映画『助太刀屋助六』『無法松の一生』

助太刀屋助六』は、岡本喜八監督最後の映画でどいうわけか手が伸びなかったのです。音楽が山下洋輔さんで、太鼓の林英哲さんも参加されていると知りこれは観て聴かなくてはと即レンタルして観ました。

痛快!痛快!娯楽時代劇で面白かったです。なぜ観なかったかといえば集中して観た岡本監督映画と比して裏切られるような気分が働いたのですが洋輔さんと英哲さんに誘われて観て正解でした。音楽にも集中でき映像に面白さが加わりました。ジャズ風オハヤシ、オハヤシ風ジャズが効いていました。

ぴたっと音楽が止んで何の音もしなくなったり、音楽が止ると、棺桶のタガを締める音だけが入ったりとか、そのタイミングが映画の面白さと役者さんの動き、特に真田広之さんの絶えず動く身体リズムとも合っているのです。

いつのまにか仇討の助っ人になり報酬を手に入れることを覚えた助太刀屋助六、上州の故郷の母の墓の前で、故郷に錦を飾るほどではないが、「絹を着て帰ったぜ」と亡き母に袖を広げて絹の着物をみせるその光沢の具合が助六の今は多少お金を持っている自分の嬉しさを現わしており、若さの楽天さでこの精神が貫かれます。

着物の左右が女物と男物でそれにも意味があり、自分が嫁を貰うということと、亡き母と名の知れぬ父へのオマージュともとれます。結果的にそれは一つになるのですから。

誰に教わったのでもなく、自分一人で戦うためには何を使えば良いかを常に動き回わり探し回って見つけます。竹ぼうき、竹竿、大八車、石、早桶、などアドリブの音楽と同じで武器、道具、戦い方を音を探すように見つけ出していきます。

故郷に帰って見れば、村は仇討前の静けさ。これは自分の出番と思うが出番もなく、討たれたほうが知らされることのなかった自分の父親でありました。父親の仲代達矢さんと会うのが桶屋で、助六が自分の息子であると知った時、短い時間でありながら息子の性格を見抜き、事情の知る桶屋の小林桂樹さんに父であることを知らすなと伝えますが、このあたりも岡本監督の見え透いた情をださなくても、父が息子の人間性を見抜いており、死ぬ前に逢えた喜びも感じとれるのです。

白木の位牌に自分の戒名を書く父の手が震えます。息子に会って、死の覚悟に未練がでたように思えました。そして字の書けない息子に対して「自分の名前くらい書けるようにしろ」と父親としての言葉を残します。このさりげなさが岡本監督らしさでもあります。そして、一輪の小さな野菊もさりげなくキザでないのが許せます。

息子は仇討を決心しますが、「いやいや落ち着け。仇討ではない、白木の位牌に助太刀するのだ。」錆びた刀を父母の新しい墓石で研ぎ、「刀を研いでいるように見えるだろうが、違うんだなこれが、墓石をみがいているのだ。」と一人でここまで生きて来た自分をとりもどします。

ずらして気持ちにゆとりを持たせ冷静になり、敵討ちは成就します。ただ火縄銃に撃たれて死んでしまう助六が生きていることは映画を観る者が判ってしまうのがこの映画の失点でしょうが、まあこれも許せる範ちゅうとしましょう。音楽に免じて。

助六の真田さんと父親の仲代さんとのずれもいい。どこかずれてずれて、幼馴染とも、桶屋の親子とも、村人とも。それでいながら最後に助六という名前の馬を手なずけている鈴木京香さんのお仙の言いなりになる助六が、どうにかずれからずれてめでたしめでたしであります。

左右の女物と男物の着物が、しっかりと縫わさっていたということでしょう。

岸田今日子さんのナレーションの声も魅力的でした。やはりここで観るべき映画でした。じわじわきます。情で落とせる状況を岡本流の軽さと明るさなのに、そこで終らず何か来るんですよね。

監督・岡本喜八/原作・生田大作(「助太刀屋」)/脚本・岡本喜八/撮影・加藤雄大/音楽・山下洋輔/出演・真田広之、鈴木京香、村田雄浩、鶴見辰吾、風間トオル、本田博太郎、岸部一徳、岸田今日子、小林桂樹、仲代達矢/ミュージシャン・林英哲(太鼓)金子飛鳥(バイオリン)竹内直(リード)津村和彦(ギター)吉野弘志(ベース)堀越彰(ドラム)一噲幸弘(笛)

太鼓といえば無法松と思い立ち観ていなかった三船敏郎さんの『無法松の一生』を観ました。小倉祇園太鼓を打つ三船さん、くるくるっとバチを回したりして打ち方も力強いです。格好良い。さすがです。

今の打ち方は小倉の祇園太鼓ではないと、吉岡のぼんの五高の先生に説明しつつ太鼓を打ちます。流れ打ち、勇み打ち、暴れ打ちと説明しながら。この暴れ打ちは小倉祇園太鼓にはなくて、映像の見せるという形態によって生まれた打ち方で映画のために創作したもので、本元の小倉祇園太鼓は伝統を守り続けています。

『無法松の一生』の映画の見せ所としては、変化に富む打法を見せることにより車引きだけではない無法松の一面を見せる花道でもあるわけです。ただここから無法松は吉岡夫人(高峰秀子)に対する自分の気持ちとの葛藤に苦しみ死へと向かっていく事となります。

『無法松の一生』の映画に関しては色々なことがありますが、今回は太鼓で観ましたのでその事だけにします。

監督・稲垣浩/原作・岩下俊作/脚本・伊丹万作、稲垣浩/撮影・山田一大/音楽・団伊玖磨/出演・三船敏郎、高峰秀子、芥川比呂志、笠智衆、飯田蝶子、田中春男、多々良純、

 

国立劇場 『日本の太鼓』

国立劇場での企画公演『日本の太鼓』が9月24日25日の二日間おこなわれた。残念ながら24日しか観覧できませんでしたが、日本の民俗芸能の深さと新しさを堪能させてもらいました。

