家・松方幸次郎さんが取集した<松方コレクション>は、戦争によってフランスの国有となったものが、日本に無償返還され、そのために国立西洋美術館が建てられたのです。

映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』は、<オーストリアのモナ・リザ>とまで言われていたクリムトの有名な絵『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』が、ナチスに奪われ、このモデルである女性の姪であるマリア・アルトマンが裁判を起こして返され、海を渡りアメリカの美術館に納められたという実話をもとにしたものです。

クリムトの絵にそんな数奇な事実があったことも知らず、マリア・アルトマン役が名女優のヘレン・ミレンで、心の傷と葛藤しつつも凛として闘う姿を見せてくれます。絵も描かれた時代から時間を通過して、様々な歴史的環境の中をくぐり抜けてきているのです。

さてさて隅田川にもどり、木母寺となれば梅若丸となりましょうか。となれば、次はどこへ行くのかお判りのかたもおられると思います。では、そこでお目にかかりましょう。

 

歌舞伎座 壽初春大歌舞伎『将軍江戸を去る』『大津絵道成寺』『沼津』

将軍江戸を去る』は、徳川慶喜が朝廷に大政を奉還し、江戸を去り水戸に退隠するという時、人としての慶喜はどうであったろうか、そして周囲の人々はという想いで書かれたのであろう。

ここで慶喜に体当たりするのは山岡鉄太郎です。東京都江戸東京博物館で『山岡鉄舟生誕180年 山岡鉄舟と江戸無血開城』を昨年の夏開催していたのですが観はぐってしまいました。西郷隆盛と勝海舟の会談の前に、鉄太郎さんは、駿府で西郷さんと会われていて、ここでほぼ根回しはされていたと言われてもいます。JRの静岡駅と静岡鉄道の新静岡駅の間にある旧東海道にも<西郷・山岡会見跡の碑>がありました。

そうした行き来のあと、いよいよ慶喜さんは、寛永寺の末寺大慈院から明日水戸へ向かう予定です。ところが、慶喜がそれを延期するというのです。鉄太郎(愛之助)はあわてて駆けつけますが、血気盛んな彰義隊が中へいれません。この血気盛んな人々を男寅さん、廣太郎さん、種太郎さん、歌昇さんらが、いつでも一戦交えるという意気込みを表し、場合によっては、江戸が火の海になったであろうことを想像させます。

それらを押さえたのが、鉄太郎の義兄・高橋伊勢守(又五郎)です。先ず、伊勢守が慶喜(染五郎)に会い静かにどういうことでしょうか尋ねます。鉄太郎は、慶喜から許可が出るまで、慶喜に聴こえるように、側近に大声を出し談判します。慶喜は、鉄太郎をそばに呼びます。

ここからが、鉄太郎の愛之助さんの弁舌です。自分も時代の流れの中で主張を修正しつつ今の考えにいたったのだとしつつ、慶喜の今の考えでは徳川家が一代官となったことにはならないと説くのです。慶喜にも思うところがあり、染五郎さん時として語気を強めますが、個人を押し殺すように押さえます。結果的にその後に乗り込んでくるのは薩長ではないかという疑念を上手く覆い隠し、江戸を戦火にしてはならないという江戸の民への想いに至らせるのです。

千住大橋の場となり、鉄太郎が駆けつけ失礼にもべらべら申し上げましたがという感慨も含めて「そこが江戸の地の果てです」といい、慶喜が、「江戸の地よ、江戸のひとよ、さらば」の言葉を発し、前に進み少し心が残るように身体を江戸に向けるところは、じーんときます。<江戸>とした真山青果さんの上手いところです。

大津絵道成寺』は、大津絵に描かれている、藤娘、鷹匠、座頭、船頭、鬼の五変化で、愛之助さんが勤めます。『京鹿子娘道成寺』と重ねています。道成寺を三井寺に変え、鐘の供養を頼むが白拍子ではなく藤娘で、受けるのが坊主ではなく、七福神の外方(げほう・吉之丞)と唐子(からこ)です。曲がそのまま『京鹿子娘道成寺』で、五変化にするためのお化粧のためか、藤娘のときに眼が大きく愛いらしさが損なわれるのが残念でした。どうしても五変化のほうに力点がいきがちで、大曲とのぶつかりあいの踊りがが薄まってしまうのも寂しいです。当時の旅人のお土産の絵の中からでてくるという軽い楽しみ方をすればよいのかもしれません。愛之助さんは力まずに大奮闘です。

歌昇さんが弁慶で現れたり、染五郎さんが矢の根の五郎で現れたりとお正月らしい賑わいです。種之助さんが愛之助さんが座頭のとき犬で登場します。初演がお正月だったかどうかは分かりませんが、今年も歌舞伎を宜しくのような、河竹黙阿弥さんの作品です。今月の愛之助さんは八役演じることになります。

沼津』は、長い狂言『伊賀越道中双六』の脇筋です。呉服屋十兵衛が、旅の途中で出会った老人が自分の父で、妹の夫が狙う敵が、十兵衛の恩顧にあたる沢井股五郎であり、せっかく親子が会いながらも別れが待っているという家族の情愛からおこる悲劇です。仇討というのは悲劇の連鎖反応でもあるんですよね。

沼津の茶屋で、鎌倉からきた呉服屋十兵衛(吉右衛門)は年老いた平作(歌六)から荷物を運ばせてくれと頼まれてまかせますが、平作はつまずき爪をはがしてしまいます。十兵衛は効く薬があると薬をつけてやると、たちまち痛みがなくなります。

途中で平作も娘と会い、十兵衛は娘・お米(雀右衛門)の美しさから荷持ちの安兵衛(吉之丞)を先に行かせ、平作の貧しい住まいに泊まることにします。十兵衛は娘お米を嫁にしたいともちかけます。ところが娘には夫があり、十兵衛は失礼なことを言ったと謝り、皆寝につくのです。

お米の夫は和田志津馬で沢井股五郎を仇としているのですが怪我をしていて、父の怪我が治した薬が欲しくて十兵衛から薬を盗むのですが、十兵衛に見つかってしまいます。謝り娘を叱る平作の言葉から、十兵衛は平作が実の親で、お米は妹で、仇とするのが、自分の恩顧の人であることを知り、お金と薬を託し早立ちするのです。

十兵衛が去ったあとに、平作はわが子と知り、沢井の行先を聞き出す為千本松原で十兵衛に追いつきます。そして、平作は自分の命をかけ十兵衛の刀で自刃し、その親の姿に十兵衛は忍んでいるお米と、共に沢井を追っている池添孫八(又五郎)に聴こえるように、沢井の行先を告げるのです。

始めの出会いでは何も知らない老人と若者の交流がゆったりと流れ、娘を気にいったほのめきがやがてどこへやら、三人の関係はどんどん暗闇のなかで下降していきます。そして、家を去るとき十兵衛は差し出された提灯の裸ロウソクの炎で平作を照らし、「吉原までこのロウソクで足りるであろうか」と尋ねつつじっとみます。これが今生の別れと思ってのことです。このあたりの、小道具を使っての細やかな台詞に、歌舞伎ならではのリアリルさを感じます。提灯は、安兵衛が主人のために置いていったのです。薬といい、きちんと計算されて話しの流れが出来ています。

こうした運命の下降していくなかで、親子の情の絡み合いの機微を息の合った台詞の行き来で、吉右衛門さんと歌六さんが伝えてくれ、その二人のやりとりに手を合わせる妹の雀右衛門さんでした。

仇討のほうの『伊賀越道中双六』は、三月国立劇場で、平成26年に44年ぶりに上演された再演となります。