映画『あすなろ物語』(1)

映画『告訴せず』の特典映像で堀川弘通監督が語られているのを観ていて、映画『あすなろ物語』(1955年)が是非観たくなった。1940年に大学を卒業され、東宝入社。衣笠貞之助監督『続蛇姫様』(1940年)、中川信夫監督『エノケンの誉れの土俵入』(1940年)、島津保次郎監督『二人の世界』につき、山本嘉次郎監督の『』(1941年)で黒澤明さんと出会う。黒澤さんはチーフ助監督で堀川さんはサード助監督である。

撮影の後よく二人で飲んだが、黒澤さんは次は監督をするつもりで時間を見つけては本を書いていた。黒澤明監督の最初の監督映画は『姿三四郎』(1943年)である。堀川さんが助監督として参加した黒澤明監督作品には、『一番美しい』(1944年)、『続 姿三四郎』(1945年)があり、『わが青春に悔いなし』(1946年)、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)はチーフ助監督として参加している。

七人の侍』が最後の助監督で最初の監督作品には黒澤監督が脚本を書いてくれるということで、会社は青春物なら何でもよいという。二人で色々捜したがいい原作がなく、オリジナルで書いてみたが納得がいかない。そんな時、井上靖さんの『あすなろ物語』に出会いこれを映画化することにした。

というわけで映画『あすなろ物語』が観たくなったのである。『あすなろ物語』は井上靖さんの自伝的作品でもあり、井上靖さん原作の映画『『わが母の記』も観ていたのでその子供時代というのも魅かれる要素であった。さらにその後青春映画で活躍する山内賢さんの子役時代(久保賢)の映画である。お兄さんの久保明さんが高校時代を演じ、山内賢さんは小学生時代を演じるのである。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」にこの映画が入っていた。

映画『あすなろ物語』は主人公・鮎太の小学生時代、中学生時代、高校生時代と三話に分かれている。その時代時代に鮎太は自分の行き方を模索する強い美しい女性たちに出会うのである。何かと闘っているこうした女性達に出会うというのもそうある事ではない。

小学生の鮎太(久保賢)はお婆さんと二人で蔵の中で暮らしている。何かわけがありそうだが鮎太は元気である。そこへ町では不良と言われているお婆さんの妹の娘・冴子(岡田茉莉子)が一緒に暮らすことになる。鮎太は冴子から大学生(木村功)に手紙を渡すように命令される。この大学生に「あすなろ」の樹の名前の由来を教えてもらうのである。檜に似た樹で檜に明日なろう明日なろうとがんばっているから「あすなろ」という名前なのだと。

鮎太は大学生が好きになり彼を想う冴子のこともさらに魅かれるのである。そして鮎太はしっかりと二人の姿を瞳に焼き付けようとする。鮎太少年の真剣にみつめる目が何とも言えない。こんな子供の眼差しをみたら、大人は見られていることを意識し、あいまいな生き方が出来なくなる。

その三年後、お婆さんが亡くなり中学生の鮎太(鹿島信哉)は、お寺に下宿することになる。そのお寺の娘さん・雪枝(根岸明美)は自分の考えることに忠実に外に対しても対処する。中学生になった鮎太は雪枝の励ましで「あすなろ」の心構えで外に向かって闘う経験をつむことができる。鮎太は実戦からどう闘うかを見つけ出していく。

その三年後、実践した鮎太であるがそれも役に立たせることが出来ない状況の中に投げ込まれる。高校生になった鮎太(久保明)は、ある家に下宿する。他に下宿人が4人いて、かつては裕福な家であったらしいが今は下宿人を置かなければならない状況であるらしい。その家の娘・玲子(久我美子)は、下宿人たちのマドンナで勝手気ままに見える言動で下宿人たちを翻弄している。鮎太もその一人として加わってしまう。

