折り紙から映画へ

友人が新しい年なので会いましょうというので、どこか行きたいところはと尋ねる。ジュサブロー館、おりがみ会館ゆしまの小林、村上隆の五百羅漢図展、いい映画をやっていれば岩波ホールで映画、思いつくままにとのこと。

おりがみ会館を調べると御茶ノ水である。神保町の岩波ホールへは歩いていける。

岩波ホールでの映画は『ヴィオレットーある作家の肖像ー』。<彼女を支え続けたボーヴォワールとの絆>との文が目を引く。

ヴィオレット・ルデュック。全然しらない作家である。監督は映画『セラフィーヌの庭』のマルタン・プロヴォ監督である。

御茶ノ水駅で待ち合わせ、「おりがみ会館」へ行き、近くでランチをして、岩波にするか、移動して違う映画館にするか、会っての時間と好み次第である。時間調節として明治大学の「阿久悠記念館」も視野に入れる。

「おりがみ会館」なるものの存在を知らなかった。会館の前にあった案内板によると、<幼稚園発祥の地・教育折り紙発祥の地>とある。江戸時代に初代小林幸助さんはこの地で襖紙加工業をはじめた。明治になって初代文部大臣の森有礼さんが、折り紙を日本教育に取り入れ、正方形の折り紙を小林染紙店が製造し始めるのである。正方形の折り紙はここで作られたのだ。

ゆしまの小林には、落語家の黒門町の師匠こと桂文楽さんが勤めていたこともある。さらに、あの絵師川鍋暁斎さんが、隣に仮住まいしていたともいわれているのであるから驚く。文楽さんはたばこ入れ屋にもいて、たばこ入れの収集家でもあった。たしか「たばこと塩の博物館」に寄贈したはずである。

かつては、和紙を揉んだような江戸しぼりの作業もしていたようであるが、今は染めだけを工房で見せてくれる。はけで真っ赤な染めをしていた。

展示階には折紙のお雛様が展示されていたが、折り方も素晴らしいが和紙の質感と色、模様なども美しい。

売店にも沢山の和紙があり、渋い粋な縞から友禅柄、現代的模様まで、額にいれて眺めていたいような美しい多様な種類であった。

折り紙の講習などを通じて、和紙や折り紙の良さを伝えて行きたいとの趣旨の会館のようである。

ゆっくりできるであろうと近くのホテルでランチをする。友人は、次は岩波での映画優先ということで、混雑状況がわからないのでランチのあと早めに映画チケットを購入。整理番号20番なので安心である。「阿久悠記念館」はパスしてお茶をして時間調整とする。

映画『ヴィオレットーある作家の肖像ー』は、私生児で自分の生き方を見つけることが出来ず、母との確執などから、男性など人に愛されたいとだけ望んでいるような女性が、書くと言う行動に向かう。彼女はボーヴォワールに作品を読んでもらう。ボーヴォワールは彼女の生きる道は書くことにあると判断して、書くことによって全てを吐き出すことを勧める。

処女作『窒息』は世間には認められず、ボーヴォワールのほうは『第二の性』が大評判となる。ボーヴォワールにときとして寄りかかりたいヴィオレットとの距離をボーヴォワールは彼女流の距離感で保ち、援助しつつもヴィオレット自身の自立の道を見守る。このあたりが微妙である。ヴィオレットが真っ逆さまに転落する可能性もある。

しかし書くという行為をヴィオレットは捨てなかった。ボーヴォワールからも自立して書く行為と果敢に闘う。そして、恋もする。彼女はかつてのように、恋の裏切りも、自分の生い立ちや姿かたちの美醜のせいにはしなくなった。彼女は書きつづけ、作家として自立の道を切り開くのである。

対称的なヴィオレットとボーヴォワールの姿形、服装なども加え、その関係の危うさとどこかで流れる電流のようなつながりと火花が面白い。

鶴の折り方で翼のところで繋がった連鶴があるが、あのわずかな繋がりのように、心もとないが切れても一羽の鶴として飛び立てて、相手を眺められる状態というのも大切である。

友人の提案から、楽しい一日であった。

 

たばこと塩の博物館

「たばこと塩の博物館」で、隅田川関連の浮世絵展をやっていると知り、訪れる。軽く考えていたら、なかなかしっかりした展示であった。

<隅田川をめぐる文化と産業 ー浮世絵と写真でみる江戸・東京ー>

江戸時代の浮世絵の中の隅田川、行徳の塩浜で生産された塩の流通経路としての隅田川、さらに近代産業の工場が立ち並んだ隅田川と大きく三つにわかれている。

浮世絵のほうは、隅田川での庶民の遊興の様子、隅田川伝説、歌舞伎などの隅田川物などの関連浮世絵で、また一つ浮世絵を見る視点をもらった。

川には両岸があるわけで後方に何があるかで、人がどちら側に立ち、後方や前方の鳥居、塔の先端、森で三囲神社(みめぐりじんじゃ)、浅草寺、待乳山などと、そこに立っている人物になれるのである。

