<対馬丸>学童疎開船

東北の旅の途中で沖縄の学童疎開船<対馬丸>のことを知る。両陛下が沖縄那覇市にある『対馬丸記念館』を訪問されるという報道ニュースをテレビで見て、初めて知ったのである。

1994年8月22日、アメリカの潜水艦の魚雷によって、沖縄から本土に疎開する学童が海に投げ出されたのである。学童を含め、1500人近くの方々が亡くなっている。

水木洋子展もラストへ で、<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>ということを知ったが、さらに、疎開児童まで途中で犠牲になってしまった事実があったのである。生き残った者にも、即、緘口令が言い渡される。生き残った方々の心の傷をさらに傷めつける事をしているのである。いつこの事実が公になったのであろうか。水木洋子さんが取材されたとき、この話は出たのであろうか。ひめゆり部隊のことは多くの人が知っているが、学童疎開船<対馬丸>のことは、どれだけの人が知っていたことであろう。沖縄には行っている。あの美しい海へ、次々と飛び込んだという話も聞いている。バスガイドさんから、様々な話も教えてもらった。聞き逃していたとすれば、うかつ者である。

寺山修司さんのお母さん・寺山はつさんの『母の螢 寺山修司のいる風景』を読んだ。夫を戦争で亡くし、文字通り母一人子一人の生活で戦争を乗り越えられている。その中で、青森での大空襲の中を、修ちゃんの手を引き逃げまわるのである。青森市も焼け野原となったのである。

寺山修司さんの青森高校三年の時の詩にこんなのがある。

すみれうた  - ひめゆりの塔へ

すみれの花が咲く頃には                                                                       また、かなしい海が                                                        耳をいじめるでしょう。                                                          だがー                                                                   バベルになってしまった塔には                                                   もう火の匂ひは ありますまい。                                                僕の中のさみしい空気層。                                                   いつも爆音があけてった穴を                                              繕っていたっけー。

少女よ。                                                                あなたの祈りは                                                                 母のことだったでしょうか。                                           いのちのことだったでしょうか。

僕はまた                                                                  あなたのひとみに 雲を映して                                                  ふるさとの葡萄を                                                                 食べたかった。

 

 

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2)

このバスツアーは、見学時間が20分から30分と短時間である。その乗りで次の朝、秋田県立美術館に行こうと思ったのかもしれない。バスガイドさんが多少年配のかたで、私的には期待していたのであるが当たりであった。歴史的なことをよく調べられていて、長いバスの中と見学の短さを補ってくれた。

宮城県は仙台に降りその後は、バスで通過である。1611年、奥州は地震と津波に見舞われていた。仙台藩も相当の被害があったが、徳川家はそこを見逃さなかった。仙台藩の財力をさらに弱めるため、江戸城の石垣を献上させ、外堀のために、人夫も出させたのである。そこで窮した仙台藩主・伊達政宗は、1613年に支倉常長(はせくらつねなが)をスペインとローマ教皇のもとへ派遣する。メキシコとの直接貿易を試みたわけである。きちんと江戸幕府の許可を取ったらしい。

常長が帰ってきた時は、キリシタン禁制である。政宗は、キリシタンの常長はかくまったが、他の帰国者は長崎で処刑されたようである。常長も帰国して2年後に亡くなっている。お墓が3つあり、何処に潜んでいたか判らないようにしていたことがうかがえる。バスガイドさんからの聞きかじりで、正確さは保証の限りではない。こういう流れがあったと知れたのが嬉しい。

山形と云えばさくらんぼであるが、途中の天童市は日本の95%もの将棋の駒を作っている街である。高いものは数百万円し、一つ一つ手作りで、文字も手彫りの中に、手書きで書き上げる。天童藩は織田信長の子孫が藩主となり、財政のため、将棋の駒作りを奨励したといわれる。衣を正し、戦うということで、武士道に通ずるともかんがえられたようである。<王将>と見ると大阪の坂田三吉さんを、思い出してしまうが、駒は山形の天童である。

山形には紅花もある。<紅花>となると、アニメの『おもひでぽろぽろ』が浮かぶ。秋田県に拠点をもつ<わらび座>の『ミュージカル おもひでぽろぽろ』(台本・作詞・齋藤雅文/演出・栗山民也/作曲・甲斐正人)を観たことがある。アニメをどう生の舞台にするのかと興味があった。途中で、これは、アニメを忘れて別ものとした観たほうが面白いと思った。アニメの、好きなのにわざと虚勢を張る少年の何とも言えない屈折はアニメ独特の淡い表現で、舞台では違う形で表現されていた。初めて観る劇団であったが、役者さん達の演技素地がしっかりしていて、演劇としての『おもひでぽろぽろ』は伝わってきた。

そんなことを思っている間に、バスガイドさんの説明は続く。慈恩寺の近くには、知名度の高い立石寺(りっしゃくじ)がある。そこから、芭蕉の話にもなる。このあたりは、『奥の細道』の現場でもあるわけで、ガイドさんによると、芭蕉の旅日程より、同行の曽良の日記のほうが正確なのだそうである。芭蕉は平泉から、立石寺を経て出羽三山に入っている。ここで、芭蕉の句をひとつ。

眉掃(まゆはき)を面影にして紅粉(べに)の花  <まゆはきをおもかげにしてべにのはな>

芭蕉さんは紅花の花の盛りのころに尾花沢に滞在していて、紅摘み、紅つき、紅干しを見ている。『奥の細道』に入ると道幅が細いどころか広くなるので、この歌だけとする。

ガイドさんではなく、私の調べたところによると、山寺・立石寺は、庶民の拠りどころとしたお寺であり、慈恩寺は、その時々の権力者に庇護されたお寺である。山寺は、石の世界でもあり、慈恩寺は平安、鎌倉の仏像の世界である。

その仏像を拝観する時間の短さに、流す涙の落ちる時間も無かった。感嘆符のみ!