そしてその玲子とも別れるときがくる。鮎太は玲子に「あすなろ」の話をする。それは鮎太が玲子にできる精一杯のことであった。

鮎太がそのときできる自分の力を集中して冴子、雪枝、玲子に対峙する潔さがいい。思っていたより爽やかな青春映画であった。

一話、二話は原作に基づいているが三話はオリジナルで、堀川監督は、井上さんはおとなしいから何もいわなかったが渋い顔をしていたそうである。

黒澤監督は、ワンカットのフレームに100%盛り込むという精神で、カメラの位置、サイズ、アングル、照明、小道具らすべて自分できめ、その影響はあったと。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」のマガジンによると、この映画の後、堀川監督が助監督に降格されている。黒澤方式だったため黒澤監督さえ会社ににらまれていたのに監督一作目で大目玉で、成瀬己喜男監督の助監督となる。成瀬己喜男監督は、製作予算と期間をきっちり守ることで知られていたのである。そうなんだとこれまた面白い情報である。

成瀬組についた堀川監督は、、自分と黒澤監督の資質の違いを改めて感じられたようである。ご自分の手法を見つけるきっかけともなったわけである。

さらに、堀川監督は、映画界に入ってから二回も肺結核で休職していたのである。堀川監督の「あすなろ物語」があったわけである。但し大きく違うのは、あすなろは檜になれないが、堀川弘通さんは明日なろう、明日なろうとして檜の映画監督になられたのである。

映画『女殺し油地獄』・シネマ歌舞伎『女殺油地獄』

図夢歌舞伎 弥次喜多』との出会いで(アマゾンプライムビデオ)で、堀川弘通監督の映画『女殺し油地獄』(1957年)を観ることができた。弥二さん喜多さんありがとうである。

脚本が橋本忍さんで、映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』同様、スキのない筋立てであり、歌舞伎の『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の流れと同じである。映画のトップは罪人が馬に乗る市中引き回しの男を写す。字幕 「河内屋与兵衛 罪科に依り市中引廻しの上 千日前処刑場で磔刑さる 享保六年七月二十三日」 

与兵衛がどんなことをしでかしたのかそのことが描かれ、ラストの場面がトップの画面となる。与兵衛は油屋の息子であるが、同業者の豊島屋の女房・お吉を殺してしまうのである。なぜそういうことが起きてしまったのか。映画では、与兵衛が自首する時ふた親と妹に自分の事をかえりみて語るのである。近代的解釈によって構成されている。

歌舞伎『女殺油地獄』は近松門左衛門が書き下ろしたものをもとにしている。近松さんは人形浄瑠璃の作者である。享保七年に竹本座で上演されている。ところがこの作品江戸時代の人々には人気が無かったらしい。明治なって坪内逍遥さんが『女殺油地獄』を取り上げた文章を書く。その影響もあってか歌舞伎では明治四十二年大阪で初演されるのである。それから歌舞伎でも人気演目となり、映画でも作品化されるわけである。

歌舞伎をまだ観た事のないかたは、アマゾンプライムビデオで映画『女殺し油地獄』とシネマ歌舞伎『女殺油地獄』を観ることができるので時間があれば観て歌舞伎に触れていただきい。与兵衛は幸四郎さんで、お吉は猿之助さんである。

映画『女殺し油地獄』と歌舞伎の『女殺油地獄』では解釈も違い、演技も大きく違うということがわかるとおもいます。歌舞伎の与兵衛は近代人ではないのである。明治時代に上演した人たちは、近代人であったが、おそらく苦労してどうやろうかと考えて考えて身体表現にかえっていったのであろう。そして型となり、されにその型の中でそれを継続することによって役者さんによって違う空気を観客に送ることになるわけである。女方というものもしっかり観てもらいたい。

映画の方は、歌舞伎の『女殺油地獄』をよくわかってられる二代目中村扇雀(与兵衛)さんと二代目中村鴈治郎(継父・徳兵衛)さんが演じられていて、映画の構成にきっちりはまっておられる。映画俳優としての素材として臨まれている。そこがまた映画の見どころでもある。お吉は新珠三千代さんである。継父という設定も重要なカギである。

歌舞伎での与兵衛は、お吉を殺した後花道を去るというかたちで終わるのである。それゆえに与兵衛の人物像は、それまでの登場場面で思い至ることになる。もしくは役者の演技に満足して終わるということになったりもする。そこが近代演劇とは違うところかもしれない。ただ現代ではアイドルという分野もあり同じ現象は起きている。

