劇団民藝『熊楠の家』

和歌山となれば、、南方熊楠(みなかたくまぐす)さんをはずせないでしょう。どうして南方熊楠の名前を知ったのかは記憶にありませんが、風変わりで、自分の好きなことを貫き、凄いことをした人がいたのだと驚愕し、その方が芝居でとりあげられるのを知り観劇したのですが、初演の22年(1995年)ぶりの再演ということですから22年前の初演に観た事になります。

小幡欣二さんが劇団民藝に書きおろされた9作品の最初の戯曲で、この面白い作品が22年も再演されなかったのかと不思議な気がします。今年は南方熊楠生誕150年ということです。

『熊楠の家』で初めて劇団民藝の演劇をみたことになります。舞台での南方熊楠さんも魅力的な空気をまき散らしてくれました。

南方熊楠さんは外国語が出来て、民俗学から生物学と文科系と理科系の両方の研究者で、東洋、西洋とはず文献を調べ、アメリカ、キューバ、イギリスを遊歴し、父の遺産を使い果たし帰国し、熊野の那智周辺で植物採取をはじめ、粘菌の研究に没頭していきます。海外での論文発表で、海外の専門家に知られていたかたでもあります。

南方熊楠さんを日本で有名にしたのは、昭和天皇が南紀行幸の際、南方熊楠さんに講義を依頼されたことで名前が知れ渡りました。『熊楠の家』でも、田辺で結婚してからの熊楠さんと家族、そしてそれを取り巻く人々の様子、昭和天皇に御進講までの半生を描いています。その御進講の際の粘菌の標本箱にキャラメルの空き箱を使ったという話は、熊楠さんの豪放さをあらわす話しとして残されています。それだけ貧乏でもあったわけですが。

初演の時の芝居の詳細は忘れていますが、熊楠は米倉斉加年さんで、南方家のお手伝いさんの老婆お品が北林谷栄さんで、お二人とも声と台詞術に特徴がありますから薄くなってはいますがチラチラと浮かびます。チラシが残っていまして演出は観世栄夫さんでした。

今回(2017年6月15日~は26日 紀伊國屋サザンシアター)は、演出が丹野郁弓さんで、熊楠が千葉茂則さん、お品が別府康子さんで、熊楠さんの写真からしますと千葉茂則さんのほうが熊楠に似ており豪快さが出ておられ、別府康子さんも個性的なお品となっており力強い土着性が出てました。

初演と再演に出られているのが、熊楠の娘・文枝のダブルキャストの中地美佐子さんが再演で熊楠の妻・松枝で、床屋の久米吉の横島亘さんが再演で熊楠の友人の眼科医・喜多幅武三郎でした。齋藤尊史さんが、男イだったのが熊楠の弟子・小畔四郎だったのには時の流れを感じました。

周りの人々を巻き込んでひたすら自分の道の研究に没頭する南方熊楠さん。周りには、石屋、洋服屋、生け花の師匠、床屋などが熊楠と交流していて、熊楠の専門の研究の話しがわかりやすい話へとかわる話術に魅せられていく様も熊楠の計り知れない魅力の一つです。

自然を守るために神社合祀令に反対しこますが、自分の粘菌の研究のためだけの反対だろうと反撃されたり、自分も父のようになろうと励む長男・熊弥は脳を患ってしまい、親としての苦悩も重なります。そんななか、熊弥と同じ若さの昭和天皇が植物の研究をされていて自分のような在野の粘菌の研究に興味を示され話しを聞きたいというのです。昭和天皇が自分の研究を知っておられたということだけでも心躍ることだったでしょう。

そのことを知った県政の人々が地域の利益のためにと右往左往し、熊楠の想いとの違いも感じとれました。

観ているこちら側も熊楠さんの研究はよくわかりませんが、とにかく豊な才能がある人がこれだと思ったときにとる行動の一途さ、そこから巻き起こる驚きと可笑しさを舞台という狭い場所で、磁場のように発揮された演劇作品になりました。

新劇にとっても時間の経った再演は、役者さんも違い、初演を越えられるか心配と思いますが、観ているほうも年を重ね、多少の経験から細かいところまで目がゆきましたが、それに答えてくれる舞台となり、作品として教えられ気がつかせてもらったところも沢山ありました。

それだけ、役者さんたちも頑張られ、新しい役者さんが育ってきているということなのでしょう。

作・小幡欣二/演出・丹野郁弓/出演・千葉茂則、中地美佐子、大中輝洋、八木橋里紗、別府康子、横島亘、安田正利、山本哲也、境賢一、齋藤尊史、平松敬綱、平野尚、齊藤恵太、梶野稔、天津民生、本廣真吾、大野裕生、望月香奈、吉田正朗、相良英作、大黒谷まい、保坂剛大

 

熊楠の息子の熊弥さんが一時藤白神社ちかくに家を借り看護人付きで暮らしていたという記述がありました。<藤白神社>それは、内田康夫さんの未完の小説『孤道』に出て来た神社です。内田康夫さんは病気療養のため休筆宣言をされ、未完の『孤道』を刊行され、完結作品を公募されました。納得できる完結作品を是非読みたいものです。

 

和歌山かつらぎ町<丹生都比売神社>

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)>へは、JR和歌山線の笠田(かせだ)駅から丹生都比売神社行きのコミュニティーバスが出ていました。駅にかつらぎ町の地図があったのですが、紀ノ川とJR和歌山線に分断される細長い町です。平成の大合併でそうなったんだそうです。

バスの運転手さんがいろいろ説明してくれました。紀ノ川を渡るとき下流側のこの先には蛇島というのがあり、有吉佐和子さんの『華岡青洲の妻』はその近くが舞台ですと教えてくれました。蛇島と言われるのは雨のあと死んだ蛇が沢山流れついたからではないかとのことです。

『紀ノ川』では、主人公の花さんが亡くなるとき、家の守り神であるとされる白い蛇も死んで映画の中では三度姿を現しました。

2015年の和歌山国体でこの道も良くなったということで、かなりのカーブが続く山の中を走行していきます。この山道の先に平地があり視界が開けますからと教えられましたが、そこは田んぼの稲が青々した米どころ<天野の里>でした。標高約450メートルだそうで人は平地を求め高い場所であっても生きるための食物を育てる場所を求めて開墾していくのですね。ただ途中に閉校になった学校が二つもあり人口の少なさへの変化が実態となってわかります。

その<天野の里>の上に<丹生都比売神社>があり、九度山で<丹生都比売神社>までは無理と教えてくれた方が子供の頃この辺に住んでおられたのがよくわかりました。こんなに開けた田畑の場所とは想像ができませんでした。

 

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鳥居の前には、カーブのきつい赤い太鼓橋が印象的でした。階段のようになっていて一段一段登って下ります。<丹生都比売神社>は参拝に時間のかからない広さで、拝殿奥の本殿の檜皮葺(ひわだぶき)が新しくたっぷりとした厚さがありました。

 