太鼓を劇場で聴いたのは、山下洋輔さんと林英哲さんのセッション、玉三郎さんと鼓動共演の『アマテラス』、長唄の伝の会での太鼓とのセッションは記憶に残っています。林英哲さんは他でも聴いたような気もしていますがはっきりしません。あとは友人が太鼓を習い始めその発表会に本人の出番は絶対に来ないでとのことなので、その指導の方たちの出番の時間に聴きににいったことがあります。

その友人の練習の話しで腕を伸ばすように言われるけれど、しっかり伸ばすと打つのが遅れてしまうというのを思い出しなるほどと思って見ていました。皆さん綺麗な態勢で打たれていますが、それだけの修練をしてのことなのでしょう。そして以前よりも、そのリズム感と強弱を快く受け入れている自分がいました。

鶴の寿』『八丈太鼓』『尾張新次郎太鼓』『石見神楽 大蛇』『千年の寡黙2016』『七星

鶴の寿』は国立劇場開場50周年を祝してこの公演のために邦楽のお囃子方の藤舎呂英さんが作られたもので、曲は鶴の飛来、朝焼けの景色、五穀豊穣と泰平の世という三章からなり、舞台は太鼓を中心に据え、鼓でそれを末広がりに位置するという構成で見た目にも新鮮でした。

パンフは読まないで曲の内容は気に留めず、ただ、音に聴き入っていました。途中で唄が入りましたが詞が聴き取れなかったので、声も一つの音として聴いていました。音が空気を押し開いていくような感じでした。(藤舎呂英連中)

八丈太鼓』は、聴いていると八丈島へ行きたくなります。パンフの説明によると関ヶ原で敗れた宇喜多秀家公が流された島でもあります。「八丈太鼓は、武器(刀)を失った流人が、その鬱憤を二本の桴(ばち)に託して打ち鳴らしたもの」でもあるとのこと。お祭りの太鼓として聴いていましたが、一つの太鼓を両面で二人で打ち軽さよりも重層感に充ちていましたので、説明を読んでなるほどとおもいました。(八丈太鼓の会)

尾張新次郎太鼓』は、友人の指導者が愛知出身で小さい頃から太鼓をやっていたらしく名古屋は盛んらしいと聴き、どうして名古屋なのか、太鼓といえば島とか漁港とかだろうにと思っていたので引きつけられました。そろえた膝から上半身を立て中腰で太鼓を打つのを初めて見ました。右に長胴太鼓、真正面下に締太鼓(しめだいこ)を置き、左右のバチで連打するのです。そしてバチをくるくると手の指で回しながら打つということも加わわり曲太鼓といわれています。落としてしまうこともありますが、すぐ用意しているバチを持ちあっという間に何事もなかったように進みます。これも見事でした。

説明によると、愛知県の西部、尾張の地で育まれた熱田神宮の神楽から発生しており、秋祭りを復活させることに生涯を捧げた西川新次郎の名前に由来していて、それを保存されているのです。

もともとは個人打ちだったのが、昭和55年の国立劇場『日本の太鼓』出演以来数人による揃い打ちが主流となったということで、揃い打ちのほうが見応え、聴きごたえがありました。このように劇場から新しい形態が発生していくのも継承にとっては刺激となり良いことです。

曲太鼓は江戸時代の名古屋城下町を取り囲むように、その北部から西部の農村地域に分布する太鼓芸ということで、愛知と太鼓の盛んな関係がわかりました。(尾張新次郎太鼓保存会)

熱田神宮は旧東海道歩きのとき、予定を完歩してから友人の御朱印もあるので寄ったのですが、駅から想像よりも遠い位置に入口があり、二箇所で御朱印が貰えてその場所が離れており、慌ててお詣りをして走り廻り時間内に無事御朱印を貰えた思い出があります。走りの熱田神宮でした。

石見神楽 大蛇』(いわみかぐら おろち)は、チラシに作り物の大蛇が写っていたのでこれまた楽しみでした。石見神楽は島根県西部石見地方に伝わるもので、明治になって神職演舞禁止令がでて土地の人々が受け継ぐことになったのですが変化しすぎたので国学者たちによって神楽台本が改訂され今に至っているそうで、神話を基本にしたものが中心で今回は「ヤマタノオロチ」を主題としていました。

人が中で操作する八大蛇が出て来て神楽に合わせて激しく動きまわります。ジャバラの部分をつかんで操作するのでしょうかトグロを巻いたり、八大蛇が絡み合って造形したりと見どころ満載でした。

村人が四つの桶にお酒を入れておきますとそれを上手く飲み廻し酔った所で須佐之男命が滅ぼしてしまうのですが、村人や須佐之男命が大蛇に締められてしまったりする場面もあり物語性の強いものです。大蛇の首が抜けるようになっていて、須佐之男命は八つの首を斬り並べます。胴体だけの大蛇は幕の中に消えていきます。早いテンポの神楽と見応えのある「大蛇」でした。(谷住郷神楽社中)

同じような主題で歌舞伎舞踊『日本振袖始』があります。玉三郎さんの踊りはシネマ歌舞伎にもなっています。

新藤兼人監督の『一枚のハガキ』にもこの大蛇が出てくるので、再度DVDを見直しましたら、新藤監督は故郷の広島の神楽で見ていたので映画に挿入したようで、広島にも石見から伝わった芸能が継承されていたのです。

最後がプロの林英哲さんの独演『千年の寡黙』と英哲さんと英哲風雲の会の九人による『七星』の太鼓でした。『千年の寡黙』は靜と動、弱と強、高低の音、テンポの相違などの流れを身体に受けつつ聴きいりました。『七星』のほうは、九人の太鼓の響きをズドンと受けてその豪快さが心地よい振動となって伝わってきます。心を空っぽにしていましたので、その時だけ受ける音を楽しませてもらいました。

忘れていたように置いてけぼりされていたCD『英哲』を聞き直しましたが、尺八、能管、篠笛、手振鉦も加わり、時間の経った音も新鮮に味わえました。古さ新しさって何なんでしょう。