江戸の人気者弥二さん喜多さんは現代においてもお二人さんの人気度を継続され面白い旅をさせてくれました。めちゃくちゃ忙がしい思いをさせられていますが。

もし観てつまらなかったときはクレームは弥二さん喜多さんにお願いいたします。こちらは舞台も劇場でのシネマ歌舞伎も観ていますがこれってお得とおもいます。

もう一度歌舞伎の『女殺油地獄』の本を読み返そうとおもいます。

女殺し油地獄
シネマ歌舞伎「女殺油地獄」

追記: 銀座ナイルレストラン監修のカレーにスーパーで出会う。全然期待していなかったのにタイミングよすぎ。もちろん購入。お家で歌舞伎、そろいすぎ。

追加2: 1月31日 NHKEテレ 午後9時から 『古典芸能への招待』で『女殺油地獄』があります。与兵衛が仁左衛門さん、お吉が孝太郎さん。同じ作品でも役者さんによって違うということがわかると思います。これまたタイミングの良さの継続です。

追記3: 浅草関連の映画『人生劇場 新飛車角』をついに見つけられた。浅草のやくざ吉井角太郎(鶴田浩二)が戦友を殺した相手との死闘に油まみれの場面が出現。沢島正(忠)監督は歌舞伎からヒントを得たのではないだろうか。

追記4: 2月7日 NHKBSプレミアム 午後11時20分から「プレミアムステージ」で、『四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)』があります。初春に国立劇場で公演されたものです。娯楽性にとんだものとおもいます。歌舞伎の多様性をおたのしみください。

映画『告訴せず』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』

映画配信はすぐ観れて便利であるが、DVDは特典映像が含まれていたりするので意外な情報を貰えることがあり、今のところDVD派である。

映画『告訴せず』は特典映像に堀川弘通監督のインタビューがあり、気さくに話される内容が大変参考になった。しゃべってもいいのかなという感じで『告訴せず』の映画の欠点を話される。それが、こちらが観たときのなぜかストンと落ちてこない原因がそこなのかと納得させてくれた。

映画『告訴せず』(1974年・堀川弘通監督)は、松本清張さんの社会派推理小説が原作である。江戸川乱歩さんが推理小説を世に広め、子供にも愛される広範囲な読者層を獲得された。そこへ松本清張さんは社会派の大人対象の推理小説の道を加えられた。江戸川乱歩さんは傾向の違う松本清張さんに次の推理小説の担い手として高く評価した。

木谷(青島幸男)は大衆食堂の厨房で働いている。木谷の妻(悠木千帆・樹木希林)は兄・大井(渡辺文雄)が保守系の立候補者として選挙中でそちらにつきっきりである。木谷の妻は兄が勝つためには選挙資金を大臣にお願いすべきだと提案し大臣の承諾を得る。その資金を受け取りに行く役が目立たない木谷にまわってくる。

3000万円のお金を受け取りに行く木谷。受け取ったお金が大井のもとに届かないが大井は当選する。木谷は温泉宿にいた。お金は相手が告訴できない選挙違反の金である。木谷は宿の仲居のお篠(江波杏子)と一緒になり小豆相場にお金をかける。木谷は逃げきれるのか。

政治資金、狂乱マネー、暴力の世界が一人の男を通して描かれている。未だに同じような選挙とお金の関係である。

堀川弘通監督によると、松本清張さんから、自分の作品の上を言った映画は『張込み』(1958年・野村芳太郎監督)と『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年・堀川弘通監督)で、また撮ってくれと言われた。プロデューサーの市川喜一さんが『告訴せず』を青島幸男さんでやろうということで、先ず青島幸男ありきではじまった。三枚目の主人公ということでコメディさも入れている。周囲の俳優陣は自分で決めていった。欠点は、火事の場面からダレてしまい、木谷が金にまみれてだまされていた本当の主犯の出し方が弱かったという点である。なるほど、まさしくそうなのである。

松本清張さんがほめた映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は、かなり前に観てこれは面白いと『黒い画集シリーズ』を観たがそれぞれの作品の展開に満足した。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』を再度観たが、細部まで目にはいったが、ミステリーは筋を知ってしまうと新鮮味を保つのは難しく、そうであったとの確認となってしまい最初の満足度は下がってしまったがテンポといいどうなるのかという先への引っ張り具合は計算されている。

