映画『山中常盤』

羽田澄子監督の『山中常盤』(2004年)を見る事ができた。取り逃がすところでした。

8月9日~8月28日 『ドキュメンタリー作家 羽田澄子』 東京国立近代美術館フイルムセンター 小ホール

羽田監督の特集だったのですが、7月に大ホールで加藤泰監督の映画を見に行った時は、チラシがまだ出来ていませんでしたし、他の映画館でも置いていませんでしたので、知ったのが23日。25日の『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』と最終日28日の『山中常盤』は見る事ができホッと安堵です。いつまた出会えるかわかりませんので。

創造の情念の色     映画 『山中常盤(やまなかときわ)』

近世に活躍した絵師・岩佐又兵衛の絵巻『山中常盤』全12巻、全長150メートルを映しだし、その絵巻に書かれている詞に新たに浄瑠璃の曲をつけ、浄瑠璃を耳で受けつつ絵巻をながめられるという何とも贅沢な時間なのです。

牛若丸と別れた常盤御前は、平泉の牛若丸から手紙を受け取り、会いたさの一心から侍女を一人だけつれ平泉に向かいます。途中、美濃の山中宿で病となり宿で伏せっているところへ、盗賊が押しこみ美しい小袖など身ぐるみはがしてしまいます。常盤は、下着もないこんな辱かしめをうけるなら命も奪えと叫び、盗賊は常盤の胸を切りつけ殺してしまいます。侍女も殺され宿の主人夫婦はあわれにおもい塚をたてます。

牛若丸は母が夢枕にあらわれ心配になり都に出で立ち、この塚を眼にし、母と同じ宿に泊まり母の最後を知ります。牛若丸は宿の夫婦の力を借り盗賊をおびきだし母の仇をとり平泉に帰ります。数年後、牛若丸は平家討伐の大ぜいの軍勢をひきいた立派な若武者となり山中宿に立ち寄り、母のお墓にお参りし、宿の夫婦に領地を与えます。

最終日ということもあってか、羽田監督が見にこられていて映画の始まる前に少しお話して下さいました。この絵巻を撮ろうとおもったのは『風俗画 近世初期』(1967年)を撮ったとき「風俗画」の面白さを知ったためで、次は絵巻物を撮ろうと計画された。ところがそれから30年近くかかってやっと実現したのである。絵巻の『山中常盤』はMOA美術館が所有していてなかなか許可が下りず、安岡章太郎さんと辻惟雄さんの口添えもあり実現にいたったそうでお二人の名前はエンドクレジットにもながれます。MOA美術館では、常盤御前の胸を刺され血のほとばしる部分の絵は展示のさい残酷なのでみせないそうです。

絵巻物ですから、静かに自分が絵巻を開いていく感覚、きらびやかな衣装、ゆっくり見たい部分を見つめさせ、浄瑠璃が絵の心情を浮き彫りにしていく。すべて羽田監督の演出なのであるが、そのリズム感は自然に共有させてくれ、そのタイミングを持続してくれます。

ときに挿入された自然の映像、絵の常盤御前をおもわせる常盤御前に扮した片岡京子さんの古風なお顔、ナレーションの喜多道枝さんの声、高橋アキさんのピアノ。そして、17世紀の絵巻に負けない現代の古浄瑠璃。

作曲・鶴澤清治/三味線・鶴澤清治、鶴澤清次郎/浄瑠璃・豊竹呂勢大夫/胡弓・鶴澤清志郎/笛・福原寛/大鼓・打物・仙波清彦、望月圭、山田貴之

牛若丸が盗賊を切り刻み、その死体をむしろに包み縄でしばり川まで運び投げ捨てさせる場面は、母のうけた辱しめと殺された怒りの大きさを表しているようにもおもえる壮絶さがあり、絵師・岩佐又兵衛の自分の一族が受けた凄惨さの照り返しともおもえてきます。

始めは常盤御前の旅をつうじての庶民の明るい生活もうかがえるなか、次第にクライマックスにもっていく血の色は、又兵衛の想像のなかにあるぬぐい切れない色だったのでしょうか。今回この映画を見て、近松門左衛門が、『傾城反魂香』の絵師・又平を吃音にしたのは、簡単には言葉で言い表せられない岩佐又兵衛の胸の内を想ってのことだったようにおもえてきました。

この映画を見ることができ、次の作品にかかられているお元気な羽田澄子監督のエネルギーに嬉しい拍手をお送りできてよかった、よかった。このほか羽田監督の見たい作品はまだまだ沢山あるのでアンテナの感度調整をおこたりなくしておかなければなりません。

撮影・若林洋光、宗田喜久松/録音・滝澤修/照明・中元文孝/ヘアメイク・高橋功亘/デザイン・朝倉摂/製作・工藤充

 

シネマ歌舞伎『怪談 牡丹灯籠』

ひと言で表せば<いと可笑し>である。怪談物で、これだけ笑いの起こる芝居も珍しいであろう。

台風の過ぎ去ったあとで、8月20日~8月26日まで1日1回の上映であるためか東劇は驚いたことに満席の状態であった。一番の要因は、仁左衛門さんと玉三郎さんのコンビを観たいということでしょうが。2007年(平成19年)の舞台なので10年近く前の舞台ということになるが、数年前に観たような気分でそんな長い時間が経ったとは思えませんでした。

三津五郎さんが船頭の扮装から着流しとなり、その後ろ姿からチラッと色気がただよい、三津五郎さんのこんな一瞬の色気はじめてみました。培われた役者さんの身体の動きから垣間見た、あったかなかったかわからないような、短時間のことです。こんな大きな画面で見れるのですから、見つめていました。羽織りを着て前を向き圓朝になり、火鉢のうえの鉄瓶から湯呑茶碗にお湯か湯冷ましかを注いでゆっくりと呑み、さてと噺しはじめる。やはり語りが上手い。

仁左衛門さんの伴蔵は身体全体がつねに動いています。無駄に動いているわけではないのです。台詞とその人の置かれている状況からでてくる動きなので不自然ではないのですが、やはり歌舞伎役者さんの動きで、それでいてそのしどころがリアルにうつるんです。

伴蔵は幽霊と会っていて話しもしています。それを聴く女房・お峰の玉三郎さんは想像外のことで、聴いていてもピンときません。観客は伴蔵が幽霊を見たということは見ていますが、幽霊と話しをしたということは知りません。お峰が知らないことを観客は知っていますから、お峰が驚く様子に観客は優越感もふくむ笑いとなります。お峰はじーっと聞いて次への動きへの間、これがまた可笑しいのです。伴蔵が話すことによって自分の知った状況を整理できてきます。女房は次第に見ていない状況が自分のものになっていくというながれ、観客も伴蔵から知らない部分を知っていきます。次第にお峰と観客は同じ立場となります。そしてそこからのお二人のツーカーのやりとりができあがっていき、心理状態までこちらに伝わってきます。

