映画『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』

池袋の「新文芸坐」で、三船敏郎、勝新太郎、中村錦之助の映画の特集をやっています。驚きましたことに、このビッグな俳優さんたちは、1997年の同じ年に亡くなられたのですね。そして没後20年ということです。

今回のなかで一番見たかったのが、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(1952年・東宝)です。3月の国立劇場での歌舞伎『伊賀越道中双六』と関係してもいて、実際に<鍵屋の辻>に行ってもいたのでそこが映像でどう映るのか楽しみでした。                伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

東京国立近代美術館フイルムセンター収蔵作品で、フイルムセンターで上映の際、見逃してしまったのですが、今回借りられたようで感謝です。

監督が森一生さんで、脚本が黒澤明さんです。最初、荒木又右衛門の三船敏郎さんが、額のハチマキに投剣を数本差し、勇ましく闘っているのですが、ナレーターが入り、講談では36人斬ったというが実際に斬ったのは二人で、二人斬るということがどんなに大変なことであるかというようなことを言われ、ここでは講談ではなく史実に基ずいた話しを描くということなのです。講談調の娯楽時代劇映画と思っていたのが大逆転に大歓迎でした。

さらに、<鍵屋の辻>が、映画を撮影した時の風景が映され、説明が入り、仇討の時代に合わせてのセット組み立ての風景となり、私が見た2015年から1952年さらに仇討のあった嘉永11年(1634年)へと、<鍵屋の辻>がどんどんタイムスリップしていってくれ、お城の石垣がそばにあり、橋がありと嬉しくなりました。実際にその場に立ってみても、想像では補えない風景でした。映画用のセットだとしても一応当時の様子として全面的に受け入れます。

渡邊数馬(片山明彦)の弟が河合又五郎(千秋実)に殺されたとして、数馬、荒木又右衛門(三船敏郎)、川合武右衛門(小川虎之助)、森孫右衛門六助(加東大介)が仇をとるのです。

河合又五郎のほうには、叔父・河合甚左衛門(志村喬)がいて、荒木又右衛門とは朋友の仲なのですが、話しが前後して二人の別れの場面もでてきます。寛永11年11月7日からさかのぼって5年前から仇討ちの日まで、行きつもどりつの話しのすすめかたもこの映画のみどころのポイントでもあります。

鍵屋で仇を待つ間、それぞれが今までの5年間を思い出すのです。六助は一行の到着を知らせるため橋のたもとで待ちます。川の流れが映り彼もまた思い出しています。老齢の父から父の名前の孫右衛門をもらった日のことを。

又五郎側には槍の名人・櫻井半兵衛(徳大寺伸)がいます。その半兵衛の顔を見知るため、道中の茶屋で教えてもらいここを通ると言われ確かめます。数年後ここの茶屋に再び寄り、亭主から半兵衛の行先を聞き付けます。江戸に二回行き、行先がわからず、また江戸に向かうしかないのかというような時です。いかに仇の相手の居所をつきとめるのが大変かがよくわかります。

相手は隠れ逃げているわけで、又五郎は旗本の家中にいます。この仇討は旗本と外様をかけての果し合いでもあったのです。仇討の討つものと討たれるものの制度的な虚しさも伝わってきます。それを感じさせながらも、行きつもどりつして、今に至っているという臨場感や登場人物の心の内を上手く出していきます。

六助は一行の姿をみて動転しながらもゆっくり鍵屋に報せにもどります。しかし、橋の向こうで一行は止るのです。数えていませんが、史実では相手は11人です。問題は、川合甚左衛門と槍の名人・櫻井半兵衛です。

甚左衛門は又五郎が斬り、半兵衛に槍を持たせないように槍持ちを六助と武右衛門が阻止して、数馬は又五郎を討つという手はずです。ところが、ここにきて一行が待ち伏せに気がついたのか止ったのです。カメラは又五郎側に移ります。甚左衛門が、寒さのため着るものを重ねたのです。「こんなに着込むと、いざという時に動きがとれないであろう。」と甚左衛門はいいます。待ち伏せに気がついていません。

身を守るため、鎖帷子(くさりかたびら)を着ていますが、これが寒いといっそう体を冷やすのです。なるほどとおもいました。そして、又五郎も頭にかぶっていた鉄かぶとを取ってしまうのです。先導の馬上の人物が先に偵察をして大丈夫と手をふります。

ここから仇討が始まるのです。ここまで又右衛門の三船敏郎さんが力強く冷静に判断して3人を引っ張ていきます。このあたりが三船さんらしい役どころです。三船さんは予定どおり朋友の志村さんを斬り、加藤さんと小川さんは、槍を徳大寺さんに持たせることはありませんでしたが、小川さんは斬られてなくなってしまい、徳大寺さんは三船さんに斬られます。

一対一の片山さんと千秋さん。これが、どちらも剣に強いとはいえず勝負に時間がかかります。それだけ人を斬るという行為は簡単なことではないのです。簡単であってはこまる行為です。しかし見ていると片山さんにイライラしてきます。何をやっているのと。仇討ちを見ている人々もそうだったのでしょう。こういう心理って怖いですね。

黒澤さんはこのへんの心理も判っていたとおもいます。映画のチラシに「リアルな立ち廻りを狙った作劇は、黒澤が自身の時代劇を探っていたのではないかと森は推察する。」とあります。時間差の押し戻し、仇討ちの緊迫感、心理情況など森一生監督の腕も素晴らしいとおもいます。変化球がきちんと捕手のグローブ、観客に納まった映画でした。

国立劇場『復曲素浄瑠璃試演会』

国立劇場あぜくら会の会員を対象にした「あぜくらかいの集い」での催しものがありました。

途絶えていた曲の復活で、滝沢馬琴さんの『南総里見八犬伝』をもとにした『花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつふさ』のうち「行女塚(たびめつか)の段」「伴作住家(ばんさくすみか)の段」の復曲をめざし、今回はその試演会ということですが、すでに、大阪・国立文楽劇場で試演ずみです。さらに「芳流閣の段」は、3月22日、大阪・国立文楽劇場で試演会があるようです。

この催しは、大阪でも友の会の会員対象で、今回の東京のあぜくら会は抽選で、当選して聴くことができました。『南総里見八犬伝』は歌舞伎では、国立劇場でも上演され、澤瀉屋一門のスーパー歌舞伎でもあるのですが、文楽では途絶えていたわけです。

床本は残っていて、深川の名コンビ、竹本千歳太夫さんと野澤錦糸さんが中心になって復曲に尽力されたのです。 素浄瑠璃の会 『浄瑠璃解体新書』

はじめ児玉竜一さんの解説があり、床本の資料は渡されていたのですが資料は読まないで、実際に聴いて内容の変化を楽しんでくださいと言われました。犬がでてくるが猫の役割にも注目とのことです。猫のところでの語りが、ある作品と似ているのでどの作品か当ててくださいともいわれ、浄瑠璃の後の座談会で回答を披露されました。回答は来月の歌舞伎『伊賀越道中双六』の岡崎でのお谷のなげきのところだそうですが、全くとらえられず、残念ながら、猫に小判でした。

