映画『オーバー・フェンス』

探しているものが見つからないというのは不快ですね。それも、自分の整理整頓の悪さからきているのですから、忸怩(じくじ~PCの変換でないと書けません)たる思いがあります。映画『ダ・ヴィンチ・コード』のパンフレットがみつからないのです。映画『メリー・ポピンズ』へ行き着きたいのですが。

見つかるまで、最近見た映画『オーバー・フェンス』について。池袋新文芸坐での企画 「気になる日本映画達 <アイツラ> 2016 」 の中にも入っていて見に行こうと思っていましたら日程があわず、レンタルとなりました。

監督・山下敦弘/原作・佐藤泰志/脚本・高田亮/撮影・近藤龍人/音楽・オダギリジョー、蒼井優、松田翔太、北村有起哉、満島真之介、優香

函館の作家・佐藤泰志さんの原作で、佐藤泰志さんの映画化三部作『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』の最後の作品です。原作をどれも読んでいないので原作との比較はできませんし、内容というより撮影ロケ場所の点からいえば、『オーバー・フェンス』が一番気に入りました。

作品として重要な位置づけとなる撮影ロケ場所が、函館公園の中にある遊園地<こどものくに>なんです。昨年の春に函館に行った時、この公園に小さな遊園地がありまして観覧車には、「日本国内で稼働する現役の観覧車としては最古であるといわれています。」と案内板がありました。1950年に大沼湖畔東大島に設置され、当時は「空中遊覧車」と呼ばれ、1965年に現在の地に移設されました。

「空中遊覧車」とは当時の夢を感じます。直径10メートル、高さ12メートルです。乗ったのですが風景を見渡す感じではなく、大きな樹の枝と葉っぱがすぐ近いというかんじです。手動で乗る人がいれば止って乗せて動くので、乗る人が多ければ時間が長く、乗るひとが少なければ早く回ってしまいます。乗ったのは2組だけ。

日本最古の現役の観覧車に乗れたのですから満足です。

蒼井優さんが夜はキャバクラで働き、昼間はこの観覧車の係り員のアルバイトをしていて、観覧車に乗ってる子供たちに、「騒いじゃだめよ、落ちると体がぐちゃぐちゃになるからね」と注意しているところに、オダギリジョーさんがあらわれ「ぐちゃぐちゃにはならないだろう」と笑っていうのですが、この台詞が気に入りました。うまいこの台詞。ここでのこの観覧車ならではの名セリフと拍手です。

函館公園には小さな動物園もありまして、この動物園もこの映画作品では重要な意味があるのです。残念ながら動物園はのぞきませんでした。のぞいておけばよかった。

函館公園は、青柳町にあって啄木の歌碑があり、この公園の前の坂を登って行くと、石川啄木さんの住んでいた場所があるのです。下りて市電の青柳町停留所の次の谷地頭停留所の海側に石川啄木家の墓があり立待岬となります。

ミニ遊園地とミニ動物園、佐藤泰志さんの小説に出てくるのでしょうか。出てこないような気がするのですが、そのうち調べてみます。佐藤さんの作品には何らかの出来事で傷ついたり、その環境から抜け出せない人々が登場します。

オダギリジョーさんも仕事人間で離婚を経験していて、東京の会社を辞め、函館の職業訓練校に通っています。そこでの人々も紆余曲折をへて通ってきているのです。そこの仲間の松田翔太さんにさそわれて行ったキャバクラで、オダギリジョーさんと蒼井優さんとが出会うのですが、この二人はその前に偶然の出会いをしていたのです。その出会いも蒼井優さんの印象を強める面白い設定です。蒼井優さんは薬を飲んで精神的均衡を保っている女性で、その危うさのなかで、お互いに魅かれていき、ぶつかりあいながらも、多少の明かりが見えてくるといった流れですが、特に動物園は重要な場面となります。

皆危うくて、どこかで歯止めをかけていて皆の信頼度の高いオダギリジョーさんが、職業訓練校の仲間から誘われて居酒屋に来てみれば、若い子のお遊びのエサにされ、「おまえたちもすぐおじさんおばさんになるんだよ、すぐにな。」といってマジになって切れるところは、何かホッとします。穏やかに争いなくやっている人が時にはひっくり返すところです。こんなのにつき合ってられるかとの思いが、本音だけは言っておくぞといったところがいいです。そのオダギリジョーさんに謝り、気分を鎮めさせるのが、背中一面に入墨のある職業訓練校仲間の北村有起哉さんです。

松田翔太さん、北村有起哉さんも好演で、それぞれの生き方上の性格が表れています。

独特の感情表現をだす蒼井優さんと自分の生きる価値を見いだせないふわっとしたオダギリジョーさんの関係に独特の雰囲気があります。自転者に二人乗りして鳥の羽根を飛ばすあたりには、ありえないメルヘンタッチな映像ともなり自由な心の動きがとらえられます。

映画『海猫』にも少しだけ函館公園がでてきましが、出てきたなと思う程度で、『オーバー・フェンス』は無くてはならない場所としての役割です。

佐藤泰志さん、まさか死後、三部作などとして映画になるとはおもわなかったことでしょうね。

この三部作、函館を映画に取り入れた映画として探さなければ、見なかったかもしれません。

パンフレット探さなければ。五月は、見たい映画もあり、整理整頓月として、腰をすえ、旅はやめよう。

今もやっているでしょうか。函館山頂上の展望台で夜景を見た時、時間が経つと寒くなり、でももう一回見たいなと建物の中に入ったところ、函館の町の映像を上映するという場所があって、誰もいなくて一人だったのですが、昼間観た場所の映像もありなかなか観光客にとっては楽しかったのです。終わって、スクリーンの後ろのカーテンが開き、硝子越しの夜景がばーっと広がった時には、思わず感嘆の声がでてしまいました。凄いサプライズでした。

体も温まり二回目の夜景を楽しませてもらいました。あのサプライズは最高でした。知ってしまうとサプライズは成立しません。

 

映画『ぼくと魔法の言葉たち』と劇団民藝『送り火』

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のパンフレットが池袋の新文芸坐で安く売っていまして、いまさらと思いましたが購入しました。そこから、出演の俳優さんの出ている他の映画を見て、トム・ハンクスの初期や他作品などをみているうちに、映画『メリー・ポピンズ』に行き着きました。

チムチムニィ チムチムニィ チムチムチェリー ~~ のメロデイは、口ずさめます。でも映画は観ていませんでした。ディズニー映画です。そこへ行き着く前に映画館で『ぼくと魔法の言葉たち』の予告編を観ていまして、これは観たいと思っていましたので、行き着く先がディズニー映画というのも面白い方向性でした。

そして、映画『ぼくと魔法の言葉たち』を観てから劇団民藝の『送り火』を観劇したのです。おそらく映画『ぼくと魔法の言葉たち』を観ていなければ、『送り火』の主人公・吉沢照さんのお芝居の中での人生を深く納得し実感できなかったとおもいます。

