歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(1) 

『仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居』はとにかく大作である。どこを切っても絵になっている。それぞれの人物の絡み合いが見事に構成されている。ずうっと気を張りつめている時間も長く、腹を見据える型もある加古川本蔵の女房・戸無瀬を、藤十郎さんが、お歳のことを言っては失礼だが濃厚に演じられ感服してしまう。今回は大星由良之助を吉右衛門さん、由良之助の妻お石を魁春さん、力弥を梅玉さん、加古川本蔵の娘小浪を扇雀さん、加古川本蔵を幸四郎さんと練熟された方々のぶつかり合いである。

山科にある由良之助の住まいの舞台は、その室内の壁の色は濃くてくすんだ松葉色、唐紙には白の漢文字で、家の周囲の竹藪には雪、竹の笹の雪具合もこれから人の生き死にがかかっているとは想像できない静けさである。この場で戸無瀬の赤と小浪の白の着物が配置されるのであるから計算づくであろうか。

戸無瀬は先妻の娘・小浪を力弥と祝言させるため山科の由良之助宅を訪れる。生さぬ仲ゆえこの祝言をなんとか成し遂げたいとの腹である。本蔵の代わりに夫の刀大小を持参している。小浪は綿帽子をかぶり白無垢の花嫁衣装である。お石は、こちらは浪人の身、そちらとは釣り合わないと断る。ここが戸無瀬とお石のさや当てである。戸無瀬はもとはそちらは千五百石、こちら五百、千違って許嫁となり、浪人しても五百の違いと言い返す。お石、心と心が釣り合わないと返答。何処かで使いたいくらいな言葉である。戸無瀬、どの心じゃ。ここでお石は、主君塩冶判官は正直さゆえこうなったが、そちらは金品を使ってのへつらい。戸無瀬、聞き捨てならないがここで怒っては娘のためにならぬと、祝言しょうとしまいと許嫁なんだからりっぱに力弥の嫁。お石、女房なら、力弥に変って母が去らせるとその場を去る。母同士で結婚させ離縁してしまう。小浪はびっくりして綿帽子を取り払い嘆く。戸無瀬とお石、藤十郎さんと魁春さんのぶつかり合いである。

ここからが戸無瀬と小浪のやり取りとなる。戸無瀬は娘の心の内をはかる。他に嫁する気はないか。小浪、力弥様以外いやである。この時、綿帽子を使いつつくどくのであるが、扇雀さんの使い方がいい。柔らかくそれでいて一心である。小浪の意思を確認した戸無瀬は持参の刀を手にし自分の不首尾の責任から自害しようとする。小浪は、自分が力弥に見放されたのだから母の手にかかって死にたいと訴える。母はそこまでいう娘に感嘆し、娘を手にしたあと自分も後を追うと二人手を取り合う。ここで二人は実の母娘になったのである。そう解釈した。

藤十郎さんの娘を手にかけるために刀を使っての腹を決める立ち姿はこちらを圧倒させる。ここが大きいだけに次の心の揺れに戸惑う戸無瀬の心中も推察できる。死出の水を氷の張った手水鉢から氷を割るのであるが、氷が飛び散りこの場面も好きである。戸外では虚無僧が尺八を吹く。この曲は<鶴の巣籠り>で子を思う親鳥を思う曲で、子を手にかける親とをかぶせているようであるが深くは分らない。今回はこの尺八の音色をずっととらえていることが出来た。聞いているようで場面に目を奪われ耳は何もとらえていないことが多いものである。こんなぼあ~んとした音もあったのかと気が付いた。いざ手をかけようとすると「ご無用」の声がする。戸無瀬の手がにぶる。ここも戸無瀬の見せ場である。自分の気の迷いと自分を立て直す。再び「ご無用」の声、さらに力弥と祝言させるとのお石の声。喜び打掛を間違える母娘の前に三方を持ったお石が現れ二人の心構えを見届け祝言させるという。黒の着物に打掛。魁春さんのお石は一層凛としての登場である。ここまでの死をかけた母娘の姿を見れば当然かと思いきや、まだ山がある。

三方に引き出物をというので、戸無瀬は大小二本の刀を差し出す。名刀である。お石、これではない、加古川本蔵のお首が欲しい。ここで、本蔵が塩冶判官を抱き押さえ本望を遂げられなかった恨みを述べ、それゆえ首が欲しいと強調する。そこへ、戸外にいた虚無僧が加古川本蔵の首差し上げると入ってくる。虚無僧こそ加古川本蔵であった。堂々として、この首が欲しいというが、お宅のご主人は何たる様か、遊興にふけり主君の仇討をしようともしない。その息子力弥にこの首が討てるかと三方を踏みつけてしまう。壊してしまったとほくそ笑む本蔵にお石は押さえが切れて槍を取り本蔵に立ち向かうが歯が立たない。そこへ力弥が飛び出してきて落ちている槍を持ち本蔵を刺す。その時本蔵は、その槍を仕損じないように自分の腹に刺し込む。覚悟の上の悪口雑言であった。幸四郎さんあくまでも大きく軽くいなす感じでけしかける。それに乗って魁春さんは戸無瀬とのやり取りとは反対に本蔵とのやり取りで初めてうろたえてしまう。力弥が止めを刺そうとするそこへ、由良之助が登場し、一座を静め、本蔵殿本望であろうと声をかける。