場所は大塚村で、今の東京の大塚でのはなしで、犬塚信乃と浜路はロミオとジュリエットのような関係で、浜路は、信乃の父親・伴作の異母姉の亀笹と夫・大塚蟇六の養女で、両家は反目しています。さらに里見の重宝村雨丸もでてきますし、信乃は刀をみると震えあがってしまうという病ですが、その病もなおります。どうして治ったかというのも聴きどころです。

亀笹の可愛がっていた猫が、伴作が飼っている与四郎犬にかみ殺されてしまいます。これは何か起こりそうです。

「行女塚の段」は豊竹靖太夫さんと野澤錦糸さん、「伴作住家の段」は、豊竹亘太夫さんと豊澤龍爾さん、竹本千歳太夫さんと豊澤富助さんです。

流れに変化があり、伴作は、自分の腹を切るのです。そこからが長く、座談会でも(竹本千歳太夫、野澤錦糸、豊澤富助/司会・児玉竜一)、切腹するとそこから20分位ですが、ここでは40分はあり、これを語る太夫さんも力量がいるわけです。千歳太夫さん、座談会では力を使い果たしたという感じでした。

試演会ではなく、有料の会として聴く人の数を増やして欲しいですし、さらに人形がつく本公演として上演されることを期待したいです。なじみやすい『南総里見八犬伝』が、浄瑠璃でこんなにも因果関係が重層している作品となっているのかと新鮮でした。

座談会では、頭(かしら)はどうなるかというような話しもでてきまして、復曲は若い演者さん達の基礎能力が試される機会になり、さらに修練の場ともなるという話しもありました。録音で聴いて練習するのではなく、床本に全て書かれているのだから、本を読む基礎がなければだめだという事でした。

お話しを聞いていますと課題はたくさんありそうですが、すでに本があって、試演で評判がよいのですから、上演にむけてさらなる活動を進めていただきたいものです。その前に「芳流閣の段」、大阪の後、東京でもあることでしょう。

<芳流閣>の屋根の上では、犬塚信乃と犬飼現八がお互いのつながりを知らず一戦まじえます。<芳流閣>は滸我御所(古河御所)にあるとする架空の建物ですが、茨城県古河市の古河総合公園には、古河館跡があり、同じ場所に鎌倉円覚寺の末寺の徳源院跡があり、そこに古河公方足利義氏の墓所もあります。

この古河総合公園の「古河桃まつり」は緑や池を背景に白、ピンク、薄紅いの桃の花が見事でして、梅や桜とは違う可憐な明るさのある彩を楽しませてくれます。

 

『四谷怪談』関連映画 (3)

加藤泰監督の『怪談 お岩の亡霊』(1961年・昭和36年)は伊右衛門が、若山富三郎さんなのですが、浪人ということもあって髭ものびています。お梅と結婚するときも、鼻の下に髭があり、あの声ですのでどうも極道の伊右衛門さんという感じです。

監督・脚本・加藤泰/撮影・古谷伸/出演・民谷伊右衛門(若山富三郎)、お岩(藤代佳子)、佐藤与茂七(沢村訥升・九代目澤村宗十郎)、小平(伏見扇太郎)、伊勢屋喜兵衛(沢村宗之助)、お袖(桜町弘子)、お梅(三原有美子)、直助(近衛十四郎)

筋としては、正統派ですが、伊藤家は伊勢屋という商家で、伊右衛門の隣に引っ越してきます。伊右衛門と直助は、舅と与茂七の仇を討つとしますが、生きている与茂七は他家の武士で主人について江戸から離れています。

小平は、伊勢屋からお岩が受け取った血の道の薬を、病気の母親のために盗み、伊右衛門に殺されてしまいます。

<お岩の亡霊>とあるだけに、お岩さんの亡霊の登場が多いです。お寺で百万遍を唱えるところは、歌舞伎でも色々工夫して亡霊があらわれます。豊田四郎監督の『四谷怪談』でも、伊右衛門の幻覚にお岩と幸せそうな二人が出てきますが、こちらは、伊右衛門とお岩が踊る場面がでてきます。

与茂七が江戸にもどり、お岩が伊右衛門に殺されたことを告げる直助は、与茂七とお袖の仇討ちの助太刀をします。雪の場面で、与茂七は武士ですから、お袖と二人、白の着物で武士の仇討の衣装です。助太刀をした直助は、伊右衛門に殺されてしまいますが、「直助、ついていないね。」と言って死ぬあたりが近衛十四郎さんの直助らしいところです。

お袖と与茂七に討たれる伊右衛門は「首が飛んでもうごいてみせらあ。」の台詞ありです。

加藤泰監督は、忍術映画も撮られていたのですね。萩原遼監督との共作ですが、『伝奇大忍術映画 忍術児雷也』『伝奇大忍術映画 逆襲大蛇丸』(1955年昭和30年)がありました。

四代目中村雀右衛門さんが大谷友右衛門時代で、児雷也・尾形周馬役でガマに変身し、おろち丸の田崎潤さんが大蛇に変身、周馬側の綱手姫の利根はる恵さんがナメクジに変身するという忍術映画です。映画俳優としては友右衛門さんは繊細すぎるかもしれません。苦労されましたが、歌舞伎界にもどって正解だったとおもいます。この作品には、若山富三郎さんも出られていて、若山さんと加藤監督とは長いお付き合いなのです。

今の映像からすると技術的に劣って見えますが、全て手づくりできっとそれらしく見えるためにはどうすればよいかと一生懸命だったのだろうとおもえてきます。

『四谷怪談 お岩の亡霊』の森一生監督なども、『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』を撮られていて、撮影はなんと宮川一夫さんです。子供用とはあなどれない工夫をされています。

古い映画を見ていると驚かされることが沢山でてきます。映画人の職人としての心意気が伝わってきます。限られた中でどう自分たちの技術を使って面白いものにしていくかという意気込みです。

ただ聞いてみたいこともあります。どうして若山富三郎さんの伊右衛門は、髭をのこしたのかなあと。何か意味があったのでしょうか。

加藤泰監督の評判の長谷川伸原作の『瞼の母』は、『怪談 お岩の亡霊』の次の年、1962年(昭和37年)の作品です。評判どおり萬屋錦之助さんの華を生かして秀逸です。加藤泰監督の女優陣の衣装と着物の着せ方が美しいのです。

