加藤健一事務所『バカのカベ~フランス風~』

再演である。今回はラストでピエール(風間杜夫)が、フランソワ(加藤健一)に「バカ、バカ、バカバカ、バカ」と連発するのであるが、その<バカ>に含まれている幅が、初演の時よりも大きく揺れ動いた。

<バカのカベ>を一度突き破ったところの、<バカ、バカ、バカバカ、バカ>なのである。

ピエールは、フランソワを自分の趣味の世界しか見ない変わり者としての笑いの対象とした。ところが、フランソワはそれだけではなかった。人が困っていると、その人のために何かしてあげたいという性格で、<バカ>の<カベ>の向こうにもう一人の親切なフランソワがいる。しかし、その行動がことごとく裏目に出てしまうというフランソワがいたのである。そしてフランソワにかかると、全ての事実が表にでてくるという、厄介な親切でもある。

それは、他人のことだけではない。自分の置かれた事実も表に出し、きちんと把握し自分で受け止める。自分が笑われるためだけに呼ばれるたパーティーのこと。それを仕掛けたのがピエールであること。それでいながら、フランソワはピエールの危機を救おうと親切心を起こし行動する。頼もしきフランソワ。感動的な幕切れと思いきや、フランソワのパターンは変わらなかった。次の行動が裏目を出してしまうのである。

だが、ピエールの最期にフランソワにぶつける<バカ>は、フランソワをパーティーに呼んだときとは明らかに違う。

波乱に満ちた一定時間を一緒に過ごした後の、あらゆる感情が含まれている<バカ>という言葉なのである。

「ばかだな泣いたりして。」という、女性に対する男性の常套句のような言葉があるが、この時の<バカ>には、可愛さも含まれている。一つの言葉でも含まれているニュアンスが違う。ピエールの言葉もそれで、「何て事してくれたんだ。ああやはり油断すべきでなかった。どうしてくれるんだい。あんなに喜ばしておいて。」

初演の時は、笑いだけだったが、この二人の人間関係が、良いにしろ悪いにしろ、濃密になったことが判った。その濃密さが、人間の可笑しさの幅を広げて伝わってきたのである。芝居ではあるが、芝居をしている時間空間に登場人物の生臭さが注入されていった感じである。

初演の時は、<バカ>の前に<カベ>が立ちはだかっていて、その壁にぶつかったピエールの自身のばかさ加減がフランソワによって跳ね返されたと感じたが、今回は<カベ>の向こうにいつの間にか連れ去られ、再び戻った時には、今までとは違う人間関係になっていたのでる。ただの笑いだけの芝居ではなかった。人間のあらゆる感情をも網羅していたのである。

登場人物たちの関係も、近かったり離れたり。客観的だったり、感情的だったり。冷静であったり困惑したりという面白さが見えた。再演による、より役に成りきっているため、こちらも、その人物を自然に受け入れ易くなって楽しめるゆとりをもてたからであろう。笑いとは、その人物が真面目であればあるほど笑いになるものらしい。

初演の時の感想である。 『バカのカベ~フランス風~』(加藤健一事務所)

作・フランシス・ヴェベール/訳・演出・鵜山仁/出演・風間杜夫、加藤健一、新井康弘、西川浩幸、日下由美、加藤忍/声の出演・平田満

下北沢・本多劇場 4月24日~5月3日

 

時代劇映画の流れ

忍者映画を何本か観て、『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』(春日太一著)を手にした。「よくぞ、来てくれました!」である。時代劇映画の流れがよく解るし、時代劇映画に携わっていたそれこそ<影>の「職人」さん達のことが沢山のドラマとなって浮かび上がる。これは、春日太一さんのデビュー作であるが、よくぞ書いてくれたと思う。

今まで観た映画と重なり、さらに観たくなる。<時代劇映画ドンドン>である。黒澤監督映画の出現で、時代劇映画は変って行く。大映は、『座頭市物語』『忍びの者』。東宝は『切腹』。テレビ界では、『三匹の侍』。東映も『十七人の忍者』『十三人の刺客』など今まで脇役であった立場が主役となる。

『新撰組血風録』の原作者、司馬遼太郎さんは、東映の『新撰組血風録 近藤勇』には、「新撰組を動かしたのは近藤ではなく土方」だと激怒して、東映でのドラマ化を認めない。その時、池波正太郎さん原作の『維新の篝火』をみせ、原作を曲げないことを約束する。司馬さんは、この『維新の篝火』を気に入っていたという。

このDVDを借りる時、躊躇した。片岡千恵蔵さんの土方歳三である。近藤勇なら解かるがと期待せずに観たら、これが良かったのである。千恵蔵さんの悲恋も、作りかたで嵌らせることができるのだと、不思議な気分にさせられたのである。それを、司馬さんも気に入っておられたと読んだときは、やはりと思って、この本が益々面白くなってきた。

本を読む前に、映画『赤い影法師』『忍びの者』『続 忍びの者』をみた。『赤い影法師』は大川橋蔵さんで、橋蔵さんの忍者物は観たくないなと思っていた。この際だからと観たのであるが、市川雷蔵さんの『忍びの者』と違い、美しく、スター主義である。ただ、これはこれで、面白いのである。原作は柴田錬三郎さんである。柴田さんというと、和歌山県新宮市にある<佐藤春夫記念館>を思い出す。佐藤春夫さんの東京での住いを移築しており、一階にある暖炉のある洋室の応接間に畳が何畳か置かれ、そこに柴田錬三郎さんが訪れた時に座る定位置があったのである。佐藤春夫さんと柴田錬三郎さんとは異質の感じがするが、師弟関係も幅が広いものである。