25日の演目は『鶴の寿』『佐原囃子(さわらばやし)』『気仙町けんか七夕太鼓』『沖縄エイサー』『千年の寡黙2016』『七星』でしたが、聴けなくて残念。

劇場での伝統芸能は閉じこめられ閉ざされたようにイメージしますが、身体的には楽に沢山の場所を集約されて比較もでき、それぞれの地域を想像の世界に誘い良いものです。

 

歌舞伎座 秀山祭九月歌舞伎 『碁盤忠信』『太刀盗人』『元禄花見踊』

『碁盤忠信』 『碁盤太平記』と書きそうになりましたが<忠信>だったのです。

忠信が碁盤をもって戦ったという伝説はかつては広く知られていたことらしいのです。初演は七代目幸四郎さんで明治44年(1911年)で一度だけの公演で、それを100年たって復活させたのが染五郎さんで、平成23年(2011年)の日生劇場にて上演でしたが、私は観ていません。初代吉右衛門さんも演じられていたようですが、一つのテーマが内容を変えて劇化されているので、『碁盤忠信』も幾つかの脚本があったのでしょう。

荒事の単純なお話です。忠信(染五郎)といえば、義経の忠臣ですから、義経を奥州に逃がし敵と戦うのですが、亡くなった妻の小車の父・浄雲(歌六)が頼朝側と内通していて、その窮地を小車(児太郎)が亡霊となってあらわれ碁石で知らせ、忠信は碁盤を片手に大あばれします。そこへ、横川覚範(松緑)が押し戻しであらわれお互いに見得を切ってチョンです。

先にだんまりがあり、源氏の宝刀の探り合いがあり無事忠信の手に入ります。それぞれの役どころが身についた基本のできただんまりで綺麗にうごかれていました。呉羽の内侍(菊之助)、万寿姫(新悟)、三郎吾(隼人)、浮橋(宗之助)、宇津宮弾正(亀鶴)、江間義時(松江)亀鶴さんと松江さんにはもっと出て欲しいです。

忠信の舅・浄雲は愛嬌のある悪人で、その家来の右平太(歌昇)と左源太(萬太郎)も道化を含んでいます。小車は父を諌めて自決してしまいますが、舅のすすめるお酒に酔って碁盤を枕に眠ってしまった忠信の夢のなかに小車があらわれて、忠信の危機を救うのです。歌昇さんは演じている道化ですが、萬太郎さんそのままでゆるくなるのでお二人が台詞を言うたび楽しかったです。隼人さんは背の高さから奴はどうかなと思いましたが大丈夫でした。

松緑さんの覚範が現れることによって荒事の大きさが示され、初期の複雑さと知略のまだ加わらない見せる荒事の一つと言えるような作品で、目で楽しみ耳で音を受けるという作品でした。染五郎さんの声が次第に荒事に向かってきています。

その他出演・亀蔵、桂三、由次郎

『太刀盗人』 これまた肩の力を抜いて楽しめる狂言仕立ての舞踏劇です。都にでてきた田舎者・万兵衛(錦之助)が市で盗人・九郎兵衛(又五郎)に目をつけられ太刀を盗られそうになります。そこへ目代(彌十郎)と従者(種之助)があらわれます。二人は目代にどちらが盗人か裁定を頼みます。目代は、引き受け質問をしますが、万兵衛から始めるので九郎兵衛はあとからそれを真似ます。そこで二人一緒に舞いでことの次第を説明することになり、九郎兵衛はあやふやなおどりとなり盗人が発覚してしまうのです。

錦之助さんと又五郎さんは笑い中心にはせず、しっかりとした踊りでそのほころびでどちらが盗人であるかをあきらかにしていくという踊りでした。大きな彌十郎さんに畏まってつく従者の種之助さんのなんだかおかしいなという感じに愛嬌がありました。

『元禄花見踊』 最後は艶やかな踊りで締められた。ふわふわした綿あめを食べるような感触で終わってしまいました。

玉三郎さんを求心力に元禄の男6人(亀三郎、亀寿、歌昇、萬太郎、隼人、吉之丞)と元禄の女6人(梅枝、種之助、米吉、児太郎、芝のぶ、玉朗)が、元禄の華やかさを楽しく踊り賛歌するという趣向ですが、若い12人がどこかお澄ましで少し緊張気味なのがおかしく、一人一人追っていたので忙しくもありました。芝のぶさんと玉朗さんであろうとおもうが間違っていたらもうしわけないことです。可愛らしい誰だろう誰だろうと思いつつ眺めさせてもらいました。吉之丞さんもこんな派手な舞台で、さらに玉三郎さんと絡んで踊るのは初めてではないでしょうか。落ち着いてもう一回みたい気分です。

昼の部 『碁盤忠信』『太刀盗人』『一條大蔵譚』

夜の部 『吉野川』『らくだ』『元禄花見踊』

重さと軽さの配分の良い舞台でした。

 

 

歌舞伎座 秀山祭九月歌舞伎『らくだ』

『らくだ』が歌舞伎初演のとき初代吉右衛門さんがくず屋の久六を演じていたとは驚きです。上方落語『らくだの葬礼』を下敷きにして、岡鬼太郎さんが『眠駱駝物語』として書かれ昭和3年(1928年)の初演です。

昨今では勘三郎さんと三津五郎さんの『らくだ』が人気を博しましたが、細かいところは記憶から薄れ、シネマ歌舞伎もDVDも見ていないのでそちらは別口として、渥美清さんの『らくだ』を基にしているTBS日曜劇場の『放蕩かっぽれ節』を先頃見ていましてその記憶が少々残っています。

山田洋次×渥美清 ということで、作が山田洋次さんと高橋正圀さんとなっていて演出は他のかたです。くず屋久六の役が廓遊びの放蕩息子の渥美さんで、くず屋でなくても話は出来上がるものだと、ちゃらちゃら惚れられているという花魁のおのろけ話なぞも聞かされました。テレビの中で聞かされているのは手斧目半次の若山富三郎さんです。当然脅して、お酒と煮しめを実家の大店へ用意させるのですが、父親が五代目小さんさんで、この上方落語を江戸の噺として高座へのせたのが三代目小さんさんだそうで、きちんと落語家の関係と役者とを重ね合わせていたのだと気がつかせてもらいました。

