平清盛

NHKの大河ドラマの「平清盛」が色々取りざたされていたが、2回で見るのを止めてしまった。基本的にテレビの続き物のドラマを見続けるのが苦手で映画派である。

村上元三「平清盛」を読んだところ面白い。帝、上皇、法皇と院政が形作られて行くのが解かるし、武士の台頭していく様も面白い。殿上人の世界の魑魅魍魎さ。そして今とは違う寺社の力。寺院の強訴というのが、神輿を担ぎだして京に入り込み混乱を起こすという手法は仏に仕えるというよりも、子供が衆人の真ん中で寝転がってバタバタ手足を動かし大人達を困らせているようで苦笑ものである。清盛はその辺も利用し武士が居なくては貴族は成り立たないと認めさせていくのだが。

今は信仰よりも美術品的にあるいは観光的に鑑賞してきたお寺などの名前が出て来て、その、木造建築、歩いた道、周辺の風景が平安後期に移動して小説の中に現れ、ただ見てきただけの浅はかな旅も少しは役に立つようだと思ったりしつつまた小説の中に入って行ったりした。

<延暦寺の僧兵は日吉社の社人(しゃじん)とともに、日吉社の神輿(みこし)を担ぎ、総勢五百人ほどで洛中になだれ込んで来た。>

観光バスで延暦寺から琵琶湖側に降りて来た時、日吉大社を通り坂本の町を眺めここにはまたいつか来ようと思った。そして三井寺、坂本と尋ねる事ができた。そのことが荒法師の猛り声と共に浮かび上がり、現世に変遷してきた寺院もまた人間の欲得にまみれていたと思うと親しみも湧くものである。延暦寺と三井寺(園城寺)も派閥問題等で対立していたようで、かの弁慶も延暦寺の荒法師で三井寺の鐘を戦利品として叡山まで引き摺り上げたという伝説も残っている。

旅の小話・・・・・ 三井寺には近江の昔話「三井の晩鐘」のはなしもある。この話を題材にした日本画を残され夭折した三橋節子さんのことも偲ばれる。(「湖の伝説 三橋節子の愛と死」梅原猛著)

三井寺を訪ねた時は、33年に一度開扉される秘仏 如意輪観音坐像にも御会いでき思い出深き旅となった。そして坂本では穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣をいたるところで眺めることができた。

弁慶の主人義経は鞍馬であるが、常盤御前を母とする牛若の兄・今若・乙若は醍醐寺にて出家する。醍醐寺というと秀吉の<醍醐寺の花見>が浮かぶが、まだ武士が権力を握れ無い頃、醍醐寺で命を救われた若子が出家したという時間空間もあったのである。

そんなこんなを考えつつ小説を読み終わり遅ればせながら大河ドラマを見始めた。面白い捉え方をしている部分と誇張され過ぎてる部分と半々である。清盛の新しい国造りの発想は面白い。ただ濃すぎる演技には閉口する。ドラマは役者の演技も楽しむものだが、そこまでやらなくても貴方の役どころは解かりますよと言いたくなる部分も或る。

自分が大河ドラマを見続けるには、それにそくした小説を読んで自分の中で筋を組み立ててからでなければ楽しめないようである。

『秀山祭』の「寺子屋」

「菅原伝授手習鏡ー寺子屋」は、忠義の為に関係のない子を殺し、忠義の為に自分の子を殺させると言う話である。現代の解釈では理解出来ない事である。故に、芸が必要となるのである。訓練された肉体の全てを使い、理解できない世界へ導き入れ観た人の何処かの琴線に触れて納得させたり感動させたりしなくてはいけないのである。

<いけないのである>と言う言い方も可笑しいが、木戸銭を頂いてやっている訳ですからやはりそうなると思います。人気があって顔さえ見ていれば良いのであればそれでも良いが、恐らく演じている役者さんの方が嫌になるであろう。

松王丸(中村吉右衛門)・千代(中村福助)・武部源蔵(中村梅玉)・戸浪(中村芝雀)・春藤玄蕃(中村又五郎)・園生の前(片岡孝太郎)

