京マチ子映画祭・『赤線地帯』『流転の王妃』

赤線地帯』(1956年)は溝口健二監督で、『流転の王妃』(1960年)は田中絹代さんが監督として撮られた作品である。溝口健二さんと田中絹代さんと並べるとお二人の関係がいろいろ取沙汰されるであろうが、その辺は触れる気はない。溝口健二さんに関しては、新藤兼人監督のドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』があり、田中絹代さんに関しては、新藤兼人監督が書いた『小説 田中絹代』をもとに市川崑監督が映画『映画女優』を撮っておられる。

映画『赤線地帯』は、溝口健二監督の遺作でもあり、浅草の吉原を舞台としていて浅草映画物の一つでもある。京マチ子さんは、神戸から吉原の<夢の里>へやってくる。派手な衣装で誰をも恐れないガッツなマイペースさである。女優陣が京マチ子さん、若尾文子さん、木暮実千代さん、三益愛子さん、沢村貞子さんなどとそろっていて、それぞれの女性像を際立たせている。それぞれに事情があり、それを乗り越えられた女性もいれば、乗り越えられない女性もいる。

時代は、売春防止法が成立するかどうかの時期である。成立したのが1956年であるから、リアルタイムで描かれて公開されたわけである。<夢の里>の女将。しっかりとお金を貯め込んでいる女性。失業中で病気の夫と子供を養う女性。息子の成長だけを楽しみにしていたのに親子の縁をきられ発狂してしまう女性。結婚するため<夢の里>を出るが、妻というより単なる労働力として働かされ、もどってくる女性。

そんな女性達の中で、経済的に恵まれた実家がありながらそこを飛び出したのが京マチ子さんのミッキーである。ミッキーの発する言葉に情がないように思えるが、現実をみている。そして男に貢がせるのではなく、好きなことをやりたいときは自分の借金にするのである。<夢の里>では新米なのに一番借金が多いという状態である。ミッキーがいることによってどこか悲惨な気分が発散されるという役割をしている。ミッキーの嫌味のないところが京マチ子さんの演技力である。

この時代の映画で『渡り鳥いつ帰る』(1955年・久松靜児監督)『愛のお荷物』(1955年・川島雄三監督)『洲崎パラダイス赤信号』(1956年・川島雄三監督)などが浮かぶ。『愛のお荷物』では国会議員が、赤線地帯に視察に行く場面が思い出される。映画『赤線地帯』では、幽霊がでてくるような特徴ある音楽が挿入されていて、その旋律が何とも言えない効果をだす。(原作・芝木好子「洲崎の女」の一部より/音楽・黛敏郎)

映画『流転の王妃』(原作・愛新覚羅浩『流転の王妃』/脚本・和田夏十)は、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ・中国清朝のラストエンペラー)の弟・溥傑(ふけつ)と結婚した女性の激しく動く歴史の中で生きた姿を描いた作品である。その女性は嵯峨浩さんである。侯爵嵯峨家の長女で、軍の意向で溥傑さんとの結婚が決まる。だれもが軍の意向には逆らえず、権力を握る者がなんでも利用する様子がうかがえる。

しかし、溥傑さんと浩さんはお互いに魅かれ合い、その後の翻弄される時間を共有しつつ離れ離れになっても最後までその信頼関係を維持するのである。悲しいことにお二人の長女・慧生さんは心中されてしまう。若い身に想像できないほどの重圧があったのであろう。

映画では名前を変えてある。浩(ひろ)さんは、竜子(京マチ子)。溥傑さんは溥哲(船越英二)となっている。京マチ子さんは、楊貴妃も演じられたこともあり、とにかく様々な役をこなされている。そして多くの監督の作品に出られていて固定化できないところが京マチ子さんの魅力でもある。この映画でも悲惨な状況をも乗り越えていく一人の女性として熱演されている。

歴史的流れが整理できていないのであらすじについては省略するが、お二人は1937年(昭和12年)に結婚されている。新婚時代には、千葉の稲毛で半年間すごされている。その家が今も残っている。映画の中でも稲毛時代を幸せの時間として思い出す場面がある。

稲毛の浅間神社のあたりは今は埋め立てられて海岸線が移動しているが、明治時代から、別荘地として、海水浴場としての行楽の地であった。「稲毛海気療養所」ができその後、旅館「海気館」となり多くの小説家がおとずれている。海岸時代の黒松が多く残っていて驚いた。

お二人の住まいは「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されている。軍部の干渉を受けないわずかな幸せな住まいであったのであろう。日本家屋で、想像していたよりも狭く、それだけにささやかな親密な空間だったのかもしれない。映画のなかでの中国の家は荒野のなかであった。稲毛のこの近くには、浅草の神谷バーの神谷伝兵衛さんの別荘も残っていて「千葉市民ギャラリー・いなげ」として利用され公開されている。こちらは洋館で立派である。

浩さんは、結婚後最後まで中国人として生きられ少しでも日中の友好をと願われたようである。田中絹代さんが、渡米後帰国した際、投げキスをしてひんしゅくをかっている。田中絹代さんが女優として、その時代その時代を見て来て今度は監督として一人の女性の生き方を描かれた作品なのであろう。

京マチ子さんは実に変化に飛んだ役柄を演じられた女優さんである。映画『いとはん物語』では、器量は悪いが心根の優しさが垣間見えるいとはんを演じられた。

映画『悲しみは女だけに』(1958年)は新藤兼人監督・脚本の作品であるが、新藤兼人監督の子供の頃の自伝映画でもある『落葉樹』で借金のために結婚してアメリカへ移民した姉が帰ってきたような設定になっている。お姉さんは帰ってくることはなかったのであるが。お姉さんが帰って来てみると家屋敷はなく、その弟の家族の心はばらばらであった。生活苦に追われている長女(京マチ子)は、叔母(田中絹代)が必死で異国で働いたお金を差し出されそれを受け取るのである。叔母の生き方をも受け取ったような場面であった。

映画祭にはなかった映画『濡れ髪牡丹』での下駄での立ち回りも見事であるし、『穴』などの自分と似た替え玉にさらに入れ替わりなりきるのもお手の物である。喜劇、悲劇、時代劇、歴史劇、文芸物、恋愛、家族、ミステリー、怪奇、群像劇、とジャンルを問わず楽しませてもらっている。