歌舞伎座の『らくだ』のほうは、手斧目半次が松緑さんで、らくだの馬吉が死んでいるのを発見します。自分でフグをさばいてフグの毒にあたってしまったのです。らくだは長屋の皆から嫌われていて誰も弔いをしないので半次が弔ってやることにしますが、そこに折りよく現れたのがくず屋の久六の染五郎さんです。

虫も殺さぬような久六は、半次の言いつけで大家のところへ弔いのためのお酒と煮しめを出させにやられます。口上として出さないなら死人のかんかんのう(当時はやったおどり)を披露するといいます。大家の歌六さんはやるならやってみろと掛け合いません。そこで半次はらくだを久六に背負わせて大家宅へのりこみます。

ここからが、死人のらくだの亀寿さんの出番で、久六の見せ場でもあります。半次が大家さんに掛け合っているときの、らくだと久六の可笑しな悪戦苦闘が大笑いです。これだけ染五郎さんに邪魔されるのですから、松緑さんはもっと凄んだワルの半次でいいと思いました。そのあともありますからね。

ついに半次は大家さんの座敷に乗り込み、近所から聞こえる浄瑠璃に合わせてらくだの人形使いとなり、大家さんのおかみさんの東蔵さん(おそくなりましたが人間国宝おめでとうございます)も死人に辟易です。ついにお酒と煮しめを手にいれました。

さて、満足の半次ですが、久六にも酒をすすめます。ですから、もっと強面にやっつけておけばよかったのです。酒で半次と久六の立場は逆転するのです。小さくなっていく半次。久六は早桶にらくだを入れ担いで寺へ運ぶ手伝いをするというのです。そんなことをしてもらっては申し訳ないという半次。半次はなんとか久六を帰したいのですが、なんでおれに担がせないのだとますますからんできます。

そこへ半次の妹のおやす(米吉)が再び実家が大変なことになっていると報告にきますが、こちらはこちらで、久六とらくだがとんでもない状態なのでした。米吉さんは自分の実家のことしか頭にないということで、正面をむいてしゃべっていいと思います。そのほうが客に台詞がわかりますから。そしてどひゃと驚く。

早桶のかわりの四斗だるを担いで焼き場へ行く道中も加わるのが上方落語の『らくだの葬列』なのですが、ここははし折られています。渥美さんと若山さんは、らくだ(犬塚弘)の死人の踊りはなく、早桶にらくだを納め運びます。酔っていい気分でフラフラと先棒を担ぐ渥美さんに必死に後棒を担ぐ若山さんでした。

この映像が頭に残っていたので、染五郎さんが酔って早桶を担ぐといったとき、とんでもないと辞退する松緑さんにごもっともと賛成して笑ってしまいましたが、もしかするとここを笑いで受けとめるまでいかない方が多かったかもしれません。二人で担ぐ格好を見せて笑いをとる方法もあるなとも思った次第です。

語りだけの落語から身体も加えて勝負できるのが、歌舞伎の強みだよ~なんて。

歌舞伎座 秀山祭九月歌舞伎 『吉野川』

『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の<山の段>ともいわれるのが『吉野川』です。

徳川時代の後期、明和8年(1771年)に人形浄瑠璃として上演されていて、この頃は古代研究も盛んで反幕府勢力が古代天皇制に傾倒していったということもあったようで、芝居も蘇我入鹿(そがのいるか)が皇位をねらって反乱を起こすという政治背景となっています。

権力者蘇我入鹿によって押し付けられた子供に対する受け入れがたい命令を、何とか守ってやりたい親でありながら、どうする事も出来ず、思いもしなかった結末となるのですが、筋は知っていながら、涙、涙のクライマックスでした。

桜で満開の吉野川をはさんで、右には紀伊国の大判事清澄の屋敷、左には大和国の太宰家の未亡人定高の屋敷があります。この両家には息子と娘がいて、愛し合っているのですが、両家は領地問題で昔から争っていて許されない仲なのです。

大判事の息子・久我之助(染五郎)と太宰の娘・雛鳥(ひなどり・菊之助)は吉野川をはさんでやっと言葉を交わしている時、親の帰ってきたことが告げられ、双方の開いた障子はまた閉ざされてしまいます。

両花道から、大判事(吉右衛門)と定高(玉三郎)が重い足取りで現れます。それぞれ二人は入鹿から難題を申し受けての帰りです。

久我之助は天皇に味方して入鹿打倒に加わったとの疑いから出頭を命じられ、雛鳥は入鹿の妻として入内することを命じられたのです。

二人は、親といえども子供は別のことでどうするのかと尋ね合います。ここが親の心情を隠しそれぞれ家の誉と言い合う聴きどころです。首尾が叶ったなら桜の一枝を吉野川に流す約束をします。

帰って子に正してみれば、それは親の本心と同じでした。久我之助は出頭を拒み自害、雛鳥も久我之助に操を立てて母に殺してくれと頼みます。親の望んでいたこととはいえ、その子供の決心にうたれ親は涙します。

娘に入内を勧める時の玉三郎さんの複雑な表情が、推理に推理をよび、本心はどちらなのかとこちらもその複雑な想いに混乱してきます。そして、雛鳥がやはり殺してくれというと、でかしたといいますがなんとも測りがたい表情です。そう望んでもそれは死なのですから。

お互いの親は相手の子供だけでも助けたいと桜の枝を流します。ところが、お互いの子が死を選んだと知って驚き動転します。大判事の吉右衛門さんは、それまでの自身の芯が折れたように、柱を背にくずおれてしまいます。

吉野川にひな祭りの道具と雛鳥の首の入った輿が嫁入りとしてながされ大判事のもとに届きます。大判事は、雛鳥を息絶え絶えの久我之助にみせ目出度く祝言とします。

定高側の領分が妹山で大判事側の領分を背山とし、その妹背の山に流るる吉野川の水盃で祝言とし、祝いのご馳走は桜花という美しさですが、残された親の心情の悲しさには美しすぎる背景です。