ぼくと魔法の言葉たち』はドキュメンタリー映画です。ピーターパンになったオーウェンくんとフック船長になったお父さんが、楽しく役になりっきて遊んでいます。オーウェンくんは言葉を発しています。ところが、突然オーウェンくんは言葉を発しなくなります。二才の時(チラシによると)です。自閉症と診断されました。

四歳の時、言葉を発しますが、それは、意味の伴わないオウム言葉であると言われてしまいます。その後何か一人で言っている言葉が、ディズニー映画の台詞であると気づいたお父さんが、オームの<イアーゴ>になりっきて台詞をいいますと、オーウェンくんは次の台詞を返しました。お父さんは、オーウェンくんが言葉がわかり、物語のすじも理解していることを確信します。

オーウェンくんは大好きなディズニー映画の台詞を覚えていて、言葉の意味も理解し、映画の内容もわかっていたのです。物語は、完結します。何回観ても同じ完結です。物語とは違って現実世界はどんどん続いてしまいます。オーウェンくんは、次々と続く、現実世界の早い流れについていけなかったのです。次々起こる新しい出来事に不安になり、どうやって対処しコミュニケーションをとっていいのかわからず閉じこもってしまったのです。

そこからの経過はこと細かには語られていませんが、事あるごとにディズニー映画の世界にもどり、物語と現実世界との往復を家族はくり返したのだと思います。彼のために学校をさがしいじめにあったりもします。そして、彼にとって居心地の良い学校を卒業し、一人暮らしをはじめることとなり、さらに仕事もみつけるのです。

小さい頃、いかに不安であったかということが理解できます。今も新しいことに対しては不安なのですが、楽しみでもあるといいます。不安になったり、何かが出来たりしたとき、ちょっと待って、このディズニー映画のこの場面を見させてといって早回しをして、確認しホッとしたり、よしと次のステップに向かったりします。

自分は主人公にはなれないが、脇役の守護者にはなれるからと、脇役の絵を描いたり、脇役に囲まれての物語を書いたりします。彼の不安をアニメで描く手法が、見る者にオーウェンさんの不安の実態を受け止めやすくしてくれます。こうした障害の方のひとりひとりが違う不安とか、受け入れられないものとか、自分の中で整理されなくて納得できない何かを抱えているのでしょう。

オーウェンさんの場合は、それを包んでいてくれたのがディズニー映画の世界だったのです。現実の友達が欲しいとも思っていたのですが、そのコミュニケーションの方法がみつからず、六歳の時、彼を見つめ続けていた家族によってその扉は開かれるのです。

心の中にはいろいろな感情がありますが、オーウェンさんによって<不安>という感情をわかりやすく教えてくれるドキュメンタリー映画でもあります。その感情を乗り越えて進める方向をみつけていかなければならないのでしょう。

劇団民藝『送り火』は、場所は愛媛の山間の集落のひとつで、認知症の症状がでてきた女性・吉沢照(日色ともゑ)が、一人暮らしで、自分が自分のことをできるうちにと、ケアハウスに入ることを決心します。施設に入る前日の夕刻の話しで、照を訪ねてくる人々から、照の人生が照らし出されます。そしてその日はお盆の最後の日で、送り火をたく日でもあったのです。

本家のお嫁さん(船坂博子)は、照の兄が赤紙をもっらて逃亡し、非国民の親戚となってしまったことを話していきます。次に訪れた近所の泰子(仙北谷和子)は、兄が一緒に逃げたとされる女性の妹です。康子を迎に来た夫(安田正利)は、本当であれば照と結ばれていたかもしれない人です。このご夫婦は、何かと照を助けてくれていた人でもあり、夫はチカチカしている蛍光灯をとり替えてくれ話しをしていきます。

照は、それぞれの人に、色々な想いをじっと受けとめたり、思っていたことを語ったりしますが、自分が過ごしてきた厳しい現実を不思議なくらい怨みごととしてではなく、慈しむように話します。劇中の言葉は、愛媛の今治市の方言だそうで、訪ねてくる人に出されるのが、「イギス」と「夏ミカンの飴炊き」と「たくあん」です。それを食しながらお茶を飲み、茶のみ話のように、穏やかに語られていきます。

その会話から、照が保育園の先生をして、一人で両親を看取り、今その家を人手に渡し、ケアハウスに入所することにしたこともわかります。ケアハウスに持っていく物の中に、照の好きな『ナルニア国物語』の<カスピアン王子のつのぶえ>があり、ちゃぶ台の上にそれが置かれています。

照は、保育園で園児に童話を読み聞かせながら、自分もその世界に入り込んでいました。アリスは不思議の国へ、ハイジはアルプスの山から町へ、ウェンディはネバーランドへ、ジョバンニは銀河鉄道の旅へとみんなその場所から外へと飛び出していきます。照も飛び立ちたかったことでしょう。非国民の家族というレッテルの張られた場所から。しかし、それはできませんでした。

迎え火をたきましたが、認知症のため照はそのことが思い出せません。会いたいと思っていた兄(塩田泰久)の魂が帰ってきます。照は、どこかで生きていてほしかったと兄に告げます。兄の逃げた理由を聞き、兄に<カスピアン王子のつのぶえ>を読んでもらい、照はやっと不安のともなう先へ進んでいけそうです。

兄に何かやりたいことはと尋ねられ、「童話を書いてみたい」と言います。

不安でいっぱいの中で過ごし、童話の世界と行き来していた照は、家を守り、きちんと送り火で家族を送り出し、新たな不安を抱えつつも前に進んで行きます。照さんの童話はできあがることでしょう。

演劇とは思えないほどの自然な日常会話が、大変な時代を生きてきたことを知らしめ、そして照さんの不安の中に閉じ込められていた時間が空気がわかります。まだ自分で判断できるうちにとすべてを整理し先へ進む道を決めた照さんですが、きっとこの先も、童話の世界に助けられながら未知の世界を静かに一歩一歩踏みしめらるのです。

作・ナガイヒデミ/演出・兒玉庸策

さあ!頑張らずに、頑張ろう!