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主祭神である丹生都比売大神は別名を稚日女命(わかひるめのみこと)といい、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹さんにあたるんだそうで、空海さんを導いた二頭の犬を連れた狩人はこの女神のお子さんの高野御子大神(たかのみこのおおかみ)が化身されたとの言い伝えがあるようです。

九度山と高野山をつなぐ意味でも重要な位置をしめ、天野の里を見れたので古(いにしえ)の山の中にひっそり暮らす村落に出会えたような風景でした。アスファルトの道は風情に合いませんが、現在生活されている人々にとっては安全で快適な道です。

高野町石道にある六本杉まで20分とあり、少し歩いてみようかと歩きはじますとと、<自然遊歩道六本杉までの近道>とあり、そちらの道を歩いてみることにしました。急な登りで一人歩けるほどの細さで10分位歩いたのですが引き返しました。暑いので歩かなくても良いところとして計画に入れましたので、素直に計画に従うことにしました。

帰って来てから映画『紀ノ川』を見ましたが、やはり花さんが紀の川を船でお輿入れする場面から始まっていました。船でのお輿入れはなく有吉佐和子さんが考えた事らしいですが、フィクションもここまで考えられれば紀ノ川も満足と思います。

映画『紀ノ川』は、花の巻・文緒の巻とあり、司葉子さんの花とその娘・文緒の岩下志麻さんの生まれた時代の生き方の違いでもありますが、司葉子さんの迷うことなく紀ノ川と一体となって流れていく生き方を再度時代を感じつつ楽しみました。花の夫・真谷敬策(田村高廣)の弟・浩策(丹波哲郎)が文緒に紀ノ川に取り込まれない川が鳴滝川で俺もお前も鳴滝川だよという台詞が生き方の違いを表した印象的な言葉でした。

お箏の音色が素敵でした。静かな時の紀ノ川の流れに合っています。

花さんは九度山から六十谷(むそた)の真谷家へ嫁ぐのですが、JR阪和線に六十谷駅というのがありました。阪和線に乗ると映画にも出てくる六十谷の鉄橋を渡ることができるのです。一度<道成寺><紀三井寺>から<伊賀上野>への電車で通過しているのですが、その時は『紀ノ川』の意識が薄く<六十谷>を気に留めませんでした。残念です。

今回はの旅の友の本は『忍びの国』でしたので、伊賀上野も関係していたのです。映画『忍びの国』が上映中ですが、本のなかの登場人物が自分流に出来上がっているのと、信長がどうして伊賀攻めに至ったかの和田竜さんの仕掛け方が面白いので、すぐには見たくない気分なのです。

随分話が飛んでしまいましたが、自分の中では地図が埋められていってはいるのです。

 

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)

映画『祇園祭』

京都祇園祭の期間に京都文化博物館のフイルムシアターで上映される『祇園祭』を見ることが出来ました。今年は7月16、17日、24日の三日間で6回の上映があり、24日にしました。この映画を見るという事を第一目的として計画しましたので、実際の祇園祭は調べもせず、24日の山鉾巡行(後祭)を観ようと思えばみれたのでしょうが、計画には入れませんでした。

この暑さ。外に出るのも嫌なので、京都駅から地下鉄で烏丸御池まで直進です。

京都文化博物館のフイルムシアターで出してくれた映画『祇園祭』の解説によりますと、『祇園祭』が制作されるまで紆余曲折がありました。

1950年、立命館大学の林屋辰三郎教授が中心となって紙芝居『祇園祭』を作って巡回公演したのが発端で、当時京大の学生だった大島渚監督、加藤泰監督も参加していました。

伊藤大輔監督が映画化の企画を始め、1961年西口克己さんが紙芝居に基づいて小説『祇園祭』を発表。伊藤監督は、小説を原作として中村錦之助さんを主役で東映に企画を提出しますが製作費の関係から東映は断念。

その後、プロデューサー・竹中労さんが京都府に府政百年記念事業として企画を持ち込み、京都府が全面協力を表明。しかし、意見の違いから製作開始後スタッフの竹中労さん、八尋不二さん、加藤泰監督、伊藤大輔監督の名前が消え、構想・企画段階とは違うロマンスよりの内容となりました。上映が1968年(昭和43年)です。

監督・山内鉄也/原作・西口克己/脚本・鈴木尚之、清水邦夫/撮影・川崎新太郎/音楽・佐藤勝/美術・井川徳道

応仁の乱後の50年は、戦乱に続く戦乱で京都は疲弊し農民は高い納税に土一揆を起こし京の町を襲います。土一揆に加勢するのが農民の悲惨さを見ている米などを運ぶ馬借たちで、京の町衆は町が焼かれたりして土一揆を憎み、侍が自分たちを守ってくれていると思っています。

ところが、侍だけでは土一揆をおさえられず、町衆にも武器を持って、山科の土一揆の拠点を叩きつぶすようお達しがあります。武器を持つことに躊躇する町衆ですが、お上には逆らえず戦うこととなりますが、侍たちは自分の身を守るため町衆を見捨てて逃げてしまいます。

疑問に思うのが役人に母を殺された染物職人の新吉(中村錦之助)です。関所では、新たに人と荷物に税金がかけられます。関所で新吉は見ます。馬借が運ぶお上用のお米なら通行税がかからないのです。しかし運ぶ人に通行税かかるのを知った馬借の熊左(三船敏郎)は、運ぶのはやめたといって米俵を関所前に投げ出して行ってしまいます。新吉と熊左とは、山科で敵として闘った相手でした。

新吉は戦さの時弓を頼んだ弓師(渥美清)に弓を渡される時、弱い者同士が殺し合いをしてどうするんだと言われていました。

新吉は通行税に抵抗し、京都を町衆でおさめられないか考え、町衆をまとめるための方法が何かないかと考え、祇園祭祀を復活させることを思いつきます。

新吉は祇園ばやしの笛の名手の老人が亡くなるときその笛を預かっていました。公家の山科言継卿(下元勉)は途絶えてしまった正調祇園ばやしを作り出すのは新吉の役目であるといい、笛の名手のあやめ(岩下志麻)と会わせす。新吉はあやめの笛の音に魅せられ、二人はすでに会っていて愛し合った仲でした。あやめは河原者の庭師・善阿弥(永井智雄)の娘で、河原者である自分の身の上から、あやめは新吉と会うのを避けていました。

河原者としての立場から世の中を見ていたあやめは新吉と会ったとき、農民と町衆がお互いに血を流すのはおかしい、新吉は物事をきちんと見ていないといさめていたのです。しかし、今は素直に笛を教えることを承諾します。

新吉が体を張って交渉し馬借の熊左は木材を運んでくれ、染め物職人は鉾に使う布を染め、織り師は錦を織ります。土一揆で子供を死なせ、自分も左腕が不自由になり土一揆を憎んでいた桶職人の助松(田村高廣)も、大きな木車を作りあげます。