映画『赤い影法師』は、関ヶ原で敗れた石田三成の娘が、木曽の女忍者となり、服部半蔵の子を宿し、その子が若影となって母影と共に行動する。若影が大川橋蔵さん、母影が小暮美千代さん、服部半蔵が近衛十四郎さんである。時代は徳川家光のとなる。その他の配役を紹介する。これが豪華。

柳生宗矩(大河内傅次郎)、柳生十兵衛(大友柳太朗)、徳川家光(沢村訥升・九代目澤村宗十郎)、柳生新太郎(里見浩太朗)、水野十郎左衛門(平幹二郎)、春日局(花柳小菊)。その他、黒川弥太郎、大川恵子、東野英治郎、山城新吾、沢村宗之助など。

作品公開が1961年。監督が小沢茂弘さんで、これがまた、司馬さんが激怒した『新撰組血風録 近藤勇』の監督でもある。『新撰組血風録 近藤勇』が見たくなる。スター主義に則った忍者映画である。大川橋蔵さんが忍者役でもきちんとファンの期待には応えている。母影の小暮さんと若影の橋蔵さんの組み合わせもいい。そして、若影と父・服部半蔵との対決も近衛さんが好演である。近衛十四郎さんは、他のスター役者さんとは一味違うリアルさを含んだ演技である。ここから、『柳生武芸帖』に行くのがわかる。大友柳太朗さんの柳生十兵衛は納得できなかったが、『十兵衛暗殺剣』(1964年)の近衛十四郎さんの柳生十兵衛と対決する、幕屋大休の大友柳太朗さんで満足。この対決は見応えがある。湖面の照り返しを顔に当てる撮り方なども工夫がたっぷりである。

『忍びの者』が1962年であるから、時代劇の風の流れがわかってくる。それを教えてくれるのが、春日太一さんの『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』である。好きに時代劇映画を選んでも、時代的流れの中に位置付けできるので、楽しさが倍増される。

時代劇がテレビの時代となり、近衛十四郎さんの『素浪人月影兵衛』大川橋蔵さんの『銭形平次』、『新撰組血風録』『木枯らし紋次郎』『必殺シリーズ』『鬼平犯科帳』等々が生まれる流れも解き明かされる。

さらにそこに映画の<影>の職人さんたちがどう係ってきたかを、綿密に取材し書かれているのであるからたまらない。スター主義の映画も役者さんの見どころを組み合わせる手法も好きであるし、その衣装、美術、撮る角度、セットの豪華さも見る楽しみ一つである。リアル系にいけば、いったで、その影の力の勢いは映像に現れるものである。

時代劇映画を懐かしさで見ていない者にとって、『時代劇は死なず!』は必読の一冊である。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(7)

地図を見て確認していたのであるが、奈良県庁と東大寺の間の道を真っ直ぐ北へ進むと佐保川にぶつかり、そこで二俣に別れ、直進が般若寺方面、右が柳生方面で、その柳生方面の道も途中で、柳生方面と浄瑠璃寺方面へと別れるのである。ただし、<旧柳生街道>は別に位置する。

私が、<般若寺>の帰りバスに乗ったのは、東之阪町バス停であろう。もしそのまま歩いてもどるなら、左に<転害門>をみて、右手の西方向に進むと<聖武天皇・光明皇后陵>があり、佐保路の一部である。御領を背に近鉄奈良駅方面の南に向かうと、<奈良女子大>がある。ここは、奈良奉行所の跡地で、本館と校門は明治時代の建築物である。そこから近鉄奈良駅へもどれば、行きとは違う道を戻れることとなる。

このことを、<般若寺>に行った友人に、こういう道もあったと教えると、「帰りはその道で帰ってきたよ。」とのこと。さすが調べていったようだ。完璧である。

友人は二月堂の<お水取り>を、上の回廊の方で見たそうで、今度は下から見たいとのこと。反対に私は機会があれば上で、見たいものである。あの下駄の音が聞きたい。

他の仲間が、「失踪したお兄さんを捜すため、妹が奈良を探し求め、奈良のほとんどが出てくる小説がある。」と言う。彼女の本の紹介には、なぜか乗りやすい。行ったところばかりなので、風景にのせた登場人物の動きなり、心理を追って行けばよい。ところが、一つ行っていない所があった。名前は出て来ないがある庭が出てくる。

そこは思いかけず雄大な風景が広がっていた。庭自体はそんなに広くないのだが、若草山や東大寺がすっぽり借景となって庭に深い奥行きを与えているのでだ。

この庭は、<旧大乗院庭園>と思われるのである。この小説に出てくる奈良で、ここだけは行っていない場所なのである。小説でも「五、答ふるの歌」の章で、かなり解明が深まるところである。小説に関係がなくても、訪れたい庭園である。次に訪れる時は、心して置こう。

小説名は『まひるの月を追いかけて』(恩田陸著)である。小説のほうは、兄を中心に二人の女性が、兄を通過しての心模様が映し出される。妹は旅を通して二人の女性のことを知り、そのことを通して幼い頃の記憶を紡ぎ出す。兄の中に存在する、遥か彼方にいるもう一人の女性との思いがけない巡り合わせとなる。奈良の風景が映像のように流れていく。

どちらも、近鉄奈良駅から歩いて行けるところなので、<奈良女子大>から<聖武天皇・光明皇后陵>までの道と<旧大乗院庭園>の空白部分を、埋められるであろう。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(6)