お峰と同化していた感覚がまた、伴蔵とお峰の二人と観客の関係にもどり、客観的にそのやり取りの可笑しさを享受します。

一生懸命説明する伴蔵の動き、聴きつつじーっと止まっていた女房がやにわに言葉を発する。声をひそめたり、驚きの声となったり。いつの間にかお二人の芸にかどわかされていきます。かどわかされないと面白くありません。

そして、極め付きはお峰の思いつきの、お札をはがすことを承諾する条件に、百両幽霊に要求しようという案です。新三郎さんがいなくなると、伴蔵夫婦は生活がなりたたないのです。ですからそれを保証してもらおうという経済的根拠にもとずいた案で、伴蔵もそく納得です。いつの世も経済優先は強いです。幽霊はどこからもってきたのか百両もってきます。木の葉になりはしないかと心配しつつ、お峰は震える指先でチュウチュウタコカイナと数えつづけます。

さて、伴蔵とお峰のこのやり取りは伴蔵がお国と良い仲となり、そのことを知った女房が詰問する場面で使われます。使われるというと、演技してるという感覚がつよくなるが、演技しているのであるが、その境目を観客の中に残さないのです。演技していることが、今芝居の中で起こっていることを見ている観客の感性の邪魔をせず、可笑し味に変えてしまうのです。この可笑しさがたまりません。今度は伴蔵がわからない部分があります。お峰は馬子久蔵から伴蔵とお国の仲を聞き出していたのです。

このお峰の玉三郎さんと久蔵の三津五郎さんのやりとりも見ものです。

そのことを観客は判っています。ここでは、伴蔵とお峰とお峰の共犯者である観客との関係がなりたち、いつのまにか伴蔵とお峰のやり取りに見入ってしまうわけです。

映像が二人を大きく捉え、急所急所でそれぞれの表情がわかり、編集のよさも手伝っているとおもいます。そんなわけで<いと可笑し>たっぷりの映画鑑賞となりました。

幽霊のお米の吉之丞さんがこれまた幽霊らしい幽霊で可笑しいのです。幽霊のお露の七之助さんも、愛しい新三郎の愛之助さんに会えて最初はおとなしいお嬢さんですが、次第にお米幽霊に感化されて、幽霊らしい幽霊に昇格していくのも可笑しさを増してくれます。

お露の父(竹三郎)を殺すお国(吉弥)とその情夫・源次郎(錦之助)のもう一組の男女の関係がからみ、そのあたりがきちんと整理され演じられているので、流れも判りやすくなっていて、最後の幸手の土手での伴蔵のお峰殺しの場面へと繋がっていきます。

幽霊に魂を売って金をえて、新三郎を亡き者にする手助けをした伴蔵とお峰にとって、倖せを手に入れることはできなかったのです。とまあ言葉で書くと教条的になりますが、見ているとそんな形通りの解釈を吹っ飛ばし、そこへ行かせないだけの役者さんたちのやり取りの可笑しさに満足してしまいます。

団扇の使い方、着物の肩袖をたくし上げる仕種など、細かいところまで見させてもらい、大きい画面の楽しさを目いっぱいみつめさせてもらいました。錦之助さんは、信二朗から錦之助に襲名された年で、壱太郎さんはこのころは可愛さが売りだったのだなあなどという想いも忙しく回転し、映画料金分以上に刺激を貰ってしまいました。

 

もう一つ私の力では書き表せませんが、8月24日に国立劇場で開催された、

芸の真髄シリーズ第十回 能狂言の名人『幽玄の花』

能と狂言の最高峰の方々の催しで、判らないなりにも機会があれば、また触れてみたい世界でした。

 

歌舞伎座八月『土蜘』『廓噺山名屋浦里』

『土蜘』 作・河竹黙阿弥/振付・初代花柳壽輔

『嫗山姥』で名前が出てきた人の登場です。源頼光とその四天王の坂田公時(さかたのきんとき・子供時代が金太郎)、占部季武(うらべすえたけ)、渡辺綱(わたなべのつな)、碓井貞光(うすいさだみつ)で、生まれた金太郎さんは、源頼光の四天王の一人になるのです。

病に伏せっている源頼光(七之助)は、侍女の胡蝶(扇雀)が薬を届けてくれ一時気分も安らぎます。胡蝶が去ると苦しみがもどり、そこへ一人の僧が知籌(ちちゅう・橋之助)と名乗り祈祷を願い出ます。その僧のあやしい影に太刀持ち(團子)が気づき、頼光もすぐさま切りつけますが、僧は土蜘の精の本性をあらわし蜘の糸を放ち逃げてゆきます。

このあとに、番卒三人(巳之助、勘九郎、猿之助)と巫女(児太郎)と石神(波野哲之)の狂言が入ります。番卒は土蜘退治を祈願して石神を敬うのですが、この石神は実は小姓で面をかぶり番卒をだましたのです。面をとられ石神になりすましていたのがばれてしまい、ごめんなさいと手をあわせあやまる姿が可愛らしく、巫女の背中で、「やーいだまされた」とばかりに番卒たちに指をさしつつ逃げてゆき、番卒たちはそれを追いかけるのでした。

独り武者の平井保昌(獅童)と四天王の綱(国生)、公時(宗生)、貞光(宜生)、季武(鶴松)は、土蜘の精を見つけ土蜘の投げる白い蜘の糸を受けつつの大立ち回りのすえ、みごと土蜘を退治するのでした。

頼光の七之助さんに品があり、太刀持ちの團子さんぬかりなくつとめ、扇雀さんの胡蝶もしっかり板についてる感じで松羽目ものの雰囲気をたもってくれます。橋之助さんの花道からの沙門頭巾に黒の水衣の出がよく、見得もしっかり凄味を見せ、そでをかついでの花道の引っ込みもよい。今回は集中力のしどころが上手く働いてよい動きとなってられるのを感じます。

獅童さんは、役としての若い役者さんたちの四天王を引っ張られ、獅童さんもそんな位置にきたのかと感慨深かいものがあり、波野哲之くんは、お面の目の穴だけで怖くないのかなと心配であったが、大丈夫のようで、しっかり大人たちをからかっていた。まわりのサポートもあたたかかった。

『廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらさと)』 原作・くまざわあかね/脚本・小佐田定雄/演出・今井豊茂

<笑福亭鶴瓶の新作落語を歌舞伎に!>とあり、鶴瓶さんのこの落語をきいて勘九郎さんがそくこれは歌舞伎になると思ったとか。面白い作品になりました。

江戸留守居役の酒井宗十郎(勘九郎)は真面目で、しっかり留守居役を勤めようと考えていて、他の留守居役からしてみれば、なにをほざいているか無粋ものめがと鼻つまみものあつかいである。次の寄合いでは、それぞれの馴染みの遊女を伴って紹介しあうこととなる。

宗十郎は、偶然舟に乗る吉原一の花魁・浦里(七之助)に出会い、どうしてもあの花魁を連れて寄り合いにでたいと思い、山名屋に頼みに行く。山名屋の前で店の友蔵(駿河太郎)から浦里花魁が簡単に会えるものではないと、吉原のしきたりを知らない宗十郎は呆れかえられるが、山名屋の主人(扇雀)に会うことができ、さてそのあとはどうなりますか。