しかし権力者からの横やりがあり祭祀とは認められません。それでも新吉は町衆たちのただの「祇園祭」でいいと主張し、「祇園祭」を強行し、一番先頭の長刀鉾の音頭取りとして助松と二人で扇をふりかざします。新吉は町衆、馬借、弓師、河原者全ての人々の力が集まった祭りなのだと力が入ります。その前に、侍たちが立ちはだかり矢を放ち祭りの進行をさえぎり、その一本の矢が新吉の胸を射抜きます。新吉は戸板に乗せられながらも扇をかざし、長刀鉾は町衆に見守れながら進むのでした。

超豪華娯楽時代劇に仕上がりました。ゲスト出演が高倉健さん、北大路欣也さん、美空ひばりさんなどがおられます。名前に中村津雄さん、香山武彦さんもありましたが気がつきませんでした。

滝花久子(新吉の母)、佐藤オリエ(新吉の妹)、新吉の染物屋主人(志村喬)、善阿弥の弟子(田中邦衛)、助松の妻(斉藤美和)、大工の源七(藤原鎌足)、松山栄太郎(新吉の職人仲間)、下条正巳(山科甚)、小沢栄太郎(門倉了太夫)、伊藤雄之助(赤松政村)etc

168分という長い上映時間で、少しだれさせるところもありますが、萬屋錦之介さんは主役としての貫禄があり引っ張て行く力があります。藍で染まった新吉の両手を見ていると、『紺屋と高尾』の久造がその手を隠して高尾に会ったことを思い出させました。

あやめの岩下志麻さんは美しく河原者としての屈折を感情の激しさで新吉に対峙させます。三船敏郎さんは三船さんの手慣れた役どころで花を添えます。怒りの方向性を助けた子供を亡き息子の代わりとして育てていくうちに新吉の考えに同調する田村高廣さん。周囲の押さえの俳優さんも揃いました。

稚児さんとして長刀鉾に乗っていたのが現又五郎さんに似ていたのですがそうであったのかどうかはわかりません。米吉さんの名前がクレジットにあったのですが、このあたりは疑問符です。

出来れば、長刀鉾の組み立ての場面ももう少し欲しかったですね。縄だけで縛って組み立てるなどの場面も躍動的に映してほしかったです。これだけの映画は、やはり地元の方たちの協力がなければ撮影は無理だったことでしょう。

二回目も見ました。目的は達成されました。

祇園祭はあの暑さの中ですから、祇園祭だけで計画したほうが良いように思います。京都文化博物館の前の三条通りは、夜の還幸祭の三基の御神輿が通るところであると知りました。御神輿の出発時間が別々で、廻る道順も違いますから通る時間がはっきりしません。二回目の映画を見たあと待ちましたが時間がわからず、三条通りを烏丸通りに向かって歩く途中で白い馬に乗った稚児さんの一行に会い、そろそろなのかなと思いそのまま進み、子供たち中心のお囃子に耳を傾けます。丹波八幡太鼓の場所は人が集まって待っていますが、なかなか始まるようで始まらずあきらめました。

第二の目的は高野山の<丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)>へ行く事でしたのでその夜は大阪宿泊だったのです。

朝から夜まで見学するなら、地図と時間と道順を照らし合わせ、休憩場所を考慮しつつ計画が必要と思いました。暑いですから、観る方も凄い体力が必要のようです。ちょっと再度の「祇園祭」観光計画には興味がそそります。

 

<丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)> →   2017年7月28日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

新橋演舞場『お江戸みやげ』『紺屋と高尾』

新橋演舞場での<七月名作喜劇公演>は、『お江戸みやげ』と『紺屋と高尾』です。波乃久里子さんと喜多村緑郎さんの喜劇役者開花の舞台でした。

お江戸みやげ』(演出・大場正昭)は川口松太郎さん作で笑いと切なさの川口松太郎ワールドを久里子さんが細かいしぐさと演技力を発揮されました。この作品は女方に当てて書かれたそうで、藤山直美さんがそれを女優で挑戦する予定だったいうことですが、直美さんが療養中で久里子さんが代役となり、お父上の十七代目勘三郎さんが初演で演じられたお辻で、不思議な巡り合わせということでしょうか。

直美さんは、しばらく舞台がないなと思っていましたが、女性の喜劇役者さんとして喜劇舞台になくてはならない役者さんですからしっかり療養され復帰をお待ちしております。

結城から結城紬の反物を背負い、一年分の生活費を稼ぐため江戸に行商に来ている後家のお辻とおゆうは少し売れ残りはあるがまずまずの首尾と湯島天神の茶店でほっとする。おゆうが萬次郎さんの女方で久里子さんとのコンビが上手く出来あがりました。お辻は倹約家で、おゆうはお辻の一つ上ですがそこそこ遊びのしどころをわかっていて、上手くことを運んでいきます。この辺が非常に上手く書かれていて役者さんもそこをリアルさとテンポでよく表現されていました。

茶店は宮地芝居のお茶屋も経営していて、そこの女房のお長(大津嶺子)のお客の対応が上手いのです。タイミングよく役者の紋吉(瀬川菊之丞)が芝居の間に好きなお酒を飲みにきて、倹約家のお辻も芝居の一幕を観ることになります。お長が薦めたのは阪東栄紫の『保名』です。

お酒を飲むと心が乱れ、気が大きくなるというお辻は、『保名』の栄紫に心奪われ、おゆうが気を利かせてお長に頼み、お辻と栄紫を会わせます。栄紫の緑郎さんはすでに先に舞台に出ていまして歌舞伎役者役として出来上がっていますが、このお辻と会う場面はお客さまに接する役者の態度に嫌味がなく、情を出しお辻がますます憧れるきっかけを自然にもっていきました。役者として中村座の名題であるのに今は宮地芝居でその悔しさを愚痴りもして当時の位の違いや要請があれば小屋を変わる当時の役者の様子がわかります。田舎者のお辻にはそんなことはわかりません。

ここで一反乱。おときを金持ちに嫁がせようとする常磐津の師匠の母(仁支川峰子)も加わりその母の根性を見抜いていた田舎の人の情。お酒の勢いでお辻は啖呵をきってしまうのです。

溜息をついての湯島境内でのお辻とおゆう。二人を追いかけて来る栄紫と結婚相手のおとき(小林綾子)。そこでまたおゆうが取り計らい、お辻は栄紫から感謝の言葉と<お江戸みやげ>をもらうことになります。

角兵衛獅子の兄(竹松)弟も通り、江戸に来て故郷へ帰る人の動きなども哀愁をただよわせます。

役者さんのしどころが上手く収まり、味わいのある芝居となり、笑いの中にもほろっとさせられます。川口松太郎さんは、こういう名もなき人々の情愛を拾って芝居にのせますが、今の時代、役者さんの力量でこの感覚を伝えるのは難しい時代になってきているような気がします。今回代役を立て『お江戸みやげ』が次の『お江戸みやげ』につなげた功績は大きいと思います。

久里子さんは十七代目のお辻を観ていて、萬次郎さんは、平成23年の『お江戸みやげ』(お辻・三津五郎/おゆう・現鴈治郎)で紋吉を演じていたので、観たり体験していた芝居が役者さんの中で上手く重なり新たな面白さになったのでしょう。