二月堂のお水取りを友人に勧め、あと何処がお薦めかと聞かれる。<般若寺>をあげる。友人の時間的配分から考えると、近鉄奈良から歩いて30分なので、その後お水取りまで、食事の時間もとれる。薦めていながら私はまだ行っていないが訪れたいお寺なのである。

花のお寺でコスモスが有名のようであるが、友人が行った時は水仙が咲いていていたそうである。そのお寺の先に、<奈良豆比古(ならずひこ)神社>があり、この神社では、神事としての『翁舞』が秋には毎年舞われているとの情報を持ち帰ってくれた。説明を読んでも上手く捉えられないが、三人の翁が登場するのが、この『翁舞』の特色であるらしい。猿楽の初期の形が残っているということであろうか。

今回の旅の締めはには是非ともこの二箇所をと思い、訪ねることができた。<般若寺>はバスでも行けるが、30分ならバスを待つなら歩きとする。<般若寺>に向かいつつ、<お水取り>のツアーで来た時、夕食をとったお店の前を通る。夕食の後、ガイドさんが、二月堂まで連れて行ってくれたのである。<お水取り>が終わると、自力でこのお店前のバスまで戻ったのである。この食事処は、かつて旅館で正岡子規さんが泊られ、この旅館で柿を食べられたということで、<子規の庭>と句碑が整備されていた。なるほどここであったかと地理的確認ができ<般若寺>に向かう。

道が二俣になり、<般若寺>の道標がある。もう一つの道は、柳生の方に向かう道らしいが詳しくわからない。バス停もここまでもどればいいのだと検討をつける。途中で、夕日地蔵がある。<般若寺>の前を通り過ぎ、神社に向かう。道路からすぐの神社である。中の敷地も広くなく、本殿のすぐ前に舞台があり、神様もすぐ前で奉納舞をご高覧になるわけである。翁舞を舞うかたは決まっていてその方々が順番で舞うようだ。今では広く知られるようになり10月8日は境内狭しと見学者があるらしい。かつてあった高札場も新たに設置され、今は人通りは少ないが、ここが、いかに人々の集まるところであったかが伺える。裏が森でここからは入れなくてぐるっと周るといわれ周ってみたが入口が無い。どうも違う周り方をしたようである。反省。きちんと確認すること。鵜呑みにしないこと。

先日友人と交番で道をたずねた時のことを思い出す。「駅の反対側に交番がありますから、そこでもう一度聞いて下さい。」二人とも「駅の反対側のすぐの交番ですね。」と理解。「いえ、すぐではありません。その交番の位置をこれから教えます。」ここは、そんなそばに交番が二つもあるのだとちょっと疑問に思ったのだが、勝手に、交番を作ってしまった。

諦めて、<般若寺>に戻る。来た時よりも、この坂道が時代を超えて見つめていた空気を感じる。<般若寺>の受付で、疑問に思っていたことを質問する。「『宮本武蔵』の般若坂の闘いとこの道と何か関係がありますか。」「この坂が般若坂です。昔はこの道が京へ行く道だったんです。」そうなのか。映画で若草山と思える場所で僧兵と闘うので、般若坂はその近くなのだろうと思ったがそうか、ここなのか。握りこぶしである。

これから庭の手入れをされるようで、沢山の土などの袋が置かれている。桜と椿が少し色をそえる。お寺の大きさに似合わないほど大きな十三重石宝塔が見える。この宝塔の東側に薬師如来、西側に阿弥陀如来、北側に弥勒如来、南側に釈迦如来がほられてある。

ここの楼門が凄いのである。鎌倉時代の日本最古の貴構で、屋根の先端が鳥の翼のように反っているのである。これは道路から眺めたほうが良い。この楼門の内側に、<平重衡公供養塔>があった。平清盛さんの五男で、奈良を治めようとして闘いとなり南都を焼け野原にしてしまうのである。東大寺に避難していた人々もその猛火のため多くの人が亡くなり、重衡さんは斬首され、、南都の人々によって<般若寺>の門にさらされたとも言われている。

お寺の方の話しだと、ここは平城京の北の鬼門にあたり、そのために建てられたとされ、高台にあり、いつも戦場の場所となり、折から北風に煽られ下まで火が走ったのであろうとのこと。色々な戦を見て来た場所なのである。今は、コスモスなどのお花の寺として、北に位置している。

本尊は、逞しい獅子に坐している凛々しい小ぶりな文殊菩薩様である。秘仏が白鳳時代の阿弥陀如来様で4月29日から5月10日まで公開される。

来た時の二俣の道の合流するところのバス停に人が待っているので、そこからバスに乘り駅に向かう。かつては京から、京へと人々が賑やかに行き来した古の道もわかり充実した旅であった。

 

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(5)

<浄瑠璃寺>について土門拳さんは書かれている。

こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、どういう考えだったのであろうか。 そして京から奈良から、野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。その道のりの遠さは、彼岸への遠さと似ていたのであろうか。 浄瑠璃境内に雨におもたくぬれるさくらは、ものうく、あまく、人の世のさびしさ、あわれさをいまさらのように考えさせている。