千代が小太郎を連れて源蔵の寺子屋へ入門させる。千代は用事があるからと戸口を出る時小太郎が母の袖を引く。この時すでに松王丸・千代・小太郎の三人は約束事をしている。ここで<三角形>の図式が見えた。事或るごとにこの<三角形>の関係が違う<三角形>を作っていくのである。先ずこの三人の約束事とは、主君の子・菅秀才の身代わりとなって小太郎が命を捧げると云う事である。だから小太郎は母の袖を引いたのであるが、<まだ幼くて>と千代は戸浪に言い訳する。戸浪に悟られないように親子の別れである。福助さんは凛として溢れる悲しさをそっと現す。

源蔵はかくまっている菅秀才の首を差し出すよう言明され花道から思案しつつ帰ってくる。誰かを身代わりにと考えているが皆田舎育ちの子で身代わりと解かってしまう。そこへ今日きた小太郎を見てこの子だと決心する。ここでは源蔵・戸浪・菅秀才の三角が源蔵・戸浪。小太郎の三角になる。

玄蕃が首を受け取りに来る。そこへ菅秀才の顔を知っている病み上がりの松王丸が登場しする。ここから松王丸の腹芸が始まる。今まで菅秀才の父、菅丞相に敵対していたが味方となることを決め親子三人の約束事もそこに一点があるのである。しかし玄蕃にも源蔵にも解からせず小太郎の首を菅秀才の首として受け取らなくてはならない。ここで源蔵夫婦・松王丸・玄蕃の三角形となる。この三角を崩さないようにして目的を遂げるための松王丸の芸が必要なのである。吉右衛門さんの松王丸は松王丸の言動一つ一つが首実験まで上手く運ばせる為のものであると云う事が納得できた。偽首の可能性もあるから用心するように玄蕃に強く指示して反対に玄蕃をけし立てつつ味方である事を印象付け、反対に源蔵夫婦には緊張感を増幅させ失敗の無いように引き締めさせているのが解かる。

そうしつつ、我が子の命落とす瞬間を知り、首実検では我が子の首と知りつつ菅秀才の首であると明言する。このあたりは、役者さんと観客の交信である。お互いが上手く交信出来たか出来ないかで物語は膨らんだり萎んだりするのであり、面白いか詰まらないかになるのである。

源蔵夫婦の梅玉さん・芝雀さんそして玄蕃の又五郎さんはしっかり、松王丸のドラマツルギィーの中に入ってくれ構築してくれた。これが芸である。

守備よく玄蕃が首を持ち帰り、菅秀才の首は小太郎であった事が解かってくると観客は今度は役者と一緒に涙するのである。舞台上は園生の前・菅秀才親子と源蔵・戸浪夫婦と松王丸・千代夫婦の三角形である。しかしそれぞれの台詞から松王丸・千代・観客の三角、松王丸・小太郎・観客、千代・小太郎・観客ら様々の三角形が交信し合って様々な感情が沸き立ちどこかでそれが一つになり拍手となるのである。

今回はこんな事が頭の中で整理されていった。やはりそれは、力のある役者さんのなせる技と思う。

もう一つ重要な三角形がある。松王丸が小太郎の死を褒めてやったあと「それにつけても不憫なんのは桜丸」と、松王丸が三つ子の兄弟である桜丸を思いやる言葉を吐く。寺子屋だけを見た人は解かりづらいであろう。

そもそも三兄弟の悲劇は使える主人が別々であった事である。梅王は道真、松王は道真に敵対する時平、桜丸は天皇の弟に使えている。その桜丸の行動が原因で道真は九州に左遷させられる事になるのである。その事に責任を感じ桜丸は自害する。その事を松王は嘆くのである。小太郎のような頑是無い子が成し遂げた事に比べて、桜丸の死が犬死だったのではないかと。

この松王の台詞で、観客は改めて、梅王丸、松王丸、桜丸、三兄弟の繋がりを思い出すのである。

(新橋演舞場 「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部)

 

 

特撮の展示会

東京都現代美術館で「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」が開催されている。庵野秀明さんを全く存知あげない。「新世紀エヴァンゲリオン」などを監督されたかたらしいが、この分野は異分野である。何に惹かれたかと言うと「特撮」である。