深川江戸資料館 ごっつあんです

江東区『深川江戸資料館』へ新内を聴きに行った。常設展示室の火の見やぐらの下まで流してきて、簡単な解説を入れて新内を聴かせてくれ、また流していく。少し休憩があって、また流してきてとこれが一時間の間に三回ある。

資料館での「新内流し」は初めての体験である。演者は新内多賀太夫さんと新内勝志壽さんである。演目は『狐と弥次郎兵衛』で、新内と言えば心中物とされるが、『狐と弥次郎兵衛』のように滑稽な内容の物もありチャリ物と言われると説明がった。

内容は、弥次郎兵衛が喜多八とはぐれてしまい、赤坂の松並木で自分に化けた小狐に会い一緒に踊ってしまい、狐は逃げ出してしまう。その話を簡単に置き、クドキなどの三つにわけ、三回分のそれぞれの聴きどころを押さえて語られたのである。吉原かぶりのこと、縞の着物は新内が流行らせたこと、三味線は細いヒモで支えられていること、上調子の三味線のバチがとても小さいことなどを説明してくれ、新内に少し近づいた気分にさせてくれ、高音で聴かせどころを語ってくれた。

知らなかった新しい知識ももらい楽しかった。帰ってからCDで『蘭蝶』を聴いてしまった。こちらは端物という。

企画展『杉浦日向子の視点 ~江戸をようこそ~』(11月10日まで)とゴールデンウイーク特別展『深川モダン ~文化で見る近代のKOTO~』(5月6日まで)も開催されていて、いやいや、ごっつあんです、である。

杉浦日向子さんとはアニメ映画『百日紅』以来であろうか。 『肉筆浮世絵 美の競艶』展

杉浦日向子さんの原作でもう一本映画があるのを知る。映画『合葬』である。彰義隊の若者たちの青春群像を描いている。漫画の実写化で原作は読んでいないが何となく杉浦日向子さんの社会性から少しずらした若者の心情が出ていて漫画の一コマはこんな絵かなと想像してしまう。

三人の若者が彰義隊に参加する。徳川慶喜が江戸を去る時に見送った秋津極は、その姿をみて慶喜の敵討を決意する。福原悌二郎は妹・砂世が極と婚約しているのでそれを反故にするのかと極にせまる。そこに居合わせた吉森柾之助は養子先の父が仲間内の争いで殺されその仇を義母から言い渡され、都合の良い養家からの追放であった。三人は幼い頃から知っており、写真を撮り三人の若者が彰義隊に参加する。

徳川慶喜が江戸を去る時に見送った極は自分から彰義隊に入るが、柾之助は行くところがないので何となく引っ張られて入隊。長崎で蘭学を学んだ悌二郎は彰義隊など意味がないとして解散を説得するためについてゆく。彰義隊の指導的立場の森篤之進は、新しい生き方を望む者は去らせ、それでも志を曲げない者たちの死に場所を作ってやりたいと思うが、上のほうは何の方針もなく、ただ若者たちを鉄砲玉の替りとしか考えていない。

腰抜けだと森は若い彰義隊に殺されてしまう。森の想いを知っていた悌二郎は、彰義隊を離れるが妹のお嫁に行く前に極に一度会いたいという想いを遂げさせるため再び彰義隊にもどる。そして開戦に居合わせ、二人だけ死なせるわけにいかないと残るのである。

柾之助が好きになった娘が極を好きであったりと淡い恋い心も挿入されている。そして三人のその後は・・・

(監督・小林達夫/出演・柳楽優弥、瀬戸康史、岡山天音、門脇麦、オダギリジョー)

杉浦日向子の視点』の展示内容も杉浦日向子さんの江戸ワールドが展開されている。江戸で人気があった三男が火消、力士、与力とある。これは、『一日江戸人』にも書かれていることであるが、与力とあるのが面白い。与力は上下色の違う裃(継裃)であったが、幕末には羽織となる。しゃべり方が「来てみねえ」「そればっかり」「そんななァ嫌(きれ)ぇだよ」と庶民に親しみを与え、金銭的にも余力があり、こせこせせず遊びにも精通していたようである。杉浦日向子さんの好みと研究の深さがわかる展示である。

もう一つ『深川のモダン』の展示は、深川の出てくる書物を探し出しその書物を展示し、さらにそれを書いた著者も紹介している。その数が多いのである。よく探し出されたと思って係りの人の尋ねたところ、この資料館の館員さんたちが探し出したのだそうである。

小津安二郎監督、谷崎潤一郎さん、永井荷風さん、泉鏡花さんなども別枠となっていて、泉鏡花さんはタウン誌『深川』で特集「鏡花と歩く深川」となっており、これでまた鏡花さんの歩いた深川めぐりを楽しむ機会が増えた。


歌舞伎座4月『実盛物語』『黒塚』『二人夕霧』

実盛物語』。『源平布引滝』は、「義賢最期」「御座船」「実盛物語」と続いている。「御座船」は上演されることがまれで、この三作をつないでいるのが小万という女性である。死してまで切られた自分の腕を自分の息子の太郎吉に託し、葵御前の窮地を実盛を通じて救うのである。実盛は、後になってこの腕について物語り、そこからまた意外な展開となる。

「義賢最期」は、源義賢の壮絶な最期が描かれており、妻の葵御前は九郎助に託され、白幡は九郎助の娘・小万に託される。小万は「御座船」で、深手を追いつつも白旗を口にくわえて琵琶湖に飛び込み泳いで逃れようとする。途中、御座船にたどり着こうとするが、その船は平宗盛の船であった。同行していた斎藤実盛は、その白旗を握りしめた女から白旗を取ろうとするが女は白旗を放さない。実盛は女の腕を斬り落とすが女も腕も湖の底に沈んでしまう。

その腕を、九郎助と孫の太郎吉が拾いあげ家に持ち帰る。ここで、小万の腕は着くべきところにたどり着いたといえる。太郎吉が白旗を握る指をときほぐし白旗は葵御前に渡される。そしてこの腕はさらに義賢と葵御前の間に生まれ赤子の命まで救うのである。その赤子が、後の木曽義仲である。

