映画『ゴッホ 最後の手紙』

『ボストン美術館の至宝展』東京都美術館(2017年7月20日~10月9日)に、ゴッホにとって大切な友人である郵便配達人のジョゼフ・ルーランとその夫人の肖像画がきていました。

映画『ゴッホ 最後の手紙』は、ゴッホの死後、郵便配達人である父・ジョゼフから息子・アルマンに一通の手紙が託されます。ゴッホからテオ宛の最後の手紙です。アルマンは直接テオに手紙を渡すため出発しますが、テオが亡くなっていることを知り、さらにゴッホの死の原因にも疑問を抱き始めます。アルマンはゴッホが最後に過ごしたパリ近郊のオーヴェールで親しかった人々にゴッホについて色々聞いてまわります。

ゴッホはなぜどのようにして亡くなったのであろうか。本当に自殺だったのであろうかとサスペンス的流れとなり、引きつけていきます。

なんとこの映画は、ゴッホが描いた肖像画の人々がゴッホの絵のタッチで油絵の動く人物として登場します。さらに、ゴッホの描いた風景がこれまたゴッホの絵のタッチで街や畑や家として映し出され、そこを、登場人物が動くのです。ゴッホ絵画の動画となって映画は作られているのです。

静止すればそれはゴッホの絵の複製で、それが動くわけですから、そうかゴッホはこういう風にとらえて歩いたり座ったりしていたのかとゴッホの画家としての眼で見ていたものが動いて見えるという感覚も味わいます。しかし、そこをサスペンス的にひっぱりますからゴッホの絵の中で二重の面白さを体験させてもらうことになります。

ゴッホの絵をよく知っている人も、知らない人もゴッホの絵のタッチを感じつつ映画を愉しめます。興味深い試みです。

アルマンの帽子と黄色いジャケットが若者特有のどこか世の中に対する憂鬱がマッチしていて、映画の人物設定にもゴッホの絵を上手く使っています。

この映画実写映像で撮影し、そこに125名の絵描きがゴッホのタッチを訓練し、ひとコマひとコマを62、450枚の油絵でつないでいます。5000人の応募者から125名えらばれたのですが、その中に一人、日本女性画家・古賀陽子さんが選ばれ参加しています。『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』(東京都美術館、2018年、1月8日まで)でも紹介されていました。

この展覧会では、ゴッホの認められなかった苦悩の画家人生とは少し違う視点でゴッホの作品を鑑賞できるようになっていて、それが浮世絵にあることが文化は空気のように人知れず飛んでいくことに明るさを感じさせてくれます。

さらに『北斎とジャポニスム』(国立西洋美術館、2018年、1月28日まで)を観ると、日本の庶民文化って凄いじゃないか。閉ざされたなかでも庶民のエネルギーは、あらよっと軽い足さばきで闊歩しているではないか。面白い企画が並んでくれました。

それにしても観たい映画を観るのも方向音痴のためか六本木ヒルズ大変です。事前に調べていてもビルの中で、私今どこにいるの状態です。毛利庭園がビルの中では盆栽型庭園で、現代ですから仕方のないことでしょう。日本人が日本人のおもてなしに助けられ、めげずにウロウロします。森美術館の展望台入口を聴いてそこに行き着くと映画ポスターがありますからその外階段を上がれば映画館です。映画館の入口は外になります。(中からも上がれるのかは今のところ不明。)すいませんがウサギ君、上野に映画館できたのは嬉しいけれどおしゃべりより地図を映してよ。

予告映画で『フラットライナーズ』が出て来てリメイク版?1990年版は、若きキーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、ウィリアム・ボールドウィン、オリヴァー・プラットらが出ていたんですよ。リメイク版はパス。もう一つのリメイク版『オリエント急行殺人事件』は、ケネス・ブラナー監督・主演ですので観たいですね。古いほうも観直したいです。

 

大山詣り

大山詣り>は、観光パンフによりますと次のように書かれていました。

大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木(き)太刀(だち)を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝である。そうした姿は歌舞伎や浮世絵にとりあげられ、また手形が不要な小旅行であったことから人々の興味関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者が訪れた。
大山詣りは、今も先(せん)導師(どうし)たちにより脈々と引き継がれている。首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる景色を目にしたとき、大山にあこがれた先人の思いと満足を体感できる。(~日本遺産に認定されたストーリーの概要~)

大山詣りだけが頭にあって、調べずに最寄り駅の伊勢原駅まできましたのでこの解説は簡潔でよくわかりました。手形が不要で<江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者>というのが納得です。

今回は大宮盆栽美術館からの出発です。JR宇都宮線土呂駅から湘南新宿ラインで新宿へ、そこから小田急電鉄小田原線で伊勢原駅まで乗り換え一回で来れてしまいました。そして、大山はライトアップのためケーブルが時間延長でしたので行きたい所を一日に二つ実行できました。

伊勢原駅から終点大山ケーブルまでのバスも座れました。終点バス停から大山ケーブル駅まで15分位なのですが、ずうっと階段で両脇にお店屋さんが並んでおり、大山名物独楽にちなんでか、こま参道とよばれる楽しい細い道です。

ケーブルはかなり乗客が並んでいましたので、女坂を登り大山寺まで行くことにしました。これがきついです。ほとんど岩石の階段です。トレッキングシューズではありませんので、雨や雨の後なら歩きませんでした。晴れていたので助かりました。女坂に七不思議があり大山寺までは四つあります。弘法水、子育地蔵、爪切地蔵、逆菩提樹。そして、そして、大山寺への階段が紅のモミジでおおわれています。

大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が開山し、元は阿夫利神社下社にありましたが、明治の廃仏毀釈で現在の場所に移りました。ご本尊は鉄の不動明王で、後背の炎の先が烏天狗の口ばしのようでした。

満足して、阿夫利神社下社までも登ることにしました。さらに息があがりました。七不思議の残り三つは、無明橋、潮音洞、目形石です。時間的にそれぞれ20分、20分の案内ですが、時間よりも高低差がきつかったです。境内ではもみじ汁が販売され、大山詣りの浮世絵の多色刷りが自分でできる場所もあり両方人気です。遠くに三浦半島、江の島、房総半島が少し霞んでいますが見えます。

最初から阿夫利神社本社までは無理と思っていました。途中の見晴台までが30分で往復一時間。覗くような下りでこれもやめました。ケーブルが並んでいますので、大山寺まで歩いて下りることにし、その前に食事をとりました。食事をするところは二箇所あります。今度山頂の阿夫利神社本社まで登るときは、きちんとトレッキングシューズにし、阿夫利神社下社までケーブルできてそこから登ることにします。

今回ケーブルでの紅葉狩りのつもりでしたが、歩くこととなり大山をより身近にかんじることができました。男坂もありますがこちらは大山寺には行けずにそのまま阿夫利神社下社にいきます。そのため男坂から登られ帰りは女坂を下られ大山寺に到着されたかたはモミジの赤さに感嘆の声をあげられます。

少し薄暗くなりライトが点きました。人が増えています。もう足で下るのはむりですしケーブルの混雑もいやなのでほどほどのところで帰ることに。ケーブルの大山寺駅で降りて大山寺に向かってくる人達も紅葉に歓声をあげています。

ラッキーなことに降りて来たケーブルにすぐ乗れ、バスもすぐ乗れて座れました。紅葉狩りのピーク日に乗り物が上手く行き、歩きの疲れにとっては助かりました。その前に行った昇仙峡の紅葉はモミジが少なかったので、大満足です。

今度はきっちりと大山詣りをするぞ!