役者さんの大きさで、時代の嵐とそれに立ち向かいつつも失ってしまう命の愛おしさがいかんなく表現された舞台でした。

自分の意思を貫く染五郎さんと菊之助さんに悲哀と愛らしさがあり、腰元の梅枝さんに主人を想う一生懸命さがあり、道化役の腰元の萬太郎さんに自然な愛嬌があり可笑しさを良い具合にふりまいていました。

 

 

歌舞伎座 秀山祭九月歌舞伎『一條大蔵譚』

旧派の50年は、二代目吉右衛門さんが二代目を襲名してから50年というこです。かなり若くして二代目を襲名されたわけで、初代のご贔屓がわんさとおられさらに当時の批評家連は厳しかったでしょうから御苦労様なことであったと想像します。

<秀山>とは初代吉右衛門さんの俳句の号で、それを使って初代の芸を顕彰するために「秀山祭」として始められた公演でこちらは10年となります。ある劇評家のかたが「初代の芸は芝居が終ると誰かと一杯飲みつつ語りあいたくなるが、二代目は、一人家に帰って蒲団をかぶりたくなる」と言われたことを思い出します。初代は演目からちょっと想像できないのですが<陽>で二代目は<陰>ということのようです。

「秀山祭」ということで『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』と『吉野川 (妹背山婦女庭訓)』からとします。

阿呆の大蔵卿は、清盛から自分が寵愛した常盤御前を押し付けられます。大蔵卿は阿呆ですからはいはいとなんでもござれです。ところが、源氏の家来のなかには常盤御前をゆるすことが出来ずの大蔵卿邸に忍び込み常盤御前を諌めようとする者もいます。

阿呆の大蔵卿の出を観客は待ちます。どんな阿呆ぶりかと。今回の吉右衛門さんは演じているすき間のない阿呆そのものの出現でした。このぐらいの阿呆ぶりでなければ、清盛をだますことはできないでしょう。

最初の場が常盤御前を諌めようとする鬼次郎夫婦(菊之助、梅枝)に緊張感が漂っていて、そこへ大好きな舞を楽しんでの超ご機嫌の大蔵卿の出で、まだその楽しさが残っているという感じで、鬼次郎の妻・お京を狂言師として雇い入れる流れは上手く出来ています。衆人の前でのお京雇いも局の鳴瀬(京妙)の無用な疑いをかけられないための計らいで、「太郎冠者の鳴瀬おるか」「次郎冠者のお京おるか」のあたりも全て狂言にしてしまう大蔵卿の阿呆ぶりは、よく考えれば頭脳明晰です。

鬼次郎を見かけ、本能的に見てはならないものを見たという感じでハラリと扇で顔を隠し表情を悟られない様にして楽しく花道を帰っていきます。身体もどこかしらふわふわしていて、花を楽しむ蝶のような感じの大蔵卿の阿呆ぶりでした。

お京は鬼次郎を屋敷に招き入れ、楊弓を楽しむ常盤御前に意見し弓で打擲します。常盤はそれを褒め、的の後ろに清盛の絵姿を隠し射って命中させていた本心を明かします。魁春さんの常盤御前、今までで一番若く感じました。歌右衛門さんの品格の大切さを守ってこられ、そこに一つ加えたか減らしたかはわかりませんが、何かのマジックはあったのでしょう。動きは静かですが、全体の雰囲気が若いのです。不思議です。

鳴瀬の夫・勘解由(吉之助改め吉之丞)はそれを聴いて清盛に注進しようとします。そうはさせまいと御簾の中から長刀で勘解由は斬られます。目も覚めるような正気ぶりの大蔵卿です。清盛の横暴な時代を生きぬくための作り阿呆で、幼子を抱えていた常盤の生き方をも、大蔵卿は理解していたのです。

一途な鬼次郎夫婦は、常盤御前の本心、大蔵卿の二面性に力を得て、清盛りを討つことを誓います。菊之助さんと梅枝さんの若い役者さんと吉右衛門さんと魁春さんの熟練した役者さんの相違が、役者さんと役とが重なり良い組み合わせとなりました。

この大蔵卿の二面性のでてくるそれぞれの場面が上手く折り込まれていて観客は、大蔵卿の苦労も役者さんの苦労も何処かへ飛ばして笑わせてもらいました。それぐらい飛んでる阿呆でした。

新派の『深川年増』にでてきた演劇改良運動のこともあって、「歌舞伎の歴史」(今尾哲也著)を読み返していて、大蔵卿は時代の中での<カブキ者>であると感じました。逆らわないと見せかけ、生き続け、その道はずーっと続いている<カブキ>の歴史と重なりました。

それとは別の生き方が『吉野山』の悲劇へと集約される一途な生き方ともかさなったのです。

 

新橋演舞場 九月新派特別公演(2)

『振袖纏(ふりそでまとい)』  川口松太郎さん作で、しっかり最後涙を誘います。実際の話しを参考にしたようでモデルがあるようです。川口松太郎さんは<親は誰だか判らない>と語られていて若い頃苦労されていているので、市井の人々の悲喜こもごもを小説や芝居にされていますが、その人情味は実感がこもっていて新派が隆盛だった頃の観客がすっぽり入りこめる世界でした。

映画監督の松山善三さんが先頃亡くなられましたが(合掌)、高峰秀子さんが、演出助手だった松山善三さんと結婚するとき、「なにがなんでも川口先生に彼を見てもらった上で決めよう」とおもったほど川口さんの「人の見る目」を信頼していて「あの男はまるでおまえの亭主になるために生まれてきたみたいな奴じゃねえか」と太鼓判をおされ即座に決心したと書かれています。(「人情話 松太郎」高峰秀子著)

その川口さんの本も後半までの話しにダレがきてしまいます。それは、纏持ちに憧れた芳次郎(松也)が大店の実家・大黒屋から勘当されても自分のやりたい道に進み、ち組の頭・藤右衛門とお徳(春猿)に世話になります。そこの娘・お喜久(瀬戸摩純)と夫婦となりますが、大黒屋の番頭に子供が出来たら跡取りのいない大黒屋に子供を渡すという約束をします。この約束と、勘当された身だからと生まれた子供を捨て子として大黒屋の前に捨て、その子を番頭が拾い、捨て子として育てられるのですが、現代の感覚からすると、そう簡単に約束するの、捨てる必要性があるのと突っ込みたくなるのです。