本蔵ここで心の内を知る人物があらわれ、自分の主君・桃井若狭之助が高師直に苛められ師直を切る覚悟と知って、賄賂を使い急場を救わんとしたが、その矛先が今度は塩冶判官に向き、差し押さえたのも相手の傷が浅ければ切腹にはいたらないと考えたからであると語る。本蔵にとっての忠儀は他家の難儀となったのである。ここで初めて死をかけての本蔵という人の実像が明らかになるのである。本蔵の首は三方に乗る形となった。

ここで由良之助は力弥に襖を開けさせ、庭に雪をかぶった二つの五輪。由良之助と力弥の行く末を見せる。戸無瀬は気が付く。お石どのが難題を突き付けたのは死にゆく力弥の嫁にはもらえないとの心づもり。二人の母は涙する。そこで本蔵、引き出物として、師直の屋敷の図面を渡す。由良之助と力弥は図面を推考しつつ嬉し笑みを浮かべる。吉右衛門さんにまだ成さねばならぬ事がある気迫と思慮深さがある。自分の役目を終わろうとする幸四郎さんは、苦しさの中から最後の心使いで、師直は用心深いから障子、雨戸はしっかり止めてあるがどうするかと心配する。そこで力弥が竹のしなりを利用して障子を倒していく様を見せる。いつも不思議である。梅玉さんの力弥は若者である。首の傾げ方、足の運び、手の置き方など点検してしまう。芸の力である。

本蔵は、これだけの家来が主人の短慮から命を捨てる無念さをつぶやく。由良之助もお互い、世が世であれば主人の先に立って働いたものをと慨嘆する。言葉は少ないが、本蔵と由良之助の男同士の本心である。由良之助は本蔵の虚無僧姿で、堺へと立ち、力弥は一夜残り後から出立することとなる。戸無瀬、お石、小浪の女三人はいずれは同じ夫の無い身となるのである。

今回は文楽の床本があったのでそれをなぞりつつ、役者さんたちの動きを思い出していたが、ここはどう表現したのであろうかと自分の中の映像のぼやけに歯ぎしりするが、一応役者さんたちの現された人物像のぶつかり合いは残ったように思う。何処を切っても絵になるのである。

友 遠方より来たる (番外編)

友人が旅の記録を一枚にしてくれると期待していたら、葉書一枚にして早々配達される。お見事である。いつの間にか行った場所のピンナップを撮っていてくれていて、人物は飲み会で、お店の人に撮ってもらっただけである。朝倉彫塑館の門柱のブルーの名前の彫がいいねと言われ頷いたが、それも建物の横に配置している。写真のために立ち止まらせることもなく意識させることもなく旅の最高の写真家であり編集者である。

大円寺に笠森お仙の碑があったが、笠森稲荷境内の茶店鍵屋というのは、本当は、天王寺の塔頭福泉寺(現功徳林寺)にあったもので、どうも後の人が大円寺の瘡守(かさもり)稲荷と混同したという説もある。

私の間違いで築地塀のあるお寺を長安寺と書いたが、観音寺であった。

初めて谷中を訪れたのは、団子坂に住んで居たことのある友人の案内であった。その時日暮里駅から御成坂を上がった右手の最初のお寺・本行寺で彰義隊が立てこもったため門に銃弾の跡があると教えられたつもりで確かめたが無かったので違う場所だったかと思いきや、調べたら隣の経王寺であった。今回近くを通りながら、上野の山の戦いの歴史の傷跡ととして見せられなかったのが残念である。その初めての時一緒に高村光太郎と智恵子の住んで居た住居跡も探してもらたのだが見つからなかったが、今は地図に載っているので今度突き止めたいと思う。

朝倉彫塑館を左手にまっすぐ進むとお寺の町のイメージが味わえるであろう。川口松太郎さんの「愛染かつら」のヒントとなった自性院もあるが、ただ、愛染明王は非公開で桂の木もないので行ったが印象うすいお寺である。

桜の時期は谷中霊園が、ツツジの時期は根津神社と忘れ物を探すように町歩きを楽しめる谷・根・千である。

その後、友人が『上野谷中殺人事件』(内田康夫著)を読み<谷根千>の意味が分ったと知らせてきた。こちらが分かっていても共通語になるには時間を要することもあるようである。

 

 

友 遠方より来たる (3)

千駄木から湯島に移動。湯島駅を出ると湯島天神が見えるが寄らなくて良いということで旧岩崎邸へ。秋には大きなイチョウの木が美しい。青空の日は下から見上げると青と黄色のコントラストが現実の時空から飛び立たせてくれる。私たちが興味惹かれたのは洋館の壁紙である。革に彩色したものと紙に彩色をしたものがあった。紙の方はおそらく何回も重ねて壁紙用としたのであろう。それをローラーで型押しし、その模様に合わせて彩色している。紙のため鮮やかな色づかいとなっている。革のほうがくすんだ趣きのある色で、住まいとしては革の色彩を皆押す。

岩崎邸は三菱財閥三代目久弥さんが住んでいた邸宅である。岩崎家の写真があり、エリザベス・サンダースホームを創立した沢田美喜さんが、後に艱難の道を選ばれたとは想像できない娘時代のふくよかな着物姿で写っている。弥太郎さんの孫であり久弥さんの娘である。大磯のプチ旅の時、沢田美喜記念館がありここだったのかと知ったのであるが時間の関係で寄れなかったが、要予約のようであり、現在は3月末まで休館のようである。友人が三菱は直系ではないのではの言葉で家系図を見ると、初代を弥太郎さんとして、二代目はその弟さん、三代目がこの家の主であり弥太郎さんの息子の久弥さん、四代目は弟の息子へとつながっている。二家族が三菱の中心だったわけである。そして、やはり政界とつながっている。