古今亭志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを観て締めとしました。志ん朝さんのさらさらっとした男と女のしぐさの違いがやはりいい感じです。大山詣りはあっという間に成し遂げられ、山岳信仰の気楽さが落語らしいところです。

 

 

『三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!?』

インパクトの強いチラシを目にしました。『三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!?』 ー千両役者は盆栽狂 

「さて尾上菊五郎いよいよ一世一代のを仕り、これより寺嶋へ引き籠りまして、松の隠居、親どもの名をつぎまして松緑と改名仕り、四季折々の草花もご覧に入れたてまつりたく」(終生のライバル・七代目市川団十郎による、尾上菊五郎一世一代口上)

さいたま市大宮盆栽美術館での企画展です。11月29日までですのでさっそく行きました。驚いたり、感心したり、、うなずいたり、そういうことなのかなのかと沢山のインパクトをもらいました。

三代目菊五郎さんは歌舞伎に新しい風をおこしたようですが、気が短く自信家でもあったようで、さらに自分のやりたいことは実行するタイプの方だったようです。天才肌だったのでしょうか。植木屋松五郎(植木屋)、菊屋万平(餅屋)の別名があり、企画展は、植木屋松五郎を浮世絵から探られています。

向島の寺嶋村に住んだので寺嶋名を名乗られたのは知っていましたが、三代目さんは現在の向島百花園の西側の「松の隠居」と呼ばれる植木屋を買い取り「寺嶋の松の隠居」と呼ばれたりもしています。近くには「菊の隠居」もあり、向島百花園は亀戸の「梅屋敷」に対して「新梅屋敷」とも呼ばれています。当時の庶民が草花や木々を楽しんでいたことからそういう名所ができていったわけです。

話しが飛びますが、こうした江戸庶民の遊行を葛飾北斎さんらが浮世絵に表し、それが西洋へそれこそ飛んでいって西洋絵画に影響を与えるわけです。それは今、上野の美術館をにぎわせております。もちろんそちらの見物客の一人にもなりました。

さて、三代目さんの行動から歌川国貞の『きくのさかゑ』から、植木屋「菊屋」の前の浴衣の男性が三代目を現わしているのではないかという謎解きから始めるという心憎い運び方です。もう一人三代目として登場させている人物も探りあてます。二人登場させているのです。その二人を探す手立ては、三代目さんは役者ですから白塗りです。

人気役者と植木との組み合わせ浮世絵をテーマごとに紹介してくれ、鼻高か幸四郎(五代目)さんが、植木などを背負って歩く吊り台を二個並べて品台にして商品を並べて悠々と煙草などを吸っています。吊り台の利用方法が面白いです。たくさんの江戸の物売り、水売り、アサガオ売り、金魚売り、虫売りなどに役者さんが扮されて、これが姿形がいいのです。

極め付きは、ライバル七代目団十郎さんとの<松切り>です。三代目さんは、中村座で『仮名手本忠臣蔵』をされ、川原崎座に移りここで大当たりをして鼻高々です。一緒だった七代目団十郎さんと三代目三津五郎さんが市村座に移り『仮名手本忠臣蔵』の二段目<松切りの場>を上演し大当たりです。松を菊五郎さんに見立てられたわけで観客は大喜びしたのでしょう。昨年の国立劇場で10月から12月にかけて三カ月『仮名手本忠臣蔵』を上演し、初めて<松切の場>を観ました。研修発表会でもやりましたので、参加された役者さんは貴重な体験をされました。

三代目さんは、そのあと中村座にもどり再度『仮名手本忠臣蔵』を上演しますが当らなかったようです。芝居小屋が多く、ライバル役者さんも多かったわけで見物のお客さんにとっては、江戸歌舞伎黄金時代でもあり話題の多いことだったでしょう。

三代目さんは役者をやめて植木屋にはならず、両方兼ねたようです。ただその後役者をやめますが大川橋蔵の名で再度役者に復活します。そして、上方からの途中掛川で病死します。掛川の広楽寺は音羽屋の菩提寺・浅草今戸の広楽寺の分家元ということで、掛川の広楽寺に埋葬され、俗名・植木屋松五郎とも記されました。今も碑があるようですが当時のものではないようです。

浮世絵をさらに細かく見る目をもらいましたし、単なるインパクトだけではない実質的な検証とその展開が面白い企画展となりました。

盆栽美術館ですから盆栽のことも少し興味をひかれました。奥の深い職人芸です。見方のひとつとして、下から覗いてみてくださいとありましたので、下からみますと、大きな木をスマフォなどで拡大して撮ったりしたときの絵でした。剪定してますから、もっと芸術的な枝ぶりでそこから青空がみえます。

近くには盆栽村もありまして、埼玉県大宮と盆栽の関係は、江戸時代、千駄木の団子坂周辺は植木職人が多く、盆栽の専門職人も住んでいたのですが、関東大震災によりもう少し田舎へということで大宮に移り、色々な変遷を経て今にいたっているわけです。

今回は盆栽美術館だけで埼玉の大宮から神奈川の大山へと向かいました。江戸の観光は続きます。

 

映画『ザ・サークル』『ポリーナ、私を踊る』

古い映画ばかりを観ていたので、映画館での新しい映画で、トム・ハンクスとエマ・ワトソン共演の『ザ・サークル』期待したのですが肩透かしというか、後味の悪さを残す映画となりました。

評判になった『美女と野獣』を観てディズニーらしいファンタジーだなと思い、『ザ・サークル』は美しいエマ・トンプソンの違う面が観れるかなと期待したのですが新たな魅力も感じられませんでした。チラシには<サスペンス・エンタテインメント>とありましたが、サスペンスにも疑問でした。

自分はこのまま田舎に埋もれてしまうのはいやだでと思っていた若い娘メイ(エマ・トンプソン)が、SMS企業の大会社「サークル」に採用されます。とにかく多くの人に登録してもらい社員もいいね!とフォロワーの数を増やすのが任務でそれが仕事ができるかどうかの評価になるのです。

「サークル」のカリスマ経営者ベイリー(トム・ハンクス)は、新しい目玉のような小さな映像カメラを開発し、誰にも見つかることなく設置できて全ての犯罪などから人々は守られると紹介し、社員から喝采を浴びます。

メイは田舎に帰ってカヤックで海に出て遭難し、人々のSMSの連携で助けられ、そのことから新開発のカメラで自分の24時間を公開することを承諾。益々人気者となりアイデアも出し会社の重要な位置まで登ります。さらに隠れている犯罪者を短時間で見つけ出そうという試みをして成功し、次に社員がもとめたのはマーサーを探し出すことでした。

マーサーはメイの元恋人で、良かれと思ってメイはマーサーが制作している鹿の角のシャンデリアを紹介したところ、鹿殺しときめつけられマーサーは身を隠してしまいます。その人を探し出そうという人々の興奮の要請にノアはオッケーをだします。近未来への警鐘なのでしょうが、観ていて狂っているなと思います。当然悲劇が起ります。

