新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(2)

忠敬は深川黒門町から暦局(浅草天文台)へ通います。

の天文屋敷が暦局の跡地です。いつか深川黒門町の伊能忠敬住居跡から歩いてみたい経路です

すでに地球が球形であることはわかっておりました。至時は地球の大きさがわかるには、北極から南極を結び一周する線が子午線で、この子午線の長さを知るためには緯度一度分の子午線の長さがわかれば計算できるといいます。

忠敬はこの緯度一度の距離を知りたいとおもったのです。そこで深川から浅草まで歩測で測量図をつくりました。至時は、やりかたは間違っていないが、深川から仙台とか青森とかもっと遠いところでの緯度と距離をはからなければダメですといいます。

至時は幕府から蝦夷地(北海道)の測量の許可をとってくれたのです。これが日本地図の測量へとつながったのです。役所は船で蝦夷地へ運ぶ予定ですがそれでは<緯度一度分の子午線の長さ>が出せません。陸路を測量しつつ進むために正確な絵地図を作りますと至時は説得しました。

許可は下りましたが天体観測もあるので費用は忠敬が自費を出さなければできないことでした。それは覚悟のうえでした。百姓の身分である忠敬には許可の下りないことであり、師・至時のおかげでした。至時はさらにいいます。「測量では、<誤差>をいかに小さくするかが勝負です。」この<誤差>に対し忠敬は肝に銘じました。

蝦夷地の測量は途中で切り上げますが、奥州街道の地図の精密さに幕府は次の二回目の測量をそく許可します。忠敬は<誤差>をなくすため歩測にさらに測量道具を考えだしていきます。

第四次の測量では「御用」の旗をかかげれるようになりました。幕府の命令による公式の調査ということです。この「御用」の旗で藩のあつかいがちがっていました。ただこの旗が忠敬を慢心させることになり、糸魚川での小さなトラブルが幕府まで届いてしまいます。至時からいましめの手紙が届きます。目指す仕事は大きいのですよということでした。忠敬は深く感じ入り師に感謝します。

そして江戸にもどると至時は知らせてくれます。忠敬が計算した緯度一度分が28里2分(約110.8㎞→現在111.1㎞)であることを確信したと。至時は、西洋の天文学の本『ラランデ暦書』を幕府に購入してもらい、日本の単位に計算し直してくれ忠敬のと一致したと教えてくれたのです。

幕府との面倒な交渉をしてくれ、忠敬の進む道を開いてくれ、忠敬の実績を証明してくれた師・至時はそれからまもなく亡くなってしまいます。師のそばで眠りたいという忠敬の想いもよくわかります。(源空寺墓地)

忠敬は幕臣となり測量は国家事業として続けられます。測量隊に役人も参加し、それはそれで内部の身分差がでてきたり心の休まることはありまんでしたが、第十次測量と間宮林蔵の蝦夷測量を加て「大日本沿海與地全図」は最後の仕上げにかかります。

第九次測量のあと、地図の作成には深川の家では狭いため、亀島町の屋敷(東京都中央区茅場町)に引っ越しています。ここで最期をむかえたようです。(「地図御用所」案内板・東京メトロ日比谷線<茅場町駅>1番出口付近)

大日本沿海與地全図」は「伊能図」ともいい、小、中、大と三種類ありました。小は1里(約4㎞)を3分(約1㎝)とし全3枚、中は1里を6分(約2㎝)とし全8枚、大は1里を3寸6分(約11㎝)として全214枚からなりたっています。

将軍家斉に見せたときは日本東半分の地図でしたが、300畳の大広間いっぱいになったそうですから大きいのを並べたのでしょう。インパクトがあります。

人に対しては身内でもきびしいところがり、娘婿、息子、弟子などと縁を切ったりしています。後に許したりもしていますがコツコツ積み上げてきただけに<誤差>に対しては厳格だったのかもしれません。天才肌というよりも地道に踏みしめて成果を残していくというタイプと言えそうです。

赤丸の上野にある源空寺には、伊能忠敬、高橋至時、高橋景保、そして谷文晁、幡随院長兵衛と妻・きんの墓があります。上の地図の16の幡随院は幡随院長兵衛が身を寄せた寺といわれ小金井に移転しています。

志の輔さんが新作落語「大河への道」伊能忠敬物語 を作られ語られれているのを知りました。どんな感じなのか興味ひかれます。映画にもなるそうで楽しみです。

立川志の輔独演会 大河への道 伊能忠敬物語:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)

大河への道 (shochiku.co.jp)

追記: 30日夜の『古典芸能への招待 ー中村吉右衛門の至芸ー 』(NHK Eテレ)は一つ一つの役が脳裏によみがえり焼き付きました。幡随院長兵衛は押し出しも立派でセリフ回しもお見事、任侠の心意気が力強さの中に繊細さを垣間見せるという二代目ならではでした。二代目といえば吉右衛門さんです。

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(1)

上の案内図から平賀源内さんを少し追ってみましたが、その下の「伊能忠敬住居跡」と「間宮林蔵の墓」から、お二人の様子も知りたくなりました。「滝沢馬琴誕生の地」もあります。馬琴さんは同時代、新しい町人文化の担い手でしたが、今回は静かにしていてもらいます。