平凡でそこそこの会社の課長・石野(小林桂樹)は部下の梅谷(原知佐子)と愛人関係にあり、家庭も上手くいっており満足の日常であった。ある夜、梅谷のアパートからの帰り道、隣人の保険外交員をしている杉山(織田政雄)に会い挨拶をする。普段も出会えば挨拶する程度の関係であった。石野は彼女のことがバレないかとちょっと不安になる。

その不安は杉山が向島の若妻殺しの容疑者として捕まり、杉山は犯行時間には新大久保で石野と会っていて向島にはいなかったと主張する。検事が会社に尋ねて来る。石野の「あるサラリーマンの証言」が重要になって来るのである。

堀川弘通監督は、セットが嫌いで、現場で苦労して作るのが好きであるといわれている。夜の情景もつぶしではなく、その時間に撮るようにしている。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は映画ができあがってどうしてもラストが気に入らず撮り直し、それも気に入らず再度撮り直した。ラストを三回撮ったことになる。あの頃映画会社もお金があり、スタッフも燃えていたからできたといわれる。そのラストの2つのシーンに似た場面が、特典映像の予告編にもでてくる。やはり撮り直したラストがベストだと納得である。

黒い画集 ある遭難』(1961年・杉江敏男監督)

黒い画集 第二部寒流』(1961年・鈴木英夫監督)

映画『国士無双』『台風騒動記』

伊丹万作監督の映画『国士無双』は有名でそのリメイクかと軽く考えて観ていなかった。面白かった。周囲のことは意に介しない中井貴一さんがいい。剣の腕があるのかないのかの動きもいい。すっきりとした着流し姿ででてくるのもいい。どこかの御曹司若様がわけあっての一人旅か。記憶喪失か。仙人が育てた子か。などとチラチラ浮かぶがそれはナンセンスであった。映画のほうがナンセンスなのであるから。

映画『国士無双』(1986年・保坂延彦監督)。伊丹万作脚本より、原案・伊勢野重任、脚本・菊島隆三。

「武士道華やか過ぎし頃」。ところどころで字幕がはいりそれもよい。浪人二人(岡本信人、火野正平)が無一文で何とかならないかと思案して伊勢伊勢守の行列から思いつく。伊勢伊勢守になり澄まして豪勢に呑み明かそうと。ニセの伊勢伊勢守を物色中、一人の男が着流しであらわれる。男(中井貴一)は名前もなく何もわからず伊勢伊勢守の名前が気に入る。男にとってニセモノもホンモノもない。気に入った名前が自分の名前なのである。

世の中のことは何もわからぬが、道場破りの男(中村嘉葎雄)からお金をせしめる方法も学ぶ。武家の娘・お八重(原田美枝子)を助け、身投げしようとする娘・お初(原日出子)を助け、無勢に多勢の出入りのお六(江波杏子)を助ける。

お八重はホン者の伊勢伊勢守(フランキー堺)の娘でホン者はニセ者を叱責するが受け付けない。では勝負となる。なんとも武士道などお構いなしのニセ者の立ち振る舞いである。ここらあたりの動きが上手く動かしていて可笑しい。ホン者は修業にで、かつての師(笠智衆)のもとで修業に励みもどってくる。

再びホン者とニセ者の対決。ニセ者は勝ったらお八重を妻にしたいと条件を出し、娘も想う人と添い遂げられるというハッピーエンドである。その中に流れる、ホン者とニセ者との区別はなんなのか。けっこう色々あてはまる命題である。ホンモノの政治家ってなに。ホンモノの実力ってなに。際限がないかも。

のほほんとしていながら頑固な中井貴一さんと多才なフランキー堺さんの押さえ処のきいた絡み加減がなんともいい味である。

音楽(喜多嶋修)がこれまた合っていて、文楽や歌舞伎調の舞踊など多彩な色を散りばめてくれている。特典映像には伊丹万作監督の『国士無双』(1932年)の映像もところどころみせてくれる。片岡千恵蔵プロダクションの作品で、お八重が山田五十鈴さんで14歳ということである。当然ニセ者は片岡千恵蔵さん。

中井貴一さんは、お父上の佐田啓二さんがコメディが少なかったのに比べてコメディ方面での活躍も多く楽しませてくれている。

映画『台風騒動記』(1956年、山本薩夫監督)は佐田啓二さんの数少ないコメディ参加作品である。(原作・杉浦明平著『台風十三号始末記』)

