会津若松町歩き (2)

会津武家屋敷は想像していたよりも広かった。主は家老屋敷・西郷頼母(さいごうたのも)邸の復元の建物であるが、建築面積は280坪、部屋が38ある。設計図が見つかり再現されたとある。開け放しであるから見学していても寒さが身にしみる。ここを出る時知ったのであるが、中を見学出来るのは12月から3月の雪の時期だけで、あとは、外からの見学なのだそうである。外周りに雪があるので外からは見て周れないからである。それは幸運であった。説明書きもよく見える。

御成り御殿といわれる一角がある。藩主と重役だけが通される別棟の部屋の一角である。そこで接待をするためのお茶などを用意する賄の間の柱の釘隠しは銅製ではなく、鋳物である。銅は湯気で緑青という毒物が発生するからである。西郷家家臣の執務する部屋。家族の部屋。使用人の部屋と台所。四つのブロックに分けることができる。家族の仏間は西郷家の自刃の間である。その再現は屋敷内の片長屋の資料館にある。自刃された人々の中には、お城に入るとなると城内の食料などを減らすことになるという考えも含まれていたようである。逃げる事をせず、負担もかけずの選択死なのであろう。頼母さんの場合はもう一つ、和議恭順説を主張し軟弱とも言われていたので、その事も家族として頼母さんの負い目とならない様にとの気持ちもあったのかと想像する。痛ましい事である。

西郷頼母は、会津藩松平家譜代の家臣で千七百石取りである。一石(いっこく)が米二俵半であるから米俵にすると、4250俵であろうか。どういう経緯かは解らぬが、榎本武揚の艦隊と合流し終戦をむかえている。各地の神官をつとめ一時期日光東照宮の宮司であった旧主君松平容保と再会を果たしている。晩年は城の近くの十軒長屋で居住し74歳で亡くなる。

司馬遼太郎さんの街道をゆく『白川・会津のみち』によると、容保は入浴以外肌身放さず長さ一尺ばかりの細い竹筒を身につけていて、死後竹筒を改めると「なんと孝明天皇の宸翰二通だった。」「会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護始末』に掲載するのである。」と書かれている。

頼母邸に入る門前先に西郷四郎像がある。この人は頼母さんの養子になったかたで、「姿三四郎」のモデルである。講道館を入門8年を経て明治23年に去り長崎に居をかまえ、東洋日の出新聞の編集責任者として活躍し病気療養中の広島の尾道で大正11年57歳で亡くなっている。投げられても地につくまで身をひるがえす柔軟さで「猫」と呼ばれていた。特技「山嵐」は彼の独特のもので、その後は禁じ手となる。新聞特派員として大陸や日露戦争、辛亥革命の報道でも活躍し、孫文らとも接触があったとも言われている。内田康夫さんの『風葬も城』に「夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる熱血漢「山嵐」も会津っぽで、江戸っ子の「坊ちゃん」とともに、いつも損ばかりしている。」とあり、<山嵐が会津っぽ>であることに気づかせてもらったのだが、さらに西郷四郎さんは夏目漱石の視野にも入っていたわけである。

持ち帰ったパンフや観光案内を見ると、いつものように行けなかった所、行きたい所が出てくる。一度行くと時間配分や使う交通手段も決まってきて計画は立てやすくなる。来年も沢山のプチ旅が出来ることを願っている。そして今まで平和な国であったことに感謝し、新しい年も平和な国でありますように。宇宙のことはよく知らないが、人間のような生命体が存在しているのは地球だけであろう。その地球で戦争をしないと誓って実行している国があるというのは誇れることだと思う。

お菓子の会津葵も買ってきた。カステラにあんが入っているハイカラなお菓子である。「小公子」を翻訳した若松賤子(しずこ)さんも会津出身で、ハイカラさんの多い町である。今度訪れることがあれば、会津の郷土料理を食したいと思う。風土からくる保存食の工夫が見られる。みしらず柿であろうか、列車から柿の実を残した木が多く見られた。この旅には「古典夜話ーけり子とかも子の対談集ー」(円地文子・白洲正子著)を持参したが面白く、旅で読み終わり、お二人には古典の魅力を鼻先に突き付けられ微香を嗅がせられてしまった。

 

会津若松町歩き (1)

会津若松から郡山までの列車の旅を日の暮れる前と限定しているので若松市内は4時間弱の町歩きとなる。途中で日が暮れては、列車からの雪景色も見えなくなってしまうからである。

七日町駅で降り、駅の前に観光案内があると電話で聞いておいたので、まずそこで相談する。4時間とすると何処をまわれるか。会津若松は若い頃一度来た事がある。鶴ヶ城での魚のにしんを保存食として漬けておく鰊ばちが印象深かった。本郷焼きである。それとやはり飯盛山の白虎隊のお墓である。今月国立劇場で歌舞伎の「主税と右衛門七」を見たが、大義名分があろうと若者の早すぎる死は理不尽である。今の時代そういう状況が現出したらそれは大人や老人の浅はかな思慮のなさである。