 

東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北五県を巡る旅(1)

東北六県であるが、福島は通過で降車しなかったので、宮城山形秋田青森岩手と東北五県を巡る。

山形の慈恩寺に憧れを抱き、いつかは行くぞと思っていたら、今年は今世紀初の秘仏御開帳である。宮城県仙台からバスツアーが出ている。山形県<慈恩寺>から<羽黒山>へ行き秋田県の鶴岡に抜けるのである。そうなると、五能線で青森に出れる。青森の<県立美術館><三内丸山遺跡>に寄り、岩手県の一関から、<平泉世界遺産めぐり>のバスツアーがある。平泉が世界遺産となり初めて知ったのであるが、それまでは形として残っている中尊寺の金色堂と毛越寺(もうつうじ)だけが頭にあったが違うのである。奥州藤原氏三代の築き上げ理想とした、万人平等の平和な浄土の世界、それが100年続いたという事が評価の対象である。その拠りどころとなった建物で当時のまま残っているのが金色堂だけなのである。残されたわずかなものと、今も発掘が続けられている遺跡の地を訪ねて想像の翼を広げないと、捉えきれないのである。青森の<三内丸山遺跡>も今年の発掘調査が開始されたばかりであった。

これが、今回の旅の柱であったが、旅には、予定外のサプライズの出会いがつきもので、最初の宿泊地秋田で、出会いがあった。

友人が先に、東北から新潟への旅に出ていて、時々報告がメールで入る。彼女は、レンタカーを使い、石川雲蝶を追いかけている。石川雲蝶は<越後のミケランジェロ>といわれている彫り物師である。その一報に、「秋田県立美術館所蔵、藤田嗣治の『秋田の行事』が最高。他の油絵、素描も感激。」とある。こちらは仙台から秋田に抜けて、秋田に泊ったのであるが時間が無いと思いきや、朝起きて気が付く。美術館がホテルから5、6分。美術館は秋田駅から10分である。美術館の開館前に行くと、20分は時間をとれる。

『秋田の行事』見れた。一人一人の表情、筋肉の動き、人の動きによって踏まれた雪、今にも雪が降り出しそうな鈍よりとした空模様、右手の祭りの造り舞台では、秋田音頭が踊られていて、見物人は浴衣で、夏祭りであろうか。大平山三吉神社の大祭であろうか、鳥居を潜ろうとする神輿を担いだ男たち。その前面に漁師であろうか、厚い刺し子の長い防寒衣を着た大きな男。秋田竿燈(かんとう)もある。立てかけられた木材には秋田産の焼印。箱そり。秋田犬。継張りされた、夜店の囲い布の色が優しい。油絵、素描と凝縮された時間である。油絵の町芸人、力士などは、フェリー二監督の登場人物を思わせる。

『回想 寺山修司』の中で、『毛皮のマリー』パリ公演の最終日、ホモセクシュアル文化のメッカでもあり、その手の客を招待した時の様子を次のように表現している。「フェデリコ・フェリー二の映画からぬけだしてきたような着飾った連中が、まるで悪夢のようにどっと押し寄せたものだから、公演どころではなく奇妙なパーティー騒ぎになってしまったのである。」すぐ想像がつく光景描写である。やはり、旅の途中もどこかで寺山さんを引きずっているようだ。

感動を知らせてくれた友に感謝である。藤田嗣治さんの絵は、資産家・平野政吉さんが収集したもので、『秋田の行事』も平野家の米蔵の中で描いている。平野政吉コレクションとあるので、秋田県立美術館が所蔵しているのではないかもしれない。この壁画は、1937年(昭和12年)に新しい美術館に飾られる予定であったが、戦争のため美術館の建設が中止となり、一般公開されるのが、30年後の1967年(昭和42年)である。その間、平野家の米蔵で保管されていた。今は、秋田県立美術館に行けば藤田嗣治の『秋田の行事』を見る事ができるのである。時間の無い者には嬉しいことに、310円の観覧料であった。

もっと驚いたのは、青森の<三内丸山遺跡>は、展示室も含め無料である。あの広い縄文時代の<ムラ>の草刈りなど、ボランティアの方達がされているのだそうである。東北の地に根ざした力は凄いです。平泉にしろ、頼朝は恐れを感じていたことがわかる。東北独自の考え方を持つ現世の浄土感の土地だったのであるから。

