水木洋子展もラストへ

平成25年10月26日から始まった市川市ミュージアム企画展の『水木洋子展』も3月2日で終了である。期間が長いのでと思っていたが、なんとか2回行くことが出来た。水木さんが脚本を書くにあたって現地へ行かれ念入りな取材と資料の中から積み上げていった事はよく分った。たとえば、『ひめゆりの塔』に関して、現地の校長先生の話の取材で<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>とあり、映画の会話の中にも、自分の母親が60歳なので疎開できないで残っているとでてくる。水木さんの取材メモが無かったら見過ごしたであろう。そんな事実があったのだ。

東日本大震災のとき、未亡人の知人が息子さんさんにとにかく、後で笑い話になってもいいから関東から脱出して関西に行ってくれと言われ京都に行ったそうである。ホテルはどこも満室に近かったそうである。お母さんが行っててくれれば何かがあれば、僕たちはバイクでもなんでもそちらに行けるからと言ったそうで、笑い話ではなく、凄い親孝行な息子さんと皆感心したものである。この沖縄の話からそんなことも思い出した。

今回は、展示されていた水木さんの映画作品のポスターやチラシの中の宣伝や紹介文を一部載せておく。

『ひめゆりの塔』  一人の英雄もなく一人の残虐な将校もいない焦土と化した沖縄に「ひめゆり部隊」二百余名の乙女がその若き生命を捧げて永遠の平和を願う 一大叙事詩!世界映画史上に不滅の一頁を!

『キクとイサム』  村中をひっくり返すデブちんと腕白小僧!

『おとうと』  生きることに徹し愛することに徹した二つの魂!市川崑が人間の美しさ挑む文芸大作!

『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』  ズラリ揃った奇想天外の配役陣!愉快で陽気なオバアチャンの浅草道中!

『あれが港の灯だ』  波荒き玄海灘に体当たりする日本映画界空前の野心作!!

『裸の大将』  頭がよわいが絵を描きゃ大将!日本中の毒気を抜いてぶらぶら歩けば犬まで笑う!

『ここに泉あり』  いばらの道をふみこえて夢は大きく花ひらく今井映画最高の壮麗ロマン!

『あらくれ』  幾度も男に傷つき躓きながら女の生甲斐を求めるお島

『あにいもうと』  洋画ファンも文化人もきっとこの怒りと愛情に泣く!最高文芸巨編!

『夫婦』  市井の片隅に揺れていて侘しい夫婦のささやかな愛の灯妻の倖せとは・・・全女性いに献げる愛の珠玉

『丘は花ざかり』  恋する現代女性の生態、限りない親愛感を以てせまる石坂洋次郎文学決定版

『おかあさん』  往年の名作「綴方教室」を凌ぐ感動の芸術作品!

『浮雲』  風に吹かれ雨にたゝかれ儚くながれゆく浮草の流転する姿にも似た女が・・・・

今回展示されているポスターの一部で、ポスターは幾種類かあるので、そこにはまた違う宣伝文があるであろう。

展示と関係の無い他の資料の中には、たとえば、『浮雲』などは、<漂泊の涯てなき恋の旅路の歌かあわれ女の情炎図>と書かれたものもある。こうして見ていくと、いかにして映画にお客を引き付けるか宣伝部が工夫をこらしていたのであろうと 想像できる。今の時代のポスターはどんなであろうか。気にかけていなかったので、これを機会に気をつけてみよう。

水木洋子のドラマと映画 (3)

水木さんの作品に石坂洋次郎原作の『丘は花ざかり』(1952年)がある。これは共作で、相手は『青い山脈』(1949年)で脚本家デビューをした、井手俊郎さんである。映画脚本では、水木さんも八住利雄さんと共作で『女の一生』で1949年の同年にデビューしている。井手さんとは『丘は花さかり』『夫婦』『愛情について』『にごりえ』の4本共作している。<男女の問題を扱うとき男の作家が加わる方が中庸を得る>とし、井手さんに関しては「珍しいほど女性について新しい鋭敏な理解者」と言われている。井手さんのほうは、原作を約7分の1のシナリオにした大変さと「ほとんど全部水木さんにおんぶして、どうやら出来上がった」といわれている。『青い山脈』は戦後の初の古い考え方を打破する青春映画と言えるもので、池部良さんと、杉葉子さんの学生としては少し大人過ぎるが、爽やかなフレッシュコンビである。

そのコンビともう少し大人のちょっと危ない関係を描いたのが『丘は花ざかり』である。この映画は市川市文学ミュージアムの貸出でその場で視聴できた。『青い山脈』で大人の色気で魅了した芸者役の小暮実千代さんが既婚の姉で杉さんが出版社勤務の妹役である。この二人の恋愛を軸に話は進む。