数十年前に来た時は夏で暑く、鶴ヶ城への坂がきつかったように記憶している。今回は寒さが厳しく駅の階段を急ぐと冷たい空気が呼吸を妨げるような感じなので無理をしない方針である。案内の係りの方に色々聞き、七日町通りを歩きそこからレンガ通りの野口英世青春通りまで行きそこから、まちなか周遊バスのハイカラさんに乗り武家屋敷に行く事とする。観光案内のすぐ横に風葬となっていた会津と幕府軍の死者を葬ることとなったお寺、阿弥陀寺がある。伴百悦という五百石の会津藩士が身分を非人に落として作業にあたったという。阿弥陀寺には1281体が埋葬されている。当初の墓碑は民政局から撤去を命ぜられ、明治6年に墓碑を立てることが出来た。個人では斎藤一、黒河内伝五郎の墓もある。

七日町通りは古い建物が点在していて飲食店や様々の販売店として活躍している。ぶらぶら眺めつつ歩いていると、清水屋旅館跡の碑があり、解説版には歴史上の人物が宿泊した旅館跡とある。吉田松陰、土方歳三、新島襄・八重夫妻、山本覚馬の娘・峰、青年時代の森鴎外(林太郎)。森鴎外の名があるとは意外である。その先に骨董屋さんがありその二階に昭和なつかし館として昭和30年代の生活を詰め込んでいた。紙芝居用の自転車などもあった。そこの姉妹店の珈琲館が野口英世青春館の後ろにありランチもやっているというので、ランチはそこにきめる。野口英世青春館は野口英世が火傷でうけた手の傷を手術をしてくれた会陽医院跡で、その手術によって野口英世は医学を志し、その医院の書生となり勉学に励むのである。勉学の部屋が二階に残っており見学できる。窓からは野口英世のみた風景が見れるのである。英世さん勉学だけではなく、初恋の地でもある。その初恋の人・山内ヨネさんに出会ったと思われる、英語を習いに行き洗礼をうけた教会も残っているようだ。帰ってからパンフレットで知る。

ランチをした珈琲館も蔵を利用していて、丁度ランチにきていた5人のOLからは生の会津弁をたっぷり聞かせてもらった。やはり寒いところ特有の重さのある発音である。バスの時刻表は案内でもらっているので、レトロなボンネットのバスで武家屋敷に向かう。途中でお菓子会津葵の暖簾を目にする。本店であろうか。バス停・奴郎ケ前で近藤勇の墓の標識があったが、今回は寄れない。バス停から15分位歩くようだ。バス停・武家屋敷前到着。寒いの一言である!

 

会津雪景色の旅

龍王峡散策 <雪の時期、この線で会津まで雪見の旅がよい、などと次の旅を思い描く。>と書いたが雪の時期である。どの位の雪があるか調べもせず実行する。

東武鬼怒川線の最終、新藤原から会津高原尾瀬口までが会津鬼怒川線、会津高原尾瀬口から西若松までが会津線、西若松から会津若松を通って郡山までがJR磐越西線(ばんえつさいせん)である。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』 <内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらにも興味がある。>の雰囲気も楽しみたい。

新藤原からの旅とするが、ここはまだ雪は無い。湯西川温泉を過ぎるとまだらに雪が現れる。トンネルを抜ける度に雪の量が多くなり、気持ちもワクワクしてくる。次の中三依(なかみおり)温泉駅に着くと一面雪である。新藤原から30分弱である。駅に入ってくる上り列車を撮る若者もいる。松の緑に刷毛で白をのせている風情も何とも言えない。もっと雪が多くなると白いマントを着た松となるのであろうか。

会津高原尾瀬口ではホームに雪が残っており、家々の屋根にも30センチほど雪が積もっている。風で積もった雪が煙のように飛んでいる。この電車は会津田島まで行き、そこで乗り換える。今度の電車は一両である。ホームの雪を踏みつつ乗り換える。会津が如何に雪国であるかが解る。旅行ツアーによく入っている観光地塔のへつりの駅がある。駅から歩いて5分くらいだそうである。ツアー2回ほど来たことがある。雪の塔のへつりも良いかもしれない。内田さんの小説「風葬の城」に出てくる芦牧温泉南駅を過ぎると大川ダム湖なのであろうか湖面が見える。大川ダム湖が若郷湖なのであろうか。持っている旅行雑誌にも載っていないのである。駅としては、次が大川ダム公園で次が芦牧温泉である。駅の案内板に載っていたのかもしれないが見過ごした。西若松で会津線は終点であるが、この電車は次が七日町、そして次の会津若松が終点となる。少し入り組んでいてややこしいのである。さらに七日町(なぬかまち)のほうが、古い町並みが残っていそうなので、七日町駅で降りる。

