上野・トーハク・本館から東洋館へ(2)

本館に入って正面の階段はよく撮影に使われテレビドラマ『半沢直樹』にも登場していました。『聖林寺十一面観音』のあとさら~と常設展をみて二階のテラスに出て庭を眺めもどってきて壁に目が行きました。知っていましたが、微妙で地味ながら古風な文様に写真をとりました。触るとゴツゴツ、ザラザラした感触です。

そしてお隣の東洋館へ。青が綺麗。

地下におりてすぐ右手に『ナーガ上のブッダ座像』があり、ここで思いだしたことが。『新TV見仏記』のなかで、仏像の光背のてっぺんが前にカーブしているのを「コブラ型」と話されていたのです。

映画『リトルブッダ』でお釈迦様が修行されてるときコブラが背後から近づいてくるのです。そばまできて立ち去るのかなと思っていましたらお釈迦様の頭の上までおそいかっかてきます。そしてじっととまりました。お釈迦さまが雨に濡れないように傘になったのです。それで「コブラ型」かとわかったのです。

ナーガ上のブッダ座像』は少し破損しているのですが、お釈迦様の背後には頭上に7つの蛇の頭がつきだしています。解説がありました。

「禅定(ぜんじょう)に入るブッダ(釈迦)を降り続くあめから守るため、蛇神ナーガがとぐろを巻いた体を台座に、7つの頭をさしかけて守る様子をあらわした像です。カンボジアでは水を司る神であるナーガに対する信仰が篤く、仏像と結びついてこの形の像が多数造られました。」

他にもありました。納得です。(「クメールの彫刻」)

みうらじゅんさんといとうせいこうさんの掛け合い漫才のような可笑しさでいながらピッピッと記憶の残ることを発せられるのです。どこかの大国主大神(おおくにぬしおおかみ)像のお顔を観て「これも怒ってるね」といわれていたのです。『聖林寺十一面観音』に「大国主大神立像」もおられまして怒っていました。袋を肩にかけられていて、大国主と大黒天とが習合されて信仰された時期があるようです。そして怒ったお顔の時期もあるらしいのです。らしいのですで終わりますが、「怒っている」に反応しました。

どうして怒っているのかはゆっくり調べてみます。

イスラーム王朝とムスリムの世界』。イスラーム王朝の歴史には全く無知ですが、工芸品は美しく優雅です。

青釉透彫(せいゆうすかしぼり)タイルの青、文字文タイルの文字が模様のように浮き出たタイルなどもイスラムの建築様式の華となっていたのでしょう。

異文化を堪能しました。

追記: 下記にアクセスすると、『ナーガ上のブッダ座像』の写真が見れます。

 東京国立博物館 – 展示 アジアギャラリー(東洋館) クメールの彫刻 作品リスト (tnm.jp) 

追記2: 東洋館のクメールの彫刻の作品リストの中にある『ガネーシャ座像』は、頭が象で体が人なんですが、ヒンドゥー教のシヴァ神の子なんだそうです。見仏記のスペシャルDVD「驚愕の異形編」で大阪の正圓寺に体が仏様の仏像がありました。

みうらじゅんさんといとうせいこうさんが興奮していましたが、私も日本にもこうした習合の仏像が作られたのだと驚愕でした。東洋館もっとゆっくり丁寧に楽しまなくてはとおもいます。

歌舞伎座七月『あんまと泥棒』『蜘蛛の絲宿直噺 』

七月の歌舞伎座第一部は二作品とも再演です。『あんまと泥棒』は2018年に上演され、あんまの中車さんと泥棒の松緑さんのコンビです。

前回よりも肩の力が抜けられているであろうと予想しましたがその通りでした。あんまの秀の一の声からして自然で、前回は姿が見えないだけに調子も強調していたように思えましたが、その力みがなく、登場しても声だけで充分聞かせるセリフの流れでした。そのためか、外の暑さから涼しさにホッとしてセリフを子守歌にコックリされる方もいました。

