浅草映画・『若者たち』

「君の行く道は~はてしなく遠い~」歌は知っていても、テレビドラマは見ていないし、映画も観ていなっかた。映画『若者たち』(1968年)のDVDに特典映像がついていて、この映画に関する情報を得ることができた。DVD化されたのが2006年である。森川時久監督、脚本家の山内久さん、俳優の山本圭さんの三人が対談されている。

映画『若者たち』は自主上映だったのである。映画は出来上がったが、配給してくれるところがなく、松竹の城戸四郎さんが買っても良いと言われたのだが、製作費よりも安く、損をするのはいやなので自主上映に踏み切った。城戸四郎さんとなると、どうも映画『キネマの天地』の起田所長の白鷗さんを思い出してしまう。「購入してもいいが製作費より安いよ。」といいそうである。

名古屋が初上映で、大成功であった。全国をまわり最後が有楽町のよみうりホールで収益を上げ次の映画の資金となった。その頃、もう一本自主上映していた映画があって『ドレイ工場』(監督・山本薩夫・武田敦監督)とのことである。

森川時久監督はテレビの演出家で、映画監督初デビューでもあった。カメラの宮島義勇さんに映画の撮り方の一から教わり、この映画はテレビ出身監督の映画という事もあってか、当時きちんとした批評がなかったようである。映画人のテレビかという意識があったようだ。映画がDVDによってテレビのフレームに帰ってきたというおもいがあると森川時久監督は言われているが、DVD大好きである。DVDによってどれだけの映画を観ることができているか。

『若者たち』もDVD化されていなければ観れなかったのであるから。何となく風のたよりに聞いていた、羽仁進監督の『不良少年』も観ることができた。そういう意味では、浅草映画に感謝である。(もちろん、中村実男著『昭和浅草映画地図』にもである。)

山本圭さんは、宮島義勇さんに映画はカメラのフレームの中で演技してくれと言われたそうであるが、これが難しかったそうである。ヒッチコック映画のDVDも解説付きがあって、その中である役者さんが、端にいて驚く場面で驚いて後ろに下がってしまい監督に消えるなと怒られるのだそうであるがどうしてもできなくて、もういいといって許してもらったというインタビューを思い出した。

とにかく資金難で、ロケ現場では、昼時になると弁当が出せないためチーフ助監督が姿を消すのだそうである。ある時は、仕方なく焼き芋屋さんを田中邦衛さん等と買い切って配ったりしたそうで、そうした苦労話は数々あるようである。それと、1960年代は生放送に近いテレビの原点でリハーサルを何回もして寝不足のまま撮影現場に移動したそうで、とにかくリハーサルが長かったようである。

森川時久監督は戦争孤児のことをやりたくて一度失敗してずーっとやり残していたがやっと、両親のいない5人が生きていくということで実現させた。時代は高度成長期で、そこで置いて行かれる人々の議論劇としている。

長男・太郎(田中邦衛)は、三男・三郎(山本圭)と四男・末吉(松山省二)を大学に行かせることにし、さらにりっぱな家を建てるのが目標である。三男は大学に進んだが世の中の現実から目を離して学業だけに専念することはできない。四男は、兄たちに負担をかけつつ追い詰められるような気持ちで大学を目指すのがいやになってくる。長女・オリエ(佐藤オリエ)は一人で兄弟たちのために家事をがんばり、兄弟たちの喧嘩の後始末などごめんだと友人のところに逃げてしまう。次男・二郎(橋本功)は、トラックの運転手で、事故ってしまうが、これまた一本気で身近な人の苦労がほっとけない。

長男の家父長的な決め方に三男は理論でぶつかっていく。長男はその家父長さを職場でも発揮する。事故のため怪我をした下請けの労働者に対する扱いが許せなくて本社に掛け合いクビになってしまう。三男は、長男に対し兄貴だって世の中の矛盾と対峙しているのにそれを感情論だけでぶつかっているとまたまた激論の喧嘩となる。それぞれが矛盾を感じつつそれぞれのやり方で世の中で闘っていくエネルギーとぶつかれる仲間のあった時代のドラマでもある。

そしてこれだけぶつかりあえる家族がいた時代ともいえる。近頃は、手出しの出来ない弱い子供を一方的に攻撃してしまう事件が多すぎる。あの時代から見ると行先がこんな時代になっているのかと落胆してしまうであろう。あの兄弟の喧嘩の方が意味があり対等のエネルギーがあった。言い合える場所と均衡があったのである。

長男は上司の妹と結婚するつもりであった。彼女はクビになった彼の就職の世話もしてくれた。しかし、彼女は長男との結婚を断るのである。その場面が隅田川の向島側で堤防がカミソリ堤防といわれるコンクリートの高い壁になっていて台に上がってやっと隅田川がみえるという情景である。吾妻橋、東武鉄道の鉄橋、浅草側には松屋や神谷バーなどが並んでみえる。

覆い隠すことのない人間性をだしている映画の内容もよいが、この隅田川の堤防を映して置いてくれたことも貴重な映像である。今の隅田川テラスからは想像できない情景である。伊勢湾台風の教訓から整備されたのであるが、このカミソリ堤防で水辺と人間が切り離される結果となり、再度整備される。ゆるやかな傾斜がある堤防と遊歩道を備えた親水テラスとなったのである。

この隅田川テラスを調べてみるとかなりの距離つながっていたのである。勝鬨橋から千住大橋までつながっている。というわけで歩いて見た。なかなか面白い散策であった。早めに実行しておいてよかった。この暑さでは水辺といえども体力的にゆとりがなかったであろう。

「空に また 陽が昇るとき 若者は また 歩きはじめる」テレビドラマと映画の主題歌は一緒である。(作詞・藤田敏雄、作曲・佐藤勝) 佐藤勝さんは映画音楽では外せないほど多くの映画音楽を担当をされている。

出演・栗原小巻、小川真由美、石立鉄男、井川比佐志、大滝秀治、江守徹

昨夜ここまで記入し、読み返して公開しようと思ったら、今朝の事件である。痛ましすぎる。暴力は最低である。悪である。それも、何で無抵抗の人を攻撃するのか。卑怯すぎる。時代を遡って今という時代を思い起こす時間が必要なのかもしれないが、時代の波は速度を増すばかりである。事件に会われた方々のこれからの時間・・・