実盛(仁左衛門)は、瀬尾十郎(歌六)と共に、九郎助(松之助)がかくまっている葵御前(米吉)が男の子を生んだなら殺す役目でやってくる。九郎助の女房・小よし( 齊入)は赤子が生まれたと抱きかかえてくる。それは、女の腕であった。瀬尾はあきれるが、実盛は、唐国でも后が鉄の柱を抱いて鉄の玉を生んだという話を披露し、瀬尾を丸め込む。ここで、実盛が平家につきながら源氏の味方らしいということがわかる。

瀬尾は去り、実盛は「御座船」での女の腕を斬ったことを物語る。仁左衛門さんの実盛は、そうかそうであったかと自分でも得心しつつ物語られる。小万(孝太郎)の死体が運び込まれる。孝太郎さんが死体のままということはないわけで蘇生する。そして、息子の太郎吉(寺嶋眞秀)に一言語ろうとしてふたたび息絶える。

蘇生させたのは実盛で、小万の念力を感じたからであろう。芝居はこのあとさらなる展開をみせ見せ場となる。時代物では子供が親の主従関係から犠牲となることが多いが、『実盛物語』では太郎吉が首を討つという結果となり、さらに実盛は太郎吉に自分が白髪になった時、合戦の場で会おうと愉快そうに馬上の人となる。

小万は、実盛に遭遇したことによって、自分の役目を全うさせることができたわけで、実盛によって木曽義仲誕生の物語も出来上がるわけである。仁左衛門さんは、実盛の懐の大きさと太郎吉への情愛をまじえつつ手の内のしどころを展開され、颯爽とその場を後にするのである。実盛を取り巻く役者さんたちも手堅く上手くはまってくれていた。

黒塚』。これは、以前に書いた時と同じ気持ちなのでその感想を参照にされたい。歌舞伎1月 『黒塚』

さらにつけ加えるなら、猿之助さんが、中腰で膝を曲げての姿勢を維持しつつ軽やかな足取りで踊られるのには改めて感心してしまった。怪我のこともあってか、鬼女になってからの動きがバージョンアップされたように思う。今できることは全て出しきるといった感じであった。今回は、阿闍梨が錦之助さんで、強力が猿弥さん。山伏大和坊が種之助さんと山伏讃岐坊が鷹之資さんの若手である。

錦之助さんを先頭に数珠の音もかなり強く響き、猿弥さんのあの身体がどうしてあのように動けるのか不思議であるが、そうしたことが重なっての靜と動の変化のある『黒塚』となった。

二人夕霧』<傾城買指南所>とある。伊左衛門(鴈治郎)が遊女夕霧(魁春)に先立たれ、今は二代目の夕霧(孝太郎)と夫婦となり、傾城買いの指南所を開いていると言うのであるからこれは喜劇かなと思ったところが、死んだ夕霧があらわれ伊左衛門としっとりと踊るのである。夢の中かと思ったら夕霧は生きていたのである。そこで二人の夕霧の対面となり、すったもんだの末、最後はめでたしめでたしなのであるが、喜劇性が上手く収まってくれなかった。

その場その場を面白く盛り上げようとするのであるが、和事の流れるようなちょっと肩透かしのような面白味が上手く出ず、ドタバタとした流れになってしまったのが残念である。和事でさらに喜劇性となると想像以上に難しいのだということを感じさせられた。

若手の萬太郎さんと千之助さんが頑張られたが、舞台を盛り立てる役というのはなかなか大変なものである。もっと経験が必要であろう。これを機に舞台の一つ一つ大切されて、さらに和事を意識されて励んでほしいとおもった。芝居全体にもう少し工夫が必要のようである。(彌十郎、團蔵、東蔵)

歌舞伎座4月『平成代名残絵巻』『新版歌祭文』『寿栄藤末廣』『御存 鈴ケ森』

平成代名残絵巻(おさまるみよなごりのえまき)』。平家と源氏の時代に設定し「平成」の時代を讃え新し時代「令和」を寿ぐ演目である。平家の全盛で平徳子が中宮に上がると言うので平家の人々は喜びに満ちている。一方源氏は、遮那王(義経)が東国の藤原氏の下に行くことを母の常盤御前に報告し、いずれ白旗を上げることを誓う。知盛と義経が赤旗と白旗をかざし、のちの世に戦さのない新し時代をということであろう。

常盤御前の福助さんの一言一言の発声に舞台を押さえる力がある。平家側の面々(笑也、笑三郎、男女蔵、吉之丞など)もその優雅さがあり、知盛の巳之助さんの声も安定してきて、徳子の壱太郎さんとの出に花がある。児太郎さんの遮那王も背筋にきりっとした線がきまって源氏を代表している。平宗清(彌十郎)、藤原基房(権十郎)なども登場し、源平の世界を上手く繰り広げた一幕である。

新版歌祭文』。<座摩社>の場面を加え、久松が野崎村の久作の家に帰された原因がわかるようになっている。お染が雀右衛門さんで、お光が時蔵さんで、もう少し早くこのコンビでやってもらいたかった。襲名などが続いて、ベテラン同士の新たなる組み合わせが遅れた感がある。ただもう少しテンポが欲しいかった。

町のお店のお嬢さまと田舎娘のお光の違い、お店の若旦那・山家屋佐四郎(門之助)と武家の遺児でもある丁稚の久松(錦之助)の柔らかさの違いなど芸としての違いが観れる芝居でもあり、そのあたりはそれぞれの役者さんによって表現されていた。

<座摩社>では、手代小助の又五郎さんが小細工をして久松を窮地に陥れ、そのだますところが喜劇性ということに持って行きたかったのであろうが、又五郎さん、侍や奴の喜劇性は上手いが手代のほうは硬すぎるように思える。悪のほうにも傾き加減が弱く、喜劇にいくか、悪にいくかの方向性をもう少し決めてほしかった。

<野崎村>では、祭文語りが登場し、お光はお夏清十郎の唄本を買う。お光のその後の悲劇性が暗示されている。久作の歌六さんは手の内で、後家お常の秀太郎さんは座してからの台詞に実と押さえがある。両花道での舟のお染と駕籠の久松と残るお光との別れとなる。舟の赤い毛氈の色がお染とお光の立場の違いを際立たせ、悲劇性に色を添える。