伊能忠敬さんが実測して日本地図を作ったころは蘭学が盛んなころでした。今回は伊能忠敬さんと間宮林蔵さんとのつながりです。入口は児童図書です。

伊能忠敬さんと同時代には、日本では蘭学をはじめ新しいことを学びたいという動きがありました。

青木昆陽(1698年~1769年) サツマイモの栽培を広める。前野良沢にオランダ語を教える。

前野良沢(1723年~1803年)、杉田玄白(1733年~1817年) 「解体新書」を翻訳する。 小野田直武(1749年~1780年) 平賀源内に洋画の技法を習い、源内の紹介で「解体新書」の絵図を描く。

平賀源内(1728年~1780年) 2022年1月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

伊能忠敬(1745年~1818年) 実測で日本地図を作る。

大黒屋光太夫(1751年~1828年) 乗っていた船が嵐で流されロシアまで行き帰国する。

滝沢馬琴(1767年~1848年) 『南総里見八犬伝』等を書く。

間宮林蔵( 1780年~1844年) 伊能忠敬が実測できなかった蝦夷の残りを実測する。間宮海峡(タタール海峡)を発見する。 

シーボルト(1796年~1866年) 長崎で蘭学を教える。帰国に際し日本の地図を持ち出したことからシーボルト事件となる。

忠敬は千葉の九十九里で生まれました。忠敬の父は婿で、妻が亡くなり婿先の家を出て実家に帰りました。忠敬は小さかったため亡き母の家に残されてしまいます。やっと父がむかえきてくれましたが、実家は父の兄が継いでおり父は貧し暮らしをしていました。

当時長男でない者は、商人、学者、僧侶などほかの道をみつけなければなりません。忠敬は算法が得意で算法で身を立て出世したいと思いました。忠敬17歳のとき、佐原村の伊能家の娘と結婚し養子となります。伊能家は大地主で、小作を使ってのコメ作り、醸造、運送、金融などをしていました。

忠敬はさらに収入を上げ伊能家を盛り立て時間を作っては好きな読書をしました。さらに薪問屋を江戸の新川に出しその店に行ったとき読書にはげもうとしましたが、近所の火事で店は焼けてしまいます。24歳のときです。それからは早く隠居することを目標に家業に精を出します。

忠敬は名主となり自然災害の時は貯めていたお金を佐原村のために使いました。天明の大飢饉のときには佐原村民は飢え死にせずにすみました。

忠敬は天文暦学に興味を持ち始めます。自分で使えるお金もありますので、書物、望遠鏡、磁石などを買い込み天体観察もはじめました。そしていよいよ息子に家業をゆずり深川黒江町に住居をかまえ隠居します。50歳の時です。新たな人生が始まりました。

児童図書は子供が読むことを前提にしていますから、伝記なども子供時代を丁寧に描き興味がわく様に工夫されています。さらに小説となっている場合は、史実をもとにした創作でこの登場人物は架空のひとですと書かれており、絵や地図、解説なども載せてくれていたりし、大人が読んでもわかりやすくてお得です。

佐原には伊能忠敬旧宅も残っていて街並みもしっとりして風情があります。かつて行った時よりも見どころが増えていそうです。佐原の町並み:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)

深川黒門町に移り住んだ忠敬は、天文歴学者の高橋至時(よしとき)の弟子となります。幕府は新しい暦を作り変えようとしていて蔵前片町(台東区浅草橋三丁目)に「暦局」という役所を作り、そこで高橋至時は、「天文方(てんもんかた)」という責任ある役についていました。師・至時32歳、弟子・忠敬51歳でした。

至時がその後の忠敬の測量の道を開いてくれた人で、41歳で亡くなってしまいます。忠敬は師への恩を忘れず、死んだら師のお墓の隣にと言い残し、希望どおり至時のそばに眠っています。

忠敬は、全国地図を未完成で亡くなってしまいます。それを伏せて「大日本沿海與地全図」として完成させ伊能忠敬の業績としたのが、高橋至時の子の天文方・高橋景保でした。その後で忠敬の死を公表しました。

ところが後に、間宮林蔵と高橋景保は思いもよらない関係となってしまうのです。それがシーボルト事件です。

初アニメ『本好きの下剋上』

昨年の八月の緊急事態宣言解除で二人グルメを再開。趣味とか話す傾向が違うので久しぶりの対面おしゃべりはしっかり聞きたいことを聞けるように二人グルメが多かったのですが、その中でも12月のアニメにつながった話は二人グルメが正解でした。

まず『鬼滅の刃』のさわりを簡潔に話してもらって、あと二たつほど紹介してもらったのですが、『本好きの下剋上』が気に入りました。詳しくはわからないのですが、ネットで小説を投稿するサイトがあってそこで見つけて読み、本になってそれを読み、漫画にもなり、テレビアニメになり、DVDとなったようです。