洋館から和館へと続くが今は大広間しか残っていない。和館は洋館よりもっと広く、洋館は寒かったとあるから生活は和館だったのであろう。和館を出ると広い芝生の片隅に冬ぼたんが咲いている。一つの菰囲いに二花づつ咲いている。友人がぼたんは丈の高い6月頃と思っていたというので検索したところ。冬ぼたんは冬に花がないので春ぼたんを品種改良して冬に咲くようにしたのだそうである。花は小さ目のもあるがここのぼたんは茎の細さに比べると花は大きい。芝生の庭園から見る洋館は「風と共に去りぬ」の映画を思い出してしまう。カーテンからドレスを作るスカーレット。ドレスに相応しいカーテンは見当たらなかった。洋館と離れて撞球室がある。山小屋風で友人がフクロウのようだという。入口の上がフクロウの目のようで、鱗のような装飾がフクロウの姿を連想する。この洋館の一部と撞球室はジョサイア・コンドルの設計である。河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)

次が不忍通りを渡り下町風俗資料館である。近くに不忍通りに添って行くと岡倉天心の弟子である横山大観記念館もあるがそこはパスして、豪邸から一気に大正時代の庶民生活に入る。木のゴミ箱などは幼い頃目にしたものである。井戸端などから、韓流ドラマを見ている友人は外で皆で食事をするのだがあれはどんな場所なのかという。私は見ていないのだが3人はよく出てくると賛同する。韓国の家の造りなど何処かで展示すると、韓流ドラマを見ている人にとっては一層楽しくなるかもしれない。<女性たちの装いと暮らしー明治から昭和へー>展をやっていて、女性の江戸から大正の髪型の紹介もあるが、日本髪というのは誰がどういう経過でできあがったのであろうか。あの複雑さ、飾り。あの髪、着物で劣らずに動いていたのであるから感心してしまう。鎖国ということも影響しているかもしれない。あっという間に日常から日本髪は無くなるのであるから。ここで町歩きの最終とする。

町歩きと飲み会兼語らいが半々というところがベストであろうか。友人の計らいで宿は我々にとってはベストの条件で、外で飲み会をしたあと、二次会を兼ね心おきなく語り合うことが出来たのである。年とともに物事も人間関係も俯瞰してみることが少しできるようになり、以前よりも同じ状況の話も両サイドの状況が見えるようになる。年をとるのも悪くない。イベントも無事終了。この旅はパソコンの得意な友人が写真を使ってまとめてくれるだろう。これから写真は少なくの方針にそって忘備録としてして一枚にしてくれるのが嬉しい。(な~んて期待している)

次の朝、二人の友はそれぞれの予定へ、私ともう一人の友人は巣鴨に行きたいというのでとげぬき地蔵へ向かう。巣鴨から庚申塚で都電の荒川線で早稲田に向かいと考えて居たら、電車の中で、生麦のキリンビールの話が出て、彼女も生麦には行っており、では恵比寿でビールを飲もうということになる。JR巣鴨駅から江戸六地蔵尊の真性寺を通りとげぬき地蔵尊のある高岩寺へ。巣鴨地蔵通りは凄い人である。高岩寺の大例祭の日であった。日本の庶民の町が元気なことは頼もしいことである。とげぬき地蔵尊も並んでおり横からお姿を見るだけとする。本殿をお参りする。講話の終わるところであった。講話をするお寺さんも今は少ないのではないだろうか。このお寺のすぐ横に並ぶカレーうどん屋さん「古奈屋」がある。並んでいない。10時58分。11時開店である。これは好機と食べていくこととする。後ろにならんだ方は常連さんのようである。汁ではなくスープである。全て飲みほす。再び巣鴨駅に引き返し、恵比寿にある、ヱビスビール記念館へ。ここで有料のツアーと試飲がある。それを申し込んで時間まで待つつもりが、同じフロアーにビールカフェがあり、福笑いセットで二種類のビールが味わえるとある。こちらにしようと、ツアーをキャンセルしてもらいそちらに変更。やはり一杯目のビールは美味しい。もう一種類はビールカクテルということで、私たちの好みでは無かった。

本当は町歩き第二弾の予定であったが、食べ飲み歩きにしてしまった。ビールをおいしく飲める温度ということで、コートはロッカーに預け、ゆったりと飲むことができた。友人は東京都写真美術館に行きたいと思って居たので場所がわかり、ビールの飲めるところもあり、今度改めてくるとのこと。写真美術館では映画やドキュメンタリー映画も上映していて何回か来ているが、ヱビスビール記念館も穴場である。三越の建物の地下に映画館がありこの映画館も他では観られぬ映画を上映していたが閉館し、今はK・POPの専属劇場になっているようである。行ったという仲間の話は聞かないが、今度聞いてみよう。

 

友 遠方より来たる (2)