江戸の人がどんな風景を眺めていたか、描かれている人はこちらを向いているが、見ているこちらが、描かれている人の振りむいた時の目になっているのである。

風景は変化しても神社、仏閣が残っているため、隅田川は江戸時代が想像しやすい場所でもある。

多人数の遊興図には、春は花見のため鮮やかな緋毛氈(ひもうせん)を担いだ人がいる。これは、この後千葉市美術館(「初期浮世絵展」)へも行ったのであるが、一つの浮世絵に二人の緋毛氈を担ぐ人がいて、女性も担いでいた。楽しいときは、小さい毛氈であれば、私が担いでいきますよと言ったのかもしれない。一応自主的行動派と解釈しておく。

浮世絵と歌舞伎役者は切っても切れない関係であろうから、職人さんたちも歌舞伎役者が演じているのかと思わせる粋で格好よいのである。

女性の振袖が大きくゆれていたりするが、新春歌舞伎座での『廓三番叟』で、親造松ヶ枝の種之助さんの振袖がよくゆれて、絵師であればあのゆれを描くであろうなと思って見ていたので、やはりである。一人美人図は静止であるが、隅田川などを背景にすると、やはり動く様子や気持ちも表したくなるであろう。

肩にかかった白い手ぬぐいが肩から後ろに流れている。そんな時は背景の小さな旗や煙などが風で流れている。隅田川の風のさわやかさが伝わってくる。散る花とか、そこには人と空気の動きがあるのだ。

千葉市美術館での解説にもあったが、絵は高価であるが、その絵を庶民が安価に楽しむために版画という手法が考えられたというのが凄い。それも高度の職人さんの手を経てである。

隅田川といえば川開きや花火もある。庶民の楽しみと浮世絵はこれまた切っても切れない関係である。

隅田川にまつわる話しは、浅草寺のご本尊が三人の漁師によって隅田川で引き上げられたこと、在原業平が都を想ったところ、梅若丸伝説の残る場所でもある。

梅若丸伝説の水神に柳の植えられた梅若塚が遊興の場の絵にも重要な位置をしめている。

そして、歌舞伎の隅田川物に『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』がある。久松の姉・土手のお六夫婦が本所小梅でたばこ屋をいとなんでいて、三代目歌川豊国の浮世絵では、土手のお六の夫の鬼門喜兵衛衛がキセルをくわえながらたばこの葉を刻んでいる。

ここでやっと整理できた。『野崎村』は、近松半二作の『新版歌祭文』の一部。『お染の七役』は、『新版歌祭文』を新たに書き直した四世鶴屋南北の『於染久松色読販』の一部なのである。文化文政時代に早替りがはやり、南北さんがお染の早変わりとしたのである。なるほどそういうことか。豊国さんの絵で整理できた。

渓斎英泉さんの風景画『江戸八景 隅田川の落雁』の浮世絵もあった。隅田川が下流から上流に流れ、筑波山をめがけて雁の群れ飛んでいく。手前は三囲神社がありその前をキセルをくわえた馬方がのんびりと歩いている。風景画の英泉さんは構図もしっかりしている。怖いお栄さんに「この構図はだれとだれのだね」と言われないことを願う。まあお栄さんは「みんなそこから始るのさ」とも言うだろうが。

歌川国芳さんの『両国夕涼之図』は藍摺りと呼ばれ、歌舞伎役者が藍色の夏の装いでの花火見物であるが、この藍色は西洋から輸入された藍色染料を多用して摺られたとある。藍色の染料を輸入していたのである。

『たばこと塩の博物館』であるから、たばこに関する常設の展示もある。そこで刻みたばこがあった。髪の毛のような細さのたばこである。これも凄い技術である。それをたばこ入れに入れるわけである。これまた新春歌舞伎『源氏店』の蝙蝠安の自分のたばこ入れにたばこを押し詰める場面を思い出す。

たばこ入れを作るお店には、自分の気に入った柄の布を選んで作ってくれるように布地も置いてあった。

遊女の使っていた長いキセル、護身用のキセルなども展示されている。

キセルとなれば、新春歌舞伎では<浜松屋の場>の弁天小僧菊之助である。

たばこと歌舞伎も切り離せられない。十二代目団十郎さんの沢山のキセルを持った助六と二代目吉右衛門さんの立派なたばこ盆を前にする工藤祐経の写真もあった。

さらに塩である。日本には岩塩はないわけで、塩田である。舞踊などで『汐くみ』などがある。こちらは、業平さんの兄の行平さんが出てきて、優雅な踊りである。しかし、実際の塩田の塩作りは重労働である。