私は手短にDVDになっているのをレンタルして観ました。今年の初アニメです。可愛らしい絵なのには驚きました。話を聞いていた時はこんな絵とは想像していませんでした。見きれるかなとちょっと心配でしたが、友人が言っていたのはこのことだなと思ううちに引っ張られていきました。

本の正式名は長いのです。『本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』(香川美夜著)。<下剋上>が惹きつけられます。力のなかった者がのし上がるわけでしょうから。友人によりますと、主人公が本が大好きで生まれ変わった世界には本がなくて、それなら自分で作ればよいと考えて作るんだそうです。それがどうして下剋上なのかなとおもいましたら、貧しい平民の子として再生し、そこの世界には貴族がいて貴族の世界にまで入り込むということのようです。

「本は高級品で貴族しか読めないのよ。自分で本を作ろうと思いたち、一つづつ工夫していくの。前に居た世界の知識はそのままなので、エジプト式、メソポタミア式、中国式の本のつくりかたを試していくの。」

エジプトはパピルスという植物繊維の紙に文字をかきました。主人公・マインはパピルスを作りますが効率が悪く小さなパピルスしか作れず失敗します。平賀源内の石綿みたいです。メソポタミア式は粘土板に文字を書きます。これはいけそうですが苦労の甲斐なく何も知らない仲間の子供たちに踏みつけられてしまいます。中国式は木簡です。これも用意したところで何も知らないお母さんに薪として燃やされてしまうのです。

それでも協力してくれる少年・ルッツがいて、彼の商人になりたいという夢と重なり合ってマインの力になってくれるのです。

その前にまず文字を覚えることから始めなくてはならないのですから、本が好きでなければ進むことのできないことでした。前の世界は日本で麗乃(うらの)という名前でした。本が大好きで図書館司書に就職が決まったところで亡くなってしまい、気が付いたら架空の国の平民の幼女・マインとなっていたのです。

マインになっても麗乃が日本でつちかった知識は生きていて、その知識で新しい街のみんなが知らない物や食べ物を作り出し商品としてお金に換えるという方法を見つけ出していきます。マインの家族がこれまた良い人たちなのです。

ところが、一番の協力者であるルッツにお前は本当のマインなのかと疑われてしまいます。マインはなるべくわからないようにと気を付けていたのですが、本作りへ夢中になり麗乃の自分が出てしまい、ルッツがおかしいと思うわけです。麗乃もマインを新たに知っていくわけで大変なのです。

本当のことをルッツに話したらわかってもらえるであろうか。ルッツとの関係も壊れてしまうのではなかろうかとマインは心を痛めます。ここも一つの山場でもあり、お互いの葛藤が垣間見える場面でもあります。

そうした色々なことを乗り越えて、マインは貴族の神殿の見習い巫女となります。神殿には図書館があり本を読めるという権利をえるためでした。そして、神殿の孤児院で飢えていた孤児のために、本作りの労働により自分たちで食料を調達するという方法を見つけ出し、ついに本を完成させるのです。

マインは貴族となり、愛する家族と別れることになります。それはマインが家族を守るために必要なことだったのです。DVDはここまでです。マインは領主の養女となりまだまだ下剋上は続いていくようです。

調べましたらこの小説は第5部まであって完結しています。テレビアニメでは今年4月から第3期が始まるようです。

小説はもっと細かく表現されているらしいのですが、そこまでの気力はありません。「小説を読もう」で検索して「本好きの下剋上」と入力すれば探し当てられるとおもいます。無料で読めますので読みたい方はどうぞ。

人間関係、架空の世界での約束ごと、マインが遭遇する様々な問題がはめ込まれていてひとつひとつ乗り越えていくのがたのしいです。マインはすぐ熱を出してしまって倒れてしまいます。それは身食いという病気でした。この病気の人は特別の能力も持ち合わせているという展開でまたまた波乱が待ち受けているのです。繊細な心の動きもあり、デフォルメされた部分もありで楽しませてもらいました。

友人のいつもながら、短時間で要領よく興味を引くように説明してくれた手腕に導かれ絶対自分からは選ばないアニメに遭遇したわけです。よくしゃべり続けてくれました。アニメを見終わってから、マインの麗乃の時のわからないところは電話で聞き、アニメでは描かれていない麗乃のこともわかりつながりました。

アニメでは、神殿の神官長が出てきてマインが新官長とずっこけの掛け合いをするのが気分を変えてくれる挿入部分もあります。誰なのだろうと思っていましたらマインが神殿に行ったときはじめて登場しやっとお目にかかれたのです。小説や漫画で読んでいる人にはまた違った楽しみ方ができるようになっているのでしょう。

本好きの下剋上』とはどうやってお付き合いするかはこれからの課題です。

歌舞伎『岩戸の景清』から「忠臣蔵外伝」

歌舞伎座『岩戸の景清』は、浅草歌舞伎や、テレビの『鎌倉殿の13人』がかぶさるのでしょうが、出演メンバーから思い出すのは昨年の歌舞伎座11月の『花競忠臣顔見勢(はなくらべぎしかおみせ)』です。芝居の並べ方が面白かったのと若手の役者さんがここまできたのかとの思いから今でもよみがえります。国立劇場での「忠臣蔵外伝」の公演を二つ見つけました。