この噺は、花魁浦里の格の高さが出せないと、小さな噺となってしまう。そして、花魁と田舎娘時代の素の違いの差があることによって一層面白さが加わるのであるが、七之助さんはそこを上手く乗り越えられ格の高い花魁にしあげられ、さらに人情味をくわえた。勘九郎さんの朴訥さもよく、それに浪花弁でポンポンぶつかる駿河太郎さんもはまっていた。扇雀さんとの場面では上方の柔らかさがほしいが、それは期待しすぎであろう。

意地悪な留守居役の彌十郎さんや亀蔵さんらも手慣れた役のうちで勘九郎さんの融通のなさに上手くからむ。

夢のような噺であるが、『鰯売恋曳綱(いわしうりこいのひきあみ)』のお姫様が遊女になるというのとは反対の、田舎の娘っ子が花魁となる変化をみせることで、同じ位取りの質の必要性が浮き彫りになる作品にしあがった。

 

歌舞伎座八月『東海道中膝栗毛』『艶紅曙接拙』

『東海道中膝栗毛』 原作・十返舎一九より/構成・杉原邦夫/脚本・戸部和久/演出・市川猿之助

< 奇想天外!お伊勢参りなのにラスベガス⁈ > とありますがその通りです。そもそも十返舎一九さんの『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八、弥次さん喜多さんの旅が、当時では当たり前のことなのでしょうが、今読むとかなり、えげつないのです。

人をだまし、それが自分に反ってくるという笑い。宿では飯盛り女を楽しみにし、さもなくば夜這いしての失敗が主で、このまま上演しても現代の人には忌み嫌われるかもしれません。ちゃぶ台にしろ江戸時代に当り前のことが今は説明しないと通じないということがあります。

『姥ざかり花の旅笠』(田辺聖子著)によりますと、幕末に訪れた外国人は日本全土に梅毒が広がっており、そのことを日本人があまりにも気にしていない楽天ぶりに驚いているとされています。売春防止法が実施されたのは敗戦後の昭和33年ですから、なんとも性の解放に野放図なお国柄といってすますわけにはいかない状況でした。

かの勝海舟さんも妻妾同居を実践したひとで、奥方の民さんは亡くなるとき「勝のそばには埋めてくださるな、息子の小鹿(ころく)のそばがよい」と遺言し実行され、後に海舟さんの墓の隣にうつされました。食えねえ男ともいわれた海舟さん、隣に民さんを迎えて、面目なく「おかげまいりにいきたいなあ・・・」と言ったとか言わなかったとか地下の言葉はわかりません。

弥次さん喜多さんの旅のエピソードでよく出てくるのが、五右エ門風呂に下駄で入って底を抜いてしまったこと、目の不自由な二人の座頭をだましてその背中に乘り川を渡ろうとして川に落とされてしまうこと、取り込まれず物干しに下がっていた襦袢(じゅばん)を幽霊とまちがえるはなしなどでしょう。

座頭の話しと幽霊の話しは歌舞伎座でも披露されます。そこは脚本の盛り込みかたで、一九さんは喜多さんだけを座頭におぶらさせますが、歌舞伎座では、弥次さんと喜多さんふたりがそれぞれの背中に乗っかります。もちろん川に落とされます。原作での幽霊での締めは 「幽霊とおもひのほかに洗濯の襦袢の糊がこはくおぼえた」 の歌となりますが、歌舞伎座のこはくは映画『怪談』以上の幽霊の出現でありんす。

弥次さん喜多さんは最初から芝居のなかの芝居を目茶目茶にして、はてはラスベガスでは、東京の染五郎さんと猿之助さんに似ていると間違えられて、『獅子王』を演じることになってしまいます。このラスベガスの舞台装置、大道具さんたちが乗りにに乗った感じです。役者さんたちも乗っていますが。

旅の路銀はどうしたのかといえば、しっこくの闇のおかげであります。弥次さん喜多さんのハチャメチャな旅の登場人物につきましては、廻り舞台を使って蝋人形で、いえいえ生身で紹介されますのでそれもお楽しみあれ。

きちんと由緒正しきお伊勢参りをするお行儀のよい子供の旅人も出てきますので伝統に関してはこのお二人に任せご安心あれ。

こんな暑い時に東海道中なんてとんでもないというかたには、『ぬけまいる』(朝井まかて著)などもおすすめです。十代のころは<馬喰町(ばくろちょう)の猪鹿蝶>といわれた女三人組が三十路をまえにお伊勢参りにでることとなります。お金の作り方これも読みどころで、八代目團十郎さんの名前を拝借しての情報操作を使っての仕返しに溜飲をさげさせられ、ほんのり恋の香りも暑さしのぎとなります。

歌舞伎座ではラスベガスまでいくため、途中の旅が早回しとなりますので、そのぶんの補てんとしても楽しめます。

『五分でわから日本の名作』によりますと最初は『浮世道中膝栗毛』(1802年)で箱根までだったそうで、評判がよいので書き足し書き足しして8年で完成。その後、金毘羅編、上州草津編なども発表され、1872年には弥次さん喜多さんの孫が横浜からロンドンを旅する『西洋道中膝栗毛』が仮名垣櫓文(かながきろぶん)さんがだしてまして明治5年です。平成の弥次さん喜多さんがラスベガスに行ったとて、驚くことはありません。

<東海道>となりますと長くなりますのでこの辺でおしまいにします。カブキのパロディーの台詞などありますので要注意。それから役と役者さん当てにも要注意。

出演者・染五郎、獅童、右近(市川)、笑也、壱太郎、新悟、廣太郎、金太郎、團子、弘太郎、寿猿、錦吾、春猿、笑三郎、猿弥、亀蔵、門之助、高麗蔵、竹三郎、猿之助

『艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか)』

読みが難しいです。通称『紅勘(べにかん)』。紅勘というのは、幕末から明治にかけて実在した小間物屋の紅屋勘兵衛のことで、幼少より音曲にすぐれ家業を放り出して、人のあつまるところで、芸を披露するようになり今回も、富士山の山開きで賑わう浅草に現れるのです。初演は四代目中村芝翫さんなので、八代目芝翫を襲名される橋之助さんが紅勘ということもあってか『紅翫』となっております。

江戸には様々のものを売って歩く商売のひとがいて、朝顔売り(勘九郎)、蝶々売り(巳之助)、団扇売り(七之助)、虫売り(扇雀)などが出てきます。それに町娘(児太郎)、大工(国生)、角兵衛獅子(宗生、宜生)、庄屋(彌十郎)も加わり、それぞれの商売にあった踊りで涼風を送り、あとはお楽しみの紅翫の芸を楽しみ楽しませる趣向です。

橋之助さんの身体に柔らかさが加わりその変化に面白さがでてきて、江戸の夏の風物詩の写し絵となって息を抜かせてくれました。

そうそう朝顔は『ぬけまいる』で重要な役目をする花として出てきます。朝顔の水やりなどは涼しさを連想させてくれいいですね。

 