ただこの設定が後半の泣かせどころとなるのですが、前半の観客の突っ込みをいれない工夫が現代では必要になってきます。貧富の差は現代でも判りますが、暗黙の了解の当時の身分差などが通じなくなっているということです。『婦系図』で、お蔦の姉貴分にあたり酒井先生の世話にもなる芸者の小芳に主税が手をついて挨拶しますが、酒井先生は、お前は芸者に手をつくのかと怒るところがあります。これは驚きますよ。そういう風の吹いている時代なのです。

その辺りが芝居の中にしかない感覚となってしまい、庶民がすっぽり芝居の中に入れないところに新派のジレンマがあります。『振袖纏』も、前半は番頭の田口守さんが持ちまえの演技力で頑張ります。猿弥さん、春猿さんが纏の頭の一家としても雰囲気を出します。そして、後半になって松也さんと摩純さんも芝居に乗って来て、立松昭二さんと伊藤みどりさんが大黒屋夫婦として締めるという形となります。この前半が説明的にならず時代を表せるかどうかが、課題となるとおもいます。

『深川年増(ふかがわとしま)』  北條秀司さんの喜劇作品です。浅草の十二階の凌雲閣の場面から始まり時代が何んとなくわかります。さらに、歌舞伎の演劇改良運動のことが出てきます。明治の西洋化の風潮から歌舞伎を外国人にも観て貰えるように改革しようとしたのです。九代目團十郎さんの時代で同時に川上音二郎さんの新派の誕生とも関係してくる時代です。

改良運動により歌舞伎役者の身辺もきれいにしようということで、地位の低い歌舞伎役者・三十助(緑郎)も囲っているおきん(八重子)と別れることにします。そのおきんに別れ話をもっていくのが、三十助の弟子の伊之助(猿弥)です。三十助は良い役が回ってくるようにときんつば屋に婿に入っており、おきんのことも女房のおよし(英太郎)にばれているのです。当然すったもんだがあるわけです。

北條さんのことですから細工は流々で、おきんはお金持ちの奥様になりすまし、きんつば屋へ乗り込んでくるのです。その前に三十助との間の子供まで送り込んできます。

欲をいいますと緑郎さんは喜劇のテンポはまだこれからの感があります。猿弥さんとは澤瀉屋での長い時間がありますのでツーカーですが、八重子さんや英さんとの間の取り合いはこれからの時間のなかで修練され絶妙さに進んでいかれるとおもいます。話しの面白さが構成されているとその展開にのりつつ、いかに自分の置き場所をみつけるかが喜劇の場合難しいです。

それにしても、劇団新派は沢山の作品をすぐれた作家のかたから書いてもらっていました。『振袖纏』も『深川年増』も初めて観る作品でした。

新派の芝居は奉公人が使いに行く時前掛けに品物を隠して出かけたりなど、今は見かけなくなった細かい時代の動作のしどころをも伝えてもらえます。

『婦系図』などは、黒御簾から「勧進帳」の長唄が流れ、小芳が娘に会えて涙するところは、「ついに泣かぬ弁慶の~」と流れます。

お蔦が妙子さんがきてお茶を入れる時、焙烙(ほうろく)でお茶を焙ってからいれたりと、座布団の外しかたなどその時代の身についた動きかたが新鮮に目にとまります。

そしてそうした動きも立場のちがいによっても変わってくるのです。そうした細かな動きを学んだ新派の役者さんたちが、喜多村緑郎さんが誕生したことによって、新しい作品をもっと学んで披露していければ今回の襲名も大きな成果となって現れることでしょう。

国立研修生の同期である春猿さんと猿弥さんの澤瀉屋そして 音羽屋の松也さんを迎え、新しい緑屋の二代目喜多村緑郎さんの襲名披露公演にふさわしい旅立ちにまずは拍手を。

その他の出演者・佐堂克実、尾上徳松、半田真二、村岡ミヨ、鴫原桂、山吹恭子、市村新吾、英ゆかり、只野操、三原邦男、筑前翠瑶、鈴木章生、児玉真二、久藤和子、川上彌生、川崎さおり、矢野淳子 他

 

新橋演舞場 九月新派特別公演(1)

市川月乃助改め二代目喜多村緑郎襲名披露

初代喜多村緑郎さんは1871年生まれで1961年に亡くなられていて名前は聴けども映像で少しみているだけで実態はわかりません。二代目を襲名された月乃助さんも緑郎さんに関しては雲をつかむような状態のことでしょう。この名跡を継ぐことによって、新派からは逃れられない立場に立たれたわけですが、国立劇場開場50周年の年に、国立劇場の歌舞伎研修生出身の月乃助さんが新派の大名跡襲名となり喜ばしいことです。

口上の挨拶でも、「この先茨の道とおもいますが」と覚悟のほどをみせられていましたが、旧派に対する新派というよりも現在の<劇団新派>の存続の一端を肩に背負われたわけでそれはかなりの重さと思います。

今回の演目の一つ『婦系図(おんなけいず)』を観て、初代水谷八重子さんが背負われていた女優の劇団新派が、これからは男優の風が強くなるような予感がしました。そしてそれはそれで新しい劇団新派として、違う要素の芝居も見せてくれるのではないかという期待感も膨らみます。

『婦系図』は、<湯島境内>が多く上演され、二代目八重子さんや波乃久里子さんが花柳章太郎さんや初代八重子さんの芸を踏襲され、どうしてもお蔦に目がいきます。今回、通しで公演することによって早瀬主税の復讐劇が加わり<湯島境内>だけではわからない話の筋がわかり二代目喜多村緑郎さんも好演でした。

チラシによりますと ー初代喜多村緑郎本に依るー とあります。かつて通しでみたときの記憶では、主税が静岡でドイツ語の塾を開いていてその場面もあったような気がしますが、今回は静岡では<静岡貞造小屋>で、河野英臣(こうのひでお)と対決する場にすぐ入りました。河野英臣というのは、名家とつながることで一族を大きくしようと野心にもえた人物で、主税がお世話になっている酒井先生の娘さん妙子を息子の嫁にしようとして素行調査をしています。