筋書の整理をしていてそうであったと気が付いたのです。歌舞伎座の筋書もそうですが、表紙に演目が書かれていないので、後で見直したいとき表紙をめくらなければなりません。何とも不便なので、表紙にはがせるテープを貼りそこに演目を書いておいたのです。

ありました。フライヤーもありました。2007年(平成19年)12月の「それぞれの忠臣蔵」と、2013年(平成25年)12月の「知られざる忠臣蔵」です。仮名手本忠臣蔵のパロディーもすでに吉右衛門さんが試みられていました。

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2007年の「それぞれの忠臣蔵」は『堀部彌兵衛』『清水一角』『松浦の太鼓』の三演目をやっています。

堀部彌兵衛』。堀部彌兵衛は、中山安兵衛を見込んで養子縁組を申し込み、安兵衛も考えた末申し入れをうけます。そして彌兵衛はさらに三歳の娘・さちを嫁女にといいます。彌兵衛は15年経てば安兵衛36歳でさちは18歳と半分でちょうどよいといい、堀部家に春が訪れるのです。しかし、15年後、主君仇討ちの年となるのです。このさちを隼人さんが演じています。

清水一角』は討たれる方の吉良家側の人物を主人公にしています。史実ではさしたる活躍もなく討ち死にしたようですが、講談などで勇士にまつりあげられたらしいです。河竹黙阿弥もその線に沿って書き上げました。

この人はのん兵衛で、仲間内からもつまはじきにされています。弟・与一郎は真面目で酩酊した兄を自宅まで連れ帰ります。家では姉が一角の肌着をこしらえています。その夜、陣太鼓の音に一角は「来た!」とばかりに跳ね起き姉の用意した肌着を着て、姉が渡してくれた女ものの小袖をまとい防戦のためかけだすのでした。

清水一角が染五郎(現幸四郎)さんで弟の与一郎が種太郎(現歌昇)さんです。

松浦の太鼓』の大高源吾が染五郎(現幸四郎)さんです。

そして2013年の「知られざる忠臣蔵」は『主悦と右衛門七』『弥作の鎌腹』『忠臣蔵形容画合』の三演目です。

主悦と右衛門七』では、主悦が隼人さん、右衛門七が歌昇さん、右衛門七の恋する呉服屋の娘・お美津を米吉さんが演じられていました。年齢的にも似合った役どころと言えるでしょう。

忠臣蔵形容画合(ちゅうしんぐらすがたのえあわせ) ー忠臣蔵七段返しー』とありまして、大序から七段目までが舞踏劇で演じられます。

歌昇さんが若狭之介、奴、猟師を、隼人さんが星野勘平を、米吉さんがおかるをつとめられています。

その他、『元禄忠臣蔵』や『仮名手本忠臣蔵』にも皆さん参加されていますので、『花競忠臣顔見勢』のときは忠臣蔵に対する想いはよりふくらんだことでしょう。

こうやってひとつひとつ手にしていくのだろうと思いつつ初春の『岩戸の景清』をながめていました。

吉右衛門さんは初代の演目を演じつつ新たな構成を考え、さらに後進の育成に力を注いでおられたことにあらためて気づかされます。それはもうつながっていると思います。

2013年の観劇に関しては書いていましたので、興味がありましたら開いて見てください。

2013年12月10日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

2013年12月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

2013年12月12日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記: 「四の切」の幕切れの宙乗りは、国立劇場が最初だったそうです(昭和43年)。三代目猿之助さんが書かれています。「当時の劇場スタッフが、宙乗り実現のために努力と研究をおしまず協力してくれたことは忘れられません。これが今日の猿之助歌舞伎がうまれるきっかけとなったのです。」歌舞伎界にとって国立劇場は大きな存在です。

追記2: 国立劇場「伝統芸能伝承者養成事業」の紹介としての動画がのせられました。こういう人たちが歌舞伎を支えているのだということが伝わりますので是非どうぞ。

【願書受付1/31まで】国立劇場「伝統芸能伝承者養成事業」をご紹介【歌舞伎ましょう】 - 「歌舞伎ましょう」日本俳優協会・伝統歌舞伎保存会【公式】 100i.net

追記3: 上の動画の猿四郎さんの棒の扱いをみて、『岩戸の景清』の隼人さんの長刀の扱いをもっと大胆にできたかもと欲がでました。綺麗でしたのでここまでかなとおもいましたが、若いのだからもっとダイナミックさに挑戦して莟玉さんの弓と対比させたら色合いが濃くなったなと思い描いています。言うのは易きですね。

松也さんももどられましたので、こころおきない千穐楽を祈っています。

初日の出・歌舞伎座『岩戸の景清』

歌舞伎座のフライヤーの裏がしばらく新型コロナ感染予防案内が一面をしめ、やっと今回の新春大歌舞伎から、演目のあらすじがのるようになりました。うれしやうれしやです。『岩戸の景清』などは分かりづらいので、簡単にでも芝居について頭に入れておくと観劇の役に立ちます。