土門さんはタクシーを利用されている。山のなかゆえ歩いては行けない。タクシー料金は相当高いが、それも苦にならないほど通われる。

境内のさくらを雨が音もなくぬらしている春が一番、浄瑠璃寺の浄瑠璃寺らしい季節かもしれない。

初めて行った私は、土門さんの一番良いとする季節と雨という状況の中にいたわけである。そんな好条件でありながら、これは、何回か訪れた土門さんの感性である。こちらは、小雨とは云えども、<岩船寺>から歩いている。<浄瑠璃寺>の彼岸では晴れてお目にかかりたかった。ただ池に落ちる雨の波紋は趣きを加えてくれた。 <浄瑠璃寺>前からバスで奈良に入る。加茂から奈良へ入りたかった旅も成就出来た。これからが欲の深いところで、<道明寺>を目指す。土門さんの感性に逆らい、バタバタしていては、とても、土門さんのような奥深い文章は書けそうにない。酒田での『土門拳記念館』への旅も忘れられない楽しい旅でしたのでお許しを。

<浄瑠璃寺前>バス停からJR奈良駅まではバスで30分弱である。奈良から行くなら、「奈良公園・西の京/1DayPass」(500円)が断然お得である。範囲が浄瑠璃寺までなので、岩船寺までは別料金であるが、岩船寺から浄瑠璃寺まで歩けば片道分で済む。バスの本数が少ないので頭を使うが、お天気なら、浄瑠璃寺から2キロほどのところに<浄瑠璃寺口>バス停があり、そこはバスの本数も多いのでそこまで歩くと、時間を自由に使える。

JR奈良駅で案内のため立たれていた駅員さんに<道明寺>までの行き方を尋ねる。解かったつもりが券売機の前ではてな。二回乗り換えるが、どこまで買えば良いのか、また駅員さんのもとへ。奈良で二回も乗り換えるとなると、時間的ロスが心配になり、またまた、あたふたする。 JR奈良から快速で王寺へ、そこから普通で柏原に行き、道明寺線で道明寺へいくのである。乗ったことのない道明寺線に乘れる。一時間弱で到着するようで、楽勝である。落ち着いて車窓を楽しむ。河内堅上駅の桜が満開であった。河内ということは、大阪なのである。

先ずは駅前の商店街を抜け<道明寺天満宮>を目指す。最初は土師寺があり、そこへ道真公が伯母の覚寿尼さんをたびたび訪ねられ、道真公の亡きあと祟りをおそれ、天満宮が出来、土師寺も道明寺と改名し、天満宮も道明寺天満宮となったようである。立派な天満宮である。桜が多く、梅は無いのかと歩いて行くと、きちんと整備された梅園があった。さらに予想外に、白太夫社があり、「菅公大宰府への途次の道道案内をした従者白太夫を祀る」とあった。歌舞伎の世界と交差する。

この地で、大坂夏の陣で道明寺合戦というのがあったらしく、<大阪夏の陣400年道明寺合戦まつり>の宣伝看板があり、かなり力を入れているようである。

ところで<道明寺>は何処であろうかと近くのかたに尋ねたら、「尼寺さんですね」と関西弁でいわれ、「尼寺さん、良い響きだなあ。」と思う。歌舞伎の道明寺の場面から、こちらは、<道明寺>=道真公と思っているが、地元のかたにとっては、尼寺としての<道明寺>なのである。芝居とは離れた昔からある地元の尼寺さんなのである。地元ならではの響きである。

<道明寺>は尼寺さんらしく静かであった。本尊が、十一面観音菩薩であるが、18日と25日にしか拝観できないのだそうで、お寺のかたが気の毒がってくださる。今回の旅で、<道明寺>まで足を延ばせたのであるから、またご縁のあるときとする。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(4)

<旅籠屋>は、一般の旅人や武士が公用でない時に泊まり、食事がついている。今でいえば、一泊二食つきである。関宿の玉屋さんでは、坪庭と離れ座敷があり、食器も、石川県の輪島から取り寄せた、玉屋のシンボルの宝珠の紋が入っていた。<木賃宿>は、食事がなく、自分で食材を持ち込み自炊し、薪代などとして宿代を払うのである。

旧東海道を歩いていると、<高札場跡>というのを目にするし関宿にもあった。その場所は昔は「札(ふだ)の辻」と呼ばれ、その名前が交差点や町名として残っているところもある。木の板に、ご法度や、掟などを墨で書かれたもので、奈良の「山の辺の道」の旅で、奈良の興福寺の猿沢池方面に下りた三条通りの橋本町で<高札場>を見つけた。修学旅行の生徒さんで賑うお土産屋さんの近くである。現物が見れ、これで今はなくても想像が倍加する。

さて、関西本線の加茂駅からバスで、<岩船寺>に向かう。時間的には15分ほどで着いてしまうが、その短い時間の自然との出会いが楽しい。この辺りは京都府の木津川市で、この地の神社・仏閣を回るのは、車でないと数をこなせないのであるが、その分、行ったと言う満足感も湧く。<岩船寺>の境内は静かで、小雨の中でも赤が美しい色をみせる三重塔が目に入る。ゆっくりと三重塔を目指し、池を巡り歩く。「石室不動明王立像」が、小さいが正面奥の石板に彫られ、石の屋根と左右を石板に囲まれていたのが珍しかった。本尊の阿弥陀如来と四方を守る四天王の力強さとバランスがとれている。白象の上に坐している普賢菩薩がなんとも優美で、象はその優美さを誇って背に乗せ守っているようである。喧騒を離れこの世の平和な静寂を願っておられるような仏様たちであった。