母親の小暮実千代さんが粋で綺麗で、錦之助さんの忠太郎が、自分の母親がこんないい女でどきどきして、それでいて自慢したいような嬉しさが湧き出ているのがわかります。それだけに、母親の拒絶から自分の中でおこったこの嬉しさに腹立たしくなったもう一人の忠太郎がみえてきます。

通過して通過して、手に入れていくのでしょう。

 

『四谷怪談』関連映画 (2)

『四谷怪談』関連映画 (1)  昨年の6月からかなり時間があいてしまいましたが、十七代目中村勘三郎さんの直助権兵衛とお会いできたのです。

1965年(昭和40年)豊田四郎監督の『四谷怪談』です。伊右衛門が仲代達矢さんで、勘三郎(十七代目)さんの直助との生き方の違いをテーマの中に入れていて嬉しい共演でした。

勘三郎さんの映画は『赤い陣羽織』『笛吹川』でも見ていますが、この『四谷怪談』は世話物の動きの真骨頂といえるとおもいます。死に方が歌舞伎役者を捨て映画俳優としての直助らしい手を抜かずの演技で、見れて良かったと少し興奮しました。『四谷怪談』映画関連の中でこの映画は相当ひいき目で見てしまっているかもしれません。

監督・豊田四郎/脚本・八住利雄/原作・鶴屋南北/撮影・村田博/音楽・武満徹/出演・民谷伊右衛門(仲代達矢)、お岩(岡田茉莉子)、宅悦(三島雅夫)、伊藤喜兵衛(小沢栄太郎)、四谷左門(永田靖)、佐藤与茂七(平幹二朗)、小仏小平(矢野宣)、おそで(池内淳子)、お梅(大空真弓)、おまき(淡路恵子)、直助権兵衛(十七代目中村勘三郎)

伊右衛門が刀を売る場面から始まり、刀が武士の魂ですが、伊右衛門の場合刀でこの世に仕返しをするとして刀を売るのをやめます。舅の四谷左門とて苦しい暮らし向きから娘のおそでは身を売る商売をしていて、姉のお岩も妹と同じく身を売ろうとします。ことのおこりは、仕える主君が気が触れたためお家断絶、家臣は放り出されたわけで、このあたりは忠臣蔵の裏からの見方というような視線が感じられます。

伊右衛門はお家断絶の際、お家の御用金を着服し、その事実を知っている四谷左門を切り捨てます。伊右衛門は浪人になったのは自分のせいではないのだ。主君のせいである。見ていろ何時かは世の中を見返してやるという野心のみが彼を支えていくのです。

直助は同じお家の中間でした。身分の違うおそでが、同じような身となり、おそでの体のみが直助ののぞみです。ところが、おそでの許嫁の与茂七に邪魔され思いがかなえられず与茂七を殺してしまいます。直助は自分のおもいをおそでに賭けていてそれを貫こうとしており、そこが伊右衛門の生き方との違いです。怪談ものですが、すべて伊右衛門の野心から事がおこり、そこに欲得のある人間が伊右衛門にからんでいきお岩の悲劇となりますが、お岩は死んでも伊右衛門の生き方に物申すという女性で、怨めしやというより、あくまで伊右衛門の生き方に対峙します。

直助は、自分のおもいを遂げるためには与茂七は邪魔です。与茂七を殺して顔の皮をはがした死体を四谷左門宅に運び、左門の死体とともにお岩とおそでには両者の仇をとることを告げ、おそでは直助と仮の夫婦となり、伊右衛門とお岩はもとのさやにおさまります。

伊右衛門の野心がくすぶりつづけるなか、10万石の御大家の重役である伊藤喜兵衛の娘のお梅が伊右衛門に惚れ、伊右衛門と一緒になるため自分から顔のくずれる薬をお岩に呑ませることをすすめるのです。このお梅は人任せにはしないのです。お梅に仕えるおまきもくせがありそうで、そうした欲を人物描写の中に映し出して撮っています。

直助はおそでに拒まれると悪態をつきつつもおそでのいうとおりにします。直助のおそでに対する純情さが不思議なところですが、惚れた女をものにする楽しみが直助の全てで、恋敵の与茂七もいないことです、自分になびくとの自信もあるのでしょう。

伊右衛門が仕官の道がひらいてきてお岩にたいする酷い仕打ちも意に解さず、直助の状況をたかが女ひとりのためにとばかにしますが、直助は俺には俺の生き方だよとばかりに、本当に女に惚れたことがあるのかとばかりに伊右衛門にふんといった感じであしらいます。ここらあたりになると、伊右衛門と直助の身分差はなく、ひとりの男と男の生きかたの違いとうつります。生き方といっても、悪にまみれた生き方ですが。

伊右衛門はお岩に自らの手で薬をお岩に渡し、自分の仕官の邪魔として自らの手で殺してしまいます。さらに小平も殺し、戸板にふたりを打ち付けて流します。お岩を殺したのが伊右衛門であると宅悦から聞き出したおそでは直助に、仇をとってくれと頼みます。承諾した直助に体を許した夜、与茂七があらわれ、死んだと思っていた与茂七にすがるおそでを見て、直助はおそでを殺します。直助は与茂七に殺されますが「喜んで死んでやる。この気持ちは伊右衛門にはわからねえだろう」とつぶやいて死にます。

伊右衛門はお岩と小平の亡霊に憑りつかれ、お梅と喜兵衛を殺してしまいます。お梅の乳母のおまきが、喜兵衛が残した伊右衛門の主君に対する推挙状を見つけ、伊右衛門に渡し夫婦同然となり、お寺で百万遍を唱えてもらい伊右衛門を幻覚から救おうとしますが、何匹ものねずみが出て来て、推挙状を喰いちぎる幻覚を見ておまきをも殺します。寺の外にはお岩の亡霊が立っていて「そんなことでは幸せにはなれません。」と告げて消えていきます。

伊右衛門は生きるために甲斐あるを見るまでは負けはしないと「負けやしない。首が飛んでも動いてみせるわ。」と言いつつ、自分の折れて飛んだ刀に我が身が倒れて死んでしまいます。最後は、売らなかった自分の刀で死ぬこととなり、人を斬った刀は自分の方をむいていたわけです。

仲代さんよく踏み留まりました。あぶないあぶない。勘三郎さんにもっていかれるところでした。上手いんです。長年鍛えて来た修練の極みです。台詞のリズム感。後を追う足取り。ウナギを捕るときのしぐさ。身に備わった動きに狂いがありません。豊田監督は勘三郎さんの直助としての身のこなしを見逃しませんでした。