平家の武将・悪七兵衛景清が源氏への復讐心から江の島の岩窟に閉じこもってしまって世の中は暗闇です。そこで源氏側は神事をおこない舞うのです。岩戸を開けると景清がいて景清が刀を抜くと光を発します。さやに納めるとまた暗闇です。この刀・小烏丸が威力をもっているのです。

悪七兵衛景清が松也さん。源氏側の北条時政が巳之助さん、秩父重忠が歌昇さん、重忠妹・衣笠が米吉さん、和田義盛が隼人さん、義盛妹・朝日が新悟さん、江間義時が種之助さん、千葉介常胤が莟玉さんです。この名前の並びを見ると浅草歌舞伎を思い浮かべることでしょう。「難有浅草開景清」とあります。なんて読むのかと思いましたら「ありがたやはながたつどうあけのかげきよ」だそうです。難問漢字といいますか、勝手読み方漢字といいますか、ややこしいです。

筋書にも読み方出ていませんでしたので他で検索しました。フィーリングで感じ取ってくださいということでしょうか。

舞台は源氏側の舞いがあでやかに展開します。巫女の役目を兼ねているのでしょう、米吉さんと新悟さんが組んで舞い、隼人さんと莟玉さんが組んで舞います。皆さん衣装が美しく初春らしさにあふれています。種之助さんは「矢の根」の五郎を小ぶりにしたいでたちで、岩戸を押し開けます。

松也さんが刀を抜き光がさしますがさやに納めるとまた闇ですので、だんまりとなります。再び刀が抜かれ、明るくなり、景清と軍兵との立ち回り。

景清は、時政と重忠に説得され納得して新たな旅立ちとなります。舞台背景は富士山が見える海上からの日の出です。歌舞伎座舞台での初日の出でした。

皆さん若さのなかにおごそかさを加えて演じられていました。松也さんは空気抵抗をもう少し感じさせてもらいたいです。荒事ですので、空気を自分に引き寄せそれを空気抵抗感をもって押し出す強さが欲しいです。実際はありえなのことですが、観ている人にそう感じさせるのが荒事の醍醐味かとおもいます。

来年は浅草歌舞伎の開催が望まれるところです。

追記: 歌舞伎座一部、三部の開催が継続となったようですね。よかったです。つないでくれる人がいればこそです。千穐楽まえにもどれる役者さんもでてくるでしょう。姿の見えないものとの関わり合いですから継続が力なりです。

初涙・歌舞伎座『義経千本桜』

歌舞伎『義経千本桜 川連法眼館の場』通称「四の切」は、泣かされるかどうか五分五分の感じでした。お正月のNHKの歌舞伎中継で、猿之助さんの細かな演技を興味深く観ていました。これを実際に観たとき客観的に観ているのか、話の中に引き込まれるのか、なかなか面白い情景になると想像していました。

源九郎狐が忠信から本来の狐の姿となり、親狐の皮が張られた初音の鼓に別れを言うときがきました。それも、親狐が「忠信にこれ以上迷惑をかけてはいけない。里に帰りなさい。」とさとされたので帰りますと子狐がいうのです。

ここでジーンときて涙。親狐と子狐は交信しあっていたのです。鼓の皮になっても、事の道理を教えさとし、それを泣く泣く納得する子狐の心情に触れてしまいました。

早替りの出番はわかっています。今までそれを楽しんでいた感があるのですが、今回は、その間の演技がたまらなく面白く、一つ一つ納得しつつ観ていました。

忠信は、一年会わなかった主君・義経と再会でき、涙をおさえます。ところが義経に自分の身に覚えのないことを忠信は問われます。静はどうしたかと。忠信は故郷に帰っていたのですから、静とは会っていません。義経に叱責されとまどいます。そこへもう一人の忠信が来たという知らせがあり、偽者めが来たかときっとなります。

今回、この忠信の義経に対する一方ならぬ忠誠心がよくわかったのです。そのため、その場を去る時も振り返りながら偽忠信を見届けたいという気持ちの形が納得できました。

親狐はこの忠臣・忠信を窮地に追い込んではいけないということを言ったのです。そして、子狐も忠信に申し訳なかったと思っていたので親のいさめに泣く泣く立ち去るのです。本当は親のそばを離れたくないのです。行きたくないのです。ここで思い切って飛び去る気持ちがよくわかりました。

一つ一つのケレンが理にかなっているのです。

ここから義経は狐と自分とを重ねて涙します。その言葉を忠信は隣の部屋から姿を見せ聞いているのです。ここも狐と忠信の早変わりという段取りなのですが、必要な出現です。忠信は義経の心の奥を知り、さらに自分に化けていた子狐の心情も知り納得するのです。ここで忠信の人となりが完結します。子狐に化けられた忠信というだけではなかったのです。忠信がどういう人物かが描かれているのです。

そして、義経と忠信のきずなもはっきりします。早変わりに気をとられていてこのあたりを軽くとらえていました。義経の言葉を聞く忠信の表情は微動だにしません。真実は何かという探りをいれる顔です。ぴたっと表情がとまります。真実を知り、義経の心の内も知り、おそらく義経への忠臣は深くなったのでしょう。窓の障子の閉める時にその思いをあらわします。