お寺の方に、「浄瑠璃寺まで歩きたいのですがこの雨でも大丈夫でしょうか。」と尋ねると「大丈夫ですよ。階段したの道を左に進んでください。」とのこと、安心して歩みをすすめる。山門を下りた左手に神社があり、上ってみる。<春日神社>と、<白山神社>が並び、円成寺の二つ並んだ檜皮葺の社を思い出した。円成寺は<春日堂>と<白山堂>となっている。春日と白山が並ぶにはなにかいわれがあるのかもしれないがここまでとする。

<岩船寺>から<浄瑠璃寺>へ行くには、<岩船寺>を時計周りと反対周りの道があり、反対周りのほうが、距離的に短いのでそちらを教えてくれたようである。これからの道は<当尾(とうお)の石仏>を眺めつつの道なのである。柳生街道に比べると石仏や磨崖仏も小さくて可愛らしさがある。旅人と共に時々姿を表すといった感じである。表示の通り進んで行けばよい。

岩に彫られた不動明王立像も、別名<一願不動>とあり、一つだけ一心にお願すれば、その願いをかなえてくれるらしい。阿弥陀三尊磨崖像は<わらい仏>。本当に笑っておられる。ここの石仏は、庶民のささやかな日常の気持ちに寄り添って祈りを受けられ守られてきたおもむきがある。疲れも感じない程度で、<浄瑠璃寺>に着く。

しおりの説明によると、このお寺の礼拝のしかたがあり、東の三重塔の薬師如来に現実の苦悩の救済を願い、その前で振り返って中にある池越しに、彼岸の西方の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝とある。西方の阿弥陀堂には、九体の阿弥陀如来像があり、往生には九段階あるということのようである。

この「九体阿弥陀如来像」も「九体阿弥陀堂」も今では<浄瑠璃寺>だけにしか残っていない。藤原時代のもので国宝である。

<浄瑠璃寺>には、四秘仏があり、そのうちの「吉祥天女像」を拝観できた。五穀豊穣、天下泰平を授ける幸福の女神である。衣裳の色も想像がつくほど艶やかに残り、正面からの、そのふくよかなお顔とお姿は頼もしくさえあり、まさしく五穀豊穣、天下泰平の女神である。それでいながら、少し横から見ると気品と凛としたところがある。写真家の土門拳さんは、「仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。」とまで言われている。これは好みの問題でもあるが、偶然にも拝観でき幸せであった。

雑誌「太陽」の土門拳さんの特集をながめていたら、画家の堀文子さんが一文を寄せられていて、若い頃、土門拳さんに影響を受けられていたことを知る。土門拳さんのあの激しさと、堀文子さんのあの優しい色とがどこかで繋がっていたとは、意外であったが、嬉しかった。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

<関宿旅籠玉屋歴史資料館>の隣が築120年の古民家のゲストハウスである。お酒屋さんがあるから、地酒もあるし、ここは、歩いてきて関宿に入り泊まって、次の朝草鞋を履くというのもいい。情報提供すれば、仲間が、いくつかのコースを考慮してくれるであろう。旧東海道をかなり飛び越して、先にこの辺りの歩きを提案することにする。

旅籠の会津屋さんが食事処になっていて、そこで食事をとる。お店の前が、国指定重要文化財の<地蔵院>で桜が美しかったが、東追分のほうが満開のようですとお店のかたが教えてくれる。お店の暖簾に「鈴鹿馬子唄」の一節が書かれていた。小万さんが主人公のようである。お店は地元の常連のかたが、飲みつつ歓談しており邪魔をするようで質問は止めた。

先ずは、<西追分>まで行ってもどろうと考えて進むと、観音院というお寺がある。そこで、2番目の案内人に声をかけられる。このお寺は今はほかのお寺の分院なのだそうである。昔は後方に見えている観音山にあり、こちらに移ってからは鐘楼が山にあるため、ご住職さん夫婦は大晦日には、除夜の鐘を鳴らす為に山に登り、年を越されたとか。今は無人で行事のある時、本院からお坊さんが来られるらしい。観音様が御本尊なのであろう。観音山といわれるだけに昔は栄えたお寺だったのであろう。観音山の下に<鈴鹿関>跡がある。

<鈴鹿関>が関宿の名前のもとのようである。この<鈴鹿関>は<不破関>、<愛発関>(その後<逢坂関>に変る)古代日本三関の一つである。<逢坂関>は歌にもでてくるのでどこかに印象づけられているが、鈴鹿といば<鈴鹿サーキット>である。

「関東」という呼び方は、この三関から東にある地域として「関東」となったのだそうで、あの和菓子屋さんの看板を考えられた人は優れた遊び心のあるかたである。こちらも、あのお店の前を通り後ろを振り向き、ニンマリしたいところであったが、残念ながら自力でのそこまでの奥行がなかった。時間的に<西追分>の休憩施設は閉じられていた。ここから、大和、伊賀街道へと続くのである。

ではとばかり、踵を返して東追分に向かう。途中<福蔵院>の門柱に「織田信孝卿菩提所」とある。織田信長の三男で、秀吉によって自害させられるが、その首をここに納め、信孝死後400年忌にお墓を建立したとある。もう一つ<小万の墓>と記念碑もあった。父の仇討を成し遂げた娘さんらしい。なるほど、それが「鈴鹿馬子唄」に残ったのである。信長さんの名前が出てくると、映画『忍びの者』『続・忍びの者』の信長役・城健三郎さんが浮かぶ。城健三郎さんは、若山富三郎さんの大映時代の芸名である。