小暮さんは、息子のPTAの役員となりそこで上原謙さんに引き付けられる。この上原謙さんが好演である。キザでありそうで、キザまで足を踏み入れていないぎりぎりの線を保ち、女を魅惑的に誘う役どころである。本物の恋に発展しそうな雰囲気でありながら、小暮さんは家庭にもどるのである。『青い山脈』の<変しい、変しい>の手紙のアクセントと同じで、他の役員に、小暮さんと上原さんは見られたくない場所で会っているところを見られてしまう。、その役員から小暮さんの夫に手紙が届く。てっきり逢引の告げ口と思ったらそれは夫への碁のさそいであった。

杉葉子さんは奥さんを亡くした上司の山村聡さんを好きになってしまい、子供の世話などもし結婚を考えるが、山村さんはそういう気持ちはないとはっきり伝える。杉さんは落胆するが、杉さんに好意を持っている池部さんとのことを恋愛の範ちゅうに入れることとする。

小暮さんの家族と、杉さん池部さんが加わり、上原さんとの関係を清算し農場に住み込む高杉早苗さんのところへ遊びに行き、全て丸く治まり皆で笑顔でサイクリングとなるのである。バックには藤山一郎さんの歌う「丘は花ざかり」が軽やかに流れて目出度し目出度しである。大人のほんのり冒険的心ときめかす青春映画といったところである。主題歌としては「青い山脈」のほうが、やはりインパクトは強い。小暮さんと上原さんの不倫ものとなれば、当然「丘は花ざかり」の歌は挿入されないであろう。そこにもう一つの恋を組立て上手く収めている。<中庸>なのかもしれない。  監督・千葉泰樹 (「青い山脈」「丘は花ざかり」はともに 作詞・西條八十/作曲・服部良一)

上原謙さんは、木下恵介監督のデビュー作 『花咲く港』 (1943年・菊田一夫原作)で小沢栄太郎さんと兄弟を装ったペテン師役をやっている。おおごとになると思わなかったのに、小さな島全体の善良な住民を騙す事となり結果的には改心し島のために尽くす形となる。この役などは、『丘は花ざかり』後に演じたとしたらもっと面白味のある演じ方をされたと思う。1953年『妻』『夫婦』で毎日映画コンクールで主演男優賞を受賞されている。『夫婦』は水木洋子さんと井手俊郎さんの共作で成瀬己喜男監督、共演・杉葉子さんである。

 

 

水木洋子のドラマと映画 (2)

水木さんのドラマ、映画の作品で音楽性という事も興味を誘う部分である。その中でも『キクとイサム』のなかでの、キクが歌う歌である。『キクとイサム』は日本映画の黄金時代と水木さんの最も輝かしい時代の作品でもある。1960年公開で、1959年には、日本映画は映画観客が年間11臆2700人と史上最高記録となっている。

『キクとイサム』は、母が日本人で父がアメリカ人の姉弟である。キク12歳、イサム9歳で父はアメリカに帰り、母は亡くなり、東北の貧しい農村で祖母に育てられている。町に出かけたりするうち、自分を見る人々の視線に疑問を持つようになる。祖母も回りの人々もこれからの二人の行く末を心配し始め、弟のイサムはアメリカに養子となって行き、キクは自分がどうなるか不安でもある。祖母はキクに対してもイサムに対しても可愛いい気持ちは十分ある。しかし老齢でもあり、どうするか頭を抱え彼女なりの考えで孫の幸せを一生懸命に考えたのである。そしてキクに対しても結論をだす。辛い仕事なのでやらせたくはないが、借りている狭い農地で畑仕事を自分について覚えろとキクに伝えるのである。キクは嬉々揚々として農具の鍬を肩にかけ祖母の後をついていくのである。

監督・今井正/脚本・水木洋子/出演・高橋恵美子(キク) 奥の山ジョージ(イサム) 北林谷栄(祖母) 滝沢修、宮口清二、東野英治郎、朝比奈愛子、清村耕次、荒木道子、三国連太郎

キネマ旬報ベスト・ワンに選ばれている水木さんの作品は五作品ある。『また逢う日まで』『にごりえ』『浮雲』『キクとイサム』『おとうと』である。

水木さんはキネマ旬報に要約すると次のような一文を書かれている。<背後に民族問題ということもあるが、大上段に社会劇としたり、問題劇として叫ぶことは避け作品のスタイルも写実からシンボライズへ半歩前進したいのがこの仕事のねらいである。東北に世界をおきながらも、山ざとのカラリとした夏から秋に設定した。主人公のタイプもわざとフトッチョの美人型でない可憐でない、憎たげなフテブテしい子供を描き、主役タイプの定石を破りたかった。殆どが反対意見で、監督が最後の決断をくだしてくれなかったら、私はこの脚本と心中をしてしまったことであろう。>