お紺と高尾』(口演・一竜斎貞丈/脚本・平戸敬二/演出・浅香哲哉)は講談、落語などでお馴染みですが、きちんと観るのは初めてでした。大阪の紺屋の職人が吉原の花魁道中で高尾太夫に一目惚れをして、ついに女房にむかえるというお話です。

花魁道中の一目惚れは歌舞伎では『籠釣瓶(かごつるべ)』でもありましたが、紺屋の職人久造は、佐野次郎左衛門と同じように夢心地となってしまいます。大阪に帰っても、寝ても覚めても高尾太夫、高尾太夫です。

佐野次郎左衛門と違って、久造は紺屋の職人ですからお金がありません。そこで親方に頼み今まで預かってもらっていたお金と一年間一生懸命に働いたお金を持って高尾太夫に会いにゆきます。高尾太夫は久造の一途さに来年の3月15日年季があけたら女房になると約束し証文を書き、3月28日に大阪の久造のもとに到着するのです。

久造の喜多村緑郎さんで、今までの芝居から考えるとこの方は喜劇は無理なのではないかと思っておりました。ところが化けてくれました。こうなるとは思いませんでした。ボケ具合。間のとり方。くり返し詞の強弱と高低。それに付随する体の使い方。意外でした。

職人ですから、吉原のことなど何も知りませんし、会う方法もわかりません。それを指南するのが、久造の恋煩いをふらふら病と名づけた医者の山内玄庵で、大阪の米問屋の若旦那のお大尽になりすましての吉原乗り込みですが、山内玄庵の曾我廼家文童さんとの息も合い、高尾太夫の浅野ゆう子さんを前にしてのお大尽ぶりと素性を告白し謝り事情を話す真面目さに、高尾が心動かされる流れに持って行くいきかたもよかったです。

浅野ゆう子さんの高尾も、花魁道中は美しく、三浦屋では遊女の裏の部分を垣間見せ、しかし凛とした太夫ぶりをみせ、久造にも芯のあるところを見せ、さらに久造の母親をも納得させるところまで持っていきます。

親方の紺屋吉兵衛の萬次郎さん、女房おかつの大津嶺子さん、娘お紺の小林綾子さん、久造の母の藤村薫さんんらが大阪の紺屋の場面をかため、吉原の三浦屋は三浦屋主人の瀬川菊之丞さん、三浦屋の女将の仁支川峰子さんらが押さえ、全く場所柄の違う雰囲気と人物をしっかり描いてくれたので、緑郎さんの喜劇性も上滑りすることなく受けてもらえていたと感じます。

『お江戸みやげ』も『紺屋と高尾』も、邦楽だけという舞台で、台詞のめりはりリズムはそれぞれの役者さんにかかっており、その辺もクリアできる役者さんたちであったということです。子役さんも江戸時代の涙を可愛らしく照らします。

その他の出演・曾我廼家玉太呂、武岡淳一、いま寛大、大竹修造、佐々木一哲、吉永秀平、戸田都康、鍋島浩、大原ゆう etc

 

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(2)

映画『娘道成寺 蛇炎の恋』は、歌舞伎女形の村上富太郎に唯一女弟子として認められた詩織が師匠に恋をしてしまう。富太郎は生身の男を殺して芸の世界に没頭していて『京鹿子娘道成寺』は女を殺してしか踊れないと詩織にいいます。しかし彼女は女を殺すことはできないと舞踏家としてのは舞台発表の前に花子の衣装で自殺してしまいます。

詩織と双子である姉の遥香は期待されている洋舞のダンサーですが、妹の死に疑問が残り富太郎の『京鹿子娘道成寺』を見て『京鹿子娘道成寺』を教えて欲しいと頼み許されます。ところが妹と同じように富太郎に恋心を持ってしまいますが、富太郎の引退を決めての高野山での奉納舞の『京鹿子娘道成寺』を見、師匠亡き後、師匠の生き方がわかり自分の踊りを目指そうと決めるのです。

師匠の幼年時代から、この人は自分に流れる血に忠実に生きることを自分に戒めていてそれが崩れることがありません。その芯を福助さんは踊りの映像と共に伝えます。

『京鹿子娘道成寺』の映像部分がたっぷりで、その切り込みかたも面白く、さらに、高野山での踊りの映像は圧巻です。朱色の根本大塔の前で白の衣装で踊り、踊りで白を赤に染めたいとの思いが、赤の衣装にかわり、その赤がバックの朱色から浮き彫りになるのも、富太郎の踊りの心を表し同時に福助さんの踊りをうつしだします。

富太郎は何色に染めてもいい。自分の色で染めなさいといいます。心の中では自分の教えた清姫が教えた相手の身体に残っていることを確信していてそれだけでいいと思っています。詩織には受け入れられなかった富太郎の意志は、遥香にはわかってもらえたのです。

男女のどろどろした部分はカットしましたのであしからず。富太郎中心です。福助さんの踊りと、素の富太郎になった時の福助さんの演技を観ていると浮き出てくるものがこういうことなんです。

DVDのほうは、特別版で、安珍、清姫の<道成寺>の釣鐘は二代目でこの釣鐘も戦乱のため京都妙満寺に安置されていたのがお里帰りをして2004年に福助さんが『京鹿子道成寺』を奉納された映像つきです。これが、当日は雨で、雨の中での『京鹿子道成寺』となりましたが、それがまた美しいのです。雨がレンズと福助さんの間で透明感を増しているような感じで、踊りづらさなど感じさせない心を込められて奉納舞でした。

監督・高山由紀子/脚本・高山由紀子、たかやまなおき/企画・綜合プロデューサー・岡本みね子/出演・村上富太郎(福助)、詩織・遥香(牧瀬里穂)、富太郎の子供時代(児太郎)、富太郎の弟子秀次(須賀貴匡)、大衆演劇の女形・花丸(風間トオル)、遥香の友人(真矢みき)

真田十勇士』は、猿飛佐助が勘九郎さんです。この映画アニメから始まって途中で、「この映画はアニメではありません。数分後には本編が始まります」と字幕があらわれ笑わせられます。アニメと実写とが違和感のない登場人物たちが次々とあらわれます。勘九郎さんの猿飛佐助のしぐさが一番アニメチックで楽しいです。間合いが何とも言えない愛嬌者です。才蔵さんはマントのひるがえりが恰好いい。

ここに出てくる真田幸村は、実は腰抜けで何の戦略も知略もない人物として設定されていて、大阪城での軍議にも佐助と霧隠才蔵が色々考えだして幸村に伝えるという形をとり、出城の「真田丸」もちょっとした手違いから発案となるのです。

幸村を本物の武将にしたてあげようとの佐助の計略が進みます。冬の陣では大活躍となりますが和議により外堀は埋められ、夏の陣では裸同然の城を後にして家康の首を狙い家康の本陣を目指す赤い鎧の真田軍団。幸村は本物になれるでしょうか。