ノアは最後にベイリーと共同経営者こそ24時間を公開すべきだと社員に働きかけ復讐ということなのでしょうが、その前に、なぜマーサーをそっとして置かなかったのかと、凄くいやな気分になりました。そこが映画の狙いなのかもしれませんが、安易な展開でサスペンスでもなくあまりにも単純に盲信するSMS企業社員が軽すぎです。

原作があるのでそうもいきませんが、喜劇にでもしてトム・ハンクスの演技力にエマを絡ませて彼女の新しい面を引き出す方法もありだなと思いました。こういう問題は喜劇のほうが身につまされるかもしれません。

エマ・ワトソンのベルということで、ジャン・コクトー監督のほうの『美女と野獣』(1946年)も観ました。野獣の住む屋敷の中の壁の蝋燭を持つのが人の腕だったり、彫刻の顔が人で眼が動いたりとの工夫があり異様さが結構面白かったです。演技が舞台人のようなところもあり、衣裳も時代がかっていて半分舞台演劇としてもみれました。

野獣はベルを戻すため、ベルに宝物の鍵、行きたいところへ行ける手袋、見たいものが見える鏡、館にもどれる白馬などを与え、童話的現実では無い世界として位置づけています。ただ、野獣と王子と求婚者のアヴナンがジャン・マレーが三役で、ベルはアヴナンの求婚を断ったのは父のそばにいるためできらいだったわけではなく、王子になった野獣にアヴナンの顔が好きだったと言います。人間どうしになると新たなる恋の駆け引きでジャン・コクトーならではの大人のひねりを加えたのでしょうか。

この際とジャン・コクトーの『双頭の鷲』『オルフェ』も観ましたので、ジャン・コクトー監督の映画はこのあたりまででいいかなというところです。

ポリーナ、私を踊る』は踊りがよかったです。ドキュメンタリーではなく、映画ですが踊る場面がドキュメンタリー映画のごとく多くて、それがきちんとしているので好みの映画でした。監督が全然知らないお二人でヴァレリー・ミュラーとアンジュラン・プレルジョカージュで、アンジュラン・プレルジョカージュがバレーダンサーでありコンテンポラリーダンスカンパニーの振付家として有名なかたのようです。

原作はフランスの漫画だそうで、主人公の少女・ポリーナはでボリショイ・バレエ団に入るため厳しい練習にはげんでいます。家は貧しいのですが、両親は彼女に夢を託しています。ところが彼女は自分の踊りが踊りたいとボリショイ・バレエ団への入団を前にロシアから南フランスへパートナーと旅立ちます。

クラシックバレエのキャリアもコンテンポラリーダンスには通用しません。バーで働きつつポリーナは自分の踊りを探します。路上で雨に濡れた猫のような眼をしていた彼女が、次第に自分の踊りを見つけて自信に満ちて来て好い表情で踊るまでの経過が納得いく映像で撮られていました。アニメ原作とは思えない作品です。

主人公ポリーナ役のアナスタシア・シェフツォワは実際に実力派ダンサーで映画デビューとなりました。ダンスと演技がバランスよく愉しませてもらいました。踊りがしっかりしていますのでシンデレラストーリーにならずに成長物語となったのがよかったです。久しぶりでジュリエット・ビノシュにも会えました。。

 

歌舞伎座11月吉例顔見世大歌舞伎(2)

十三世仁左衛門さんの映画で、『伊賀越道中双六』の<沼津>が映し出されます。十三世が平作で当代が孝夫時代の十兵衛です。平作の出からで十兵衛は声が主です。当代仁左衛門さんは声もセリフもいいですが、上方言葉が身につかれていますからそのアクセントと抑揚に味があります。平作も柔らかいリズム感で荷物を担ぐには怪しい体力ですが、なんだかんだと言うところに愛嬌があります。

『恋飛脚大和往来』の<封印切>のでの我當さんの八右衛門は実際にも憎らしくて面白かったですが、当代仁左衛門さんの忠兵衛とのやりとりのたたみかける間は関西歌舞伎ならではの間です。関西歌舞伎を残すということは大変で、三味線の音締めからして違うそうで、雰囲気を残すということになるでしょうと。

十三世は研究熱心で型もよいところを組み合わせて自分のものにされていますので当代仁左衛門さんもその方向性なのだと思います。

仮名手本忠臣蔵(五・六段目)』の当代の仁左衛門さんは、映画の中で舞台での父は自分よりも若いんですよねといわれていましたが、その言葉をお返しできる勘平です。勘平自身とささやかな猟師の一家族が仇討ちのために翻弄される悲劇です。そこが猪を撃つところから始まるのがよくできています。婿を喜ばそうとの家族の気持ちが運命を狂わせます。秀太郎さんの一文字屋の女将の上方言葉もながれに軽さを加えますが、女将の出した財布が勘平への一つの刃です。勘平は絶望的におかる(孝太郎)を抱きとめます。二つ目の刃は千崎弥五郎(彦三郎)、不破数右衛門(彌十郎)の仲間とは認められないという言葉です。仁左衛門さん浅葱色の紋服が悲壮な色に変わっていきます。勘平は刃を自分にむけるしかありませんでした。これらを目にした義母(吉弥)の悲劇。染五郎さんの定九郎は色悪風。

十三世仁左衛門さんは、義太夫狂言など、口三味線で全てのセリフを言いつつお稽古をつけ、その調子がこちらに伝わりお稽古のときに涙してしまいます。口三味線や口お囃子はその方の身体の一部なので情愛が濃く伝わるものだなあと思いました。皆さんこの音が入っていますので、お稽古というよりもお互いの音を確かめて一致させ、立ち位置をきめ、その上で主役の動きを察知し絡んでいくわけです。セリフ、所作はすでに入っていて、さらに音が身体に入っていなければいくら言われても良い動きができないことになります。ここが歌舞伎の練習日数の少ない凄いところです。

恋飛脚大和往来(新口村)』は忠兵衛と孫右衛門と二役されたりもしますが、藤十郎さんは忠兵衛だけです。藤十郎さんはこの役の全てが身体に染み込まれておられますから脚が弱られてはいますが、その忠兵衛の気持ちはよくわかります。扇雀さんの梅川も藤十郎さんに気を使うところを、梅川が忠兵衛の立場と孫右衛門の立場を想う気遣いに代えて演じられます。孫右衛門の歌六さんは、何も言葉に出して言えない忠兵衛の気持ちを親の側から独特の声で切々と語られ、逃げ道を教えます。背景が雪で埋まる裏道となり一瞬美しさを現わし即哀切漂う風景の中を忠兵衛と梅川は逃げ、孫右衛門が抱える新口村の標識が涙を誘います。

十三世仁左衛門さんは、不自由なのが目で良かったと言われています。耳なら音も相手のセリフもわからないからやりようがないと。夜中に目を醒ましてもああやろうこうやろうと芝居のことを考えると楽しいとのことで、目の不自由なことで周りに癇癪を起すことはなかったそうです。