観ているほうが体力切れで、役者さんが揃っていながら、せっかくの<座摩社>と<野崎村>が少しだれてしまったのが残念である。

寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)鶴亀』。坂田藤十郎さんの米寿を祝う一幕である。女帝の藤十郎さんの周りを、藤十郎さんの子息世代から孫世代までの若い役者さん達で固め華やかで明るい一幕となった。鶴(鴈治郎)と亀(猿之助)の頭上の飾りで臣下が長寿を現わし、従者たち(歌昇、壱太郎、種之助、米吉、児太郎、亀鶴)が足拍子も加え軽快さもあり、ほど良い変化に飛んだ寿ぐ舞踊となった。

箏の音も効いて、舞台も梅から藤に変わり、形式さだけではなく、観客をなごませてくれた。

御存 鈴ヶ森』。またかと思ったのであるが、今まで見た『鈴ヶ森』で一番かもしれない。白井権八の菊五郎さんがどこにも力が入っていず、雲助をかたずけて行く。江戸時代の若者の虚無感をも感じさせる。それを見ていた幡随院長兵衛の吉右衛門さんが駕籠から呼び留める。台詞の妙味で聴かせ、長兵衛の大きさで権八との違いがわかり、厚みのある一幕であった。(左團次、又五郎、楽善)

劇団民藝『新 正午浅草』

 正午浅草 荷風小伝』(作・演出・吉永仁郎/演出補・中島裕一郎)。永井荷風生誕140年、没後60年。こちらは新宿紀伊國屋サザンシアターからの発信である。 

フライヤーによると、千葉県市川市八幡の荷風(77歳)の住まいに、かつての愛妾お歌が訪ねて来て、思い出話から『濹東綺譚』に出てくる娼婦お雪の話しへとつながるようである。荷風さんは多くの女性と関係があったが、劇中で登場するのは、お歌とお雪である。

劇から少し離れて新藤兼人監督の著書「『断腸亭日乗』を読む」に触れる。新藤兼人監督は、映画『濹東綺譚』を撮った後で、「岩波市民セミナー」で講義をされ、それが本となった。その中に「荷風の女たち」として関根うたさんのことが書かれてある。日記の中では時間的に十三人目の女性ということになるらしい。これは女性関係だけをピックアップしてのことである。それだけの日記でないことは自明のことではあるが。

この日記の中ではうたさんのことが一番多く書かれていて、新藤兼人監督も、うたさんのことを多く語られている。そして、荷風が一番心を通わした女は、おうただろうとしている。荷風と別れたおうたは20年後石川県の和倉温泉で働いていて年賀状を出す(昭和31年)。そして市川まで荷風に会いに来る(昭和31年)。最後に会ったのが昭和32年3月6日である。<晴れ。関根お歌来話。午後浅草食事。>この頃には「正午浅草」「正午大黒屋」とか書くだけの気力しかなかったようで、劇の題名『新 正午浅草』も、晩年の老いた荷風さんとの時間を通してその最後を観客は看取るというかたちになる。

「正午浅草。」はまだ、体力的に浅草まで行けたのである。「正午大黒屋。」となると、浅草までは行けなくて八幡の「大黒家」での外食なのである。新藤兼人監督は、浅草の尾張屋の本店に取材にいっている。その時おかみさんがお嫁に来た頃の出来事を話されている。それは、カメラをもった若い人が店の中まで入って来て荷風さんの写真を撮るので、それとなく邪魔をするようにしたと。その時若いおかみさんは、その老人が永井荷風さんだと知ったのである。

「下町芸能大学」で、松倉久幸さんが、尾張屋のおかみさんを含めて浅草で荷風先生を知っておられるのは三人だけなったと言われていたのを思い出す。

人間これだけ老いて来れば誰かに頼ろうとする気持ちが湧いてくると思うのであるが、お掃除などをしてくれる人は雇うが、永井荷風さんは最後まで自分で食事を作るか外食をして一人を通すのである。そこが凄いというか、老人特有の頑固さであろうか。結婚は二度しているし、お歌さんとも一緒にくらしている。しかし、一緒に住めば女のほうに我がでて嫌な思いをすることを知っていて、そのことを極力嫌うのである。それを我慢できない自分をも知っているともいえる。浅草の踊子さんのところへ行くわけであるから、女性が好きである。ところが自分の最後をささえてくれる女性という感覚はないのである。

そんなことを、演劇を観ていても再度感じてしまった。ある面では潔い人でもある。最後まで荷風さんだけの世界観を貫き通したのであるから。老人の孤独の象徴のようにも思われがちであるが、荷風さんの場合はそうとだけは思えないのである。

好きなものを食べて誰の手もかけずに亡くなられる。日記も事実が書かれているとは限らない。小説家の場合、そこには文筆家としての仕掛けもあるかもしれない。ただ、新藤兼人監督が『断腸亭日乗』を読み始めたのが、昭和20年3月9日の空襲で偏奇館が焼ける箇所からで、その書き方が見事なシナリオをみるようで引きつけられている。

シナリオというのは、俳優やスタッフに内容を正確に伝えるためにかくので、余分なことを書いたり、美文の形容を使う必要がない。荷風さんの空襲の様子はまさしく客観描写であり、事実をその目で見た人でないと書けない記述だとしている。そのことが、監督が七巻もある『断腸亭日乗』を読めたきっかけでもあったとしている。

原作の『濹東綺譚』や「『断腸亭日乗』を読む」などを思い浮かべつつ演劇の方を鑑賞する。お歌さんは、芝居の流れから脚色された感があり、お雪さんと比べるとお気の毒のような気もする。お歌さんにお雪さんはどんな人だったのと聞かれ荷風さんは、お雪さんとの想いでの中に入る。

夢を見ると父親が現れ、父親の考え方や、荷風さんを自分の思うようにしようと父親なりの助力したことが明らかになるが、それに荷風さんが逆らい、自分を押し通したこともわかる。

生前意見をよく聞いた神代帚葉(こうじろそうよう)翁らしき人も登場し、荷風さんがきらっていた菊池寛さんも短時間で上手く登場させる。そして、写真を撮り荷風さんを困らせた青年も登場させ、荷風さんに聴きずらいことも尋ねさせている。