七日町での町歩きは飛ばして、帰りの会津若松から郡山の磐越西線の雪景色とする。会津若松駅過ぎしばらく走ると田畑が雪野原となり白一色である。東側の遠い山は霞み雪が降っているのであろう。西側は雪野原の先の雲のすき間から夕日がさしている。一日天候は曇りで最後に太陽が少し顔を出してくれた。雲がなければ眩しくて雪野原を眺めていることは出来なかったであろう。いい具合である。しばらくその景色を堪能する。そして山が迫るとトンネルに入る。来た時と反対に次第に雪が少なくなって行く。磐梯熱海から雪が消えていく。郡山では完全に雪はない。この変化に会津という土地の冬の自然風土を多少ながら感じることが出来た。寒さも肌にしっかり触れた。今回の列車の旅は短いながら雪を満喫することができた。

雪を見るだけで会津若松まで行かないで引き返してもよいと言っていた仲間もいたので、参考まで教えてあげることにしよう。会津田島の祇園会館か塔のへつりを見て引き返すのも良いかもしれない。

 

 

『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (3)

勘平腹切りの場では、勘平は家にもどり何かおかしい雰囲気だなあと思いつつ、おかるに紋服を出させ着替える。その場に相応しくないような、綺麗な浅葱色の着物である。この色が初めはその場の空気を変える華やかさなのであるが、次第に悲劇性に変えていく色となる。美しい色では覆い尽くせない事態となっていくのである。自分が舅を殺したと思った時から勘平の心は狂気さえを帯びてきて頭を抱える。染五郎さんは目の下あたりを薄い青系の化粧を加えた。もう死神に憑りつかれているような雰囲気である。それと鬘の黒いたぶさが乱れて揺れ、身体も心も究極のところにきているのが伝った。良い勘平であった。ただ勘三郎さんの勘平にはそこに色気が加わっていたのを思い出す。声の質か何なのであろうか。言葉では言い表せられないのである。

祇園一力の場は、おかると平右衛門との会話、「互いに見合わす顔と顔。それから、じゃらじゃら、じゃれつきだして身請けの相談」と由良之助の気持ちを推し量るところがあるが、その「互いに見合わす顔と顔。それから、じゃらじゃら、じゃれつきだして身請けの相談」が映画の台詞に突然出てきたのである。それがなんと『キクとイサム』である。キクが自分の肌の色の黒いのを気にし鏡に向かい白粉を塗り突然その台詞を言い始める。旅回りの芝居の真似も上手いので何処かで覚えたのであろう。脚本家の水木洋子さんも演劇にたずさわっていたことだし、きっと観劇もされていたであろう。この台詞をこの場面で使うのは、この映画の流れをも暗示しつつ軽さを加えたのか。やはりこの方の引き出しも多い。

その「じゃらじゃら、じゃれつきだして」は、おかるが二階から由良之助の誘いにのり、梯子段を降りてくる場面である。軽く酔狂に幸四郎さんは誘い出す。玉三郎さんも酔いに任せる感じで梯子を怖がりつつ下へと移動する。ぐるっと周ってくれば良いのであるが、由良之助には決めたことがある。邪魔の入らぬうち、おかるに悟られない前に上手くやらなければならない。酔いの座興のように進められる。由良之助は降りてきたおかるに女房になってくれないかと聞く。そんなの嘘とおかるは返す。由良之助、嘘からでた誠と返す。おかる、あなたのは嘘からでた誠でなくて誠から出た全てが噓々と冷やかす。この<じゃらじゃら>はただの<じゃらじゃら>ではないのであるが、その場では軽い<じゃらじゃら>で言葉遊びのようなところが楽しかった。

しかしこの平右衛門は自分が義士の仲間に入りたいために随分身勝手なことを考える人である。その勝手さを意識なく海老蔵さんは押していく。手紙を読んだおかるを自分が殺してその手柄で東下りに加わろうと必死である。おかるは勘平が死んだと聞き何の生きがいもなくなり、勘平の出来なかったことの役に立とうと納得する。その辺も繰り返しの可笑しさを含ませつつ進んでいく。この繰り返しは平右衛門の察しの悪さからきていて、結構この場は固くなって観ていたのであるが、そう観なくてもいいのだと今回感じた。

役者さんによって、この軽さ重さの比重が違うのも、情が浅いか深いかなど、芝居のどの辺の芯に行きつくかの面白味でもある。

と言いつつこちらは、未だ外堀を埋める事もかなわずその周辺を行きつ戻りつぶらぶらしている状態である。

 