子狐はどんなことをしても親狐のそばにいたいのです。静の詮議もそうした子狐とのせめぎ合いです。静は自分がだまされていたわけですし、義経から詮議を命じられ、何かあれば手に欠けても良いと刀を預かってもいるのです。

狐と静のやりとりも面白かったです。刀では無理と知ると静は鼓を打ち、鼓責めです。そうくるのですかと何回も観ているのに落としどころが上手いと改めて感じ入りました。

狐は親狐との別れと、その後疎まれた悲しい出来事を語ります。鳥の親子のことを例えとして竹本にのって表現するのですが、羽ばたきをみていると、狐を表す衣装もこの鳥のことも考えていたのかと思えました。その衣装の使い方が綺麗です。そして子狐になりきっています。この狐はもうかなり成長しているのです。長い間、鼓になった親狐の後を追っているのです。ここは思いっきり子狐でした。

義経に呼ばれて狐は再び姿をあらわします。そして初音の鼓を手渡されるのです。嬉しいですよね。子狐のこれまでの行動をしっかり受け止めてもらえたのです。子狐としてのすべてを認めてくれたのです。それは子狐と自分を重ねた義経であったからこそでしょう。

子狐は義経に忠勤をしめし館に悪僧を引き入れきりきり舞いさせて退治してしまいます。そして自分の古巣へと鼓を抱え飛んで帰っていくのでした。それを見送る人々。今回は、舞台上は義経と静だけではありませんでした。宙乗りに特別の想いを込められたのかもしれません。

宙乗りはもちろん喜ばしいことですが、それよりもケレンがいかに計算して組み込んでいるかがわかって満足でした。ケレンがあって芝居があるのではなく、登場して物語を紡ぐ演技に沿ってケレンがあったのだと今回は確信しました。

この猿之助さんの細やかな演技は前にはどうだったであろうかと2011年(平成23年)の明治座での録画があったので観直しました。亀治郎時代で、すでにこの時から細やかです。どこがどう違うか言い表せないのですが、今回は芝居全体の物語性がより立体的にせまってきました。

一人一人の役柄がはっきり伝わりました。

明治座の録画はWOWOWからなのですが、撮り方が他と違っていました。狐を撮りつつ静も写る角度が多く、狐の動静に静がどう対応するかもわかり勉強になりました。

明治座の配役:佐藤忠信・源九郎狐(亀治郎・現猿之助)、義経(染五郎・現幸四郎)、静御前(門之助)、亀井六郎(弘太郎)、駿河次郎(亀鶴)、川連法眼(寿猿)、飛島(吉弥)

歌舞伎座配役:佐藤忠信・源九郎狐(猿之助)、義経(門之助)、静御前(雀右衛門)、亀井六郎(弘太郎)、駿河次郎(猿弥)、川連法眼(東蔵)、飛鳥(笑也)

東蔵さんが川連法眼が初役だそうで、また一つ務められるお役の数が増えられました。寿猿さんは今回は局・千寿で猿之助さんの宙乗りを舞台から見届けています。

門之助さんの義経は主人としての威厳があり深い悲しみを感じさせられました。雀右衛門さんの静は愛らしくたおやかでした。

亀井六郎の弘太郎さんは、三月、青虎(せいこ)を襲名されるそうですが、すでに青い虎のごとく勢いのある動きをされていました。寅年にふさわしい襲名です。

猿弥さんは弘太郎さんとコンビならさしずめ黄虎の貫禄といえるでしょう。笑也さんは今までで一番の老け役かなと思いましたら「ぢいさんばあさん」されてますね。

「四の切」で義太夫狂言の面白さを再確認しようとは思ってもいませんでした。どうも鑑賞しているピントが合っていなかったようです。

初笑い・前進座『一万石の恋』

前進座の『一万石の恋 裏長屋騒動記 愛の仮名手本篇』を観たいと思っていましたがやっと浅草で観劇できました。今年の初芝居で初笑いとなりましたが、いつものことでちょっと余計な口をはさみますので悪しからず。

山田洋次監督と前進座のタッグは二回目です。前回は『裏長屋騒動記 落語「らくだ」「井戸の茶碗」より』でした。

今回の<恋の仮名手本篇>というのが気になります。一幕目から<仮名手本>というのが納得できました。そして一万石という弱小藩の藩主・赤井御門守の恋が裏長屋の騒動記となるわけです。今回は落語の『妾馬(めかうま)』を土台にしているということです。

近年は『八五郎出世』の演目で語られるます。それは最後まで語られないからです。落語を簡単に紹介します。裏長屋に住む孝行な娘・おつるが赤井御門守のお目にとまり男子誕生となります。おつるは赤子を兄に見せたいと対面を殿に願いききとどけられます。兄・八五郎は無事おつると赤子と会うことができます。長屋の生活しか知らない八五郎のお屋敷での破天荒な言動が可笑しさをさそいます。殿様にも気にいられ、士分にとりたてられるのです。