戦時、行く先々で四回も羅災し、やっと市川市に落ち着き、今その終の棲家で最期を向かえようとしている荷風さんを、写真でみる荷風さんとよく似た雰囲気で、水谷貞雄さんが登場する。体力的に書くことが少なくなった日記の代わりに、舞台上で登場人物たちとの会話で語り、荷風さんの生き方の筋の通し方を示めされた。老いて最後の死という大仕事をいかに当たり前の事としてむかえるかの心構えをそれとなく見せてくれてもいる。

永井荷風(水谷貞雄)、永井久一郎(伊藤孝雄)、若いカメラマン(みやざこ夏穂)、お歌(白石珠江)、お雪(飯野遠)、松田史朗、佐々木研、梶野稔、大中耀洋、田畑ゆり、高木理加、長木彩

紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA(新宿) 4月28日(日)まで

第15回下町芸能大学『荷風』

浅草の東洋館に初入場。それも永井荷風さん関連の企画を鑑賞でき、さらなる満足である。永井荷風さんの生誕140周年記念だそうで、「下町芸能大学」は東洋興業株式会社が主宰して続けてきた催しのようです。

会長の松倉久幸さんによるプログラムの案内文によりますと「下町の芸能文化を発掘し直し、みなさまに広くご紹介する機会を設けたいと考え、下町ゆかりの作家の作品を主題とした講演、また新作の新内・講談・幇間芸・舞踏などを公演してまいりました。」とある。

松倉久幸さんも『荷風先生と浅草』ということで、お話された。東洋館の正式名は「浅草フランス座演芸場 東洋館」だそうです。久幸さんのお父さんが、ロック座を建て替える時に荷風先生に何か良い名前はと尋ねられ「フランス座」はどうかとの言葉から命名されたそうで、今も正式には「フランス座」の名前を大切にきちんとつけているのだそうである。久幸さんのお父さんは、差し入れを持ってよく来る方がオペラ館で上演された『葛飾情話』の永井荷風先生と知り、それからはフリーパスとなったようである。

昔も今も、荷風先生、浅草に通わなければ、長期にわたりこんな親しみを込めた接し方はされなかったかもしれない。

岡本宮之助さん、文之助さん等の新内から始まった。宮之助さんは岡本文弥さんにも師事されており、樋口一葉さん、正岡子規さんなどの新作作品も語られておられる。今回良いアドバイスを頂いた。邦楽はよくわからないと言われますが、母音を伸ばしますから、物語を追いかけたい人は子音を追ってください。もう一つの聴き方は、伸ばすところで良い声だなあとか、三味線の上調子などを味わってもらえればと。確かに。

江本有利さんの歌謡ショー『下町艶歌』もありまして、最初に歌われたのが『また来て下さい向島』という歌なのであるが、歌詞の一番に桜橋、二番に言問橋、三番に吾妻橋が入っていた。東洋館に行く前に、こちらは、吾妻橋を渡って向島側の隅田公園を歩き、東武鉄橋言問橋を左手にながめつつ進み、桜橋を渡って浅草側の隅田公園を歩いてきたので、歌詞をみてトットちゃんではありませんが「あらまぁ!」である。

浅草関連映画の事もあっての散策でもあり、桜も終わり花見客も居ず、いままで気に掛けなかったことの幾つかの発見あり。「鬼平情景」として<鬼平犯科帳ゆかりの高札>があり、16ケ所にあるとのこと。その内の①「吾妻橋」と④「みめぐりの土手」の高札に出会う。鬼平犯科帳の作品を味わいつつ高札めぐりの散策コースもあり、その他にも散策コースが数種あるらしい。

そして勝海舟の銅像。水戸徳川邸の跡を使った庭園。

よく映画に登場する東武鉄橋を眺め右手には牛島神社。言問橋を眺めて右手下に三囲神社の鳥居が上半分頭を出している。隅田川方向から鳥居を眺めたことがなかったのでその鳥居が目に入った時には感動。

葛飾北斎さんの「新版浮絵 三囲牛御前両者之図」の案内板もあり、牛島神社が左で鳥居の頭がでている三囲神社が右に描かれている。かつて牛島神社は今の長命寺近くにあったため、牛島神社と三囲神社の位置が今と反対の位置関係になるわけである。

かつての牛島神社にあった常夜灯が残っていてその位置を示してくれるらしい。映画にもこの常夜灯は姿を現しており、そこまで行く予定であったが、時間がせまったいたので次の機会にまわし、桜橋を渡って浅草側にでた。

桜橋を渡りたかったのは、映画『菊次郎の夏』でマサオくんと菊次郎が出会う場面でもあるからである。その周辺をもう一度ながめたかったのである。

桜橋は歩行者専用の橋で向島と浅草側の中央に円錐形のモニュメントがあり、桜橋架橋10周年事業とあり、桜橋が1985年にできているから、1995年頃に設置されたことになる。対面の形で向島側には「瑞鶴の図」が彫られ、浅草側には「双鶴飛天の図」が彫られている。(平山郁夫原画、細井良雄彫刻)

そんなわけで、北野武監督の映画の場面のあとは、ビートたけしさんの修業の場であった東洋館へのコースへとつながった。東洋館のエレベターが狭く、エレベーターボーイなんて邪魔なくらいなのではと思われたが、そこが浅草ということなのでしょうか。江本有利さんが歌われた『業平橋』の一番に「三囲りの 石鳥居」とあり、三番には「そっと 掌を置く 撫で牛の」と三囲神社と牛島神社も出てきてこれまた上手い具合いにつながってしまった。

そして悠玄亭玉八さんの幇間芸である。『四畳半襖の下張り』国際版で、色っぽくて、笑わせてくれて、幇間芸の高度さを味わわせてもらった。三味線を真横に持って爪をはめてひかれていた。とにかく多くの分野に精通しつつお座敷芸にするという手腕が必要のようである。今回は「荷風」さんあわせてであるが、お座敷では目の前のお客様に合わせてそのさじ加減を調整するのであろう。

締めは岡本宮之助さん(浄瑠璃)、新内勝志壽さん(三味線)、岡本文之助さん(上調子)で、新内『濹東綺譚』(詞章・野上周)である。玉ノ井でのお雪さんと主人公の出会いから、お雪さんが病に伏したと聞くところまでを哀感を込めた情愛でかたられた。小説の方は、主人公が作家と言うことを隠していて、書き進んでいる小説のことなども語り、冷静な観察眼も披露されるが、そこは省かれていてる。