大変見どころの多い博物館である。今回は隅田川の浮世絵を中心にである。

千葉市美術館は「初期浮世絵」なので、広重、北斎、英泉、国芳の時代まで整理したいところであるが、時代的には二代目團十郎から七代目團十郎までつなぐようななものなのである。

「初期浮世絵展」だけでも、三分の二で疲れはてた。しかし美術館ショップで杉浦日向子さんの『百日紅』と出逢えたのでやはり呼ばれたのであろう。

鎌倉国宝館でも浮世絵展をやっており、2月には、太田美術館も改修工事がおわるので、この際であるからなんとかクリアーしたいものである。

 

 

2016年 新春歌舞伎総集編(2)

国立劇場『通し狂言 小春穏沖津白波(こはるなぎおきつしらなみ)ー小狐礼三ー』

今年は河竹黙阿弥さんの生誕200年に当たるそうで、2016年から200年を引くと1816年がお生まれです。亡くなられたのが1893年(78歳)。

歌舞伎座『直侍』、新橋演舞場『弁天小僧』、浅草公会堂『三人?三』『切られ与三』も黙阿弥さんの作品である。

『小春穏沖津白波』は1864年(49歳)初演である。<白波>というのは盗賊を主人公にしていて、この作品では日本駄右衛門、船玉のお才、小狐礼三の三人の盗賊が活躍するが、狐の妖術を使う小狐礼三の活躍が多い。

話しは芝居をみていれば判るようになっている。基本としてお家騒動があって、その主人のほうを助けるという話しである。武家社会の騒動を庶民の盗賊が主人公になって助けるのである。武士よりも盗賊のほうが格好良いということになる。

武家の月本家の若殿は傾城花月という女性がありながら、美しい姫君に出会うと口説いてしまうというタイプである。そんな若殿・数馬之助であるから、家来に乗っ取りをしかけられてしまう。悪人として狙うのはいつものごとく家宝である。家宝の「胡蝶の香合」があちらこちらの手に渡り最後は無事若殿の手もとにもどるのである。

その枠組みの中での、三人の盗賊がどう活躍するかは種明かししないほうが楽しめそうである。そして三人のそれぞれの台詞の聞かせどころは黙阿弥さんならではである。日本駄右衛門のゆとりの菊五郎さん、船玉のお才のどこか妖しく腹の座った時蔵さん、小狐礼三の若いが自信に充ちた菊之助さんとそれぞれ役が生きる台詞である。

船玉お才と小狐礼三の場面ごとでの出会いと探り合いも、それぞれが違う人物に化けていて忍びの者の感じもあって面白い。

狐の妖術というのが、狐であるからだまされるというたぐいの軽いものから、季節を変えてしまえるということもでき、これが舞台転換の楽しさを新春らしい彩にしてくれる。

さらに、外国の方なら「伏見稲荷!」と大喜びするであろう場面での立ち廻りもある。最後は日の出ありと、サービス満点の芝居となった。

亀三郎さん、亀寿さんを筆頭に若手の脇の形がしっかりして、落ち着いてみていられた。頼りない若殿の梅枝さんがじーっとその頼りなさを維持し、それを助けようとする周囲も手堅いし、それを失脚させようとする悪役の亀蔵さんを主に整っている。驚いたのは、若殿の相手、傾城花月の尾上右近さんである。いつの間にそんな手練手管を身につけたのであろうかと思わせる。

芝居のわかりやすさとともに、役の一人一人が特徴を出していてこういう人物なのだというのが良くわかる。狐もよく頑張られていた。

菊五郎劇団ならではのチームワークの良さが、のびのびとした新春を飾る芝居に作り上げられた。

 

2016年 新春歌舞伎総集編(1)

歌舞伎座、新橋演舞場、浅草公会堂の新春歌舞伎、身勝手な感想編である。

年も改まり、置き去りにしている古い物に少し触れてとゴソゴソやっていると、「歌舞伎名舞台集」のテープがあって、七代目幸四郎さんの名前がある。昨年の12月にご縁があり(一方的)、ご縁の続きと思い耳の滋養とする。

かつてこれを聴いたときは、その当時の実際に観る歌舞伎役者さんの台詞より軽くて味気なく感じたのであるが、いやいや、その軽さの修練度がそこはかとなく伝わってくる。

七代目幸四郎さん、十五代目羽左衛門さん、十三代目勘弥さん、二代目左團次さん、六代目梅幸さん、四代目松助さん、六代目三津五郎さん、初代鴈治郎さん、初代魁春さん、四代目福助さん などなどである。

役者さんは第一に声といわれるが、声のなかには台詞の妙味ということも含まれている。

新春歌舞伎の台詞では、吉右衛門さんの梶原平三、幸四郎さんの清正、左團次さんの家康、鴈治郎さんの伊左衛門である。

『石切梶原』の吉右衛門さんは重軽、硬軟、表裏、明暗、その辺りの使い分けがいい。周囲の役者さんがしっかりした台詞なので、吉右衛門さんの余裕と心の内の変化の面白さを増してくれる。