昭和31年、台風13号の被害を受けた富久江町はてんやわんやである。台風による被害の補助金を貰うべく町の有力者たちは画策する。小学校を鉄筋コンクリートの校舎にしようと一千万円の補助金をもらうため小学校を壊して台風の被害にしてしまう。

そこへ友人の小学校教員・黒井(菅原謙二)を訪ねてきた吉成(佐田啓二)が、大蔵省の役員に間違えられ丁寧な接待を受けてしまうことになる。話しとしては当然ホンモノの役人が現れるわけである。そんな町の騒動を描いている。「中央公論」と「世界」を読んでいる人は赤で要注意人物ということにもなっている。何が赤だか黒だかわからぬが、赤っ恥ということもある。

出演陣が芸達者な俳優さんたちである。(桂木洋子、野添ひとみ、多々良純、三島雅夫、中村是好、加藤嘉、飯田蝶子、佐野周二、藤間紫、宮城千賀子、左卜全、渡辺篤、三井弘二、坂本武etc)

追記: 映画『国士無双』の脚本をされた菊島隆三さんが原作のテレビドラマ『死の断崖』を鑑賞。松田優作さんを映像で観るのも久しぶりである。独特の間とどちらにもとれる雰囲気がサスペンスをじわじわと盛り上げていきラスト本心があかされる。ライターを立てて煙草を吸う姿が決まっている。工藤栄一監督。

伊藤若冲(2)

若冲』(澤田瞳子著)。小説を読みつつ若冲さんの絵を眺め、旅の思い出などもフル回転しつつ刺激的な新たな旅をさせてもらった。チラッ、チラッとテレビドラマも浮かぶ。『若冲』も史実では書かれていないことを大胆に話の中心に持ってきていて、どうしてこの絵が描かれたのかというところに物語性があって若冲さんの絵の強烈さからくる発想であった。そのことによってより若冲さんの絵に視線がいく。

若冲』ではその絵に描かれている鳥、魚、動物の視線にも注目している。仲の好い鴛鴦(おしどり)が視線を合わせることがない。それも、雌のほうは水に上半身を沈めているのである。雄の方は陸で雌を無視したようにはるか先に視線がいっている。小説は若冲さんが妻をめとったことがあるという設定となっているのである。非常に大胆である。そして雄鳥の視線にも関係してくるのである。

次々と若冲さんの一つ一つの作画の動機が明らかにされていく。推理小説の動機は何かの探求とも類似していてそれが若冲さんの40歳から始まって、若冲さんが亡くなって四十九日の法要まで書かれているのである。そこまで若冲さんの絵は関係者の心の中で渦を巻き続けるのである。語り手は母の異なる妹である。ぐんぐん引っ張ってくれる。

若冲さんの家族は、法名しかわかっていないため異母妹なのかどうかはわからない。ただこの妹さんは後家となって子供一人と共に石峰寺で晩年の若冲さんと暮らしていたようである。若冲さんは、自分の生まれた錦高倉市場から離れた、深草の石峰寺に移ってそこで亡くなっている。

若冲さんは、相国寺の大典さんとの交流から黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山萬福寺の僧とも交流があり、萬福寺の住持から道号を与えられている。在家ということであろうか。そして石峰寺に五百羅漢の石仏を造像するのである。相国寺に生前墓を建てているが明和の大火で錦町内と相国寺との永代供養の契約を反故にしている。そのため、相国寺と石峰寺の両方にお墓がある。

京都を旅した時、石峰寺で若冲さんの五百羅漢に出会った。すぐそばで眺められたが肩透かしをうけたような感覚であった。あまりにも近くに無防備にそこにあり、石像は素朴な表情なのである。それは伏見人形の影響のようにおもわれる。萬福寺は満腹の様子の布袋像と僧たちが食事をする建物の前に掲げられていた大きな木魚が記憶に残っている。黄檗宗のお寺は中国的な雰囲気のお寺である。