 

赤坂歌舞伎『夢幻恋双紙 赤目の転生』

<赤目の転生>とあるように、何かを感じた時右目が赤くなる太郎とその幼馴染みとある家族の転生の話しです。

幼馴染は、太郎(勘九郎)、剛太(猿弥)、末吉(いてう)、静(鶴松)で、そこへ歌(七之助)の家族が引っ越してきて男の子たちは歌に関心が集中します。歌には、病気で寝たっきりの父・善次郎(亀蔵)と無頼の兄・源之助(亀鶴)がいて、引っ越してきたのは、病気の父を抱えての貧しさのためです。

太郎は歌に恋をしますが、性格は純情なのですがのろまな太郎なのです。父の死後歌は自分を陰ながら支えてくれる太郎と結婚します。父を歌にまかせっきりで家によりつかない兄の源之助は、太郎の赤目をみて、この男はダメだと言い放ちます。そういう源之助は、右目が怪我のためか布で覆われています。

結婚した太郎と歌は、太郎がのろまで仕事にもつけず歌の借金もありますます貧しくなっていきます。子供から大人はかつらや着物の丈を調節し、貧しさは、かんざしやくしを外し、着物を裏返しにしたりして話しの流れに支障のないように変化させていきます。勘九郎さん、七之助さん、猿弥さんはこの演技的変化はお手の物です。

太郎は、仕方なく、源之助の悪事に手を貸しお金を得ますが、嫌になり手を引こうとして、源之助に殺されてしまいます。<赤目の転生>です。再び、幼馴染は同じ場所に同じ年齢で生き返っています。しかし、太郎は違う人物として生まれかわっています。太郎の人物像によって幼馴染も太郎に接する態度が違っきますからその人生も違います。太郎の歌を想う気持ちは変わりません。

この一回目の転生が一番歌舞伎役者さんの動きとしては見せ所です。歌と結婚した太郎は江戸時代のゼネコンの親分で、源之助の亀鶴さんの出には笑ってしまいました。無頼の兄が、義弟の下で働く腰の低い子分なのですから、この身体の動きをともなった変化は歌舞伎役者ならではです。元気になっている義父の亀蔵さんは、芝居と関係のないハチャメチャな勝手な動きでキャラの違う笑いをとります。

太郎の仕事を受け持ち、いいように使われ痛めつけられる猿弥さんと勘九郎さんのやりとりも、現代を思わせる江戸で、時代の行き来、役者の身体の行き来、心理の微妙な切れ目が赤くなりはじめます。いてうさんの役どころは、自分の立場を上手く売り込むということで大きな変化はなく、上手くこなしました。静の鶴松さんが、歌のために自分を押し込められていた気持ちが爆発し、太郎の情婦となっていますが、歌の七之助さんと対峙する役どころとしては女形の修業がもう少し必要です。

お金では満たされぬ七之助さんの歌は、兄おもいの妹で、それを見る太郎の目は赤い色を発する寸前なのでしょうが、観客には、まだ、太郎の力にものを言わせる性格のためと映ります。またまた歌を幸せにはできませんでした。

次の転生では、お人よしの太郎となり自分の気持ちを隠し、歌を好いている剛太と歌を結婚させます。そして、太郎の転生は驚くべきことに兄の源之助となり、歌とは結ばれることのできない立場にされてしまうのです。やっと、太郎の赤目は、歌の心の底をみることができるのです。

ここで<赤目の転生>は絶望的な果てしなき転生が続くのかどうか、続こうと、嘆こうと、太郎よ歌舞伎だよ、ここで一丁戦いなよと思いました。はっきりさせな。<夢幻恋双紙(ゆめまぼろしかこいそうし)>の歌を想うなら、源之助になった太郎なら、太郎の世界に最初の源之助を呼び出し挑みなさいよと言いたいです。ここで、太郎、歌、源之助の歌舞伎役者の身体を見せて欲しかったですね。<カブキ>とするなら、歌舞伎役者の身体表現を見せて芝居の展開の面白さもみせるというのが基本と思うんですよ。

ここまできたなら、この後があってもいいのではないか。ここからが、さらなる面白さにつながるのではないでしょうか。蓬莱竜太さんには、もし次に挑戦するのならもっと歌舞伎役者さんを身体的に苛めた方がいいですよ。それを表出するのが歌舞伎役者ですからと伝えさせてもらいます。

 

歌舞伎座四月 『桂川連理柵』『奴道成寺』

桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』は、複雑な親子関係の中で我慢しつつも、賢い女房を持ち穏やかに暮らしていた京の呉服屋の主人が、思いがけない事に巻き込まれ心中の道へと進んでしまうという芝居です。上方の心中ものは、お金と女性問題がからみますが、当事者を詰問するのが憎々しいのと同時に、可笑しさを伴っています。

<帯屋>は、主人公・帯屋長右衛門の店先での場となります。長右衛門(藤十郎)は養子ですが、養父は隠居して呉服店帯屋の主人となっりしっかり店を守っています。養父・繁斎(寿治郎)の後妻・おとせ(吉弥)は、連れ子の儀兵衛(染五郎)に跡を継がせたいと画策しており、おりから、兄の長右衛門が受け取ったはずの百両を兄・長右衛門がくすねたと母に告げます。おとせは、さらに戸棚にしまってある五十両を合鍵で奪い、長右衛門がくすねたことのしようと手ぐすねを引いて待っています。

長右衛門がもどり、詮議がはじまりますが、百両にかんしてははっきりしない言い訳で、五十両は戸棚から出そうとしますがありません。

吉弥さんのおとせは憎々しく、儀兵衛の染五郎さんは、母にくっついて動きまわります。その儀兵衛が、今度は、隣の信濃屋の娘お半と長右衛門がねんごろになっていると言い出し、「長様参る お半より」と書かれた手紙を証拠として出します。鬼の首を取ったように儀兵衛はその手紙を読みあげると、お伊勢参りの旅で長右衛門とお半が結ばれたことが書かれており、養父・繁斎もお金はともかく、お半とのことは何んという事してくれたとなげきます。お半は14歳で長右衛門は40に手が届く歳なのです。

夫の立場をよく知り賢い女房・お絹(扇雀)は、「長様」は「長右衛門」ではなく、隣の信濃屋の丁稚の「長吉」の「長」だといいます。笑いころげる儀兵衛。長吉(壱太郎)は、いつも洟を垂らして空気の少し抜けた風船のようにフワッ~としていてとらえどころがないのです。実はこの長吉がお半を好いていて、長右衛門とお半が結ばれる原因ともなったのです。

儀兵衛はそれなら長吉をここへ呼ぼうといい、ここから長吉と儀兵衛のかけあいで、染五郎さんと壱太郎さんのけったいなやりとりとなります。ところが、女房のお絹の扇雀さんの様子では、それとなく長吉を丸め込んでいたらしく、長吉は、お半さんとねんごろしたのは自分で、お半さんは自分の女房だと言い切ります。

なおせまる儀兵衛にくどいといって繁斎は、主人は長右衛門なのだからとおとせと儀兵衛を座敷ぼうきでせっかんします。悪態をつきつつおとせと儀兵衛の二人は退散です。いじめ役の染五郎さん、寿治郎さんに最後は痛い目にあわせられましたが、殺されるよりはましです。

いよいよ辛抱していた長右衛門とお絹夫婦のお互いの心の内を語る場面です。長右衛門はお伊勢参りの帰り石部の宿で、長吉につきまとわれたお半は、旅の途中で同宿になった長右衛門の蒲団に逃げ込んできて同じ蒲団にてと語ります。ことを荒立てたくないしっかりものの女房お絹は、夫の羽織の繕いをし、話しを聞いても夫が疲れているであろうとそこへ寝かせて奥へ引っ込みます。