家康役の松平健さんが何もこれといった演技をしているわけでは無いのに可笑しいんです。なんと言ったらいいのでしょうか兎に角なんか笑えてしまうのです。この映画の功労者かと思えます。

根津甚八は幸村の影武者となったとの話しもありますが、この映画では豊臣秀頼の影武者になれと言われたりします。秀頼を守れとの幸村の遺言に佐助たちのとった行動は。淀君の裏切りなど引き込まれて観ていたらどんでん返しがありました。さてそれは見てのお楽しみ。

抜け忍の佐助と才蔵を狙う忍び者や才蔵を慕う幼馴染の火垂などが入り乱れての時代劇アクションでもありますので、乗せられて見ていればよい映画です。

伝説の真田十勇士は、九度山に蟄居中の幸村のために集まった勇士なのです。伝説のほうの穴山小助が映画では抜けて、幸村の息子の大介が加わっていました。若い俳優さんたちで名前が初めての方が多く間違わず入力できるか心配です。

映画の真田十勇士/猿飛佐助(中村勘九郎)、霧隠才蔵(松坂桃季)、根津甚八(永山絢斗)、筧十蔵(高橋光臣)、三好青海(駿河太郎)、海野六郎(村井良大)、三好伊三(荒井敦史)、真田大助(望月歩)、望月六郎(青木健)、由利鎌之助(加藤和樹)

真田幸村(加藤雅也)、淀君(大竹しのぶ)、火垂(大島優子)、徳川家康(松平健)

監督・堤幸彦/脚本・マキノノゾミ、鈴木哲也/衣装デザイン・黒澤和子

 

和歌山かつらぎ町<丹生都比売神社> | 悠草庵の手習 (suocean.com)

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)

高野山へは南海高野線で終点の極楽橋駅でケーブルカーに乗り換えバスなどで上を目指すのが一般的ですが、南海高野線九度山駅で降りて慈尊院を通り、<高野山町石道>歩き上を目指すという方法もあります。その他、上古沢駅からと紀伊細川駅から歩くというコースもあります。

<高野山町石道>は九度山の<慈尊院>から<根本大塔>までが基本です。赤い<根本大塔>の前で奉納の『娘道成寺』を踊るのが映画『娘道成寺 蛇炎の恋』(2004年)の主人公の福助さんです。こうきますかと思いました。

極楽橋駅からは高野山を一度訪ねています。九度山駅で降りて<慈尊院>を訪れたいとずーっと思っていました。高野山は女人禁制ですから、空海の母は後に<慈尊院>となる庵で息子の空海と逢うのです。空海は母に逢うため月に九度訪れたことから九度山の地名となったともいわれています。<慈尊院>から奥の院へいたる23キロが高野山の表参道でもあるのです。

<慈尊院>は、有吉佐和子さんの『紀ノ川』の冒頭部分に出て来て、映画『紀ノ川』(1966年)の冒頭は、夜紀ノ川を婚礼の舟がゆくとの記憶なのですが、機会を見つけ確かめます。

そしてこの九度山というのは真田幸村が蟄居していた場所でもあります。映画『真田十勇士』(2016年)では、大阪城へ入ってからの戦さが中心ですから、映画では少しだけ一応九度山に居たということで出てきました。

昌幸・幸村父子は最初高野山に蟄居し暮らした場所が<蓮華定院>で、このお寺さんは今宿坊として宿泊することができます。父子はそのあと妻子と一緒に住むことが許されますが高野山は女人禁制ですから、九度山での生活となったわけです。<高野山町石道>を降りてきたのでしょう。<高野山町石道>は、1町ごとに五輪塔形の石塔が180町石立っているのです。

九度山の暮らした屋敷跡が真田庵(善名称院)です。境内には真田宝物資料館があります。その他にも真田ゆかりの場所や真田ミュージアムがありますが、小さな町中の途中真田紐を織っている家がありました。真田紐研究会の工房でまだ新しいのだそうで織っているところを見学できます。紐ですが色取りの組み合わせ美しく日常品として、刀の下げ紐、鎧などの武具に使われ、幸村はこれを家来に全国へ売りに行かせ、生計の糧として、さらに諸国の情報を探ったといわれています。大河ドラマ『真田丸』の出演者の写真もありましたが、すいません大河ドラマ真剣に見ていません。

 

 

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信州上田の真田紬から考案したもので、真田宝物資料館にあったのは地味な巾太なもので、織機も展示されています。

宝物資料館によりますと昌幸はここで11年目で亡くなり、幸村は14年くらしました。映画『真田十勇士』で、その後の即効の流れを把握しました。

九度山には、大石順教尼さんが寄宿した旧萱野(かやの)家が<大石順教尼の記念館>となっています。大石順教尼さんは、1905年(明治38年)大阪の名妓でしたが、舞踊の師でもある養父の狂刀による6人斬りの巻き添えにより両腕を切断されてしまいます。カナリヤがくちばし一つで雛を育てているさまから、口に筆をくわえることに開眼し、国学、和歌、日本画を学び、高野山で得度し、法名順教に改名します。その後6人斬りの犠牲者並びに養父の供養のため京都に<佛光院>を建立しています。

 

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記念館にはボランティアの説明してくれるかたもおられ、ビデオや和歌、絵画、着物に描かれたものなどが展示されています。団体さんと町中で出会いましたが、歴史に興味あるかたが多く訪れるようです。

九度山町自体にも見学するところがあり、さて<高野山町石道>はどこまでいけるであろうかと地元のかたに尋ねました。踏破した友人から地図をもらっていたのですが踏破は健脚コースで、<丹生都比売神社(にうかんしょうぶじんじゃ)>まで<慈尊院>から7キロですが行けたとしてももどって来なければなりません。

お聴きしたかたが、丹生都比売神社近くの生まれで、子供の頃、九度山にお嫁に来たお姉さんのところへ、土曜日に泊りにきて日曜日に帰ったというかたで、今からでは無理と思いますとのことです。神社から高野線の「上古沢駅」に下りる道があるのですが、この道は短いですがかなり急で薦められないとのことでした。

展望台ならどうでしょうとお聴きすると、あそこは景色がいいですから是非といわれ、実行してみて正解でした。まず<慈尊院><丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社><勝利寺>に寄りました。

<慈尊院>は、高野山の事務を統括する政所(まんでころ)で紀ノ川の水運によって必要なものが集められ山へ運ばれました。空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が世を去り空海は弥勒堂を建て、<慈尊院>と称され子授け、安産、子育ての女性の信仰をあつめます。

 

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昭和の終わりに慈尊院の一匹の白い犬・ゴンが現れ、参拝者を高野山の大門まで約19キロの町石道(ちょういしみち)を案内して往復することで知られるようになり愛されます。そのゴンが2002年(平成14年)に6月5日、玉依御前の月命日に亡くなったそうです。境内の弘法大師象の隣に石像が建っています。