JR日暮里北口出口で友人4人が集合。何年ぶりであろうと昨日まで会ってたような感覚である。出口を出ると前の道路は、下を列車が走る橋である。その橋の下は常磐線、山手線、東北新幹線、スカイライナー、京成線、京浜東北線が走る。歩道橋を渡り欄干から下を覗くと何もない多数の線路の上に一つの列車が姿を現すとあちらからもこちらからもと次々と姿を現す。歩道橋を渡り御成坂を上がり朝倉彫塑館へ。

朝倉文夫さんは彫塑家で早稲田大学に大隈重信像、東京国際フォーラムに太田道潅像がある。アトリエには大隈重信像(原型があるのでそれを使って作れることを友人が係りの人に聞きだす)が丸い台に乗っている。それは地下に下がることが出来、大隈像の頭から足まで同じ位置で制作作業ができるようになっている。他の部屋の骸骨の模型の前で友人が何か話している。模型を見ると自分の悪い部分がよくわかったという。そこでしばし人間の身体の仕組みについて考える。ただの老化の話であるが、声が大きくなるのが実感を伴っている。庭を建物のあらゆるところから眺められ、二階を含めてお日様の光をふんだんに取り入れられるように建てられている。欄間のカーブとか、壁や天井の材質、障子などあらゆる細やかな朝倉文夫さんの美意識が詰まっている。ここで皆、金沢の旅の時の群青色の壁を思い出す。あの色も忘れられない色である。屋根瓦にも趣向があり、取っ手のような突起のある瓦が並べ方も考えて配置している。屋上は庭園となっている。谷中霊園や沢山のお寺の屋根がみえる。谷中は寺町でもある。屋上庭園で背中を見せて下を覗いていた若者の像を、帰りには下から見上げて朝倉彫塑館ともお別れである。舞台美術家の朝倉摂さんと彫刻家の朝倉響子さんは朝倉文夫さんの娘さんである。

谷中ぎんざのに文字がみえるゲートをめざすと下りの階段がありここは夕焼けだんだんと名前がついている。その左手の下り坂が七面坂である。夕焼けだんだんを降りると谷中銀座の商店が続くのだが、その入口にトルコ料理のお店があり、シナモンケーキのカット売りをしている。一カット50円。昼食はもう少し歩き進んでからなのでここでゆっくり歩きつつ軽く胃袋へ。御惣菜屋さんの安さや、アンコウの量の少ない鍋用に便利と話しつつよみせ通りへぶつかる。今回はそこから案内版を左の路地に入り、岡倉天心の旧居跡の岡倉天心記念公園へ。六角の堂がある。扉が閉まっていたのでそのまま立ち去ったが、この中に平櫛田中さん作の岡倉天心像があったはずなのである。横の方の窓から見えたのかもしれないが確かめなかった。岡倉天心の映画が出来たはずと調べたら映画『天心』は昨年完成していたが、上映館が少ない。特定の所でしか上映しないのであろうか。見たいのであるが。

築地塀の長安寺(観音寺の間違いであった)への道が解らずそのまま三崎坂にぶつかる。おそらく左手に鉄舟・圓朝のお墓のある全生庵があったのであろうが、そのまま右に折れると、笠森おせんの碑がある大円寺があり、その門をくぐる。笠森お仙は江戸時代の三大美人の一人で、鈴木春信の美人画のモデルになった女性である。その碑に書かれている文は永井荷風によるものである。三大美人ならあと二人は誰かと友人が言ったのを思い出し検索したら、柳屋お藤と蔦屋およしである。美人画があるのかどうかは調べていない。向かいにある千代紙のいせ辰を教え、菊見せんべいの所で団子坂を説明、少しもどりべっ甲屋さんのところのよみせ通りを入り、一つ目の路地の奥に指人形の「笑吉」がある。その前にたったらこれから指人形劇が始まるという。すでに8人ほど座っている。椅子を空けてくれ私たち4人がいっぱいになるせまさである。人形劇をする小さな舞台の上には、たけしさん、鶴瓶さん(ここでたけしさんと鶴瓶さんに女の恨みを一言。一昨年、昨年の年末にテレビで落語をすると言ったのに二人は約束を破ったのである。怨念。予定外のテレビ番組)サブちゃん、エルビスなどの指人形が飾ってある。人形劇はショートで10種類くらいあり時間は30分くらいで500円。柳家金語楼さんのような表情豊かな老人などが出てきたりして笑わせてくれる。友人達も気に入ってくれたようだ。教えてくれた仲間が、私も参加するといったので、今回は遠方からの古い友人だから駄目、今度別枠で企画するからといったが、お礼を兼ねて早めに計画しなければ。谷中の七福神は回ったと言っていた。

ここから、森鴎外記念館に行くか、歩いて上野公園を抜けるか、地下鉄を使い千駄木駅から湯島駅まで行くかの選択で地下鉄を使うと選択。ではその前に昼食をと、一番近いお蕎麦屋さんに入る。

 

 

友 遠方より来たる (1)

2014年1月の最大イベントは、遠方より友が来て、東京の町歩きをして、飲み語らうことであった。町歩きは谷中周辺から上野と決めた。谷中・根津・千駄木の谷根千となるとかなり範囲が広くなり、さらに上野に抜けるとなると時間的無理が生じる。