それに対する仲代さんも武士の腰づかいで動き、刀を帯に差す時、シュルッという帯と刀の摺れる音をさせたり、刀さばきで刀と伊右衛門の関係をはっきりさせます。

役者さんそれぞれが、自分の欲のほどを表し、お岩とおそではひたすら仇討ということに身の潔白を頼みとします。

カラーで美しい場面もありますが、セット、美術の細部までを映像に写しだします。伊右衛門の家の屋根には引き窓がありました。庭に鶏がいて動かないので置物かなと思いましたら突然動いたりして、鶏も役者の台詞に合わせて演技させられていました。話しの流れはスムーズで飽きさせず、怪談映画でありながらそこに頼らず、かといってしっかり怪談映画であり、顔が崩れても、欲があっても女優陣は美しく、見どころ満載でした。

 

歌舞伎座 猿若祭二月大歌舞伎 夜の部

夜の部は、話題の中村屋二兄弟の初舞台『門出二人桃太郎』です。新しい三代目勘太郎さんと二代目長三郎さんという役者さんの誕生ということになります。父である勘九郎さんと叔父の七之助さん初舞台の時に、萩原雪夫さんが桃太郎の昔話を双子にしたということです。五歳の勘太郎さんと三歳の長三郎さんにとっては、勘太郎さんは年上の責任があり、三歳の長三郎さんにしてみれば双子と言われてもというところでしょうが、まずは目出度き新しい小さな役者さんの誕生です。

山に行ったおじいさん(芝翫)が川にいるおばあさん(時蔵)のところへもどると、大きな桃がながれてきて家まで運びます。息子(勘九郎)と嫁(七之助)も加わり桃を切ると、双子の男の子(勘太郎、長三郎)が飛び出します。桃太郎兄弟の誕生です。この兄弟勇敢にも鬼ヶ島に鬼退治にいくといいます。そこへ、犬彦(染五郎)、猿彦(松緑)、雉彦(菊之助)が家来を申し出て、さらに吉備津神社神主(菊五郎)、巫女(魁春)、庄屋(梅玉)、庄屋妻(雀右衛門)その他村の人々もお祝いに駆け付け、口上となり、無事に桃太郎兄弟は鬼退治に向かいます。

見事鬼退治をして鬼の総大将(勘九郎)から金銀財宝をもらい意気揚々と花道をもどってきます。弟の桃太郎はかなり疲れているようです。先に進む兄の桃太郎との距離が少しづつあきます。三歳ですからね。花道も長道におもえることでしょう。兄の桃太郎は自分のやるべきことはやるという力強さで、弟の桃太郎もその姿を観つつ最後はしっかりとつとめました。

祝い幕には二つの桃が描かれています。誕生は一つの桃からですが、これからは、それぞれの役者さんとしての二つの桃が何回も大きくなっては割れ、大きくなっては割れていってくれることでしょう。

絵本太功記』は時代物です。これが、睡眠薬をしみこませたハンカチでも嗅がせられたように途中から意識不明でした。鴈治郎さんの十次郎は雰囲気が違うな。孝太郎さんの初菊はどう兜を運ぶのかで意識不明。ところどころ意識がもどります。

初菊が母の魁春さんに連れられて奥へ引っ込むときの身体の折れ具合に悲しみがある。錦之助さんの久光の声の響きがなかなかである。光秀の芝翫さんの笠を外しての出もいい。皐月の秀太郎さんの息子へのいさめだな。妻・操の魁春さんの嘆きか。正清の橋之助さん動きに力と安定感がでてる。そして光秀と久吉のそろっての後日という幕切れです。これだけで、ヘボシャーロックホームズであれば、筋だけは説明できますが、実態がわかりません。

ということで、今回はこれも一幕見をすることになってしまいました。時間をあけたはずなのに、風邪薬が変な眠りを誘い込んだようです。

梅ごよみ』は大丈夫でした。この芝居は2回ほど玉三郎さんの芸者仇吉と勘三郎さんの米八で観ています。お二人の時は二大スターを観ている感じで、お家騒動のほうが二の次でしたが、今回はバランスがいいという感じで、すべてに目がいきました。丹次郎(染五郎)は恩ある人のために茶入れをさがしています。その茶入れを、古巣佐文太(亀鶴)が持っているという事を知った仇吉(菊之助)は丹次郎のために佐文太になびき茶入れを手に入れることを約束します。

他愛ない話しなのですが、深川芸者の気っ風のよさの見せ所といった芝居でもあります。丹次郎は許婚お蝶(児太郎)がいるのですが、深川芸者の米八と暮らしています。ところが、同じ深川芸者の仇吉が丹次郎を見初めて惚れ込んでしまいます。その出会いが、隅田川での舟の上ということでなんともいい川風が梅の香りを運ぶような風情ある舞台です。

ところがどっこい深川芸者の意気地は、誰にも負けられないよといったところで、深川芸者の男言葉の使い方や仇吉が丹次郎にあつらえた羽織を米八は下駄で踏みにじったり、自分のお座敷に踏み込まれた仇吉は米八を下駄で打ちすえたりと大変です。そんな二人の仲裁にはいるのが藤兵衛の歌六さんは貫禄で去り際のささやかな仕草さがこれまた粋で格好いいんです。

丹次郎の染五郎さんは、もてるのは俺のせいではないよといった感じで、モテる男のどっちつかずですが、茶入れを探すという仕事があるのでまあ男気もほのめかせられます。深川芸者にとってはおあつらえ向きです。おとなしく娘娘している児太郎さん、言ってみれば、お姉さんがたが騒ごうと私は許婚よの強さであります。

為永春水さん原作で、春水さんは式亭三馬さんの弟子で、講釈師として寄席にでたこともあります。師匠の三馬さんから読本や滑稽本の書く才能無しといわれますが、「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」で評判をとり、次の「修春色辰巳園」で大流行作家となります。しかし、天保の改革で手鎖りをかけられそれが原因でお酒におぼれ54歳でなくなります。のちに円朝の速記よりはやくに口語文としての礎を築いたという評価もあります。

上演は、木村錦花脚色による1927年(昭和2年)です。正妻がいて二人の妾をもつという内容らしく、今観るとずれているのは、そういう時代ということでしょうからずらして観て愉しむ必要があります。

仇吉と米八の喧嘩は、舞踊『年増』にも関係してきているようですので、この際、舞踏『年増』『黒髪』を見返し、為永春水さんの『春色梅暦』も読んでみようととおもいます。そして、福助さんと勘九郎さんの『猿若江戸の初櫓』と玉三郎さん、勘三郎さん、澤瀉屋一門の『梅ごよみ』の録画もでてきました。復習が大変。

二回目一幕見『絵本太功記』ですが、外国人のかたが多かったのには驚きました。歌舞伎座に行けば日本の古典芸能に接することが出来るということが浸透しているのですね。熱心に観られていました。

歴史的な明智光秀が信長を討ったことを軸として、芝居は、光秀の母が息子を謀反者として、その謀反者の息子として初陣にでる孫やその許嫁の初菊にたいする想い、息子の行動を予想して久吉の身代わりとなり、ひん死の重傷の孫とともに息をひきとるといった悲劇です。