若冲』には、円山応挙、池大雅そして与謝野蕪村、谷文晁(たにぶんちょう)も登場し、さらに応挙の息子・応瑞(おうずい)も登場する。テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』で、大典との淀川下りの時に大典さんが『上方萬番付(かみがたよろづばんづけ)』に載っている絵師の番づけを紹介する。実際には『平安人物志』と思うが応挙、若冲、大雅の順番はもっとあとに発表された番づけで、若冲さんが60歳の時のものである。4番に蕪村さんの名前がある。応挙、若冲、大雅、蕪村の順番は若冲さんが67歳の時も同じであった。

応挙さんが一番というのは、犬の絵を観ればわかる。応挙さんの描く犬は、観る人が可愛いと思う犬なのである。人が見て可愛いと思わせる犬を描いている。ところが、若冲さんの描く犬は、仲よくじゃれ合っているのだが視線が微妙にずれていて、何か考えているのと聴きたくなるのである。一匹一匹が自己主張しているようなのである。題名は「百犬図」で60匹ほどいるが、主人公がいないというより、一匹一匹全部が主人公なのである。

観る者にシリアスにも見え、見方によってはユーモアとも受け取れるのである。一つの観方で満足するような絵ではないのである。

小説『若冲』もテレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』もそんな絵から派生し、動機づけを模索したくなる力がある絵ということである。

小説『等伯』(安部龍太郎著)もあると知った。これまた惹きつけられる。

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』 16日(土)BSプレミアム 夜9時~10時30分「完全版」 放送あり

追記: テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』の放送を紹介した友人たちの評判がよかった。七之助さんを久しぶりでみた歌舞伎ファンは上手くなったと絶賛。絵を描く姿がきたえられた女形の美しさだと。

追記2: 若冲大好きなひとは。久々にドラマたのしんだ。脚色してあるのだろうが良い意味で面白かった。キャストもあっていた。時間内によく収まってもっと見たかったがあれでちょうどよいのかも。コロナでなければランチしながら若冲の事話したい。

追記3: ある人は。なかなか深い。芸術家ならではの心の純な処が(若冲と僧)いっそう前に進ませる物があり~同じ志の者が自然に集まり、より良い絵を作りだしていく。凄いなぁ~日本人にも、こんな絵を描く人がいたんだなぁ~と感心して見ていました。色彩が鮮やかで、どこが創作で、どこが史実かは、私にはわかりませんですが、そのまま心にはまりました。

追記4: 身体的表現者の方々の体調不良のお知らせを目にします。この時期ですので経験以上の精神的負担が大きい事でしょう。過剰なプロ意識は避けて充分に休養されることをお願いします。

伊藤若冲(1)

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』は、想像力を膨らませてくれるドラマであった。あのあでやかな若冲の絵に、若冲と大典顕常(だいてんけんじょう)との妖しき友愛がなんとも不思議な魅力を加えてくれました。面白い解釈でした。七之助さんは、昨年は二回も観劇を中止して生を観れなかったので、女方の柔らかさがほの見えて満足。ほあ~んとしたところが、才能を持ち合わせていたオタクの若冲という印象に新鮮味がありました。演出的にも永山瑛太さんの美しさもかなり計算されていたのでしょう。

二人を出会わせた絵を「蕪に双鶏図」とし、京都から一歩も出たことのない若冲の絵の修業がお寺が所持する絵の模写というのも納得である。池大雅が各地を旅していたのは知らなかったし、円山応挙とも上手くドッキングさせ最後に人気番付が一位・円山応挙、二位・伊藤若冲、三位・池大雅という落ちもなかなかでした。

若冲、大典、応挙、大雅の4人を結ぶ放浪の茶人・売茶翁(ばいさおう)の出現も短時間でドラマ化する役目を上手く担っている。

若冲は大典顕常とお釈迦様が中心にいる美しい世界を描くことを約束する。約束を果し、「釈迦三尊像」3幅、「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅の計33幅を相国寺に寄進するが、その中の2幅はわが同志の大典顕常に捧げるという。それが「老松白鳳図(ろうしょうはくおうず)」と「芦雁図(ろがんず)」である。白は自分で黒は大典。落下してくる雁を見つめる白鳳。ドラマの作品としてこの二つの絵に注目し設定したのがお見事である。

相国寺の承天閣美術館へ行った時、若冲があるというのであの極彩色が観れるとおもったが地味な水墨画でした。その時は知識もなくがっかりしたのです。金閣寺の書院にかかれた壁画の一部があり、当時としても書院の水墨画はめずらしかったようで、もう少しじっくり鑑賞すればよかったと今になって後悔しています。この壁画で若冲は絵師と認められるのです。