ゆっくりと秀の市をという人物を理解していきます。犬を追い払ってから、いや足を噛まれて怒鳴り込めば幾らかにはなると考え直すあたりは、全てお金に換算して生きている人なのです。

そのことが、泥棒とのやり取りでもどんどん出現します。泥棒の権太郎はおどすしか能のない男です。その差が秀の市と権太郎のやり取りでわかってきます。二人のやりとりから、コックリの方もお目覚めですっきりとされたのか観劇に参加され笑っておられました。

買い置きの焼酎も泥棒に呑まれてはいません。しっかり飲み終わっています。さてっとどこから攻めようか。ところで泥棒さん、あなたの稼ぎはどのくらいですかときます。そして、借金の取り立てだって頭を使うんですよときます。さらに10両盗めば首が飛ぶんですよ、泥棒なんて割に合わないではないですか。

もと八百屋の泥棒は、島送りになって帰ってみると女房は死んでいて、秀の市が女房のお墓のためにチビチビお金をためていると聞くとどっと情にはまってしまう男なのです。秀の市の話術以上に権太郎は泥棒に向いていない男なのです。

泥棒に向いていない男と、金貸しに向いている男の話しでもあります。お勤めの太鼓の音にも情をかきたてられる泥棒さんだったのです。

中車さんのこざかしいあんまに、見栄えは立派な身体でも泥棒に向かない松緑さんがコロリと騙され本性をさらけ出され、本性をさらけ出すお芝居でした。

蜘蛛の絲宿直噺(くものいとおよづめばなし)』は<再びのご熱望にお応えして>とつけられています。

昨年、2020年11月に4部制で一演目づつ公演したときの第一部でしたので、はや再びということになります。

今回は配役も少し変わり、源頼光の四天王も昨年は2人だけの登場でしたが、今回は4人揃い、さらに平井保昌の押し戻しが挿入されるという豪華さです。

そして、猿之助さんの役どころの衣裳も前回と変わるところがあります。太鼓持彦平の羽織が変わり涼やかになっています。傾城薄雲が実は女郎蜘蛛の精であったということで、この衣装とカツラと顔のつくりも変えて今回は6役として一つ増やしています。

女郎蜘蛛の精の墨の濃淡のような隈取りと平井保昌の茶の隈取りの違いが映えていました。ラストが豪華な絵で、白の蜘蛛の糸とバックの滝のような白が外気の暑さを忘れさせる華の色どりです。

松緑さんの平井保昌が押し戻しの豪快なのに、セリフは出演者の名前づくしや内輪話というご愛嬌も。源頼光の梅玉さんに傾城薄雲がたおやかな色気でせまります。

太鼓持彦平の踊りも軽快さにゆったり感も加わり、番新八重里は前回よりも古風さを感じました。前回は早変わりの軽快であっというまに終わりましたが、今回は早変わりはもちろんですが、しなやかさと豪快さと涼しげさを堪能しました。

坂田金時(坂東亀蔵)、碓井貞光(中村福之助)、ト部季武(弘太郎)、金時女房八重菊(笑三郎)、貞光女房桐の谷(笑也)、渡辺綱(中車)

上野・聖林寺の十一面観音像がお出ましに(1)

うれしいです。よくお出ましくださいました。奈良で出会いまして、二回目お目にかかりに行きました。

一回目、桜井駅にある観光案内で聖林寺への行き方を尋ねたのです。小さな手書きの地図が用意されてありまして、帰りには安倍文殊院に寄るようにと黄色のマジックで道を記してくれたのです。こういう出会いがあると今回の旅は善き旅であると確信しました。

その観音様が上野の国立博物館にお出ましになってくれたのです。しばらく出歩かないのでトーハクのフライヤーも目にしなかったのですが、歌舞伎の『日蓮』を観て、何となくトーハクのホームページを開いたら嬉しいショックでした。日蓮さんの波及力静かに広がってました。