空海が修業の道場を探していたとき高野山上へ導いてくれたのも狩人の連れていた2頭の犬でした。

<慈尊院>の南高台に建つのが<丹生官省符神社>で、この<慈尊院>と<丹生官省符神社>を結ぶ石段の途中に180番目の町石が立っています。<丹生官省符神社>では、空海を導いた犬を神の使いとして絵馬に描かれています。社宝の獅子頭の写真もありました。

 

 

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その西側にあるのが<勝利寺>で、空海が高野山を創開する以前からあり、境内には高野紙を漉ける体験資料館の<紙遊苑>がありますが催し事があり入ることができませんでした。そこからの眺めがいいと書かれてあり、高野紙も見たかったので残念でした。

そこから<高野山町石道>に入りましたが地図的には1キロ先くらいが展望台だと思うのですが、思っていたより遠く登りで、途中で下って来た女性に「展望台」からの景色は良かったですかと尋ねると「良かったですよ」しばらく沈黙があり、「もうひと頑張りした先です。」「ウム」言われたことは正しかったです。さすが高野山です。「展望台」からの景色は紀ノ川が蛇行していて最高でした。

 

 

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その先の<丹生都比売神社>はバスでの計画を立て直しもう少し先のことにします。

 

2017年7月19日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

成瀬己喜男監督・川島雄三監督『夜の流れ』

成瀬己喜男監督と川島雄三監督の共同監督作品が『夜の流れ』(1960年)で、花柳界に生きる母娘の生き方を描いています。神保町シアターでの企画<「母」という名の女たち>の中の一本でした。母は山田五十鈴さんで娘が司葉子さんです。

司葉子さんは池袋の新文芸坐で特集をしていました。『紀ノ川』は原作も読んでおり映画も見ており、和歌山の九度山町から、高野山町石道の展望台まで歩いて上からの紀ノ川をみていますので、大きな画面でもう一度みたいとおもいました。しかし、司葉子さんのトークショーがついていて、当然混雑が予想されましたので、またの機会としました。映画館がいろいろな企画で見たかった映画の上映をしてくれていて嬉しい悲鳴となります。

夜の流れ』は、シナリオ完成の時点で、封切りまでの日数があまりに短かったため、製作も兼ねる成瀬監督の発案で川島監督に共同監督を依頼しました。脚本は、井手俊郎さんと松山善三さんです。

さらに成瀬監督は語っています。「古い世代の人物の出てくる場面と料亭の部分を全部僕がやり、若い世代の部分と芸者屋の場面を全部川島君がやりました。」

映画の出だしがホテルのプールでの若者たちの場面で、これは言われなくても成瀬監督ではないと判りました。衣裳などでも川島監督だなとおもわせます。

さらにそれぞれの監督が別々に撮影を続けて最後に一本のフイルムにしていて「みた時には、大変楽しかった」と成瀬監督は言われています。川島監督がどうだったのかは今、探せないので課題としますが、暗さは暗く、暗さは明るく描く監督二人の共作がこうした面白い形できちんと見せる映画になっているのが流石がです。川島監督を選んだという成瀬監督は凄いです。明るくても<夜の流れ>の淀み部分はきちんと描いていて川島監督、成瀬監督に乗せられたなと思うところもありますが、俺はこっちの方向性を選ぶよという違いを娘の描き方で主張しています。

母・綾は、パトロン(志村喬)つきの料亭の女将で、その娘・美也子は大学生で、興味本位でお座敷で踊りをみせたりします。その時芸者さんが素人さんには叶わないという嫌味をいいますが、芸者さんの踊りと娘の踊りでは、目が違っていました。お化粧の関係もあるのでしょうがこんなに違うのかと思いましたね。成瀬監督が撮ったなら、素人さんにはかなわないというのは成瀬監督流のプロの気持ちを言わせているなとおもえます。

娘は板前・五十嵐(三橋達也)に好意をもちますが、既に母と板前五十嵐には大人の関係がありました。ここは、溝口健二監督の『噂の女』(1954年)を思い出します。母が田中絹代さんで娘が久我美子さん、好意をもたれるのが医師で大谷友右衛門時代の四代目雀右衛門さんです。

母と娘にはさまり板前五十嵐は料亭をやめます。母綾は五十嵐のためにパトロン・園田との色恋も断っていました。しかし、五十嵐とのことが噂となり園田にも知られてしまい、料亭から追い出されるかたちとなります。母綾は、結果はどうであれ五十嵐のところへ行くことを決心し、娘美也子は、芸者になりこの町に残ることに決めるのです。

こちらが成瀬監督なら川島監督の芸者屋は、女将が三益愛子さんで芸者衆は、草笛光子さん、水谷良重(二代目八重子)さん、星由里子さん、横山道代さん、市原悦子さんなどの芸達者なかたがたでたくましく悲哀を笑いに変えていきます。ところが、芸者をやめて好きな人と小さな呉服屋を開いた幸せな二人(草笛光子、宝田明)に思いがけない悲劇も待っています。こういう多人数の動かしかたは川島監督流です。

母綾が料亭をやめさせられての後がまが越路吹雪さんで、料亭も新しい女将でがらっと変わるなというところを越路さんが短時間の出演でわからせてしまうのも面白いですし、かつては芸者仲間だった、山田五十鈴さんと三益愛子さんの違いもこの二人の役者さんとしての見どころでもあります。

母のパトロンでもある志村喬さんの娘が白川由美さんで娘美也子と友人関係で、美也子が薦められて断った男性と結婚し、その結婚式に出席していて自分は芸者になると晴れ晴れとした顔の司葉子さんの顔がなんともまぶしいです。

あらすじがわかったとしても、成瀬監督と川島監督の映画の撮り方、登場人物の役者さんたちの個性を楽しむだけでも忙しいですから、充分愉しめる映画です。

急ぎ働きでこういう映画が残ったことは映画ファンにとっては幸せな結果となりました。

溝口監督の『噂の女』(脚本・依田義賢、成澤昌茂)は場所が京都島原の置屋兼お茶屋であり、医師は打算的な正体を現し、母の田中絹代さんは振られて寝込み、母の商売を嫌っていた娘の久我美子さんは母に代わって置屋を継ぐ決心をします。成瀬監督と川島監督に加え、溝口監督との違いを感じとる作品として、並べて見るのも面白いかと思います。

成瀬監督だけならば『流れる』(1956年)も好いですね。(原作・幸田文/脚本・田中澄江、井手俊郎)柳橋の置屋が舞台で、母が山田五十鈴さん、娘が高峰秀子さん、そこへ住み込み女中となるのが田中絹代さん。田中絹代さんがあこがれて映画界に入るきっかけとなった栗島すみ子さんがこの映画で18年ぶりの映画復帰でもあります。その他、杉村春子さん、岡田茉莉子さん、中北千枝子さん、賀原夏子さんらずらーっと顔を出しています。

川島監督の母娘の花柳界ものは今のところ思いつきません。

 

歌舞伎座七月歌舞伎(2)