 

『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2)

「道行旅路の花婿」は「落人(おちゅうど)」とも呼ばれる。塩冶判官にお供してきた勘平と、師直に顔世御前からの手紙を届けにきたおかるが出会い、相思相愛の若い二人が二人だけの世界に入ってしまい不忠となり、人目を忍んで落ちて行く人となるのである。

浅葱幕が落とされるとそこには、おかる(玉三郎)と勘平(海老蔵)が寄り添い笠で顔を隠し立っている。玉三郎さんは何か月ぶりであろうか。今回は「落人」の歌詞に一応目を通しておいた。舞台は遠目に富士が、桜と菜の花の明るい場面であるが、夜の設定なのである。場所は神奈川県の戸塚。東海道です。<気も戸塚はと吉田橋> 気もあせっていると土地の戸塚とをかけている。次のこちらの東海道の旅は保土ヶ谷から戸塚なので、嬉しくなる。広重の浮世絵〔戸塚 元町別道〕の橋が吉田橋らしい。しかし、鎌倉から落ち延びてきているのでややこしいのだが、そこのところは深く考えない。<墨絵の筆に夜の富士> そう夜なんです。難しいところは三味線と語りの調子と美しいお二人の動きとで楽しむだけ。

<泊りとまりの旅籠やで ほんの旅寝の仮枕 嬉しい仲じゃないかいな> おかるは少し浮き浮きした心持も。おかるのクドキは難しいようだ。おかるが世話女房になってはいけないらしいのである。実際観ていた時は、玉三郎さん静かに優雅に演じられたので感じなかったのであるが、時間がたち思い出していると、玉三郎さんは大きな役者さんなので、海老蔵さんより玉三郎さんの方が印象が大きくなりちょと困った現象の中にいる。おかるは腰元であるからそれなりの風格もある立場であり、単に可憐さだけでは駄目な役でもあろう。観ていた時はその振袖の扱いかたなどただただ美しいと見とれていたのである。<野暮な田舎の暮らしには 機(はた)も織り候 賃仕事>では、縫い物をする仕草がリアルで可笑しかった。所々に微笑ましいさを加え、打ち沈む勘平の気をひこうとするのが娘らしさの表れか。

<ねぐらを離れなく烏 かわい かわいの女夫(みょうと)づれ> かわい、かわいはカアカアと鳴く烏の声で、それを愛しいにかけている。反射的に「かわい かわいと烏は鳴くの かわい かわいと鳴くんだよ」(七つの子)が浮かぶ。作詞家の野口雨情さんこのあたりの歌詞も引き出しに入っていたかもしれない。

勘平が気を取り直したところに鷺坂伴内(権十郎)と花四天(はなよてん)が勘平を捕らえに現れる。権十郎さんは武士のいでたちから例の派手な着物姿に引き抜きのように変身でした。このかたちは初めて見た。勘平も噴き出す、洒落の効いた伴内の台詞。気分を変えさせる詞の力。

表情を変えず憂いを残す海老蔵さんと花四天の流麗な所作ダテ(舞踊味の強い立ち回り)があって、伴内を殺さずに逃がしてやり、勘平とおかるは花道から再び足を早めるのである。華麗な中にも悲愁と支え合う若い二人の面影を残す舞台であった。一幕見でもう一度見たかったが都合がつかないのが残念。

『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (1)

今回は11月で筋は書いたように思うので、印象に残ったところをピックアップしていこうと思う。

先ずは台詞などを勝手に繋いだ部分の訂正から。『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (2)で<塩冶判官はやっと心中を吐露出来る人物が現れ苦しさの中から、由良之助に伝える。「憎っくきは加古川本蔵・・・」そこで由良之助はその言葉を全部まで言わせない。この場に及んでそのことは言われるなと止める。>と書いたが、塩冶判官が加古川本蔵に抱きかかえられ無念と思う気持ちを伝えるのは、上使の(切腹を言い渡しに来た使者)石堂右馬之丞と薬師寺次郎左衛門に対してであった。その後由良之助が登場し、仔細は聞いたであろうと由良之助に問いかけ無念さを表し、それ以上はと由良之助が止めるのであるが、加古川本蔵に対する気持ちもこの時伝えたと思い違いをしていたのである。しかし、塩冶判官の中にはそのことも伝えたいという想いはあったはずで、それら全てを受けての由良之助の得心と思う。そこのところも重なっての男と男の約束と受け取ったのである。

12月のほうは、塩冶が菊之助さんで由良之助が幸四郎さん。年齢差の違いもあってか、若い城主に対する経験を踏んだ家老の引き受け方に写った。役者さんの組み合わせによっても芝居の感じは違うものである。