歌舞伎座5月『鶴寿千歳』『絵本牛若丸』『京鹿子娘道成寺』『御所五郎蔵』

鶴寿千歳』 昭和天皇御即位の大礼を記念してつくられ作品だそうで、箏曲が中心となっていて、新らしい時代を寿ぐ舞踏である。宮中の女御(時蔵)、大臣(松緑)、男たち(梅枝、歌昇、萬太郎、左近)が優雅に踊りをくりひろげる。そして雌鶴(時蔵)と雄鶴(松緑)が目出度く舞い納めるという設定である。箏曲の音色がゆかしくて、夫婦の鶴が平和な世を愛でている。時蔵さんはゆったりとたおやかで、松緑さんの身体の動きの角度やそのゆるやかに流れる速度に品の良さが映し出されていた。そういうことなのかと袖の扱いかたなどに見惚れる。

絵本牛若丸』 七代目尾上丑之助襲名の初舞台である。菊之助さんが六代目丑之助襲名の初舞台のときに作られたそうで上手く出来ている。(村上元三脚本)『鬼一法眼三略巻』の人物背景と義経の牛若丸時代の鞍馬山とを組み合わせている。鬼一法眼(吉右衛門)と吉岡鬼次郎(菊五郎)に伴われて牛若丸(丑之助)が鞍馬山にやってくる。修業のあかつきには兵法の三略を授けるという。平家の郎党が牛若丸暗殺のためあらわれる。これを牛若丸はやっつけてしまう。実は郎党は源氏側で牛若丸の腕をためしたのである。牛若丸は弁慶(菊之助)をともない、源氏再興を目指し奥州へと旅立つのである。

牛若丸が弟子入りする東光坊の蓮忍阿闍梨(左團次)、お京(時蔵)、鳴瀬(雀右衛門)、山法師西蓮(松緑)、山法師東念(海老蔵)などの役どころで役者さんが一同にそろう。『鬼一法眼三略巻』を思い出させつつ鞍馬での牛若丸の立ち廻りで、その後の義経の活躍を思い起こさせる構成となっていて、菊五郎劇団の立ち廻りを披露する新丑之助さんにふさわしい活躍ぶりであった。

(楽善・休演、彦三郎、坂東亀蔵、松也、尾上右近、権十郎、秀調、萬次郎、團蔵)

京鹿子娘道成寺』 菊之助さんの白拍子花子である。期待して楽しみにしていた。ところが、可愛らしくて甘い娘道成寺であった。怨みを伝えるために道成寺に来るわけである。所化たちをだましても鐘のそばへ行きたいと思っているのである。所化たちをその愛らしさで煙に巻いてもいい。しかし、鐘のそばで踊っているうちに心の中に変化が強まってそれを静めたりする内面の葛藤があるはずである。しかしそれをみせない芯が身体から、どこか踊りの中に出てこないであろうかと鑑賞していたが、可愛らしさと甘さの雰囲気を持続された。最後にその恨みを爆発させるということだったのであろうか。何か考えがあってのことかもしれないが、印象が薄くなったのが残念であった。

所化の役者さんたちは手慣れていて安定していた。(権十郎、歌昇、尾上右近、米吉、廣松、男寅、鷹之資、玉太郎、左近)

曽我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ) 御所五郎蔵 』 御所五郎蔵が松也さんで、星影土右衛門が彦三郎さんである。声の良いお二人なのでどう変化をつけて河竹黙阿弥ものに挑戦されるかと楽しみにしていたが、良さを生かしきれていなかった。力みが前面にでていた。良い所を生かすということも難しいことであると思わせられた。

彦三郎さんは、悪役である。顔の作りがどうも気になった。声で悪を表現できる声質なので、もう少しかっこよくしても良いように思えた。あくまでも彦三郎さんの場合である。松也さんは、神経質な五郎蔵になっていて、仲之町での出会いでのつらねも沈んでしまった。とめに入る坂東亀蔵さんに落ち着きがあった。

五郎蔵が、女房でもある皐月に愛想づかしをされるがずっと線の細さが目立ってしまうのである。五郎蔵は今は侠客なのである。侠客と傾城である。梅枝さんが古風で地味で、五郎蔵のためなのだからと、引き加減である。しかし、心を隠して傾城として女房としての意地の見せ所があってもよいのでは。侠客と傾城という立場の見せどころでもある。

その分、逢州の尾上右近さんのほうが艶やかに見える。逢州は旧主の恋人でもあるからこういう位置関係もありかなと思ってしまった。

逢州を皐月と間違って殺してしまう場面が、若い役者さん同士でもあることから勢いがあり、見せ場となってしまった。やはり、見せ所はその前の場面であろうと思えた次第である。

若い役者さんが、大きな役を演じる機会が多くなった。それをどうこなしていくかが、今の歌舞伎界に課されているように思える。また歌舞伎を観ていない友人から上から目線だと言われそうである。

(吉之丞、廣松、男寅、菊市郎、橘太郎)

 

歌舞伎座團菊祭5月 『壽曽我対面』『勧進帳』『め組の喧嘩』

壽曽我対面』 大先輩たちの力を借りないでの上演である。様式美の演目なので、やはり若すぎるなという感想である。それぞれの役どころの強弱の際立ちが感じられなかった。ただ、立ち位置と衣裳に負けていないところが修業の賜物である。(松緑、梅枝、萬太郎、尾上右近、米吉、鷹之資、玉太郎、菊市郎、吉之丞、歌昇、坂東亀蔵、松江)

勧進帳』 やっとストーンと落ちてくれた。いやいや、いやいや、何か違いますなという想いが今まで続いていた。これぞ十一代目海老蔵さんの弁慶であるとその完成度に納得できた。あくまでも十一代目海老蔵さんの弁慶であり、さらに変化していくであろうが。

とにかく面白かった。張りのある声の台詞の語尾がすっきりしている。無駄なこもりがない。語尾の押さえ方が心地よい。目力に無駄がない。目が物を言うというが、うるさ過ぎる傾向があった。動きと声と目が一致していて、細心さ、闘争心、安堵感、ゆとり、情愛、緊迫感、責任感、感謝などの想いが無理なく伝わってくる。

菊之助さんの義経は弁慶を信頼しつつ任せる。松緑さんの富樫は、疑ったからには逃がしはしないと弁慶に迫る。ガチンコである。迫力あり。じっと静かに弁慶に打たれる義経。そこまでするかとハッキリ見届ける富樫。くっと引く富樫。

弁慶おそらく混乱しているとおもう。自分の気持ちを整理するのに必死である。すっーと義経から差し出された手。救いの手である。勿体ない。やっと自分を取り戻す弁慶。ここがあるから、富樫が再び現れても態勢を整えられたのである。いつも弁慶の踊りに注目するのであるが、今回はどう踊ろうと差しさわり無しの気持ちであった。義経と四天王を先に立たせる弁慶。