光秀が竹槍で久吉を討とうとして母を刺してしまうのは、光秀が竹槍で農民に殺されたことを取り入れ、母の息子の裏切りへのいさめもあるですが、光秀には光秀の春信に謀反するだけの積もり積もった屈辱があります。それも、息子が負け戦であると報告し、逃げてくれと父を想う時それは家族の悲劇の絶頂へとつながりますが、そこを堪え戦の物見をして、どうどうと久吉と対峙する大きさが光秀役者には必要です。芝翫さんは出はいいのですが家族全部の悲しみを受けて、それでも貫くにはもう少し大きさが欲しいところです。

鴈治郎さんの十次郎が若者なのに襟を落とさない衣装の着方に戸惑いましたが、動きで自然に納得しました。戦の報告と父への哀願も上方風の柔らかな動きは今まで見た事のない若者のやるせなさをだしていて悲劇性を膨らませます。

初菊を思いやり母と同じ気持ちで夫にせまる魁春さんのしどころがしっかりしていていますが、皐月は気丈といっても刺されていますから、皐月を後押ししてもっと強く出てもいいのではと思いました。孝太郎さんの一律な泣き出し方がちょっと気になりましたが、身体はしっかり赤姫の基本を守られています。

錦之助さんも声に甘さから重厚さがでてきて、久吉のような押さえのきく役どころなどが増えてくる時期なのでしょう。

一幕見『梅ごよみ』も観ようかなと思ったのですが、映画『ショコラ ~君がいて、僕がいる~』も観たかったのでそちらに急ぎました。『絵本太功記』が6時45分に終わり、映画が7時から。シネスイッチ銀座でしたので間に合いました。名探偵ではないので、今後薬には気をつけます。一幕見もいいのですが、待ち時間がもったいないですので。

 

 

歌舞伎座  猿若祭二月大歌舞伎 昼の部 

今月は、「猿若祭二月大歌舞伎」ということで、京で評判をとった歌舞伎踊りが江戸にきて江戸歌舞伎390年ということらしいです。

猿若江戸の初櫓』は、出雲の阿国と猿若が江戸にやってきて、江戸の地で猿若座の櫓をあげることができた経過を、田中青滋さんが、浅草で中村座の櫓をあげた初世中村勘三郎を主人公として創作した長唄舞踊です。その初演が江戸歌舞伎360年の1987年歌舞伎座で、今年はそこからさらに30年が経過して江戸歌舞伎390年となるわけです。

出雲の阿国(七之助)と猿若(勘九郎)が江戸に出てきます。そこで、将軍への献上品が狼藉者により立ち往生しているのと出会います。献上者である材木商の福富屋(鴈治郎)が困っているのを助け、猿若は若衆たちに献上品を運ばせます。それを奉行の板倉勝重(彌十郎)が知って、猿若たちの芝居小屋の櫓あげを許可するのでした。

そこまでを軽快に話が進み、お礼の踊りを明るく艶やかに勘九郎さん、七之助さん、若衆の児太郎さん、橋之助さん、福之助さん、吉之丞さん、鶴松さんが踊ります。猿若祭に相応しい、江戸時代の旧正月をも兼ねたような華やかな舞台です。

大商蛭子島(おおあきないひるがこじま)』は、初めて観る芝居で、頼朝の旗揚げを軸にしていて、文覚も出て来て、さらに長唄『黒髪』が劇中にでてくるという興味深いお芝居です。ところが、どういうわけか、この『黒髪』の部分だけ不覚にも瞼が閉じられていました。というわけで、観なくては話しになりませんので、一幕見で見直しました。

寺子屋であるが、手習いしているのは若き娘ばかりです。ここは伊豆下田の正木幸左衛門(松緑)の寺子屋です。そこへ若い娘・おます(七之助)が姉(児太郎)に連れられて寺子屋入りしようとやってきますが、幸左衛門の女房・おふじ(時蔵)に追い返されてしまいます。

姉妹は途中で帰宅する幸左衛門に会い、幸左衛門は藪の中の小屋で待っているようにと告げます。この幸左衛門女好きで、寺子屋の娘たちに筆の手習いか、色事の手習いかわからない状態で女房のおふじはやきもきして離縁状を書きますが、一向にに効き目がなく、幸左衛門に丸め込まれてしまいます。

そんなところへ、箱根地獄谷からきたという出家僧・清左衛門(勘九郎)が一夜の宿を求めます。中に通し食事と酒を出すと、おもむろにどくろを出し、これは義朝のどくろでこれに酒を注いで飲んではどうかと持ち掛けますが、幸左衛門は取り合いません。

実は、幸左衛門は頼朝で、清左衛門は文覚上人で、お互いに探り合いをしているのです。そしておますは北條政子で姉は義朝の忠臣の娘・清滝で、暗闇で頼朝に渡す北條家の重宝・三鱗(みつうろこ)を間違って文覚に渡し、自分が政子であることも知らせてしまいます。

次第に情勢は変わっていきます。女房のおふじは、頼朝の命を狙う伊藤祐親の娘の辰姫だったのです。辰姫は父に背き夫頼朝の平家打倒源氏再興の志のため、夫と政子との結婚を許します。ところが、納得していたはずの辰姫は夫と政子の仲に嫉妬の炎を消すことが出来ず、その苦しみを髪を梳きつつ長唄『黒髪』で表現します。ついに嫉妬心は、頼朝に託された三鱗を池に捨てようとしますが、三鱗が手から離れなくなってしまいます。その妄執を文覚が祈り消しさり三鱗を手から放してやります。

幸左衛門に仕えていた下男六助(亀寿)と大家・弥次兵衛(團蔵)は祐親側の家来で頼朝はこれらの人々を倒し、北条時政(勘九郎)を迎え、文覚から平家討伐の院宣も手渡され、目出度く源氏の旗揚げとなるのです。

色好みの幸右衛門の柔らかさと頼朝の武士としての緊張感を松緑さんがおもいのほか大きく変化させ面白さをだされた。姫としての政子の七之助さん、それを補佐する清滝を児太郎さんがこれまた貫禄を出して受け、勘九郎さんは清左衛門と文覚の台詞まわしがよく、北条時政の引き締めた雰囲気がよい感じです。

すべての人が実はとすっきりと変わる中で、時蔵さんがおふじから黒字の着物の辰姫となり荒れ狂う妄執が表出されることによって、人間の一筋縄ではいかない感情が彩りを添え芝居にひねりをいれてくれます。