主税はそのことが気に入らず、またその関係から主税がスリを助けたことが役所にしれ職を失ってしまい郷里の静岡に引っ込むことになります。そのことなどから、静岡の場は主税の河野家への復讐の場となるのです。泉鏡花さんの作品自体はこの復讐劇が主なのですが、舞台化された際、主税と元芸者のお蔦が酒井先生に隠れて所帯をもっていてそれが先生に知れて別れるようにいわれ、その別れの場面を湯島境内の場面として書き加え、この場面のみが多く上演されることとなったわけです。

湯島境内の緑郎さんの主税よい寸法でした。何回も演じられている波乃久里子さんのお蔦に対する情もでていて、スリの万吉の松也さんにスリをやめるように言うところに説得力がありました。吉右衛門さん、仁左衛門さんら何人かの歌舞伎役者さんの主税を観ていますが、歌舞伎役者さんの寸法が大きすぎ、主税がかつて「隼(はやぶさ)の力(りき)」とよばれたスリであったということを万吉に伝えるとき、台詞としては伝わっても実感として浮かんでこなかったのですが、緑郎さんの場合浮かび、酒井先生に助けられた話しで万吉が、改心すると決めるのに無理なく得心できました。

いったんスリの世界に入ればそこから抜け出すことは当時の環境からしても容易なことではないのです。それに加え学問まで身につけさせてもらえた。その恩は自分をとるかお蔦をとるかと言われれば先生をとるしかないのです。そこがストンと気持ちに入っていますから、主税とお蔦の古風な別れもじわじわと深く伝わってきます。

さらに今回、客演している尾上松也さんの妹さんの春本由香さんの劇団新派入団の紹介が口上でありました。由香さんの祖父の春本泰男さんが新派におられ、お母さんも新派にいたことがあったのだそうです。酒井の娘・妙子を演じられ、この役は女学生なので、演じられた役者さんたちは、年齢もあり皆さん芸でみせるのですが、由香さんの場合、恐らく言われたまま素直に演じられているのでしょう。それが自然のかたちとなり芸を見せるという堅苦しさのない清楚な妙子となり、芸者小芳の八重子さんとのお蔦さえ知らなかった親子の関係がわかるもう一つの隠された部分が明かされる場面を良い形に納めました。

酒井先生の柳田豊さんも独特の台詞まわしで酒井先生の威厳をしめし、田口守さん、伊藤みどりさんの身についた庶民性、石原舞子さんの小芳に次ぐ妹芸者ぶり、河野家側の高橋よしこさん、市川猿弥さん、市川春猿さん、喜多村一郎さんらがそれぞれの役どころをおさえられていて、新しい新派の新しい『婦系図』となりました。

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(4)

藤村さんの系図を簡単に紹介すれば、藤村さんは馬籠宿本陣の四男として生まれています。母(ぬい)は妻籠宿本陣の娘で馬籠本陣の長男(正樹)と結婚し、藤村さんの二番目の兄(広助)は三歳のとき、母の実家の妻籠本陣に養子にはいっています。もともと、妻籠本陣と馬籠本陣の当主は島崎家から出て続いていくのです。

藤村さんは、九歳の時、三番目の兄と一緒に勉学のため東京にでてきて泰明小学校に通います。本陣を継ぐものは一人でいいわけで、長男以外はそれぞれの生きる道を見つけなければなりません。

馬籠本陣の隣の大黒屋の娘・おゆうさん藤村さんの幼馴染で初恋の人といわれていますが、おゆうさんは、14歳の時、妻籠の脇本陣にお嫁入りしています。

妻籠宿の本陣は江戸時代の本陣を再現し、藤村さんのお母さんとお兄さん関係の島崎家の印象が強いです。脇本陣にはおゆうさんの使っていたものも展示され、それらの高価さから見ると藤村さんのその後の生活と比較し、おゆうさんも収まるところへ収まったのかなという感じを持ちます。

妻籠の脇本陣は屋号を「奥谷」といい、9月から3月まで夕方明かり窓を通して囲炉裏ばたに美しい縦じまの光の道を描きます。係りの方が、「残念です。陽が射していれば見れるのですがと」と教えてくれました。ここには歴史資料館もあって三館をゆっくりみさせてもらいました。

そのほか瑠璃山光徳寺には、幕末から明治にかけてここの住職さんが考案したという駕籠に車をつけた人力車が飾ってありました。面白い事を考える住職さんです。

馬籠宿は本陣跡は藤村記念館となり、第二文庫では、藤村さんの長男・楠雄さんの息子さん・緑二さんの作品展があり、穏やかで優しい水彩画が展示されていました。大黒屋さんも楠雄さんの四方木屋さんも残っています。馬籠脇本陣は史料館となっていてめずらしいのは、玄武石垣という亀の甲羅ににた六角形の石垣が積まれているものです。

永昌寺にある島崎家のお墓もいってみました。島崎藤村家は楠雄さん達もふくめ幾つかのお墓が一つの集まりとなって肩よせあい静かに眠られていました。

『夜明け前』では、藤村さんの祖父の時代からはじまり、藤村さんのお母さんが半蔵さんのところにお嫁に来て、お母さんの兄で妻籠本陣の当主・寿平次さんが訪ねてきたり、半蔵と寿平次とが一緒に三浦半島にいる先祖を訪ねて江戸にでてきたりします。その時半蔵は国学の平田門人としての許可をもらうのです。半蔵はそのことだけに集中し、寿平次との性格の比較としても際立つ旅です。

落合宿や中津川宿には、半蔵の学問の友や師がいて、師の宮川寛斎は、中津川の生糸商人に頼まれ開港した横浜へ生糸を売り込むためにつきそい、その後よそで隠遁生活に入りますが、半蔵は別れの機会があると思っていましたが寛斎は半蔵にあわずに去ってしまいます。