そのあとは、名前も改まった八五郎が殿の可愛がる馬に乗って使いに出かけることになりますが、馬術の知らない彼は急に駆け出した馬のたてがみにしがみつきます。屋敷の者にどちらへ行かれるのかと聞かれ、前にまわって馬に聞いてくれというのですが、ここは蛇足として省略されることが多いのです。

もう一つの聞き所は八五郎の妹・おつるに対する情愛です。母の言葉を伝えつつ幸せな様子のおつるに安心するのです。

今回の芝居ではこの落語設定を大きくひっくり返しました。お鶴には好きな人がいるのです。赤井御門守の恋、一万石の恋はどうなるのでしょうか。そして、裏長屋の人々の活躍はいかにとまあこんな具合に話はすすみます。

これはこれなりに笑いもあり結構なのですが、どうせなら、お鶴の名前をお軽にしてほしかったです。赤井御門守は芝居好きです。おかるの名前にビビビビーっと電流のくるのは間違いなしです。

それと『妾馬』が基本にあるなら、八五郎を途中で妹想いの兄にさらにひっくり返してほしかったです。母親と八五郎はぐうたらで長屋ではよく思われていない親子なのですが、そこが弱いのでどうせなら妹の本心がわかりそれじゃと妹のためにと八五郎が一肌脱ぐという変身ぶりにし、大家さんはじめ長屋の人々も力を貸すという盛り上がりにもっていってもよかったのでは。母親はそのままでいいです。

ひっくり返してまたひっくり返すというのもありではないでしょうか。それくらいやってもできる力量の役者さんたちなので、もったいなくおもえたのです。

<仮名手本>にはやはり前進座ならではの設定だと感心しました。ベンベンも笑えました。ただお小姓さん、襖をしめるときは中腰ではなく座ってからお願いしたいです。きちんとしているからこそさらにベンベンに笑いが増幅すると感じます。

それと長屋の皆さんの木遣りのときには、あちらこちらから調達した印半纏(しるしばんてん)などを着てはいかがでしょうか。酒屋、米屋、大工など。お祝いなので、裏長屋の人々の心の表し方も必要かと思った次第です。

音楽が素敵でした。始まりが江戸っ子の人情味をあらわすような明るさを押し出してくれるようで、途中の打楽器と尺八も場の雰囲気をかもし出してくれてよかったです。

前進座の90周年を寿ぎ、座員の皆さんの修練のほどを鑑賞しつつ笑いながら、ああじゃらこうじゃら突っ込みを入れつつ楽しませてもらった初芝居でした。

突っ込みをいれたからとて壊れるような芝居じゃないですから安心し、自分の好みの変更芝居に役者さんたちの動きを浮かべつつ書いています。

カーテンコールの後の写真タイム。今年も写りの悪いスマホとのお付き合いです。真ん中のご機嫌なかたが一万石志摩波藩の救い主です。そして、お殿様が後ろむきになるとお鶴ちゃんのお母さんがあらわれます。ウソかホントウか確かめたい方は機会がありましたら是非劇場にてお確かめください。

落語『八五郎出世』の生は志の輔さんで聞いています。

2021年『一万石の恋 ―裏長屋騒動記 愛の仮名手本篇』 (zenshinza.com)

初春は平賀源内から

迎春

上の図の紫色で囲んである「平賀源内電気実験の地」とありますが、さて平賀源内さんはきちんとは知らないのです。多才の人で、歌舞伎『神霊矢口之渡(しんれいやぐちのわたし)』の作者でもあるのです。

というわけで図書館にあった児童書(小学校高学年~中学生)『大江戸アイデアマン 平賀源内の一生』(中井信彦著)を読んでみました。早く読めて面白かったです。一つの目指すことに失敗しても次の時に役立ったりします。誰も考えないような発想からはじまり、日本の知識ではだめで、西洋の知識も必要なことに挑戦するわけですから遠回りをしたりしますが目指していることはよくわかります。

香川県大川郡志渡町に百姓の子として生まれますが、父は殿様のお米蔵の番人だったので低いながらさむらいの身分でした。小さいころから色々なアイデアが浮かびます。

陶器づくりを見ればろくろに興味を持ち、後に外国と陶器に対抗するには土が重要と考えます。

高松藩主の作った薬園(栗林公園)で朝鮮人参を育てたり、薬草、薬品の良しあしを知るための展覧会を思いつきそこから植物、動物、鉱物を含めた物産会に発展させるのです。それを図鑑として残します。長崎にも行き、江戸に来ました。そして、藩に縛られていては自分の好きなことができないと浪人になります。