長唄舞踊『黒髪』の原点がこの作品にあったとは。この作品は江戸庶民文化の円熟期の時代、1760~1800年頃のもので<天明調>といわれるらしい。

四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)』は、伝馬町の牢内の様子がわかり、これを愉しみにされている観客の声をききました。個人的には、観ているので一度観ればよいかなという感じでした。ただ、菊五郎さんが歌舞伎座で富蔵を演じるのは20年ぶりということですので、この年代の方々が中心になって演じることはすぐには無いでしょうから、次の世代がしっかり江戸の風俗のひとつとして継承する大切な機会ともいえます。

黙阿弥さんが、実際にあった江戸城の御金蔵破りを題材として、牢の様子も実際に関係していた人から資料を手にして書かれ、当時の江戸っ子の評判となったようです。

野州無宿の悪党・富蔵(菊五郎)が主筋の浪人藤岡藤十郎(梅玉)さんと会い、江戸城の御金蔵破りの話しを持ちかけ実行し成功します。ところが、ふたりともそれぞれ捕らえられて小伝馬町の牢に別々にいれられてしまいます。富蔵は入った大牢で二番手として勤めますが、磔刑ときまり、囚人たちのお題目におくられて出牢します。藤十郎もまた磔刑のため出牢し、ふたりは顔を合わせるのでした。

御金蔵破りという大盗賊なのですが、御金蔵破りの場面はありませんので、悪の感じの薄い、富蔵と藤十郎の人間性を見せる白波物といった感じです。とにかくこの芝居に出演される役者さんの数が多いのです。一同にこれだけの役者さんが揃うのがみどころともいえます。

扇獅子』は鳶頭の梅玉さんと芸者の雀右衛門さんで艶やかにあっけなく終わってしまいました。

久しぶりの一幕見でした。やはり二回観ると筋が頭の中でしっかりします。

 

国立劇場 公演記録鑑賞会『東大寺修二会の声明』

国立劇場主宰の公演記録鑑賞会は毎月第二金曜日に伝統芸能情報館でおこなわれていますが、昨年あたりから自由参加から応募方式をとって応募者が多い時は抽選となります。

今回は『東大寺修二会の声明』で、1996年(平成8年)に公演されたものです。東大寺修二会のお松明(たいまつ)は二月堂の下で眼にしていますが、二月堂の中での行法が映像で見れるのです。国立劇場の舞台上で二月堂での行法を再現したのです。

『薬師寺の花会式声明』のほうは、国立劇場で拝見しています。いつだったのか調べてみましたら、1999年(平成11年)でした。記憶に残っているのは須弥壇に飾られた紙で作られた幾種類かの花々と、行法の途中でまかれる、紙製の散華の蓮の花びらです。

正式には修二会(しゅにえ)のことを薬師寺では<花会式>とよばれ、東大寺では<お水取り>と親しみをこめて呼ばれています。

東大寺の修二会というのは、さらに正式の名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といわれます。われわれが日常犯しているさまざまな過ちを本尊の十一面観音菩薩のまえで懺悔(さんげ)することを意味し、さらにひとびとの願いの究極は、<除災招福>で、世の中が平和で国は安泰に、五穀は豊かに実り、天変地異が起らず、悪い病気もはやらないように、懺悔の誠を尽くして究極の願いを果そうとするものなのだそうです。

この儀式に参加する僧侶は十一人で、籠衆(こもりしゅう)とか練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれています。この練行衆が初夜に二月堂に上がっていく時足下を清め照らすのが松明のあかりです。お松明は3月1日から14日まであります。初夜というのは、一日を6時に区切り、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)となる初夜の時間を差します。この初夜と後夜の行法は内容が複雑なものになっているようです。

『娘道成寺』の詞にも出てきます。「鐘に恨みは数々ござる 初夜の鐘を撞くときは 諸行無常と響くなり 後夜の鐘を撞くときは・・・・」

練行衆は修二会の時にだけ着る白い紙子(かみこ)を自分で作りますが、この紙子が京橋の『WASHI 紙のみぞ知る用と美 展』(LIXILギャラリー)で展示されていました。紙といってもしっかりしていて、揉んだようにシワをよらせていて保温効果もあり軽いのかもしれません。これだけの和紙をすくのは布より大変かもしれません。ところどころロウソクの灯りのため煤けていました。二月堂の須弥壇は椿の造花だけでこれらも、練行衆が作ります。

散華は蓮の花びらではなく、ハゼといってもち米を炒ってはぜさせたもので、これがまかれるのですが、踏み進むときの音はわかりませんでした。皿籠に大きな器から手ですくってハゼを入れる時にさらさらと涼やかな音がしていました。薄暗いのでぼんやりと床に何か散らばっている感じだったのがハゼの踏まれたあとなのでしょう。

お経とか様々なことがあるのでしょうが、そのあたりはよくわかりません。ただ声の響きとか、何人かの声が合わさったりしたときの太い響きとかに耳を傾けつつ、立ったり座ったりの作法を見ていました。差懸(さしかけ)という歯の無い厚い板だけの履物の心地よい音などが混在したり、差懸で走る音だけが静けさを振るわせたり、時にはほら貝が吹かれたりします。この差懸で走る音は二月堂の下に居ても聞こえていましたので、こういう作法をしていたのかと映像で具体化しました。

ほら貝も大きいのと小さいのがありましたが、荒貝、学(まね)貝、長貝と種類があるようで、五体投地といって、膝を打ちつけますが、暗くて見えなかったのですが、膝を打つとよく響くように板が置かれているらしく、暗さが尊厳さを深め、興味もつきませんでした。

<走り>とか<達陀(だったん)>とよばれる行法もあるようで、二代目松緑さんが創作した舞踊『達陀』はこの行法の名前を使われたのです。

声明とそれに用いる法具などは仏教音楽といえるもので、暗くてよくわからなかった法具なども、展示されることがあれば、これなのかと興味を持ってながめることができるとおもいます。

<お水取り>は、3月12日に本尊十一面観音菩薩に供える香水(こうずい)が、二月堂下の閼伽井屋(あかいや)の若狭井から汲み上げられ運ばれるので<お水取り>といわれるのです。香水は翌日、須弥壇の三つの香水壺に入れられます。

この行法は正午から深夜まで続き、日によっては明け方までかかるものもあるそうで、みている者は流れにそってみていますが、練行衆はすべての行法を覚え込んで厳かに時には激しく毎日六回づつ十四日間この行法をされるのです。

毎年12月16日の良弁僧正開山忌に練行衆とそれを補佐する人々が発表されれます。2月20日から本行前の前行がはじまります。

修二会は、良弁僧正の高弟である実忠和尚が、大仏開眼の年(752年)に始められ、あの平重衡による大火のときにも止むことなく続けられたそうです。

歌舞伎に『良弁杉由来』があり、「二月堂」と呼ばれます。「二月堂」といえば「お水取り」、「お水取り」といえば、ニュースの映像に出てくる「お松明」ですが、「二月堂」の中で響いている音楽性もご注目あれと思わせられる公演記録でした。

 

