『劇団若獅子』結成30周年記念公演

大正6年に澤田正二郎さんが創設した『新国劇』が70年で幕を締め、その芸を受け継がれた笠原章さんを中心とする『劇団若獅子』が30周年を迎えられました。合わせると100年ということで、「新国劇百年」として、澤田正二郎さんが最後の舞台となった新橋演舞場での「新国劇百年」の記念公演は、喜びの涙ですと、南條瑞江さんが最初に挨拶されていました。

南條瑞江さんのお着物の裾模様に二艘の和舟が描かれていて、『新国劇』と『劇団若獅子』の二艘合わせての百年であり、それぞれの舟が木の葉のように揺れたこともあったわけで、そんなことを思わされる御挨拶でした。

ここでも継ぐということの難しさがあるわけで、ただ猿之助さんが客演されて、その立振る舞いをみたとき、もしかすると、大衆演劇を目指した『新国劇』の芸が歌舞伎に変化して続く可能性もあると思わされました。猿之助さんは、舞台や映画で大衆を魅了した『男の花道』や『雪之丞変化』を演じられていて、『男の花道』は観ています。

今回新国劇の『月形半平太』を初めて観まして、それまでのと違うのだということがわかりました。愛之助さんも舞台化していましてわかりやすく楽しませてくれましたが、新国劇とは違っていました。

染八(猿之助)、梅松(瀬戸摩純)、歌菊(珠まゆら)の三人の女性に囲まれる月形半平太(笠原章)ですが。

新国劇では、染八は旦那である会津藩の奥平を月形半平太に殺され、月形を敵とねらいます。その短刀は染八の刀鍛冶である父親・一文字国重(伊吹吾郎)が鍛えた業物(わざもの)だったのです。今まで見たものには染八のこうした生い立ちなど出てきませんので、ただ月形を敵として果たせなかった芸妓としてしか印象になく、月形半平太と梅松との恋仲のほうが中心になりますが、染八を通しての時代の眼があったのです。

染八と梅松のさや当て、そして染八の刀鍛冶の娘として育った世間を観る眼が月形の男気に惚れるのです。猿之助さんの染八で、染八像が一変してしまいました。そして猿之助さんは歌舞伎になっていました。いつか、猿之助さんが新国劇の『月形半平太』をされる日があるような気がします。継ぐという意味ではそれもありと思います。

歌舞伎から大衆へ、大衆から歌舞伎へ。それは時代劇が危ぶまれている時代の拡散の方向性はどちらであってもいいと思います。(どさくさにまぎれて、猿之助さん『雪之丞変化』関東でもやってください。)

さて、三条橋下での月形である笠原さんと『劇団若獅子』の役者さんとの見事な立ち廻りとなります。『新国劇』は剣劇を目指したわけではないのですがそれで人気を博するわけです。そしてその剣劇もリアルさ求められ、時代遅れとされる殺陣師・市川段平のいきさつが映画『殺陣師段平』になっていて段平が月形龍之介さん、森繁久彌さん(『人生とんぼ返り』)、二代目中村鴈治郎さんとそれぞれの役者の見せ所をたっぷりと味わわせてくれる好きな映画です。

後先になりましたが、『国定忠治』は、舞台で初めて観たのは市村 正親さんの『国定忠治』で、脳梗塞で倒れて寝ているところに捕縛たちが取り囲み何もできない忠治をみてそうであったのかとその晩年を知ったのですが、ちょっとリアルで忠治のイメージが変わってしまいました。

赤城天神山での名台詞が生まれるのは、忠治一家は赤城天神山に立てこもっていますが、忠治の舅と身内の浅太郎(佐野圭亮)の舅の両方が忠治たちを捕らえる側であり、その義理をたてるための一家離散して山をおりるということになり、「赤城の山も今宵限りか。かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅立ちだ。」となるわけです。この情のやりとりも見せ所です。

赤城天神山の名場面から世話物の山形屋の場面では、豪快にお酒を美味しそうに飲みますが、忠治さんはお酒が好きだったんだなあと思わせられるそういう飲みっぷりでした。この場は、山形屋の伊吹吾郎さんと忠治の笠原章さんとのコミカルなやりとりを楽しめます。

『国定忠治』は新派の喜多村緑郎さんが月之助の時に、笠原さんの指導を受けて演じられていて、よい意味で拡散しているわけです。

『新国劇』にはまだまだ演じるものがありますから、さらなる道がつづいていくでしょう。淡島千景さんとの『蛍 お登勢と竜馬』もよかったですし、神野美伽さんの小春の『王将』もよかったです。猿之助さんは、亀治郎時代には、笠原さんの駒形茂兵衛でお蔦もやっているんですよね。

躍動的な演劇のなかで、じっくり聴かせる演劇は難しい時の流れでしょうが、継ぐということが拡散したとしても、どこかでまた吹き返す芽がでてくるような気がしますので、これからも猿之助さんの勘違いの30年で終わるんじゃないんですかという言葉を蹴散らして頑張ってください。

笠原さんも最後の挨拶で『ワンピース』の練習の忙しいなかと言われていましたが、猿之助さんが参加されて色々考えさせられ、意義ある参加となられたと思います。

 

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(4)

地下鉄丸太町までにの間に『護王神社』があり寄りました。<足腰の守護神 いのししの護王神社>とあります。ここは狛犬ではなくイノシシが相対峙しています。

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祀られているのは和気清麻呂公で、怪僧弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が皇位を奪おうとして対立し南国大隅(おおすみ)(鹿児島県)に追いやられる途中で豊前国の宇佐八幡へお参りの際道に迷ったが、300頭の猪が現れて案内して守ってくれたので、足の病気や怪我、旅の安全や災難などから守ってくれるということです。公を救った霊猪として拝殿前に公の随神として雌雄一対の猪の石像があります。

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かりんの木が御神木で、ぜんそく封じとしてかりん水飴なども売っていました。参拝のひとが奉納されたのでしょうか、沢山の猪の置物やお人形なども置かれていました。

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今回は神社仏閣めぐりは少ないのですが、前の夜、<ロームシアター京都>の帰りがけ烏丸通りから姉小路を東に入った所にある『高松神明社』に寄りました。真田幸村さんと縁のある神社ということでした。神社には珍しいお地蔵さんがお祀りしてあり、そのお地蔵さんが真田幸村さんの念持仏で、寛政6年(1794年)紀州九度山の伽羅陀山、真田庵より拝領したとあります。「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されているのだそうです。

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白い鳥居が二つあって、平安中期に源高明さんが邸宅高松殿の鎮守社として創建したそうで、小路の建物に挟まれた神社で、遅い時間にお勤めの帰りらしい男性がお参りしていましたから、地域の生活の中に密着したお社なのでしょう。夜の灯りの中でそんな感じをうけました。こちらにも知恵を授かっていると良いのだがと期待してしまいました。護王神社での足腰とご利益が叶えば百人力です。