『二条城の清正』の幸四郎さんは、いつもは声のトーンを変えるのであるが、今回は秀頼を家康から守る一心に集中して、トーンを変えない。それが、秀頼の金太郎さんとの主従の関係に情を、左團次さんの家康との拮抗する緊迫感を作りだす。豊臣家が徳川家の上であることを、秀頼を補佐しつつぴしっとダメだしをするのがいい。金太郎さんの秀頼としての台詞も崩れない。

『吉田屋』の鴈治郎さんは動きからして上方芸の極みで、どうしてこういうぼんぼんがモテるのか理解に苦しむ可笑しさである。さらになぜ美しい夕霧の玉三郎さんがこんな伊左衛門に惚れるのかと不思議に思ってしまう。観ているほうには可笑しくても、恋する男の見えないところでの真剣さであろう。最後は身請けのお金が届くというあっけらかんとしたハッピーエンドである。それをあきさせず笑わせつつ見せるのが上方芸の摩訶不思議なところである。

あとは、単発で印象に残ったのが『白波五人男』の赤星十三郎の笑三郎さん。『源氏店』の蝙蝠安の澤村國矢さん。これは凄かった。今まで観た中で一番の蝙蝠安である。『直侍』の暗闇の丑松の吉之助さんの迷い。『毛抜』の粂寺弾正(くめでらだんじょう)の巳之助さんが表現はまだであるが弾正に作った声を最後まで押し通した。

台詞でピンを止められたのが、『茨木』の渡辺綱が物忌みをしているのは、安倍晴明の言いつけであるということ。『直侍』の直次郎の染五郎さんが三千歳に、自分は先祖代々の墓に入れない身だから、回向院の下屋敷で手を合わせてくれという。<回向院の下屋敷>とはどこか。<小塚原回向院>で、小塚原刑場そばの寺院で、本所回向院に関係する方が創建したそうで、なるほどである。この台詞で三千歳に対する直次郎の惚れ度がわかり惚れさせる三千歳の芝雀さんにも納得。

立ち回りでは、『白波五人男』の菊之助の海老蔵さんの動きがよい。

ハードルを上げさせてもらうのは、『義経千本桜』の狐忠信の松也さん。もう一歩動きも台詞も修練を。『三人吉三』のお嬢吉三の隼人さん、お富の米吉さん。途中でほころびが出てしまう。まだ日にちがあるので一日一日大切にされるであろう。役の重さに負けない若さが強み。

踊りで均衡を保っていたのが、『廓三番叟』『猩々』。孝太郎さんの花魁に風格が。酒売りの松緑さん唇を小さくピンク系の口紅で穏やかな酒売りとなった。

『茨木』は能がかりで受け手としては重すぎた。『七つ面』がどうして歌舞伎十八番なのか、その面白さが解からなかった。

くるくる回るお正月の独楽の中で、回りの悪い独楽の戯言とお許しを。はや眼が回り過ぎた。

 

本所深川で誕生の滝沢馬琴と小津安二郎監督

本所深川に、映画監督の小津安二郎さん関係の展示場所があるということは知っていたが、なかなか訪れる機会を逸していた。両国あたりをふらふらしているのでこの際にと訪れた。江東区の古石場(ふるいしば)文化センターの一階に「小津安二郎コーナー」として公開している。

東西線の木場駅でおりて、古石場文化センター → 門前仲町駅 → 滝沢馬琴誕生の地 (方向転換) → 小津安二郎誕生の地 → 門前仲町駅 と概略をきめる。予定外の出会いもあるであろう。

とにかく川と橋が多い。そして川辺には散歩道が整備されていたり公園になっていたりする。古石場文化センターに行く10分ほどの間に渡ったのが、舟木橋、汐見橋、東富橋、琴平橋と四つ渡った。

女優の原節子さんが9月5日に亡くなられた。小津監督が亡くなられてから映画界から引退の形となり、その後私生活も公開されることなく、<女優原節子>を美しいままで封印することとなった。「築山秀夫 小津コレクション展 女優原節子と監督小津安二郎」が2月14日まで展示されている。

築山さんは全国小津安二郎ネットワーク副会長をされ、小津監督のご遺族や関係者から提供されたものを展示されているらしい。その都度展示も変わるのであろう。

小津監督が使用していたという撮影用のカメラもあり、それが小さくて、三脚も低く、小津監督ならではの撮影位置なのであろうか。

原節子さんや小津監督の関係雑誌記事や写真、映画のポスターが見やすいように開かれて展示している。その中で、一番印象的だったのが、雑誌に載っていた原節子さんのくわえたばこ姿である。