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

パソコンを閉じて旅に出よう

寺山修司さんの、『書を捨てよ、町へ出よう』を捩らせてもらった。加藤健一事務所 『請願 ~核なき世界~』を観に、下北沢の本多劇場に行った帰り、劇場の下にある名前の判らぬ、楽しいお店に寄る。様々な雑貨や本、CDなどが置いてあるお店で、眺めているだけで楽しい場所である。迷路のような雑貨の間に本が、分野別にあり、その分野が無造作でありそうで、結構こだわりで置いてありそうで手が伸びる。そして、『 回想 寺山修司  百年たったら帰っておいで 』(九條今日子著)、『 寺山修司とポスター貼りと。  僕のありえない人生 』(笹目浩之著)をゲットする。

<天井桟敷>の設立の様子や、当時の若者を魅了した演劇という異界が裏から見れるという著書である。お二人とも、私的なことをも含め深く係られていたのであるが、お二人の生き方が、自分の仕事の役割という事を客観的に捉える眼を持たれていて、寺山さんをまやかしの情念の方向に持っていかないところが爽やかである。

今回の四日間の東北の旅は、バスツアーを二日入れており、<青森三沢市寺山修司記念館>には寄れないのである。もう少し寺山さんの作品を読んでからのほうが良いかもしれない。寺山修司没後30年「寺山修司◎映像詩展」のとき、九條今日子さんの話を聞いている。元女優であり、寺山さんの元夫人ということであったが、思いのほか虚勢の無い方であった。この好印象が、『回想 寺山修司』の本に手が伸びた要因の一つでもある。それは当たっていた。きちんと回顧録になっており、この手の一度読めば結構の妙な甘さがないのである。最後に九條さんに寺山さんのことを託された、<修ちゃんのお母さん>は修ちゃんのために最善のことをされたわけで、それに九條さんは嵌められたのか、知っていて嵌ったのかその辺は想像の域である。

この「寺山修司◎映像展」では、笹目浩之さんが経営するポスター・ハリスカンパニー主宰でポスターハリスギャラリー(渋谷・文化村通りドン・キホーテの裏)でポスター展をやっていたのであるが、、そのあたりを探したが場所が判らなかった。時間も無かったのであきらめた。残念な事をした。

今回の旅に「青森県立美術館」を入れていた。白い建物も見たかったのである。何を展示しているのかも調べていなかった。常設展として、<寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに>があり、寺山修司さんに逢えたのである。しかし、動かない展示物としての寺山ワールドは東京の街中で逢う寺山ワールドと違い、至っておとなしくうつった。青森に飲み込まれてしまったようである。それを考えるとあの、『田園に死す』の映像のインパクトが必然だったのか。『回想 寺山修司』の映画『田園に死す』の箇所で、民族考証として加わった田中忠三郎さんの名前があったのも嬉しい。田中さんを知ったのは、映画 『夢』 である。

寺山さんの作品は映像で、美輪明宏さんの『毛皮のマリー』を見ている。蝶を追いかける少年が誰だったのか覚えていない。少年は蝶を追いかけるのが目的か、捕まえてピンで留めるのが目的か、自分がピンで留められるのが望みか、逃げて自由に飛び回るのが望みか結論がない。飛んでは傷つき毛皮に包まれ、飛んでは傷つき毛皮に包まれ、そんな事を夢観ているのかもしれない。

どこかで蝶に出会うと、君はどんな少年に追いかけられてるのかと問いただしたくなる。

確か、映画『ビートルがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』で、リンゴ・スターが本ばかり読んでいて、マネジャーらしき人に「本を捨てて町に出よう」らしき事を言われるところがあったと思う。この映画も、ドキュメンタリータッチで、歌謡映画的予想をして観に行って戸惑った記憶がある。

戸惑いは、前進か裏切りか、安住でないことは確かである。

 

日本映画黄金時代の<にんじんくらぶ>~三大女優~

伊東四朗一座と熱海五郎一座の合同公演 『喜劇 日本映画頂上作戦 銀幕の掟をぶっ飛ばせ~』 を映像で観ている。ゲストが小林幸子さんで、かつての映画界の五社協定を想起させる芝居である。

今回は芝居にも出てくる<五社協定>に対抗して設立した、<にんじんくらぶ>についてである。この<にんじんくらぶ>は、映画好きの先輩から聞き、そんなことがあったのかと驚いたものである。その後詳しいことが判らなかったが、池袋の映画館「新文芸坐」にその資料があり購入した。

「新文芸坐」で2010年(平成22年)に<にんじんくらぶ>を設立した三人の女優の特集を上映したようで、その時 『「にんじんくらぶ」 三大女優の軌跡』(藤井秀男編)の本を作ったのである。

三大女優  岸恵子 ・ 有馬稲子 ・ 久我美子

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日本映画の黄金期、俳優さんはそれぞれの映画会社の専属制で、他社への出演を制限していたのが<五社協定>である。岸恵子さんによると、木下恵介監督の『女の園』で共演した久我美子さんと意気投合し、五社協定への反乱を思いつき、有馬稲子さんを誘い、1954年に独立プロダクション<にんじんくらぶ>を設立したとある。