<眺関亭>は5時までなので、急ぐ。関の家並みが眺められる場所である。<百六里庭>ともあり、江戸から約百六里の位置にある。さてさて、東追分に向かわなければ。気になることが一つあったが、その前で声をかけられ説明を受けたのである。関宿は、宿場町を残そうと始めて30年たつのだそうで、電信柱も町屋の後ろに移動させ、家を新しく直すにあたり、土台を残して復元させる場合の、柱のその継ぎ目なども教えてくれた。格子も千本格子とか、もっと細かい格子など。

この関には本陣が二つあり、参勤交代の上りと下りの二つの藩が泊っても大丈夫なだけの用意ができる宿であったこと。旅籠と木賃宿の違い。家康の御座所があり、家康は本陣ではなくそこに泊まり、家康の家よりも棟を高くしてはいけなかったこと。「関の山」の語源ともなった<関宿の山車>は、今は4基しかないが、山車全体を人が回すのではなく、山車の中間部分が回るようになっていて、京都から譲り受けたことは確かなのだが、京都のどこからとは記録にないそうである。山車が回るような仕掛けのあるものは初めて聴いた。

こちらがさらに知りたかったのは、家の前に、材木のような丸材を乗せた縮小したような引っ張る車があったのが何かである。伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとにあり、そこで使われていた、四か所の鳥居の木が四か所に払下げになり、関宿は、宇治橋の鳥居の旧材をもらいうけるのだそうである。ということは、伊勢神宮の鳥居も木材は、40年間その役割を全うしているわけである。さらにもらいうけるところがあれば、さらに使われることとなる。これは聞いて嬉しかった。いくら伊勢神宮の神々のためとは云えども、選ばれた木が使われるわけであるが、贅沢だなあと思っていたのである。切られた以上は出来るだけ長く使われて欲しい。

そのもらい受けた旧材を東追分にある鳥居の建て替えに使うのである。そのため関宿の住民総出で<お木曳き>がおこなわれ、ミニチュアは、幼稚園生が曳くためのものだったのである。なるほど納得である。その行事が、今年、平成27年5月30日にある。5月23日から6月6日まで鳥居建て替え期間のようである。

東追分の鳥居は、伊勢への入口で「一の鳥居」と呼ばれ、広重の絵にも、この鳥居を潜って伊勢に向かう旅人が描かれていて、その道が階段で急なのである。実際にはどうかなのか、見たかったのである。辺りは、かなり暗くなってきている。熱心に教えて下さった方にお礼を言い東追分に向かう。これくらいの心意気でなければ、和をもって伝統を守っていくということは難しいであろう。

もしかすると江戸時代の関宿の夜のほうが、明るかったと思われるような暗さである。旅をすると、皆がいう。電気の消費をしているのがどこであるかがわかるわよね。駅以外はどこも暗いわよね。

これは寝静まった江戸の関宿と想像して歩く。直した家などは、車も格子戸の中にしまわれる様にしているところもある。どんどん歩いていく。ありました。東追分の「一の鳥居」。そこから伊勢街道は坂になっている。先はかなり深い闇である。

目的達成である。関宿は充分味わったが、仲間たちともう一度来たい場所である。亀山宿から歩いて関宿に入りたいものである。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

関宿は、残りの時間を全てあてようと思って居たので、ゆっくりと表示板などを見ながら見学を試みる。いつもは、荷物は駅のロッカーに預けるが、熊野の旅あたりから、少し鍛えなければとリュックを背負ったままで歩く。旅人と思ってくれたのであろうか、関宿では三人の男性に、関宿についてのありがたいご教授を承った。メモしていないので、かなりのことは忘却のかなたであるが、皆さん関宿を守るための意気込みと継続へのねばり、そして誇りを感じさせてもらった。

驚くほど、宿場町が残っている。関駅から北に向かって真っすぐ進むと東西に伸びる宿場町の中町の町並みにぶつかる。そこから、ゆっくりと西へ向かう。時代劇の町屋のセットと思ってしまうほど、古い町屋形式の家が並ぶ。間口が狭く奥が長い形である。<関まちなみ資料館>で町屋の中の様子と保存の歴史的資料をみる。三人目の方の話しを聞いた後でのほうが良かった内容であるが、その方の説明を聞き終わったのが、夕暮れでもう暗くなっていたのである。

自転車をおされた男性が、ある町屋の瓦屋根を横から見るように勧めてくれる。見上げると瓦屋根が直線ではなく、少し丸みをおびたカーブをしている。さらに「関の戸」という看板のある和菓子屋さんの前で、その看板に注目するように教えてくれる。「関の戸」の看板の字は金で金箔を張られていて眩しいほどである。その文字が江戸側からはかな文字で京都側からは漢字なのである。江戸からの旅人には、京都に向かいますよと知らせ、京都からの旅人には、江戸に向かいますよと知らせているわけで、漢字と仮名で江戸と京を表す感覚が楽しい。そして帰りには、無料で上に上がると町並みが見える場所も教えてくれた。<眺閑亭>である。

せっかくなので和菓子屋さんで「関の戸」の和菓子を購入する。歌舞伎の『関の扉』と関係があるのか尋ねると、三つの<関の戸>があるといわれていると。銘菓の<関の戸>、相撲取りの<関ノ戸>、歌舞伎の<関の扉>である。そして、六代目歌右衛門さんが歌舞伎座で『関の扉』に出られた時に描いて頂いたという桜の色紙が飾られていた。今月の歌舞伎座の『六歌仙姿彩』には、『関の扉』の宗貞は後の僧正遍照で、小野小町、大伴黒主と重なっている。ただ、僧正遍照だけが老けてしまうが。