今井監督のほうは、子役を探し東北で70人くらいの子に会っていたが、水木さんが東京で探して「あの子に決めた。あの子でないと書かないわよ」と言ったという。それがキク役の高橋恵美子さんである。今井監督は「おばあさん役の北林谷栄さんともども大きな功績ですね。」ともいわれているから、北林さんを選ばれたのも水木さんだったのであろう。水木さんは、柳永二郎、伊志井寛の旗上げ公演に『風光る』の芝居を書かれていてその時、北林さんと会っている。その時「風雪に立ち向かう激しい姿勢が、だれかと話すひと言の中にも、ナマで私は感じられ、遂に恐れをなして一語も言葉をかわさなかった。」そして『キクとイサム』で初めて口をきく。「その一番初の言葉が「ずいぶん水木さんも成長したものだ」と感にたえた声で言った。「これだけ描かれた役柄を自分がはたしてやれるか」とは言わなかったが、脚本をほめておいて、見ごとにやってのけた。」水木さんの役者さんの選び方の修養さの一端である。

深刻なテーマでありながらユーモアにみちているのは、子供の遊びや夢中になるその姿でもある。祖母が神経痛が痛み、野菜を背負い町へ売りに行き、そのお金で医者にかかる。その時、キクは膚の黒さから好奇の目にさらされる。それを感じた祖母はキクを先に帰す。その帰り、キクはアイスキャンディーを買うお金で櫛を買う。女の子の自然の感情として、周囲に関係なく楽しそうに描く。祖母は医療費の値段を聞き注射をやめて逃げ帰る。そのお金でイサムには帽子をキクには下駄を買って帰る。キクはイサムに大事にするように言い、イサムも喜んで約束する。次の場面では、その帽子は採った魚を入れる容器となってアップとなる。かくありなんである。子どもは面白いことがあれば、それに集中する。子ども達の遊びも言葉の暴力も遠慮なく描く。

イサムが養子に行ってしまい寂しいであろうと、祖母は村に芝居が来るとキクを見に行かせる。キクは歌をすぐ覚えるらしく、<ケイセラセラ~><りんごの花びらが~>とか所々で口ずさむ。それが花開くのが、旅役者の人々に披露する歌である。「お富さん」のタップつき。褒められてやるのが、しぐさつきの「江戸の闇太郎」である。このあたりも水木さんの手の内のように思われる。今井監督は『青い山脈』で歌謡曲挿入に反対している。歌舞伎のおかるの台詞導入といい水木さんの発想と思う。山奥で見聞きするもの。それは、集会所にくる、映画か旅芝居であろう。それを入れて当時の庶民の娯楽をもり込んでキクを慰める楽しみごととしている。そのことが、登場人物を生き生きとさせる。ここで問題が起こる。夢中になったキクは、いじめっ子を追いかけ子守りをしていた赤ん坊を停まっていた車の荷台に乗せ、その車が発車して赤ん坊が行方不明となるのである。この事件があり、キクは自殺を試みるが、身体の重みで古い縄が目的を果たせず切れてしまう。祖母は決心する。

「お前を何処にもやンねエ。婆ちゃんと一緒に居てエつウなら、4反借りている畑サ一人で立派にやってのけるようになれ。」

大人のしるしのあったキクは赤飯の弁当を持ち祖母と畑に向かうのである。途中で会ういじめっ子にキクは笑顔で言う。「年頃だから、オラ。かまってやらねえで。もう。」 チンプンカンプンのいじめっ子を後にキクは堂々と胸を張って祖母の後についていくのである。このラストも語り草となる可笑しさで、見るものをほっとさせる場面である。

お蚕を飼っていて、そのために摘んだ桑の葉が雨に濡れてしまう。キクもイサムも祖母のところに駆けつけ、桑の葉の入っている駕籠の上から自分の着ている洋服を脱いでかける。こういうところは、お蚕さんを飼っている農家にとって、お蚕さんがどれだけ大事かわからない人も多い事であろう。町の祭りの帰りに寄ってくれた人を接待する食べ物が畑から抜いてきた大根の輪切りである。その貧しさの中でもキクは憎まれ口をきき負けてはいない。そのふてぶてしさはキクの命そのものである。見ている者がいつの間にか笑いつつ応援してしまう。

バック音楽はピアノで始まる。何かが起こると管弦楽器なども加わるが、基調はピアノである。その流れにキクの歌謡曲がはいるのである。

風に稲穂はあたまをさげる~ 人は小判にあたまをさげる~ えばる大名をおどかして~~~ヘンおいらは黒頭巾 花のお江戸の闇太郎~

見終わると、このメロディーが出てくる。百円ショップで美空ひばりさんの「江戸の闇太郎」の入っているCDを買ってしまった。 ~花のお江戸の闇太郎~

参考  北林谷栄さんとミヤコ蝶々さん

 

 

 

水木洋子のドラマと映画 (1)

市川市文学ミュージアムで水木洋子展をやっていることはすでに書いたと思うが、水木洋子展の内容に関しては書いていない。と言いつつ今回も書くつもりはない。映画のポスターや、シナリオの原稿は説明しても想像するのは難しいであろう。と言う事で水木さん脚本のドラマについて。

横浜放送ライブラリーで、水木さん脚本作品の聞けるもの見れるものは全て見たのであるが、水木洋子展の関連でテレビドラマ上映会と映画上映会をやっている。その中で、1970年の「東芝日曜劇場 五月の肌着」だけ再度見ることが出来た。面白い手法を使って姉と弟の言葉に表すと壊れてしまうような情愛を描いている。