聖林寺の十一面観音菩薩立像、360度、間近にお姿を拝見することが出来ました。

大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺(神社に属する寺)の大御輪寺(だいごりんじ)に秘仏としてまつられていたのですが明治時代の神仏分離で廃仏毀釈となるところを聖林寺へ移されたのです。おそらく聖林寺でも説明があったのでしょうが、聖林寺の十一面観音菩薩立像としか頭になく、今回かつておられた場所と、一緒におられた仏像もしっかりわかりました。

地蔵菩薩立像(法隆寺蔵)、日光菩薩像・月光菩薩像(正歴寺蔵)。 不動明王坐像(玄賓庵蔵)は今回はお見えになりませんでした。

東京国立博物館 – トーハク (tnm.jp)

追記:

追記2: みうらじゅんさんといとうせいこうさんのDVD『新TV見仏記2』で聖林寺と安倍文殊院に行かれてました。聖林寺で座して拝観した十一面観音の感じがでてますので映像から撮りました。ガラス越しからの拝観なのです。博物館ではガラスにすっぽり収まっています。

仏教関係の映画からお坊さんの映画談義の本へ

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』。釈徹宗さんと秋田光彦さん、お二人の映画談義です。お二人は住職をされていてさらに色々な活動もされているらしく、さらに映画好きというお坊さんなのです。

この映画は般若心経のこういう言葉の意味とつながりますとか話されるのかとおもっていましたら、そんな説教はありませんでした。読んでいるうちに、えっ!この映画も観ていたのですかと、勝手に親しみを覚えてそうそうあの映画のそういうところが面白かったですよねなどとうなずいたり、これ観なくてはとDVDを借りたりしました。

ただお二人にしますと映画は映画館で観るものでDVDなどは邪道なのです。映画を観たことにはならないのです。すいませんがこの邪道がたまらない魅力なのです。ずーっと気にかかる疑問などを映画館で観れるまで待っていられる忍耐性がなくなっています。近頃は配信なども利用しています。映画関係の本を読んでいて観たいと思い、観れるはずもないという映画を配信で巡り合えたりするのです。溝口健二監督の無声映画『瀧の白糸』もそのひとつです。この誘惑には抵抗し難い魅力があります。

邪道をやらなければ、映画関係の本など読まないでしょう。というわけで邪道者が参入させてもらいます。この本に出てくる映画は110本近くあり、そのうち観たのは50本ほどでした。ゆえに参入どころかチラッとまぜっかえして終わりということになります。

秋田光彦さんは映画製作にもたずさわれていて、秋田さんが原案の『カーテンコール』は観ました。佐々部清監督の映画を観ての『カーテンコール』への流れで、その時は原案がどんな方かなど知りませんでした。

映画館で映画と映画の間を繋ぐ幕間芸人(まくあいげいにん)の家族の話しです。かつて下関市の映画館で幕間芸人をしていた人を取材してほしいという依頼からタウン誌の女性記者が取材するのです。その彼女の過去や、映画産業の衰退、知られざる在日コリアン家族の別れと絆が彼女の取材で明らかになっていくのです。女性記者の粘りづよい取材が過去と現在と未来をつなぐことになるのです。

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』の映画談義の中に出てくる映画に進みます。<お坊さんが読み説く映画の中の生老病死>とありますように、<生老病死>と一つ一つテーマごとに映画作品が登場します。到底全てに触れるわけにはいきませんので「第4章・死ぬ」で出てきた映画について少し。

死体がテーマの映画について言及があります。『スタンド・バイ・ミー』がそうです。少年たちは死体を探しにいきます。テーマ曲がたまりません。ヒッチコックの『ハリーの災難』は、死体によって生きている人間が翻弄されます。遺体は出てこないのですが誰が殺したのかという『8人の女たち』もオシャレで面白い映画でした。

日本映画では、『おくりびと』があります。アメリカでは、遺体に対し「日本人は、こんなに敬意を払うのか」と驚嘆されたのだそうです。私などは遺体を扱う人の仕事の大変さのほうをみていましたが、そういう見方もできるのだと気づかされました。