歌舞伎座八月『嫗山姥』『権三と助十』 

『嫗山姥(こもちやまんば)』作・近松門左衛門/補綴・武智鉄二

あの熊を持ち上げる怪力の子供金太郎くんのお母さんの話しで、どうやって金太郎くんをやどしたのかの話しでもあります。

竹本駒之助さんの『嫗山姥』をCDで聴いていたので耳からだけでは想像出来ない部分がどう舞台に繰り広げられるのか愉しみでした。こうなるのであるかと芝居が進むにつれ、なるほどなるほどと嬉しくなりました。

「岩倉大納言兼冬公館も場」で、兼冬の娘・沢瀉(おもだか)姫(新悟)がいいなずけの源頼光の行方がわからずふさいでいるが、それをお局(歌女之丞)や腰元たちが煙草屋の源七(橋之助)を呼び込み、歌などうたわせて盛り立てようとします。

その歌を館の外で聴いたのが八重桐(扇雀)で、その歌は夫の坂田蔵人時行と自分しか知らない歌であり、夫は行方しれずであった。八重桐が館に入ってみると、そこに夫が煙草屋に身をやつした夫がいたのである。八重桐は夫にこれ見よがしに沢瀉姫に、自分と夫との廓での様子を語るのである。この部分が<しゃべり>といわれ八重桐の見せ場で芸の見せ所なのです。

時行は自分は親の仇うちのため身を隠したのだとつたえるが、仇は妹がすでに討ったといわれ切腹し、その魂が八重桐の口から体内に入り、八重桐は山姥となり沢瀉姫を横恋慕する敵の家来(巳之助)らをけちらします。そして、八重桐はこの時、金太郎をも宿していたのです。

八重桐の扇雀さん、紙子を着ての花道からの出から、<しゃべり>の廓での時行とのなりそめから傾城小田巻をはさんでの痴話げんかまでを色香ただよう身体の線と動きで堪能させてくれ、橋之助さんのすきっとした時行との意気もあっていて目がはなせません。橋之助さんの膝をぽっぽんと叩くリズム感に、これは、『土蜘』期待できると勘が働いたがそのとおりになりました。

新悟さんは7月は国立劇場で『卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』の魁春さんの質の高いお柳を見たでしょうし、今回は扇雀さんの八重桐をずーっと視れるのでよい勉強の場となることでしょう。

役者の金太郎さんは怪力ではありませんが、團子さんと『東海道中膝栗毛』で、ハチャメチャの弥次さんと喜多さんとは違う賢さで東海道を旅します。

『権三と助十』作・岡本綺堂/演出・大場正昭

長屋の井戸替えという一年に一回の井戸掃除という行事をもりこだ、市井の人々の貧しくもほのぼのとする生活の中で生じる事件である。

日本近代文学館の夏の教室で、北村薫さんが<「半七捕物帖」と時代と読み>のなかで、明治はまだ江戸時代の「しっこくの闇」とかの感覚が残っていて、きつねやたぬきの仕業であろうといえば通じる共通感覚があったといわれた。

そういえば、捕り物帖などのテレビをみると、幽霊とか、得体の知れないものの仕業とみせかける事件がおこり、親分は怖がる町の人々をよそに人間の仕業であると事件を解決し、さすが親分ということになります。

『権三と助十』では、二人が人殺しの犯人と思われる様子を目撃していて、そのことを迷ったあげくに大家さんに伝えるのであるが、そのしどろもどろは、「しっこくの闇」で光るのが刃物であったということはわかるが、その人の顔は見えたような見えなかったような状態だったのであろうなと納得できます。現代の感覚とは明らかに違っているでしょう。関わりになりたくないというのはそのへんの不確かさもあるのです。今回はそのことがわかりました。

大岡越前守はそこのところ(岡本綺堂さんともいえるが)をわかっていたのかどうか、目撃された疑わしい犯人・左官屋勘太郎(亀蔵)を解き放し泳がせるのです。これがまた、長屋での権三(獅童)、助十(染五郎)、左官屋勘太郎をはさんでの、面白いやり取りとなり、それを取り囲む権三の女房(七之助)、助十の弟(巳之助)、猿回し(宗之助)などとのからみも加わり二転三転の展開がミステリーさを増します。

店子の親としての大家の彌十郎さん、無実だと親を信じる壱太郎さんなど娯楽性のなかに江戸の裏長屋のやり取りを楽しませてくれ、井戸替えの人数の多さにも笑えます。これでは権三夫婦もサボってなどいられません。それにしても夫婦、兄弟、お隣同士、喧嘩の絶えない関係です。

「半七捕物帖」は六代目菊五郎さんの当り役であったそうで、舞台での「半七捕物帖」もみてみたいものです。

 

映画『沖縄 うりずんの雨』『激動の昭和史 沖縄決戦』

「8・15 終戦の日特別企画 反戦・反核映画祭」(新文芸坐)

『沖縄 うりずんの雨』(2015年) 現在の沖縄の置かれている状況が長い歴史の中の今であることがわかってきます。分析が冷静で、話されるかたの想いが静かでありながら、何回も裏切られた人の言葉として耳を傾けさせます。

「うりずん」というのは冬が終り大地がうるおい、草木が芽吹く3月ころから5月の梅雨に入るまでをさす言葉で、1945年4月1日から始まる沖縄地上戦と時間が重なる季節のことです。

うりずんの 雨は血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨 (詠み人・小嶺基子)

  1. 第一部 沖縄戦
  2. 第二部 占領
  3. 第三部 凌辱
  4. 第四部 明日へ

「ペリーが琉球の那覇港に来航したときすでに東アジア進出の足がかりとしていた。」のナレーションが重い。2004年に沖縄国際大学に米軍の輸送ヘリが墜落したとき米軍によって警察、消防をはじめ、大学関係者、報道など一切立ち入りを禁止され、米兵がカメラのレンズを帽子で隠す。これはショックでした。これが本土ならどう思うでしょうか。そして政府もどう対処するのか。

一つ一つ丁寧にインタビューしていきます。沖縄戦を戦った元日本兵、元米兵。元学徒隊。映像を照らしあわせつつ言葉を重ねていく。沖縄は本土の楯となって戦火におおわれる。

「占領」では、アメリカにつく、日本に復帰するの人々が半々で独立が少数であって、高校生たちが真剣に討論し、日本復帰を望んでいた人は、東京オリンピックで聖火リレーが通った時、日本国旗を力一杯ふったと語ります。復帰したら日本国憲法があり戦争もせず基本的人権にまもられた一員となれるとおもっていたが、復帰してみたら、基地は残りまた沖縄は本土の軍事的要石とされた。復帰運動が反戦運動に転換したといわれます。

米軍の犯罪は復帰後も続き、沖縄は軍事基地で食べているといわれるが、農地を基地のためにとられたため基地に仕事を求めたわけで、基地からの経済的貢献度は低下していて、返還された場合の経済効果のほうが期待できるとの考えかたもあります。