今回はオペラグラスが離せなくて、四天王を見るゆとりがなかった。こんなこと初めてである。全体をみる時間がなかったのである。最初に太刀持ちは注目して玉太郎さんのしっかりした動きに満足。ぴたっと決まっていたので安心。

十一代目海老蔵さんの頂点の弁慶を堪能できて満足このうえなし。はや次の十三代目團十郎さんの弁慶がどう変化するのか楽しみなところであるが、こちら好みとなるか、またまた時間がかかるのか、それもまた挑戦のなせる技である。(右團次、九團次、廣松、市蔵、後見・齊入)

神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)・め組の喧嘩』 これは菊五郎劇団が中心なってのチームワークも見せ所であろうからと、ゆったり愉しませてもらう。「江戸の三男」、火消しの頭、力士、与力。その火消しと力士の喧嘩である。火消の頭は、弁天小僧の浜松屋の場でも登場する。ゆすりとわかって収めようと登場する。火消しを鳶ともいうのは、棒のの先に鳶のくちばしのような鉄の鉤をつけた用具をもっていたことから鳶とよばれたようである。『盲目長屋梅加賀鳶』では、花道を引っ込むとき鳶口をくるりとひるがえして格好良くひきかえす。力士といえば、『双蝶々曲輪日記』を思い浮かべる。 

『盲目長屋梅加賀鳶』は、加賀鳶(加賀藩前田家お抱え)は大名火消しと町火消しの争いが出てくるが、乱闘にはならず納められる。町火消しは南町奉行・大岡越前守忠相によって1718年に組織されその二年後には、隅田川の西岸に「いろは48組」と東岸に「本所深川16組」が結成されている。「いろは48組」の「へ、ら、ひ」は音の関係から避けられた。そのかわりであろうか、万、千、百などがある。「め組」は芝が担当地域である。

江戸の火消しには三種類あって、もう一つは旗本お抱えの定(じょう)火消しである。町火消しには、江戸を守っているのは俺たちだという心意気もあるであり、武士お抱えの力士なんぞに負けてなるものかという意識も強いのであろう。力士も江戸の華であるから負けられない。

品川の遊郭で力士の四ツ車大八がお抱えの武士と宴会中に隣の部屋にいため組の火消しと喧嘩になる。め組の頭・辰五郎が間に入り一応おさめるがそうはいかなかった。それで収まらなかったのである。鳶頭の女房が凄い。仕返しをしないのかと夫に詰め寄るのである。火事ともなればその度に覚悟を据えているのであろうし、それだけ命を張っている鳶が、なんという意気地のなさかとの想いであろう。辰五郎にはお仲の性格の知っていての考えがあったのである。

ついに芝の神明で、喧嘩になってしまう。この鳶と力士の喧嘩が見せ場でもある。そして若い役者さんたちの活躍の場でもある。ここぞとばかりに力士と火消しの乱闘である。乱闘をそれらしい立ち回りで見せてくれるわけである。たすきは荒縄である。力はあるが動きの鈍い力士相手にフットワークよろしく果敢に立ち向かっていく。

さすが鳶頭・辰五郎の菊五郎さん、鶴の一声でまとめてしまう。女房・お仲の時蔵さんもただの女房ではなかった。きりきりと夫にせまる。鳶ともなれば一秒を争う火事相手であるから着替えの手伝いも速い。衣裳箱をポンと投げる勢いで刺子半纏に着替えさせるのである。なるほどなと納得しつつ観ていた。『極付幡随院長兵衛』の着替えと妻子との別れの違いなども交差する。

四ツ車大八の左團次さんに貫禄があり、又五郎さんも力士大きさが似合うようになった。若い役者さんたちも鳶の恰好良さが身についてきて、若さっていいなと思わせてくれる。その中でも菊之助さんがやはりすっきりとしている。町火消しの纏(まとい)も組によって違うわけで、舞台に出てくる「め組」の纏は継承しているのであろうか。白の透かしが素敵である。

自分の担当地域が火事になれば一番纏でなければならない。他の町内からも次々と応援がくる。そうすると到着順番に屋根上の纏の花形をゆずるのが習わしであった。火事でありながらそういうところが喝采をあびるゆえんでもあったわけで、家事が多いから庶民の生活道具は少なく、すぐ逃げれるような状態である。逃げつつ、纏を確認していたのかもしれない。

纏は上の飾りで、下のヒラヒラしているのはばれんといい、重さは約11キロ。それを肩に屋根に上るのである。「め組」の鳶たちも、力士は猛火との想いでぶつかっているのであろう。舞台では喜劇性を加えたぐっと若い役者さんたちの見せ場にもなっている。映画などからすれば、江戸の風俗をのぞきからくりを大きくして眺めている感じであろうか。

仲裁にはいるのが、焚出しの喜三郎の歌六さん。この焚出しの喜三郎というのは、町火消人足改(まちびけしにんそくあらため)の相当するのであろうか。火事の際、町火消や火消人足(火消しの見習い)を管理した役人のことである。その辺が疑問に思った次第である。出演者多く記さないが、フライヤーに市村光さん(萬次郎さんの次男)の名前があった。

踊りの『お祭り』が鳶頭で、落語の『火事息子』は、質屋の息子が町火消人足となる噺である。久しぶりで志ん朝さんの『火事息子』をCDで聴く。話題の広がる『め組の喧嘩』である。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(4)

北総線矢切駅から「野菊の墓文学碑」までは10分くらいである。矢切駅をはさんでの反対側には「式場病院」があるはずである。 『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』 さて『野菊の墓』散策の方向に進むが、途中に「矢切神社」があり向かい側に「矢喰村庚申塚」がある。

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矢喰村庚申塚由来>の碑がある。温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地にひとが住んだのは約五千年前で、平和な生活を営んでいたが、国府が国府台にに置かれ千三百年ほど前から武士たちの政争の場となり、北条氏と里見氏の合戦では、矢切が主戦場となった。この戦さで村人は塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻みお祈りをしてきた。先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈り、この塚をつくったとある。(昭和61年10月吉日)

石像群の中央に位置する庚申塔は、青面金剛を主尊としており、中央上部には、阿弥陀三尊種子と日月、青面金剛像の足元には三猿が刻まれているとある。なるほど納得である。(造立年は1668年) そして、政夫と民子が並んで彫られている「やすらぎの像」もある。