そうなると収入なしですので、アルバイトとして、物語や芝居の本を書きます。世界を旅する奇想天外な物語『風流志道軒伝』も誕生します。

田沼意次の耳にも入り秩父の金山の発掘もします。鉱山の調査などにより、石綿(アスベスト)をみつけます。

心霊矢口渡』が初演されたのが明和6年(1770年)源内43歳の時でした。

緬羊(めんよう)の毛から毛織物をつくりだすことも考えだし国倫織(くにともおり)と名づけます。国倫は本名でした。

色々なアイデアを実行に移しますが、それは日本のことを考えてのことでした。

外国との輸出と輸入のアンバランス。日本から流出した金、銀、銅はたいへんな量にのぼっていました。外国から入ってくるものといえば生糸、絹織物、毛織物、そして薬種。そのほかめずらしい鳥けだものや道具類などです。薬は必要ですが、あとはぜいたく品ばかりです。これでは日本が貧乏になってしまうのは当然です。

そういうこともあって源内さんは自国で生産し、海外に輸出しようという大きな考えでした。大量生産を考えるので失敗も多いのです。

そして手にした発電機からその復元製作に成功しエレキテルと名づけます。それを成し遂げたのは神田大和町でした。そのうわさで実際に見たいという大名や高官が多数なのでエレキテル公開のため、狭い住まいから広い深川住吉町の別荘を借りてくれる医者がいたのです。それが地図の場所です。老中・田沼意次も見に来たのです。

そして、源内さんは初めて自分の家を持つことにします。馬喰町でした。死刑になった検校の家で亡霊が出るというわさでしたがそれゆえに安かったのです。源内さんは幽霊など気にしませんでした。

源内さんは仕事が失敗するとそれにたずさわってくれた人々のことを考えます。金山で失敗したときも人々のために炭焼きで生計がなりたつようにしました。ただそれを売るとき問屋の手を借りなくてはならずそこで搾取する商売人の根性が好きではありませんでした。

そういう経験から、勘定奉行の用心と米問屋秋田屋の息子が自宅に訪ねてきたときは快く思わなかったようです。北海道のアイヌのために米を送る計画を聞きつけ、米買い集めを秋田屋に任せてほしいといってきたのです。

源内さんはアイヌの手による産業をおこし、アイヌが直接それらの品物でロシアとの貿易をして利益を得て生活することを考えていました。そのためにはまずアイヌの生活困窮のために米を大量に送ることを考えたのです。それを文章にしようと考えていました。

考えの違いからかは明らかではないのですが、源内さんは二人を切りつけてしまいます。源内さんは伝馬町の獄舎で破傷風のため亡くなってしまいます。

著者は歴史家で小説家のように想像では書かないが、この二人の来客の部分はなぞでいちおう著者が推理して書いたと「あとがき」で書かれています。

源内さんは自分のアイデアで多くの人々のために役立つことを考えていました。長崎では外国の知識もえて、物事を理として考えることに努めています。何事も実験に実験を重ねて新しいものを取り入れていきました。そして利益は私的なことではなく多くの人々のためと考えていました。何があったのか残念な最期でした。

平賀源内さんは多才でゆえに定まらなかったという印象でしたが、源内さんの考えはもっと大きかったようです。

上の切絵図 7⃣ 清住町 「江戸中期の奇才・平賀源内がエレキテルの実験を行った所。」。(現・江東区清澄1-2、3) 4⃣ 伊東 「北辰一刀流の剣客・伊東甲子太郎の道場。新選組参謀となるが、新選組と相容れず新選組に恨まれ暗殺される。」(現・江東区佐賀1-17) 3⃣ 真田信濃守 「松江藩真田家の下屋敷。藩士・佐久間象山がここに藩塾を開く。塾生に勝海舟、吉田松陰、橋本佐内など。」(現・江東区永代1-14)

源内さんが亡くなってから80年後には、源内さんと同じように藩ではなくもっと広い視野で物事を考えるような人々や様々な考えを持つ人々が出現し、その出入りの足跡が深川にもあったわけです。

児童書との出会いは、知りたいという先のスピード感をもたらしてくれました。もっともっと源内さんの人間関係は多数で詳しく書かれていますので誤解のありませんように。

追記: 2015年(平成27)に国立劇場で吉右衛門さんが通し狂言『神霊矢口渡』を上演されていました。筋書に初演(1770年)は江戸での人形浄瑠璃とありました。歌舞伎初演は1794年(寛政6)江戸桐座です。源内さんが亡くなった(1779年)15年あとでした。

追記2: 「この作品が書かれたのは矢口の新田神社から、祭神である新田義興(にったよしおき)の霊験を広めてほしいとの依頼があったからだと伝えられます。」とあります。

追記3: 国立劇場歌舞伎『神霊矢口渡』について記してありましたので興味があればどうぞ。

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記4: 井上ひさしさんの戯曲『表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)』を読みました。人を殺めるのをどうするのか。表と裏の源内が登場していまして、表の源内が裏の源内に切りつけます。しかし弟子の久五郎を殺していたのです。源内は狂ってしまったとしています。表裏の源内を登場させた意味もつながります。

神霊矢口渡』は、「江戸言葉を始めて浄瑠璃に使った人気狂言者」というのも興味深いですし、渡守頓兵衛の台詞のすごさにも気づかせてくれました。「釈迦如来が元服して、あやまり証文書かうといふても、いつかないつかなひるがへさぬ」。江戸の物売りの売り声で一年間を表現するという場面にはなるほどと感じいりました。