明治の廃仏毀釈で相国寺は困窮し、「釈迦三尊像」は遺し、「動植綵絵」は皇室が買い取り相国寺は存続することができたわけで若冲が守ったことになる。それで納得できたことがあるのです。

学習院大学資料館で開催された『明治150年記念 華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美』で明治宮殿の写真がありそこに若冲の絵が飾られていたのである。驚きました。どうしてここの若冲があるのであろうか。これで解決である。

この展覧会は興味深いもので、西洋化のなかでも日本の技芸を残そうと、帝室(皇室)技芸(美術)員制度をつくる。皇后のドレスにも日本刺繡で飾ったり、帝室技芸員には浅草の元からの職人さんたちが技芸員として腕をふるっていたりしたのである。

「ミュージアム・レター」には、現天皇が皇太子のとき学習院大学資料館の客員研究員をされていて、一研究員としての自然体の人柄を感じさせるほのぼのとする文章を寄せられていた。(「華ひらく皇室文化展」に寄せてーボンボ二エールの思い出ー)立場上こういう文章を書かれることはもうないのであろう。

さて若冲にもどるが、2019年の1月に「天才絵師 伊藤若冲 世紀の傑作はこうしてうまれた」というテレビ番組があり録画して観ていなかったのである。今回ドラマを観てから再生したのであるが、「動植綵絵」を詳しく分析してくれていた。

2016年に「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の33幅は日本で公開されているが、観ていない。さらに2018年にパリで公開され並ぶのがきらいなフランス人が並んだという人気ぶりであった。

その時、相国寺有馬頼底管長もパリに行かれて読経をあげられている。そして、若冲が相国寺に33幅を奉納したのは、弟が若冲に代わって家業を継いでくれたが疲労のため亡くなってしまったのでその菩提を弔うために寄進したと話されている。

番組は「動植綵絵」を5つのキーワードで解説していく。極彩色の色どり「彩」。神わざといわれる「細密」。緊張感の中に秘める「躍動」。「主役不在」。ぬぐいきれない「奇」。

「主役不在」というのは、釈迦三尊のまわりに存在するすべての尊い命ということにもつながるであろう。「老松白鳳図」はレースのような羽根の「細密」。そして「奇」にも入る。それは羽根のハートの文様で、トランプはすでに日本に入ってきていたので若冲はそれをみたのかもしれない。さらにフラシスコザビエルの人物画にハートが描かれている。愛をあらわしているのである。ただキリスト教と関係するなら隠さなければならないが、若冲は描いている。そこが「奇」である。

ドラマと重ねて現代の解釈からすると「愛」であろう。「芦雁図」は、上に向かって飛ぶ鳥が普通描かれるが、落下する鳥というのが若冲独特の眼かもしれない。老松と白鳳、落下する雁は死にむっかているのかも。その絵の前で若冲と大典顕常は死がふたりを分かつまで一緒に友でいましょうと約束する。

仏教徒ですから、死んでもこの二人はお釈迦さまの回りの動植となって何からも解放され若冲の絵の世界のあの世で永遠の日々を謳歌しているのかもしれない。それを望みつつ美しく細密に躍動的に心を込めて描いたのかも。若冲がその世界を描けることに大典顕常は嫉妬したが、きちんと二人の世界も描いてくれていてのさらなる宇宙で、自分の想いが通じていたと満足したことであろう。この二人のキーワードを加えると「秘」と「愛」であろうか。

若冲の絵にはまだまだたくさんの「秘」がありそうである。

江戸時代のひとは、アジサイはすぐ増えるので嫌ったそうであるが若冲は描いている。当時の人々の感性におかまいなしに自分の感性のおもむくままに描いている。だからこそ今も感嘆しさらに面白がられて楽しませてくれる。

若冲に関しては知らないことが多く、ドラマはまた違うドラマを呼び起こしてくれました。

中村七之助・永山瑛太 W主演!正月時代劇「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり」制作開始 | お知らせ | NHKドラマ