信濃屋の暖簾をくぐり、ぽっくりの下駄の音も可愛らしくお半が顔をだし、さっと引っ込んでから、再び姿をを現します。お半の壱太郎さんの可愛いらしい出です。壱太郎さんの二役です。この出は上手く計算されている場面です。壱太郎さんはお半のあどけなさが残りつつ、長右衛門を恋しく想う様子を出します。それでいながら、この娘は一大決心をしていたのです。長右衛門の言葉に得心して帰りますが、長右衛門も胸騒ぎがします。

門口には置手紙と下駄があり、お半は一人で死ぬ覚悟です。お半は妊娠しており、そのことがさらに抜き差しならぬ方向へと向かわせるのです。長右衛門の藤十郎さん、手紙を読み、過ちでありながらも一人で死なせられぬお半への愛おしさを、抱える下駄に込めて後を追いつつ花道の引っ込みです。

この芝居は久しぶりにみました。長右衛門の辛抱役で年の差のある過ちとも、潜んでいた心の内ともとれない難しい役どころです。長右衛門は捨て子で、信濃屋に拾われ、五歳で帯屋に養子にきたのです。お半の小さい頃から長右衛門は、お半を可愛がっていたのでしょうし、長右衛門の立場など頓着なく愛らしい笑顔をお半は見せて慕っていたのでしょう。そんな世界に長右衛門はふっと引き寄せられたのかもしれません。しかし、四十の男のとる責任は死出の道しかなかったのです。

強欲さを笑いで、育ての親と子の情愛は背なかで、理想的な夫婦の完璧さの中で、あどけない美し過ぎる乙女が紛れ込んでしまいます。。和事での罪と罰ということでしょうか。その設定のしかたが恐れ入ったと思ってしまいます。

<石部宿>は、京都から東に向かうとき、最初に泊まる宿なのです。ですから、京都へ帰るときは最後の宿でもあるのです。

奴道成寺』。沈む複雑な心持ちの後に控えるのが、名曲にのせた、たのしい舞踊です。鐘の供養に来た白拍子花子が、烏帽子をとってみれば男であったという道成寺物です。花子に化けていたのは、近くに住んでいる狂言師左近(猿之助)。

例によって大勢の所化が登場しますが、そのなかにリトル所化が参加していまして、初舞台の大谷桂三さんの息子さんの龍生さんです。リトル所化なのにしっかり酒のさかなのタコを持参していました。先輩たちの所化(尾上右近、種之助、米吉、隼人、男寅 、弘太郎、猿四郎、笑野、右若、猿紫、蔦之助、喜猿、折乃助、吉太朗)の真ん中でとっても嬉しそうに踊っていました。笑顔いっぱいの小さな所化さんでした。

猿之助さんのおかめ、大尽、ひょとっこの三面を使っての踊り分けが見事で、首から肩にかけての女性、男性の身体の違いをはっきりとテンポよく変化させます。

花四天とのからみは、花四天のかたたちが、長唄に合わせてとんぼを切り倒れ、その音楽性に驚いてしまいました。きっちりあっていました。日頃の訓練のたまものでしょうか。立ち回りとは違う所作立ての動きでした。名曲にあった変化に富む舞踏に『娘道成寺』とは違う味わいを堪能させてもらいました。

 

 

歌舞伎座四月 『熊谷陣屋』『傾城反魂香』

熊谷陣屋』(「一谷嫩軍記」より)は、一谷の熊谷直実の陣屋での出来事です。須磨の浦での戦いの後であり、須磨の戦さとなれば、熊谷直実と敦盛ということになります。それが、歌舞伎になるとまたまたひねってあるわけです。このあたりは、史実を基本として、ひねってそこに現れる人間模様を役者がどう演じるかという観客の楽しみとするわけです。

熊谷の妻・相模の登場です。『伊勢音頭恋寝刃』での万野で『ワンピース』のルフィの猿之助さんをわざと思いえがきますが吹き飛ばされ、相模を見るとたちまルフィも万野も消えていなくなりました。化けるという不思議な現象です。今回はそんなところから、相模と敦盛の母・藤の方(高麗蔵)の母という立場にかなり目がいきました。そして、この二人の母を前にして、いかに熊谷直実の幸四郎さんが母二人を押さえるかが見どころです。その押さえを制札を使い、長袴を二重舞台から投げ出し見得をきる形の極めどころの迫力に、この型しかないでしょうと思いました。先人は上手くできあがらせました。

直実の幸四郎さんが、花道で右手に持っていた数珠を袖の中にいれます。陣屋で家来の軍次(松江)の後ろにひかえている妻を見て驚き怒ります。この怒りは、直実の中に出来上がっていた思案を脅かすことだったからで、さらに藤の方が出現して直実の気持ちは乱されたことでしょう。

敦盛を討った様子を扇を使いながら、語り聞かせますが、幸四郎さんはその扇を艶やかに使いこなされ、悲劇性を打ち消し艶やかさにして自分をだまし、女ふたりをだましているようでした。そして、本当は敦盛ではなく身代わりとして自分の子・小次郎を殺している事実を、自分の中でも敦盛に仕立て上げているように見えました。自分の気持ちを立て直すため、直実は架空の話しの中に入ったとおもいます。

直実が首実検の用意のため奥に入ります。残された相模と藤の方。藤の方は敦盛の青葉の笛を取り出し、相模は供養になるからと吹くことを勧めます。この場の子の死を悼む二人の母の様子から、さらにこの立場が逆転するという事態をいかに直実は押さえるのか。知っていながら凄いことであると改めて思ってみていました。

首実検です。敦盛は後白河法皇のご落胤です。満開の桜の前の制札には桜の一枝を切ったら一指を切れと書いてあります。直実は、それを敦盛を助けよと理解し、代わりに小次郎の首を差し出そうとするわけです。その首に、相模も藤の方も今までの現実とは反対の展開を見せつけられるわけです。藤の方を制札で押さえ、相模を平舞台下手に下がらせ、次に藤の方を上手平舞台へ。幸四郎さんの大きな制札の見得です。

義経の考えは直実の考えた通りでした。そこで、藤の方へ首をお見せしろと下手の相模にいいます。この位置関係、全ては制札から始まり、制札で二人の母を押さえることができたのです。

我が子の首を抱きくどきの相模の猿之助さん。小次郎が別れる時にっこりと笑った顔。おそらくその笑顔には、母の目には凛々しさよりも幼さの残る笑顔だったのだと思わせる母の想いがでていました。

幸四郎さんの直実、相模の猿之助さん、藤の方の高麗蔵さんで、敦盛と小次郎を囲んでの立体感を強く感じました。かつては義経の命を助けた宗清(弥陀六)の左團次さんと染五郎さんの品のある笑みの義経とのやり取りに、繰り返される戦さの儚くも虚しい風景が見えてきます。最後の直実の幸四郎さんは、役目を果たし、一瞬一人の父親にもどりながらも、仏の道に行き着く前の現実の荒涼とした世界をさまよう人のような引っ込みでした。

傾城反魂香』は、言葉の出始めがどもってしまうという言葉の障害がある絵師・又平の女房・おとくに強くひかれました。このおとくという女房はなかなかの女性なのです。きっちり障害者である夫・又平に寄り添っているのです。