印象的だったのが、アメリカの女性隊員が、<何かおこれば24時間以内にかけつけ本国に及ばないようにくいとめます。世界各地に基地があるのはよいことです。>と明るく答えている。アメリカ本国をまもるためと。

さらに映画はアメリカの軍内部での女性兵士の受けた性暴力にもふれ、そうした被害者のネットワークSWANにも取材していて声をあげれない小さな声にも寄り添う姿勢をみせています。

沖縄という地域から、犠牲者への鎮魂と戦争という巨大怪物を消し去る方法を、人間の言葉でさぐり探しもとめる優れたドキュメンタリーでした。

監督・ジャン・ユンカーマン/企画・制作・山上徹二郎/音楽・小室等

『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)

監督が岡本喜八さんで脚本が新藤兼人さんである。『沖縄 うりずんの雨』を観ていたので早いテンポにどうにかついていくことができた。ぞくぞくと兵隊が沖縄に到着し沖縄の人々も兵隊さんが沖縄を守ってくれると頼もしくおもい歓迎する。しかし、本土決戦を長引かせるための沖縄決戦だったのである。

そんなことは島民は誰も知らない。ただひたすら戦うしかない。本土に学童疎開中の対馬丸は米軍の潜水艦に撃沈されてしまう(1944年)。1945年3月から米軍の沖縄列島への上陸が開始され島での集団自決が相次ぐ。

戦況が報告されていくにしたがい、若い学生たちの戦闘隊が結成されていく。爆弾の木の箱を担ぎ戦車の下にもぐりこむのである。『黒い雨』でも、自動車のエンジン音がすると戦車と思い飛び出して行き、枕をタイヤの下に置く青年が登場した。

沖縄にはサンゴ礁でできた洞窟がたくさんあり、そこへ身を隠し飛び出して攻撃する作戦もとられる。洞窟は病院としても使用され、女子学生も看護婦として従事したり食事を作ったりするが、次第に洞窟からでると機銃掃射が待ち構えている。

『沖縄 うりずんの雨』の中で元兵士のかたが、皆で火焔放射では死にたくないと言い合っていたそうです。とにかく何で生き残ったかわからないような有様で、もう駄目だとなり、島民の集団自決が行われてしまう。徹底抗戦の教育が浸透していたのでしょう。

少年が兵士にお前はもう戦うなといわれ、自分は沖縄のために戦うのだといいますが少年の無意識下の叫びともとれます。

戦闘場面の時間的経過とどう守備しどう攻めるかという作戦会議、本土の大本営とのやりとりなどが加わり、観ているほうも混線してき、とにかく次々と人々が死んでいくのに麻痺してしまうような映像の追い方になってしまう。それくらい死に向かっていく道しか残されていないのです。

琉球王国から琉球藩となり、沖縄県となり、沖縄決戦である。

美しい沖縄を訪れ、沖縄の人々が語りたい沖縄の声を聞くことが鎮魂へのささやかな心の献花となるのかもしれません。

監督・岡本喜八/脚本・新藤兼人/出演・小林桂樹、丹波哲郎、仲代達矢、酒井和歌子、大空真弓、加山雄三、池部良、中谷一郎、神山繁、田中邦衛、東野英治郎、岸田森、天本英世

 

映画『千羽づる』『ソ満国境 15歳の夏』

「8・15 終戦の日特別企画 反戦・反核映画祭」(新文芸坐)

『千羽づる』(1989年)は神山征二郎監督作品で独立プロ「神山プロダクション」第一回作品です。

2歳の時広島で被爆した禎子さんは、10年後に原爆症発症となります。それまで学友とクラス対抗リレーの練習をしたり、教師を囲んで元気はつらつの学校生活を送っていたのが、突然体調をくずし病院へ行き、そこで医師から「血液検査はしていますか」とたずねられます。自分も被爆している母親は「ABCCで2年に一回検査していて、1年半くらいたちます。」と答えます。医師は「すぐ検査してください。」と伝えます。「ABCC」とはなんであろうか。「原爆傷害調査委員会」で原爆被爆者の調査研究機関で、調査はするが治療はしていない。

血液検査の結果、禎子さんは広島日赤病院に入院し、白血病のことは知らされないが、白血球が多くなると死に近づくということは知ってしまいます。二人部屋となりお隣のかたは不治の病とされていた結核ですが元気になり退院することができます。折りづるを千羽折ると病気が治るといわれ鶴を折り続けますが、歯茎から出血し関節が痛み、皮下出血が体中にあらわれてき、禎子さんは帰らぬ人となります。

その禎子さんの闘病生活を通じ学友たちが募金活動をはじめ、折りづるを空に掲げもつ少女の像・原爆の子の像ができあがるのです。

元気に駆け回って生を謳歌していた少女と次第に病魔におかされ衰弱していく様子の変化が悲しい。実家は理容院をしていて他人の保証人となり借金をかかえ、さらに禎子さんの治療費のために現在の理容院を売り小さな理容院を開き家族ささえあい、家族と学友に看取られて禎子さんは亡くなられます。

監督・神山征二郎/原作・手島悠介/脚本・神山征二郎、松田昭三/出演・広瀬珠美、倍賞千恵子、前田吟、石野真子、篠田三郎、田村高廣、殿山泰司、岩崎ひろみ、田山真美子、安藤一夫、樋浦勉

 

追記: 日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研)が設立70周年の記念式典(2017年6月19日)で現理事長さんが、放影研の前身である「米原爆傷害調査委員会」(ABCC)が、治療はしないで調査だけをしていたことに言及し謝意を表明されました。苦しまれた被爆者の方が、広く知ってもらうことで少しでも癒されることを願います。

 

『ソ満国境 15歳の夏』(2015年)。この映画は、戦争末期15歳の少年たちが、ソ連と中国の国境に置き去りにされたとチラシにあり、どういうことなのかと観たいと思っているうちに終わってしまったので良い機会であった。

昭和20年の夏、旧制新京第一中学校の三年生がソ連と満州の国境付近の報国農場に勤労動員として派遣される。途中で長い列車と出会い、あれは何を運んでいたのだろうと中学生同士が話す場面があります。

あとで判るのですが、それは関東軍が引き上げる列車で、それをカモフラージュするために少年たちが派遣されたのでした。日ソ中立条約が突然破棄されソ連が参戦となり、置き去りにされた少年たち120名は新京に向かいますがソ連軍の攻撃をうけ捕らえられ捕虜となります。支給される食べものはわずかで、衰弱しきった50日後どこへでも行けと突然開放されます。少年たちは歩けない数人を残し新京を目指します。

みんなどうすることもできない状態の時、石頭村(現在の石岩鎮・せきがんちん)で食べ物と水と一夜の宿を提供されます。村人は憎っき日本人ではあるし、自分たちにも余裕がなかったのですが、村長の言葉により少年たちはたすけられます。次の日元気を取り戻した少年たちは出発し、新京にたどりつくことができ生還できたのです。生きて帰れたからこそ語り伝えることを決心されたのでしょうし、その事によって知らなかったことを知ることができたのです。