元禄忠臣蔵(大石最後の一日)』は、幸四郎さん、染五郎さん、金太郎さんがこのお名前で三人で歌舞伎座に出演される最後の舞台となります。

大石内蔵助の幸四郎さんは、セリフのトーンを一定に近い状態で「初一念」を貫く最後の腹を示されました。自分だけではなく同志たちにも「初一念」を崩さぬよう心をくばられます。ところがおみの(児太郎)という女性が夫婦約束した磯貝十郎左衛門(染五郎)の本心が聞きたいと現れます。会わせるのを迷う内蔵助でしたが、二人を会わせ磯貝のウソの無い真をさらけださせます。満足したおみのは全て無かったことにするため自刃します。児太郎さんと染五郎さんが役にはまっていました。金太郎さんの細川家の若君も雰囲気を出し、上使役の仁左衛門さんの押し出しが、赤穂浪士の格をあげます。幸四郎さんの大石は最後に名を呼ばれ、「初一念」が揺らぐことなく自分の役割を果たせた安堵感とともに静かに切腹の場へと花道を進んで行きます。

 

歌舞伎座11月吉例顔見世大歌舞伎(1)

京橋のフィルムセンターでドキュメンタリー作家羽田澄子さんの2回目の特集がありまして、十三世片岡仁左衛門さんの『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』6部作を再び観ることができました。この映画を最初に観たときから20年は経っているわけです。記録とし、自分を啓発するつもりで歌舞伎を観て勝手なことを書いていますが、こちらは20年でこの程度かと振り返ると全部消してしまおうかと思ってしまいます。

しかし反対に、いやいや待て待て、十三世仁左衛門さんの歌舞伎が大好きで冷静で穏やかでいながら熱い芸談をお聞きしますと観客の恥を晒しても受け留めて下さるような気もしてきました。

今回の顔見世は、現歌舞伎界の頂点を極めておられる方々の演目がずらりとならんでいます。『奥州安達原(環宮明御殿の場)』(吉右衛門) 『雪暮夜入谷畦道(直侍)』(菊五郎) 『仮名手本忠臣蔵(五・六段目)』(仁左衛門) 『恋飛脚大和往来(新口村)』(藤十郎) 『元禄忠臣蔵(大石最後の一日)』(幸四郎)

かつて歌舞伎のラジオ中継があったそうですが、今回の顔見世はラジオ中継でもいいと思えるほどの聞かせぶりでした。十三世仁左衛門さんは、晩年緑内障を患われて見ることが不自由になられましたが、その分さらに聞いて発するセリフの調子が冴えわたります。『御浜御殿綱豊卿』の綱豊卿が梅玉さんで、新井勘解由が十三世仁左衛門さんで、仁左衛門さんを映していますから、梅玉さんはセリフの声が中心です。そのセリフを聴く仁左衛門さんの表情がいいのです。教え子に対する満足の気持ちがよく表れていて、綱豊卿が大石の初老を過ぎてからの女狂いも仕事とはいえ面白くなかろうという言葉に笑う顔がこれまた何ともいえない良さです。当然梅玉さんのセリフには満足され、好い役者さんになりますよと言われています。

今回は、十三世仁左衛門さんのお話や映像などの感想と重なるところは重ねて勝手な解釈と想像であらすじは抜かしてダイジェスト版にします。

湧昇水鯉滝(わきのぼるみずにこいたき) 鯉つかみ 』は、染五郎さんのお名前での最後の公演ということもあって、大奮闘ですが、少し不満なのは、この鯉のいわれが知りたかったです。愛之助さんもされていてその時もすっきりしなかったのですが、今回は時間の関係もあるのでしょうが、その辺を避けられ鯉の精と志賀之助の染五郎さんの二役に重きを置かれたわけです。

志賀之助と小桜姫(児太郎)との出会いを踊りにしてしっとりとはじまりますが、障子に映る影が志賀之助のはずが鯉ということで、そういうことかと理解しますが、もう少し鯉との関係を上手く出してほしかったです。

二役は本水の場でもスムーズに見せてくれましたが、忘れ物をしたような残念さがありました。幸四郎襲名となられても、染五郎時代の挑戦は継続されるでしょうから、さらなる再演を期待します。

奥州安達原(環宮明御殿の場)』は、<袖萩祭文>ともいわれます。駆け落ちして盲目となり物乞いの身の袖萩でありながら、父の窮地を知り環宮(たまみや)の門前で歌祭文をかたる哀れさが、雀右衛門さんの新たな境地をしめします。父(歌六)と母(東蔵)の胸中の複雑さ。義家(錦之助)、貞任の弟(又五郎)としっかり脇が固められ、貞任と身をあかす時代物の吉右衛門さんのいつもながらの大きさはお見事です。袖萩の夫が貞任で娘が父を慕う所に時代の中での細やかな情愛がにじみでていました。

映画の中で、十三世仁左衛門さんが、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の蘇我入鹿(そがのいるか)をされ、大判事が吉右衛門さんで定高が七代目芝翫さんで、<花渡し>の場でこれは初めて観ました。<山の段>の前にこういう場面があるのを知りました。20年前はそんなこともわかっていませんから少しは進歩したのでしょう。

『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』の<奥庭>も十三世仁左衛門さんは自分しか知っている者はいないからと丸本から起こされて上演されました。90歳に近いころとおもいます。背景が紅葉で美しい場面で、天狗の面を取ると鬼一で、この場は実際に舞台で観てみたい場面です。

『菅原伝授手習鑑』の<寺子屋>の松王丸の首実検の場を父の型と初代吉右衛門さんの教えを受けた型と、六代目菊五郎さんの型と三つの型を「仁左衛門さんの芸をきく会」で実演をまじえて語られています。違いがよくわかります。『紅葉狩』の山神では六代目菊五郎さんに裸で教えられ、さらに背中に細い棒をあてがって縛って、身体の中心がふらふらしないように指導されたそうです。

穏やかな仁左衛門さんが、「怒られて教えられたことは覚えていますね。」と言われていて教え教えられることの難しさです。

雪暮夜入谷畦道(直侍)』は、始まりからゆったりと力を入れずに観劇できました。直次郎と三千歳の別れに目頭が熱くなったのははじめてです。わかりきっていますが、直次郎の菊五郎さんと三千歳の時蔵さんの情の通い合いが型を超えて自然の流れとして伝わってくるのです。小悪党同士の丑松(團蔵)との出会い、蕎麦屋夫婦(家橘、齊入)、按摩丈賀(東蔵)に対する警戒心と三千歳の情報、そこから三千歳がいる寮であたたかく迎えられての逢瀬。意識することもなく江戸に連れて行ってくれる舞台です。清元も間合いよく情感を刺激してくれました。

 

国立劇場11月『坂崎出羽守』『沓掛時次郎』(2)

沓掛時次郎(くつかけとこじろう)』は、歌舞伎としての舞台は41年ぶりとのこと。昭和3年の作品で同年に初演したのが新国劇の沢田正二郎さんで、歌舞伎では昭和9年に15代目市村羽左衛門さんが初演しています。今回は梅玉さんの初役です。梅玉さんは、品のある役どころですからイメージとして浮かばないのですが、もう一度長谷川伸さんの作品を考えさせてもらいました。渡世人を主人公にした股旅ものは、映画や舞台で華やかなスターが演じて大衆に広まりましたが、本来は世間からのはぐれ者の世界です。