この和菓子は、380年間作り続けられている。阿波の和算盆をまぶしてある小さな甘さひかえめの和菓子である。その和菓子の説明書きに関宿の繁栄の様子が書かれていた。

東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。

 

看板の文字は、新しくしたばかりで、外に晒されているので金文字もくすんできてしまうため定期的に直しているそうで、光り輝く時にぶつかったわけである。

次は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と歌われた旅籠玉屋の見学である。ここも、時代劇のセットにして人物を配置して想像してしまう楽しさである。驚いたのが、階段が急である。とてもではないが、「はい、はい」などといって駈け上がったり、下りたり出来る物ではない。江戸時代の人は小柄で足も小さかったので、出来たのであろうか。係りの方も今ではできませんよねと言われる。そして、藁ではなく、竹の火縄があった。時代小説に出て来たのである。藁よりも火持ちがよいそうで、竹の節から節まで薄く削ってそれを材料にして作るが、今はそれを作る人が一人しかいないとのことである。可笑しかったのは、旅籠でののみ除けの方法が書いてあり、その一つに、「からたちの実を一つ持って抱いて寝る事」とあった。効くのであろうか。「からたちの実」と「のみ」。

関宿については、もう少し滞在である。

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

仲間たちが旧東海道歩きを始める前から、観光や、歴史の残っている町、大磯、小田原、三島などは行っていたのであるが、今回、加茂から岩船寺を経て浄瑠璃寺に行けることを知り、その途中の<亀山宿><関宿>を訪ねてから奈良に入る事とした。

名古屋からは、東海道新幹線か東海道本線で琵琶湖周辺を回っての旅が主で、関西本線は眼中になかったのである。これも、忍者の妖術のお蔭であろうか。仲間たちは、人数の揃わない時は単独でそれぞれが旧東海道を歩いているようである。私も単独で宿場巡りはすると伝えてあるので、情報を宜しくと言われている。

<亀山宿>で観光案内所に飛び込み、観光時間をはかる。次の電車の時間と町の様子から一時間半を取る。案内の方も<関宿>に比べると残っている町並みは少ないとのことである。

亀山宿と関宿のイラスト案内図と、亀山駅ぶらりマップをもらう。イラスト案内図に、<志賀直哉と亀山>とある。志賀さんの母が亀山の生まれで、志賀さんは若くして亡くなった母の面影を探し求め、この亀山に来ている。その時のことを、『暗夜行路』に描いているという。その場ではどうすることも出来ないので、先ず、亀山城跡を目指す。亀山城は、蝶の舞う姿にたとえられ<粉蝶城>とも呼ばれたそうであるが、今は多門櫓、堀、土居の一部が残るだけである。今の多門櫓は平成23・24年に修理されたわけで、志賀さんが訪ねたころはかなり朽ちていたのであろう。

彼は、亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一通り町を見て廻った。亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから神社の建っている城跡の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

その後、俥を鳥居の前に待たしてあるが、これは、多門櫓の下にあった亀山神社のことであろうか。謙作は、高台に上がり、掃除をしている婦人に母の実家の名前を言い尋ねるが、母のことは分らなかった。小説の中の主人公にとって、この部分はかなり重要であるが、そのことに触れると長くなるので止める。

主人公は、伊勢参りのあと亀山に寄っている。そして伊勢では古市に行き、「芝居で馴染みの油屋という宿屋に泊り」「伊勢音頭を見に行き」「古市の伊勢音頭も面白く思った」とある。芝居とは『伊勢音頭恋寝刃』である。今は古市には油屋もなく、大林寺に遊女お紺と孫福斎の比翼塚のお墓があるだけであるが、志賀さんの頃にはまだ油屋は残っていたわけである。

亀山の町は、志賀さんが訪ねた頃よりも整備され、古い物を残そうと頑張っておられる。亀山城は関氏の城下として発展し、東海道の江戸から数えて46番目の宿場町である。お城があるだけに明治に入って、廃城令により取り壊されているので、志賀さんが訪れたころは、見すぼらしく見えたのであろう。そして、母の昔の消息も分らなかっただけに、町の印象が主人公にとっては、良いものとして残らなかったのである。

宿の一部分の旧東海道も歩け、突然、46番目まで飛んでしまったが、江戸の旅人だけではなく、志賀直哉さんも訪れていたというので、記憶に残る宿場町になった。これを書くにあたり『暗夜行路』をパラパラめくってその部分を探し出したが、暗い。若さで読んでいたのであろうか。理解していたとは思えない。もう一回読み返したくもある。暗夜の路をもう一度。

亀山市歴史博物館が、駅から40分と遠いため、残念ながら詳しい歴史的なことは分らなかった。関宿に比べると、宿の道が、かなりジグザグである。地形的なものであろうか。関宿が1.8キロで亀山宿は2.5キロと長いが、本陣、脇本陣が各一軒で、紀行文にも「さびしき城下」と書かれているようである。今は広い道路が出来ているが、広重の絵のような地形だったのかもしれない。

『岡田美術館』にて芦雪出現

箱根の『岡田美術館』で、喜多川歌麿さんの<深川の雪>が再び公開とある。正直のところ、ここの美術館は入館料が高すぎる。交通費を入れると躊躇する。そのため前の公開のときは止めたのであるが、今回は、一度観ておけばいいのだからと訪れた。高いと思う気持ちは変わらないが、長沢芦雪さんに会えたのである。