又平夫婦は、今はわび住いの師匠・土佐将監(とさのしょうげん)光信夫婦(歌六、東蔵)を毎日見舞って苗字をいただきたいと頼みにきています。今日は、弟弟子の修理之助(錦之助)が絵から飛び出した虎を絵筆にて消したので苗字をもらい免許皆伝となりました。

はやる気持ちの又平。その夫の気持ちをよく知っているおとくは、いままでは女房である自分が師匠に直接頼んだことはなかったのですが、今日こそはと将監に、死んだ後の石塔に土佐又平と残させてくれと頼みます。光信は、絵の功がないのだから苗字は与えられないといい、おとくは夫に師匠は理にかなったことをいわれているといいます。

そこへ狩野雅楽之助(うたのすけ・又五郎)の早報せがあり、花道での又平の吉右衛門さんは一心張り番をします。師匠に言われたことを全身で守る又平の一途さがうかがえます。そしておとくの菊之助さんもしっかり役目を果たせるようにと夫をみつめます。

しかし、又平の役目はここまでで、おおきな役目は修理之助に渡ってしまいます。自分に障害があるからかと又平は師匠に楯突きます。それをおとくは気違いのようにとたしなめます。夫は妻にまであなどられたとおとくをぶちます。おとくは体を張って夫に意見する女性でもあります。

そして死ぬ覚悟の又平に、死ぬ前に手水鉢に自画像を描きその後で自害し、死して名前をもらいましょうというのです。そして、しみじみと十本の指がありながらと又平の嘆きを代弁します。

ここに生きていたそのままの自分を残しなさいと言っているのです。それは、絵ではわからない障害のある一人の人間の心の内も描くという事です。この絵が抜けるのは、そういう意味もあるのではないかと今回想えました。

結果的にこの芝居は願いがかないハッピーエンドとなるのです。絵が抜けてからは、観ている者もほっとします。又平の吉右衛門さんは子どものように体中で喜びをあらわします。将監の妻・北の方もやっと笑顔がみせれるといった喜び方です。将監も絵の功で苗字を与えられるので自分の絵に対する筋が通り安堵です。又平夫婦にとって倖せは今自分たちのものなのです。

菊之助さんのおとくに、改めてこの女性を見直させてもらいました。きちんと障害のある夫に寄り添い、いうべきことはいい、共に死ぬことを覚悟する女性です。近松門左衛門さんの理想の女性かもと思ったりしました。そしてハッピーエンドとはなんとも憎い計らいです。

 

歌舞伎座四月 『醍醐の花見』『伊勢音頭恋寝刃』

醍醐の花見』は、秀吉(鴈治郎)が催したとされる醍醐寺での華やかな花見を題材とした長唄による舞踏です。北の政所(扇雀)を先頭に、淀殿(壱太郎)、松の丸殿(笑也)、三條殿(尾上右近)、さらに前田利家の妻・まつ(笑三郎)が顔をそろえていて、女たちの争いも艶やか中に見え隠れしています。

北政所の盃を受けるのに淀殿と松の丸殿が争い、利家の妻・まつが年の功で一番に受け周りを押さえます。北政所の扇雀さんとまつの笑三郎さんに苦労を共にした貫禄があります。秀吉の鴈治郎さんは、好色家の秀吉の雰囲気をだします。

この権威の象徴の花見に秀次の亡霊(松也)が現れ、石田三成(右團次)と僧・義演(門之助)に伏せられますが、秀吉の花の散り際を予感するような最後の花見の様相をあらわしています。

醍醐寺では、4月の第二日曜日に「豊太閤花見行列」の行事が行われているようですので今年は9日(日)だったのでしょう。

伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の今回の配役は初めて観る配役の役者さんが多いので、それなりの愉しみ方をすることにしました。

<追駈け>から始まりまして、観ていると音楽劇の様相を呈しています。阿波国蜂須賀家を乗っ取ろうとする蜂須賀大学側とその謀略にはまってしまった家老の息子・万次郎側との名刀青江下坂をめぐってのやりとりです。

大学側の桑原丈四郎(橘太郎)と杉山大蔵(橘三郎)が、大学から岩次宛の密書を持参していて、万次郎側の奴林平(隼人)がそれを奪うため追い駈けるのです。この三人の追いかけっこがお囃子に合わせて可笑しく楽しく演じられます。<地蔵前>、そして最後は、このお芝居の主人公でもある万次郎側の福岡貢に密書が手に入るという<二見ヶ浦>のコケコッコーの鶏の鳴き声とともに上がる日の出の場となるのです。この伊勢参りの定番の場面設定も歌舞伎の手慣れたところです。

喜劇的な部分もあり、全体を見つめる人というのがいないのです。主人公の貢も、大学側にはめられて、怒り心頭となり常軌を逸してしまいます。そのことが、連鎖反応で多くの人を斬ってしまう結果となります。

万次郎(秀太郎)は名刀青江下坂を探しつつも、古市の油屋お岸(米吉)を気に入ってしまい通いつめどうも頼りないのです。万次郎の後ろ盾の福岡貢(染五郎)は今は御師というお伊勢参りの人を世話する下級神官で、油屋にお紺(梅枝)という恋人がいますが、油屋の仲居万野(猿之助)は、貢は油屋にとって客ではないので、上客の大学側の人間についています。

この万野がお金のためならウソ八百の口からうまれたような女性で、貢に岡惚れのお鹿(萬次郎)に貢からとしてお金の無心の手紙を書きお鹿からお金を受け取っていながら、貢にお金は渡っているとして、お紺や客のいる前で責めたてるのです。この万野の意地悪さと激高しつつも押さえる貢との二人のやり取りが見もので、染五郎さんと猿之助さんコンビのしどころです。

原作者はようも話を複雑にしてくれるという内容で、名刀青江下坂は貢の手に入りました。ところがこの刀、自分の身から離したくないのに、万野が預けるのがしきたりと言い放ち、貢のかつて家来だった料理人の喜助(松也)が預かります。ところが、この名刀を大学側が鞘をすり替えてしまいます。喜助はそれに気がつきますが、鞘のとりかえられた本物の名刀を帰る貢にわたします。感情が高ぶっていますから、おかしいとも思わず貢は立ちかえりますが、刀が違うと戻ってくるのです。

それが本物だと告げるべき喜助は、本物の刀が無いと知った万野の言いつけで貢を追い駈けてすれ違いです。もどった貢は、ふたたび万野の悪態に負け、万野を刀で打ちますが、その時刀の鞘が割れて斬ってしまうのです。<油屋>

そこからは、刀に踊らされるように貢は次々と人を斬ってしまいます。ここからの様式美も見どころです。貢の白のかすりの着物が血で染まっています。<奥庭>

もう一つややこしいのが、この名刀には刀の鑑定書である折紙があってそれがなくては片手落ちですからその行方も捜しているのです。折紙はお紺が、貢に愛想尽かしをして大学側を信用させ、手にいれるのです。最終的には、この事実が、お紺と喜助から知らされめでたしということですが、この芝居で、冷静なのは、お紺と喜助ということになります。じっと聞いていて貢の腹立ちを押さえるお岸もその中に入るでしょう。