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庚申塚を左手にして5分ほど進んで行くと左手に西蓮寺がある。向かいの右手に階段がありそこを登って行くと野菊苑と称する小さな公園がある。階段のそばに<永禄古戦場跡>と記された木柱がある。国府台合戦は二回あり、その二回目の始まった場所ということである。今回の散策で、矢切りは古戦場の歴史の場であったことが印象づけられた。上の苑からは矢切りの畑地が見下ろせる。橋があり歩道橋であり、それを渡ると西蓮寺の境内に出ることになりそこに「野菊の墓文学碑」がある。西蓮寺からはここには出られないようになっているので野菊苑からである。

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野菊の墓文学碑」は土屋文明さんの筆により『野菊の墓』の冒頭部分と、茄子を採りに行ったとき見た風景部分と、綿を採りに行った時に別々に行き政夫が民子を待つ場面が一つつなぎで書かれている。

「野菊について」という説明板もあり、「野菊」という名の花は無く、山野に咲く数種の菊の総称とある。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどで白か淡青紫色で、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうかと書かれていた。

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白という感じがします。詳しく図鑑的にこれをというのではなく、野に咲いていて目に留まったキクであれば皆好きだったのではないでしょうか。つんでいれば青系も入っていたかもしれません。映画では白を使うと思います。

ここから「野菊のこみち」を通って江戸川にぶつかる予定であったが、一本道がちがっていたようである。よくわからなかったので江戸川の土手を目指す。「かいかば通り」という解説碑があった。このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かい場であったことから「かいかば通り」といわれていたとあり五千年前の畑の作物、貝類などを採って平安に暮らしていた人々にまで想像が広がる。憎むべきは戦さである。坂川の矢切橋を渡る。「野菊のような人」の碑がある。政夫と民子が野菊を手にしている。そして江戸川の土手をのぼる。

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途中で道を教えてくれた人の言葉に従って、土手下のゴルフ場の間をつききって松戸側の「矢切の渡し」へ到着。舟がこちらに向かってきていて待つ時間も短く乗ることができた。こちらに渡った人がすぐ並んで戻られる人がほとんどである。舟は往復で川下と川上と方向を変え少し遠まわりをして渡ってくれるのである。エンジンつきなので滑らかに川面を進んでくれる。

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船頭さんの話しだと鮎が上がってくるのだそうで、網が仕掛けられていた。稚鮎を獲っていて出荷しているようだ。小さな亀が甲羅干しをしている。一作目の『男はつらいよ』で寅さんは、千葉(松戸)側から東京(葛飾)に渡っているという。「川甚」は、その頃はもっと川べりにあったそうで、映画を観なおしてみた。なるほどであった。さくらと博の結婚式で、印刷所の社長が手形のことで遅れて「川甚」の玄関に飛び込んでくる。その時、江戸川が見えていた。

舟は葛飾の矢切の渡しに到着。徒歩、電車、舟で江戸川を渡ることができた。『寅さん記念館』がリニューアルオープンしたようであるが、行く元気がなく、「川甚」「柴又帝釈天」のそばを通り、柴又の商店街に向かう。連休中だったので人々でにぎわっていた。

『男はつらいよ』にも、マドンナ役で出演されていた京マチ子さんが亡くなられた。角川シネマ有楽町での「京マチ子映画祭」の時、映画の終わりに「京マチ子。ありがとう!」と声をかけられた男性観客がおられた。 ドリス・デイさんも亡くなられた。 まだ観ていないお二人の映画などを、これからも楽しませていただきます。(合掌)

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(3)

伊藤佐千夫さんの小説『野菊の墓』は映画や舞台にもなっている純愛悲恋物語である。今回読み返してみた。政夫という主人公が、十数年前のことを思い出しているという形になっていて、それは小学を卒業した十五才の時のことである。思い出している政夫は35歳以上ということになる。

「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東に渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れがニ、三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤というのだと祖父から聞いている。」とあり、里見家ゆかりの家ということになる。

母は、戦国時代の遺物的古家を自慢に想っている人で、病弱のため、市川の親戚の子で、政夫とは従妹にあたる民子を手伝いのために呼ぶのである。政夫と民子は赤ん坊のころから、政夫の母が分け隔てなく姉弟のようにして可愛がられたのであった。

政夫は小学校を卒業し千葉の中学校にいくことになっていった。そんなおり二人は生活を共にすることになり、幼い頃からとても気が合っていて、二人で一緒にいて話しをするのが幸せであった。そして、恋心へと変化していくのである。民子は政夫より歳が二つ上で、二人が仲よくしていると周囲の者たちは結婚のことを想像し、二つ上の娘などを嫁にするのかと噂し合う。兄嫁も快く思わず、母もついに政夫の学業のためにも民子と離す決心をする。そして民子は他家に嫁ぎ、流産の産後が思わしくなく亡くなってしまうのである。

電車のないころであるから、江戸川の矢切の渡しがよく使われている。松戸へ母の薬を貰いにいくのも舟で、政夫の家は下矢切で松戸の中心の上矢切にも舟が行っていたようである。さらに矢切の渡し場から市川の渡し場(市川と小岩)までも舟がいっており、小岩か市川から汽車に乗ったのであろう。

政夫と民子が最後の別れとなったのも矢切の渡しであった。雨の中民子は、お手伝いのお増とともに政夫を見送るのである。政夫は千葉の中学校へ行くため、舟で市川にでて汽車に乗ることにした。

民子が市川の実家にもどり、政夫は千葉の中学校へ行く時、市川まで歩いて民子の家の近くを通るが民子が困るだろうと会わずに通り過ぎている。そして、民子のお墓参りの時、「未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現れた時分に戸村の家の門前まで来た。」とあり、民子の家まで8キロほどであったことがわかる。

二人は畑にナスを採りに行き、そこから見える風景とその中にいる二人を描写している。利根川はむろん中川もかすかに見え、秩父から足柄箱根の山々、そして富士山も見え、東京の上野の森というのもそれらしく見えている。「水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。」

離れた山畑に綿を採りにいったとき野菊を見つける。民子は言う。「私ほんとうに野菊が好き。」「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分で思う位。」政夫は、民子を野菊のような人だといい、民子は竜胆(りんどう)を見つけて、政夫さんは竜胆のような人だと言うのである。そして政夫は、野菊が好きだといい、民子は竜胆が好きだと言う。

採り残した綿なので一面が綿という風景ではないようであるが、「点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。」と美しい情景である。