岸さんは、その設立の前年の名作も紹介している。『にごりえ』(今井正監督)、『東京物語』(小津安二郎監督)、『ひめゆりの塔』(今井正監督)、『雨月物語』(溝口健二監督)、『雁』(豊田四郎監督)、『縮図』(新藤兼人監督)、『地獄門』(衣笠貞之助監督)、『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督)、『日本の悲劇』(木下恵介監督)。そして大興行記録を打ち立てた、岸さんと佐田啓二さんの『君の名は 第一部』(大庭秀雄監督)も、この年である。

岸恵子さんと久我美子さんが共演してお互いの考えに共鳴したきっかけの映画作品『女の園』は女子大での学生の学校に対する闘争を描いており、その撮影で共感しあったというのも面白い。この映画に出てくる他の女優陣も凄い。高峰美枝子、高峰秀子、浪花千栄子、毛利菊枝、東山千栄子、望月優子、原泉等である。学校と生徒の思惑の狭間に立ち犠牲になる学生も出て、木下監督の人間関係の複雑さと微妙さを描いている。

<にんじんくらぶ>の第一回制作作品は、有馬稲子主演、久我美子助演の『胸より胸に』(家城巳代治監督)である。『人間の条件』(小林正樹監督)、『もず』(澁谷實監督)、『お吟さま』(田中絹代監督)などがある。あの 映画 『乾いた花』 (篠田正浩監督)も<にんじんくらぶ>の制作である。1965年、『怪談』(小林正樹監督)で、製作費が嵩み興行後返済できず倒産となり、<にんじんくらぶ>も解散となる。

『人間の条件』も大ヒットしながら、松竹の買い取りより、製作費が越え、興行成績がよくても多額の赤字が残ったらしい。『人間の条件』にも『怪談』にも仲代達矢さんが出演されている。その仲代さんの<第二回 仲代達矢映画祭 6月7日~20日>が新文芸坐で開催されて、『永遠の人』・『怪談』の上映あと、仲代さんのトークショーがあった。残念ながら行けなかったが、仲代さんは、この『怪談』が<にんじんくらぶ>解散の一要因であることをご存じであろうか。キネ旬2位、カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞しているが、名作と興行収入とは比例しないようである。

<五社協定>も、それに反発した若き三大女優が引き起こした行動により、その後の独立プロの立ち上げとプロセスを模索する壁としての役割を果たしたことになる。<にんじんくらぶ>については、詳細を知りたかったので、これで少しすっきりした気分である。

岸さん、有馬さん、久我さんの三人が共演している映画を年譜から探したら一作品だけあった。1959年の『風花(かざはな)』(木下恵介監督)である。

旧家の息子と貧しい娘(岸)は、許されぬ恋愛のはて、橋から飛び降り心中をする。息子は死に、娘は生きのびる。そして子供を宿しており、行くところのない娘は、旧家の納屋で子供を産み、使用人としての扱いの中で子供を育てる。旧家のお嬢様(久我)が、何かと親子に心を注ぎ、息子(川津祐介)はお嬢様に恋心を抱く。この家を支えている祖母(東山千栄子)は、家のため八歳年下の夫を養子に向かえ周囲から陰口を叩かれ、それを見返すため孫(久我)の嫁入り先にこだわる。ついに祖母の気に入った嫁ぎ先が決まる。お嬢様も友人(有馬)のように東京に出ていき、自分の生活を打ち立てるようなことが出来る人間ではないことを悟っており、その結婚を受け入れる。

蔑まされて息子を育てた母は、お嬢様が結婚したらこの家を出て、息子と新しい生活をすると息子と約束していた。その日、息子はお嬢様への思いを立ちきり、母は今まで通ることの無かったあの橋を渡る。橋の上を花びらのように飛び舞う雪。

「風花は、晴れたお天気の良い日に、どこからか風に乘って舞ってくるこんな雪のことなんだよ。」

ただこの映画は<にんじんくらぶ>制作ではない。松竹である。岸さんの役の女性がどうしてもっと早くこの家を出ないのかと思ったのだが、今気が付いた。彼女は、自分の行動で、お嬢様の縁談に支障をきたしたくなかったのである。彼女は、姪と思っていたのである。他の家族の扱いがどうであれ、叔母としての心の中での彼女の立場を貫いたのである。

監督・脚本・木下恵介/撮影・楠田浩之/音楽・木下忠司/出演・岸恵子、有馬稲子、久我美子、川津祐介、笠智衆、東山千栄子、和泉雅子(久我さんの子供時代)

 

新橋演舞場 『天然女房のスパイ大作戦』

『天然女房のスパイ大作戦』の題名に <熱海五郎一座><東京喜劇><新橋演舞場進出記念公演>などと名うたれている。

<熱海五郎一座>とみると、伝説的な<雲の上団五郎一座>を思い浮かべる。映画にもなっているが、その生の舞台は映画では表せないほどの面白さだったようである。熱海五郎一座が目指すのは軽演劇で、その<軽演劇>の規定基準はよくわからない。判らないからその基準で観劇はしない。その場限りのお楽しみ観劇である。<東京喜劇>とあるからには、<青森喜劇>とか<那覇喜劇>とかあるのかどうか。<新橋演舞場進出記念公演>とあるからには、新橋演舞場は<熱海五郎一座>にとって、進出すべき劇場なのであろう。この舞台に立った演劇のジャンルと、芸人さんたちの多さに関係しているようである。その中に自分たちも入りたい。そのことは、三宅裕司さんがカーテンコールの後の挨拶で触れられていた。