フラットライナーズ』は、医学生の一人ネルソンが人為的に死を経験して蘇生するという実験をするため4人の仲間(レイチェル、ダヴィッド、ジョー、ランディ)を集めます。臨死体験の実験なのです。かつて映画好きの知人から、若い頃のスターたちが出ているとの紹介で観たのです。5人の仲間の俳優は、キーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、ウィリアム・ボールドウィン、オリヴァー・プラットです。

ネルソンは無事蘇生します。ところがそれから彼は少年に襲われるようになります。それは子供の頃いじめて亡くなった少年だったのです。そのことをネルソンは仲間に言わなかったので、ジョー、ダヴィッド、レイチェルと実験はつづきます。ダヴィッドは自分が過去の罪をよみがえらせて持ち帰ったことに気づき、その相手に謝り許しを得ます。

ネルソンは自分が死んで死後の世界でその子に謝るしかないと一人で死を選びます。それを察した仲間はネルソンを蘇生させようとします。ダヴィッドは、神の領域を犯した自分たちを許して下さいと祈ります。ネルソンは少年の許しを得て蘇生します。あきらめかけていた仲間たちは安堵します。この映画を観なおし死後の世界は神の領域というのが印象的なセリフでした。

お二人のこの映画に対する考え方が、臨死体験といっても深層心理のフタが開くだけで別に死をのぞいたわけでもなんでもないという描き方とされています。さらに、まじめに罪と向き合って告白することによって赦されるという典型的なキリスト教文化の図式とされます。

最初に観た時は、サイコ映画のようにただドキドキして観ていて、今回はダヴィッドが救いの道を見つけたのかと流れが捉えられたので、お二人の観方にも素直に納得できました。

一番興味深く納得できるというかそうすれば落ち着くと思わされたのが、釈徹宗さんが今思いつきましたと言われたことです。小津安二郎の超ローアングルは、死者のまなざしじゃないですかという考えです。『東京物語』を例にとられているのですが、私が気になっていたのは誰もいなくなった家の廊下などからの長い静止の映像です。なんでこんなに長く映しているのかと思うのです。

飛躍しすぎますが、いつかは誰もいなくなるという死者のまなざしだとすればあのくらいの長さがあっても当然と思えます。上手く言えませんが淋しさとかも静かに超えて無心になっていく時間のようにも思えてきました。何かを語りたいという死者のまなざしが静かに引いて行く何とも言えない時間空間の感覚。

もう少し時間を置いてから小津安二郎監督の映画は観なおしてみます。全然的外れでしたということにもなりかねませんが。

というわけで、お二人の映画談義からいただいた自分勝手な搾取のほんの一部分だけの紹介でした。

邪道でも半分しか観ていませんからね。これだけの、いえもっと観られているのでしょうが、映画館で観られていたというのはどういう時間の使い方をされておられたのでしょうか。摩訶不思議です。『人生、ここにあり!』のやればできるの精神でしょうか。

追記: 登場人物があの世からこの世へ姿を現すのが多いのが今月の新橋演舞場の『おあきと春団治~お姉ちゃんにまかしとき~』です。伝説的になっている春団治をバックアップしていたのが姉のおあきであったという視点です。そのお姉ちゃんが春団治の娘にお父ちゃんのお見舞いに行ってあげてと頼みます。藤山直美さん、これといった演技をしているようには見えないのです。それでいながらじ~んと胸にきます。なんやろ、これ死人技(しびとわざ)? 芸の極み?