先ず画面の大きさでバックに流れる音楽の見る者への影響が大きいことを知る。チェンバレンのような楽器の音楽が流れその音楽と列車の踏切の信号の点滅とが重なる。いい流れである。放送ライブラリーでは気にかけなかったがはっきりと印象づけられる。電車の乗り降りの乗客があり、ホームの若い青年が電車のドアガラスを乗車内に向かって割るのを乗車内から写す。その青年のこぶしの先に一人の着物姿の女性が写し出される。彼女の仕種、表情から回りの乗客三人がそれぞれこの男女の関係を想像するのである。その想像が週刊誌の見出しと同じというように、電車の中の週刊誌の釣り広告が映し出される。

この美しい女性は池内淳子さんで、想像に任せて、想像の役をするのである。青年が高橋長英さんである。人の想像とは面白いものである。どれが本当の彼女なのか。若い男を騙し袖にしてその仕返しなのであろうか。水木さんは、よく役者さんを見ていて上手い配置をする。特に女優さんの選び方は素晴らしい。(一応水木さんが選んだと仮定していての話である)池内さんは五役演じている。48分のドラマに五役であるから何が何だかわからないという事になりそうであるが、そこは、脚本の良さと役者さんの力である。この二人の男女の関係は本当はどういう事なのかと頭のどこかで思わせられつつ、本題に引っ張られていく。

問題を起こし家を出てしまった弟。家族のために婚期を逃してしまった姉が今度こそは結婚しようとして、弟に会いに行くのである。弟には年上の恋人がいて、弟は姉を慕っていることがわかる。今度は自分は結婚すると決めそれを告げ電車に乗ったところで弟が姉に向かって電車のドアのガラスを割るのである。それが弟のどんな気持ちなのかは、見る者に託されている。

私は、弟が俺はもう大丈夫だよとの気持ちでこぶしを奮ったと感じたが、見る人によっては、結婚するなの意思表示ととるかもしれない。池内さんはその弟の行動にびっくりするが、時間が経つと微笑むのでる。単なる微笑みではないので事情の知らない人は、ふてぶてしい笑いととり自分の想像通りと満足するのである。

父親が畳職人で中村翫右衛門さんである。(このかたの芝居を見れなかったのは残念であった。映画『いのちぼうにふろう』の安楽亭の主人などは大好きである。この人以外考えられない。あの仲代さんのような個性的な役者さんの親分となれるのは。)母親代わりとなって婚期を逃した池内さんとの親子関係も息が合っている。長男が林隆三さんで飄々としている。次男の高橋さんのほうが、畳職人としての腕は良かったらしい。そういう細かい人物設定も水木さんならではである。

もう一度見たいなと思わせる作品である。電車の音なども入り丁寧に作られている。

参考  水木洋子 『北限の海女』

 

2月文楽 『近頃河原の達引』(ちかごろかわらのたてひき)

この演目は歌舞伎座で観ているのだが、その時上手く気持ちと合わなかった。猿使いが出てくるのでその猿と芝居がどう繋がるのか興味があったのだが、意外とさっぱりとして猿の効果が解らなかった。今回は文楽ということであるが、どう捉えられるか楽しみであった。さらに住大夫さんの浄瑠璃も聴けるのである。

目の不自由な母を、猿廻しをして養っている与次郎のもとに祇園の遊女となって出ていた妹おしゅんが実家に帰されている。おしゅんと恋仲の井筒屋伝兵衛が刀傷ざたを起こし、思い詰めておしゅんにも危害を加えるのではないかと恐れての事である。母も兄もおしゅんの身を案じ、とにかくおしゅんを伝兵衛には合わさずに手を切らせ、伝兵衛に諦めさせたいと思う。そのためおしゅんに退(の)き状(縁切り状)を書かせ、それを与次郎が渡すことにする。ところが手違いから、尋ねてきた伝兵衛が家に入り、おしゅんが外の戸口に立つこととなる。そのままで与次郎は伝兵衛に退き状を渡す。退き状と思ったものが、母と兄宛の書き置きであった。おしゅんは伝兵衛と心中するつもりであった。おしゅんの本心を知った兄は、猿をお初徳兵衛に見立て祝言の盃をかわさせる。それは同時に、おしゅん伝兵衛と自分たちとの別れの盃でもあった。

観ていて納得した。まず目の不自由な母は琴三味線を教えていてるが、今日教える三味線のその曲が「鳥辺山」で心中ものである。娘おしゅんの先行きを暗示してもいる。<恋といふ字に身を捨て 小船どこへ取り付く島とてもなし 鳥辺の山はそなたぞと 死にゝ往く身の後ろ髪> 母と習う子の違いを、住大夫さんは語りわける。稽古が終わり、猿廻しを生業とする与次郎が帰ってくる。貧しいが与次郎は母思いで、目が不自由なのをこれ幸いとちゃんとゆとりをもって生活しているさまを説明する。このあたりから、与次郎のあまり頭の働きはよくはないが母を思い妹を思う善良な人間であることがわかる。こういう家族の中で育ったおしゅんであるから、二人に心配をかけまいと、退き状を書くことを承諾し安心させて、二人に書き置きを書くのである。その健気で一途さが母と兄を得心させるに十分な語りである。