あら筋は、妻が、夫が浮気しているのではないかの疑いから、夫の行動を調べている間に、夫が知らない間に男性下着メイカーに転職していて、その新製品の開発に苦労しており、その夫を助けるべく産業スパイとなって活躍、いや、混乱を巻き起こすというものである。その、天然女房が、沢口靖子さん。夫が三宅裕司さん。私立探偵が東貴博さん(深沢邦之さんとの交互出演)。夫の上司の小倉久寛さん。夫のライバルの渡辺正行さん。社長のラサール石井さん。スパイ学校の責任者、春風亭昇太さん。歌う産業スパイ(と思います)の朝海ひかるさんである。

朝海さんの役が曖昧なのは、歌唱力と動きに魅了されてしまうからである。歌詞がハチャメチャでる。なのに高らかに歌い上げてしまうと、何か価値ある歌を聴いた気分にさせられてしまうのである。歌っているご本人、歌詞を無視しているか、自分のなかで、歌詞を変えて歌われているに違いない。歌詞と歌唱力のギャップが可笑しい。

芝居の筋の中で、色々な組み合わせの、ボケと突っ込みを楽しむことになる。このバトル、熱海五郎一座ご贔屓の観客はその辺りをすでに飲みこんでいるらしい。私も他のゲストでのメンバーの舞台映像は2つばかり観ているので予想はついた。今回、私的に面白かったのは、沢口さんと昇太さんのコンビの場面である。どこかずれる(役的にも、波長的にも)二人の行動が可笑しい。コンビでありながら、それぞれがマイぺースに行動し、自分のとんちんかんさも相手のとんちんかんさにも気が付かないのである。常識の突っ込みの入らない場を作ったのはパターン化の羅列を救った。

一つ不満だったのは、沢口さんと三宅さんの場で天然女房が発揮されなかったことである。この夫婦の場で、この奥さんは本当に天然という雰囲気が欲しかった。夫を愛するがゆえの一直線の行動の可笑しさが薄かった。筋通りの天然に終わってしまった。

面白すぎた科白は、社長が、新製品開発に成功したほうに社長の椅子を譲ると渡部さんと小倉さんに言い渡したとき、小倉さんが、「机は譲ってもらえないんですか。」と云ったときである。こちらは、社長の座と思って居るのに、突然、椅子と机の関係が生じたわけで、この科白を聴いたときの自分の頭の中の回転に、それを起こした科白に大笑いしてしまった。ラサール石井さんが呆れながら、「机も譲るよ。」

昇太さんの小話。これは、毎回変えるのかどうか。落語家の意地の見せ所と思うが。受ける受けないは、その日の観客のバロメイター。

始まる幕前で早々、シンバッシーで万雷の拍手。東さん複雑。何もせずに受ける渡部さん。

これだけネタばれしても笑えるところはまだ沢山あるので、お探しあれ。新橋演舞場の花道や舞台装置が使えるのも、劇団の新たな挑戦だったのであろう。

作・吉高寿男/構成・演出・三宅裕司

 

加藤健一事務所 『請願 ~核なき世界~』

加藤健一さんと三田和代さんの二人芝居である。

舞台での三田和代さんは初めてである。こういう感じの役者さんであろうなあと想像してた以上に繊細な役作りをされていた。『請願 ~核なき世界~』。題名から重そうなテーマと思うが、しっかり論争しあっているのに笑いがあるのである。それは、三田さん役の妻・エリザベスがどこにでもいそうな女性でありながら、相手との関係を大切にしながら自分の意見も主張する女性で、切り込みつつもユーモアもあり、夫・エドムンドの返答にグサリと突くところは、見ている者を楽しませてくれる。考えていながら行動するときは、夫をも窮地に追い込むのであるが、きちんと説明するエネルギーには驚くと同時にエリザベスという人物の芯でもあり魅力でもある。口当たりのよい言葉で説明しようとはしない。逃げないのである。自分の考えを模索して自分の頭で考え間違いも起こすが、血の躍動感を感じさせる人である。そう思える、エリザベスを三田さんは造られた。

リビングで老夫婦がお茶をしながらそれぞれ新聞を読んでいる。エドムンドは新聞を読みつつその内容にイライラしている。そんな夫を軽く注意したり、いなしたり、妻のエリザベスはこうやって夫に寄り添って生きてきたのかなと思わせる。ところが、エドムンドは新聞の<全面核兵器反対>の請願広告の署名欄に、「レディー・エリザベス・ミルトン」、妻の名前を発見するのである。エリザベスは遂に話し合う時がきたと、夫と向き合うのである。エドムンドは、元陸軍大将であり、核兵器があるからこそ、その脅威によって平和が保たれているとの信念で英国に忠誠を誓った身である。その妻が何たることか。エリザベスは核兵器を今まで使わなかったが、もしヒットラーのような狂人がまた出現したら、使わないと言えるのか。無ければ使えないのであるから無くしたほうがよいとの考えである。