京都文化博物館』での映画『おぼろ駕籠』については、もう一本見たい映画とつながれば書きます。伊藤大輔監督で超豪華俳優陣なのですが、少し流れた感じがしました。

京都文化博物館』の展示室には<祇園祭>の展示があり、映画『祇園祭』を見に来たときには<山鉾巡行の歴史と文化>で今回は<白楽天山の名宝>で、<祇園祭>は奥が深すぎという感があります。さらさらーっと見て、型絵染作家の伊砂利彦作品展でその斬新なデザインに古さと新しさを想い、それから遅い昼食をしつつ、さてこの後どうしようかと考え、そうだ琳派とアニメに行こう。

高島屋は四条河原町ですから近いですし、帰りの京都駅へも地下鉄ですから時間が予測できます。「ぼくらが日本を継いでいくー琳派・若冲・アニメー」。これは、日本の文化を若者たちに継承してほしいという願いが込められていて、『細見美術館』の館長・細見良行さんが監修のもと、アートディレクター・山田晋也さんと友禅絵師・平尾務さんが『細見美術館』の所蔵している作品と人気キャラクターを組み合わせてプロジェクト制作されたのです。それをー琳音ーと名付けられていました。

人気キャラクターは<リラックマ><初音ミク>、手塚治虫さんの<鉄腕アトム><ブラックジャック>などなどです。<リラックマ>の絵と一文は、時々開くとお茶をしたくなります。<リラックマ><コリラックマ><キイロイトリ>の関係も絶妙です。ただ、琳派の絵の中での<コリラックマ>はかなり体を張って無理をしているようで窮屈でした。きっと、やりつけないことをしたあとはお風呂!と言っているとおもいます。

<初音ミク>は、よく知らないのですが、獅童さんと歌舞伎をされている映像を見ましたがあまり好きではなく、あの長い揺れる髪の毛がワカメに見えてしまうのです。キャラや色も強いので個性強い若冲さんの鶏などと組み合わせていましたが、ミクちゃん強すぎです。

その点では、火の鳥などは上手く収まっていました。鉄腕アトム君が僕こんなところに居ていいのかなという恥ずかしそうな姿と表情は個人的にうけました。アトム君のブーツの赤が絵の中でいい具合いです。富士烏とブラックジャックも上手くはまっていました。

好き嫌いの感情を呼びますが、実験的な面白い試みで、『細見美術館』で見た絵を再びよみがえらせてくれ、もう一回原画の全体像を見たいと思わせます。締めは東京の『出光美術館』の「江戸の琳派芸術」 とします。

真田庵 →  2017年7月18日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(3)

京都御所が通年公開となり申し込み不要となりましたので、烏丸御池からも近い御所見学ときめていまして、その後は相国寺に行き承天閣美術館もいいかなと考えていました。さらに、雨の可能性ありなので京都文化博物館のシアターも調べておきました。<生誕百年 映画女優山田五十鈴>で映画は『おぼろ駕籠』です。

京都御所』は、室内には入れませんから工芸品などは無理ですが、部屋の襖絵などは、外からも観れるように透明の遮断(ガラス?)ごしに見ることは可能です。それよりも、建物の時代性のほうが見応えがあるとおもいます。

決められた時間から案内のかたが解説してくれます。話しを聞いたほうがよさそうなのでその時間までビデオをみたり、行けるところまで先に眺めて、集合場所にもどり案内をしてもらいました。先に「話し始めたらとまりませんが、一応は一時間前後で、関西弁のまま吉本風にいきます」との紹介のごとく楽しいですがしっかり解説してくださいました。聞く方が覚えが悪く飛び石状態ですが。

公卿や貴族が入った御車寄(おくるまよせ)は牛車なわけですから左右に壁がありますが大正天皇が即位のとき造られた新御車寄(しんみくるまよせ)は車を横づけにしますから壁はありませんし、読み方も違います。

 

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<諸大夫(しょだいぶ)の間>という参内した公家や将軍家の使者たちの待つ部屋の「桜の間」「虎の間」「鶴の間」は名前に因んだ襖絵ですが身分によって入る部屋が違っています。などなどの説明がありますので時間のあるかたは案内のかたと歩かれるといいと思います。参加自由、途中でぬけるのも自由ですので。

 

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承明門と紫宸殿

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建物の屋根が、檜皮葺とこけら葺がありますが、時代に寄って流行みたいのがあったようです。建てた年代は違っても平安時代式の建物であったり、鎌倉時代の建物であったりと、その時代の建物が見れます。左右に開く、遣戸(やりど)、上に垂直に持ち上げて止める蔀(しとみ)、半分上げる半蔀(はじとみ)、外側がはずされることによって下げられる御簾、間仕切りの役目や飾りなどの役目もする障子、屏風、几帳(きちょう)などが再度確認でき、それらを比較して見ていくことができます。

 

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蔀(しとみ)なども板で出来ているわけで、実際に普段は上げたままですが台風のときなどは下げますが、留めているところを上手く外して、静かに下げるのですが重くて大変で、平安時代の女官さんたちはこれを毎日やっていたわけですから凄いことですと言われていました。

 

蹴鞠の庭

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御庭

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迎賓館は、また違った素晴らしいものがありますから機会があればどうぞということでしたが、御所の管轄は宮内庁で、迎賓館は内閣府で担当がちがいます。そしてこの外の御苑は環境省なのです。

もっと色々なことを教えていただき次に迎賓館に向かいました。

途中で仙洞御所の見学の案内もありましたが、こちらは入れる時間設定があり時間が空き過ぎ、迎賓館にいくとこちらも時間設定がありますが、ちょうど待ち時間を短くて見学することができました。こちらは有料で案内つきと無しがあり案内つきとしました。

京都迎賓館』のほうは中ですから、とくに京都の工芸に力を入れられていますのでこれまた見どころ沢山でした。木を豊富に使い、和紙の素敵なデザインの行灯、椅子には光沢のある有識織物(ゆうそくおりもの)、竹工芸の花かごなどが控えめながら眼をひきます。

 

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桐の間の和室には一枚板の黒漆の座卓が見事な輝きで直線を描き、座椅子には蒔絵で五七の桐がえがかれ釘隠しも五七の桐が。催し用の舞台扉は截金(きりかね)の模様をほどこし、柱の継ぎ目にも同じ模様で装飾していたりと、説明を聞きつつも先に眼がいってしまいます。

 

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障子の和紙が美濃和紙で、大きく漉くことができないので、継ぎ目があります。それもまたアクセントになっています。

 