世間とは別の世界の話しなのです。沓掛生まれの時次郎は、助っ人で六ッ田の三蔵を殺すために敵対する一家の三人と襲撃に加わります。六ッ田の三蔵は、かつては大きな中ノ川一家を親分の義理からただ一人名乗っている男です。それだからこそ敵対する一家にとっては、目の上のたんこぶなのでしょう。渡世人の時次郎にとっては、渡世を張るなら相手がどんな男など関係ありません。

三人は三蔵に追い返され、一騎打ちで時次郎は三蔵を切ってしまいます。三人が、三蔵の女房と子供にまで手をかけようとするので、親子を助けます。息絶え絶えの三蔵は、女房と子供を時次郎に託します。強い方が勝つ。それを知っている三蔵は、女、子供を助け腕の立つ時次郎に一縷の望みをかけたのでしょう。

時次郎は親子を連れて逃げることになります。梅玉さんの時次郎は淡々としていてクールです。おきぬは三蔵の子を身ごもっていて、時蔵と二人で追分節の流しをしつつ熊谷宿の安宿で、おきぬの出産を真近に控えていますが出産の費用が捻出できません。宿の主人から博徒の出入りの仕事が持ち掛けられます。時次郎は、八丁徳一家の助っ人の仕事を引きうけ、おかねと太郎吉には追分節の仕事が入ったからと、産気づくおかねに待っていてくれと告げます。

この仕事を紹介した宿の亭主・安兵衛とおろく夫婦もかつては博徒に関係するような立場のような気がします。三蔵襲撃の時、仲間を切られ時次郎を追いかける百助と半太郎が踏み込んで来た時、女房おろくが追い返しますが、そうした意気はおろくの過去を思わせますし、話しをもってきながらそれを止めようとする安兵衛にも自分と投影しているように思えます。勝手にそう設定して観ました。時次郎たちに対する情の深ささがどこか同類とみえたのです。

安兵衛とおろくは、部屋でおきぬの供養の花の前にいます。八丁徳の親分が時次郎の男気を気に入り訪ねてきますが、おきぬと赤ん坊の死に際に間に合わなかった時次郎は、百姓になるため太郎吉を連れて旅だったことを告げます。

八丁堀の親分は子分に屋根の上から時次郎の後ろ姿に別れを惜しませます。ここが、姿のない渡世人時次郎を大きく見せる場面です。それは同じ渡世人だった時次郎へのはなむけでもあるのです。八丁堀の親分の楽善さんの出のいいところで居ない時次郎を映しだしました。屋根を借りてすまないと安兵衛にいう台詞も長谷川伸さんの計算をおもわせます。

最後の場面。小さな祠の前で、太郎吉が「ウン字を唱うる功力には、罪障深き我々が造りし地獄も破られて忽ち浄土となりぬべし」とうたいます。おっかちゃんがおいらの声を聞いて安心するからといいますが、昔の道中のわびしい雰囲気があっていい舞台です。

時次郎がおきぬに対する気持ちを表すのは、おきぬに待っていてくれと告げるときの声のトーンと、最後に太郎吉がおかっちゃんに会いたいというとき、俺もだというところです。セリフの上手い梅玉さんですので、こういうところはすっーと無理なく観る者の心に浸透してきます。

おきぬは三蔵という博徒の女房ですから、三蔵に相手を斬っておしまいというくらいの強さがあり、太郎吉は私が守るという芯のある女性です。もしかすると、この博徒の生き方を知っている女と夫婦になれたらと時次郎は思ったことでしょう。長谷川伸さんは、素人の世間と渡世人の世界とをきっかり区別していたと今回思いました。はぐれ者の中で人知れず心に残った生き方をしたひとの話しです。

最後、三度目の正直だと、百助と半太郎が切り込んできますが、太郎吉が殺さないでといいます。太郎吉は時次郎が自分の父親になってくれればと言うところがありますが、ここで思いました。そうだ、太郎吉は斬った張ったのない父親になってと言っているのだと。父を殺されながら、そういう世界ではないところにいる男に父親になって欲しかったのだと。

作・長谷川伸/演出・大和田文雄/出演・沓掛時次郎(梅玉)、六ッ田の三蔵(松緑)、三蔵女房おきぬ(魁春)、三蔵の息子太郎吉(左近)、安兵衛(橘太郎)、安兵衛の女房おろく(歌女之丞)、百助(松江)、半太郎(坂東亀蔵)、八丁徳(楽善)

上演の後アフタートークのある日でした。梅玉さんが、もしかしておきぬという女に巡り合い幸せになれるかと思ったが、やはり駄目だったのかという想いということを言われていましたが、やはり駄目なのかという情感が心に残りました。映画で萬屋錦之介さんや雷蔵さんの時次郎がありますが、自分はクールに演じるようにしていますと。それはわかりました。映画のようにおきぬと時次郎の関係を匂わせて色を添えるという濃さは出していません。そこが、映像と舞台の違いだとも思えますし、想像させるほうに持っていく舞台の難しさでもありジャンルの違う楽しさでもあります。

梅玉さんは、まだまだ自分のなかで完成されていないと言われていましたが、観る方は梅玉さんの時次郎像はしっかり感じとれました。

松緑さんは、三蔵について、斬られた男に妻子を頼み、その後の時次郎の生き方を変えるので出は短いですが重要な人物です。林与一さんの三蔵を参考にし年齢的にそれを小さくするように工夫しましたとのことです。

梅玉さんと松緑さんのお二人の参加なので、魁春さんのお話は聞けませんでしたが、三蔵の女房としてのおきぬの描き方が観客にとっては大事な人物像になるところで、博徒の女房という存在感がありました。この脚本ではそこが重要だとおもえました。

梅玉さんも『坂崎出羽守』は演じてみたいといわれてましたが、坂崎の台詞は挑戦されたいだろうと思います。司会のかたが松緑さんの坂崎は5日ぶりに拝見しましたが違っていましたとのことで、松緑さんは、まだまだ変化しますのでまた観に来てくださいとのことですが、基本はこのまま変えてほしくないと思います。この坂崎でいいとおもいます。

アフタートークはまだまだ楽しい裏話もありましたが、主語を間違えそうなので少しだけにします。

 

国立劇場11月『坂崎出羽守』『沓掛時次郎』(1)

坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)』は、大正十年九月に、六代目菊五郎さんで初演されていて、山本有三さんが依頼をうけて六代目さんのために書かれたものです。そのあとを、二代目松緑さん、三代目松緑(初代辰之助)さんと受け継がれ、今回当代松緑さんでの上演となり、36年ぶりとの事。

観ていて坂崎出羽守の内面が写し出される作品で、大正という時代に歌舞伎にもこういう作品が必要だと六代目は感じられていたのかと時代という流れを垣間見る作品でもあります。演じられるかたも様々に思考錯誤されるでしょうが、観ている方もあれこれ登場人物の内面が想像されて面白いです。

筋としては、千姫を大阪城落城の際、命を賭けて救った坂崎出羽守ですが、家康に千姫を救ったものには、千姫を娶らせるという約束に翻弄されます。武骨者の坂崎は、千姫に惚れてしまうのです。本心のわからぬ家康との葛藤、何よりも自分のほうを見ることもなく違う相手と結婚してしまう千姫。最後に坂崎の本心が爆発してしまうのです。ここまでに至る作者のさばき方もかなり手が込んでいます。登場人物のおもいはどこにあるのか。