歌麿さんと同時代の絵師としては次のような方がいる。江戸の歌川豊春、司馬江漢、谷文晁(たにぶんちょう)。京都の円山応挙とその弟子の長沢芦雪、呉春、伊藤若冲、。大阪の森狙仙。

歌麿さんの『深川の雪』は、『 品川の月』『吉原の花』(米国の美術館所蔵)との三部作の一枚である。深川、品川、吉原の地域がら、着物の色、柄などが、深川が一番地味である。自然は<雪>であるから、お盆にのせたり、手を伸ばしたり、炬燵に潜り込んだりと、様々な様相を体している。中の品物は綿入れの着物であろうか、大きな風呂敷包みを背負う使用人の姿もある。<雪>に反応する料理茶屋の女性たち一人一人が歌麿さんによって配置されている。女性達の下唇が青である。笹色紅(ささいろべに)といって、紅を厚く重ねて玉虫色に光らせる化粧法を表しているとのこと。『品川の月』と『吉原の桜』のレプリカもあるので、比較できたのはよかった。

二階のこの展示室に到達する前に、一階展示の陶磁器などを見なくてはならないので、休憩と食事がしたくなる。入場券さえあれば、一日出入りできる。食事は一旦外にでて、美術館関係の食事どころ利用となり、そこを利用したが、メニューがすくないので、お隣の「ユネッサン」のレストランを利用するのも手である。雨模様だったので、庭園はやめたが、入園料がいる。足湯もあるが、有料である。美術館の中で、ほっとできる場所がない。

小田原で、限定公開の桜の見どころに寄ろうと思っていたが、雨でもあるし、この美術館一つと決める。貴重品のみ、携帯などは持ち込み禁止である。入場するとき、空港のような検知器を通らなければならない。出足の気分としては降下する。展示室には係り員がいないので、全てカメラで監視しているのであろう。食事場所が外なので、再入場となり、再び検知器を通る。こういう雰囲気の美術館が増えることを懸念するが、神社仏閣に油をかけるような犯罪が起こると、自由に見学できたものも規制されることにもなりかねない。自分も自由に見学できている立場を考えてほしいものである。

三階の展示室で、歌麿さんと同時代の絵師に会える。その中の芦雪さん、やはり楽しい。応挙さんの小犬の絵は可愛い。東京国立博物館での杉戸に描かれた「朝顔狗子」が最初の出会いであろうか。岡田美術館にもグッズとなっている「子犬に綿図」がある。その師匠の絵を手本にしたと思われる芦雪さんの「群犬図屏風」がある。この作品の芦雪さんの印が<魚>でないので、師匠を模して描かれた頃のものと判断されている。

応挙さんの犬と同じように愛らしいのであるが、構図が芦雪さんらしい。左に母犬がいてそのそばに子犬が戯れ、真ん中ほどに二匹の犬が優しい眼差しを、さらに右手の一匹の犬に向けている。二匹の犬が声をかける。「どうしたの。こっちへおいでよ。遊ぼうよ。」右手の犬は、他の子犬に比べると黒の斑の部分が大きい。足はしっかり止めていて、「でもさ、僕は自分の道を探しに行くよ。」と言っているようである。そんな会話を観る者が創作できる絵なのである。芦雪さんの絵はそれが魅力である。

もう一つは「牡丹花肖柏図屏風」で、辺りは淡く夕焼けに染まり、牛に乘った人物がゆったりと夕焼けを眺めている。牛はこちらにお尻を向けていて、この人物は牛を後ろ向きに乘っているのである。牛の頭には牡丹の花が載せられ、牛の顔は見えない。この人物は室町時代の連歌師の肖柏で出かける時はいつも牛に乘ってでかけ、号を<ぼたん花>ともいったそうである。のんびりユーモアあふれる夕景である。「良い夕焼けですね。一句出来そうですか。」「いやいや、こういう風景には言葉は無力です。」

呉春さんは、司馬遼太郎さんの短編集『最後の伊賀者』の中に『蘆雪を殺す』と一緒に『天明の絵師』として入っていた。小説では、呉春さんは与謝蕪村さんに弟子入りし、蕪村さん亡きあと、応挙さんのもとにいき「四条派」として繁栄する。蕪村さんの娘のお絹さんは「あの人は、器用だから。」と感想を述べている。呉春さんの作品はそつのない絵ともいえる。蕪村さんは生きているうちは認められなかった方である。小説のなかでは、当時の「千金の画家」として、応挙さん、若冲さんなどをあげている。さらに最終では、次のように記されている。

とまれ、蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほど高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。

 

呉春さんは、京都の金福寺で師の蕪村さんと隣り合って眠っているという。金福寺は、『花の生涯』の村山たかさんのお墓があるのに驚いたのと、お庭の紫と白の桔梗の清楚さしか記憶に無い。蕪村さんは、芭蕉さんを敬愛されていた。近江の義仲寺にある<無名庵>の天井絵は若冲さんである。

サントリー美術館で、『若冲と蕪村』を開催している。同じ年齢とか。面白い企画である。

岡田美術館には四時間ほど居たであろうか。ここの美術館は時間がかかると思ったほうがよい。人もほどほどでゆっくり鑑賞できた。個人的には、色々なつながりの作品が見れて満足ではあった。

もし、いつか再度訪れるとすれば、講演会のある時などを考慮して訪れるかもしれない。お天気がよければ、<曽我兄弟の墓>のバス停から<六地蔵>バス停までぷらぷら歩きたかったのであるが、次の機会である。

串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)