『秋日和』の顔合わせのパーティーが原作者の里見弴さん宅で開かれ、里見さんが何かをうたわれその喉を披露されたらしく、それに原節子さんが率先して手拍子をされ、吸っていたたばこがくわえたばことなったところを撮られたようである。佐分利信さんもくわえたばこで手拍子されていて、そのときの楽しい空気がよくわかる。こういう場をもつ原さんのくわえたばこが何とも恰好良いのである。

原さんは、何か手伝おうとされたのであろうか。白い割烹着を着て、里見さんが後ろの紐を結んであげている。原さんは恐縮し、そのお二人を小津監督が優しいまなざしで見つめておられる。

小津監督は、亡くなられる前、見舞いに来られた吉田喜重監督と岡田茉利子さんご夫妻に「映画はドラマでアクシデントではない」と言われたそうであるが、アクシデントでおきた原節子さんの先の写真などは映画としては認めない写真ということになるのであろう。

懐かしいというより、いやはやまだまだ映画から刺激を与えられる女優原節子さんと小津監督であると思わせられた。

古石場文化センターでは月に一度映画会を開催しているようで、そのときに配る職員のかたの手作りの<江東シネマ倶楽部だより>には、築山秀夫さんもシネマ雑記を載せられていて、映画好きには興味深い映画だよりとなっている。もちろん頂いてきた。

1月9日から11日まで江東シネマフェステバルが開かれていて、岡本みね子さんと星由里子さんのゲストトークも予定されており、力の入れ方がつたわる。

二階には、映画関係の本とパンフレットやチラシがファイルされていて、あいうえお順に並んでいて100円で売っていた。映画好きの人であろう。椅子に座って一心に目当てのものはないかと探されていた。

ここで思いのほか楽しい時間を過ごさせてもらい、門前仲町に向かうが右手に小津橋がある。これは、この辺りで富を築いていた小津家にちなんでいるらしく、小津監督はその分家の生まれである。門前仲町から、清州通りの滝沢馬琴さんの誕生地を目指す。途中に小津監督のご両親のお墓がある陽岳寺があり隣に法乗院・えんま堂があった。『髪結新三』の新三が弥田五郎源七に待ち伏せされるのが<深川閻魔堂橋の場>である。関係あるのであろうか。

仙台堀川の海辺橋を渡ると深川老人福祉センターがありその前に滝沢馬琴誕生の地の案内板がある。

<1746年に生まれ、旗本松平信成の用心を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、1848年、82歳で亡くなる。1775年、9歳で父と死別し、その後は松平家の孫の遊び相手として一家を支え14歳のとき松平家を出る。門前仲町に住み文筆で身をたてようと、1790年山東京伝に入門。翌年処女作を発表。> 馬琴さんも苦労されている。

清澄庭園側に渡り、門前仲町に向かう。再び海辺橋を渡るとすぐに、<採茶庵跡>があり仮の縁台に腰かけている芭蕉さんの像がある。仙台堀川に沿って<芭蕉俳句の散歩道>があり芭蕉さんの俳句が並んでいる。<採茶庵>は弟子の杉山杉風の別邸でここから『奥の細道』に出発したと言われている。

確かめていないがここから隅田川沿いには<平賀源内・電気実験の地>もあるらしい。

驚いたのは、公衆トイレの壁に大きく『髪結新三』の閻魔橋の絵があり、 <描かれている橋は「えんま堂」の前に掛っていた黒亀橋、もとの富岡橋である> と説明文があった。やはり関係があったのである。

ところが小津監督の誕生の地の案内板が見つからなかった。以前歩いたときに偶然見つけたので簡単に見つかると思っていたら見事に裏切られた。確か芭蕉記念館から採茶庵跡を捜して門前仲町駅に向かった時見つけたと思ったのであるが、地図をみてもこの辺と思うあたりなのだが。

小津監督が通った小学校の位置もわかったので、終了とした。

今回寄れなかったが、昭和初期のたてもの<深川東京モダン館>が観光案内所になっているので、今度は寄ってからまた歩くことにする。

 

映画『駆込み女と駆出し男』

原作は井上ひさしさんの『東慶寺花だより』である。チラシをみて、題名『駆込み女と駆出し男』、駆け出し男は大泉洋さんなのであろう。大泉洋さんのイメージから、喜劇色を強くしたのであろうかと勝手にイメージして映画の公開時も見ていなかった。

見たところ、良い意味で想像をぶち破ってくれた。テンポの緩慢がいい。そこに入る音曲も。次の展開が想像を通過してストンと落ちる。言葉の駆け引きも井上ひさしさんの世界を裏切らない。<駆込み女と駆出し男と駆引き言葉>といった感じである。

さらにきちんと時代が流れている。その中にあって、曲亭馬琴さんが上手く一本線を引いている。曲亭馬琴さんと登場人物とのからみ、これがまた上手い。

江戸という町が、水野忠邦の天保の改革で贅沢はいけないということで庶民の楽しみが奪われていく。戯作者の為永春水さんなども罰される。そうした中で馬琴さんの『南総里見八犬伝』の完成が庶民に待たれるという空気が流れている。