永井荷風さんの特集は三回目だそうで、荷風さんの世界を芸能に生かそうとの心意気を感じさせてくれる文学の世界とは一味違う時間であった。

通称「浅草東洋館」は、いろもの(漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど)専門の寄席で、隣の浅草演芸ホールで落語と一緒にたのしませてもらったことがあるが、いろものだけというのも今度たのしませてもらうことにする。

京マチ子映画祭・浅草映画・『浅草の夜』『踊子』

今、京マチ子さんの映画祭は大阪(シネ・ヌーヴォ)で開催されているようである。OSK出身でもありその身体的表現は古風な日本女性の規格からはみ出していて魅力的である。踊りも和洋どちらも画面からあふれ出る<生>がある。男を翻弄する役もパターンがない。はじけるような<生>から能面のような表情へと変化したり飛んでいて、こんなに愉しませてくれる女優さんとは思わなかった。

黒蜥蜴』などは、フライヤーで「京マチ子のグラマラスな肢体も必見。」とある。ミュージカル調で鞭をもって京マチ子さんが踊る場面がありそれを強調しているのであろうが、もっと見どころがある。明智小五郎の裏をかき、着物姿の婦人から、背広姿の若い男性になってホテルから逃走するのである。そのときの動きが、OSKの男役のしどころで、軽やかでキュートで、映像でこんな素敵な歌劇団風の動きを観た事がない。これを観れただけで内容はともかく京マチ子さんの「黒蜥蜴」は満足であった。

映画『浅草の夜』(1954年)、『踊子』(1957年)ともに、京マチ子さんは、浅草の劇場でのレビューの踊子という場面が出てくるが、人物設定は全く違っている。『浅草の夜』では、若尾文子さんの姉の役で、『踊子』では、淡島千景さんの妹役である。自ずと立場が違うので役柄も違って来る。浅草の多くの風景が楽しめる。

映画『浅草の夜』は、原作・川口松太郎/脚本・監督・島耕二監督で、情の絡んだ娯楽映画になっている。踊子の節子(京マチ子)には、おでん屋で働く妹・波江(若尾文子)がいて、節子は妹の親代わりで頑張って生きてきた。ところが妹の恋人が画家・都築(根上淳)と知って恋人との付き合いを禁じる。節子の恋人・山浦(鶴田浩二)も節子のその態度が腑に落ちない。そのわけは・・・。

山浦は劇場の脚本家で、そこの古参の演出家が首になる。それに加担しているのが劇場のボス(志村喬)でその息子(高松英郎)は波江に惚れている。これだけの材料がそろえば内容的は何となくわかる。画家の大家に滝澤修さん、おでん屋のおかみに浦辺粂子さんと豪華キャストである。それだけに、今観れば内容的には薄いが、外国で日本映画が認められてきた時代、浅草モノの定番娯楽映画として島耕二監督は腐心している。山浦を好きでありながら自分の主張は変えない節子。そんな性格を知って姉妹のために一肌脱ぐ山浦。それぞれの役者の役どころを何んとかおさめようとしているのがわかる映画で、そういうところが面白い。

島耕二監督は、この映画の前『浅草物語』(1963年)を撮っている。観たいがいつ出会えるであろうか。

映画『踊子』は、原作・永井荷風/監督・清水宏/脚本・田中澄江である。京マチ子さん、『浅草の夜』と違って自由奔放である。というか、感情のおもむくままにこちらの方が自分にとって得であり好みであるといった生き方である。が、それにしがみつくことなく、深く考えることがない。高峰秀子さんの『カルメン純情す』は同じ踊子でも踊りは芸術だと思って嘲笑されながらも自分で考えて一生懸命であるが、『踊子』の千代美(京マチ子)は、全くそんな考えなどなく踊子として華があるがそんなことに執着しないのである。面白いキャラクターである。京マチ子さんならではの役ともいえる。

姉の花枝(淡島千景)さんが浅草の踊子で、一座の楽士で恋人の山野(船越英二)と同棲している。経済的に苦しいから狭いアパート住まいであるが、そこへ妹の千代美が転がり込むのである。踊子になった千代美の京マチ子さんは屈託なく画面いっぱいにその踊りを披露し、淡島さんの踊りが上品にみえるのが面白い。観ていてもこれは人気をとると解るが、楽しくてしょうがないと踊っていながらその踊りもさっさと捨てるあたりが、これまた千代美ならではの生き方なのである。

捉えどころがなく、子供までできてしまう。それが誰の子なのか。花枝は、自分はもう子供が産めないとあきらめ、千代美の子供を育てることにする。展開が千代美の行動によって動いて周囲は翻弄されるが、姉の花枝がしっかりしていて、子供がその渦に巻き込まれることはない。そこが、この映画の爽やかなところかもしれない。映画の京マチ子さんの洋の踊りとしてはこれが一番見事かもしれない。

この二つの映画だけでも、その役柄によって対称的な役を愉しませてくれる手腕をみせてくれる。台詞のトーンや間も変化に飛んでいて、聴かせどころも押さえられている。

映画『夜の素顔』などでは、意識的に男を誘い込み日舞の家元の地位を上り詰めていくが、さらに、子供のころから自分を食い物にしてきた母親の浪花千栄子さんとの争うシーンなどは、『有楽町で逢いましょう』のあのお二人がと思わせる場面で、役者さん同士なにが飛び出すかわからない期待感も持たせてくれる。

『美と破戒の女優 京マチ子』(北村匡平著)が手もとにあるが、まだ開かないでいる。もう少し時間がたって京マチ子さんの魅力の強烈さが薄れてから読ませてもらおうと思う。

追記1 : 永井荷風さんの小説『踊子』を読んだ。映画では、山野と花枝は、千代美の産んだ子・雪子を連れて浅草から山野の兄のいる田舎で保育園の手伝いをして静かな生活に入る。雪子は、保育園児と共に山野の弾くオルガンで楽しく踊っている。それを花枝と一緒にそっとみる千代美であった。