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どの部屋からもお庭が見えます。目がお庭にいくように天井が庭側に下がっていたり、建物を繋ぐ廊橋の天井は船形で小さな切り込みの虫がところどころに見えます。お庭が和舟がありブータンの国王ご夫妻が新婚旅行の際にはお二人で舟で池を巡られた写真がありました。飾り棚に飾られている工芸や絵画など、こちらの見学も一時間ほどですがたっぷり京の工芸を眺めることができます。

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ここで抹茶を一服といきたいですがそうはいきませんね。計画外で上手くつながった見学でした。外に出ましたらそろそろ雨の危ない空もようです。

江戸末期の「禁門の変(蛤御門の変)」の蛤御門から出て、多少疲れましたので相国寺は止めて、座れる映画を見ることにしました。蛤御門の説明に、この門は新在家(しんざいけ)門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門とよばれるようになったといわれていますと書かれていました。

 

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2017年9月28日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(2)

角屋(すみや)』さんは、今、『角屋もてなしの文化美術館』として公開しています。記念館となって公開しているのであろうとずーっと思っていましたが、実際には何代も続く御当主が保存に努力され、唯一の島原の揚屋を残されていて、島原という花街の認識を新たにしました。

花街と遊里の違いは、花街は歌舞音曲の芸を宴会で楽しむところで、歌舞練場があります。今は島原にはその跡しかありませんが、祇園などには残っていて今も活躍しています。東京の新橋演舞場は、大阪や京都の歌舞練場を目指して、新橋の芸妓さんの踊りの発表の場としてできたもので、今も東おどりがあります。島原もかつては、青柳踊があったようです。

金沢生まれの友人が実家に帰って、初めて金沢おどりをみてきてよかったと言っていまして、観光した金沢の花街や泉鏡花さんが浮かびます。

「島原」は最初は秀吉さんの頃、柳馬場二条に「柳町」として始まり、御所に近いため六条柳町に移転させられ、大変なにぎわいで町中すぎると朱雀野(しゅしゃかの)に移転させられ、移転騒動が九州の島原の乱に似ているとして「島原」とよばれるようになったそうで、そう呼ばれるほど注目されていたわけです。

その当時は辺鄙でたんぼばかりのところでしたが、『角屋』は格調高い揚屋であったため文人も訪れていたのですが、次第に便利な非公認の祇園のほうにお客が流れてしまい衰退していくのです。

二階は、緞子(どんす)の間(襖が緞子ばり)、御簾の間、扇の間、草花の間、馬の間、青貝の間、檜垣の間と趣向を凝らした部屋が並んでいます。釘隠しも部屋によって違い、障子の組子が一枚の板を曲線に細く削ってたてにはめ込んでいたり、腰板に工夫があり、天井ががまむしろだったり、大きな仏壇置きに似た浄瑠璃を語る場所があったり、その建具類が京の専門の職人さんが腕を奮ってこしらえているのがわかります。

壁も種類を替え、九条土のくすんだ青がこれまたいいのです。金沢の料亭でも鮮やかな群青色の壁を使っていましたが、日本海側と内陸の風土の違いの色かもしれません。さらに名家の絵なぞも飾られ、蒔絵の食器なども出されたわけで、そこで太夫さんの博識と芸妓さんの踊りの芸が花を添えていたわけです。

周辺には七つの名所に文芸碑が建立されています。大銀杏、島原住吉神社、末社幸天満宮、島原西門、東鴻臚館(こうろかん)跡、歌舞練場跡記念碑、大門。

 

大銀杏と弁財天社

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島原

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大門

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かつては太夫、芸妓をかかえる置屋でした輪違屋さんは、今はお茶屋さんとして営業していて非公開ですが、意匠をこらしたお部屋があるようです。

 

丹波口駅近くに京都の中央卸売市場がありました。京都の食材はここから運ばれているんですね。

 

細見美術館』は、<麗しき日本の美 -秋草の意匠ー>の展示で、秋草の絵画や工芸がならんでいました。『角屋』さんにも唐紙の引手に『角屋』の紋・蔓三の蔦をあしらったり凝っていましたが、ここにも七宝で楓をかたどった引手がありました。秋草と虫の蒔絵の小箱や団扇、屏風などが人工的空調の中に秋風を感じさせてくれます。

酒井抱一さん関係が中心で、こんなに多くの一門のかたがいたのかなどと思いながらじっくり鑑賞させてもらいました。

面白かったのは、<きりぎりすの絵巻>で、美しい姫が輿入れする様子で顔がきりぎりすで、馬の代わりに蛙だったり、家来がトンボで裃から羽が飛び出していたりします。鳥獣戯画より衣装を着ていますので人に近いです。

秋の葉の一枚一枚を眺めていると、北斎さんが狩野派も土佐派も琳派も、その描き方の違いを学びたいと思った気持ちがわかります。一つの部屋の一枚の絵がその部屋に秋を運ぶためにはどう描けばよいのか。

料亭では絵画や床の間に飾られた工芸がお客さんを秋の気分にさせ、障子を通して届く名月のくすんだ光などを愉しんだのでしょう。美術館ではそんな贅沢な空間を味わえませんが、時々入館者はありますが程よく一人貸し切り状態で、6時の閉館時間ぎりぎりまで優雅な時間をもてました。

ここで手にしたのが、高島屋で開催されている『ぼくらが日本を継いでいく ー琳派・若冲・アニメー』で、この時点では行く予定ではありませんでした。

 

2017年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(1)

渋谷オーチャードホールでの玉三郎さんと太鼓芸能集団・鼓童とのコラボ『幽玄』に魅せられて、もう一度と思っていましたらロームシアター京都での公演が決まりました。では観光も兼ねてと実行したのですが、音が違っていました。

色々な条件の重なりもあるのでしょうが、ロームシアター京都の音響が、和楽器の音の微妙さを捉えるには不向きに思えました。最初の締太鼓のときからオーチャードホールと比較すると違和感を感じてしまい、何か違う何か違うと思いつつ聴いていました。玉三郎さんの腰鼓の羯鼓(かっこ)と鼓童のかついだ桶胴太鼓とのセッションも羯鼓(かっこ)の音がとらえられないのです。

お箏はきちんと音をとらえていました。洋楽器のシンバルのような和楽器の手平鉦(てひらがね)なのか妙鉢(みょうはち)なのでしょうか、その音もよく響いていました。後半から太鼓も大きな音はよく響くのですが響き過ぎの感じでした。舞台最終に向かっての盛り上がりかたは素晴らしく何回もカーテンコールとなり、こちらもしっかり拍手しましたが、オーチャードホールでのあの最初からの幽玄さではないとの感はぬぐえませんでした。コンサート会場によって音というものが違うのだということを感じさせられた次第です。