新橋演舞場『恋の免許皆伝』『狐狸狐狸ばなし』

新橋演舞場の二月は喜劇名作公演で、松竹新喜劇の役者さんと劇団新派の役者さんに、中村梅雀さん、大和悠河さん、山村紅葉さんが加わっての舞台です。

松竹新喜劇からは、渋谷天外さん、曾我廼家八十吉さん、曾我廼家寛太郎さん、藤山扇治郎さん、劇団新派からは、波野久里子さん、喜多村緑郎さん、河合雪之丞さんなどです。

一、恋の免許皆伝 二、狐狸狐狸ばなし

これが、昼の部、夜の部別演目と勘違いし昼夜の切符を取ってしまい、あわてて昼の部を友人に行ってもらうことにし、昼の部と夜の部の間に友人と短時間のティータイムをもてたので結果的には良い風向きとなりました。切符を用意する段階での不注意だったのですが、お芝居のようにアタフタさせられました。

友人はドタバタ喜劇は嫌いであると言っていたのでどうかなと懸念しましたが、「あなた面白かったわよ。」の一言にホッとしました。

恋の免許皆伝』は、私も初めて観る作品で、前半は真面目に進み、後半に向かって次第に笑いが起り、真面目さが笑いの中でほろりとさせるという展開になります。この芝居、喜劇として見せるにはかなり難しいと思います。単純なだけに役者さんがものをいいます。

武芸指南役の家にうまれた娘・浪路(大和悠河)が婿養子を取ることとなり、娘も相手の頼母(中村梅雀)を気に入っており上手くいきそうです。指南役の家に婿養子に入るのですから、その娘より剣の腕前が劣っていては恥と、二人は勝負をして、婿殿が見事勝って目出度く祝言という話しになります。ところが娘のほうが剣の腕が上で婿殿は負けてしまいます。潔く婿殿は修業にでます。そして、年月は過ぎ、修業からもどり晴れて夫婦にと。その前に、勝負!婿殿あなたは何をやっていたの。娘よ真面目過ぎ。

今度会う時は、誰かが出演できない状態でしょうね。きっと。

浪路の父・曾我廼家八十吉さんと、叔母・磯路の波野久里子さんがしっかり武家の雰囲気を押さえ、若い二人に情愛を示し見守ります。梅雀さんが婿ですからかしこまって演技も押さえていますが、時間と共に、登場する場面場面で変化をみせてくれます。姿変わろうとも、頼母と浪路の恋心は変わることはありませんでした。

やきもきしつつも二人にそれぞれ仕える藤山扇治郎さんと、石原舞子さん。曾我廼家寛太郎さんが、皆にいじられ役。武家の女中たちや武士の若者たち、中間などそれらしい動きと台詞で、邪魔されることなく芝居の流れについていけました。

友人が「歳のせいなのか、うるうるときてしまった。」と言っていましたが、こちらもうるうるきました。この芝居をそこまで持って行けたのは役者さんの力でしょう。

狐狸狐狸ばなし』は、色々な役者さんで観ているので、またかとおもったのですが、こちらも無理せずに騙されるながれになっていました。

女房が大好きな男と、好きな坊主がいる女房と、惚れられる女を都合よく選ぶ坊主とそれに乗っかる周囲の人々という、狐と狸の騙し合いの連続です。

住職の重蔵(喜多村緑郎)と一緒になりたいおきわ(河合雪之丞)は、夫の伊之助(渋谷天外)を染粉で殺します。ちょうどその夜は愛するおきわのために伊之助はフグ鍋を作っていたので、フグにあたって死んだことにされてしまいます。殺されたはずの伊之助が生きていて、もう一度殺そうということになり、伊之助に雇われていた又一(曾我廼家寛太郎)が、伊之助にこき使われ怨みがあるから自分が殺すといってからの場面では、又一と伊之助の殺し殺されるところが面白い場面になっていました。

笑わされて客は疑う事も無く騙されてしまうというおまけつきです。

伊之助一人に対しこちらは複数で一致団結していて、まさかこの中に裏切者がいたとは誰も思いません。筋を知っていながら、天外さんと寛太郎さんの演技はその場面どおりに見させられてしまいます。

一致団結して、お蕎麦をたべる場面が、後半の笑いを緩やかに濃くしていきます。

さらに事態は一転二転とかわります。友人は、始めて観る作品なのですが、「絶対何かあると思っていた。」と言っていまして、騙されつつ真実はいかにと楽しむ作品でもあります。さらに「幕前での動きなど面白かった。」と喜劇ならではの動きの芸もあり満足したようでめでたしめでたしですが、芝居のほうは、簡単にめでたしめでたしとはならず騙し合いは続くようです。

緑郎さんは、おきわとおそめ(山村紅葉)に惚れられる住職ですが、さらりと癖のない単純ないいとこどりの住職で、歌舞伎とは違う芝居づくりでかなり力の抜け具合が出てきているように見えました。雪之丞さんは、発声が歌舞伎の女形で、驚き具合の声の調子ももう少し細やかさが欲しいです。これからですね。新派の細やかさと闘うのは。

天外さんと寛太郎さんは息のあったそれでいてずれ具合の良いやりとりで、ドタバタにしないで、芸の面白さで喜劇を演じられていました。

加藤泰監督の映画を見続けていて、『車夫遊侠伝 喧嘩辰』の曾我廼家明蝶さんの可笑しさを含んだ貫禄、『明治侠客伝 三代目襲名』の藤山寛美さんの軽そうでいて極道の刹那的な影もある演技などは、松竹新喜劇の芸の深さを感じさせられます。そうそう『車夫遊侠伝 喧嘩辰』の主人公とヒロインも、お互いの気持ちのずれで結婚に至るまで三つ山を越えます。

劇団新派も松竹新喜劇も、今の演劇の流れのなかでお客さんをつかみつつそれぞれに続く芸を継承していくのは大変なことですが、初めて観た人が面白かったということもありますから頑張ってほしいものです。

 

シネマ歌舞伎『阿古屋』

歌舞伎『阿古屋』に関してはこちらにて。 歌舞伎座 十月歌舞伎 『阿古屋』

シネマ歌舞伎『阿古屋』のほうは、稽古風景のドキュメンタリー映像も含まれていて、今回はこれが楽しみでもありました。玉三郎さんの後輩に対する一言に興味があります。

太鼓奏者の林英哲さんの構成を玉三郎さんが担当されたときのことです。演奏場所が取り壊し前の倉庫で何をしても良いということで、林さんは、床に水を張って大太鼓がツ―ッと舟のように出てくるようにしたいと玉三郎さんに話したところ「お金はあるの?」ときかれたそうで、中途半端なことはしないほうが良いといったのだそうです。ひとりで太鼓を打つということをみせるだけで十分。その言葉に押され林さんは、25分間大太鼓のソロ演奏を初めてされたのです。