仏教関係の映画(3)

お寺を持つこともなく民衆の中に入っていった聖でよく知られているのが作仏聖の円空(1632~1695年)です。12万体の微笑み仏像を作ったといわれています。

ドキュメンタリー『円空 今に生きる』。「例えどのような朽ちた素材からでも、全ての人々を救うための神仏像を、私は彫るつもりである。」

円空が仏の道に入るきっかけとなったのは、母が洪水で亡くなったことによるようです。悩み苦しむ人のために、病に苦しむ人のために、干ばつに苦しむ人のために、限りある命を助けるために、ひたすら仏像を彫り続けたのです。何の効き目もなくあざけられたり、苦しさのはけ口として罵倒されたりもしたのです。時には自分の守り仏として喜んで受け取ってくれる人もいました。

それらすべてを受け入れて円空はその一瞬一瞬を仏像に祈りを込めて彫り続けたのです。

中国から茶を日本に伝えたのが栄西(1141~1215年)です。この方も興味があり、映画はないかと探しましたが無いようです。考え方が柔軟というのでしょうか周囲とあまり対立することなく禅の道を歩まれたようです。

ここからは少し番外編で進みます。市川雷蔵さんの映画を観ていた中から『安珍と清姫』と『妖僧』。

安珍と清姫』といえば道成寺です。もちろん安珍の隠れた鐘に蛇となって巻き付き火炎を発します。ただラストは悲しくも美しい恋の物語となっています。安珍は雷蔵さん、清姫は若尾文子さん。

清姫は馬に乗り、弓を使うのです。狐を射った矢が旅の僧の腕に刺さってしまいます。奥州の白河から道成寺に21日間こもり祈るための旅の途中でした。清姫の真砂の屋敷で療養します。自分を避ける安珍を清姫は僧も男であると惑わし、そこから安珍は煩悩にさいなまれます。安珍はついに戒律を破り清姫を抱いてしまいますが、やはり心が決まりません。

安珍は清姫の幸せを願い再び道成寺へ。そこで僧侶たちに鐘の中に隠されます。追いかけてきた清姫は川に飛び込み蛇となり鐘巻となります。安珍は命が助かりますが迷いなく清姫への愛を貫くことを決心します。そして亡くなった清姫の遺体を抱きかかえ一生清姫の菩提を祈ることにするのでした。

妖僧』」は、奈良時代の超悪僧の声高き道鏡と天皇の恋の話です。全て恋の話となるところが映画スターと大衆の映画の娯楽性に対する要望でしょうか。

10年に及ぶ修業に耐えた僧が妖力を得、女帝の病を治します。僧は道鏡と名のり、正しい政治を行うことを女帝にすすめ、女帝もそれを実行しようとします。しかし、私利私欲にまみれ腐政を行う権力者たちがそれをはばみます。女帝は道鏡に恋をし、道鏡も戒律との板挟みになりますが、恋の力に負けていき、それと同時に妖力も失い新たな女帝の病を治すことが出来なくなります。

女帝は道鏡との短い恋に満足して亡くなられ、道鏡も死を持って女帝との未来を信じ暗殺の刃を受けて亡くなります。道鏡には権力欲は無く愛に生きた人として描かれています。

映画『山椒大夫』は、如意輪観音に導かれているといってもいいでしょう。平正氏は農民の側について奥州から筑紫に左遷となってしまいます。

正氏は息子の厨子王に「人は慈悲の心を失っては人ではない。おのれをせめても人にはなさけをかけよ。人は等しくこの世に生まれてきたものだ。幸せにへだてががあって良いはずがない。」と教え、家に伝わる如意輪観音像を手渡します。

厨子王、妹の安寿、母の玉木、召使の姥竹の4人は父の居る筑紫に向かいます。ところが越後で人買いにだまされ、母と姥竹は安寿と厨子王とは別の舟に乗せられ姥竹は舟から転落して亡くなってしまいます。母は佐渡へ連れていかれ、安寿と厨子王は丹後の山椒大夫の屋敷で奴隷として使われます。

厨子王は、長い奴隷生活のため如意輪観音も信ぜられず、父の言葉も失っていました。安寿は屋敷の外に出る機会のあった時に兄を逃がし、自分は入水してしまいます。厨子王は何んとか逃げることができ、如意輪観音像を持っていたことから身分がわかり、都の宮廷で出世し、丹後の国主となります。

さっそく厨子王は奴隷の解放を命じ、山椒大夫を追放しますが、命を懸けて助けてくれた安寿とは会うことは出来ませんでした。山椒大夫が管理していた荘園は右大臣の所有で国主が勝手にできる場所ではありません。それを厨子王は知っててやったのです。その時の厨子王には父の言葉がよみがえっていました。

