歌舞伎『花競忠臣顔見勢』から『土屋主悦』(1986年)(5)

土屋主悦』での坂田藤十郎さんの姿が頭に残っていて、東京では観ていないのになぜだろうと気になっていました。映像であろうかと探しましたら録画がありました。NHKBSで放送された「忠臣蔵300年」という番組でした。1986年12月南座で上演されたものです。

土屋主悦が藤十郎(当時・扇雀)さん、お園が秀太郎さん、其角が九世三津五郎(当時・蓑助)さん、大高源吾が吉右衛門さんという豪華メンバーでした。おそらく放送を観たときは、それほど惹きつけられなかったと思われます。今観なおしますと面白いですしさすが上手いです。藤十郎さんの濃密な演技には驚きました。

第一場「向島其角の邸」と第二場「土屋主悦邸」があります。

今回の『花競忠臣顔見勢』では、第二場である「槌谷邸」から始まり、途中に討ち入りの場面を挿入し、再び「槌谷邸」に戻すという構成にしていました。

土屋主悦』では、第一場で大高源吾が別れのために其角を訪ねます。そして明日西国のさる大名に仕えるため旅立ちますと伝えます。そこに落合其月(勘五郎)が来合せ、赤穂浪士たるものが二君に仕えるとは何たることかと大高源吾を足蹴にします。

大高源吾は「武士の真意は上からは見えない」といいます。

其角が大高源吾に差しだした句「年の瀬や水の流れも人の身も」はいさめの句だったのですが、源吾がつけた句は「明日待たるるその宝船」でした。その下の句に新しく仕えることを宝船としたのだと其角はがっかりし、其月はさらに怒ります。

大高源吾は言うに言われぬ苦しみを押さえ去っていきます。

第二場の前にそういう場面があるわけです。

花競忠臣顔見勢』ではその場面は観客が其角の立腹ぶりから想像して槌谷主悦の出方をみつめるわけです。時間の関係もあり、隼人さんは若さの鋭利さで大高源吾の歌の意味を其角とは違う解釈をして眠ったふりをします。

ここらあたりも藤十郎さんは大きな細やかさがあります。その辺の違いも面白いです。

次の大高源吾が現れる場面での主悦との対面では、『土屋主悦』では討ち入りの様子は観客は観ていませんから、源吾は観客に背中を向け主悦との対面に真正面から見つめ合うという時間を一呼吸ながくとり、そのことにより討ち入りに対する濃密な想いをぶっつけあいました。先輩たちも熱いです。

物語の展開を早くして、観客の気持ちを引っ張ていく形と、濃密にたっぷりとみせて引っ張ていく形をそれぞれが観ることができ、さらに物語の見せ方の違いが比較できました。どちらもそれぞれに味わいがあり、楽しみ方も違ってきます。

土屋主悦』の映像のほうは、澤村藤十郎さんと山川静夫さんが解説されていて、『土屋主悦』は関西で『松浦の太鼓』は東京といわれていました。『花競忠臣顔見勢』では上演回数の少ない『土屋主悦』を入れてくれてよかったです。

さらに映像では忠臣蔵ゆかりの場所も紹介されていました。

赤穂浪士は最後の打ち合わせが深川の富岡八幡宮前の茶店ということで、あとは吉良邸での茶会の確かな日取りをまっていたとありました。その重要な日取りを入手したのが大高源吾だと言われています。

深川で浪士たちが情報を交換したとすれば身を隔すのには好い場所だったとおもいます。小名木川は日本橋と行徳を結ぶ「塩の道」で、さらに物資を流通する重要な川で、それにたずさわる人もたくさんいたとおもいます。観光の旅の人もいたでしょうし、見知らぬ人がいてもあまり怪しまれなかったでしょう。吉良邸にも近いですし。

行徳散策から『塩の道』に興味がありまして少したどりましたので、やはり赤穂浪士が赤穂義士になる場所として深川はその条件を満たす重要な立地場所であったようにおもえます。