菊之助さんは、おっとりとして、血気にはやる染五郎さんの若狭之助を抑える。そのおっとりが次第に師直の嫌がらせに持ちこたえられなくなる様を出し、力尽きて由良之助に託す。顔世御前の七之助さんはその儚さが、塩冶判官の死を一層無念で悲壮なものにした。その若い主人の無念さを幸四郎さんがグッと受け止める。

斧定九郎の獅童さんが役にはまっていた。雨に濡れた髪のしずくを払い、袂を絞り、財布のお金を数えようと足の位置が決まり、決まったなと見えたら財布の中の指がゆっくり動いている。このタイミングが良い。そして、鉄砲に撃たれて振り向き、口から血が垂れるのはと思ったと同時に膝上に口から血が滴り落ちてきた。動きを貯めていながら、こちらの見たい時間にスーと動いてくれるので目が離せない。動きとこちらの思いが一致する。姿、形といい満足、満足。

獅童さんのお母さんが亡くなられた。舞台の十一段目では動きの激しい小林平八郎役である。千穐楽まで怪我のないように努められてほしい。もう一人歌舞伎役者さんで亡くなられた方がおられる。坂東 三津之助さんである。みの虫さん時代に印象づけられたのであるが、目もとに特徴があり、少し前かがみで大勢の時でも捜すことが出来、いました!いました!と見つけるとなぜか安心できる方であった。  【 合掌 】

 

大須演芸場

名古屋の大須演芸場が来年の1月で閉館となる。それを知って行動するのは忸怩たるものがあるが、一度は大須演芸場に座りたいと思っていた。関西方面への旅の時は何回か計画したのであるが、公演時間の関係から上手く組み入れることが出来なかった。なぜその場に座りたかったのか。志ん朝さんが1990年からそこで独演会を始めたと知っ時からである。

志ん朝さんが亡くなった2001年の10月に友人二人と犬山、明治村、名古屋の旅を計画していて、早過ぎる死に気落ちしつつの旅であった。二人の友人とは小中からの長い付き合いではあるが三人での旅は初めてである。長い付き合いを良いことに新幹線の中でも、今しゃべりたくないから二人で気にしないで談笑してと勝手を決めさせてもらう。次第に気分も晴れ間を覗かせ、名古屋での宿泊の夜は居酒屋でのお酒も美味しく飲めた。次の日、ひつまぶしを大須観音で食べようということになり、大須といえば大須演芸場もあるなと思い出す。大須観音にお参りし、大須演芸場の場所もわかり、ひつまぶしのお店を探す。友人がここが好さそうと当たりをつける。当たりであった。私たちの横の席で年配の方たちが、志ん朝さんの亡くなったことを話題にしている。物凄い親しみを込めて残念であると話されている。

こんなところで関東の落語家さんがこんな親しみをもって話されるとは、やはり志ん朝さんはさすがである。本当に残念でなりませんと思わず話しかけてしまった。その中のおひとりはこのお店の大女将さんで、そのお仲間と談笑されていたのである。そのお仲間が帰られて、大女将さんが私たちに話しかけられ、名古屋弁が生活から消えていくことを嘆かれていた。そして、名古屋弁を残すために小さなメモ帳のような製本された冊子を作られていて、お土産にどうぞとそれぞれに下さったのである。本当にこの地に愛着をもたれているのである。私たちは恐縮しつつ有難く頂戴した。

その旅から帰ってからである。大須演芸場の窮状を知った志ん朝さんがここで独演会を開催をされるようになったと知ったのは。そうであったのか。あの親しみの感じは。納得できた。その時一度は大須演芸場に座ろうと思ったのである。大須演芸場が無くなるということを聞かなかったら、まだ先伸ばしにしていたかもしれない。

出演者の中に快楽亭ブラックさんの名がある。<落語界の鬼才>とある。奇縁か鬼縁か。ブラックさんの名前を知ったのは、新聞に連載していた映画紹介の記事からである。見た映画見ない映画、どちらの映画も紹介や感想を毎回楽しみに読ませてもらっていた。そして、師匠の談志さんとの一緒の落語会で初めて聞かせてもらう。開国のころを題材にされていたのか(記憶が定かではない)外国人も登場し今まで聞いたことのない噺で面白かったのである。その後、浅草公会堂での新春浅草歌舞伎で、綿入れ半纏のブラックさんらしいいでたちの姿を見かけたことがあり、歌舞伎も見られるのか(落語家さんなのだから当たり前といえば当たり前ですが)と思っていたら、歌舞伎の本を出された。私の考えと違うところがあったので、本に挟まっていた葉書に意見を書き出版社に送ったが読んで貰えたかどうか。