中津川宿は、信濃とは違う商人の宿でもあり、これからの『夜明け前』でもいろいろでてくるのかもしれません。

実際の今の中津川宿は、説明書きも新しく整備されていて、日本画家の前田青邨(まえだせいそん)さんの生まれ故郷でもありました。桂小五郎さんが隠れていた家などもあり、「中山道史資料館」には、桂小五郎、井上薫、岩倉具視、坂本龍馬など幕末から維新にかけて活躍した人たちの資料があるらしいです。行ったときは、<企画展 中津川の明治時代 ー情熱をそそいだ学校教育から地域の発展へー >をやっていました。ここは脇本陣のあったところで、建物の一部と土蔵一棟が公開されています。皇女和宮さまの降嫁の際に随行した江戸城大奥老女花園が尾張徳川家の御用商人である間家に宿泊し、さらに翌年に寄りその応対ぶりに感激し人形などを送りその品も飾られていました。

皇女和宮様の降嫁の行列はそれを受け入れる側も大変で、人はもちろんのこと立派なお嫁入り道具などもあるわけで死人もかなりでたようです。山道を考えるとそうでもあろうとおもえます。人足などはただ囲われた寝泊りの場所で、農民たちは農作の繁忙期に宿の手伝いにでなければならず、それに対する不満も次第に膨らんでいきます。

明治にはいると明治15年4月3日には自由党総裁・板垣退助が中津川で演説を行い、その3日後に岐阜で暴漢におそわれています。「板垣死すとも自由は死せず」

歴史資料館を見てますと、平田学などの国学の人々が自由民権運動にも参加して、さらに中津川の教育にたずさわっていったような感じもみうけられました。

中津川は江戸末期から地歌舞伎が盛んのようです。横浜港が開港したと聞くとすぐ生糸を売りにいき紡績がはじまり、水力発電がはじまるとその工事関係の人でにぎわったようでそういう人の集まりに合わせて芸能も楽しみの一つとして受け入れられたのでしょう。江戸の歌舞伎役者さんにもきてもらったようで、地歌舞伎が今も残っているというのは凄いことです。

旅としては中山道はしばらくないと思いますが、中津川の資料館では、この近辺の中山道の道をコピーして置いてくれてましたので、それを眺めつつ観光として出かけることもあるでしょう。

さらにここで『夜明け前』の文章と写真で構成した『夜明け前ものがたり』(白木益三著)を購入したので、それを開きつつ、『夜明け前』の続きにとりかかるとしましょう。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(3)

落合の石畳が思っていたより長かったので調べたところ840メートルでした。十国峠を歩きやすくするために石を敷きならべたもので当時のままの部分が三か所70.8メートルあります。なだらかな石畳の坂で芸術品のような趣です。

途中に今は閉められている山のうさぎ茶屋というのがあって、その前にかなりはげてしまった<中乗り新三>の旅烏姿の看板がありました。聞いた事のある名前ですが、どんな人なのかわからないので検索しましたら、芝居や映画にでてくる主人公で、映画では三波春夫さんが演じてました。江戸から木曽に材木を買い付けにきて、まあ渡世のいろいろなことがあるということらしいのです。

木曽の木は尾張藩にとっては宝の山で、村人は非常に厳しい規制のなかにあり、勝手に木を切らない様に、のこぎりを使わせなかったのです。斧だと音が響くのでこっそり切ろうとしてもすぐ判ってしまうからです。木一本首ひとつといわれているほど厳罰が待ち構えていました。

切った木を木曽川を使っての運搬方法も木曽川本流では大川狩(おおかわがり)といって、組み立てられた木を流す通路を一本一本流していくのです。模型があり木の流しそうめんのようでした。

明治となり山林が自分たちの手に戻ってくると信じていたのにそうはならず、『夜明け前』の半蔵は奔走するのですが、明治22年には皇室の財産に編入されてしまうのです。とまあ資料館的にはそうなりますが、『夜明け前』ではこれから読んでのことです。

馬籠では昼食をしたお店のかたが、一人なら熊よけの鈴をもっていったほうがよいということなので、観光案内所で借りました。これはお金を払って借り、次の宿場の観光案内所で返すとお金をもどしてくれます。

妻籠に向かいますが馬籠宿の家並みを抜けたところに展望台があり、恵那山が見え、半蔵とお民夫婦の恵那山を眺める会話と妻籠と馬籠の風景の違いがでてくる『夜明け前』の一文が紹介されています。馬籠峠の頂上といっても山の中で見晴しの良いのはここだけといえます。

山の中ですので道は判りやすく案内表示がしっかりしていますので、天気と体力だけそろえば大丈夫ですが、馬籠峠まではちょっときつい登りもありました。所々に熊よけの鐘があって、このときとばかり元気づけに鳴らして歩きました。途中に十返舎一九の狂歌碑もあります。「 渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめしここの名物 」 渋皮そのままの女も名物の栗のこわめしは食べました。

馬籠峠を越えると下りですので気分も樂でしたが、途中の休憩場所でお茶をすすめられましたが先が急がれておことわりしました。外国人のかたのほうが歩いてられる数は多いです。休憩所の人が、15分ぐらい歩くと女滝、男滝があるので涼しいから寄って見ていきなさいと教えてくれました。妻籠までは1時間といわれましたが、私は1時間半かかりました。15分たっても滝の案内がなく見逃したかなとおもった頃にありました。滝の水の力におおわれた涼しい時間でした。しかし歩みは予想どおりおそくなっていました。

はるか下のほうに家が見える箇所もあり、馬籠に入る途中の棚田の風景とは違い、その深さに木曽の山中をあらためて感じる風景にも出会います。前日、妻籠の宿場は観光しておいたので宿に入る見知った家並みを通るようにして無事鈴も返しましたが、久しく歩いていなかったので思いのほか疲れました。

妻籠も馬籠も宿場にすぐ入れない様に道を直角にまげている枡形(ますがた)が道が狭く坂なので面白いかたちで残っていました。大名なども泊るのでその身の安全や大名たちの格差もあるので、行列が鉢合わせしないための工夫でもあったようです。中津川宿などは平なためもあって枡形が直角に曲がっているのが一目でわかります。

東海道は、開発のためどんどん枡形も壊されてしまっています。疲れはしましたが、自然も中仙道を味わったという気分にさせられ満足、満足です。