暗闇とはいえ、伝兵衛とおしゅんの居場所を変えてしまうくらい、与次郎は小心ものである。典型的な庶民なのである。伝兵衛を極悪非道の殺人者と思い、それからおしゅんを必死で守ろうとしながら逆をしてしまう。今度は、おしゅんを中に入れないで、伝兵衛に退き状を渡しなんとかあきらめさせようとする。ところが、伝兵衛がそれを読み始めると「母者人。どうやら風が変はつて来たようなぞや」となる。おしゅんを生かしたいが、おしゅんの本心を知ると自分を押さえ、二人の進むべき道を祝福してやるのである。その方法に自分の生業の猿廻しで猿に祝言の真似事をさせるのである。この場面が文楽ではたっぷりである。機嫌を損ねて寝ころぶお初猿を婿さん猿に起こしてやりなさいと声をかけたり、盃を持たせたり猿も与次郎も大奮闘である。それをじーっと見ている、おしゅんと伝兵衛。二人にとってこんな夫婦としての残された時間はないのである。猿廻しのような時間があってほしいと願う与次郎の思いでもある。<まさるめでたう、いつまでも、命全うしてたも>と母と兄に見送られて聖護院森を目指すのである。

愛される家族がいながら心中の道を選ばざる得ない二人。涙ながらに二人を送る家族。武士の世界とは違う庶民の情愛を描いたものである。そこに猿の可笑しさも加え笑い泣きとする幕切れの話で得心できた。心中と情愛の二本柱であった。

<四条河原の段>の舞台美術の枝垂れ柳のカーブが現代的で素敵であった。京都の六角堂の枝垂れ柳を思い出してしまう。文楽の舞台は冬の川風吹きすさぶ四条河原で、効果的な冬の枝垂れ柳で、出だしの舞台美術の印象も大事なものである。

 

2月文楽 『七福神宝の入舩』 

『七福神宝の入舩』の平成15年5月の床本があった。この演目は第一部で上演されているが観ていないので第二部の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』を観たのであろう。今回は三部立てで一部の『七福神宝の入船』を観るので床本を読んでおいた。

<浮かれ出でたる神々の七つの福を銘々に積むや宝の船遊び、呑めや謡へや酌に立つ、その色こそはなよ竹の生ふる嶋にぞ住み給ふ>

七福神が浮かれている。呑めや謡えと酒盛りである。楽しそうである。<サアサアこれから銘々に嗜(たしな)みの芸尽くし> 隠し芸大会である。舞台は七福神。大夫さん七人、三味線七人。琴も置いてあるのでなにが始まることか。

寿老人、<子供に戻りし老人が、この三味線で玉琴に似せるも時のヲホ、、、、お笑い草>寿老人は三味線を取り上げかき鳴らす。そこに琴が加わり華やかになる。

次は布袋の謡に合わす腹鼓。見事なお腹で音も良し。

さてお次は色の黒いのが自慢の大黒天。驚くなかれ胡弓である。いやいや三味線ばかりか、胡弓も素晴らしい。

逃げようとした弁財天に似合うのはやはり琵琶。太棹で弁財天の琵琶の音を。

さてお次は道化役。長い頭の天辺に何であろうか獅子頭が乗っている。頭が伸びたり縮んだりの角兵衛獅子。<越後の国の角兵衛獅子、国を出る時や、親子連れ、獅子を被ってくるりと回って首をふりまする>

黄金の釣竿持つ恵比寿さん。黄金の釣竿で太鼓に見立てて船端を軽快に刻み打ち。ついには釣竿海原に投げ鯛釣りと、失敗何のその。ビール、ジョッキで飲み干していざ再挑戦。恵比寿ビールの後押しで鯛も見事に釣りあげました。

物々しい異形の毘沙門天。船の眠りを覚まさんと、取り上げたる三味の船歌。太棹七棹豪快に福を讃える 芸尽くし。<実に福神の音曲の数を並べて積み上げし浪乗船の音のよき調べを代々に伝へける>

人形の動きもさることながら、どんな音曲がつくのか楽しみであった。期待以上の楽しさであった。観たし、聴いたし、おめでたいし、愉快だし、七福神は浮かれているし、音曲は確かだし、国立小劇場で七福神巡りはできたし、しの七並べで上出来上出来。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (2)