何時ものことながら内田康夫さんのお世話になって『上野谷中殺人事件』を読む。<谷根千>の命名者・森まゆみさんをモデルとしているらしき人も登場する。森まゆみさんは世田谷文学館の『幸田文展』の監修者でもある(堀江敏幸さんと)。世田谷文学館 『幸田文展』 この小説に出てくる江戸川乱歩の乱歩から名前をとった喫茶店「蘭歩」は三崎坂にあることになっていて、三崎坂につながって千駄木にあるのが、団子坂である。団子坂には青鞜社発祥の跡や森鴎外の旧居「観潮楼」跡に森鴎外記念館がある。そして、乱歩もこの辺りに住んでいて乱歩の小説『D坂殺人事件』のD坂は団子坂のことである。『D坂殺人事件』が大正時代に倒錯した性、錯覚の説明などを書き表しているのには驚いた。江戸川乱歩は、エドガー・アラン・ポーからとっているが、ポーの『モルグ街の殺人』を鴎外は『病院横町の殺人事件』のタイトルで訳している。『上野谷中殺人事件』には、谷中銀座、昔藍染川だったよみせ通りが出てくる。

風野真知雄さんの『耳袋秘帖 谷中黒猫殺人事件』は時代物で、三崎坂は三遊亭圓朝作の『牡丹燈籠』の舞台の坂と説明している。三崎坂を上がりきったところに岡場所があり、そこを左に曲がると五重塔で有名な感応寺(かんのうじ)でのちに天王寺となったらしい。今は無きこの五重塔が幸田露伴さんの小説『五重塔』のモデルである。その他、七面坂、千駄木坂、三浦坂、芋坂なども出てくる。時代ものであるから、今は流れていない藍染川が流れている。

谷中・千駄木は数回歩いているが、時間も立っており心もとないのと、地図を見ていると歩きたくなり日暮里から下調べである。日暮里から御成坂を上がって左手の朝倉文夫の朝倉朝塑館を確認。御成坂にもどり右手の諏訪神社をめざしそこから富士山の見えていた富士見坂を下り、適当なところから夕焼けだんだんの谷中銀座へでる。そこを抜けるとよみせ通りにぶつかる。それを左に千駄木方面に向かうと三崎坂にぶつかり右手は団子坂。三崎坂を渡りへび道へ。この道は旧藍染川のながれにそってヘビのようにくねくねと曲がった道である。そこからあかじ坂、三浦坂を探し不忍通りに出て忍ばず池を目指す。不忍池は琵琶湖に見立て、弁天島は竹生島を模している。水上音楽堂をすり抜け下町風俗資料館へ。そこから、不忍通りを渡って森鴎外の『雁』の舞台である無縁坂から岩崎邸へ。これはかなりきつい。検討しなければならない。

谷中を歩くと知った他の仲間が千駄木に指人形のお店があるらしいと教えてくれる。指人形劇もあり、そのお店「笑吉」に電話で尋ねると、三人集まれば人形劇をやってくれるとのこと。4人であるから、それもその時の状況に合わせよう。今回はその時の皆の乗りに合わせることにする。

 

新橋演舞場 『寿三升景清(ことほいでみますかげきよ)』

景清といえば、<阿古屋の琴ぜめ>で、阿古屋といえば景清と切っても切れない仲であるが、今回は景清中心の荒事である。話がトントントンと進み、趣向もあってフンフンフン、、、アレアレアレ、、、そうくるのかと思っている内に終わってしまった。

平家一門も源氏によっておおかた片付いたが、まだ景清が残っている。その景清を何んとか捕らえようとする。ところが景清は自分から捕らえられ牢に入る。その捕らえられる前に岩屋の中で景清(海老蔵)は、重盛、知盛、安徳帝が姿を現し自分に語り掛ける心の内を独白する。そして岩屋に幕が下りるとその幕に<心>と書かれている。

半分夢の世界なのか、曹操の姿の武士のところに関羽の姿の景清が現れる。何か力を保持する暗示なのであろうか。ここがよく解らない。

鍛冶屋の所へ修行僧になった景清があらわれ、自分の刀をもう一度叩いてくれと託す。そして髭も剃って欲しいと頼む。鍛冶屋四郎兵衛(左團次)は承知する。凄く立派な衣装の景清が現れ、やっと荒事の<景清>となる。花道のすっぽんからは鍛冶屋四郎兵衛、実は三保谷四郎が鎌を持ってあらわれる。その鎌で首を取ろうとするが切れない。景清は自ら捕らえられる。この時、猪熊入道(獅童)が道化になって色々仕掛け、景清は縛られ入道に引かれて花道へ。花道での海老蔵さんと獅童さんとの掛け合いがあり、お客様は大喜びである。私はこういう時の獅童さんの声とか台詞回しが素で好きではないのであるが、重忠が大満足だったので差引プラスとする。

阿古屋のいる花菱屋である。花菱屋の女将(右之助)さんが場を絞めてくれた。着物、帯、立ち姿も決まっている。阿古屋の芝雀さんが出て、雰囲気が古風になった。若々しい舞台の中で、ぐっと落ち着いた。花菱屋に来ていた秩父庄司重忠(獅童)も品と色気があり、今回琴ぜめはないがその場が想像できる。今回の獅童さんの重忠は納得である。役の寸法にかなっていた。阿古屋は六波羅での取り調べのため花魁道中で出向く。この趣向は阿古屋の景清の思われ人としての度量がでた。