豊田四郎監督の「白婦人の妖恋」を見た。1956年東宝。原作・中国民話「白蛇伝」林房雄作「白夫人の妖術」より。脚本・八柱利雄。撮影・三浦利雄。特技監督・円谷英二。

この映画は白蛇の精(山口淑子)と貧しい青年(池部良)との恋物語である。円谷英二の東宝特撮カラー映画作品第一号だそうで、見ていて違和感はなかった。出だしから綺麗な河であろうか、湖水であろうか違う世界の映画ということを印象付けた。その事もあって<特撮>は気に懸かった。

その前に、三浦利雄キャメラマンの事を。テレビの映画解説で山本晋也監督が三浦利雄さんの名前の<三浦賞>のある事を話されていて、この方かと注目したのである。少し調べたら、この映画のあと「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)を撮影され亡くなられている。この二作品で幾つかの賞と芸術選奨を受けられている。豊田四郎監督とは、1953年「雁」・1955年「夫婦善哉」、そして、1956年「白夫人の妖恋」・「猫と庄造と二人のをんな」である。

<特撮>のほうにもどるが、チラシの写真の得体の知れない異星人?は何?「風の谷のナウシカ」に出て来て終盤動き出すがすぐ倒れて活躍しなかった<巨神兵>のキャラクターを使用しての復活。ここで初公開される、最新特撮短編映画「巨神兵東京に現わる」の<巨神兵>。この短編特撮の現場映像もあり、CGを使わない手作り特撮の技も公開され感嘆と驚嘆である。特撮職人一本道の楽しくも泣かせる世界が垣間見える。この時使われたミニチュアの街もあり、その中を歩いてデジカメに納めるも好し。

特撮の原点みたいな「ゴジラ」「モスラ」のような古い映画関係の資料やミニチュアもある。説明付きのイヤホンガイドもある。関連音楽も聞こえるとのことで袖を引かれたが時間がかかりそうなのでパス。ただ、「ゴジラ」の映画音楽は聞きたかった。DVDの雑誌の映画音楽のベストテン(洋画も含めて)に入っていた。「モスラ」はザ・ピーナッツの歌が印象的なので特撮は音楽的効果もかなり力を入れていたのであろう。

特撮の需要が減って、保存していたミニチュアの老朽化、忘れ去られる技・道具・資料をきちんと残して行きたいという気持ちから博物館として残せないかとの想いで企画された展示会である。その心情と真摯さが伝わる企画である。

円谷英二さんは、衣笠貞之助監督との関係からか林長二郎(長谷川一夫)さんのデビュ-作「稚児の剣法」(監督・犬塚稔)の撮影を担当しており( 円谷英一の本名で) 少し調べただけでも、林長二郎の映画18本も撮っている。長谷川一夫さんも円谷さんの撮影技量は賞賛していたそうである。

特撮としては、「ゴジラの逆襲」から特技監督の肩書きが固定されたとある。

チラシの裏に、スタジオジプリ・プロデューサー・鈴木敏夫さんが<こういう時代だからこそ、そうした職人たちの、“されど、われらが日々”を振り返るのも、悪くない。>とある。

9月18日 BS日本テレビ 「ぶらぶら美術館・博物館」で、「特撮博物館」を紹介してくれた。木場公園から木場公園大橋を渡ってくれスカイツリーも写してくれた。案内人の一人山田五郎さんは歌川広重の名所江戸百景<深川木場>の版画絵も紹介してくれさすが必殺案内人である。館内では、展示に係わられた原口智生さんが助っ人として登場。この方のお祖父さんが東宝の録音技師さんだったそうで、検索で「白婦人の妖恋」にも参加されてる事が解かった。

本当に様々な方々の積み重ねと錯綜で形成されていった事が解かる。この番組を見たら特撮映画に興味の無かった人も多少引き付けられたと思う。

私なぞは、黒澤映画のリアリティーは東宝の映画技術職人さんたちの力があってこそかなと想像してしまう。実写は特撮でない実写を、特撮は実写でない特撮を追い求めそれが東宝の気風を作っていたように思われる。