『青砥稿花紅彩画~白浪五人男~』の<白浪>とは盗賊のことである。そのいわれは諸説あるので省略して、<白波五人男>の見せ所、「稲瀬川勢揃い」の場についてである。「雪ノ下浜松屋の場」で風体の良くない男(狼の悪次郎・菊十郎)が、小袖を頼んだらしくその期日の催促にくる。店の中を眺めまわし、何かこの男は企んでいるなと思わせる。この小袖が「稲瀬川勢揃い」で<白波五人男>の着る小袖だったのである。「雪ノ下浜松屋の蔵前の場」の最後、この悪次郎が出てきて日本駄右衛門に罪科がばれ危ない状況を伝える。それを聞いた浜松屋の主人が自分からの餞別として、着物を渡すのである。筋書を読んで、初めて分ったのであるが、日本駄右衛門が、悪次郎を通じて小袖を頼んでいて、その着物は結果的には、<白波五人男>の死に装束でもあったのである。

「稲瀬川勢揃い」の派手な衣装は<白波五人男>を恰好よく目立たせるために考えたものとだけ思って居て、芝居の中にその衣装のことが組み込まれていたとは、今回まで知らずにいた。実際には、衣装は衣装部さんなり役者さんなりが考えだしたのであろうが、芝居の中では、日本駄右衛門がデザインし注文していたことになる。そうなると、「稲瀬川勢揃い」も違う輝きが増してくる。台詞も、黙阿弥さんが考えたものなのだが、この衣装に負けない台詞をいう五人でなければならない。自分たちで設定しているのであるから。黙阿弥さんは格好いい。自分が消える事の恐れなどないのである。むしろ自分が消えて役者の登場人物の光る事を望んでいる。作者に負ける役者は駄目だともいっているように思える。

日本駄右衛門(市川染五郎)・弁天小僧菊之助(尾上菊之助)・忠信利平(坂東亀三郎)・赤星十三郎(中村七之助)・南郷力丸(尾上松緑)は負けてはいなかった。

テープで、日本駄右衛門(七代目松本幸四郎)・弁天小僧菊之助(十五代目市村羽左衛門)・忠信利平(六代目尾上梅幸)・赤星十三郎(市村家橘)・南郷力丸(十三代目守田勘弥)を聞いたが、先輩たちのほうが朗々としているが、花形のほうは声の質の違いが面白かった。それぞれに声に特徴がありそれを楽しんでいた。もう一つは、雪ノ下といえば、鎌倉に残る町名であり、稲瀬川は静岡である。所がこの芝居は江戸の話なのである。役者さんは江戸前で演じる。

<白波五人男>の名乗りの台詞(つらね)には、鎌倉から浜松、そした奈良の吉野、福島の白河まで出てくるのである。江戸の人々は歌舞伎の芝居小屋の中で日本全国あるいは唐天竺までを旅するのを楽しんでいたのである。

駄右衛門では、生まれは遠州浜松、人に情けを掛川、金谷をかけてと雑談から旅での地名が出てきて大喜びである。弁天小僧菊之助は、江の島の岩本院の稚児上がり、髷も島田の由比ヶ浜、悪い浮名も竜の口、八幡様の氏子、鎌倉無宿と解かりやすい。忠信利平は、義経に関係してくる。月の武蔵野江戸育ち、廻って首尾も吉野山、足を留めたる奈良の京、けぬけの塔の二重三重(義経、弁慶、忠信等が頼朝の追手から隠れた場所)。赤星十三郎は、鈍き刃の腰越、砥上ヶ原に身の錆を、月影ヶ谷神輿ヶ嶽、など鎌倉近辺である。最後の南郷力丸は、大磯である。磯馴れの松の曲がり形(大磯東海道の様子)、その身に重き虎が石、覚悟はかねて鴫立沢。

大磯を少し付け加えると、東海道の宿場町で、東海道の松並木がのこっている。澤田美喜記念館。藤村が晩年の過ごした旧島崎藤村邸、地福寺には藤村の墓がある。鴫立庵は西行の歌ゆかりの、日本三大俳諧道場の一つ。新島襄終焉の地であり、宿泊跡地に碑がある。海側には政治家の別荘がある。大磯城山公園には、国宝「如庵」を模した茶室「城山庵」がある。数奇な茶室「如庵」 そんなわけで、現代人も芝居を見つつ旅をしているのである。

江戸と設定するよりも、辻褄が合わなくても、観客がもっと遠くまで想像を巡らし遊び楽しむ世界観を後押ししてくれている。盗賊が主人公という事もそれに一役かっている。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (1)

今月の歌舞伎座 『花形歌舞伎』は、昼が四世鶴屋南北の作品で夜が河竹黙阿弥の作品である。南北は『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』で、昭和48年に国立劇場で上演され、今回は再演である。染五郎さん、菊之助さん、松緑さん、七之助さん、等の若手にとっては新作と言ってよい作品である。それに対し黙阿弥の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』は通しとして、「浜松屋」と「勢揃い」の単独や二つセットを数えると何回上演されているか分らないほどである。