この原作『ソ満国境 15歳の夏』(田原和夫著)をもとにして、東日本大震災の仮設住宅で暮らす中学校の放送部員と中国の長老との交流から、君たちだって、あの頃の少年たちと同等の苦しみを味わっているのだからと励まされる内容となっています。

いつも犠牲となるのは、名も無き力の弱いものなのです。

田原和夫さんは映画のパンフレットに書かれています。「戦争を知る世代は、何かしらつらい負い目を死ぬまで背負って生きている世代です。私の戦争反対は、理念や観念の問題ではない、私の骨肉に刻みこまれたた深手の疼きです。」

監督・松島哲也/原作・田原和夫/脚本・松島哲也、友松直之/出演・柴田龍一郎、田中泯、夏八木勲、金子昇、田中律子、大谷英子、香山美子、金澤美穂、木島杏奈、澤田玲央、清水尚弥、清水尋也、三村和敬、六車勇登、吉田憲祐

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(四)

夏目漱石さん、田山花袋さん、石川啄木さんと一気に加速させていきたいところですが、どうなりますか。

姜尚中さんは「近代の”憑きもの”と漱石」ということで話されたが、姜さんは政治が専門ですので漱石さんが明治42年に大連にいっていることなどに触れ政治的な面をどう見ていたかを話されたのだと思います。思いますとするのは、こちらが漱石さんの悩みに対する明確さに欠けているということが原因です。

熊本では今年が漱石さんが熊本五高に赴任して120年で、4月13日に<漱石先生お帰りなさい>というイベントが行われ、次の日の4月14日に熊本は震災に見舞われてしまいました。新宿歴史博物館で、漱石さんと小泉八雲さんの関係を知ったので、熊本と漱石さんの関係に興味を持ちましたが、こんなイベントがあったのを初めて知りました。

松山から熊本に漱石を奪い返すと冗談を言われていましたが、松山では正岡子規さんと会っていますから、これは鏡子夫人の力をもってしても手強いかもしれません。

藤田宜永さんが、漱石に関しては「『三四郎』『それから』にみる男と女」という作品上の話しのなかで、様々なかたの作品の批評を紹介されたのですが、『それから』に対してある方が「漱石の男の友情のなかに女は入れない」と言われたということがでてきて、やはり熊本は分が悪いとひとり笑っておりました。いやいや熊本には頑張っていただきたい。

姜さんは、漱石さんが東アジアに対する言及は慎重で、『三四郎』の中で広田先生が「日本はつぶれるよ」と三四郎に言い、『門』で伊藤博文の暗殺に触れていることなど政治的な記述はすくないが、ロンドン留学時代を経て、大連旅行などをふまえ、<近代>という憑きものが落ちた最初のひとであるとされています。

明治政府が目指していた<近代>ということでしょうが、漱石さんが明治をどうとらえ、それが漱石さんの頭の中でどう形成されていったのかとなりますと実際に読んでいる読書量からしますと、う~んとうなってしまう難しさがあります。

韓国で漱石さんの全集が出たということで、韓国では漱石さんがどう読まれいるのか知りたいところです。

藤田さんの選ばれた『三四郎』と『それから』は、経済的に困らない人々の男女が三角関係で悩むという作品です。『三四郎』は、三四郎というホワイトボードにまわりの人々が色々書きこんで行くというかたちを漱石が意図的に書いているとされ、なるほどと思わせられました。三四郎は上京の列車の中から女性に出会い、そして美弥子に会います。美弥子に対する女性作家達の見方のほうが厳しいですと言われ紹介されましたが、そうくるわけですかとこれまた笑ってしまいました。

『三四郎』では、出会うだけで自分から女性に対し積極的には行動しません。『それから』では行動します。主人公代助は好きな女性・三千代を友人も好きだと知り仲を取り持ち身をひくのですが、夫婦仲の冷めた二人に会い、三千代の自分に対する気持ちを確かめ友人に打ち明けます。漱石さんは、振り返ってもう一度考え直します。

話しを聞きつつずっーと疑問だった、どうして漱石さんは恋愛小説を書いたのであろうかということが少し見えてきました。島田雅彦さんの時に感じた<思索のプロセスを見直してもどってみれば、違う道が見えてくるのではないか>ということです。

このあと代助は経済的基盤を失います。漱石さんは、もし本来の道にもどるなら現状が崩れてしまう部分もあるということを示したのではないか。

恋愛という形をとっていますが、その形態をもっと広い視野に置き換えて見ることもできます。もし、間違っていた分岐点までもどると、経済的基盤を失うこともある。では、そのまま、意に添わぬ世界を生きるのか。恋愛の関係としたのは、時代が変わっても恋愛というテーマは終わることのない問題であり、社会小説は時代がかわると読まれなくなる可能性がある。しかし、恋愛小説はいつまでも読まれるのです。私小説は、作家の私的なことをほじくられて終りとなる可能性があるので、フィクションでいく。

とまあ、思索はここまでです。自分なりにこの視点で読むともっと漱石さんが面白くなりそうだと思った次第で、いただきです。これが、私の身勝手な講義の聴き方なのです。

田山花袋さんに対しては、『蒲団』と『田舎教師』の二作品に関して二人の方が話されましたが、先に書かれた『蒲団』のほうの中島京子さんの話しからにします。中島さんは、花袋さんの『蒲団』を読まれ、処女作『FUTON』を書かれました。フートンと読むのだそうです。中島さんが自分の作品として書かれたのは、『蒲団』に出てくる女性、奥さんと芳子に注目されました。奥さんは名前も付けられず、よくは書かれていない。芳子が新しい女なら奥さんは古い女で夫がいうような女性なのか。そこで、<妻の視点をいれる><現代の視点をいれる><時代の転換をいれる>この三点をご自分の作品にいれられたとのことです。

『FUTON』読んでいませんので比較できませんが、『蒲団』は「最後主人公が若い女性にふられその女性の蒲団にくるまって女性の残り香をかぎつつ泣く」というような紹介をされていて、これだけでちょっとひいてしまいますが読んでみると、意外とさらさらしていて最後だけ紹介するのは、この小説の不運かもしれません。中島さんに三人称で書かれているといわれなるほどと感じ、奥さんには全然注目していませんでしたので、中島さんの読み方が面白いです。

『唄の旅人 中山晋平』(和田登著)を読んだとき、『蒲団』のモデルの女性と中山晋平さんが文通をしていたということを知ったときには驚きました。中山さんは最初は文学の輪のなかにいたのです。文学青年だったのです。

さて花袋さんの『田舎教師』はどうなのか。川本三郎さんが資料つきで解説してくれました。近代文学における風景の発見。中学を卒業し貧しさのため進学できず弥勒高等尋常小学校の教師となり、不遇のなか21歳で死んでいく文学青年の話しです。花袋さんの義兄のお寺にいた小林秀三さんがモデルで、義兄から話しを聞き、日記を読み小説にしたのです。