太鼓を打つ姿と音で勝負する。姑息な手段は使わない。厳しい。しかしお客さんを満足させられたら、それは、奏者にとってこれほど確かな手応えはありません。林さんは、完成度と充実度の高いライブであったと語られています。

シネマ歌舞伎の中で、玉三郎さんは語ります。玉三郎(五代目)を襲名した時、養父である守田勘弥(十四代目)さんに「二十歳までに、女形の全てを身につけるように」と言われ、その時から、阿古屋の役へつながっていたと。

玉三郎を襲名されたのが14歳ですから、20歳までの5、6年間の修業がどんなものであったか。それは今の玉三郎さんを観ればわかることなのでしょう。

『阿古屋』での取り調べる側の岩永左衛門は人形振りで演じますが、亀三郎さんが初役で挑まれていますが、練習で玉三郎さんは何んと言われたおもわれますか。「人のかたちを少しずらすと人形らしくみえるのよ。」亀三郎さんの表情が何とも言えません。その言葉を聞いた途端、でました!と思いました。聞いているこちらのほうが、えっ!ということは、人のかたちというものを身体がとらえていなければ、どう動かせばよいかわからないということではないですか。

いわれていることは、基本なのですが、修業の差がありすぎるんです。おもわず亀三郎さんの気持ちに寄り添ってしまいました。う~ん!

しかし、動けて笑いをもらえるほうが良いかもしれません。秩父庄司重忠の菊之助さんは良いかたちで、黙って動かない時間がながいのです。榛沢六郎の坂東功一さんなどもずーっとですからね。舞台は4人です。映像にすれば映らなくても舞台であれば見えていますから。菊之助さんなどは、形よく聴き入りますが、聴き入ってはいけないのでしょうね。詮索する側なんですから。役柄としても実際にも、玉三郎さんの今日の琴は調子が違うなあとか思う事もあるのでしょうか。聞いてみたいところです。

阿古屋の伊逹兵庫の鬘は重そうで、打掛は脱いで胴抜き姿ですが、帯は俎帯(まないたおび)で、それで、琴、三味線、胡弓を弾くのですから大変とおもいますが、そんな様子など映像でアップされても全然感じません。そのため、こちらも大変ということを忘れさせてもらって堪能させてもらったわけです。

DVDから時間が経過しているのですから、何かが変化していると思うのですが、スクリーンの大きな映像に圧倒されてもいて、その変化がわかりませんでした。どちらも完璧に思えてしまうのです。見つけられなかったというのも少し心残りです。

 

映画『ざ・鬼太鼓座』(2)

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰監督の「緋牡丹博徒シリーズ」三本を見なおしました。

緋牡丹博徒 花札勝負』(1969年)『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970年)『緋牡丹博徒 お命戴きます』(1971年)

『緋牡丹博徒 お命戴きます』を最初に見たのですが、下からのローアングル、長廻し、場面転換の速さなど、この映画の延長線上でもあったのかと捉えていなかった映像上の方法の特色がどんどん見えてきました。

『ざ・鬼太鼓座』を見なかったら気がつかなかったでしょう。『ざ・鬼太鼓座』は筋があるわけではなく、言葉は最小限に押さえていますから、映像に集中します。そうするとその映しかたの長短や、次に飛ぶ場面、映される物、人の表情、体のどの部分などが、自分の眼に飛び込んできます。その時のリズム感、見つめる長さなどによって受ける側の好奇心、映される人々の動きやそれに伴う心のありかたを知ろうとする思いなどの振幅がゆれます。

人の片方の眼が大きくアップで映し出されたり、ぱっと椿が映ったり、満ち潮の中で踊る人の後方の波しぶきと静かに足下の砂に海水が近づいてくるようすなど、加藤泰監督の美意識が注入されています。

それが、筋のあるものになると、そちらに気をとられますが、今回は矢野竜子(藤純子)と結城(鶴田浩二)の出会いでの位置関係、アップなどの変化が、これだと思わせてくれました。結城の焼香にお寺の階段を上がってくるお竜さんの現れ方などは、流れの中で、新鮮さを吹き込んでくれます。

ラストの立ち回りで、お竜さんが玉かんざしを投げる場面で玉かんざしがはずされ片側の髪がさらっとながれますが、あそこは富司さんの提案で監督が取り入れてくれたのだそうです。立ち回りで髪がほどけるのは『お竜参上』でもありますが、ほどけかたが違い、『お命戴きます』のほうが髪が長く柔らかさをもって動きます。

『ざ・鬼太鼓座』で、万華鏡のように花札が舞う映像があります。剣舞の衣装の腰の後ろの部分に二枚の花札の柄を用いていて、この万華鏡の花札で、加藤泰監督はこの万華鏡の花札映像を入れたくて衣装にも使ったのだなと思っていましたら、万華鏡の花札はすでに『お竜参上』で使っていました。『ざ・鬼太鼓座』のほうが、すっきりとした美しさで広がります。

アフレコを嫌い同時録音を目指し、「音に匂いがするんだ」と監督が言われていたと富司さんは語られています。そういう意味あいからも、鬼太鼓座との演奏の音との勝負も監督にとっては遣り甲斐のある作品だったことでしょう。

雑誌「和楽」で『坂東玉三郎 すべては舞台の美のために』という特集雑誌を出しているのですが、そこで、玉三郎さんと太鼓奏者の林英哲さんが対談をされています。

林英哲さんは、映画『ざ・鬼太鼓座』のころは座員で、もちろん映画に出られています。監督は撮影所の土を掘ってカメラを据え、ローアングルで大太鼓を打つ林さんの姿を足の先から上に向かって映しています。

対談の中で、林さんにどうして鬼太鼓座に参加したのかを玉三郎さんが聞かれています。林さんは美術をやりたくて浪人中で、鬼太鼓座主宰のサマースクールのようなものに横尾忠則さんが講師のひとりだったので参加して、むりやり入らされたという感じだそうで、鬼太鼓座の創始者は田耕(でんたがやす)さんです。

鬼太鼓座を後押しされていたのが、横尾さん、和田誠さん、宇野亜喜良さん、永六輔さんなど有名な方々がたくさんおられたようで、林さんはドラムをやっていたのでなんとか叩けたそうで、ほとんどが素人です。映画のなかでも、メンバーの母親に近い年代の女性が、上にいければいいが食べていけるかどうかわからないのだから自分の子どもなら賛成しないと語られていました。

林さんはその後独立され、ひとりの大太鼓奏者としての道を切り開いていくわけです。

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰映画監督とその作品をあらためてさぐることが出来、鬼太鼓座の成立、鼓童の結成、ソロ太鼓奏者の誕生などをとらえることができました。そして今、それらの動きは芸能集団から芸術集団へと変化しつづけているのです。