駄右衛門花御所異聞(だえもんはなのごしょいぶん)』の日本駄右衛門は単なる盗賊ではなく天下取りまでねらいます。それを押さえるために<秋葉権現>の怨霊が現れ、その秋葉大権現の使わしめである白孤が 勸玄さんの役です。

海老蔵さんは、日本駄右衛門、玉島幸兵衛、秋葉大権現の三役です。駄右衛門は天下取りのための足がかりとしてねらうのが遠州月本家で、その月本家の家老・玉島逸当の弟が玉島幸兵衛です。この幸兵衛は女のためにお家のお金に手を出し月本家を出ています。

この幸兵衛が駄右衛門に傷を負わせます。これが重要なポイントで、その場面が駄衛門と幸兵衛二役の海老蔵さんの早変わりなのですが、早変わりの回数が多すぎと思いました。その傷が悪化して駄右衛門はピンチとなり、そのピンチを救うために二幕目で大きな展開があります。ですので、海老蔵さんが二役だなということと駄右衛門が傷を負ったというところを強調すればよいと思います。

駄右衛門は、月本家の家宝で将軍家へ献上の古今集を盗みます。これが月本家のお家騒動の原因となりますが、さらに月本家の内部に協力者である月本祐明を手なずけています。月本家当主・月本円秋は古今集紛失の責任をとり切腹をして責任をとる覚悟ですが、そこで遅かりし由良之助と同じような場面を入れたのには驚きでした。そこへ駆けつけた家老・玉島逸当のとった行動が重要でこのことこそ丁寧に描いたほうが重みがでたと思いますが、いとも簡単に終わってしまいました。ただ家老が妻の松ヶ枝に弟・幸兵衛へと託した秋葉権現の御影のことがはっきりわかったのはよかったです。二幕目でこの御影が重要な役割をしますから。あれだったのかとわかりこの謎ときも、二幕目の面白さになります。

余計なパロディみたいな場面よりも駄衛門と月本家の対峙に厚みを加えてほしかったです。それによって駄右衛門の大きさがでます。駄右衛門は策略家で、利用していた月本祐明も用済みと消してしまいます。さらに駄右衛門は、月本家伝来の秋葉権現の功力を宿す三尺棒も盗んでいたのです。

二幕目は、駄右衛門の子分であるお才の開いているお茶屋が舞台となり、ここで幸兵衛、月本家を追いだされた円秋の弟・始之助と元傾城花月、松ヶ枝、駄右衛門の子分の早飛、お才の兄貴で駄右衛門の子分になろうとしている長六、長六を慕う寺小姓采女が上手く繋がりをもって動き、面白い展開となります。そして二幕めの最後が、秋葉大権現が登場し使わしめの白狐を呼び出し、駄右衛門を降伏させるため飛び立つのです。

「はーい」といって花道からでた白狐は七三で「御前に」といったのかな。拍手でよく聞き取れませんでした。そのあと天狗にひょい、ひょい、と移動させられ秋葉大権現の横に並び消えます。天狗のバク転などを見せ時間調整をして宙乗りの準備です。時間は充分とられています。そして海老蔵さんに 勸玄さんは抱きかかえられる感じで宙乗りとなり海老蔵さんのにらみがあります。ゆっくり静かに同じペースで上がっていきます。このペースが無事維持されますように。 勸玄さんは慣れてきたのでしょう。観客に両手を振っています。二幕目ラストを盛り上げます。

白狐はこのペースが保たれれば体調良好なら千穐楽まで飛ばれることでしょう。お客様のためにも頑張ってくださいな。

三幕目では、題名に<花御所>とあるように、天下人東山義政のもとに駄右衛門が現れ、天下を手中に入れようとしていることがわかります。ここで三尺棒の功力が発揮されます。駄右衛門が天下取りのために月本家をまずねらった理由もわかります。

よく話としては出来ています。もう少し整理して、役者さんの表現力が加わればもっと面白くなるとおもいます。亀鶴さんは出場は一瞬ですが、奴の形になっています。児太郎さんは上方で修業したのでしょうか。どこをとっても形がよく、駄右衛門の手下であるというところを明かすところは、福助さんなら濃く演じるところですが、児太郎さんは味は薄くてもさらっと粋にし、幸兵衛との絡みにも情をだしました。

映画『娘道成寺 蛇炎の恋』がやっとレンタルできましたのでこれから見ます。楽しみです。

新作に等しい作品を上演する場合は、歌舞伎であっても練習時間がもっと必要なのではないでしょうか。数日で仕上げるられる歌舞伎の凄さは演目によっては変えていかなければならない時期にきているのではという想いを近頃感じている次第です。

 

月本円秋(右團次)、月本祐明(男女蔵)、奴浪平(亀鶴)、月本始之助(巳之助)、傾城花月(新悟)、寺小姓采女(廣松)、奴のお才・三津姫(児太郎)、駄右衛門子分早飛(弘太郎)長八(九團次)、逸当妻松ヶ枝(笑三郎)、馬淵十太夫(市蔵)、東山義政(斎入)、玉島逸当・細川勝元(中車)

 

旧東海道の見付宿の見性寺に日本左衛門のお墓があります。東海道五十三次どまん中<袋井宿>から<浜松宿>

静岡県には東海道53宿のうち22宿があり、静岡を抜けるのが長かったです。別の東海道歩きの仲間がやっと静岡を抜けれたと言っていました。わかります、実感です。

追記: 七月歌舞伎も無事千穐楽を迎えたようです。 勸玄さん、立派に舞台を勤めあげられ小さくて大きな一歩にあらためて拍手です。ずーっと先のことでしょうが、海老蔵さんとお子さん二人がこの時のことを語り合う日が来ることでしょう。それまでまだ沢山の涙が必要でしょうが。その親子だけの語らいは成田屋海老蔵夫人の麻央さんが残された宝物の一つでもあると思います。誰も手に入れることの出来ない宝物。(合掌)

 

歌舞伎座七月歌舞伎(1)

昼の部と夜の部両方に出られているかたが多いのですが、その中で、昼の部は良いのだが夜の部はちょっと賛同できないという方もあって、演目で書こうか役者さんで書こうか迷う所です。

今月は海老蔵さんが大奮闘されているので、海老蔵さんのことから始めて何とか収拾することにしてみます。海老蔵さんの一押しは『連獅子』です。狂言師右近と左近が出て来て舞台正面になり、左足の白い足袋の先がすっと前に出て足が伸び、右手に手獅子を携えてのきまりまでの間の良さと姿は例えようもない美しさでした。好い形です。

この連獅子は亡き海老蔵夫人と三津五郎さんに観て貰いたかったです。もちろん海老蔵夫人には親子の宙乗りが一番でしょうが、役者海老蔵さんの今の美しさの極みではないかと思える出来でした。そして左近の巳之助さんに対しては三津五郎さんがどこをどう駄目だしするのか聞きたかったです。子獅子を崖下へ落としたあとの親獅子の心持ちが、憂愁さを含ませながらの静かさが心に響きました。