討ち入りあとに詠んだといわれる大高源吾の句碑(両国橋児童遊園内) ひのおんや たちまちくだく あつごおり 

赤穂義士が泉岳寺へ向かうとき渡った永代橋

泉岳寺で浅野内匠頭のお墓に最初にご焼香したのは間十次郎で、吉良上野介をみつけ最初に槍で刺した功労者だったからだそうです。

隅田川の橋もオリンピック前は覆いがかけられお化粧直しをしていましたが、やっと10月からライトアップして、ナイトクルーズなどで楽しませてくれているようです。おもてなしもいいですが、まずは日本人が日本を楽しまなくてはです。

花競忠臣顔見勢』は忠臣蔵に対する思考回路をさらに広げてくれました。そして<若手歌舞伎役者リレーインスタライブ>では頼もしいくらい勉強されていているようすがわかり沢山の刺激をいただきました。次のステップがたのしみです。

追記: 吉右衛門さんは、歌舞伎であっても人物の心理を描かれるのがやはり上手いと感嘆して映像を観させてもらったばかりでした。残念です。(合掌)

追記2: 12月10日(金)午後9:00~のNHK・Eテレ『にっぽんの芸能』で『松浦の太鼓』(吉右衛門)、『菊宴月白浪』(猿翁)、『盟三五大切』(仁左衛門)のダイジェスト版での映像が放送されるようです。『松浦の太鼓』は『土屋主悦』と比較したり、大先輩たちの芸の大きさと妙味を感じとっていただきたいです。

にっぽんの芸能 – NHK

追記3: 前編は終わってしまったのですが、ドラマ「忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段」後編を是非ご覧ください。『仮名手本忠臣蔵』五段目に出てくる斧定九郎役を今までとがらっと変えて演じて評判をとった実在の江戸時代の歌舞伎役者・中村仲蔵の物語です。いつか五段目を観たなら、あのことかと面白さが増すと思います。

NHKBSプレミアム・BS4k 12月11日(土) 午後9時から 

追記4: 『仮名手本忠臣蔵』5段目を先に知りたいというかたは、『図夢歌舞伎 忠臣蔵 第三回』(五段目、六段目)でどうぞ。五段目の斧定九郎の出がいかに短いかがわかります。ただ思いもかけぬ斧定九郎との出会いが勘平の人生を狂わせるのです。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』から神奈川へ飛ぶ(4)

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』の大詰最終場が「花水橋引揚げの場」なんですが、「花水橋」が何となく引っかかりました。聞いたことがあるような。なんとなくむずむずします。

調べてみると神奈川の平塚と大磯の間にありました。花水川というのがあり花水橋がありました。あ~、あそこですか。旧東海道を歩いているときに渡っていたのです。

仮名手本忠臣蔵』が江戸時代を室町時代に代えて登場人物の名前も変えて上演したのですからさもありなんです。赤垣源藏の「徳利の別れ」も「稲瀬川々端の場」で稲瀬川も鎌倉の由比ガ浜に流れるこむ川の名前なのです。当時の人々は、だれもその川を想像してはいなくて、隅田川を思い描いていたわけですが当然花水橋の名も知っていたでしょう。

江戸の人が日本橋から出発して東海道で最初に泊まるのが戸塚宿ですからそこから藤沢宿、平塚宿、大磯宿ですから、人々の頭の中にはインプットされていたように思えるのです。

花水川というのは江戸時代にもあったわけで下記地図の朱色の丸の羅列は旧東海道です。東海道本線を右側に進むと平塚駅で左に進むと大磯駅となります。この間は歌舞伎での登場人物と縁のある場所でもあります。

平塚駅の近くに「お菊の塚」があります。近いはずなのに探すのに手間取りました。『番町皿屋敷』のモデルとなったお菊さん。奉公先のご主人に家宝の皿を壊したとして手打ちになったとされています。解説文によると家来が隠したとあります。歌舞伎ではご主人の青山播磨とお菊は恋仲で、お菊が播磨の愛を試してお皿を割るということになっています。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

   お菊さんの墓ですが、この場所も探すのにてこずりました。きちんと戒名を記されたお墓があるのですが、気の毒で哀れに思えて写真が撮れずこちらを写しました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0003-2-1006x1024.jpg