そうした窮屈な空気から逃げ出した中村信次郎が、鎌倉の東慶寺の御用宿・柏屋の身内であったという設定である。井上ひさしさんのその見識からくるこの設定にはただまいる。

江戸時代に女性からの離婚は許されず、唯一鎌倉の東慶寺に逃げ込めばそれが可能であった。

そこに駆け込んだ女とそこから駆け出す男との話とし、その駆け出し男が戯作者を目指す。それでいながら、信次郎は医者見習いというか、医術も多少心得ている。そのために男性禁止の東慶寺にも入ることができ、東慶寺の中にも関われるということになる。どっちつかずの男が、そのどっちつかずで人間の真の姿を照らしてしまう。そのどっちつかずもついに年貢のおさめどきとなるのであるが。

それぞれの登場人物の俳優さんがいい。きちんとその人物像を構築してくれて自然に演じてくれて、すんなりと受け入れられる。それでいてしっかり印象付ける。

馬琴が山崎努さん。信次郎の大泉さんが馬琴と会うのがお風呂屋さんである。そこに登場する江戸っ子の嵐芳三郎さんの江戸弁。こういうところにきちんとした役者さんを配置するこだわりがいい。

女ながらもおじいちゃんに仕込まれた鉄練りを仕事とするじょごの戸田恵梨香さんと堀切屋の妾のお銀の満島ひかりさんの立場の違う腹の座りかた。

じょごを仕込んだおじいちゃんの風の金兵衛の中村嘉葎雄さんと馬琴の交流。

観るほうと同じようにお銀にだまされる堀切三郎衛門の堤真一さん。お銀さんの殺し文句が凄いですからね。真実の殺し文句でしたが。

柏屋の人々も三代目柏屋源兵衛の樹木希林さんを筆頭に仕事に真摯でいながら、どこか空気がもれている。大変な仕事なのに、何かあるとお膳がでて、どっちつかずの信次郎も生き死にの境にいる人々をも受け入れる。

信次郎に相い対すると、仏に仕える人が人の生きる道に合わせ、どこかくずれるのがこれまたおかしい。その得難い力を持っている役どころとして、大泉洋さんはど真ん中である。

渓斎英泉も、英泉らしく登場した。

監督・脚本が原田眞人監督。音楽が富貴晴美さんで『百日紅』『はじまりのみち』もこのかたである。

出演・木場勝巳、キムラ緑子、麿赤兒、高畑淳子、武田真冶、北村有起哉、中村育二、橋本じゅん、内山理名、陽月葦、神野美鈴、宮本裕子、松本若菜、円地晶子、玄里、山崎一、井之上隆志、山路和弘

小説、芝居の『東慶寺花だより』とは一味違う映画作品となった。

東慶寺からまた鎌倉が歩きたくなった。

東慶寺の水月観音菩薩

 

『肉筆浮世絵 美の競艶』展

肉筆浮世絵展をどこかでやっていたはずと調べたら、上野の森美術館であった。版画と違い肉筆であるから一点しかないわけである。

アメリカ・シカゴのロジャー・ウエストさんの個人所蔵なのだそうである。

映画『百日紅』(原作・杉浦日向子/監督・原恵一)の中で北斎さんのところに出入りしている善次郎は、お栄さんに<だめ善>と言われているが、後の渓斎英泉さんである。今回の肉筆浮世絵展で、英泉さんの絵が見たかった。今までも見ているのであるが、これが英泉だという取り込みかたはしていなかった。お栄さんの<だめ善>から俄然興味が湧く。

映画では、酔っ払い頼りなく机に向かいふうーっとため息をつき、絵を描く姿はない。お栄さんに<部類の女好き>と言われ、そうモテる風情でもない。ただお栄さんは軽くは言ってはいるが、その後の絵師としての才能は認めているらしく、最後に鉄蔵が90歳で亡くなり、その一年前に善次郎が死んだことを付け足して告げるのである。これは、善次郎がお栄さんの中で絵師であったとして死んだことを告げているのである。ここら辺りのお栄さんの言葉少ない語りも結構含みが感じられ、たまらないところである。

絵を見終わってチラシをみたら、12人の美人画の載っているうち英泉さんの絵が3作品載っているのである。驚きました。図録を買わなかったので、大切なチラシとなった。

表に「灯火文を読む女」「秋草二美人図』裏に「夏の洗い髪美人図」である。

「夏の洗い髪美人図」は、顔と手足が大きく腰が曲がっていて美しい立ち姿とはいえない。バランスが悪いのである。そのバランスの悪さを落ち着かすように足元なは花を生けた水盤がある。