この二作品を花形の役者さんで観て思ったことは、歌舞伎は型の芝居であるということである。他の演劇と歌舞伎を分けているのは型である。そしてその型があるゆえに生き残ってきたのである。『心謎解色糸』は、型が決まっていない、模索状態である。型が決まっていないだけに台詞まわし、声のトーン、息継ぎなども定まらない。人物の寸法も、善と悪の演じ分けもすっきりしないところもある。芝居がメチャクチャだということではない。複雑な人間関係を解り易くし役者さんもそれなりの登場人物たちをこなしており早変わりもある。しかし、観ている側に何かもっとと求める声がする。それがなんであるか。『青砥稿花紅彩画』を観て明らかになった。古典で型があり、がんじがらめに縛られているはずなのに、こちらのほうがのびのびと演じられているように見える。観ているほうもストン、ストンと気持ちよくこちらの感性に入ってくるものを受け止めている。

おそらく花形役者さんたちも、先輩や師匠(親)から口うるさく言われてきたことが沢山あったであろう。あちらからも、こちらからもそう沢山のことを注意しないで欲しいと反発もしたことであろう。それが、身体の中に少しずつ積み重なって、身体が味方してくれているのである。花道から去る時の不敵で怪しい目つきと視線。そこに色気があり、その顔の表情を受けて立つ身体に型があるのである。この身体があるからこそである。

これがあるからこそ、歌舞伎は幼い頃から舞台に立たせられ身体に染み込まされるのである。そうしなければ、何代も続いて工夫してきたことを、覚え込む時間が足りないのである。身体に覚え込んで覚え込んで自分の芸を探し当てていくのである。さらに、観客の目も意識しないわけにはいかない。こんなに一生懸命なのに受け入れられないのか。この程度で喜んでもらえるのか。どちらにも落とし穴があるかもしれないし正解があるのかもしれない。それをどう捉えどう平衡感覚を保つかも役者さんの仕事である。

新作は、かつての役者さんたちがやってきたように、再演の度に工夫して積み重ね、自分の代で駄目なら次のいやもっと先の次の次の世代での花を夢見て伝えていく足掛かりとなるものである。若手の役者さんがそれを苦労し模索しているのもまた違う意味での観る楽しさではある。

今月の筋書きに新歌舞伎座の軒丸瓦の写真が載っている。歌舞伎座の座紋の鳳凰が丸瓦に型採られれている。歌舞伎座タワーの5階に上がると庭園もあるが、歌舞伎座のいぶし銀の屋根瓦を間近で見ることができる。その軒丸瓦を大写しにした写真である。筋書き買おうかどうか迷ったのであるが、この写真がボーンと出てきてそれだけで満足した。(古い瓦はどうしたのか気になるが。)表紙は後藤純男さんの奈良の當麻寺の『雪景』である。當麻寺といえば中将姫。中将姫と言えば国立劇場での新作歌舞伎『蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)』であり、玉三郎さんの初瀬である。。この新作も是非再演し伝えていって欲しい作品である。中将姫伝説の人形アニメーション映画『死者の書』も人形を使うことによって伝説の幻想性を浮きだたせていた。

 

雑談から旅

ちょっとした雑談で驚くような事を聞くことがある。以前にも聞いていたのであろうが、そのことの引っ掛かりを掴めていないこともある。

かつてご近所に居たかた達と集まり話をしているうちに、彼女のお母さんがもう亡くなられておられるが、銀座生まれでお蕎麦屋さんの娘さんであったと。「銀座のどこだったのですか。」と尋ねると、「金春湯の向かい。」 え~!である。「私、銀座の銭湯には是非入らねばと思い金春湯に入ってきましたよ。」周囲の人が「銀座に銭湯があるの?」「そうなんです。あるんです。」彼女が生まれたときは、もうお母さんの実家もそこにはなかったそうである。お孫さんと銀座に行った時「おばあちゃん生き生きとしていたよ。」と娘さんが彼女に報告したそうで、やはり若い頃の自分を銀座で取り戻したのであろう。

静岡出身の仲間と冬は富士山が綺麗に見えるよねの話から、清水港から土肥までフェリーが出ていて富士を見るには良いと教えてくれる。駿河湾を富士山を見つつ横切るわけである。静岡から伊豆ね。それは素敵である。清水駅からエスパルス行きの無料バスに乗ると清水港に行ける。市内のバス停はちびまる子ちゃんの絵が描かれている。そうか、清水は次郎長さんもいるが、ちびまる子ちゃんの町でもあるのか。親戚の近くがちびまる子ちゃんの漫画家の家があり今は住んで居ないみたいだけど、ちびまる子ちゃんの漫画の町が残っているよ。いいな。漫画の町が残っているなんて。でも悲しいかな登場人物は思い出せても<町>が全然思い出せない。そこを通っても気が付かないだろう。