下の史跡絵図の左手矢印の方向に花水橋があり、右手矢印方向が平塚駅です。二つの黄色丸が見附けでこの間が宿場町・平塚宿なわけです。朱丸は歌舞伎『鏡山旧錦絵』の「お初の墓」(お初のモデルの本名はたつ)と「平塚の塚」(平塚の由来)です。

義女松田多津顕彰碑」 ご主人の仇を討ったということで「義女」となっています。歌舞伎座8月には、その後の物語が上演されました。『加賀見山再岩藤』(かがみやまごにちのいわふじ)<岩藤怪異篇>。

花水橋を渡ってからの旧東海道には道なりに案内があります。

ここからは、曽我兄弟の十郎の恋人の虎御前関係となり、化粧坂と呼ばれていました。

弥次さん、喜多さんでしょうか、虎御石を持ち上げようとしています。あがったでしょうか。

延台寺

虎御石の解説

虎御前祈願の龍神 十郎との恋の成就を祈願したといわれる龍神様。実家にあったものを尼になって虎御前が移された伝えられています。

虎御前の供養塔

神奈川まで飛びましたが花水橋周辺からは忠臣蔵に関係することには巡り会えませんでした。お菊、お初、虎御前(大磯の虎)と歌舞伎に登場する女性たちを偲ぶ地図と写真の旅ということになりました。飛んで神奈川編でした。

今月の歌舞伎座<第二部>「寿曽我対面」には大磯の虎が登場されていますね。ということは神奈川から飛んで歌舞伎座の芝居の中に大磯の虎さんは戻してくれました。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』関連情報(3)

さて次は、映画、ドラマからの歌舞伎『花競忠臣顔見勢』関連情報とします。

(1)のほうで、歌舞伎『松浦の太鼓』と『土屋主悦』の違いに少し触れましたが、『土屋主悦』のほうは観ていないのです。ただ1937年の長谷川一夫さんが林長二郎時代の古い映画のDVDを観ていたので内容的にはわかっていました。ただそれも、長谷川一夫さんが、土屋主悦と杉野十平治の二役を演じていて今回の舞台とも少し違っています。

元禄快挙余譚 土屋主悦 雪解篇』(犬塚稔監督)

杉野十平治は芸者から吉良家の絵図面を渡されます。十平治はこの図面通りかどうか吉良邸に探索に行き見つかって隣の土屋家に逃げ込みかくまわれます。そしてそこで奉公している妹のお園と会います。

その後、土屋主悦は杉野から手紙をもらい、その手紙と其角への大高源吾の歌から討ち入りがあるということを知るのです。土屋はしどころのない役です。特に、映画のほうは大高源吾が土屋家に報告に来ないのでなおさらです。長谷川一夫さんは二役で義士引き上げでの場面にも登場なのでなんとか納得します。

今回の舞台で、槌谷主悦と大鷹文吾の場面がなければ気の抜けた炭酸水か生ぬるいビールです。槌谷主悦の、「塩谷殿はよい家来を持たれた」のセリフも生きてこないのです。そう考えると二人の対面にはお互いに熱いものが通っているわけです。

さて、兄との別れがかなわなかった赤垣源藏ですが、その映画は動画配信で観れました。

忠臣蔵 赤垣源藏 討入り前夜』(池田富保監督) 

これまた古いです。1938年の映画です。赤垣源藏は坂東妻三郎さんで、酒飲みで兄のところに居候しています。兄嫁は義弟は何もせずお酒を飲んでいるだけなので好きではありません。兄は源藏との碁の勝負で「仇討ち」の言葉をつかい、それとなく暗示をかけますが、源藏は取り合いません。

この場面を舞台では、通行人(猿三郎、喜猿)の会話に上手く差し入れて、源藏と新左衛門に聞かせ奮い立たせるのです。上手い使い方をしたと映画を観ておもいました。映画では源藏は兄の家まで行き、衣文掛(えもんか)けに兄の羽織をかけて持参した徳利の酒を飲み別れの盃とするのです。それを道端で兄嫁を優しくして短時間に描くという手法に変えて表現したわけです。濃縮しました。

由良之助が葉泉院を訪れ、無事門前外で本意を伝えることができたとき寺岡平右衛門の宗之助さんが姿を出します。おそらく由良之助にお供してきていて身を隠して迎えに出たわけです。平右衛門は足軽なので由良之助の世話係としてそばにいても不審には思われません。