管弦楽用の音響なのでしょうか。笛も神経質な響きにおもえました。和楽器の細やかな音の響きがオーチャードホールのようには伝わってきませんでした。そう思ったのは私だけなのかもしれません。最初にいい出会いをすると、それが誇大妄想になっているのかも。でもやはり最初がよかったです。

しかしそういう意味では和楽器を考えての造りの歌舞伎座などの和楽器の響きにはやはり適しているのでしょう。だからといって、太鼓集団が歌舞伎座でより発揮できるのかどうかはわかりません。歌舞伎もいろいろな劇場で催しますが、役者さんたちもそれなりの違いを感じつつ調整されつつ演じられているのでしょう。旅での公演は音響、舞台の大きさ、楽屋、大道具の置き場所など気苦労も多い事とおもいます。

ロームシアター京都は平安神宮のそばのお洒落な建物でした。休憩時間には、外のテラスでちらっと見える街灯りをながめつつ飲み物を賞味でき、季節がら心地よい空気でした。何より嬉しかったのが、『細見美術館』の目の前ということです。コンサートの前思う存分ゆっくりと鑑賞できました。

今回の旅は、京都の建物の建具や工芸の腕前を堪能する旅となりました。お得な宿泊つきフリーがありそちらにお任せで、宿泊が地下鉄の烏丸御池駅近くでしたので、先ずは、ロームシアター京都からは歩いて地下鉄東山駅から一本で三つ目の駅ですからとても楽でした。

地図をながめつつ、今回は後回しにされている島原の『角屋(すみや)』へ行くことにしました。京都駅から山陽線(嵯峨線)で丹波口駅へ。見学後は、山陽線で一つ先の二条駅で地下鉄東西線に乗り換えれば二駅で烏丸御池にいきますからホテルで一息ついて、地下鉄で東山に向かい、『細見美術館』を鑑賞してから『幽玄』へ。

雨が降っても予定を変える必要なしです。上手くはまってくれました。そして、その流れが、京都の建具や工芸品の数々を眼にする旅の始まりとなったのです。そして、琳派・若冲とアニメのコラボにまで行き着いてしまいました。

さて京都の島原は、江戸時代から公認されていた花街(かがい)で、江戸の吉原の遊郭とは違います。(説明されたかたが強調されていました)花街は、歌舞音曲を愉しみながらの宴会の場所なのです。『角屋』はその揚屋(今の料亭)で、二階を建てることを許されたので二階をあげるということから揚屋というようになったとも言われているそうです。

 

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説明を聴く場所が「松の間」で枯山水の庭に臥龍松(がりゅうまつ)の見える部屋なのです。昼間は俳諧師などが句作をして夜は宴会という文芸の街であり、お庭にはお茶室も三つあるとのこと。

 

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「松の間」は、新撰組の芹沢鴨(せりざわかも)さんが最後に宴会をした部屋でもあります。ここで酩酊し(酩酊させ)、お客を泊まらせませんから駕籠で壬生の屯所八木邸に帰り暗殺されるのです。『角屋』から真っ直ぐ北へ進めば(上ル)壬生です。

玄関には、刀置きがあり、さらに帳場のそばに刀入れの箪笥がありました。『角屋』は料亭ですからお料理も作っていまして大きな台所があります。歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃』を思い出しました。料理人の喜助が刀を預かります。油屋も料理を作っていたことになりますが、遊郭の場合は、仕出し屋から料理をとります。その辺は芝居のために料理人という設定にしたのかもしれませんが、伊勢はまたちがうかもです。

 

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「松の間」の柱には新撰組の刀傷があり、『角屋』では騒乱は起きていないので、本来刀を持っては入れないのに持って上りいやがらせのためではないかとのことで、新撰組の悪い評判はこんな行為からもきているのでしょう。この刀傷をみると人斬り刀の威力にゾッとします。

 

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置屋から太夫や芸妓が揚屋に派遣されてくるわけで、その道中が太夫の道中でもあるわけです。江戸吉原では花魁道中といわれています。

二階が別料金となりますが、建具らに手を尽くされた部屋がならんでいて説明つきで見学できます。

 

 

2017年9月25日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

歌舞伎関係イベント

かなり時間が過ぎてしまったのですが、歌舞伎関係のイベントを二つ。一つは早稲田大学演劇博物館での「第80回逍遥祭 シェイクスピアの上演と翻訳」で、歌舞伎俳優の中村京蔵さんのお話と朗読で、もう一つは、歌舞伎学会の企画講演会「演劇史の証言 山川静夫氏に聞く」です。

「第80回逍遥祭 シェイクスピアの上演と翻訳」(早稲田大学演劇博物館主催)

 歌舞伎俳優の中村京蔵さんは、蜷川幸雄さんの『NINAGAWA・マクベス』の魔女を演じてこられ、亡くなられた蜷川さんの追悼公演で海外を回られ、埼玉での追悼公演を目前にしておられました。蜷川さんのマクベスは観ていないのです。残念ながら埼玉の公演も観れませんでした。

蜷川さんの練習には何時くらいに入ればよいか経験者に聴いて二時間前くらいと教えられその時間に行ったところ、蜷川さんがもう来られていて、ほんとどの方が入られていて慌てましたと話されていました。観ていないためお話を聞いても想像圏内を遠くまで広げられませんが、先に魔女役をされた嵐徳三郎さんを踏襲してとのことで、蜷川さんから物が飛んでくることはなかったそうです。

聞き手が児玉竜一さんで、京蔵さんしっかり調べられていて小田島雄志さんと坪内逍遥さんの訳の違いなども話されました。こちらの勉強不足で、その違いについての面白さを上手く書けません。

その後、坪内逍遥訳の『ヴェニスの商人』法廷の場の朗読がありました。これには、尾上右近さんと江添皓三郎さんが加わわられました。

シィロックを中村京蔵さんが、アントーニオほかを江添皓三郎さんが、ポーシャを尾上右近さんで、尾上右近さんは女方ということになります。聴きごたえがありました。その前に、映画『ヴェニスの商人』を見ていましたので法廷の場の展開は楽しみでした。

シャイロック(アル・パチーノ)、アントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)、ポーシャ(リン・コリンズ)ですが、映画の映像も飛んでしまう濃い朗読でした。かなり間をとるなと思っていましたら、右近さんが、次は京蔵さんと思い京蔵さんならではの間かなと思ったら自分が勘違いしていたとの朗読後の報告がありました。いやいや、京蔵さんも目くばせすることもなく落ち着かれていて、右近さんも表情が変わらず続けられましたので、大きな問題なしです。