今回は歌は歌わないかわりに、形で決めて歌い上げる様式の音楽劇に想えてしまいました。伊勢音頭が加わってレビュウの形ともなり、歌舞伎の人というのは、積み重ねてこういう具合にまでもっていける幅ときまり事を連携にしてしまうのかと、いまさらながらその傾きかたを愉しんだ感があります。

今回は先輩達の芸の視点ではない、歌舞伎の多様な万華鏡をのぞいた視点としておきます。

 

木のまち鹿沼(2)

『鹿沼市立川上澄生美術館』の係りのかたから、すぐ前の建物<文化活動交流館>で屋台を無料で見れますので是非どうぞと薦められました。

中央公園に屋台展示館があるのでそこで見ればよいかなと思っていたのですが、せっかく薦められたのでのぞかせてもらいました。お祭りで引っ張るお囃子の屋台よね、ぐらいの感覚でした。

三台の屋台がありましたが、精巧な彫り物で囲われたものでした。見くびりすぎていました。色彩あざやかなものもあります。係りのひとが説明してくれました。鹿沼には27台の屋台があり、秋祭りにはそれが今宮神社に集まるのだそうです。

説明してくれた方の町内には屋台がないので詳しくはないのだそうですが、この展示している三台の町内のかたが見に来て色々教えてくれるのだそうです。自慢のおらが町の屋台ですから自慢したいところがそれぞれにあるようで、聴いていてもその語った人の様子が伝わってきます。

彩色のあるものとないものは、江戸時代のものであれば、八代将軍吉宗さんの時の倹約令の影響ではとのことでした。昭和に創作されたものは白木のままです。

屋台を方向転換させるのに現在ではネジ式ジャッキや油圧式ジャッキを使いますが、昔からの<テコ廻し>という方法も行われます。ウマというテコ台にテコ棒を乗せ屋台の前方を持ち上げ、ウシという回転台を屋台の下に入れ回転させますが、このテコで屋台が大きく傾いたところも見どころなのだそうです。

屋台の正面の屋根の唐破風が見事です。唐獅子、鳳凰、龍、魔除けの霊獣などがあり、花や鳥、波しぶきなど一つ一つ眺めていたら時間がいくらあっても足りませんので、中央公園の展示館に向かいます。<屋台のまち中央公園>とあり、この公園に<掬翠園(きくすいえん)>という日本庭園がありその入口に芭蕉さんの像がありました。芭蕉さん、『奥の細道』の途上この日光街道の鹿沼宿で一泊していてその時の句が「入あひのかねもきこへすはるのくれ 風羅坊」だそうです。<風羅坊>は芭蕉さんの別号とか、知りませんだした。

屋台展示館>は映像などもあり有料ですが、こちらの三台の屋台も立派で、ここの係りの方の町の屋台もあり、その彫刻の素晴らしさを解説してくださいました。日光東照宮にたずさわっていた彫刻の職人さんが冬の仕事にならない時に、屋台の仕事をしたのではないかということで、そのもととなる<木>が鹿沼にはあったということです。

良い木があったので職人さんも腕を振るえたわけで、休まずに腕を磨く訓練にもなっことでしょう。動かぬ建物の彫刻と近くで見れる動く祭り屋台の彫刻という事に対する職人としての腕の見せどころもあったかもしれません。

今は組み立てて展示していますが、10年くらい前は、毎年秋祭りに組み立てていたのだそうです。鹿沼の屋台を祭り以外の日でも観れるようになったのは10年前くらいからなのです。係りのかたは、この歳になって、こうして皆さんと屋台のことをお話しできるのも、ご先祖さんのお陰ですと言われていました。

10月の第2土曜・日曜の秋祭りには来てくださいといわれ、この彫刻の屋台が動くのを観たくなりました。お祭りでこの彫刻が欠けたり壊れたりすることはないのか聞きましたら、動かしては壊れないが、触る人がいて、つけたくはないが今は世話役の人が四方についてそいうことのないようにしているそうです。

数年まえから見物のお客さんが増えたそうで、一時は、屋台を出さない町内もあったのですが、今は27台が<今宮神社>に集合するそうで、古峰神社へのバス停とそこからすぐの<今宮神社>を通りまで出て教えてくださいました。バスの時間まで10分位ありましたので、急いで今宮神社へ行き、ここに27台が集まるのかと想像しました。これで今宮神社の場所もわかりました。

古峯神社>へのバス停が近くにあり助かりました。本数が少なく一時間ほどかかりますので行けるかどうかが問題でした。もどってくるバスも問題だったのですが、古峯神社のそばにある庭園<古峯園>が閉まっていましたので、帰りの30分後のバスに乘りました。それでなければ1時間半ここにいなければならないのです。お参りして、中を見させてもらいました。赤と黒の大きな天狗が飾られていました。御朱印のことも書かれていて種類が多いです。今日はどの御朱印なのでしょうか。友人が来れなかったのは残念です。私がもらって渡すわけにもいきませんし、帰ってから10月の秋祭りに行くことを告げてはおきましたので、その時にでも再度訪れることにしましょう。

<古峯神社>のまでの途中に<金剛山瑞峰寺>というお寺もありました。帰りなら下りなので次の機会には寄れるかもしれません。信仰の山奥といった趣きです。

さて、JR鹿沼駅までバスで直行ですが、バスの中で<屋台展示館>で手に入れました鹿沼秋祭りのパンフレットを取り出しますと英語版でした。このパンフレットの内容が良いので観光案内でもあれば日本語版をもらおうと思いましたが、それらしきところがありません。駅員のかたが、駅前を掃除されていましたので尋ねましたが観光案内は無いという事で、パンフレットをみてこれはいいですね、駅にも置きたいですといわれます。

屋台会館に電話してみますと中に入られました。ここで、電話されてもどうにもならないしと思っていましたら、出てこられて「住所を書いてください。」「え!」「送ってくれるそうですから。」と思いがけない展開でした。後日早々と届きました。

パンフレットを見つつ、「鹿沼秋まつり」の屋台に会えるのを愉しみにしていますが、頭の中で鹿沼の地図は出来上がっていますので秋祭りまえにもう一度訪れる可能性が大きいです。

「木のまち鹿沼」から「屋台のまち鹿沼」のほうが強いかもしれませんが、もとはといえば<木>があったからという想いが強いので「木のまち鹿沼」としておきます。

     掬翠園

     今宮神社 

     古峯神社

木のまち鹿沼(1)

栃木県鹿沼市も「木のまち」といえるということを行ってしりました。この町は、版画家の川上澄生(かわかみすみお)さんの市立美術館があることを知っていたのでピンポイントとして押さえていました。