映画では寺岡吉右衛門として登場し、討入りに参加していながら身分が低いということなどで途中で仲間から身を隠してしまいます。そのため映画『最後の忠臣蔵』など、その後の吉右衛門には内蔵助から託された仕事があったのだというような話がいろいろ取りざたされます。

そういうこともあって舞台でもチラッとでも登場させ、さらなる外伝を匂わせているようにも感じました。細かいところにも、その心はと勘ぐってしまいます。

テレビドラマではあの必殺シリーズの中に『必殺忠臣蔵』というのがあり、寺岡吉右衛門(近藤正臣)は必殺仕事人であったというのですから飛びすぎで驚きで面白かったです。そして、吉良上野介には影武者がいて死んでいなかったと。それではやはり仕事しないわけにはいきません。

最後は、葉泉院が、夫の位牌で由良之助を打つという今まで観た映画の中ではない感情の出し方だったので、あの場面に関連するものはないかと探しましたらテレビドラマで『忠臣蔵 瑶泉院の陰謀』が見つかりました。

南部坂の別れがない代わりに、瑶泉院と内蔵介との濃密な別れがあるというこれまた発想の切り替えが必要でした。

人形浄瑠璃で『仮名手本忠臣蔵』をやっていて、それを瑶泉院がお忍びで見物しているというところから始まります。討ち入りから十年後のことです。というわけで前に戻ってその経緯が描かれるわけですが、瑶泉院も義士たちの同志としての気持ちで行動するのです。

将軍綱吉の時代を悪政とし、討ち入りによって御公儀を正すといった想いが中心に流れています。

「陰謀」とあるので瑶泉院のものすごい企みがあるのかと思いましたら、瑶泉院はあくまでも優しく、赤穂藩の人々を助けたい、浪士を助けたい、そのためには自分はどう動くべきかを考えています。浅野内匠頭は心に深い闇のある病があり、それが時々爆発しそうになります。それを瑶泉院は穏やかに穏やかにと支えています。

討ち入り後の彼女の動向も丁寧に描かれ、義士たちのお墓のこと、伊豆大島に流された義士の子供たちを助けようと奮闘します。

大島に行ったときに義士の子供たちが流されたのを初めて知りました。十五歳以上の男子4人が遠島で、十五歳以下の子も十五歳になったら遠島と決まっていました。十五歳以下の子が15人いました。

ドラマでは、次の将軍家宣(綱豊)の正室が赤穂義士びいきで、瑶泉院に次の時代まで待ちなさいといいます。大石内蔵助の次男が13歳だったのですが、出家させたものを流した例はないと教えます。そのあたりが強く印象に残りました。

瑶泉院は稲森いずみさんで、真実味があって歴代の瑶泉院とはまた違う描き方の瑶泉院に合っていてすんなり受け入れられました。瑶泉院、大石内蔵助(北大路欣也)、柳沢吉保(高橋英樹)との駆け引きもひきつけられます。

綱吉から家宣への時代背景も納得できました。浅間山の噴火、富士山の噴火、地震、大火など自然界も大変な時代でした。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』の若手役者さんの演技を愉しみつつ、さらにあちこ首を突っ込み、時代背景や、当時の民衆の支持を得た「忠臣蔵」の力を改めて感じとらせてもらいました。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』関連情報(2)

11月歌舞伎座『花競忠臣顔見勢』の関連情報です。桃井若狭之助があれだけ高師直に悪態をつかれながらなぜ刀を抜かなかったのかは、加古川本蔵の陰の力なのです。そのあたりをもっと詳しく知りたいという人のためにうってつけの公演があります。12月、国立小劇場での文楽公演です。

上演されるのは下記の段です。

若狭之介の家老・加古川本蔵は高師直に進物(賄賂)をしてご機嫌をとったのです。されに塩谷判官が高師直に切りつけたとき本蔵は後ろから判官を抱きかかえ、そのことによって師直は命を落とすことなく傷で済んだのです。