僧蓮念の男女蔵さんと僧遍念さんの市蔵さんコンビもそこはかとない笑いをさそい、観ている者の心持を緩めてくれる度合いが良い具合でした。ところが夜の部での悪役の男女蔵さんはよくなかったです。

右團次さんは、『矢の根』の曽我五郎をされましたが、動きは決まっていたのですが、曽我五郎、春木町巳之助、月本円秋と全て台詞回しが同じでそれぞれの役が生きず残念でした。曽我十郎の笑也さんが女形のときの声と言い回しを捨てて十郎にしていたので出は少なくても夢の中の十郎しっかり印象づけました。弘太郎さんが荒事のなかでユーモアを加味し、馬の動きが上手です。

加賀鳶』の花道でのツラネは、若手から市蔵さん、権十郎さん、秀調さん、團蔵さん、左團次さんと続くとやはり味わいが違い、修業者から熟練者への違いが出ていて聴いていて面白かったです。先輩の役者さん達はこれだけの出演のかたもいてもったいなかったです。

中車さんの松蔵は、お店での海老蔵さんの道玄とのやり取りが貫録もあり、余裕をもって道玄を締めあげてゆき、歌舞伎の台詞術でここまでこられたかと面白く観させてもらいいました。しかし、玉島逸当、細川勝元となりますと、歌舞伎に入られての時間の短さを感じさせられてしまします。

海老蔵さんの道玄は御茶ノ水ので癪を起こす百姓の辰緑さんと出逢いが最初から悪役になっているのが気になりました。百姓がお金持っていると気がついてから悪を見せるほうが観客には面白いです。道玄と手を結んで悪巧みを手伝う按摩のお兼の右之助さんは二代目齋入を襲名されました。小柄な方で押し出しが優しいかたですが、道玄の悪事の共謀者として丁寧に演じられておられました。海老蔵さんも初役だそうですがかなりスムーズな芝居運びで、非情なところと、悪事がばれると下手にでる狡さを可笑しさまで持って行かれてました。

捕手との立ち廻りも首の動かしかた、腰の使い方が柔軟で道玄の人物像を見せつつ愉しませてさせてくれます。

お朝の児太郎さんが、身体を小さくして哀れさがよく出ていました。児太郎さんはお才といい今月は大躍進です。笑三郎さんは役者さんとして場を持つ役者さんとして信頼している方の一人ですので、道玄の女房と逸当妻松ヶ枝と押さえてくれました。

昼の部の満足度が高く、夜の部の『駄右衛門花御所異聞』での、一幕目が退屈で締まりがなく、どうなるのであろうかと二幕目に突入してやっと面白くなり助かりました。

東松山市の「團十郎稲荷」「吉見百穴」

観光ではなく災害地を調べるために地図を開くのは気持ちがおもくなりますが、やはりあの土砂に埋まった地域や寸断された線路など確認しておかないわけにはいきません。

佐賀県の白石町、福岡県の朝倉市と東峰村、大分県の日田市の被害が大きいようであり、JR久大本線の<てるおか>と<ひた>の線路が寸断され、JR久大本線は湯布院温泉につながる線だったのですね。まだ局地的雨が続くようで、「降るな降るな」と地図を手でなぜてしまいました。これ以上暴れないでください。救助し救助される人のためにも。避難されておられるかたは暑いので御自愛をされてください。

関東も暑さが続きます。その中、「團十郎稲荷」が埼玉県東松山市にあるというので出かけました。いつものようにどこかで手に入れた小冊子に載っていたのをスクラップしておいたのを思い出し取り出してみました。<旅>のスクラップは7冊目で、古いのは時々開いて見ないと忘却の彼方です。

説明によりますと、「箭弓(やきゅう)稲荷神社の境内にある末社。七代目市川團十郎が社に籠り芸道精進をご祈願したところ、江戸の歌舞伎興行で大盛況になる。文政4(1821)年に祠を建てると、技芸向上に励む人々から信仰されるようになった。」とあります。

お守りが、七代目團十郎さんが境内の樫の葉を懐にして新春歌舞伎に臨んだことにちなみ、葉の上に<十八番守>となっています。

東武東上線東松山駅西口徒歩3分で、赤い鳥居の並んだ正式には「宇迦之御神社」で<芸道向上の神様>とあり、通称「穴宮稲荷・團十郎稲荷」とあります。解説板には、「箭弓(やきゅう)稲荷神社」を信仰しておられ、新春歌舞伎興行において『葛の葉』『狐忠信』等の段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で、石祠を建立したとあります。

 

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拝殿の両脇には狐が飾られ左側は親子の狐が戯れていて親狐は何か口にくわえていまして、先が鍵型に曲がっていて、筆ではないんです。成田屋の三升紋を暗示しているのか、神社の巫女さんにお聞きしましたが判りませんでした。

 

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箭弓稲荷神社」の本社殿の外周囲の彫刻が素晴らしいです。ぐるっと回りましたが、6か所ほどだったと思いますが彫り物の説明板がありました。オペラグラスでも持って行き眺めたいような彫刻群でした。

 

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<やきゅう>だからでしょうか、野球部の方がたもお詣りにこられるようです。

もう一箇所訪れたのが「吉見百穴」で、東松山駅前からバスがありますし、歩いて25分位とのこと。いつもなら歩く距離ですが暑いのでバスにしました。古墳時代の後期~終末期に造られた横穴墓で、大森貝塚を発見したモースさんも訪れています。明治には発掘の中に玉や金属器や土器などがあったため住居と発表されましたが、大正に入ってお墓であると訂正されました。

 

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戦中には地下の軍需工場として掘られますが、生産活動まえに終戦となります。この地下軍需工場跡地のトンネルに一部に入ることが出来ます。凄い涼しさで、外に出たくない気分でした。

 

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そして最低部の横穴にはヒカリゴケをみることができます。緑色の発光塗料をぬったように光っていました。レンズ状の細胞が外から入ってくるわずかな光を反射して黄緑色に淡く輝いて見えるとのことです。生息できる環境が限られている原始的コケ植物です。

 

 

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正岡子規さんも明治24年11月に訪れていて「神の代は かくやありけん 冬籠」の句を詠まれ、句碑がありました。

 

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吉見横穴の近くには、弘法大師が岩窟を選び観世音を彫刻して収めたといわれる岩室観音堂がありますが、御堂は江戸時代に造営され清水寺のような懸造りですがかなり老朽化しており階段で上がれますが色々な個所を支えて補強しています。

 

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その御堂の山の分部が比企丘陵(ひくきゅうりょう)で松山城跡があります。このお城も小田原の北条氏に攻められ、その後、秀吉の北条征伐の際、攻め落とされます。吉見横穴へ行く途中で市野川を渡るのですが、市野川が外堀の役割をする形になっています。

 

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松山城とあるようにこのあたりは比企郡松山町だったのですが、合併で市となり、松山市としたかったのですが、愛媛に松山市があるのでそれに対する東ということで東松山市となり、それでも自分たちは今でも松山と呼ぶと地元のかたが教えてくれました。

東村山市じゃないのと間違われそうですが、武蔵松山城があった東松山市です。