この綿採りで帰りがおそくなり、二人が離されてしまうきっかけとなってしまう。

小説『野菊の墓』には、木の葉、木の実、草花などが政夫と民子の歩く道に登場する。紫苑、銀杏の葉、タウコギ、水蕎麦蓼、都草、野菊、あけび、野葡萄、もくさ、竜胆、春蘭、桐の葉、尾花、蕎麦の花。

政夫は、庭から小田巻草、千日草、天竺牡丹などめいめいに手にとる戸村の女達とともに民子の墓参りに行く。民子のお墓に行った政夫は、野菊が繁っていることに気が付く。「民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落ち着いて人々と共に墓場を辞した。」

読み返して、木下恵介監督の映画『野菊の墓』を観返した。情感のこもったモノクロの映像である。政夫の笠智衆さんが老齢になって、舟を特別に頼み、矢切りの民子の墓を尋ねる場面からはじまる。

小説からすると、色彩もほしくなった。後日、その後リメイクされた映画もみることにする。

伊藤佐千夫さんは、政治家を志すほど正義感の強い青年であったが、眼病を患い学業を断念、26歳で牛乳搾取業をはじめ、毎日18時間労働し、30歳にして生活にゆとりができ、茶の湯や和歌の手ほどきをうけるようになる。そして短歌と出会い、37歳で正岡子規さんの弟子になる。『野菊の墓』は、43歳のとき発表し、夏目漱石さんらの賞賛を受け小説家としても名を残すこととなるのである。

伊藤佐千夫さんが牧場を開いたのは総武線錦糸町駅前で、今では想像できないほどである。錦糸町駅前には牧場跡と旧居跡の石碑と史跡説明版があるらしい。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(2)

北原白秋さんは、真間から小岩(当時・葛飾郡小岩村)に引っ越す。『白秋望景』(川本三郎著)を参考にさせてもらうと、真間は白秋から見ると仏に仕える人がお金の話しばかりで「俗」と感じてしまったらしい。そして「東京に近いせいか、映画の撮影隊がやってきて騒々しい。」白秋さんがもとめる田園ではなかった。

再び江戸川を渡って東京へもどることになる。家財道具の荷の上に鉄砲百合の鉢を乗せ、白秋は荷車の後ろを歩いた。「白秋は、ポケットに小鳥の巣を入れ、両手には、青銅に燭台とガラスの傘を持ち、市川の橋を渡ってゆく。」

こちらは、京成線国府台駅から出発して、市川橋を歩き江戸川を渡り小岩へ向かう。現在の江戸川区北小岩八丁目ということで、引っ越した先が、ここという確かな位置がわからないので、白秋さんの歌碑があるという「八幡神社」をめざすことにした。

「国府台」というのは、古代にはここに下総国府がおかれ一帯の政治、文化の中心だった。国府台の呼び名もそうした歴史からきている。

江戸川べりは、夏目漱石さんも散策している。「夏目漱石の『彼岸過迄』では、主人公の田川敬太郎が友人の須永市蔵と春の日曜日、このあたりに郊外散歩に出かけている。」二人は、両国から汽車で鴻の台の下まで行って降り、そこから江戸川の土手を歩いて晴れ晴れとした気分で柴又の帝釈天まで進み、「川甚」でウナギを食べているのである。

かつては「鴻の台」とも呼ばれていたらしくそのいわれは調べていない。「川甚」は、映画『男はつらいよ』でさくらと博が結婚式を挙げた料亭である。谷崎潤一郎さん、吉井勇さん、長田秀雄さんの三人が「紫烟草舎」を訪ね、白秋さんを誘って「川甚」へ行っている。文学者の間では柴又まで散策すれば「川甚」として知られていたようである。

「借り家は、江戸川べりの草を刈り集めて軍馬の飼い葉などを作る乾草商の離れであった。」 二間だが、真間にはなかった台所があって、二度目の妻・章子さんは喜んだようである。それはもっともなことである。

白秋さんは、土手に上がれば江戸川がゆうゆうと流れ、その川を船がすべり、青田には百姓が働き、広い野っ原には人家の煙が立ち上っていて、この地が大変気に入るのである。

「で、(大正)六年の一月から六月までは、『雀の卵』の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作ることに夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は座り通しであった。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換えた。(『雀の卵』大序)」(『白秋望景』より。)

「里見公園」の「紫烟草舎」の前に、三番目の妻・菊子さんとの長男・隆太郎さんの解説板がある。

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「< 華やかに さびしき秋や 千町田の ほなみがすゑを群 雀たつ  白秋 > 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その稲波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つこの豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。(中略)大正5年晩秋、「紫烟草舎」畔「夕照」のもとに現成した妙景である。(中略)父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。」ここに書かれている歌の文字は白秋さんの自筆ということである。

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江戸川とその周辺の風景を眺めつつ市川橋を渡る。本来なら江戸川の土手を歩くのがよいのであるが、直線距離を目指し、途中で江戸川にぶつかり土手に上がってみる。川原が広くかなり下に川は流れていた。「里見公園」下の江戸川はすぐそばで怖いくらいの勢いであった。かつては川面がもっと近かったであろう。対岸に柳原水門が見える。この後ろあたりにかつての水門でレンガ造りの柳原水閘(すいこう)が残っているらしい。

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江戸川の土手から住宅街に入り「八幡神社」を目指すが、住宅街で学校が二つありその周囲をぐるっと回り、さらに途中でたずねた人が反対方向を教えてくれて、いつものことながら時間を要してしまった。白秋さんが北小岩八丁目に住んでいたということで「八幡神社」に歌碑を建てたられたようであるが、行った感触として今の人達には忘れ去られているようであった。< いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月  > 

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住んでいた「紫烟草舎」は江戸川を渡ってしまっているし無理もない事である。白秋さんは大正6年の6月には京橋区築地本願寺近くに引っ越し、気に入っていた小岩も一年であった。8月には本郷動坂に移っている。そして、大正7年の2月に小田原へ行くのである。

赤貧と思索の真間と小岩から小田原につながったので一安心である。あとは歌で真間と小岩時代を鑑賞するのみである。さてこのまま北に向かえば葛飾柴又にいけるのであるが、「八幡神社」から近い北総線新柴又駅で電車で江戸川を渡り矢切駅へ行く。次は『野菊の墓』コースである。 

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(1)

市川市真間にある『手児奈霊堂』は、万葉集にも歌われていて、手児奈という美しい娘が複数の男性から言い寄られ、身を恥て真間の入り江に入水したという伝説があり、その手児奈を祀っているのである。