川上澄生さんの作品「初夏の風」は、棟方志功さんが油絵から版画に変更するきっかけとなったという話しもあり興味あるかたでした。さて、調べてみますと、鹿沼市は祭りの<屋台>が展示されている場所があり、かなり山奥らしいですが、天狗で有名らしい<古峯神社>もあるらしく、この三か所を起点に計画しました。

<古峯(こみね)神社>のご朱印は種類が多いらしいのです。その時の書き手によって変わるらしいのです。この日に行きますが行かれますかと誘った友人は予定があり同伴できず残念でした。

鹿沼の町は、JR日光線鹿沼駅と東武日光線新鹿沼駅に挟まれていて、ちょうど中間あたりに見たい場所が集まっています。

JR鹿沼駅から歩いて20分のところに<鹿沼市立川上澄生美術館>があり、明治時代の洋館のような建物で、今回の「身近に楽しむ木版画 ー川上澄生・頒布会とその時代ー」は、洋風の小物などを題材としている作品も多かったのでの入場するのに雰囲気が合っていました。戦後、コレクターや愛好家に版画頒布会を開催した作品が中心です。

洋灯(らんぷ)、グラス、硝子瓶や明治時代の人々をモデルとする作品などが多く、色使いが明かるく、淡さとはっきりした色の調和が好もしい感じです。複雑な彫りを感じさせない単純化されて見えるのも川上さんの作風でもあります。

川上澄生さんは、宇都宮中学校の英語教師になってから本格的に木版画制作を始めています。戦争が始まると軍国主義の風潮を嫌って学校を退職、木の活字を彫ったり、絵本の製作などをします。1994年(昭和19年)の『明治少年懐古』を刊行し、少年時代の思い出を木版の挿絵と文で表現しています。その後、一時は、奥さんの実家の北海道苫小牧中学の教師となり、戦後宇都宮にもどり宇都宮女子高等学校の講師となり、宇都宮を終焉の地としています。

戦後、教え子さんたちが中心となり版画頒布会を組織されたようです。

『明治少年懐古』の文庫本を美術館で見つけました。作家の永井龍男さんが川上澄生さんが自分のことを<へっぽこ先生>と称したの受けて書かれた『へっぽこ先生』のエッセーが最後に載っていました。その中で「私は私を喜ばせ、また楽します絵を作っている」の川上さんの言葉を引用し、<短いが、川上澄生の作品の根本を語るに、これ以上適確な言葉はあるまい。>としていて、まさしくその通りで、少年・川上澄生の感性が素直に楽しめ、その当時の少年を身近に共有でき、ほっとさせてくれる作品です。

「俥屋さん」(人力車に乗る様子)、「へっつい直し」(煮炊きするかまどをなおす人)、「でいでい屋」(雪駄をなおす人)

桶屋さんの仕事、米屋のお米をつく仕事、九段坂の車を後ろから押すため立ちんぼをしている人、銀座で十二カ月分の種類があるお汁粉さん。

郵便屋さんが縁先で一服して一日5里は歩くというはなし。当時家の郵便箱は黒い四角いもので上に三角形の帽子がついていて、流行っていた『ふいとさ節』に「四角四面の郵便箱はね(ふいとさ)恋の取持ち丸くする(よいとふいとさ、おーさ、よいとふいとさ、ふいとさ)というのがあったと書かれています。子供が大人の流行り歌を自然に覚えてしまった時代です。

羽織り袴の小学生が、羽織の紐の先を前で結びくるりと後ろへまわし首にかけたり、袴の下から股引きがみえないようにたくしあげたりと、どんなときにもおしゃれを見つけ出す子供の姿も書かれていて微笑ましいかぎりです。

進む先に暗い時代があろうことなど考えもしない、明るい光を目指す子供の純真な観察眼にもどって書かれた短文は名文で、立、横、斜めの彫刻刀の彫りが心地よい音を伴って木版画を眺めてしまいます。

書き終わって思い出しました。澄生少年は写真屋で写真を撮った記憶で嫌になったのが、「立たされて居る時後から鉄のやっとこのようなもので頭を動かしたり曲げないやうにはさまれることだった。」と書いています。この<鉄のやっとこのようなもの>は、六本木のミッドタウンウエストにある、「フジフィルムスクェア」の写真歴史博物館で展示されていました。博物館といってもフォトサロンと同居した小さな場所ですが、写真をとるためにはかなり長い時間を要したらしく、下から伸びた棒に首をささえる丸い部分がついていました。

これを見ていたので、澄生少年の気持ちがよくわかりました。坂本龍馬さんの立ち姿は、木の台によりかかっている写真で龍馬さんらしく格好つけているなと思いましたが、もしかすると、長時間立ったままでは大変なのでこの姿になったのかもしれないと思った次第です。記憶がよみがえりました。

   鹿沼市立川上澄生美術館

  

<相模湖>は神奈川

JR中央線高尾駅の次の駅、<相模湖駅>が気になっていました。駅から相模湖が近いらしいのです。一度行きたいと思っていました。湖の名前がついている駅名で、その湖へ歩いて行ける場所はそうないでしょう。

旅は行っての出会いと、<相模湖駅>に降り立ちます。山登りのいで立ちで駅を降りた人がみうけられました。駅に着替え場所があります。どうやら山登りやハイキングの場所の多いところらしいです。チラシをゲットしなるほどです。隣駅の<高尾>は東京です。<相模湖駅>、<藤野駅>が神奈川県で次の<上野原駅>が山梨県です。感覚として、神奈川は東海道と思ってしまいますので<相模湖駅>も山梨と思ってしまいます。

観光案内があったので寄りました。相模湖と相模湖交流センターの行き方を聞いて、ふと見ると<小原宿本陣>。出ました。そこへは駅から歩いて20分くらいとのこと。できあがりました。行けます。<小原宿>は、甲州街道の宿場まちです。

相模湖は相模ダムによってできた人造湖で、駅から歩いて10分位で公園となった場所に着き、遊覧船や貸しボートなどがあり、食事処などこじんまりとしています。桜はまだでした。

そこから、相模湖大橋へ。相模湖ダムの全貌がみえます。橋の真ん中から引き返し<県立相模湖交流センター>へ。ここで、相模ダムなどの役割が体験型で学べます。面白かったのが、手で触ってボタンを押すと、音が流れ、三つのボタンがあり違う種類の音が聞こえます。人の体温によって、それぞれの人の音が聞けるのですが、一人しかいなかったので比較が出来ず残念でした。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1458-1024x576.jpg

そこで、<小原宿本陣>への道を聞き、歩きはじめます。国道をすすむので途中は趣きはありません。本当に残っているのかなと思っていましたら、大きな屋根の破風がみえました。高くて大きいです。立派な本陣でした。本陣だけが国道にそって残ったという感じで、いえいえよく残ったとおもいます。持ち主のかたが長く住まわれていたからでしょう。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1461-553x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1463-1024x576.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1464-1024x570.jpg