今回の演目は「錦の袈裟(けさ)」。無難なまとめかたでした。志ん朝さんを思い出させてくれたのは、前に出ていた出演者の方をいじった時。志ん朝さんも前に出ていた方の話を聞いていて、ある二世の落語家さんが誰々の息子できちんと前座の修行もしたんですと言われたのを、落語家なんてたいした修行なんてしなくたってなれます。修行しているというのは、翁家のような曲芸で、あれは修行しなくては出来ません。と言われたのを思い出した。志ん朝さんは若手の修行の場としても演芸場を大切に考えられていた。

それに対し談志さんは、落語協会を辞められたため、お弟子さんたちはその日から自分たちで落語をやる場所を探すこととなった。志の輔さんも下北沢での出発時の話をされていたが、皆さん這い上がってこられた。次世代の育て方も様々である。ブラックさんはさらに違う育ち方をされたようであるが。<場>を維持するということは、演者と客との闘いでもある。それを提供する方の闘いも想像以上であろう。名古屋で生の演芸が見たり聞いたり出来なくなるのであろうか。

アクの強い芸人さんの中に、どういう事からここにいることになったのであろうか、と思わせる娘さんが出てきた。お茶子さんのような立場か、前座の芸人さんとも思われないが舞台の道具立てをする。お茶子さんのような着物を着ていて、機能的な動きで好きな動きである。次の出演の落語家さんの座布団を運んできた。それをトンと置いた。上には背の低いマイクを乗せていてそれを舞台の中央に置き、コンセントなのであろうか舞台の小さなふたを開けセットする。体が沈みそうもない座布団を持ち上げてから置いて、座布団中央の押さえの糸を、やっても無理だけれどと(これは私が新しいとは言えない座布団で綿を押さえている数本の糸もくたびれて見えて、整えても無理だけどやるに越したことはないと思った気持ちとの重なりで彼女の仕草と重なった気持ちの反映であるのだが)糸を少し整える。そして程よい動きで右そでに消える。落語が終わって彼女の動きを見るのが楽しみだった。コンセントを外し、そのマイクを座布団の上にポンと乗せそれを抱えて右そでに消えた。ただそれだけであるのに、機能的でそして程よい動きが気持ち良い。彼女は意識していないであろう。役目だからやっているのであろう。程よい動きというものが、程よい心持ちにするということを感じさせてくれた。

大須演芸場のお土産である。

 

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿)

やっと旧東海道歩きの仲間たちの神奈川宿から保土ヶ谷宿に参加できた。

東海道川崎宿から神奈川宿で、仲間たちの心残りを書いた。<神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていいた。心残りはそれらしい。> 次の神奈川宿から保土ヶ谷宿の時、生麦に寄ってビールを飲んではどうかと提案したら早速、キリンビール横浜工場の見学に申し込みをしたと連絡が入り、実行となった。ビール飲むなら行くという人も現れた。

京急電鉄の生麦駅で6人集合。無事保土ヶ谷まで着くのであろうか。途中に生麦事件の碑があったが工事中のため一時的に移転して現在の場所にある。

キリンビール横浜工場は予想以上に広大でさらに工事をしているらしく見学入口まで、ぐるりと回った感じである。ホップを手にし、麦芽を口に。香ばしい。ビンビールのビンを軽くしたり容器にも工夫をしている。なるほどなるほどと思っているうちに、お待ちかねの試飲である。種類を変えて三杯までOK!一杯目がまろやかで美味しい!その時ビールの美味しい注ぎ方を実演してくれてそれに見惚れてて慌てて二杯めを。そこで時間切れ。しっかり要領を解っていて三杯目をクリアーした人もいる。ビール工場を二つ周るツアーに参加し、六杯きちんと飲んで来たそうであるからさすが。心残りがまたまた残った人もいたが、もう次の事を考えていた。ビールを自分でつくり送ってもらうという有料体験コースもあり、これは人気で抽選だそうでこれに次は挑戦するようだ。

生麦駅にもどり、そこから電車で神奈川駅へ。人任せなので呑気なものである。一人の時は地図とにらめっこである。生麦事件のイギリス人は横浜の根岸競馬場からの帰りという話がでる。あの競馬場は外国人用の競馬場だったとか。調べていないので事実かどうかは定かではない。どんどん歩いていて、先導者が、あれ!あっちは横浜よね。旧東海道を飛ばしてきたのかな。立ち止まりつつ、その交差点の高台側にある欄干が青海波の模様の橋が気になっていた。狭い橋のようであるが、人が歩き車が走る橋。何故かあの橋が気になるんだけど。うん。気になる。とにかくあそこの橋まで上がってみよう。