都人はこの伝説を聞き及んで、歌に詠んだわけである。高橋虫麻呂さんは「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(葛飾の真間の井を見ると立ちならして水を汲んだと言う手児奈が偲ばれる)。この手児奈の井戸は『手児奈霊堂』の向かいにある『亀井院』にあり、ここは北原白秋さんが一時住んでいたことがある。

手児奈霊堂』の先には『真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)』があり、ここにいたる大門通りは<万葉の道>として万葉の歌のパネルがあるらしい。20首ほどあるらしいが、かつての資料では、32首あって、真間ゆかりの歌は8首あった。この道は歩いていないのである。

もう一つ<文学の道>があり、桜の季節でもあったので、京成市川真間駅からこの道のほうを歩いた。市川に縁があったり、この地を作品に描いた文学者は大勢いて、その一部のゆかりのかたが木製の案内板で紹介されていた。

江戸時代の真間の文学は、万葉集のゆかりの土地としてだけではなく、紅葉の名所でもあったらしい。小林一茶さんもたびたび弘法寺を訪れ、上田秋成さんの『浅茅が宿」は手児奈伝説を踏まえているとし、滝沢馬琴さんは『南総里見八犬伝』は国府台の里見合戦に基づく伝奇小説で、弘法寺の伏姫桜はこの作品のヒロインに因んで名づけられたとある。

『浅茅が宿』と『真間山弘法寺』に関しては、 浅草散策と映画(2) で思いがけず出会っている。

伏姫桜>と名づけられた枝垂れ桜は実際に満開であった。『南総里見八犬伝』に関しては、ある研究家のかたの話しから、里見家の系図と広い分野の歴史を踏まえた下地があることと、江戸幕府を批判してもいるということを、学ばせてもらった。それから時間がたってしまい、歴史がまずややこしくて未整理の状態である。単なる伝奇小説ではくくれないという入口に立っている状態である。

もちろん、北原白秋さん、幸田露伴さん、幸田文さん、永井荷風さん、水木洋子さん、宗左近さん、井上ひさしさんらも紹介されている。途中に小さいが明治からの浮島弁財天があり技芸の神様として多くの信仰を集めていたそうで、この弁財天があるかどうかでこの<文学の道>も造られた道から伎芸天に呼ばれて出来た道の趣きとなった。

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真間川にぶつかり、「手児奈橋」を渡って『手児奈霊堂』へ。大門通りからは、「入江橋」を渡ることになり、その先に「継橋」があるようだ。「継橋」というのは入江の海岸の砂州と砂州を繋ぐ板橋で、真間には沢山あったようである。『手児奈霊堂』にもその入江の名残りといわれる池がある。『手児奈霊堂』の桜も場所柄をわきまえた咲き方で愛らしかった。

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亀井院』の説明板には、北原白秋さんがここで生活したのは大正5年5月中旬からひと月半とあり短かったのである。彼の生涯で最も生活の困窮した時代として、白秋さんの歌「米櫃(こめびつ)に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり」を紹介している。

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ここから『真間山弘法寺』の二王門めざして階段を登る。『弘法寺』は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した「求法寺」がはじまりで、平安時代、弘法大師空海が七堂を構え『真間山弘法寺』としたとある。あの水戸光国さんもこられたそうな。

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境内では伏姫桜を描いているグループのかたたちがいた。皆さんかなりの腕前である。伏姫桜は、枝垂れる姿にどことなく儚さがただよう。境内の見晴らしの良い所から下の市街地をながめる。かつては入江だったわけである。

さて本堂の裏をまわって『里見公園』を目指すのであるが、裏のほうに元気な大きな桜が満開で裏技に出会ったようであった。

里見公園』まで足を伸ばしたのは、白秋さんが小岩で住んでいた「紫烟草舎」が、桜祭りで公開しているという情報からである。この家は江戸川の改修工事のためとりこわされ、解体されたままになっていたのを、建物の所有者の提供により、この地に復元するにいたったと説明板にはある。

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六畳と八畳の二間であるが、かぎ型に縁側があって、障子が開けはなされ明るくて周囲の外の様子がよくみえる。「紫烟草舎」については、小岩の八幡神社でつけ加えることにする。

里見公園』は、里見家と後北条氏との二回の合戦の場であるが、歴史的なことは省かせてもらう。ようするにわからないので。史跡としては「夜泣き石」があった。北条軍に負け戦死した里見弘次の末娘が父を弔うため安房からこの地にきて、戦場の悲惨さに石にもたれ泣き続け息絶えてしまった。それから毎夜この石から泣き声が聞こえるというのである。

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お墓のような碑が三つあった。<里見広次公廟><里見諸将霊墓><里見諸士群亡塚>で、里見軍は5千名が戦死したと伝わっている。この合戦の265年後に碑は建てられ、それから今は190年ほど経っている。

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江戸名所図会にも描かれた<羅漢の井>が今も水がどこからか流れてきていた。この井戸のそばの道を曲がると江戸川である。里見公園は高台にあって東京スカイツリーと東京タワーが見えるのである。案内板の写真によると、富士山も頭を出していた。

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ここから、小説『野菊の墓』の舞台にも行けるのであるが、『里見公園』で一旦散策は終了である。次回は、白秋さんが江戸川を渡って引っ越した「紫烟草舎」があったであろう近くの小岩の八幡神社へ行き散策を開始することにした。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(2)

映画『キネマの天地』は、松竹が蒲田撮影所から大船撮影所に移る前の1934年(昭和9年)頃の松竹蒲田撮影所の様子、新しい映画スターが誕生していく過程、世の中の様子などをみることができる。時代的には贈賄事件や東北の大凶作、大火、自然災害などがあり、庶民は暗い時代に押し込められていく時代でもある。そんな時代、まだ幼く若い労働者は手にお金を握りしめ活動写真小屋へいく。握りしめていたお金は湿っていた。

浅草の長屋に住み、浅草六区の活動写真館・帝国館で休憩時間にパンや飲み物などを客席で売る娘・田中小春(有森也実)が、小倉金之助監督(すまけい)の目に留まり撮影所に来るように声を掛けられる。撮影所に行ったところ、病室で危篤の父と娘が再会する場面で、監督がどうして看護婦がいないのだというので、急遽、小春は看護婦にさせられる。立ち位置も分からず、女優(美保純)のじゃまとなり、どうして泣かないのだといわれ大泣きして怒られ、女優はこりごりだと小春は思う。

そんな小春の住む長屋に、助監督の島田(中井貴一)が謝りにきて小春は再び映画女優を目指し、大部屋からのスタートであった。スタジオ外の守衛さん(桜井センリ)から用務員のおじさん(笠智衆)に始まって映画つくりに係わっている熱い映画人が映される。