厨子王は佐渡で眼の見えなくなり鳥追いをしている母を探し当てます。母に如意輪観音像をさわらせ自分が厨子王であることを告げます。そして父の言葉に従い出世を捨てましたと言い、母は喜びの涙にくれます。

映画『敦煌(とんこう)』は、出世を望んだ男が生きる最後の目的として、価値はわからないが戦から仏教経典を守るというラストでした。

仏教を深く学ばれている方は映画からもっと違う見方をされるのかもしれません。

そんな本にめぐりあったのです。

仏教関係の映画(2)

さて仏教の祖のお釈迦様の映画にいきます。映画『釈迦』は2時間半と長かったです。シッダ太子の本郷功次郎さんが全てを捨て菩提樹の根元に座しで瞑想に入り悟りをひらいてブッダ(釈迦)となってからは姿を現さず影であったりロングで撮ったりします。

シッダ太子の従兄で邪悪の権化であるダイバ・ダッタが勝新太郎さんで、神通力を会得してお釈迦様の邪魔をします。ダッタはマダカ国の若君をかどわかし国王を幽閉させます。その国王が寿海さんで息子が自分の間違いに気がついた時には亡くなっていました。

ダッタは自分がマダカ国の王となり、お釈迦様を信ずる仏徒たちを弾圧します。怒ったお釈迦様は地震を起こし地を割き、ダッタを地下に落としますが改心したダッタを救い上げます。

お釈迦様は信徒に看取られながら入滅され天へ昇って行かれます。

大スペクタルの映画で出演者も豪華ですが長すぎて途中飽きてしまいました。罰当たりな事です。

アニメ『手塚治虫のブッダ ー赤い砂漠よ!美しく』と『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ ー終わりなき旅』。手塚治虫さん原作のアニメ2作品は惹きつける力が強く集中して観ました。物語の運び方がさすがです。 

王子であるシッダールタと奴隷の子であるチャプタとの生き方を同時進行で進めて行きます。シッダールタの悩みは内面的なもので表にあらわしづらく物語性が弱まってしまうことにもなるので設定が上手いです。全く違う身分の二人によって世の中の仕組みを描いてもいるのです。そして属する国の違いによって国と国の争いも降りかかってきます。さらに、超能力をもった子供・タッタも登場し変化球を投げてくれます。

チャプタは奴隷の子であることを隠して上の階級に這い上がろうとしますが、母を見殺しには出来なくて死を選ぶこととなります。シッダールタは何不自由のない身分なのに心が静まらず全てを捨て出家の道を選びます。

シッダールタはきびしい修業の道を歩みます。途中で一緒に旅をすることになった少年・アッサジは人の未来を予言でき、自分の未来をも予言します。そしてその通りになりアッサジはお腹を空かせたオオカミの子に自分の身を差し出し食べられてしまうのです。

タッタは大人になり子供の頃の超能力はありません。盗賊となっていました。かつてシッダールタと心を通わせた娘とも再会します。様々な人の生き方を通して学びつつやがってシッダールタは悟りをひらきブッダとなるのです。

アニメ映画は三部作としていますのでいつか三部を観ることができるでしょう。

特典映像のなかでチベット仏教の14世ダライ・ラナが語られています。

「ブッダは苦行もしましたが最終的には智慧の局面を考えることを重視するようになったのです。先ほど申したように仏教では知性を最大限に使うように説きます。< 弟子たちよ、僧たちよ、学者たちよ、私の教えは単なる信仰や信仰心からではなく、入念に吟味した上で受け容れなさい。>と述べています。これは非常に科学的なアプローチだと思います。常に疑いの心を持ち、よく吟味せよというのです。吟味した結果が納得できたものなら受け入れても構わない。」