実家の埼玉県の行田(ぎょうだ)から羽生(はにゅう)の小学校までの4里(16キロ)を歩いて通い、その風景が描かれています。国木田独歩の『武蔵野』(1898年)が雑木林の美しさを書き、『田舎教師』(1909年)は生徒と行く利根川べりなどの田園地帯の風景描写がすばらしい。主人公は日露戦争の勝利の沸くなかでひっそり亡くなりますが、お墓の前で泣いてくれる女性はいたのです。

明治の終わりに文学青年がでてきて、その悩める青春小説であり、風景小説です。花袋さんは自分の小説基盤の方向性の羅針盤を変えていったといえます。

羽生の弥勒高等尋常小学校跡には『田舎教師』のブロンズ像があるようですが、残念ながら当時の田園風景ではないようです。知らない土地を歩くのは好きですので、行田には『のぼうの城』の忍城のあったところですのでピンナップしておきます。

石川啄木さんの函館での関連場所は三か所ほどたずねました。旧居跡青柳町、啄木一族のお墓のある立待岬、啄木さんの好んだとされる大森浜。その他函館市文学館、弥生小学校。函館には4ヶ月少々しかいなかったのですが手厚く扱われている。

佐伯一麦さんの視点は「小説を書きたかった男、石川啄木」です。佐伯さんは、啄木は天才気取りのところがあり、私生活はメチャクチャで借金だらけで苦手であるとのこと。結婚式は節子夫人一人で啄木は現れなかった。小説を書くのがだめだったので歌のほうにいき、浪漫的だったのが伝統と離れ散文的な生活と結びつく歌作となっていく。晩年は天才主義から脱出し、もし志賀直哉のようにお金の心配がなく長生きできれば、小説を書き続けたであろうとむすばれる。

亡くなったのが26歳(1912年)である。処女歌集『一握の砂』がでたのが24歳で、『悲しき玩具』は、若山牧水さんが見舞った際もうどこからもお金が入らないと聞き、啄木さんの歌稿を土岐善麿さんに持ち込み出版の運びとなり20円の稿料を受け、出版されたのは6月で亡くなった2ケ月後です。これは、最後まで援助した金田一京助さんの『晩年の石川啄木』に書き記しています。

節子夫人は啄木さんの死後遺骨は、節子さんの希望で函館の立待岬のお寺に納め、実家のある函館に二児をつれ帰るが、次の年に肺結核で亡くなります。27歳でした。現在ある墓碑は有志の手によるものです。

もし、函館に職を得た弥生小学校と函館日日新聞が大火で焼けなければ少し事情が違っていたかもしれませんが、天才主義の啄木さんであるなら、それがなくても飛び出していたともおもえます。

文語文から口語文になることにより、文学は一般のひとに広く浸透し、新聞小説によって明治の一般家庭にその愉しみがお茶の間に入り込むそんな時代でした。そして、文学を通じて世の中のことも、人の心の動きをも考えるという現象がおこったといえるのではないでしょうか。

 

 特別企画 8・15 反戦・反核映画祭

池袋の新文芸坐で特別企画のオープニングとして

8月6日 ・7日 「映画が描いた原爆の悲劇  -スペシャルゲストを迎えてーが開催された。

6日が『原爆の子』、『黒い雨』を上映し、スペシャルゲストに奈良岡朋子さんを迎えてのトークショーで、

7日が『愛と死の記録』、『母と暮らせば』を上映し、スペシャルゲストに吉永小百合さんを迎えてのトークショーです。

6日の奈良岡朋子さんの話しが実り多いものでしたので、吉永小百合さんのも是非聞きたいと思い挑戦したのですが、整理券の取得ができませんでした。映画も15時10分からしか入場できないということなので一応見てはいるのでやむなく帰ることにしました。暑いので図書館によったところ、お二人のトークの聞き手の立花珠樹さんの著書『新藤兼人 私の十本』の本があり、奈良岡さんのトークとも重なり多くの情報源となりました。

『原爆の子』は、原爆投下から七年目に撮影され、当時の広島の様子を残す貴重な映像ともなっています。新藤兼人監督、吉村公三郎監督等が独立プロ「近代映画協会」をつくり大映と提携して映画を創りはじめます。しかし、『原爆の子』は大映から許否されてしまい、『愛妻物語』で一緒に仕事をした宇野重吉さんに一緒にやらないかと相談したところ即決のかたちできまり、近代映画協会と劇団民藝が半分ずつ資金をだすかたちとなり、民藝の劇団員が出演ということになります。

奈良岡朋子さんは、乙羽信子さんが幼稚園で教えていて生き残った園児を訪ねる園児の一人の姉役で一番上の兄が宇野重吉さんです。奈良岡さんは、潰れた家の下敷きになって足が不自由になります。結婚を約束した人が復員したとき、結婚を断られるのではないかと心配しますが、婚約者は約束を守ってくれ乙羽さんが訪ねたその夜が結婚式の日でした。奈良岡さんは落ち着いた感じで喜びを内に秘め、宇野重吉さんが、乙羽さんに心からほっとして語るところが兄の妹に対する情愛をにじませます。

奈良岡さんは、『原爆の子』のロケ風景もよく覚えておられ、老婦人から本当に足が不自由だと思われ「おいたわしい」といたわられたそうで、自分たちのほうが大変なのに優しく、広島は人が少なく、泊まった民家の柱には、ガラスの破片が刺さっていたそうです。

奈良岡さんも空襲を体験されていて、そのトラウマのため70歳まで戦争のことは思い出したくなく話したくなかったそうです。しかし、やはり伝えなくてはと思い、劇団の若い人たちにも話すようにし、井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読もはじめられました。

日本が木造住宅であることを知っていて、先に爆弾で建物を破壊し、そのあとで焼夷弾をおとして燃やし、弘前へ疎開する列車でも、デッキにつかまっている人は、機銃掃射で殺されていったと話されました。

多くの役をされているので、その役作りについて立花さんが尋ねられると、全て自分のなかにありますと。<人殺しの役もしますが、たとえば人は殺さなくても自分の血を吸った蚊が腕に停まっているのを打ち殺したときやったと思うでしょ、それは一種の殺しの快感ですよ、全て自分の中にあります。>

明快な答えがポンポンかえってきて、それが実体験をともなっているので説得力があります。

奈良岡さんは不思議なお付き合いがあって、美空ひばりさんが大病をされた後に『みだれ髪』をレコードに吹き込まれて終わって最初に電話で報告されたのが奈良岡さんなんですよね。プロとしての仕事を成し得たとき、伝えたくなるようなかたなんでしょう。

立花珠樹さんの『新藤兼人 私の十本』から少し紹介しますと、大映が『原爆の子』を拒否した理由は、「まだアメリカの占領の最中だぞ!原爆を誰が落としたと思ってるんだ。占領が解けていないのにアメリカに対して直ちに反抗的なものをつくるなんてとんでもない。」ということです。これだけの民間人を犠牲にするなら、通告があってしかるべきかと思います。不意打ちですからね。核を持たなければいいのです。映画は平成23年(2011年)にアメリカで「新藤兼人回顧展」で初めて一般公開されています。企画したのが俳優のペ二チオ・デル・トロさん。頑張って映画にしておいてよかったです。