この核の問題から、お互いの過去のことなどが夫婦の会話として、観客に披露される。その会話が楽しいのである。エドムンドは軍事的作戦で交戦する。エリザベスは歴史的流れから交戦する。エリザベスは子宮がんを患っており、時々、腹部の傷みにお腹に手を当てる。そうすると、エドムンドは心配でエリザベスに駆け寄る。エリザベスは、自分の病気に対しオロオロしないでほしいという。そのことによって自分が優位になったりするのは潔しとしないように受け取れた。いつもと同じ状態で、意見を主張したいのである。この二人を取り巻く人間関係も判ってくる。最初にエドムンドは、戦闘の軍事作戦がいかに難しく神経を使うかを主張したとき、エリザベスは、それよりも人と人のコミュニケーションのほうが、ずうっと難しく神経を使うと主張する。ある意味では戦争か外交かと言っているようである。エリザベスはあなたのやっていることはゲームだとまで言い切る。そして、今度自分は、スピーチに立つと告げる。

ここで上手く補足出来ないのが残念であるが、こうした大きな話が、二人の今までの個人的関係と交差するのである。それゆえ、核兵器反対、賛成の議論のメッセージ芝居と思っては困る。この二人の会話を聴かなければ、二人の夫婦の歩んできた何処にでもあるような凹凸の機微は捉えてもらえない。そしてこの会話を成立させた作者の腕前と役者さんの腕前も納得してもらえないであろう。

エリザベスは自分の力で今解決するとは思っていない。次の世代、いやその次の世代に選択できる余地を残しておきたいのだ。そして、彼女は限られた時間しか残されていないが、このままいつもの通りに過ごしましょうと夫に告げる。意見は違っても、残された日常はこのまま、今まで通り。

二人にとって、考え方が違うからといって、それが何なの。二人で過ごした日常のほうがそんなことで壊れやしない。人間の日々の当たり前の時間、それがどんなに喜ばしいことか。何てことは言っていませんが、書いているうちにそんなふうに思えました。会話の巧みさは日本人は下手です。翻訳劇の面白さの一つは会話劇の面白さでもある。

自分の生き方に疑いのない エドムンドはこの、妻との会話、コミニケーションによって、その頑なさと妻との時間の短さに動揺する。エリザベスはそうなるであろうと、夫の性格をも冷静に捉えていた。だからこそ、これからも変わらぬ今まで通りの生活を望んだのである。

全て把握していたと思った自分の知らない妻を知る驚きと怒りを、加藤さんは頑固一徹から様々な感情に揺すぶられるエドモンドを見せてくれた。それは可笑しくもあり、プライドを保とうとする男の苛立ちでもあった。それでいながら、妻を失いたくない自分でコントロールできない感情も放出させ、エドモンドの今まで人に見せなかったであろう細やかさも伝えた。

チラシに 「三田和代さんと一緒なら、この夫婦の深い愛情のドラマを絶対に成功させる自信がある。 加藤健一 」とあったが、<絶対> という言葉、この場合は許せる。

これは、ラジオドラマにしても好い作品だと思う。

作・ブライアン・クラーク/訳・吉原豊司/演出・髙瀨久男

 

 

歌舞伎座六月 『素襖落』 『名月八幡祭』 

『素襖落(すおうおとし)』は、狂言の『素襖落』を歌舞伎の松羽目もの舞踊にしたもので、肩の力を抜いて楽しめる。ただ、初演の時の外題は『素襖落那須物語』で、太郎冠者が『那須与市物語』を踊る。

さる大名(左團次)が、伊勢参宮を思い立ち、同道を約束していた伯父のもとに太郎冠者(幸四郎)を使いに出す。伯父は留守で娘の姫御領(高麗蔵)が出立の祝いに酒を振る舞ってくれ、素襖まで与えられる。太郎冠者は、素襖を主人にとられては困ると隠し持ち帰る。お酒が過ぎて、主人の質問にも答えられず、上機嫌で小舞を舞い、小袖を落としてしまう。大名は素襖を拾い、太刀持鈍太郎(彌十郎)も加わり三人で踊りつつ素襖を奪い合い退場となる。

伯父宅での姫御領、次郎冠者(亀寿)、三郎吾(錦吾)の踊りがあり、賑やかなお酒となる。酔った太郎冠者は、壇ノ浦の合戦での那須与一が平家側の船上の扇を射落とした踊りと仕方話が繰り広げる。高麗蔵さんの姫御領が科白といい姿といいすっきりとしており、亀寿さん錦吾さんの踊りもきりりとしていて、幸四郎さんが「那須与市物語」入る雰囲気作りが出来上がっており、幸四郎さんの酔いながらの物語は洒脱であった。伯父宅を辞してからの酩酊ぶりも楽しく、ダレることなく、左團次さん、彌十郎さんとの素襖を挟んでの愉快な取り合いとなり息の合った舞台に仕上がった。

『名月八幡祭(めいげつはちまんまつり)』 実際にあった深川の芸者殺しが芝居となり、そのうちの河竹黙阿弥作『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)』を池田大伍が書き換えた作品である。