映画『クンドゥン』は、14世ダライ・ラマが、田舎でダライ・ラマの転生者として見つけられ、中国の統治からインドへ逃亡するまでが描かれています。

チベットはダライ・ラマを指導者と仰ぎ一千年の間、非暴力主義を貫いてきたのです。彼こそはブッダの慈悲の化身とされてきたのです。13世が逝去し高僧が旅人にやつして4年後に探しあてます。転生系譜というのが長い間続いているのです。知りませんでした。歴史的経過は詳しくは知りませんが、大国の介入というのは横暴さが目立ちます。それも暴力が横行します。

マーティン・スコセッシ監督は、宗教に強い関心をもたれているようで、遠藤周作原作の『沈黙』も映画にしていますね。

映画『リトル・ブッダ』は、転生の話で、高僧・ドルジェ僧の転生者を探しています。シアトルに住むアメリカ人の少年・ジェシーがその候補となります。ジェシーはプレゼントされたブッダの本を開きます。本を読むと映像はシッダールタの話へと変わります。シッダールタはキアヌ・リーブスです。

この高僧の転生候補がほかに二人現れるます。ネパールで路上芸人の少年のラジュと少女のギータです。三人は会います。そして、三人はそろってシッダールタの物語を間近でながめシッダールタが悟りを開きブッダとなる過程を目にするのです。さて三人のうち誰が転生者となるのでしょうか。

一人の人が三人にそれぞれ別々に生まれ変わる場合もあるとしています。肉体、言葉、精神がそれぞれに別れて共存すると。

ブータンでドルジェ僧の弟子であったノルブ僧は転生者を選び終わり役目を無事終え、座して瞑想の中で静かに息を引き取ります。

ブータンまで息子と共に旅をしたジェシーの父は親友の事故死にショックを受けていましたがこの旅で何かを感じたようです。

このベルナルド・ベルトルッチ監督の映画は、監督の<オリエント三部作>『ラストエンペラー』『シェルタリング・スカイ』『リトル・ブッダ』の一つとして観るという見方もあるようです。

映画『クンドゥン』と『リトル・ブッダ』で砂でできた美しい曼荼羅が風で壊れたり、手で壊されるのは何かを暗示しているのでしょう。

お釈迦様の悟りまでの道のりやその瞬間などそれぞれの想いで描かれていました。

仏教関係の映画(1)

「仏教関係の映画」とくくりましたがかなり大雑把です。6月歌舞伎座の『日蓮』の上演を知ってから見始めました。

映画『日蓮』は、中村錦之助(後の萬屋錦之助)が日蓮で、『日蓮と蒙古大襲来』は、長谷川一夫さんが日蓮で、お二人のスター性を堪能する楽しみもあります。物語の経過は同じで、比叡山から故郷の安房に帰り清澄寺での初講和で異端とされ命さえも狙われるということになります。自分の説く仏教だけが本当の仏の教えなのだとその一途さはほかの宗派にあって共通しています。

日蓮は伊豆に流されその後佐渡にも流され、元寇の襲来では祈りを捧げ撃退させます。日蓮宗の開祖。

映画『日蓮』のほうに、日蓮の弟子・日朗に中村光輝(現・又五郎)さんが、北條時頼として染五郎(現・ 白鸚)さんが出演しています。

日蓮と同じころ、親鸞(1173~1263年)、道元(1200~1253年)、日蓮(1222~1282年)が重なっているのです。とにかく人々を助けたいという一念を思い起こさせる世の中だったのでしょう。そして勉強しなおしたらそれぞれが違う解釈の仏法が誕生したということでしょうか。それと上流階級のものであった信仰が全ての人のものだという解釈が生まれた事にもよるのでしょう。

親鸞は映画『親鸞 白い道』を観ました。かなり以前に友人がよくわからなかった言っていましたので覚悟してみました。確かにわからなかったです。仕方がないので映画の紹介サイトであらすじを読みやっとそういうことなのかと場面場面があてはまりました。

親鸞は新人の森山潤久さんで教えの道の厳しさが地味で苦難の旅であることが伝わりますが映画も地味です。三国連太郎さんは、親鸞をしっかり研究されていたのでしょう。映画としても妥協しないという姿勢が感じられました。