児玉さんも言われましたが、シャイロックは財産を没収されるだけでなく、宗教もユダヤ教からキリスト教に改宗させられ映画を見てそのことが新たな驚きでした。シェイクスピアさんはやはりただ者ではありません。『もうひとりのシェイクスピア』という面白い映画もありました。シェイクスピアさんとのお付き合いはゆっくりとです。

京蔵さんは、京屋の三姉妹(京蔵、京妙、京紫)のお一人でもあられるのですが、そのお一人京紫さんが先月亡くなられました。(合掌) 昨年の国立劇場での研修発表会で『仮名手本忠臣蔵』の二段目の格の高い戸無瀬をされていたのが印象的で、若い役者さんたちにとっても早すぎるお別れでした。

京蔵さんは、個人的にも色々な歌舞伎に関する催しをされているようでチラシをいただきました。秀山祭では、『極付 幡随長兵衛』の長兵衛宅の女中およしとして、女房お時、長松をおぶる子分の清兵衛といっしょに花道からでてこられます。

京妙さんは、『再桜遇清水』で、病に苦しむ清玄に薬を与えながら、清玄に殺されてお金を奪われる富岡の後室をされています。

歌舞伎学会の企画講演会「演劇史の証言 山川静夫氏に聞く」は、聞き手が神山彰さんと児玉竜一さんで、お二人が質問されることに即答えられ、二対一でも負けないほどの歌舞伎通で、さらに、役者さんたちの声色もできてしまいますから、楽しくて二時間が短かったです。

山川静夫さんは、静岡浅間神社神主の長男で、神主になるべき勉強をされながら歌舞伎にはまってしまわれ、神主の研修の祝詞がつまらないので、声色で祝詞をしたというのですから極め付きです。

NHKのアナウンサーになられ、アアナウンサーの地方局勤務のお話から紅白のお話、名物アナウンサーのお話などまで巾が広いのです。ラジオで劇場中継をしていて、担当アナウンサーによって歌舞伎の情感も違ってきたようです。小津安二郎監督の映画にも田中絹代さんが歌舞伎のラジオ中継を聴いていて、かつては聴くだけで歌舞伎がわかったのか凄いなあと思っていましたが、アナウンサーに導かれて鑑賞していたのですね。一度聴いてみたいです。

導かれたといえば、こちらは、NHK衛星第二『山川静夫の華麗なる招待席』で歌舞伎など先導のあとについていったほうですが、衛星放送が始まり、番組編成にゆとりがあり長時間の『山川静夫の華麗なる招待席』(1994年から)が生まれたのだそうで、いや好い時に遭遇しました。今でもこの時に録画したものは観させてもらっています。三階席からの大向うで今も時々お声をききます。「あっ!山川さん来られているな。」とわかりますが、ふっとそう思ってさっと頭から消えるような絶妙な掛け声です。

三階から声をかけると、下に届くまでにわずかな時間差があり一呼吸おくれてしまうとのことで、そんな些細な時間差まで考慮されるのかと驚いてしまいました。アナウンサーという限られた時間を進行されるかたならではです。

2000年には脳梗塞にて失語症になられますが、言われないとわからない弁舌でした。苦言もありました。『勧進帳』の弁慶の引っ込みで手拍子がおこるのはいかがなものか、手拍手の間ではありませんと。

もっと時間があっても愉しませてくださったとおもいますが、著作も沢山ありますので続きはそちらでということで。

『山川静夫の華麗なる招待席』での録画とは別の録画で、『極付 幡随長兵衛』がありました。長兵衛が吉右衛門さんで水野が仁左衛門さんの時で、子分が染五郎さん、松緑さん、松江さん、男女蔵さん、亀寿(改め坂東亀蔵)さん、亀鶴さん、種之助(改め歌昇)さんでした。驚いたのは、児太郎さんが同じ役で大きく変わられていました。柏の前が福助さん。お時が元芝翫さん。

清兵衛が歌六さんで、花道で舞台番にこしかけた坂田金左衛門の吉之丞(吉之助改め)さんが腰かけられる側舞台番でした。京蔵さんは水野側の腰元で、役が敵味方逆転するなど時間がたつと役者さんの役どころの変化もおもしろいものです。

山川静夫さんは、もっと沢山の役の違いをみておられることでしょう。

 

 

歌舞伎座九月秀山祭 『毛谷村』『道行旅路の嫁入』『幡随長兵衛』

彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち) 毛谷村』は、仇討浄瑠璃狂言のなかでも、コミカルさを含んだ楽しい狂言ですが、ただかえってこのコミカルさを型で観せなくてはならないので、人物が薄ぺらくならないように気を付けなくてはならないとも言えましょう。柔らかさと大きさというのは、歌舞伎にとっては厄介な難所でもあります。

百姓でありながら剣術の達人は達人ゆえのおおらかさがあり、お召しかかえの剣術の試合に母のためという相手にワザと負けてやります。そんなところへ、母になってやろうかという老女があらわれたり、ニセ虚無僧があらわれたりします。

実は、老女は六助の剣術の師の妻・お幸(吉弥)であり、虚無僧は娘のお園でした。さらに試合にわざと負けた相手は剣術の師・吉岡一味斎を闇討ちにした京極内匠(きょうごくたくみ・又五郎)であることが判明します。

芝居が進むうちに謎がどんどん解かれていくという展開に合わせて、登場人物の設定が面白く、お園は虚無僧に化けた女武芸者(女武道)で力持ちなのです。(『逆櫓』のお筆も女武道です)虚無僧の花道の出は、男としか見えない足取りで、実は女であったというところを菊之助さんがしっかりと表現され、ニセ虚無僧であるということを見抜く六助の染五郎さん、これまでの気の良さだけではないところを、ふたりの立ち合いでぶつけます。

外に子供の着物が干してあります。それを六助が直すところがあり、何かあるなとおもわせますが、この着物に誘われてお幸が来て、お園が来るのです。着物の主はお幸の孫でお園の甥の着物でした。

お園は、その着物から六助を敵と勘違いするのですが、実は、六助はお園の許婚と知り、恥ずかしさに臼を持ち上げて力持ちがわかり、忍びとの立ち廻りをしつつの語りに武道の腕前をみせます。六助も京極が敵と知った怒りで石を踏んで土に押し込めてしまうという力をみせます。

そうしたコミカルな可笑しさが多いところをきっちりと浄瑠璃に乗せてこともなげにやってしまう面白さがあり、染五郎さんの声質の明るさ、菊之助さんの丁寧な浄瑠璃の乗り方に、次の世代へこの作品も繋がっていくのだなあと感じました。わかりやすい作品だけに手堅くしっかり残していってほしいです。