原作では、雪子は風邪から脳膜炎を患い亡くなってしまう。雪子の死が、山野と花枝を浅草の地を立ち去らせる動機としている。

小説では、山野は<わたし>として語っている。そして、浅草で十年間一日も休まずに舞台のごみをかぶりながらジャズをひいていられた<平凡な感傷>に触れている。

舞台ざらいの夜明けの浅草を一座の芸人達と話しながらの帰り道。「いつも初めてのように物珍しく感じて、花枝や千代美とわたしの間のみならず、一緒に歩いて行く人達の身の上までを小説的に想像したくなるのです。何んという馬鹿馬鹿しい空想でしょう。何んという卑俗な、平凡な感傷でしょう。

このわたしの<平凡な感傷>は映画では表しえない浅草への感傷でもあろう。

追記2 : 黒澤明監督の『野良犬』を観なおした。拳銃をとられた若き刑事がそれを必死で探すのであるが、<感傷>もテーマとなっていた。犯人と戦後すぐの日本の状況。犯人をかばう浅草の若い踊子と、自分と同じように復員してすぐリュックを盗まれる自分と同じ目に遭った犯人への若き刑事の感傷。それを自戒させるベテラン刑事。やはり説得力のある映像である。

浅草映画・『ひとりぼっちの二人だが』

久しぶりの浅草映画である。近頃、出会えるのに時間がかかる浅草映画となっている。観たり観ないようだったりが『ひとりぼっちの二人だが』である。観ていた。だが、浅草の場面は飛んでいた。観た頃は浅草にそれほど興味が無かったからである。江東区古石場文化センターの「江東区シネマプラザ」で月イチの映画鑑賞会を開催しており、『ふたりぼっちの二人だが』を上映される情報を得た。

 

江東区古石場文化センターには、小津安二郎監督の「小津安二郎紹介展示コーナー」もあり訪れるのは久しぶりである。小津監督の喜八モノと言われる作品には小津監督が子供時代に深川で目にした庶民の姿を作品に挿入されていた。

 

映画『東京画』(1985年)を観たばかりだったので、小津監督作品の解説などもさらに近く感じられた。映画『東京画』は、ドイツの映画監督・ヴィム・ヴェンダースが小津監督の鎌倉のお墓を訪れ、映画『東京物語』(1953年)に出てくる風景を30年後の1985年(昭和60年)に東京と尾道をたずね、東京の風景は様変わりである。笠智衆さんや小津組の名カメラマン・厚田雄春さんにインタビューしているが、厚田雄春さんが、小津監督の死後他の映画に参加したが、どうしても小津監督の撮影法が忘れられず、小津映画に殉死するかたちで映画を辞めることになったと言われたのが強く印象に残った。

 

ひとりぼっちの二人だが』(1962年)は、吉永小百合さん(田島ユキ)が踊りの会で踊る場面から始まる。ユキは芸者置屋の叔母に育てられ水揚げされることが決まったいる。ユキはそれが嫌で逃げるのである。浅草寺でユキはつかまりそうになるが同級生の浜田光夫さん(杉山三郎)と出会い助けられる。そこまでくるとこの映画観ていると気が付いた。とにかく吉永小百合さん浅草を走り回る。1962年(昭和37年)頃の浅草が映される。チンピラの三郎は兄貴分の命令で柳橋一家からユキをかくまうことになる。追われて飛び込んだのがストリップ劇場である。そこで、もう一人の同級生・坂本九さん(浅草九太)に逢うことになる。

 

九太は、コメディアンを目指していた。浅草で育ち小中同級生の三人はそれぞれの道を歩いての再会であった。ところが、三郎の兄貴分がユキをかくまうことが自分の所属する組にとってまずく自分の身も危ぶないこととなる。三郎は兄貴分からユキを連れてくるように言われる。ユキに心を寄せ始めた三郎はそれに逆らいリンチを受けつつもユキを助けることになる。もう一人ユキの兄の高橋英樹さん(田島英二)が登場する。ユキの本当の兄ではないが叔母のところを飛び出し行方不明になっていたが、今はボクシングの新人戦を目指し、ユキの倖せのために助力するのである。三郎が嫌な命令には従うなと仲間たちに訴え、最後はハッピーエンドとなる。

 

先に映画『上を向いて歩こう』(1962年)があり、舛田利雄監督をはじめ出演者も同じである。坂本九さんの主題歌『ひとりぼっちの二人』も作詞・永六輔さん、作曲・中村八大さんである。坂本九さんのキャラが光っていて、九ちゃんの音楽性とコメディぶりが見ものでもある。

 

とにかく浅草たっぷりの映画である。逃げる立場であるから吉永小百合さん中心に走る、走るで、観ている方も浅草の風景を早回しで観ているような感じであるが、花やしきの人口衛星塔のゴンドラが映像の中では主役級であった。この映画の浅草については『昭和浅草映画地図』(中村実男著)で詳しく書かれているので読んでから観ると映画の中の浅草の風景への集中度がちがうであろう。

 

吉永小百合さんの芸者役では『夢千代日記』のどこか儚さの漂う夢千代さんが代表的であるが、映画『長崎ぶらぶら節』の愛八さんもいい。三味線を芸者の刀にしているようなきりっとした名妓ぶりである。大衆演劇で『ぶらぶら節』を踊るのを観たが着流しであった。悪くはなかったが映画の関係上芸者姿でのが観たかった。

 

先頃、松竹映画で吉永さんののデビュー作映画『朝を呼ぶ口笛』(1959年・生駒千里監督)を観た。『ひとりぼっちの二人だが』は高校に行けない若者の屈折した部分も描かれているが、『朝を呼ぶ口笛』は、新聞配達をしつつ高校受験を目指す中学生を周囲の皆が応援するという内容である。吉永さんは、主人公を励ます配達先のお嬢さんの役で、彼女は引っ越すことになるが彼女とさよならしつつも主人公は元気に新聞配達に励むラストとなる。映画『朝を呼ぶ口笛』ではビルの上から浅草方面が見える映像があり、仁丹塔が見えていた。

 

北原白秋の小田原散策道

新元号の文字「令和」を見て「命令」がぱっと浮かび「命令に和す」と思いました。「れいわ」。響きがいいです。「令」が「よい」という意味があるとは知りませんでした。元号にならなければ一生知らないで終わったかもしれません。「令嬢」、「令息」、「令夫人」は周囲にいないので思い浮かばなかった。漢字は奥が深い。