法然(1133~1212年)から親鸞へとつながっているのは知っていましたが浄土宗から浄土真宗へと変わったわけでその違いについてはわかりません。宗教の教義については全てがわからないと言ったほうが正しいですが。

さて『歎異抄』というのは教科書にも出てきましたのでそういう宗教的本があるというのは知っています。アニメで『歎異抄をひらく』がありました。親鸞のもとで学んだ弟子の唯円が、親鸞の死後、親鸞の教えが間違って教えられていることに危惧を感じて親鸞はこういう風に教えられていたのですよというのを書き表したのが『歎異抄』だったのです。

アニメでもありわかりやすく唯円が親鸞と出会い親鸞の元で修業し、『歎異抄』を書くまでが描かれていました。倉田百三さんの『出家とその弟子』は、親鸞と唯円を中心に描かれている戯曲という事も知り、この戯曲読みたくなりました。

その後に登場するのが蓮如(1415~1499年)ですが、これもアニメ『なぜ生きる ー蓮如上人と吉崎炎上―』がありました。妻と子供を失った男が蓮如の説法から弟子となり了顕と名乗ります。いろいろな迫害があり、越前の吉崎にたどりつき、吉崎御坊が建てます。しかしそこも火を付けられ、蓮如は親鸞直筆の『教行信証』を置き忘れたのに気がつきます。弟子の了顕が取りに火の中に飛び込み見つけますが逃げ出せません。腹を切り裂きその血で教本を守ったのでした。

アニメになると教えも簡略で解りやすくなっていて受け入れやすいです。

道元の映画は、映画『禅 ZEN』です。道元は宋に渡り如浄禅師からひたすら座禅すことを教えられます。ついに心身ともに脱落して自由となる境地まで達し、日本に帰ってきます。これまた理解されるまでには年月がかかり、越前の永平寺でやっと心おきなく自分の進むべき道を貫き曹洞宗の開祖となります。道元は中村勘太郎(現勘九郎)さんで役どころにあっていました。

さてこの人々のもっと先に最澄(767~822年)や空海(774~835年)がいるわけです。映画『空海』は空海が中心ですが、最澄も出てきます。同じ時期に二人とも唐に渡っています。

最澄は特別扱いで一年で日本に帰国し密教も持ち帰りますが、空海は留学生で20年いなくてはならないのに滞在期間が2年で帰国します。長安の青龍寺で恵果和尚から密教を全て学び、多くの経典を持ち帰ります。最澄は空海から密教の教えをうけます。最澄は国師でもあり多忙でありさらなる教えは弟子にまかせ比叡山延暦寺に入り天台宗の祖となります。

空海は讃岐においてそれまで洪水による堤防決壊のためにため池を造成します。そして真言宗の祖として高野山にて没します。空海の場合は永遠の瞑想に入っているということで入定(にゅうじょう)となっています。

空海が北大路欣也さんで最澄が加藤剛さん。朝廷の争いなども整理されて描かれています。

映画「空海―KU-KAI― 美しき王妃の謎」もありました。原作は夢枕獏さんの『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』で、唐にいる空海が怪奇な世界に導かれます。それは一匹の猫が楊貴妃の死の真実を伝えたいということから起こり、空海はみごとその真実を探しあてます。ではこれから仏の教えの道に集中しようと青龍寺に向かいます。今まで閉ざして開かれなかった門が向こうから開いて受け入れてくれるのです。

そこで待っていた恵果和尚とは、、、、。

美しき王妃の謎解きができなければ空海の密教への道はなかったわけです。まったく異次元の楽しみ方ができる映画です。

追記: 『出家とその弟子』を読みました。唯円は親鸞に導かれて恋を成就しますが、親鸞の息子の善鸞はついに仏を信じると言えませんでした。唯円と善鸞の対比がこの戯曲の主題におもえます。そして親鸞の苦悩もそこにありました。善鸞の誠実さもわかります。