大阪夏の陣での家康本陣では、木の上の物見も徳川優勢を知らせ、兵が真田幸村の首を持参し、本丸にも火の手が上がりますが、家康は落涙します。それは、千姫が大阪城に残されているからです。千姫を救い出すべく送られた者も、淀君が家康のやり方に激怒して千姫をそばから離さないことを報告しています。こちらは、10月歌舞伎座での舞台『沓手烏孤城落月』(坪内逍遥作・明治38年初演)が浮かびます。

そこへ名乗りでたのが坂崎出羽守です。彼は武勇を立てることを第一とする男なのです。自分の出番がないと引っ込んだのですが、そこへ再び来合わせたのが彼の人生を波乱に導くことになったのです。坂崎が全っく思いもしない言葉が家康から発せられます。家康もそれほど重く考えず檄を飛ばすだけだったのかもしれません。この辺から家康さんの狸おやじぶりは介入しているのかも。

千姫を娶らせると言われなくても坂崎は最善を尽くしたとおもいます。約束がなければ千姫に恋するだけであきらめたでしょう。しかし約束の言葉があります。千姫を救出し、千姫を駿府へ護送するための船上で坂崎の前に現れたのは、桑名城主の嫡子・本多平八郎忠刻(ただとき)です。桑名から名古屋までの七里の渡しの護送に加わったのです。この航路は忠刻にとっては手の内に入っていて自分の庭のようなものですから、周囲の案内も弁舌爽やかです。

あせる坂崎です。坂崎は救出したとき顔に火傷しています。それも千姫に恋してしまった彼にとっては心中を複雑にする原因なのです。惚れなければ、これこそ誉の傷と本来の武骨の坂崎でいれたのです。さらに、家臣の松川源六郎も片目を失うほどの活躍をしていますので、ちゃらちゃら出てくる忠刻が気に入りません。源六郎は、坂崎の中にあるもう一人の坂崎を表出している人物でもあります。忠刻は家康の孫娘の護送の役目を果たそうとのおもいだけで他意はないのでしょうが、千姫は忠刻に心慰めてられていきます。

千姫からみると、坂崎を避けるのは、あの大阪城のことを思い出すのがいやなのかもしれませんし、坂崎に嫁ぐことを知っているならば、祖父によって勝手に嫁ぎ先を決められる理不尽さへの怒りが坂崎を避ける理由かもしれません。そのあたりを想像できるのが、大正時代に入ってから個人の内面を加味して書かれた戯曲の面白さでもあります。

忠刻に対抗し、魚釣りで千姫を慰めようと坂崎は提案します。それを、それとなく止める家老の三宅惣兵衛は、坂崎の性格をよくわかっています。源六郎が坂崎の中にもあることを知っています。ただ源六郎と違うのは、魚釣りでも、白鳥を射る競争でも、忠刻に対する嫉妬から突き進んでしまったことを自分の浅はかさとして感じるところです。自信のある弓においても負けてしまう自分。

坂崎は千姫に対する想いから再三、家康に結婚の催促にいきます。千姫は家康に、坂崎の嫌いなところをはっきりと告げ、嫁ぐなら忠刻のところと言います。今度は、祖父家康の思い通りにはならないと自分を主張します。家康は何んとか坂崎に千姫をあきらめさせようと、金地院崇伝(こんちいんすうでん)にその役目を申しわたします。崇伝に自分の心の内をさらけ出す坂崎。崇伝は姫は髪を下すので結婚できないと伝えます。一時遁れです。それが姫の幸せであるならと坂崎もあきらめます。

ところが家康が亡くなり千姫は忠刻と結婚しその輿入れの行列が坂崎邸の前を通るのです。坂崎は自分をおさえます。源六郎が現れます。もう一人の自分がいます。しかし、坂崎は自分は城主であることを心得ています。それなのに押さえに押さえていた正直な自分が、爆発してしまうのです。

登場人物もよく計算されていて、坂崎を追い込む過程が巧妙です。思っていたよりも長い作品でした。そこを緊迫感をもたせ長台詞もあきさせずに松緑さんは、坂崎の複雑な心情を出されました。武骨な男が、結ばれるなどとは思っていなかった千姫に惚れてしまい、どう対処していいかわからない状況。火傷した醜い自分。約束はあっても、恋敵になりそうな忠刻の存在。のらりくらいの家康側に体よく扱われる自分。ここで黙っていては、意気地のない男とさげすまされるであろうが、家臣のことを思うと我慢しかない。

その場その場の坂崎の心の内を、声の抑揚、強弱、緩慢とあらゆる方法を組み立てられての聞かせどころしどころでした。古典歌舞伎から踏み込んだ新歌舞伎の心理描写を付加して、坂崎の苦悩をしっかり受け留めることができました。時代物の所作の出来ている心理劇、余計な動きの目障りさを意識しないでどっぷり味わわせてもらいました。

芝居は何でもそうなのですが、新歌舞伎はさらに近代人の見方が加わりますから、役者さんのセリフが大きなポイントになります。そしてそれを表す設定場所です。『坂崎出羽守』の船の上というのはこの芝居の成功の一因だと思います。山本有三さんの創作力です。

この芝居に対する思い入れが深くなったのは、名古屋での参加イベントが台風のため中止になったのが、宮から桑名への七里の渡しを船で渡る催しだったので、舞台を観ていて上手い設定だと入れ込みましたし、役者さんたちもその気持ちに応えてくれましたのでこういうときは予想以上の楽しさですし、こちらは、惣兵衛の気持ちで参加してしまいました。あせるな!あせるな!あせると実力が出ないぞ!

<山本有三生誕130年> 作・山本有三/演出・二世尾上松緑/出演・坂崎出羽守(松緑)、家康(梅玉)、千姫(梅枝)、忠刻(坂東亀蔵)、源六郎(歌昇)、惣兵衛(橘太郎)、崇伝(左團次)、萬次郎、権十郎、橘三郎、松江、男寅、竹松、玉太郎

 

映画『岳 ーガクー』・テレビドラマ『學』

山岳映画の一つに『岳 ーガクー』(2011年)があるのを知りました。原作は石塚真一さんの漫画『岳 みんなの山』ということで、原作を読んでいないのですが、映画に出てくる主人公・島崎三歩がいつもニコニコしていて、救助した遭難者に「また山にきてよね」と声をかける様子から<みんなの山>となるのかなとおもいましたが、映画のほうは、一人の女性遭難救助隊員の成長とそれを助ける三歩とのからみ、そして遭難救助隊の仕事の在り方などを映像化しています。

観ていておもったのは、映画『劔岳 点の記』は明治時代でしたから、山に登るための装着の違いです。そのため山に登る技術も相当進歩しているのですが、その分山に対する生身の感覚が甘くなっているのではないかということです。ヘリも飛ぶし遭難救助隊の技術と使命感はしっかりしていても、自然の驚異に対しては、二次災害を起こさないの鉄則があります。<みんなの山>はどこまでなのかは山を登る人の意識が大切だとおもいます。