捕らえられている景清と重忠との問答。海老蔵さんと獅童さんも良いコンビである。景清は、頼朝が平家のみならず、一般の女、子供を犠牲にしているのが許せない、天下泰平は平民を守護することだ主張。重忠はそれこそ頼朝の目指すところであり、頼朝からの志として、牢の鎖を解いてやる。そこから、景清は牢破りとなり一暴れする。その時、津軽三味線が入る。想像ではもっと激しく響くと思ったがリズム感のみで意外と単調であった。雪が欲しくなるが、景清の後ろには巨大な海老が鎮座していた。

一般のお客様が舞台の左右特別席に16人づつ座られての観劇である。鐘の中に入り、鐘から出て<解脱>ということであろうか、華やかな中での踊りで締めくくりである。こちらも若手が頑張っていた。廣松さんの役に徹する身体の安定さは、12月の国立の時と同様感心した。

暗い平家物も、荒事中心ということであり、明るいタッチで若々しく終わったが、もう少し重くてもいい。そのほうが荒事が荒事としてもっと生きると思うし台詞に実が加わわると思う。荒事の成田屋は前進している。

 

 

 

『上州土産百両首』から若者映画

歌舞伎の『上州土産百両首』浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)から現代の若者映画に思いが移った。二人の江戸時代の世の中から外れた若者の友情と絶望と復活。その辺りを現代の映画はどう描いているか。などと大袈裟なことではないのであるが、たまたま見た映画三本が、屈折があり面白かった。

『まほろ駅前多田便利軒』『僕たちA列車で行こう』『アヒルと鴨とコインロッカー』

瑛太さんのファンではないが、三本とも瑛太さんとのコンビの映画である。瑛太さんは共演者の個性の映りを引き出す何かがあるのかもしれない。

『まほろ駅前多田便利軒』は、三浦しをんさん原作(直木賞受賞)で、その前に『舟を編む』の小説と映画に接していたからである。『舟を編む』が思いもかけない辞書編集者の話で<まほろ駅前>の駅名もミステリアスで行きたい気分にさせてくれた。松田龍平さんが出ているのも気に入った。わけありの幼馴染が出会い、便利屋をやっている主人公と一緒に暮らし仕事をする。それぞれの過去を知り、それぞれの感性の違いが際立ってくる。これ以上の腐れ縁は沢山だと思いつつ、また一緒に暮らし仕事をすることになる。監督・脚本は大森立嗣さんでこの監督の映画は初めてである。

『僕たちA列車で行こう』は、列車の走る外と内と車窓の映像が沢山見れそうで選んだ。監督・脚本は森田芳光さんで、森田監督の遺作である。コンビは松山ケンイチさんと瑛太さん。鉄道好きな二人で松山さんは、車窓を眺めながら音楽を聞くこと。瑛太さんは、実家の鉄工所の仕事を手伝っており、車輪の音やシートの手すりのカーブなどに興味がある。マニアックな趣味の持ち主であるが、それが功を奏して人生上手く回る。上手くいかなくてもこの二人のマニアックさは変らないであろう。

『アヒルと鴨とコインロッカー』は、映画『はじまりのみち』で注目した濱田岳さんが瑛太さんと絡むとあったからである。原作は伊坂幸太郎さんで、初めて(吉川英治文学新人賞)。監督も初めての中村義洋さん。脚本は中村義洋さんと鈴木謙一さん。仙台で大学生活を始める濱田さんがアパートの戸の外で段ボールを片づけながら、ボブ・ディランの「風に吹かれた」を歌っていると、隣の住人の瑛太さんが声をかける。この映画はネタばれになると面白くないのでそこまでであるが、松田龍平さんも出る。原作は解らないが、映画での濱田さんはこの役はこの人以外にいないと思うくらいはまり役である。今度は、伊坂幸太郎さん原作の『重力ピエロ』と中村義洋監督の『ジャージの二人』のDVDを借りてしまった。

歌舞伎の『陰陽師』の染五郎さんと勘九郎さん、『主税と右衛門七』の歌昇さんと隼人さんなど新しいコンビの芝居が増えるのを期待する。四月に三津五郎さんが戻られるようなので、三津五郎さんと橋之助さんコンビも嬉しいのだが。

 

 

 

浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)

亀治郎さんが<猿之助>となって浅草に戻ってきた。第一部のお年玉・年始ご挨拶は男女蔵さんであった。男女蔵さんは語る。猿之助さんは浅草に戻ってくると言って本当に戻ってきた。あの人は凄い人だ。そしてしっかり若い人にバトンタッチしようとしている。では恒例の「おめちゃんコール」で締めますので宜しく。男女蔵さんの年始挨拶は初めてなので、「おめちゃんコール」知りませんでした。「おめちゃん、おめちゃん」と二回連呼するのである。男女蔵さんは素顔のほうが男前である。

『義賢最後(よしかたさいご)』は、現在では『実盛物語』と二つだけが上演される、浄瑠璃「源平布引滝」の中の一つである。義賢は三浦半島と浦賀 (3)に出てくる為朝神社の源為朝の兄にあたる。義賢(愛之助)は帝から源氏の白旗を賜っており、兄・義朝を平清盛に殺された後は平家側についていた。しかし、その白旗の詮議を受け、清盛への忠儀の証として兄・義朝のしゃれこうべを踏みつけるように指示される。それを拒否して大立ち回りとなる。これはこの芝居の見どころである。立てかけた二枚のふすまの上にもう一枚のふすまを横に渡しその上に乗り、ゆっくり体重を片方にかけつつ倒していくふすま倒し。上段から立って手を横にまっすぐ広げ、そのままうつ伏せに倒れる仏倒しなどがある。義賢は素袍大紋(勧進帳の富樫や忠臣蔵の浅野内匠頭が着ている衣服)の衣装でそれを見せる。仁左衛門さんが孝夫時代の当たり役で、今回は愛之助さんである。兄のしゃれこうべを踏もうとして踏まれるものかという苦渋さをはっきりと押し出した。義賢は家来の折平(亀鶴)の妻小万(壱太郎)に白旗を託すのであるが、小万に義賢を気遣うあとの白旗を託された腹が欲しかった。白旗を離さないためその腕を斬られる人なのであるから。