塩谷判官は切腹。赤穂城は明け渡しとなります。『花競忠臣顔見勢』では描かれていなかった部分です。

そして「道行旅路の嫁入り」。本蔵の娘・小浪は母・戸無瀬に伴われ、大星由良之助の息子・力弥に嫁入りするための旅路です。『花競忠臣顔見勢』で米吉さんの小浪の出が少なかったと思われる方は、もし文楽を鑑賞されたならば人形に米吉さんのイメージを重ねますとより一層感情移入できるでしょう。

この後の部分、山科の大星由良之助の住み家への嫁入りは無事おこなわれたのでしょうか。それは、『図夢歌舞伎 忠臣蔵』でどうぞ。私は <Amazonプライムビデオ>の動画配信で観ました。 

図夢歌舞伎「忠臣蔵」 第五回【九段目・十一段目】

新型コロナで舞台が危機に瀕し無観客での舞台を配信するというのではない新たなる幸四郎さんの挑戦でした。申し訳ありませんが観る気にはなれませんでした。あの名舞台が壊されるという感じだったのです。

今回、観てみようとおもいました。『花競忠臣顔見勢』で、加古川本蔵が姿を見せぬかたちなので第5回の九段目(山科閑居)・十一段目(討ち入り、引き揚げ)をみることにしました。

最終回ということもあるのでしょうか、映像的にも工夫がありこれが面白かったです。おそらく試行錯誤でここまでこられたのでしょうが、よくぞ挑戦され残してくれたとおもいました。

九段目は大星由良之助(幸四郎)、戸無瀬(猿之助)、力弥(染五郎)、加古川本蔵(幸四郎)で、役者同士が対峙できないのですが、そこを竹本で葵太夫さんの語りをたっぷり耳にすることができ、舞台や舞台映像とは違う世界観に満足しました。

戸無瀬の猿之助さんは、姿を見せない小浪にいるものとして話しかけるのですが、米吉さんの小浪を想像して観ていました。

花競忠臣顔見勢』の本歌取りで、そこからの外伝として九段目(山科閑居)・十一段目(討ち入り、引き揚げ)を観ていました。『花競忠臣顔見勢』は、それほど若手歌舞伎役者さんたちの心意気が伝わる舞台だったからです。

視聴して48時間は観れますので、1時間ほどですので九段・十一段目は2回。九段目は4回ほど観ました。これから第一回から順に視聴していきます。

その前に『花競忠臣顔見勢』関連映画をもう一度鑑賞してまとめてからにします。

11月歌舞伎座『花競忠臣顔見勢』(1)

題名通りです。『花競忠臣顔見勢(はなくらべぎしかおみせ)』。花形歌舞伎役者の顔見せです。どなたのごひいきになりますか。忠臣蔵という演目を通してそう呼びかけているようです。お久しぶりの役者さんが多く、これまでの修練の見せどころも楽しませてもらいました。

映画やテレビと違い役の名前などが違いややこしいですが、忠臣蔵外伝が盛り込まれているので何となく把握してあとは役者さんを愉しめばよいとおもいます。

幸四郎さんと猿之助さん、「涙を呑んで脇に回ります」とのふれこみですが、なんのなんの、おのおのがた騙されないようにです。幸四郎さんなどは、話を夢に変えてしまいしっかり筋立てをたてて締めは目出度しの馬上の人です。猿之助さんもラストはしっかり配信役として抜かりなく立ち位置を決められます。それにしても若手の成長ぶりには楽しさを倍増してもらいました。

幸四郎さんと猿之助さんの人形による挨拶があります。肩の荷をおろして楽しんでくださいとのお気楽な雰囲気です。

序幕は、『仮名手本忠臣蔵』の形式で始まります。初めてこれを観たとき、桃井若狭之助というのが忠臣蔵映画には出てきませんので、高師直がいじめるので塩谷判官と思ってしまいました。途中で勘違いしていたことに気が付きましたが。ですから、桃井若狭之助が高師直に切りつけるのは今回見ていて快挙でしたが、やはりそうはなりませんでした。そうなったら忠臣蔵は成り立ちませんからね。