神奈川県下の東海道と甲州街道で合わせて26の本陣があったそうですが、現在残っているのは、この一軒だけです。この清水家は、名主・問屋を努めていました。造りが中二階、二階、三階と四層になっていました。中二階から上はお蚕さんのための造りなのです。本陣でこんな建物は珍しいです。この土地も畑作が出来ない地形であったゆえの営みです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1470-576x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1466-576x1024.jpg

甲州道は、大名としては高島藩、高遠藩、飯田藩の三つの藩だけが通るように指定されていたのです。これも初めてしりました。どこの道を通るか指定されていたのです。

問屋として人馬の継立てに要した人と馬の数と通行大名数が書かれてありました。

(文政4年)

  • 東海道  人足100人  馬100疋  大名数146
  • 中山道     50人    50疋      30
  • 奥州道中    25人    25疋      37
  • 日光道中    25人    25疋       4
  • 甲州道中    25人    25疋       3

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1467-1024x796.jpg

先に難所の小仏峠があり、片継ぎの宿場とあります。小仏宿からの人や荷物は与瀬宿を越して吉野宿まで継ぎたて、与瀬宿からは小田宿を通り越して小仏宿に継ぎたてをしたのです。

小仏峠には、美女谷伝説があり、歌舞伎『小栗判官』でお馴染みのあの照手姫が小仏峠の麓で生まれていて、その美貌から地名が<美女谷>となったといわれています。両親が亡くなって照手姫は<美女谷>から消えてしまいます。その後、相州藤沢宿で小栗判官と運命的出会いとなるわけです。案内板の古いのが残念です

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1459-1-475x1024.jpg

こういう流れがあるとは、やはり神奈川ですか。小栗判官と照手姫のゆかりの遊行寺の桜の開花状況はどうでしょうかね。

相模湖の半日旅に満足しまして、東京の新宿を通って目黒に向かいます。<東京都庭園美術館>での『並河靖之 七宝 一明治七宝の誘惑・透明な黒の感性一』鑑賞のためです。これでもかという細かい多数の花々や鳥などが描かれ、職人の極致といえます。

七宝の造る過程が解らなかったのですが、映像があり良く理解できましたが、益々その職人わざに驚きで人間というのは凄いですね。七宝というのは近年忘れられているところがあります。アクセサリーとして、あるいは自分で創作できるとして七宝焼きなどとして流行った時期もありました。

色の多種多様の美しさに嘆息しました。

ここでの桜は数本でしたが、緑の中にあってこれまた淡さがいいです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1473-1024x576.jpg

目黒川の桜が気になって行人坂から太鼓橋に出てみました。満開でした。地下鉄の中目黒方面のほうが桜並木が長いのでしょうが、船に乗った五反田方面に向かいました。地上からですと、桜は亀の甲橋までです。<荏原調節池>の入口が見えました。地上からこんなによく見えるとは思っていませんでした。しっかりお役目はたしてくださいな。

というわけで、執念深くも目黒川の桜のリベンジも終わらせました。リベンジしなくても、電車から見える風景は至る所が桜、桜でした。川といえば柳もありましたが、桜に押されて消えていってますね。夏は柳なども涼しげですが。

追記: 相模湖プレジャーフォレスト でイルミネーションをやっていることを知り数日後に相模湖を再訪。もう少し早く知っていれば小原宿とイルミネーションと一日コースでもよかったのですね。

夕暮れが迫り次第にイルミネーションが始まりだしました。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1478-1024x576.jpg

桜さがし

数年前、友人たちが目黒川を船で桜見物をしたというのを思い出し申し込みました。ただ3月末は寒い日が続いたため、残念ながら亀の甲橋から太鼓橋までの桜メインストリートの花の開き具合はまだ早しで三分咲き、ピンク色には染まっていませんでした。

五反田駅ちかくのふれあい水辺広場からの乗船で、広場ではお花見をする人々が思い思いの楽しみ方をしています。船は10人ほどが乗船のエレクトリックボートで、幌もあるので全天候型といえます。電気なので静かでスピードが出ずゆったりとした進み具合です。

昨年あたりの目黒川は、他の地域からの船や水上バイクなどの行儀悪さが目立ち、今年からは規制して静かでスムーズになったとのことです。水上バイクなどもかもめの水兵さんのようなゆらりゆらりと流れて行く感じです。カヌーの人もいます。

角度の違う散策は、町の見え方も違い楽しいです。森永橋というのがあり、森永の会社があったときに会社が架けた橋で、今ではこうした個人的な橋は簡単には架けられないでしょう。目黒川は50幾つ橋があるらしいです。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1440-edited.jpg

 

目黒川もかつては汚れていて、今も定期的に真水をかけて、海水、真水、その下にヘドロと浄化に努めているようで、雨の降ったあとは濁るようです。

地上から見てもここの桜は川面も向かって枝が伸びていますが、川に写る光に誘われて伸びるのでしょうとのこと。品川にも開花基準桜がこの目黒川にあって、満開でした。基準桜は早く咲く桜を基準にしているわけで、遅くては役目を果たしませんよね。

やはり植物は光に強く反応するらしく、満開となっている桜は近くのビルの窓ガラスに受ける光に反応するのではということでした。白い大島桜もありました。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1438-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1444-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1450-edited.jpg

 

荏原(えばら)調節池と表示のある空間の入口がありました。この口から川の水位が上がった時一時的に地下に水をためる場所です。平成元年に目黒川が豪雨で氾濫して舟で往来するほどの被害だったのですが、この調整池ができてからそうした被害は一度もないそうです。目黒川も平成元年までは暴れていたわけです。地下鉄に溜まった水が流れる出る場所もありました。行きには流れていて帰りには止っていました溜まり具合によるのでしょう。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1453-1024x576.jpg

 

桜が咲きほこると地上からはそんな川での様子はうかがい知れませんが、見えないところにも様々な役目が隠れているわけです。45分間の目黒川の船旅でした。

地上にあがり、日本橋の高島屋横にも桜ありとの情報を得ましたので寄ってみました。日本橋と桜はつながりがなかったのですが、ありました。高島屋の京橋側から東京駅八重洲口方面の通りが<さくら通り>となっていて桜が咲いていました。

日本橋船着場からもお花見船が出ています。

コレド室町1、2の間の小路の奥に新しくて小さな社殿があり<福徳神社>とあります。このあたりは福徳村といわれていたのです。

今日のテレビ情報で知りましたが、日本橋三越隣の<貨幣博物館>では桜の錦絵展を9日まで開催しています。この通りが<江戸桜通り>だそうです。貨幣のことなどの展示もありますからちょっと寄ってみるのもよいでしょう。無料ですのでツーと通過するだけでもいいでしょう。(通貨)とかけたのですが。余計なことでした。

今まで行けなかった場所からと知らなかった場所の桜さがしでした。このあとは、どこの桜でも咲いているところがお花見です。

通過して見つけた桜がありました。映画『麒麟の翼』の重要な日本橋の交番のそばに枝垂れ桜ともう一本はソメイヨシノでしょうか。これまた嬉しい発見です。現場にもどれですね。