母一人子一人で真面目が取り柄の越後縮を行商している縮屋新助(吉右衛門)が、自由奔放な深川芸者美代吉(芝雀)に惚れこむ。その場しのぎの美代吉は、新助の一世一代の決断の深さを理解できず、新助はその裏切りが許せず、深川八幡祭礼の夜に美代吉を殺す結果となる。美代吉の性格を知っている魚惣(歌六)は、新助にああいう女はやめておいたほうがいいと忠告し、まさか真剣に惚れているとも思っていなかった。祭りを前に宿賃も勿体ないから一日も早く田舎に帰るという新助を、深川八幡の祭りを見てから帰ったらいいと引き留めてしまう。そのことが、新助を美代吉の住む生活に係らせてしまうのである。

美代吉は、旗本の藤岡慶次郎(又五郎)を旦那にしている。それでいながら遊び人の船頭三次(錦之助)を情夫にしている。この三次が美代吉に博打のお金をせびり、美代吉はそのために借金がある。深川芸者として名を売る美代吉はお祭りのために百両の金が必要である。三次にまた金をせびられ、新助のいる場で三次に愛想尽かしをし、その場の気分で新助に借金を申し込む。新助は、田舎の家、田畑全てを売り百両こしらえる。ところが、藤岡が手切れ金として百両届けてよこす。お金ができれば、新助のお金に要はない。新助はいいようにあしらわれる。一途さゆえに新助は狂乱し、美代吉を殺してしまう。

それぞれの生き方の違いが明確に表現された。純朴な働き者が、自分には手の届かないと想っていた女性と一緒になれる喜びを吉右衛門さんは徐々に変化させ、一気に狂乱へと突き進んでいく。芝雀さんは、その場限り楽しければ好いという深く考えない姉御肌の芸者美代吉を作り上げる。そんな美代吉を姉御と持ち上げ、美代吉と同類の三次・錦之助さん。武士として綺麗な遊び方をする旗本の又五郎さん。それが、新助を落とし込む結果となる。もう一人、新助の人間性を見誤った面倒見のよい歌六さん。それぞれの生き方がどこかで、新助の本来の生き方を違う方向に変えてしまう作用をしてしまうのである。本水を使っての殺しの場面の後、新助は祭りの若い衆に担がれて花道をさる。月が、何事もなかったように美しいのが物悲しい。

 

歌舞伎座六月 『蘭平物狂』

『蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』 この演目は、現松緑さんが、四代目を襲名したときの襲名興行演目でもあった。この演目は立廻りが半端でない動きで、見せ場のひとつでもあるのだが、襲名の時は不満であった。立ち回りが不満だったのではなく、息子繁蔵にたいする蘭平の慈愛が紋切型でこちらに響いてこないのである。今回はそれを一番期待し、今の松緑さんはどう表現するか楽しみであった。待ってた甲斐があった。特に繁蔵を探し繁蔵の名前を呼び回る時の一声、一声の抑揚が違い、どこにいるんだという焦りと不安が出ていた。そこを納得できたので満足であった。大河改め三代目左近さんがこれまた小さな身体を大きく見せての大奮闘である。

『蘭平物狂』は浄瑠璃の『倭仮名在原系図(やなとがなありわらけいず)』の四段目で、現在はこの段しか上演されない。在原とくれば業平で、在原業平といえば、『伊勢物語』のモデル、歌人で六歌仙の一人などが有名である。『倭仮名在原系図』は、業平の兄・行平(ゆきひら)の須磨に流されていた時の松風との恋物語に、皇位継承争いなどを取り込んだ話である。その話の四段目だけであるから、人間関係を理解し、立ち回りを楽しむとなると、頭の回線に油が必要である。さらに、この蘭平、刀物を見ると乱心するのである。凄い事を考えつくものである。このことを知っている行平は、蘭平が気に食わないと刀を抜いて蘭平を乱心させる。操ってしまうのだから恐ろしい。ところが、蘭平のこの奇病は計略のための偽りであった。蘭平は実は行平に滅ぼされた伴真澄(ばんのさねずみ)の子・義雄である。ところが、ところが行平はさらに上手で、蘭平=義雄と見破っていたのである。

行平(菊五郎)の奥方水無瀬御前(菊之助)は、夫が松風のことを忘れられず籠りがちなのを気にかけ、松風に似た与茂作(團蔵)の女房りく(時蔵)を松風としてめあわせる。喜ぶ行平のもとに罪人が逃げたという知らせがあり、その捕縛に蘭平(松緑)は刀物を見ると乱心するので息子の繁蔵(左近)を行かせる。蘭平は息子の事が気がかりで行平の言いつけも上の空である。怒った行平は刀を抜く。ここで、蘭平の乱心ぶりが披露される。ここは、行平が松風に与えた烏帽子と狩衣を使っての蘭平の踊りで、乱心を上手く使った見せ場である。

与茂作夫婦は、蘭平の素性を明らかにさせるための行平の回し者で、蘭平はそうとは知らず行平の罠にはまってしまい追われる立場となる。ここからが、立廻りの見せ場となり、追われながらも蘭平は、息子繁蔵はどこにいるのかと気をもみ心配にくれるのである。繁蔵は手柄をたて、与茂作実は行平の家臣・大江音人(おおえのおととど)の家来として、父を捕らえにくる。息子に対する慈愛から蘭平は繁蔵に捕らえられるのである。