桃井若狭之助は名探偵宜しく、家来の源藏の娘・小浪の届けた手紙から源藏の心を読み解きます。そして、小浪に婚約者・力弥に合わせると約束します。名探偵謎解きの解答はきっちりと実行し出番は逃しません。その間は忠臣蔵外伝の名場面を挿入し、お楽しみくださいという趣向です。

ここからは役者さんたちに対する気ままな感想にします。

幸四郎さんの桃井若狭之助は手の内といった感じですが今回はセリフ劇での名探偵ぶりですので聞かせどころがいつもとちがいます。もう一役が高家側の清水大学で大立ち回り。『アテルイ』はまだまだ渡さないの意気込みでした。

猿之助さんの高師直は桃井若狭之助に言いたい放題の悪態で憎々しさたっぷり。塩谷判官の妻・顔世御前に気があるのです。これは『仮名手本忠臣蔵』ではしつこくたっぷりです。顔世御前は判官死後、葉泉院となり、そばに猿之助さんの戸田の局が仕えております。戸田の局をみていて、来月の政岡の助走と思わせられました。そして配信役の河雲松柳亭。

尾上右近さんの顔与御前・葉泉院は夫の死後に抑えがたき感情を由良之助にぶつけるという激しさをみせ人間性の起伏を出します。大鷹文吾ではがらっとかわって、凛々しい義士へ。その変身ぶりも楽しめます。

歌昇さんは、耐えの大星由良之助。敵を欺くために葉泉院にぶたれてもじっと耐えます。もともと押さえどころが上手ですが、今回は由良之助という大きな役でも生かされました。それにしても清水大学にまで足蹴にされるとは。しかし葉泉院と戸田の局にもわかってもらえ思い残すことはありません。観ているほうも知っていながらジーンときます。

浄瑠璃は葵太夫さん。

隼人さんは、塩谷判官と高師直邸の隣に住む旗本・槌谷主悦の二役です。塩谷判官では、桃井若狭之助の立腹を押さえるのですが、反対の立場になってしまいます。この辺りは『仮名手本忠臣蔵』が上演されればそこでたっぷりと。『松浦の太鼓』という作品がありこちらはたびたび上演されていますが、それとは違う設定での玩辞楼十二曲の内『土屋主税』からによります。槌谷主悦は穏やかな性格で、穏やかさがその出であたりを見回すところでいい雰囲気をだしました。普其角は義士・瀧田新左衛門の妹で侍女のお園を邪険にします。文吾から仕官口を見つけたと聴かされ、仇うちはしないとみえると立腹しています。『松浦の太鼓』の松浦侯と宝井其角が反対の立場になっています。主悦は冷静に文吾の歌からその裏を読み取ります。声を張ったりゆるめたりと大きく演じるようにされていたのが印象的です。

猿弥さんの普其角は『松浦の太鼓』の宝井其角とは違って感情をあらわにし可笑しみもある愛嬌のある其角です。

新悟さんは、序幕の品格高い足利直義からお園役で、琴も実際に弾かれ新たな挑戦かと思います。

今回の舞台、琴の音が多く入ります。

歌之助さんは、槌谷主悦近くに仕える若侍・河瀬六弥で、足の運びが美しかったです。玉三郎さんと一緒の舞台が続いたので動きの指導をしっかり受けられたのかもと想像してしまいました。

福之助さんは、赤垣源藏で、兄に別れを言いに来ましたが留守。兄嫁と途中で会い兄と一緒に飲もうと思って持ってきた徳利を渡します。セリフとしどころに名残惜しさが伝わり、機微を心掛けたような気がします。

廣太郎さんは、赤垣源蔵の様子を見ていて源藏の心の内をさとります。義士・瀧田新左衛門でお園の兄です。廣太郎さんのセリフに甘さがあって気になることもあったのですが、今回はそれが優しさに変わり上手くいきました。こういう風な生かし方もあるのかと感じました。