『上州土産百両首』は、正太郎(猿之助)と牙次郎(巳之助)に泣かされてしまった。幼馴染の二人が大人になって再会し、お互いがスリである事を知る。牙次郎は呑み込みが遅く自分も他の人より劣っていると思って居る。でもスリは全うな仕事ではないとして正太郎にやり直そうと意見する。正太郎も牙次郎の純な気持ちに動かされ金的の与市(男女蔵)に盃を返す。与市は、後戻りできない自分の代わりに正太郎に夢を託す。。それを不満に思って居たのが仲間のみぐるみの三次(亀鶴)である。正太郎と牙次郎は十年後に会うことを約束をして別れるのである。

その十年目が近づいた日、偶然に正太郎が板前となって働く高崎の宿屋に与市と三次が泊り再会する。正太郎はそこで牙次郎のために貯めたお金の話をする。三次は仲間を抜けその宿の娘と祝言の決まった正太郎を許せず金を巻き上げ、過去のことを種にまたゆすりにくるという。正太郎は三次を殺してしまう。正太郎の首には百両の賞金がつく。牙次郎は目明しの子分になっていた。土産のお金のない正太郎は牙次郎に自分を捕らえさせその百両を牙次郎に渡そうと考える。ところがここで行き違いが生じ正太郎は牙次郎が自分を騙したと思い込む。このもつれを溶いていく二人のやりとりが泣かせるのである。お涙ちょうだいのよくある話であると思っていながら、猿之助さんと巳之助さんのコンビがよいのである。巳之助さんが純な気持ちを一生懸命に伝える。腹を立てていた猿之助さんの気持ちも次第に溶解させていき、もうどうする事もできないこの二人の運命に涙する。幸せにさせてたまるかという三次を、当時のはぐれた若者として亀鶴さんが細やかな動きで見せる。

最後、目明しの親分・隼の勘次(門之助)の計らいで正太郎と牙次郎は、新しい出発をするのである。しまった!泣かされて損をしてしまったと思いつつもまた泣かされた。若い歌舞伎役者さんたちはこういう時代、時代の若者たちの心の交流を演じると上手いと思う。やはり形が出来ているのでつまらぬ事に気をとられないですみ、すんなりと物語の中に入れるのである。

 

歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 昼の部 

『天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)ー時平の七笑ー』 時平は菅原道真を罪に陥れ筑紫に流罪させた悪玉である。この時平の七つの笑いが見せ場の芝居である。悪玉を主人公としている。

『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』 頼朝に義経の讒言をし義経びいきにとっては嫌な人であるが、この芝居はあくまでも善人梶原景時である。

『松浦の太鼓』 吉良屋敷の隣に住む松浦鎮信(まつうらしずのぶ)が赤穂浪士の仇討を待っている。仇討を待っている人々の代表的存在としてお殿様でありながら可笑しみを加え、でかしたと我を忘れて讃える。この三芝居、見方によっては、裏側を見せる面白さがある。

時平(我當)は道真(歌六)が唐の皇帝と密約し天下国家を転覆させようとの疑いありとされ、内裏で問ただされる。その時、時平は心をこめて道真をかばうのであるが、天蘭敬という唐人が事実であると証言し、道真は流罪となり花道から去るのである。一人になった時平は笑いだす。その笑い方で悪人に豹変する様を見せるのである。我當さんの穏やかさと台詞廻しが変幻自在で、道真が騙されたように観客も騙され意表をつかれる。ここが上手く表現されないとつまらぬ芝居になってしまうのであるが、そこが上手くいき、七つの笑いが堪能できた。歌六さんの道真も品と憂いがあった。進之助さんの台詞も心地よかった。公家の台詞は柔かさも必要とし難しいと感じた。

梶原(幸四郎)はこの時はまだ平家方で、頼朝を助けた石橋山の合戦の後である。六郎太夫(東蔵)と娘(高麗蔵)が大庭(橋之助)に刀を売るため訪れ、その刀の目利きを大庭は梶原に頼む。梶原はいい刀だから買うことを勧める。この時梶原は刀の銘から六郎太夫が源氏方であることを見抜く。幸四郎さんは静かに六郎親子のやりとりに耳を傾けつつ刀にしか興味がないようにしている。試し切りに横たえた二人の人間の胴を切ることとなるが、罪人が一人しかいず六郎太夫は刀を売りたいがため、自分がその一人になると申し出る。そして梶原は罪人だけを切り六郎太夫を助ける。それを見た大庭と弟(錦之助)は刀を買うのをやめ立ち去る。ここで初めて梶原は本心を明かす。そして、手水鉢を真っ二つに切り、刀が名刀であることを証明する。最後まで善人梶原で、刀を売ることのみを考え思いがけない行動に出る六郎太夫を東蔵さんが好演し、好機を冷静に待つ幸四郎さんと対照的で味わいが出た。景時は冷静な判断力を持つ人物だったという見方も多く、その冷静さと重なるような幸四郎さんであった。錦之助さんが弟の短気さを声の調子と合わせて出していた。