図書館で美術書の英泉さんの浮世絵を見て来た。英泉さんはお栄さんの言うように<女好き>で、女性のいる色々な場所へ行っている。そして美人画も吉原、岡場所、水茶屋、下働き、町娘など様々な女性をとりあげ、美しさだけでなく、その姿態、媚態、気だるさ、はやる気持ちなど、それぞれの住む世界で生まれる姿を映しだしている。そして美しいと思わせても足をみると甲高で、平面的美しさを拒否しているかのようである。

「灯火文を読む女」は提灯の灯りで文を読む遊女であるが、遊女の身体のひねりと衣装の豪華さが、恋文の域をこえた激しさが伝わってくるようで、何が書かれているの、良い事悪い事と尋ねたくなる雰囲気である。

滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵を北斎さんは描いていて、英泉さんも描いている。どんな挿絵なのかは見ていないが見たいものである。滝沢馬琴さんも本所深川の生まれであるが、本所にいたのは短いようである。

北斎さんのチラシにも載っている「美人愛猫図」は、女性は美しいがその美人の胸元に抱かれ、着物の襟もとから身体をだしている猫の顔が美人にそぐわないほど可愛くないのが、お栄さんの <へんちきなじじいがありまして> を思い出してしまった。

さらに上野の森美術館のギャラリーでは『江戸から東京へ~浮世絵展』も開催されていた。上野近辺の江戸から東京にへの変遷が浮世絵で展開される。

上野の森美術館の前方に清水観音堂がある。ここは、歌川広重さんの名所江戸百景の「上野清水堂不忍池」の浮世絵になっている。そこに描かれている、くるりと曲った<月の松>が復活している。

英泉さんは広重さんと中山道の名所絵も共作しております。さらに英泉さん「美人東海道」というのもやっておりまして、美人の後ろに東海道宿が描かれているわけです。お栄さんのいう<だめ善>は、色々やってくれていますが、お栄さんからすれば「ふん」かもしれません。そして、死ぬのが早すぎるよと言いたかったのかもしれません。

映画『百日紅』は、浮世絵への興味を一段と増してくれた。永青文庫の『春画展』見ておくべきであった。

『肉筆浮世絵展』は1月17日までである。

映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(2)

日本橋側の墨田川テラスの土手の壁には、ドアのようなものがあったり、レンガが壁の跡のように残っていたりする。小学生の壁画や明治座開場之図などもある。前方には新大橋が見える。

上に木々が見えるので、この辺りが浜町公園であろうかと上にあがるとドンピシャリであった。浜町公園には中央区平和都市宣言の碑があった。

水天宮が改修中で仮宮が明治座の前にある。映画『麒麟の翼』では七福神の最後が水天宮であったが、最初に参拝することになった。映画『麒麟の翼』と七福神の関係は、殺された青柳さんが、<椙森(すぎのもり)神社>に千羽鶴をお賽銭箱に置いて写真を撮っていたことがわかり、そこから青柳さんは七福神めぐりをしていたのではという疑問点が浮かび上がる。

私は、 水天宮(弁財天)→笠間稲荷神社(寿老神)→末廣神社(毘沙門天)→椙森神社(恵比寿神)→寶田恵比寿神社→小網神社(福禄寿)→茶ノ木神社(布袋尊)→松島神社(大国主) とまわった。

映画『麒麟の翼』では、加賀刑事が 寶田恵比寿神社→小網神社→茶ノ木神社とまわり、松宮刑事が 松島神社→末廣神社→笠間稲荷神社 とまわり、二人で改修前の水天宮に向かうのである。

七福神であるから日本橋の七福神巡拝地図も七つの神社で、寶田恵比寿神社が入っていなかった。恵比寿様が重なるからであろうか。詳しいことはわからないが、八つでもいいように思うが。日本橋七福神の特徴はすべて神社で構成されていることだそうである。

無事七福神めぐりも済ませ日本橋へ向かう。

またまた江戸橋を渡り、地下道をくぐって日本橋に向かう。新しい銀行の建物に古い建物だった時の出入り口が一箇所だけ残されていたのがアート的で面白い。日本橋船着き場の船をみると乗船者でいっぱいである。隅田川で途中でみたときは乗船者も少なかったが午後になると人の出も多くなってきたようである。

日本橋の交番では外人の旅行者に「たいめいけんは・・・」と警察官が説明をしていた。外国の旅行者はよく調べて旅をしているように思う。映画『麒麟の翼』でも警察官は最初は外人に何か説明をしていた。

日本橋の<麒麟>も旅行者の写真のモデルとして大忙しであるが、愛想はふりまかず泰然としている。それとも頭上の高速道路が気に入らず不機嫌なのであろうか。

そこから、東京駅の八重洲中央口のシャングリラホテル東京の前にいく。ホテルに用事があるのではなく、そこの前から日本橋エリアに行く無料バスがでているということなので乘ってみたかったのである。10時から20時まで10分間隔で運行している。(メトロリンク日本橋~無料巡回バス~))