道行旅路の嫁入』は、『仮名手本忠臣蔵』の八段目の塩谷判官刃傷を途中で押さえた加古川本蔵の娘・小浪が義母・戸無瀬と二人で許婚の大星力弥に嫁入りのための旅路を舞踏化したものです。藤十郎さんの戸無瀬は娘に対する気持ちを心でつないで動かれ、壱太郎さんの小浪は、藤十郎さんの背の高さに合わせてひざを折り中腰の辛い姿勢で、力弥にたする想いと寂しい嫁入りを表現しているのには感心しました。顔はあくまでも恋一筋の可愛らしさ。

二人の気持ちを明るくするように登場して踊るのが奴・河内の隼人さん。奴の軽妙さにはまだですが、下半身に安定感があり身体の芯をしっかり保っていましたので、この基本で今後どのような味をだされるか楽しみです。『再桜遇清水』の歌昇さん、種之助さんと隼人さんでこちらは小川家三奴ということになります。

極付 幡随長兵衛 公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)』は河竹黙阿弥さんが書かれているのです。気になって少し調べましたら、黙阿弥さんが亡くなったのが、軽井沢~横川間のアプト式蒸気機関車が走った明治26年(1893年)なんですね。

初演されたときは『湯殿の長兵衛』で明治14年(1881年)、それに「公平法問諍」が弟子によって加筆されて上演したのが明治24年(1891年)です。「公平法問諍」は芝居の中で上演されている演目で、江戸時代に人気のあった公平浄瑠璃で、この芝居にいれることで公平浄瑠璃がこれだけ残ったのだそうですから面白い現象です。舞台の江戸村山座では、この「公平法問諍」を上演しています。

坂田公平が又五郎さん、上人が橘三郎さん、頼義が児太郎さん、柏の前が米吉さんで、いつもよりしっかりこの芝居に注目しました。上演中に水野の家来などが邪魔をしますが、そのやり取りの間どう対応するのか、特に児太郎さんと米吉さんコンビには注目していました。(破戒僧清玄でのコンビですから)面白かったです。困ったわね。お止めよ。親分が来てくれてひと安心。ここはひとまず平伏してなどの気持ちであろうと楽しませてもらいました。

ここで幡随長兵衛のお客の気分を和らげつつ侍をあしらう見せ所です。それに声をかけるのが水野十郎左衛門。一歩も引かぬ幡随長兵衛。こういう侠客はすでに居なかったわけで当時の観客は喜んだことでしょう。今でもあり得ない粋さです。

さて、水野から幡随長兵衛への招待があり、意気込む子分たち。松江さん、亀鶴さん、歌昇さん、種之助さんらのいきり立つ瞬時の動きが良い空気で緊張感を増させます。形にならなかった時期の若手さんを思い出します。代わりに行くという兄弟分の権兵衛の歌六さんらを押さえ、早桶を清兵衛の又五郎さんに耳打ちします。

行かないで欲しいと願いつつも侠客の女房として着替えの手伝いをするお時の魁春さん。天秤棒担いでも、侠客にはなるなと遺言をしての長松との子別れ。喧嘩になってはどれだけの血が流れることか。引くわけにはいかない。

旗本が侠客に辱められて黙っていられようか。水野十郎左衛門の染五郎さんと友人の近藤登之助の錦之助さんら侍たちの謀のため幡随長兵衛は湯殿で水野の槍に突かれ落命するのです。『湯殿の長兵衛』はここからきているのでしょう。

どの場をとっても吉右衛門さんの幡随長兵衛の名台詞です。今回どうして「公平法問諍」の場があるのかわかるようなきがしました。客席から舞台に上がる役者さんを見せる趣向ということもありますが、庶民に支持され愛された幡随長兵衛の姿をより観客にちかづけて見せるためだったのではないでしょうか。ここはどんな幡随長兵衛を役者が作っているかが試される場でもあります。

江戸の芝居小屋にいる雰囲気を観客にも味わせることによって、明治によって押しやられた江戸の空気を、待ってました!と声がかかり、江戸の幡随長兵衛に皆の喜びのざわめきが聞こえてくるようでした。

 

歌舞伎座九月秀山祭 『逆櫓』『再桜遇清水』

夜の部『ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)』は、吉右衛門さんの船頭松右衛門から樋口次郎への変化の妙味と、思いもかけない人生の荒波を乗りきる歌六さんの漁師権四郎とのやり取りの面白さを味わえる好舞台です。台詞まわしが絶品です。

樋口次郎は漁師権四郎の娘・およし(東蔵)のむこに入っています。名前が亡き夫と同じ松右衛門です。亡き夫の残した子・槌松(つちまつ)は西国巡礼の際、捕り物騒ぎでよその子と取り違えて、今いる子は槌松ではないのです。

前に進み、後へもどることを自由にあやつる舟のこぎ方の逆櫓は人の生き方にもいえることで、権四郎は見事に土の上の逆櫓を見せるのです。

松右衛門は権四郎から逆櫓を伝授され、梶原平三から義経の舟の船頭を申し受けます。梶原との対面を権四郎親子に話すし方話の柔らかさが面白く、船頭がドギマギしながらも、権力者に対する庶民の揶揄する気分など、現代でも有名人に会って興奮して話す感じです。それを聞く権四郎親子も高揚します。その後とんでもない悲劇がお筆(雀右衛門)という女性がたずねて来てもたらされます。生きていると信じていた槌松が、実は木曽義仲の若君・駒若丸と間違えられて殺されていたのです。悲嘆にくれお筆のいい様に怒り狂い、駒若丸を殺すという権四郎。

それを止めさせる松右衛門の樋口次郎。樋口は松右衛門にやつしていたのです。障子が開き松右衛門から樋口への様変わりが大きく舞台を引き締め空気がかわります。この大きさと台詞術が、権四郎を一人の孫の祖父から武士の親として納得させたことを観客にもうなずかせます。

逆櫓の練習場面を子役の遠見にして、船頭仲間が実は梶原の手下で、船頭たちと樋口の大きさをみせつけつつの立ち廻りとなります。権四郎が訴人したと聞き、裏切られたと悔しがる樋口。そこへ、畠山重忠(左團次)が樋口を捕えにきます。権四郎は駒若丸を、これは亡き松右衛門の息子の槌松なのだから、この松右衛門とは何の関係もないと言い切り、畠山も駒若丸と知りつつ命を助け、樋口と駒若丸は主従としての別れをかわします。権四郎は武士の親としての務めをはたすのです。権四郎の逆櫓の腕は衰えていませんでした。

さらに、三人の船頭・富蔵(又五郎)、郎作(錦之助)、又六(松江)のそろった声の響きに答える樋口の声の明るさが、梶原の裏をまだ知らぬ樋口の義経を討つ好機の気持ちを表していて、こういう短いところにも歌舞伎の面白さの光があるとおもえました。