松浦侯(吉右衛門)はゆったりと構え俳句をたしなむ風流人で、物に動じない人物かと思いきや、俳人の其角(歌六)が世話した大高源吾(梅玉)の妹お縫い(米吉)がお茶をだそうとすると、急に不機嫌になる。それまで、松浦侯もご機嫌をとっていた近習たちも困ってしまう。米吉さんはしっかりお縫いを務めた。近習たちも若手が入り張り切って松浦侯をよいしょしていたのが可笑しかった。それに加えて吉右衛門さんが自分の意に添わない事がありその苛立ちとじれったさを解り易く演じられた。その原因は赤穂浪士が仇討をしないことで、浪士の大高源吾の妹にまで八つ当たりをしているのである。その大高源吾と其角は前日会っており、その場面が浮世絵を思わせた。浮世絵の中に、江戸の人が動いているようであった。この場面が美しく感じたのは初めてで、「年の瀬や水の流れと人の身は」(其角)「明日またるゝその宝船」(源吾)も余韻を残した。太鼓の音と源吾の「明日またるゝその宝船」で謎が解け「討ち入りじゃ、討ち入りじゃ」と喜びはしゃぐ愛嬌は江戸の人々の気持ちを代表しているようであった。最初の威厳との落差が楽しませてくれる。

『鴛鴦恋睦(おしのふすまこいのむつごと) おしどり』 常磐津の舞踊は難しい。解説を読んでも詞をたどっても、そういうことなのかと頭の中で空回りしている。時間を要しそうである。

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (2)

星埜(ほしの)恵子さんは美術監督であり、恩地日出夫監督とはご夫婦である。という事を今回の講演で知ったのであるが、一番驚いたのは、千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館に展示されている『浮雲』の映画セットを展示するために尽力されたかたである。歴博の現代の展示室に『浮雲』のセットを見たとき、映画の『浮雲』は傑作だが、どうして『浮雲』なのであろうかと不思議に思ったのである。星埜さんはその経過について、物凄い数の現場写真を紹介しつつ報告された。

2005年に世田谷文学館で『浮雲』の再現セットが特別展示された。その時、若い方がよく古い物を探して揃えられましたねと言われ、古い物もあるが、「汚し」という新しいものを古くしていく技術があることを伝えなければと思われたのだそうである。私も国立歴博のセットを見たときは若い方と同じ感想であった。その後、展示できる場所で展示を続け最終的に国立歴博に永久保存となったのである。書いてしまえば数行であるが、その努力と労力と人脈のつながりは膨大である。この仕事に係った沢山の方々の名前と写真が登場した。星埜さんの話を聞いて、国立歴博の『浮雲』のセットの歩みを理解したのである。

「温故知新」、古きをたずね新しきを知るという言葉があるが、星埜さんの師・吉田謙吉さんの座右の言葉をそのまま使わせてもらっていて、知るだけではなく創る行動まで進むということを実行されている。国立歴博の展示は、人類の登場から順番に見ていくと<現代>の第六展示室は当然一番最後となり、『浮雲』のセットがと思いつつサラサラと見てきたのである。<大衆文化からみた戦後日本のイメージ>とのテーマのところに展示されていてテレビCM映像コーナーなどもあった。今度行くことがあれば、星埜さんの写真や説明を思い出しつつ、よく眺めてくることにする。

略歴を見ると東陽一監督の『サード』『もう頬づえはつかない』の美術助手をされ、『尾崎翠をさがして』『平塚らいちょうの生涯』の美術監督をされている。尾崎翠さんの作品は『第七官界彷徨』だけしか読んでいないが、摩訶不思議な作品である。作品の配置図を作っているのかなと思ったら、作品のあとに<「第七官界彷徨」の構図その他>と付記している。小説でありながら映像的配置図で、屋根の無い模型の中に登場人物を入れて上から操作してそれを側面から移動させて、そこに片恋の交差を言葉で表し、靜物と植物をも小道具として使っている。しっとり水分を含んでいるように見え、触ると乾いている感触で、サラサラしているのかと思ったら、冷たい水分を手に受けてしまうようで、ジトッとした感触でないのが良い。1930年代にこいう作品を書いた女性がいたことが驚きである。<第七官界>を<彷徨>していたのである。映画があることを知ったのが遅かった。『平塚らいちょうの生涯』も羽田澄子監督の演出なので見たかったがこれも遅かりしであった。いつ出会えるであろうか。講演会がなければ、星埜恵子さんの仕事を知ることはなかったであろう。

『水木洋子展』では、関連イベントとして、水木さんの脚本の映画やテレビドラマの上映会を開催してくれている。ドラマは横浜にある放送ライブラリーから借りてこられたようだ。資料だけではなく、脚本の映像が見れるのは設計図から実際の建築物を見れるのと同じことである。

新宿歴史博物館では、『生誕110年 林芙美子展』が ~1月26日まで開催されている。こちらも行かねば。

 

追記 :映画『元始、女性は太陽であった』 2017年7月8日 11時30分からと7月16日 3時から東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にてアンコール特集で上映されます。

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』