現皇太子さまは皇太子妃が病と日々闘われていることを深く理解され、そのサポートをしっかりなされておられる。そのお姿は美しい令月のようでもあるからして、美しく優しい時代となるのではないかと期待しているのである。おそらくこのままでいくと私は令和の時代にこの世を去るであろうから良き時代であったと思って去りたいものである。

言葉に様々な解釈があるように旅もまた、その場所に行ってみればそのもっと前の時代の痕跡が残っており、やはり時の流れというものは、その都度その都度過去を思い出させるものなのだと感じてしまった。

小田原は北条氏の城下町で秀吉に攻め滅ぼされてしまう。それでも小田原城は北条氏の城として今も人気を集めている。今回はお城ではなく北原白秋が小田原に住んでいたときに散策したであろう道を歩くことであった。小田原は白秋さんにとって童謡を沢山創作した場所でもあり、生活的にも家庭的にも精神的にも穏やかな場所であった。白秋さんが歩いたと思われる道を整備して散策できるようになっているのを知って数年たちやっと実行できた。

「小田原の白秋散策道」とでも検索すれば散策路の地図を入手できるし、小田原観光協会にもあると思う。JR小田原駅の西口から出発して白秋さんの童謡の書かれた案内板をながめつつ歩くことになる。『からたちの花』が生まれるきっかけとなった水之尾道、野外劇場と称した場所、『木兎(みみづく)の家』の呼ばれる家を建てた伝肇寺(でんじょうじ)境内、最後は白秋が小田原に最初に住んだお花畑から小田原文学館・白秋童謡館にいたるのである。5・5キロ/180分と書かれてあるが、小田原文学館・白秋童謡館は2回行っているので『あわて床屋』の童謡案内板でJR東海道線にぶつかり、そこからJR小田原駅にもどった。このもどりが結構歩いた。

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やはり歩いて見てわかったのであるが、この白秋童謡散策路は白秋さんの道としても面白いが、小田原城の中ともいえるのである。所々に小田原城の堀と土塁の跡が残っており距離的に近いのでそちらを眺めに行ったりした。小田原城は堀と土塁で周囲9㎞にわたる総構を構築し、それ以前には総構の内側に新堀と呼ばれる外郭があり、その新堀と土塁の名残りが残っていてそれがまた美しい曲線となっているのである。小田原城の総構などに興味のある方は、白秋散策路がお薦めである。京都の北野天満宮の御土居を見れなかったので、小田原城の総構が見れて満足である。

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そして秀吉さんである。小田原城攻めである。途中で、秀吉軍が相模湾も含め小田原城を包囲している図もあり白秋さんが「野外劇場」と称した場所は、小田原城を攻める敵方の動向が見える場所でもあったわけで、相模湾まで観える絶景の場所なのです。白秋さんが散策してしていたのは小田原城からの眺めでもあったのです。美しい風景が堪能できる場所で、白秋さんんの観た景色を眺めることができますが、時間をさかのぼれば戦場でもあったわけです。

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今は白秋さんが観たときより開発されているでしょうが、趣のある散策路です。総構の後には桜が満開で、途中の道には桜、桃、実を付けた柑橘類の木、下には菜の花と狭い場所に春の彩を人工的ではなく全く我関せずの自然さで招待してくれました。才能があれば童謡か詩の一つもできそうな道です。トゲのあるからたちの木もありました。アニメ映画の怪しい場所に出てきそうなくらいとげとげしく入り組んだ裸の枝の木でした。

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三の丸新堀土塁から伝肇寺までは下りながら相模湾を眺めるという道で、登っただけの価値はある散策路でした。総構に出会えたのはよかったですが疲れた。秀吉は小田原城を包囲し時間がかかるからと家臣たちに妻などを呼びよせることを許します。そして自分も茶々を呼び寄せるのである。ただし、茶々を呼びたいのでそちから言い伝えて欲しいとねねに手紙を書いている。そういうことは正室から側室に伝えるのが筋だったようで、本妻の承諾を得ているのである。そんなこともあった小田原城攻めである。

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童謡案内板は『赤い鳥小鳥』『待ちぼうけ』『ペチカ』『揺籠のうた』『からたちの花』『この道』『砂山』『あわて床屋』である。唱歌は学校教育として作られた歌であり童謡は子どもたちに歌って欲しいとして創作した歌である。川村三郎さんが映画『二十四の瞳』で『あわて床屋』や『七つの子』などの童謡が歌われるのは高峰秀子演じる大石先生が子供たちを教室の外に連れ出した時や遠足の時など教室外であると指摘されている。(『白秋望景』)桜は、桜の下で子供たちが遊んでいる姿が一番合っているように思う。シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』も始まります。

今お気に入りの花は、花桃の照手シリーズの白です。近くに咲いていてまだ小さい木なのだが、上に伸びた枝にもこもこっと縦一列に咲いているのである。名札をみて、照手シリーズがあるのだと知った。綿のようにもこもこっと花をつけて小さな固まりをつくっていて、まだ時には冷たい風におしくらまんじゅうをしているようなのである。

さてもう一つ白秋関連の場所へいった。市川市の里見公園である。そこに、白秋さんが小岩時代に住んでいた家「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」があり、「桜まつり」のとき公開しているということなので出かけた。ここがまたお城跡なのである。そこにいくまでの道がこれまた白秋さん関連の道でもある。そのことはいつかまたである。

追記: 帰り道、小田原駅の東口のそばに「小田原市民交流センター」というのがあり寄ってみた。そこで、「小田原ガイド協会養成講座 自主研究発表会」展示をやっていた。パネルに研究発表が張られていたがゆっくりながめる気力がなかったのでレジメをいただいてきた。それを読ませて貰ったら興味湧く報告でした。

三件あった。『北条氏綱の軌跡』(早雲の嫡男で北条氏二代目である。北条早雲が初代であるが、北条は後の名前で伊勢氏を名のっていた。二代目が北条氏を名のったのである。二代目の政治的手腕について。) 『今昔 国府津駅と御殿場線』(御殿場線はもとは東海道線であった。丹那トンネルができ今の国府津駅から熱海、三島、沼津の東海道線ができたのである。) 『小田原の領主ゆかりの寺院』(その一つ、枝垂桜で有名な長興山紹太寺は稲葉氏ゆかりの寺院であった。)簡単に書かせてもらいましたがもっと多くのことを教えてもらいました。素晴らしい活動です。7日(日)まで。