このお芝居を見た時は、刀を見た時の乱心の面白さ、りくの松風になりすます可笑しさ、繁蔵は蘭平の息子という関係、大立廻りのダイナミックさあたりを楽しんだ。その後、行平の策略、蘭平の子を想う親心などが見方として加わり今回の『蘭平物狂』になったのである。

役者さんも若さまかせの躍動感のある動きから、内面の心情表現が加わり、二転、三転のどんでん返しがある話の筋と、それらが上手く舞台という時空の世界で展開され、観客と融合する沸騰点にまで高まり、消えていくのである。そういう経過を辿る芝居の典型が『蘭平物狂』にはあると思う。そして、左近さんの初舞台にふさわしい演目であった。いずれは、松緑さんの芸を捕らえなくてはならないのである。

 

歌舞伎座六月 『実盛物語』 『大石最後の一日』

『実盛物語』 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)での『義賢最期』に続く話である。木曽義賢の妻・葵御前(梅枝)は義賢の子を身ごもっており臨月である。その葵御前を匿っているのが百姓の九郎助夫婦(家橘・右之助)である。そこへ清盛の男の子が生まれたら殺すようにとの命を受けて、斎藤実盛(菊五郎)と瀬尾十郎(左團次)が検分にくる。九郎夫婦は窮して、孫の太郎吉が琵琶湖で拾ってきた白幡を握りしめていた片腕を、葵御前が産んだと差し出す。実盛は瀬尾を帰るように仕向け、白幡を離さずやむなくその女の片腕を切り落としたことを語る。その女の名は小万。小万は太郎吉の母であった。その片腕の手から白旗を離す時、太郎吉が指を一本、一本伸ばしてやると動くというのも、『三十三間堂棟由来』と同じように子に対しての反応である。その小万(菊之助)の死骸が運ばれてきて、片腕をつけて呼ぶと生き返り皆に別れをいうのである。

葵御前は無事男の子を出産する。瀬尾は戻ってきて、太郎吉に討たれるように自ら仕向ける。実は、小万は瀬尾の娘だったのである。自分を討つ事によって、孫の太郎吉に源氏の家来となれるよう手柄を立てさせたのである。太郎吉は自分は武士になったつもりで、母の敵の実盛を討とうとするが、実盛は、大人になったら討たれてやると約束して去るのである。

「平家物語」を下地としているので、巻の七にある「実盛」では、手塚太郎光盛に討たれるが、この太郎吉が芝居のなかで手塚太郎光盛の名をもらい、実盛の最後の先のほうのことまでを想定してこの芝居は作られている事になる。思慮深い実盛を菊五郎さんは、重くせず晴れやかな別れとして演じられた。その中で、菊之助さんの小万は源氏側としての執念をしめし、息子の太郎吉にその意思を伝える道筋をつくるのである。出は少ないが、『義賢最期』から繋がる小万の心を通す必要性がここにある。

『大石最後の一日』 仇討を終えた内蔵助(幸四郎)の最後の願いは、赤穂浪士が英雄としてではなく<初一念>で奢ることなく最後を向かえる事である。内蔵助は細川家に共にお預けとなっている浪士磯貝十郎左衛門(錦之助)のことが気になっていた。内蔵助の勘は的中し、磯貝と婚約したという娘が男装して小姓となり内蔵助と面談する。娘おみの(孝太郎)は、磯貝のおみのに対する心は本心なのか、それとも大事の前の世間を欺く偽りだったのかを聴きたいという。内蔵助は磯貝が琴の爪を懐に隠し持っていたのを知っていた。内蔵助はおみのに会う事によって、磯貝に迷いの生じることを懸念する。しかし、おみのの覚悟のほどもわかり、磯貝にも世に心残りなく<初一念>で死を向かえさせたく、おみのと磯貝を会わせ本心を伝えさせるのである。ここに至る内蔵助の人をよく見抜く細心さと、大きさを幸四郎さんは腹で演じられた。磯貝の本心を知ったおみよは自害するが、その覚悟のほどを孝太郎さんはしっかり内蔵助と対峙し盛り上げる。磯貝は錦之助さんのはまり役で、迷いとそんな自分にうろたえる戸惑いを乗り越え切腹の場所にすすむ。そして最後の一日の締めくくりとして大石は<初一念>を胸に安堵して花道を去るのである。

一つだけ残念なところがあった。上使の荒木十左衛門(我當)が、切腹を告げる。そして、そっと、吉良家は断絶となったことを告げる。その言葉に幸四郎さんは、声高らかに喜びを表現された。ここは、歌い上げて欲しくなかった。喜びはわかる。内蔵助は押さえ、他の浪士たちの喜びで充分伝わり、内蔵助の心の内はいかほどであろうかと想像するほうが、全体の出来上がりからするとよかったように想う。今回は幸四郎さんは全て受けの深さで通して欲しかった。好みの問題である。

細川家の子息細川内記役の隼人さんがしっかりした科白で 平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (1) の主税からさらに一歩成長されていた。内蔵助とおみの橋渡し役である彌十郎さんも好演であった。