ニコニコの三歩(小栗旬)にも、無二の親友を山で失った体験があります。山岳遭難救助隊に勤務する父を山で亡くした椎名久美(長澤まさみ)は、自分も長野県警山岳遭難救助隊に入隊します。そこで、山岳救助ボランティアの三歩に出会うのです。

三歩はフリーの時間に久美に山のことを教えます。その時、山に捨ててはいけないものの一つを久美に宿題にし、久美が経験していくなかでそれは<命>と教えます。この言葉に久美は遭難救助隊の役割を意識し頑張るのですが、自分が遭難し救助ヘリの牧(渡部篤郎)に「アマ!」と言われたり、隊長の野田(佐々木蔵之介)の命令を聴かず、結果的に三歩に助けられたりします。

野田隊長は山が爆弾(雪崩)の起きる状態のため、遭難者を救助中の久美がいることを知りつち救助を中止します。三歩は散歩してきますと山に向かい、雪崩に遭い、久美は遭難者とともにクレパスに落下してしまいます。久美の父はクレパスで亡くなっているのです。雪崩から這い出した三歩は久美たちを探しあて、天候も変わり<命>は捨てずにすみました。

映画の内容としては、少し甘いとおもいますが、三歩が、かつて救った遭難者と山で再会し「感動した!」と抱きつくのが、「みんなの山」としての三歩の山に対する愛が表現されているのでしょう。次の展開が観ていてわかってしまうのも、物足りなさを感じさせられます。リュックからもの一つ出してもそれは命につながる道具成り装置なのでしょうから、そういう出し方なども工夫して映して欲しかったです。実写の場合、漫画よりもリアルさを出せる技術があるわけですから。

夢の中ででも、三歩が山に囲まれ満喫しつつ「あっち!」と飲むコーヒーの空間は体験してみたいですね。実際には登れない高さですから。

監督・片山修/原作・石塚真一/脚本・吉田智子/撮影・藤石修/音楽・佐藤真紀/出演・小栗旬、長澤まさみ、佐々木蔵之介、渡邊篤郎、石毛良枝、宇梶剛士、ベンガル、石黒 賢、石田卓也 矢柴俊博、やべきょうすけ、浜田 学、鈴之助、尾上寛之、波岡一喜、森 廉、ベンガル

 

』。こちらは同じ<ガク>の音ですが、カナダのローキー山脈の中を14歳の少年がサバイバルで生き抜き、里にたどり着く話しです。飛行機が墜落したのではありません。祖父の命をかけての、少年の生きる力をよみがえらせる想いだったのです。

WOWOW開局20周年記念番組(2011年)で、倉本聰さんの脚本によるテレビドラマです。倉本聰さんが、1992年に執筆したのですが映像化されなかった作品です。おそらくロケのことなどが障害としてあったのでしょう。ただ作品は今でもリアルにうったえるテーマです。

飛行機の中でイヤホーンをして指を動かす少年が、隣の老人から「學、シートベルトを締めなさい。」のセリフから始まります。少年は風間學(高杉真宙)。老人は學の祖父・風間信一(仲代達矢)です。

信一は元南極越冬隊員で、カナダに住むその時代の友人・モスを訪ね、そこからヘリでロッキー山脈に降ろしてもらい、一週間後に迎へに来てくれることを約束します。二人だけになった學と信一。信一はここから歩いて帰るとどんどん進んでいきます。學は一切言葉を発しません。

學は父親が商社マンで両親はニューヨークに住んでおり、ひとり東京で生活していました。ある日、知り合いの家の女の子(4歳・ユカ)なのでしょう、椅子に乗っかり机に上にある學のパソコンをいじっているのです。「何をしてるんだ!」と女の子を突き飛ばす學。學にとってインターネットは一番大切なものなのです。女の子は飛ばされ打ちどころが悪く亡くなってしまいます。パソコンはデーターが全て消えたことを表示します。そのことしか頭にない學は、女の子を段ボールに詰めゴミ捨て場に運びます。それが発覚し、両親は世間の非難から逃れるように自殺してしまい、學は北海道に住む祖父母に引き取られます。祖父にも祖母・かや(八千草薫)に対しても一言も言葉を発しません。

ロッキー山脈で祖父は自分の命を絶ち、一人で生きて里までたどり着けと手紙を残します。祖父は學に北海道の大雪山で、一年間自然の中で生きる方法を教えていました。少年は何も聞いていなかったのでしょうが、祖父はどこかにその体験が残っていることを信じ、自分が癌のため長く生きられないことを承知しての実行でした。

右往左往する少年。初めて発する声。少しずつ祖父の言葉を手繰り寄せていきます。先ず自分のいる位置を確認しろ。火のおこし、蛇を捕まえて焼いたり、木の皮やツルで紐を作ったり、罠を作り鹿を捕まえ「お前が憎いのではない」と殺し、それを解体し保存したりします。出しては読む祖父が祖母に書いた手紙。「學を頼って生きろ。」

信一からの手紙を受け取ったモスは捜索を頼みます。祖父の亡くなった場所には十字架が立っていましたが、探しあてることが出来ず捜索中止となります。

大きなグリズリーとの遭遇。力尽きた學の前に現れる亡き祖父。「まだナイフがあるじゃないか。川に乗れ。」ユカも一緒に現れて「頑張ってお兄ちゃん。」ユカはその前にも現れていて自分のお墓に遊びに来てと伝えていました。

學は祖父に「ユカちゃんの家族に謝って罰を受けたい。」とも伝えます。學は筏を作り川を下っていきます。筏が壊れればまた作り、そしてモスの待つところまで到達するのでした。モスには手紙をもらったとき、信一のすることが理解できませんでした。ただ學がここへくることを信じるだけでした。モスにも、過去にベトナム戦争で友人を誤って殺してしまい、その妹・マギーと結婚し、許しをこうというよりマギーを愛するという力を得ていたのです。

信一は、そうした友人であるからこそ、學の生きる力を得たあとにモスのもとにたどり着くことを願ったのです。學は、祖父から祖母への手紙をモスに差し出します。ぬれて乾かしたり、火を起こす時燃やそうとして代わりにお札を燃やして守って来た手紙でした。

生きていくことに必要なものは何なのかをテーマにし、壮大な自然を前に生きていく少年の姿を通して問いかけています。人間以外の多くの生き物が人間が生きるために命をさしだしてくれています。その命を受けながら、人間が人間の命を奪うというのは何なのか。何かが欠落しているのではないか。どこかの感情が壊されているのではないか。その感情が壊されてしまう状況がどこにでも存在しているのが感じられる現代です。

悠久の宇宙のなかで小さな自分の立っている位置を確かめる必要性を感じさせられるドラマでした。世の中動いてますからたえず自分の位置を確かめないと流されて終わってしまいそうです。などとおもいつつ大根の葉刻んで炒めています。関係があるのか無いのかそれが問題だ。

監督・雨宮望/原作・脚本・倉本聰/出演・仲代達矢、八千草薫、高杉真宙、勝村政信、松崎謙二、山本雅子

 

 

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇二、三回目

観劇一回目の時は、猿之助さん休演で代役の尾上右近さん始め皆さんが今までの力を見せつけてくれ愉しませてくれましたが、さて、二回目はいかにです。一カ月ぶりですからどんな感想を呼び覚ましてくれるのでしょうか。