正解。旧東海道であった。もどることとする。神奈川駅から青木橋を渡り、大覚寺と書かれている高台まで、まず上がるべきであったのだ。先導者これが東海道よ。さっきのの橋が上台橋。そこを神奈川駅方面にもどると、台の関門跡がある。さらに台の茶屋跡。広重の<台の景>の場所である。そこに案内版があり、今も残っている「田中家」さんという料亭は坂本竜馬のおりょうさんが働いていたところだそうだ。そこに広重の版画の写真もあり、まさしく東海道の面影がある。田中家さんの前身さくらやもある。かつては左手は海だったのである。横浜は海だったのですからね。

ふりだしにもどり本覚寺へ。横浜開港の時、アメリカ領事館となったお寺である。下まで降りてまた最初に通った道を引き換えす。途中食事をして、今時珍しくにぎやかなシルクロード天王町商店街を通り、帷子(かたびら)川にかかる帷子橋をわたり無事JR保土ヶ谷駅へ。

人任せは楽で楽しいのですが、観劇の事を先行したため時間も立ち、地図を見直していないので途中の記憶が抜けている。困ったものである。今回はビール工場と広重の東海道五十三次の神奈川宿<台の景>が残れば良しとしましょう。

保土ヶ谷駅前のお蕎麦屋さん「桑名屋」でおそばをいただきました。

次の保土ヶ谷宿から戸塚宿は参加できないようなので自力で何とかしなければ。

追記 : 保土ヶ谷宿から戸塚宿

保土ヶ谷宿から戸塚宿までは、戸塚から保土ヶ谷に逆方向で歩きそのためか権太坂が見つからず再度権太坂を探しに。見つけることができ無事歩きました。

歩いた日にちは違いますが一応、保土ヶ谷宿から戸塚宿で写真を並べてみました。

本陣跡案内板

保土ヶ谷の旧東海道は「歴史の道」として案内板を設置していました。小田原北条氏の家臣苅部豊前守の子孫が本陣を守っていました。三軒の脇本陣がありました。(藤屋、水屋、大金子屋)

脇本陣は普段は一般旅行客も宿泊させられますが本陣は参勤交代のためのだけの宿なので継続が難しくなる本陣もあったようです。

脇本陣(水屋)跡と保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設案内板

一里塚跡・上方見附跡

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樹源寺  

境内

旧東海道途中の小祠

旧東海道権太坂改修記念碑

権太坂案内板   権太坂の由来は旅人が坂の名前を老人に尋ねたら権太と自分の名前を答えた。

権太坂の石碑

権太坂案内板   もう一つの権太坂の名前の由来。権左衛門という人が代官の指示でひらいたので「権左坂」と名づけられたがいつのまにか権太坂となった。


境木立場跡   権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くが見晴らしは良かった。

境木地蔵尊

武相国境之木   武蔵と相模の国境

焼餅坂の案内板   坂の近くの茶店で焼餅を売っていた。

  

品濃一里塚   

一里塚公園

益田家のモチノキ

護良親王(もりながしんのう)首荒井戸   護良親王については深くは知りません。 

江戸方見附跡  戸塚宿に入るわけです。

吉田一里塚跡

清源院   徳川家康の側室だったお万の方が家康の供養をした。

境内に千手観音のあった朝日堂石碑。その右は心中歌碑。近くで心中があり住職が歌碑を建てた。   <井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶>

旧東海道 戸塚から藤沢 (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (3)

『忠臣蔵形容画合』は、仮名手本忠臣蔵を基盤にした舞踏劇とでも言えそうである。仮名手本忠臣蔵のパロディーとも言える。大序から七段目までである。作者はあの河竹黙阿弥。

初演は慶応元年(1865)で明治元年(1868)が慶応4年の9月8日からであるから、明治になる約3年前であろうか。ということは、幕末の紛糾している時でもある。その時期に忠臣蔵をパロディー化するということは、黙阿弥は武士の時代は終わると考えていたのであろうか。そのあたりの黙阿弥の考えを知りたいものである。黙阿弥が亡くなるのは、明治26年(1893)78歳の時である。黙阿弥は江戸時代を約50年、明治時代を約30年生きたことになり、明治に入っても作品は数多く書いている。江戸と明治に分けて黙阿弥の作品の変化を調べると黙阿弥の時代性が出てくるのかもしれない。そう思うだけであるが、そう考えるとこの『忠臣蔵形容画合』も時代の狭間に入っているようで、興味がわく。

『仮名手本忠臣蔵』と違い、軽いタッチのものである。音楽も竹本、清本、長唄と変化に富んでいる。大序の鶴ケ岡八幡宮前での、師直(又五郎)、塩冶判官(種之助)、若狭之助(歌昇)が引き抜きで奴三人となり踊るのである。酒による、怒り上戸、笑い上戸、泣き上戸である。又五郎さんとお子さん二人の踊りは初めてである。種之助さんは、愛嬌のある笑い上戸であった。おかると勘平の色にふけったばっかりにの逢引場面は米吉さんと隼人さんコンビ。