外堀通りから永代通りに曲がり停車したところの左に竹久夢二ゆかりの港屋跡地の碑が見えた。バスは左右どちらに座るかによって見えるものが違う。バスで日本橋を渡るのは初めてである。新日本橋駅の近くから中央通りをUターンしてきて、再び日本橋を渡ったところで降りたが、バスは京橋までいって東京駅の八重洲口にもどるのである。

今年はバスを使って移動して見たいとも思っていて、その先駆けとしての実験体験という形となった。地下鉄は時間が確実であるが、途中の景色が楽しめないのが残念でもあるのだ。

さてさて今年は、どんな街や路地と出逢えるであろうか。

 

 

映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(1)

2013年の1月に日本橋の七福神めぐりをと思ってから3年が経ってしまった。( 推理小説映画の中の橋 

映画(アニメ)『百日紅~Miss HOKUSAI~』は、葛飾北斎の娘のお栄を主人公にしている。

お栄さんは北斎さんの三女で、葛飾応為という絵師である。映画は、文化11年 1814年夏とある。お栄さん23歳の時である。

葛飾北斎さんは本所の生まれで1760年に生まれ1849年に亡くなったとされている。この映画の頃は北斎さん54歳あたりということになる。

ということは、勝小吉さんが、1802年生まれで1850年になくなっているから、本所のどこかであるいは両国橋あたりですれ違っていたかもしれない。ただ、北斎さんは10本の手足の指では足りないほど引っ越しをしていたので本所にずっといたのかどうかはわからないので想像上のことである。この時代の本所は、変わり者の逸材が多く交差していたようである。勝海舟さんは、1823年から1846年まで住んで居る。

『百日紅(さるすべり)』は両国橋を渡ってのお栄さんの登場である。原作は杉浦日向子さんである。杉浦さんの早すぎる死はなんとも残念である。しかし、お栄さんを描いていたとは、さすが杉浦日向子さんである。脚本は丸尾みなさん。監督は、木下恵介監督を描いた映画『はじまりのみち』の原恵一監督である。

お栄さんの人物の絵といい、しゃべり方といい(声は杏さん)お栄像を満喫させてもらった。周囲の人々の描き方も良い。目の不自由な妹のお猶(なお)との交流も絵師としてのほとばしる感性をそっけなく押さえているところが何んとも心憎い。

はじめに< へんちきなじじいがありまして >と父の北斎を紹介するのも、父を鉄蔵と呼び捨てにするのも、絵師葛飾北斎を一番わかっているのはお栄さんなので、かえってすがすがしい。

その彼女に誘われる様に、そうだ両国橋を渡って浜町まで歩き、日本橋の七福神めぐりをしようと思い立ったのである。

赤穂義士が渡らなかった両国橋を渡ることにする。

それから、葛飾北斎さんの生まれた通りは北斎通りと呼ばれ、今年あたりに<すみだ北斎美術館>として開館されるようで愉しみである。

両国橋を渡る前に隅田川ぞいの隅田川テラスを歩くことにして、隅田川テラス入口と表示のあるところから登ってテラスに下りる。蔵前橋方面の川上に進む。

汐によって川の水面が違い、夜歩いたときよりも水面が高いように思える。伊勢湾台風の時には、潮位が+5.02メートルとある。凄いことになっていたのである。

川を遮る手すりには相撲の技が二人の力士により形づくられている。そして、土手側の壁面には北斎さんの絵が描かれている。北斎さんは隅田川両岸の人々の暮らしを多数描いている。

そのほか、赤穂義士が両国橋まえで勢揃いしている絵もある。

両国橋方面に向きを変え両国橋の下から柳橋を見ると、日中は柳橋も灯りがなくおとなしい緑いろの姿である。

お天気もよく暖かなお正月で、隅田川テラス散策も快適である。

テラスから上がり両国橋の前に立つ。反対側には、赤穂義士の大高源吾の句碑と日露戦争の慰霊碑が見える。

両国橋からスカイツリーが見えたのであろうが、お栄さんの映像が頭にあって渡ることに集中し川をながめたりしていた。

渡った側に両国広小路の石碑があった。明暦の大火で橋が無かったために10万余の人が亡くなっている。対岸に行ければ助かったであろうことから武蔵国と下総国の二国をつなぐ橋として両国橋はかけられる。上野、浅草と並ぶ江戸三大広小路で、盛り場であったが今はその面影はない。

信号を渡り、<薬研掘不動尊>による。そこから隅田川方面に出たがテラスに下りるところがないので、両国橋のたもとまでもどりテラスに下りる。途中の路地から見えたスカイツリーがすっきりとしていた。

反対のテラスから振り返って見える構図が、『百日紅』の最期の絵の構図であった。

北斎さんが90歳でなくなり、それから8年後お栄さんは姿を消すのである。どこで死んだかも不明である。