役の上で実際の監督や映画俳優のモデルとする人物も現れ、わかる人もいる。小津安二郎監督がモデルの緒方監督(岸部一徳)はすぐわかる。あと逃避行した岡田嘉子さん(松坂慶子)と杉本良吉さん(津嘉山正種)も判りやすい。実名ではなくあくまでモデルとして名前は変えてある。田中小春は田中絹代さんがモデルというが、こちらはそうなのかと思う程度で田中絹代さんを意識しなかった。とにかく大勢の俳優さんが出演している。

小春の父・喜八(渥美清)は旅回りの役者だった人で、演技に関してはちょっとうるさいのである。小春がうなぎ屋の女中の役で台詞を一言いうことになる。喜八は、まずどんなうなぎ屋かで女中の演じ方もちがうと解説する。うなぎ屋の格によって女中もそれなりの立ち居振る舞いが違ってきて、庶民的なところであればこうなると例の寅さんの語りが始まるのである。

それを小春と一緒に喜八の話しを聴く隣の奥さん。隣の一家(倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆)は寅さんのさくらの家族である。『男はつらいよ』のメンバー(下条正巳、三崎千恵子、佐藤蛾次郎、関敬六)があちらこちらに登場する。津嘉山正種さんは、『男はつらいよ』のオープニングシーンの常連らしい。どんな俳優さんが受け持っているのかな、見た事があるようなと思っていたので今度注目して観ることにする。脚本は井上ひさしさん、山田太一さん、朝間義隆さん、山田洋次さんである。

面白いのは幸四郎さん時代の白鷗さんの起田所長である。城戸四郎さんがモデルであるが、実際の城戸四郎さんと似ているのかどうかはわからないが所長として監督たちを指導するところが面白い。一筋縄ではいかない映画監督たちである。時代的に傾向映画をつくる監督もいるし、政府からの引き締めもきつくなってきている。映画会社としては客に入ってもらわなくてはやっていけないしで、監督たちを刺激させないように上手く話をもっていくのである。その懐柔作戦のテンポがなんともいいのである。

次の映画『浮草』の主役予定の女優が逃避行をしてしまいその代役が決まらない。小倉監督は小春を押す。緒方監督もいけるかもしれないと口添えする。起田所長は小雪を主役に抜擢するかどうか迷う。所長は用務員に小春はどうかねと尋ねる。用務員は好い女優になると思いますと答えるのである。こういうところも、何がきっかけでスターになっていくかわからない映画界がみえてくる。シンデレラムービーの一つでもある。脇からの攻めも計算されている。

助監督の島田も映画について色々悩むが、労働運動をしている大学時代の先輩(平田満)からの言葉と留置所での経験から、映画に賭けてみようと思うのである。撮影所では仲間たちや小春が喜んで迎えてくれる。そして、『浮草』の脚本のクレジットに島田の名が映される。そして、田中小春の名も。

喜八の家に活動好きの屑屋(笹野高史)が入り込んで、蒲田の女優を次々と上げていく。喜八は娘の名前が聞きたくてお酒をすすめるといった場面もある。そんな小春の出世を願う喜八は、幸せなことに小春の主演映画を観ながら亡くなるのである。その時小春は「蒲田まつり」で、高らかに「蒲田行進曲」を歌っていた。

出番が少なくても多くの俳優さんが力量の見せ所となっている。浅草六区の映画館前を通る藤山寛美さんなども、映像に現れるとどうされるのかと観る者を惹きつける。取り上げればきりがないので省くが、個性的な役柄をしっかり役に合わせて印象づけている俳優さんが多い映画であり、映画が好きな映画人集合の映画である。

撮影現場を見せる映画では『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督)も奇想天外な発想で笑わせてくれる。撮影していないのに撮影していると信じ込ませて俳優に演技させるのである。俳優は信じているので自分なりの工夫で成りきって怖い場所で演じきるのである。

この映画、俳優さんや役者さんが、ちらっと現れて消える場面がある。猿之助さんが亀治郎時代にこの映画にちらっとでている。撮影所の食堂で落ち目の俳優の佐藤浩市さんとマネジャーの小日向文世さんが「亀じゃないか、おーい亀」と呼ぶのであるが、亀さん、会いたくない人に会ったとばかりに映像の左側に少し映り、さーっと消えるのである。DVDだったので何度も戻して観ては笑ってしまった。嫌そうな表情をしていて、歩き方もおもしろかった。それも一瞬というのがいい。

今のはもしかして、というの愉しみもあり油断できないのである。

フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』も撮影現場の人間関係なども描いていて、これまた愉快な映画である。最初から撮影現場とは知らずに見入っていて突然、撮影中なのかと知らされたり、美しい映画の場面が、突然セットが現れてあっけにとられたりするのである。

横道にそれたついでに、山田洋次監督作品に歌舞伎役者さんが登場する映画や舞台を紹介しておきます。全て観ることができた。

『男はつらいよ・私の寅さん』(五代目河原崎國太郎)。『男はつらいよ・寅次郎あじさいの恋』(十四代目片岡仁左衛門)。『キネマの天地』(二代目松本白鴎)。『ダウンタウン・ヒーローズ』(七代目中村芝翫、八代目中村芝翫)。『学校Ⅱ』(中村富十郎)。『十五才 学校Ⅳ』(中村梅雀)。『たそがれ清兵衛』(中村梅雀、嵐圭史、中村錦之助)、『武士の一分』(坂東三津五郎)。『母べえ』(坂東三津五郎、中村梅之助)。シネマ歌舞伎『人情噺文七元結』。シネマ歌舞伎『連獅子』。舞台『さらば八月の大地』(中村勘九郎)。『小さいおうち』(片岡孝太郎、市川福太郎)。『家族はつらいよ』(中村鷹之資)。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(1)

浅草関連映画も、浅草に興味を持つ前に観た映画を再び見返しているが、気がつかなかったことが結構発見されるものである。喜劇はさらにその傾向が強いかもしれない。笑いのそのタイミングやちょっとした仕草や無理して笑わせようとしていない自然な不自然さにほーう、へえー、やりますね、などと感嘆したりしている。

映画『抱かれた花嫁』(1957年)は、<山田洋次監督が選んだ日本映画名作100本>の喜劇篇50本に入っていた一本である。監督は番匠義彰さんで、番匠義彰監督の映画はこの映画が初めてと思う。