顔世御前(魁春)の桜の場面は初めてである。廣松さんが女方。記憶に残っているのは力弥。今回の力弥は鷹之資さん。11月の歌舞伎座でも力弥でした。何れは供奴を踊るでしょう。

斧定九郎が、歌六さんで凄味があります。ところが、与市兵衛との二役で、さらに猪となった与市兵衛と踊るという趣向。あれあれ花道に来てしまった。でもやはり鉄砲には撃たれます。与市兵衛の女房おかや(東蔵)は、与市兵衛と勘平を偲んで村の衆と念仏踊り。いつも忠義側の松江さんもひょうきんにと努められているのが可笑しい。

七段目はおかる(芝雀)と平右衛門(錦之助)の人形振り。思いかけない様々な様式を使いこの役がこんなかたちでと楽しみました。そして役者さんたちの変貌ぶりにも楽しませてもらいました。吉右衛門さんは定番の由良之助で貫禄たっぷりに締めて下さった。

黙阿弥さんは楽しんで書かれたのでしょうか。それともこれだけのアイデア四苦八苦だったのでしょうか。前者と思います。

供奴が出ましたので横道へ。『小石川の家』(青木玉著)の「長唄」に、露伴さんが三味線音楽で最も好んだのは長唄だろうと書かれていて、家で先生と供奴をお稽古している時の様子が描かれている。「時に祖父も混じって大合唱のテンツルテンツルで「見はぐるまいぞや、合点だ」となる。」 露伴さんが供奴を唄うとは、なんだかパロディーのようである。ラジオから流れる長唄もよく聞かれていたようである。

 

平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (2)

『弥作の鎌腹』は、千崎弥五郎と百姓をしている兄・弥作の話である。仮名手本忠臣蔵で千崎弥五郎は、山崎街道で勘平に会い、勘平に討ち入りを打ち明けた人物である。勘平はその時同志への拠出金を約束し、猪を撃ったつもりが人でその人の懐から50両盗んでしまい、そのお金を弥五郎に渡す。おかるも一文字屋へ引き取られ、姑に舅を撃ち殺したと責め立てられているところへ弥五郎と不破数右衛門が訪ねてくる。罪の責任をとり勘平は切腹。しかし、舅の傷は刀傷で、疑い晴れた勘平は連判状に名を連ねるのであるが、あの場面にいた、千崎弥五郎と兄の話である。江戸時代の歌舞伎好きの人であれば、芝居談義花盛りであったろう。

実直で他の百姓仲間からも慕われている弥作は、お世話になっている代官の七太夫(しちだゆう)から、弟の弥五郎を養子にとの申し込みがある。その後、隣村の代官の娘を娶るという。浪々の身となっている弟にとってこんな良い話はないと弥作は喜んで承諾する。

兄(吉右衛門)を訪れた弥五郎(又五郎)はそんな話に乗るわけにはいかないのである。これが、弥作が武士なら弟よ、武士の本懐とは何かと詰め寄るところであるが、百姓の弥作にとって、弟が良い職が見つかり生活が成り立てば良いのである。なぜ弟が断るのかわからない。弥五郎は仕方なく訳を話し、その話は内密にして代官(橘三郎)に養子の事を断ってくれと頼む。弥作は弟の固い決意を知り、代官のもとへ行く。ここから悲劇と喜劇の背中合わせが始まる。どんどん弥作は追い詰められていく。弥作が悪いわけではない。その正直さゆえに嵌められていってしまう。その辺の罪なき百姓の考えもつかない罠に嵌められていく悲しさと可笑しさを吉右衛門さんは明確に表現された。橘三郎さんも自分の利益のために脅したり賺したりその緩急が憎たらしくて、それでいながら、こういう人はいつの時代もいるなと思わせる。

弥作は本当の事を弟に言えない。仲の良い妻(芝雀)も間に入り弥作は益々混乱してしまう。そして、切腹の仕方を弟に聞くのである。この時弥作は武士なら切腹に値する事をやってしまったと思ったのであろう。塩冶判官の切腹の場は様式美で武士だから心構えということもあってか、痛いという感覚よりも、悔しさのほうが伝わるが、弥作の場合は観ている側も痛いのである。心構えもなく、その場に立たせられてしまった人の可笑しさと悲しさ。忠儀の名のもとに殉死しなければならなかった一人の百姓の物語である。

長閑な村にも、赤穂事件は侵入してきたのである。

話すつもりは無かったものを。聞くつもりは無かったものを。言うつもりはなかったものを。聞けるとは思っていなかったものを。それを何処へ伝えようか。伝えられてなるものか。ズドーン!である。そうなれば、稲を刈るかわりに鎌で・・・・・悲し・・・・