松右衛門と樋口次郎の人間味の違いは長い時間をかけての芸の力です。秀山祭は初代吉右衛門さんの芸を讃え継承する公演ですが、初代さんは観ておりませんが、初代で名優になったのですから凄い力のかただったのでしょう。その初代を目指す二代目さんの修業も並みならぬものがあり、今、二代目はこうだという芸力を見せてくれる舞台でした。

再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)桜にまよふ破戒清玄』は、吉右衛門さんが松貫四の名で、『遇曽我中村』をもとに書かれた作品で、<桜にまよふ破戒清玄>とありますように、僧・清玄がこれでもかというほどの破戒僧になるのです。その原因は、清玄という名前が災いします。一人は<きよはる>と読み、一人は<せいげん>と読む同じ名前なのです。<逆櫓>の同じ名・松右衛門とは違う展開なのも面白いです。

「桜の森の満開の下」ならず、「桜の清水の満開の下」は、同じ名前を利用して落とし入れる桜姫(雀右衛門)の腰元・山路(魁春)の主人を想う一途さです。桜姫を演じたことのある魁春さんは桜姫の心の内が手に取るようにわかるのでしょう。さすが手順がいいです。

桜姫と千葉之助清玄(きよはる・錦之助)は恋仲ですが、千葉之助が鎌倉の新清水寺へ頼朝の厄除けのため剣を奉納するというので、桜姫は千葉之助に会いたくて新清水寺にきています。桜姫に横恋慕しているのが荏柄(えがら・桂三)が、桜姫の千葉之助の恋文を拾い、不義であるといいたてます。そこで山路はその相手は<きよはる>ではなく<せいげん>だと言い張ります。そうしなければ桜姫と千葉之助は死なねばならぬとの状況から清玄(染五郎)は、手紙の相手は自分だと認め寺を去るのです。

桜姫はことの成り行きから新清水寺の舞台から傘をさして飛び降り、清玄に助けられ、これが清玄にとって運のつきであります。桜姫に惚れてしまうのです。一度いつわりの破戒も本物になってしまいます。清玄は名僧だったのでしょう。千葉之助がこちらは<きよはる>あちらは<せいげん>と讃える台詞もあり、二人の弟子(児太郎、米吉)が清玄についていくのです。

ところが清玄の破戒は人をも殺してお金を奪うというところまで行き、二人の弟子は恐ろしくなり池に身投げしてしまいます。そこへ、葛籠に入った桜姫が運命のいたずらで運ばれてきます。しかし遂に清玄は殺されてしまいます。執念は女も男も恐ろしいものです。清玄は幽霊になっても、桜姫への想いを断ち切ろうとはしないのでした。

染五郎さんは、奴浪平で桜姫を助ける側と破戒僧清玄の二役です。歌昇さんは桜姫側の奴磯平で種之助さんが荏柄側の奴灘平で三奴の違いもお楽しみどころですしょうか。

桜姫の雀右衛門さんと千葉之助の錦之助さんが、あくまで武家の姫と若君の佇まいを貫いて悪気じゃないが清玄を破戒に落とす軸となって貫き、清玄の破戒を際立たせました。

染五郎さんは歌舞伎ならではの破戒ぶりで、『鳴神』と違って何の力もないわけですから幽霊となって出るしかない悲しさがこれまた可笑しいです。台詞の声質に新しい領域が広がってきているのが今後に期待できます。

児太郎さんの妙寿と米吉さんの妙喜の清玄の破戒ぶりに途方に暮れる様がこれまた若者ゆえの可笑しさを誘います。神妙になって観るよりも、一旦タガが外れると人間可笑しなことまでやってしまい、考えもなく、その場を繕う人の性が、これまた可笑しな状況を生み出すといったようなことでしょうか。

若手が思考錯誤して破戒に振り回されないように頑張っているところがなんとも可笑しくて楽しいです。さらなる芝居の引き締めと支えどころをつかんでいってください。

 

信州の旅から群馬へ・坂本宿

<めがね橋>でボランティアの説明の方が、軽井沢はリピーターがいるがここはいないからと言われていましたが、そんな事はないと思います。歩きやすいし秋の紅葉などはまた来たいと思います。<熊ノ平>残していますし、温泉の質も良かったです。友人に話したら歩きたいと言っていました。

温泉で身体も軽く、温泉施設のかたに坂本宿への道を確認。それらしい建物は残っていませんよと言われました。なるほど建物は残っていませんでしたが、きっちりと説明や石柱は設置していてくれていました。家々には屋号が標示されています。「上州中山道坂本宿・丸仁屋跡・西 京へ百二里」

小林一茶さんは、信濃の郷里・柏原への行き来に宿泊したのが定宿「たかさごや」で、一茶さんがくると旦那衆から馬子、飯盛り女にいたるまで指を折って俳句に熱中したとあり、一茶さんらしい表現です。碓氷峠の<覗き>という坂本宿が一望できる場所で詠んだ句。 坂本や袂の下は夕ひばり

若山牧水さん宿泊は「つたや」。碓氷峠にアプト式鉄道が開通して15年後の明治41年ごろには坂本宿はさびれてしまいます。この年の8月6日軽井沢から坂本宿へ入り、一軒残っていた宿「つたや」に無理に頼んで泊めてもらいます。そして暑さに寝付かれず焼酎をもとめて糸操りの歌を耳にしてできた歌。 秋風や碓氷のふもと荒れ寂し坂本の宿の糸操りの唄

坂本宿の旅籠のおもかげを残す「かぎや」。屋根看板も残っています。

坂本宿には二つの本陣があり、文政年間には31大名が往来しています。東に碓氷関所、西に碓氷峠をひかえて、坂本泊りは必然で、大名のすれ違いもあり、二つの本陣が必要でした。その一つ佐藤本陣は、明治8年には坂本小学校として開校しています。

もう一つの金井本陣には、皇女和宮内親王も宿泊されています。御降嫁にあたりお付き添え、迎え都合3万人ともいわれています。

文久元年の絵図には巾14、8メートルの道路の中央に川巾1、3メートルの用水路があり、その両側に本陣、脇本陣、旅籠、商家が160軒あり賑わっていました。

今、この水路は車道と歩道の間の両脇にあり、新しくその水音が涼やかで美しい直線を描いています。水路のないところでも道の下を豊富な水が流れている音が聞こえます。

小さな赤い鳥居の水神宮がありました。この水神はもとはこの地より東の40戸あまりの集落の原村にあって水を大切に思っていたが、現在は容易に安全に得られるため粗略に扱いがちであるが、水神を詣でることで水への認識を深めたいものであると書かれています。もっともです。水道の水がすぐ飲めるなんて凄いことです。