パンフレットの中で、脚本・演出の横内謙介さんが「伝統芸能たる歌舞伎で、現代人を感心させるのではなく、感動させるのだ。」と書かれていて、これは、先代猿之助(現猿翁)さんからの叩き込まれたストーリーに関わる教えです。横内さんは、漫画『ワンピース』を読んで、自分が一番泣けたところを軸に構成を考えたのだそうです。(パンフ買う予定ではなかったのですが、マチネ料金で返金がありましたので購入)

一回目の観劇と二回目の観劇で大きく違ったのは、胸にグッとせまる場面が多くあったことです。おそらく、役者さん達は、この組み合わせでいくのだと腹を据え、自分の役の人物像を再構築して、対する相手の人物像とどう対峙していくかを模索しつつ進まれたのだとおもいます。

白ひげとスクアードとの場面、白ひげとエースら子供たちとの場面、ルフィとエースとの別れの場面、そしてルフィを立ち直らせるジンベエとの場面が大きくかぶさってくるのです。パンフレットは、二回目観劇のあとで読みましたので横内謙介さんの手の内にはまったかと思いました。そして、そこへ、行き着く過程を役者さんたちも通過したのだということを感じました。

ルフィの尾上右近さんも、ルフィの人物像、性格、成長をしっかり仲間と作り上げていました。動きもよく、これが右近ルフィだなと思わせてくれます。ハンコックも、美人である自分を誇示してルフィとの出会いから変化していき、最後は自分の背中の刻印に左右されぬ高貴さへと高めました。あの首のそりが笑わせてくれますが、漫画でもその設定なのが歌舞伎の型とつながりアニメあなどれずです。

エースが仲間の止めるのものも聴かず、サカズキの罠にはまっていくあたりは、エースの性格をよくあらわしています。そこが、ルフィがエースを慕うところでもあります。ロジャーの子として苦悩する自分をみつめてくれた白ひげへの想いが冷静さを越える感情として爆発するのです。

海軍はスクアードのロジャーへの憎しみを上手く操り、白ひげに刃向かわせ、全てを見通しての父としての白ひげの想いもはっきりでました。

海軍はセンゴクを筆頭に、エースにしろ、スクアードにしろその性格を見抜いていて狡猾です。

ジンベエは漁人族で海軍に囚われていますが、エースを助けにくるルフィという人間のガキに興味を持ち、ルフィを立ち直らせます。ルフィを助けてくれるのは、海軍が人間世界からはみ出させた者たちなのです。

麦わら一味白ひげ海賊団海軍女ヶ島アマゾン・リリーニューカマ―ランド漁人族天竜人赤髪海賊団。舞台上での関係は把握できました。覚えきれませんが、それぞれに、不思議な力を供えているのです。ルフィがゴム人間で手が伸びたりするように、それぞれが戦いの場面でもその力は強調されます。

クザンの吹雪を起こす力。(見せ場です) ルフィが氷つき、それをエースの炎が溶かすのです。この能力は、その能力を発揮する実があり、それを食べると備わることができ、その実の一つが最初の奴隷市場でも売られています。最初はこの意味がわかりませんでしたが、も重要な意味があったのです。

エースとサカズキのマグマの炎と炎の対決。(見せ場です) 指揮をとる赤い大きな旗と小さな旗。踊り狂う炎とマグマ。またこの場面進化していました。旗の間で飛び回っていた人たちが、前面であるいは対角線状で飛び回ります。最後のカーテンコール最初出られる赤い衣裳の6人がそのかたたちだと思います。

本水もやはり見せてくれます。こちらでの看守は、カーテンコールの赤い衣裳の6人の両脇8人のかたとおもいます。ブラボーと叫びたいほどの活躍です。

この本水の大うけの後でのボン・クレーでの花道、きついですが、いえいえ見事に引きつけます。「大当たり!」と大向うがかかりましたが、駄目なおかまが花道を制覇するとは、ワンピース歌舞伎ならではの快挙です。

ルフィの宙乗りも、10月とは違う満面の笑顔で、ここまできた一カ月の時間をおもい起こさせてくれます。

観劇三回めは、高校生に囲まれての観劇となりました。こういう状況はどう楽しもうか。埼玉の高校だそうで、お行儀のよい生徒さんで、「面白いからしっかり手を叩いてね。」と声をかけました。始まってしばらくすると、「はっちゃんか。」の声が聞こえます。普段なら「静かにしてください。」というところですが、耳をそばだてます。漫画を読んでいるのでしょう。「監獄所長の」で「マゼラン!」と即聞こえます。若い子のワンピース大向うが成立しそうです。「あれは?」ピサロはちょっとわからないようで、「あれがイナズマか。」三幕目あたりからは、芝居に引き込まれたらしく話し声がありませんでした。

ファーファータイムでは、後ろの高校生に、「立ちますので、見えなかったら立ってね。」と伝えました。後でおもったのですが、もしかすると、観劇中は立ったりしないようにと指導されていたかもしれませんね。宙乗りは見えていたと思いますがごめんねです。終わったあとは、スーパータンバリンをあげました。「もう出番はないけどね。」いえいえ太っ腹ではなく細っ腹です。隣の初演をみたというご婦人と、ここから若い人が歌舞伎に興味を持ってくれるといいですニョンと。(ニョンはご愛嬌ニョン!)

休憩時間、スマホで「これがジンベエだ。」と数人で検索しつつ覗いているので、家で検索しました。一気に漫画の登場人物がでないかと<ワンピース>で大まかに検索していたのですが膨大すぎてやめていたのです。そうか一人一人で狙い撃ちがいいのだと検索しました。

顔だけでなく全身の絵もあり、役者さんが衣装や顔の作りにそれぞれの工夫をしているのと比較でき、キャラもわかり一層面白さを増してくれました。若さの実の試食のお陰でしょうか。

ウソップの衣裳に赤い鹿の子があり、囚人のボーネスの頭には太い鉢巻が歌舞伎的要素を取り込んでいます。その他沢山あります。

一幕の休憩から「面白い。」の声が聞こえていましたが、おばさんはおばさんの実を食べなくてもおばさんですから、「面白くなるのはこれからだから楽しんでね。」「ありがとうございます。」と素直な返事。アマゾン・リリーの微妙な女の子たちよりやはり可愛いい女子校生でした。

一回目のとき、アマゾン・リリーで、スーちゃんのカツラが取れてしまうのですが、イワンコフがルフィを見て「あっ!笑ってる。」といったのです。これはスーちゃんのアクシデントで、イワンコフがルフィの気持ちをほぐすためだったのかなとおもいましたが、今回もかつら事件はありましたから最初からあったのでしょう。かつら事件もう一件あります。

人形のチョッパーの名前も映像にきちんとありました。花道のチョッパーも小さいながら存在感たっぷりで愛らしいです。

序章の声も勘九郎さん、七之助さんきちんととらえられました。勘九郎さんは、かなり感情を込められた語りとなっていました。

あれもこれもと浮かびます。若い人たちの感想ももっと聞きたかったのですが、この後は、若い人たちの感覚で盛り上がってくれることを想像して静かにします。

(サンジに過酷な過去があるらしい。好奇心の実より)

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇一回目