見たいと思っていた島崎藤村さんの『夜明け前』も近代映画協会で、脚本・新藤兼人、監督・吉村公三郎でした。

吉永小百合さんはどんな話しをされたでしょうか。『夢一途』のなかで、『愛と死の記録』でカットされた部分があり残念だと書かれていましたが、立花さんそのあたりも聴き出されたでしょうか。

それからこの企画は「新藤兼人平和映画祭主催」でもあり、若い方が尽力されています。

この映画祭で10日上映される渥美清さんが企画・制作した『あゝ声なき友』のDVDもみました。肺疾患で内地にかえされ生き残った兵士が、戦友の遺書を遺族に届けるのですが、寅さんとは別の役目を果たす渥美清さんです。最後、主人公の渥美さんの眼がどんな想いを現しているのか汽車の陰になって映されないのがこちらに何かを考えさせます。

オバマ大統領と結ばれた折鶴の少女・禎子さんをモデルとする映画『千羽づる』も13日に上映されます。

この暑さが原爆で被爆された方々にはもっともっと暑かったのです。

 

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(三)

島崎藤村さんは荒川洋治さんの「明治の島崎藤村」です。藤村あまり好きじゃないんです、よくわかりませんこの人は、という感じで荒川流のしゃべり口です。私も藤村さんは好きではないので、最後はどうなるのであろうかと楽しみであった。

『若菜集』は六人の女性を対称にした詩です。五七五をあてはめると一語ぬかなければならなくなり、そうすることによって新しい強さをみせることとなり、ふるくからの様式を利用して新しくする。狡猾です。論理で押すのではなく情であり、曖昧さで押し通します。

『破戒』を越える社会小説はありません。読んでいると少しすきになってきます。なんといっても凄いのは『夜明け前』です。木曽路の宿場・馬籠の本陣が舞台で、主人公・青山半蔵は国学を学び本来の大和心を求めているのですが、明治は古代ではなく近代に進んでいく。その流れの中で伴蔵は精神を病み座敷牢に幽閉され亡くなってしまう。話していると藤村に親しみがわいてきます。

荒川さんは最終的には藤村さんの作品に寄り添えられたようです。私的には藤村さんの明治女学校時代からすきではなく『新生』で駄目だしとなるのですが、『破戒』には、夏目漱石さんも触発されたようです。『五分でわかる日本の名作』というあんちょこ本に『夜明け前』があり読みますと、伴蔵が一人では明治を受け止め得なかった流れが納得できます。伴蔵は木曽の民が自由に山林を使えた古代を理想としているのです。

馬籠にもう一度行ってみたくなりました。見方が以前とちがうとおもいます。映画でみれるとよいのですが。二時間ほどで終わりますから筋の流れと馬籠の風景もみられそうです。本陣、問場というのは名誉職的な部分もあり大変な仕事で、その周辺のひとびとも駆り出され負担が大きいのです。藤村さんすきではなくても、『夜明け前』は読んでおきたくなりました。

『夜明け前』開いてみました。時間があれば読めそうです。風景描写、庄屋・本陣・問屋の具体的な様子もわかりそうです。

伊集院静さんのお話しは「子規をめぐる明治の文学者たち」ということなのでしたが、子規さんを離れてその周辺にいくのかなとおもっていましたら、半分は伊集院静さん個人の周辺のお話しでした。

伊集院さんは『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』という本を書かれていますので、子規さんに関しては、本を読んでくれればわかるということなのでしょう。漱石さんが松山にいったのは、漱石さんは養子にでていてその養育費をはらうという金銭的問題がからんでおり、松山にいることによって、郷里にもどった子規さんと共同生活をするのですから、何がきっかけとなるかわからないものです。

子規さんが亡くなったときは、漱石さんはまだ留学中のロンドンでした。

話しのなかで印象的だったのが、子規さんが亡くなった時の母八重さんの一言です。八重さんは亡くなって子規さんの着物を替えつつ背中をだき「痛いといってごらん」(さあ、もういっぺん痛いと言うておみ)と言われたそうで、これまた八重さんらしいひと言だったと胸にどんとひびきました。劇団民藝『根岸庵律女ー正岡子規の妹ー』で、子規さんが亡くなった後で、母親の八重さんが庭に飛ぶ蛍にむかって「ノボさんあんたが悪いのよ」とつぶやいて終わるのも芝居のながれとしてじーんと沁みましたが、痛い、痛いと言っていてつらかったでしょうが、痛いが生きてゐると言う証拠なんですね。

子規さん関係の本をめくってましたら、木曽路をたどったときの『かけはしの記』という紀行文がありました。

藤村さんの『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中である。」で始まりますが、子規さんの『かけはしの記』の結びは「信濃なる木曽の旅路を人とはゞたゞ白雲のたつとこたえよ」となっています。

つぎは、与謝野晶子さんです。東直子さんが「与謝野晶子と同時代の女性歌人」として、与謝野晶子、樋口一葉、山川登美子、増田雅子、柳原白蓮の歌を資料にして話されました。

当時の女性歌人は、白い花で自分のイメージキャラを作っていて、晶子が「白萩」、登美子が「白百合」、雅子が「白梅」という愛称をもっていました。

熱き想いを歌い上げる晶子であるが、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」など熱い恋をうたっているのに個人で終わっていない恋する人々全てをおおっている。

沈みがちの鉄幹をフランスへ行かせ、自分でお金をつくり子供達を預けりフランスへ旅立ちます。「生まれたる日のごと死ぬる日のごとく今日をおもひてわれ旅に行く」

フランスにつけば「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は灯の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」、生き生きとしている女性をみて教育に関心をもち、日本へ帰ってから寛とともに文化学院創立に係るのです。

圧倒されるばかりの行動力です。東さんが、晶子は堺の実家で菓子屋の商売を手伝っていて数字に強いひとで合理的な考え方があったといわれましたが、賛同できます。情熱だけではなく、合理的な瞬時の判断があったとおもいます。子供が11人。何年かたてば上の子供が下の子たちを見ます。家計も、鉄幹と旅をしつつ、歌を作って収入を得ていた部分もあります。合理性と情熱の無意識のバランスがよかった人とおもわれます。当時の女流歌人のなかで抜きんでていたかたでした。

東直子さんが最後に、与謝野晶子さんの「君死にたまふことなかれ」を朗読されましたが、今の時代となれば深くひと言ひと言が響きました。

堺といえば、利休さんと晶子さんだと電車を降りたち、観光案内所で聞きましたら何もありませんでした。でも今は、「さかい利晶の杜」ができ、その中に、「与謝野晶子記念館」があります。「千利休茶の湯館」とあわせると結構時間がかかりました。

文学教室も、生徒によっては、話しの筋から逸脱し外に飛び出す引き金となっていきそうです。確かめているとこちらの関係のほうが面白そうと引っ張られてしまいそうです。