さて、横川駅への脇道を土地のかたにお聞きして進むと「碓氷馬車鉄道由来」の案内板がありました。我が国二番目の馬車鉄道とあり、一番めはどこかとおもいましたら、新橋~日本橋間(1882年・明治15年)でした。横川~軽井沢間(1888年・明治21年)開通で、蒸気機関車碓氷線が明治26年にでき姿を消します。

そして、出発時にはぷい!をした<碓氷関所>の道標。温泉に入り、坂本宿を歩きはじめると習慣は恐ろしい。再び汗を吹き出しつつも身体は東海道歩きバージョンになっていました。

<招魂碑由来>。碓氷アプト式鉄道の建設は、距離11、2キロ、26のトンネル、18の橋梁、高低差553メートルを1年9ヶ月の短期間で開通しました。技術力も凄いですが、その人海戦術には多数の犠牲者もあったといわれています。その碑をこの地へ移して忘れることなく冥福を祈ろうということです。実際に歩いて見て本当にそう思います。

<碓氷関所跡> 碓氷坂にあった関所がこの地に移りました。門柱および門扉は当時のもので総ケヤキ材で金具を用いていて昭和34年に復元しました。

<おじぎ石>というのがあり、通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けたとあります。

横川駅に到着。<峠の湯>から1時間です。無事<碓氷関所跡>も通過できました。最後は「碓氷馬子唄」の説明が。

元来馬は音楽を好む動物で、音に対して非常に敏感であると言われていて、苦しい峠の道すがら、馬子たちが唄った馬子唄は人馬を励ますための唄だそうです。シャンシャンの鈴の音は唄声に合わせる調子としてなるほど好い音だったわけです。

一に追分二に軽井沢三に坂本ままならん

西に追分東に関所せめて峠の茶屋迄も

碓氷峠のあの風車たれを待つやらくるくると

雨が降りゃこそ松井田泊りふりゃなきゃこします坂本へ

様々な歴史をみてきた碓氷峠ですが、当然、葛飾北斎さんとお栄さんの歩く姿も目撃していたわけです。そんなこんなを思い巡らす坂本宿でした。

これにて信州から碓氷峠を越して群馬の旅も幕となります。シャンシャン!

 

 

信州の旅から群馬へ・碓氷めがね橋

信州の旅は群馬に入りました。横川駅で予想外な事態が。コインロッカーがなく駅でも荷物は預からず、どこにも預かるところはないということでした。信じられませんでした。横川駅から<めがね橋>を通って<熊ノ平>までの往復一日コースの散策路がありながらコインロッカーもなく荷物も預からないとは、これいかにです。

止めるわけに行きませんから進みはじめます。<碓井峠鉄道文化むら>というのがありましたがお休みで、開いていたとしても覗く気分ではありません。<アプトの道>を歩きはじめます。

アプトの道>というのは、かつての線路を歩きやすくした道で、アプトというのは、日本一勾配が急な線路のため普通の線路だけでは速度がでだせず、二本のレールの間に、歯車のような車輪がかみ合いつつ進んでいけるようにギザギザのラックレールを敷いているのです。これがアプト式と呼ばれているようです。軽井沢~横川間碓氷線のアプト式蒸気機関車が走ったのは1893年(明治26年)です。現役のアプトは大井川鉄道で走っています。(大井川鉄道も計画するにはやりがいのある鉄道旅です。)

碓氷関所跡>の矢印がありましたが、少しでも体力は使いたくないとばかりに無視です。歩きやすいですが、少しづつ登りですから背中の荷物がうらめしい。今回の旅で一番この道が気がかりでしたが、さらなるまさかの展開でした。碓井峠トロッコ列車というのが<峠の湯>までありますが、これも限られた日にしか運行していません。

先ずは<峠の湯>までめざします。途中でレンガ造りの<旧丸山変電所>(1911年・明治44年)の建物があります。蒸気機関車では煙のためトンネルが多く人体に悪い影響があり、日本で初めて電化された線でもあります。(1912年・明治45年)。

途中ですれ違う若者が、余ほどひどい様子をしていたのでしょう。「もう少しですよ。頑張ってください。」と優しいお言葉。君は天使だ! どうにか天然温泉の<峠の湯>に到着。約1時間。コインロッカーがあった! これで<めがね橋>まで行けます。

出発!<霧積温泉>の説明板があります。森村誠一さんの小説『人間の証明』の舞台となった霧積温泉が碓氷峠入口(国道)から8キロ入った山の中にあり、碓氷線ができるまでは文人、外国人、政界人の別荘があったが、碓氷線ができて避暑地は軽井沢に移ってしまったとあります。この地だって十分山の中でアプトの道からは他の道など見えません。映画『人間の証明』は、角川映画が今までにない宣伝方法で映画界に風を起こした一作品でした。

白秋さんの歌碑。うすいねの南おもてとなりにけり くだりつゝ思ふ春のふかきを(碓氷の春 大正12年白秋39歳) おそらく夏きても秋きてもここの風景はふかいことでしょうがそういうことではないのでしょうが詩人の心も時には軽くいなします。

ここから<めがね橋>まで5つのトンネルを通っていきます。2号トンネルと3号トンネルの間の左手に碓氷湖がみえます。碓氷湖一周散策もできるようです。先を急ぎます。ついに<めがね橋(碓氷第3橋梁)>です。途中の第2橋梁も歩きましたが木などでその姿をみることはできません。下に降りて<めがね橋>の姿を仰ぎみました。やはり圧巻です。ここから国道沿いに駐車場まで遊歩道があるようです。<めがね橋>を堪能して<峠の湯>から1時間。

ボランティアの方でしょうか。説明してくれるかたがいました。その方に少しお話を聞き、ここからさらに5つのトンネルを通って25分くらいで最終の<熊ノ平>なのですが、今回は一番長い546メートルの6号トンネルを通って引き返すことにしました。この6号トンネル長いだけに天井に煙の抜ける穴がありました。

<めがね橋>から<熊ノ平>のトンネル間隔は短いですから、機関車の機関士さんと機関助士の缶焚きの方は大変だったと思います。アプトの蒸気機関車によって日本海側からの物資や兵隊さんも運ばれてくることになったのです。1894年(明治27年)には日清戦争が始まるのですから。そういう歴史の流れを初めて知りました。旅というものは不思議なものです。

新幹線の開通で、信越本線の横川と軽井沢間は廃線となります。横川の峠の釜めしは横川駅横で販売していて、テントを張ったお休みどころがあり、ここで食べることもできます。

<めがね橋>から<峠の湯>までは下りでもあり、一度歩いた道なのでゆとりで到着できました。ここまでで3時間です。ここまで戻れれば、あとは坂本宿を歩いて横川駅までですので、せっかくの温泉です。温泉に入り休憩としました。

碓氷峠路深訪(アプトの道)→ougezi.pdf (annaka.lg.jp)