ここからは『昭和浅草映画図』(中村実男著)から情報をいただくが、映画『抱かれた花嫁』(1957年)がヒットして「花嫁シリーズ」となる。そして松竹最初のシネマスコープ作品である。浅草物として番匠監督は7本撮られている。『抱かれた花嫁』『空かける花嫁』『三羽烏三代記』『ふりむいた花嫁』『クレジーの花嫁と七人の仲間』『泣いて笑った花嫁』『明日の夢があふれてる』。残念ながら残り6本は今のところ観れる見通しなしである。

映画『抱かれた花嫁』の中に浅草国際劇場での松竹歌劇団(SKD)の映像が映し出されるが、これが今までみたSKDの映像のなかで一番インパクトが強いのである。シネマスコープのせいもあるのか、奥行きと巾があって団員のラインダンスには圧倒されてしまう。「さくら」のピンクの傘をもってのフィナーレも団員が小さく見えてこの劇場の大きさが伝わってくる。

知人はお母さんと叔母さんに連れられてSKDをよく観に来たのだそうである。その時愉しみだったのがキューピーちゃんの着ぐるみだったそうで、調べて見たら写真がありました。最初の登場が1951年で評判がよく以後定番になったようである。

抱かれた花嫁』は、浅草の寿司屋の看板娘・和子(有馬稲子)を中心にその家族や恋人などが織りなす家族劇ともいえる。母親・ふさ(望月優子)は未亡人で子供たちのために店を守ってきた。長男・保(大木実)はストリップ劇場の脚本家で、次男・次夫(田浦正巳)は外交官志望でまだ学生である。となれば、看板娘の和子に養子をとるしかないのである。しかし和子には上野動物園で獣医をしている福田(高橋貞二)という恋人がいる。二人の間に、養子候補(永井達郎)と福田の気を引こうとする女性・千賀子(高千穂ひづる)という人物が入って来る。

次夫には恋人がいて、国際劇場に出ている踊子・光江(朝丘雪路)である。それが母のふさにばれてしまう。ふさは「あんな裸踊りの子なんて。」と嘆くが、実は、ふさは若い頃、踊子だったようである。オペレッタの人気者であった恋人と泣く泣く別れた事情があったようで、保のつとめるストリップ劇場へ、かつての恋人である往年のオペレッタスター・古島(日守新一)が出演するというのでふさは聴きに行く。古島は『恋はやさし』を歌う。

浅草の場面がたっぷり観れて、さらに日光の風景も加わり、テンポよく話は進んで行く。最後は、家出して水郷の友人のところにいる和子を福田が迎えにいくのであるが、水郷を舟で進む福田の姿が途中で消えてしまう。和子が上からのぞくと、舟に穴が開いていたのか舟から水を捨てる福田の姿があった。題名は『抱かれた花嫁』と色っぽいが、抱かれることなく笑いで明るく終わってしまうのである。

寿司屋の職人として桂小金治さんが活躍し、歌手の小坂一也さんがレストランの歌手として、あの独特の声を披露してくれる。

松竹初のシネマスコープ作品として、野村芳太郎監督の予定だったが、野村監督は松本清張さん原作の『張込み』に賭けていてこれを断り、番匠義彰監督となったそうである。(『昭和浅草映画図』)二つのタイプの違う映画が誕生したわけでそれぞれに楽しみ方が違い、映画ファンとしては幸いなりと言ったところである。

浅草物映画『ひまわり娘』(1953年)は、有馬稲子さんと三船敏郎さんがコンビであるが、三船敏郎さんが、松屋屋上のスカイクルーザーに田舎から出てきた母親と乗る場面があって、たっぷりスカイクルーザーを見せてくれる。

映画『喜劇 駅前女将』(1964年)は、浅草が舞台ではなく、両国と柳橋が舞台である。両国の酒屋・「吉良屋」の主人が森繁久彌さん、奥さんが森光子さん。柳橋の寿司屋・「孫寿司」の主人は森光子さんのお兄さんである伴淳三郎さんで奥さんは京塚昌子さん。伴淳三郎さんの弟で腕の悪い寿司職人がフランキー堺さんで恋人が芸者の池内淳子さん。両国のクリーニング屋には三木のり平さんで奥さんが乙羽信子さん。

この組み合わせにさらに加わるのが、森繁久彌さんのもと恋人で、夫に死別し両国に帰ってきた淡島千景さん。淡島千景さんは池内淳子さんのお姉さんでかつては芸者であった。森繁さんがお気に入りのバーのマダムが淡路恵子さん。伴淳三郎さんも淡路恵子さんが気に入ってしまう。

その他、淡島千景さんと池内淳子さんの姉貴分の芸者に沢村貞子さん。淡島千景さんはお店を開く予定で、当然、森繁さんが手を貸す。そして、淡路恵子さんのバーと淡島千景さんの開店したお店が隣同士で、二階からお隣の私的な場所が丸見えである。

さらに、中華料理屋の主人に山茶花究さん。池内淳子さんのクラスメートに大空真弓さん。森繁さんの叔父さんが銚子に住む加東大介さん。その息子に峰健二(峰岸徹)さん。そこのお手伝いさんが中尾ミエさんで、これまた歌を披露してくれる。

凄い配役で、それぞれの喜劇性が生かされている。観ていればこれだけ複雑な人間関係が無理なく受け入れられ、さらに、場面場面で関係ないような笑いを入れてくれている。フランキー堺さんの下駄タップ。フランキーさんが食べているラーメンのチャーシューを洗濯物の配達にきた三木のり平さんが間合いよく食べてしまったりなど、その動きがつなぎ目を見せず上手いのである。

佐伯幸三監督が、このシリーズでの初登場で、その後続けて監督を務めていて納得してしまう。軽快で俳優さん達の演技力をも堪能できる優れた喜劇映画である。浅草関連は映像は少なく、駒形橋や松屋の映像である。

両国なので、相撲取りの佐田乃山さん、栃光さん、栃ノ海さん、出羽錦さんも登場し、森繁さんは、鮨をご馳走することになるが弟子たちも付いてきていてその食べる量を想像しただけで歌うどころではなく退散である。もちろん森繁さんの得意芸のみせ場もありサービス満点の映画でもある。

<駅前女将>ということで、女性俳優も実力を発揮し、男性俳優と互角に演技をしていてそれがかえってバランスの良い喜劇となって成功している。

脚本は長瀬喜伴さんで駅前シリーズの常連であったということを知る。

映画『キネマの天地』(1986年)は、松竹大船撮影所50周年記念作品である。浅草の帝国館の売り子が映画スターになるという内容で、浅草六区や松竹蒲田撮影所のセットや映画撮影風景も見どころである。(山田洋次監督)