たまたま私が旅行パンフの切り抜きを持っていてここへ行ったことがあるか尋ねる。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>と<花庄屋 大鐘家>である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は江戸後期に菖翁(しょうおう)と称された旗本・松平定朝開発の古花が咲き誇り、<花庄屋 大鐘家>は300年以上の歴史をもち、母屋と長屋門は国の重要文化財の庄屋屋敷でアジサイの時期が良いらしい。<花庄屋 大鐘家>は彼女の実家の近くだという。行ったことはないが、看板を見た事があるよ。彼女は牧之原市出身であった。静岡県牧之原は私の頭の中に無かったので、以前にも彼女から聞いていたのだろうが聞き流していたのであろう。電車の走っていないところで、海沿いを走る国道150号線である。その先が浜岡原発。さらにその先に<ねむの木子ども美術館>がある。美しいところに原発が陣取っているのか。駿河湾と遠州灘を両脇に従えて御前崎である。山側に東海道の金谷があり、大井川鉄道である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は掛川からの天竜浜名湖鉄道の方角にある。この天竜浜名湖線は「秋野不矩美術館」へ天竜二俣駅で降りて行ったので記憶に残っている。

バスも良い。東海道線真鶴駅からバスで中川一政美術館に行ったときはバスに揺られながら「岬めぐり」の歌が出できた。ツアーは楽なのであるが、記憶の中で道が切れてしまい、さらにツアーよりも安くいく方法は無いかと考える。時間を換算すると、安いかどうかは実際のところ分らない。雑談からまた、旅の青写真が増え何処かで使えそうである。

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿を読んでくれた友人が、<台之景>のおりょうさんが住み込んで働いていた料亭「田中家」の特別会席とお話つきのお食事の案内が横浜地域新聞に載っていたと新聞を送ってくれた。これうれしやと思ったが残念ながら予定ありの日にちであった。

情報は多いから、そこから取捨選択して自分の気に入った旅にする時間がこれまた、楽しくもあり、他の必要時間を奪う形にもなる。

 

 

神楽坂散策 (2)

私の要望で「宮城道雄記念館」へ。宮城道雄さんの胸像が朝倉文夫さん作である。ハ歳の時に失明している。邦楽に西洋音楽を取り入れ現代化した人である。一通り館内の展示を見てから建物の外に出ると、作曲や著作の時使用した「検校の間」があり、更に進むと宮城喜代子記念室がある。玄関を入った角に、アケビと思われる銅製の置物があり、三人とも気に入る。部屋には着物と帯が掛かっており、それぞれの感想が飛び交う。その畳敷きの廊下に座りしばし休憩。友人が茨城の岡倉天心の再建された六角堂に行った話から、釣竿を持った岡倉天心像が平櫛田中の作品で驚いたという。、彼女を小平市にある平櫛田中彫刻美術館に誘ったことがあり満足であったようだが、茨城の天心記念五浦美術館で天心像「五浦釣人」をみたのであろう。

それでは、今度は谷中の朝倉彫塑館に行こうとの話になり、廊下から見える屋根瓦を見るとお琴の琴柱(ことじ)のような飾りがある。朝倉彫塑館の瓦にも取っ手のようなものがついていた。あれは飾りなのだろうかと疑問を投げると、テレビで雪止めといっていたような気がする、近所にもあれがついている屋根瓦があるから聞いておくと言って聞いてくれたところ、<雪止め>であった。なるほど、朝倉彫塑館では互い違いになっていたりしていたが、役目があったのである。朝倉彫塑館は庭もあり、屋上庭園もあるから、彼女たちはそこの植物も気に入るであろう。

とにかくお昼にしようと宮城道雄記念館を出る。早稲田まで歩きたかったが、午後から雨ということで今回は辞めにして、<黒龍あります>のお蕎麦屋さんにする。一人は下戸で私は今飲むのを控えているので、見つけた人だけが飲む。お蕎麦は美味しかった。その後は喫茶でお茶とおしゃべりである。

天気がよければもう少し歩きたかったのである。大久保通りから早稲田通りに抜ける外苑東通りに、和算学者関孝和のお墓がある浄輪寺と、松井須磨子のお墓がある多聞院がある。

関孝和は映画 『天地明察』 (改暦1)では私は触れていないが、市川猿之助さんが関孝和をされている。 映画の役の印象としては、渋川春海より才能があるようであるが、名声を得るタイミングが遅れたような感じであった。誰でもが和算の問題を出しても良い場所があり、その問題を一番に解き、算哲の出した問題自体が間違っている事を指摘した人でもあり、算哲に有効な刺激を与えた人として登場する。思いもかけないところで名前をみる。松井須磨子にかんしては、島村抱月に出会う事によって実力よりも人気を博してしまった人と思う。今はそう思うのであって後に違う捉え方をするかもしれない。

ここを通り早稲田の演劇博物館にでも行こうと考えたが、またの機会とする。

神楽坂散策(1)で狛犬ならぬ狛虎の毘沙門天の善国寺のことを書いたが、JR日暮里駅で調達したパンフレット<川越・さいたま>に中山道の宿場町・浦和に兎の置かれている調(つき)神社の紹介があった。平安時代の全国の神社名簿である『延喜式神名帖』に記載がある神社なのだそうである。これまた珍しい狛兎である。色々あるものである。