追記: 源孝志監督の映画『大停電の夜に』は、クリスマスイヴに停電がおこる。その事によってそれまで隠されていた事実があきらかになり、ねじれてしまっていた人間関係がスームズに上手く流れるようになる。交流の無かった人々がどこかで作用しあう。停電は結果的にサンタクロースのプレゼントとなる。穏やかな展開でありながら意外性あり。

追記2: 若冲さんの絵の本を手もとに置き、澤田瞳子さん著『若冲』に入る準備整う。どんな若冲さんであろうか。心持ち飛躍。図書館にネットで予約した本も届いたと連絡あり。接触少なくて助かります。

追記3: 図書館では返却された本と予約の本は消毒してくれていた。他の図書館で借り手が殺菌する機器を利用できるところがあったので設置の希望をだした。置いてある鉛筆を「消毒済」「使用済」に分けてくれていたが、マジックの黒で書かれていてウム!とおもったので赤でわかりやすくしてはとお願いしたら、「消毒済」「使用後」となって赤を上手く使ってパッとわかるようになっていた。使わない人もやってくれているのがわかる。よかった。 

新しい年・爆笑問題

正月三が日外に出ないという初めての年である。今のこの世の中からすると、出なくても生きていられることに感謝すべきなのかもしれない。今日から不安を感じつつも生きるために満員電車に乗らなくてはいけない人々もたくさんおられるのである。そのことを思うとこちらの立場など微々たるものである。のか。

と言いつつ愚にもつかないことを書いていくことになるのが心苦しいが、記憶から消えるのも速くなったので多少なりとも残るように書き続けることにします。

2021年の最初は、DVD『漫才・爆笑問題 ツーショット』(2019年度版)です。生でも観た事があるので30分位のネタで幾つか収録されているのであろうと思ったら1時間15分近くずーっと舞台に立ってしゃべっていた。これには驚いたが飽きさせないのには恐るべしである。

太田光さんのほうはしゃべりながら百面相やら演技も入ってくる。それを上手く操り話を進める田中 裕二さん。日本語の面白さを再認識させられ、その展開は世代層の幅が広いのである。令和という新しい元号から新しさを披露する。雛飾りがプロジェクトマッピングで8段でも16段でも飾れてお雛様たちが踊ったり歌ったりすることもできるといって出てくる歌が昭和の歌なのである。

新しさから過去への戻り方が老若男女を問わず惹きつけてしまう。

ことば遊びも上手い。イチロー選手が引退したことから、振り子打法が振り込み打法になりオレオレ打法になる。

出てきた映画名が『君の名は。』『ラ・ラ・ランド』『13日の金曜日』『バトル・ロワイアル』『貞子』『カメラを止めるな!』『翔んで埼玉』『万引き家族』『ボヘミアンラプソディ』『タイタニック』である。

ホラーは苦手なので『13日の金曜日』『貞子』は観ていない。『バトル・ロワイアル』も観なくてはと思いつつ後回しになっている。『タイタニック』で太田さんがネタバレしてると怒ってられたので、このDVDのネタバレはここまでとします。2020年版もたのしみである。

映画からおもいだした。『万引き家族』の是枝裕和監督の映画『真実』も観ていた。大女優が自伝を出版するが、書かれていないことがあると娘が家族と訪れて母にただす。母の女優は映画の撮影中で、撮影現場との往復で娘の知らざることがわかっていくという展開である。この撮影を追ったテレビでのスペシャル番組『是枝裕和X運命の女優たち~フランスに挑んんだ一年~』の録画も見終えた。『真実』の撮影現場がのぞけて、カトリーヌ・ドヌーヴの貫禄振りはさすがであった。

今年もこんな感じで進むとおもいます。昨年は読書の楽しみに浸れたのでそのほうに時間が多くとられるでしょう。

追記: ツーショットにもう一つ映画名がでてきました。『三度目の殺人』です。突然思い出しました。あぶない、あぶない!詫びません!

追記2: 2020年版を観る。一年間を笑いつつ全くばかばかしいことがあったなあと思い出しつつふり返れた。そのばかばかしさが今も続いているのが腹立たしいが。ネタバレに太田さんがまた文句を言ったら、反対に田中さんがオレはどれだけその犠牲になって犯人を知らされたかとぼやく。田中さんは太田さんの止まらない一人芝居の犠牲にも。どこまで続くのか。よく続くと感心もする。