笑也さんは源藏の兄嫁で、源藏の様子におやっとおもう感じをさりげなく受けて花道へ去ります。さりげなさがいいです。

この場面で通りすがりの町人が話の中に「仇討ち」と言葉を言います。源藏と新左衛門は幸先が良いと喜びます。セリフが計算されて並べられています。

米吉さんは、父・加古川本蔵の心の内を桃井若狭之助に説明され、全て若狭之助にまかせるという可憐さで力弥と会うことができました。今回は持ち前の素直な可憐さです。

 鷹之資さんは、力弥で清水大学と刀を交え奮闘し、小浪と最後に会うことができますが、若き悲しきカップルといえるでしょう。

役者さん一人一人が脳裏に残る舞台でした。

今、「忠臣蔵」を知らない世代も多いそうです。それはそれで時代の流れなのでしょう。短時間で、若い人の好きなキャラクターの多い舞台になっていますので「忠臣蔵」を知らなくても「仇討ち」をキーワイドにすれば楽しめます。興味を持たれたなら少しハードルを上げて『仮名手本忠臣蔵』へ挑戦してみてはいかがでしょうか。

義民・佐倉宗吾の『宗吾霊堂』

友人と月に一回は会いましょうということになり2回実行したところで新型コロナのため中断。そろそろということになり、人出が多くなったので場所は下りにということになり、友人は宗吾霊堂は行っていないので行きたいということになりました。

友人は歌舞伎を時々観ているので吉右衛門さんの舞台が浮かぶとも言います。私も吉右衛門さんの宗五郎が一番印象に強いです。吉右衛門さんの情の出し方は特別ですから。(歌舞伎『佐倉義民伝』)

宗吾霊堂は正式には「鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂」といい、今は佐倉宗吾(本名木内惣五郎)さんをまつっています。東勝寺は桓武天皇の時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定したとき戦没者供養のために建立したとあります。ここも桓武天皇の時代につながっていて驚きです。3回目ですが、最澄さんに注目しなかったら今回も、そうなのですか、古いのですね、で終わったでしょう。

仁王門を入る手前の右手に宗吾親子のお墓があります。このお墓の場所が宗吾さんと子供4人が処刑された場所で、東勝寺の住職澄祐(ちょうゆう)和尚が遺骸を刑場跡に埋葬されたということです。

どうして処刑されたかと言いますと、悪政のために領民が苦しめられ、それを佐倉宗吾さんは、寛永寺で四代将軍家綱公に直訴します。直訴はご法度で死罪と決まっていたのです。命をかけても領民の窮状を訴えなければならなかったのです。

色々史実があるようですが、今日伝えられているのは、当時の人々が求める宗吾さんの理想像ということでしょうが、悪政に立ち向かう義民の代表として心の支えとなってきたのです。浪花節、講談、歌舞伎などでも評判となり伝承され広く伝えられてきています。

仁王門。仁王像は鋳造、金箔仕上げで、我が国唯一の金色仁王像だそうです。首に飾り物のある仁王様でした。

本堂。

「宗吾御一代記年館」がありまして等身大の人形で13場面が紹介されています。スイッチを押すと場面の様子が流れます。友人が歌舞伎で一番記憶に残っている甚平渡しの場が故障で音声が流れず残念がっていました。

宗吾さんほか名主たちが江戸の佐倉藩主・堀田正信公の上屋敷に嘆願に行くのですが却下されてしまいます。直訴しかないと宗吾さんは決心するのです。そのため家に戻り妻に離縁状を渡し子供たちと最後の別れをしようとしますが、印旛沼の渡し舟は鎖でつながれてしまい渡れなくされていました。渡し守の甚兵衛さんは、これまた自分の命をかけ鎖を切って渡してくれるのです。いい場面です。

歌舞伎の名場面と重なるので、友人は、歌舞伎を観ているので心にしみるといっていました。たしかにそうです。

「宗吾霊宝殿」には各界の著名人の色紙に書かれた「義」が展示されています。

締めは霊堂すぐ前の『甚兵衛そば』で、甚兵衛そばを食しました。のどごし好いおそばに甘めのつけ汁で、ちょっとくせになるような御蕎麦でした。庶民的お値段に人情味を感じさせてくれ、青空の広がる心地よい散策となりました。

友人は、宗吾さんが立派に祀られているのに感動し満足したようですが、しきりに死んでから謝ってもダメよといっていました。ごもっともです。

京成線宗吾参道駅から歩いて10分位です。特急は停まりますが、快速特急は停まりませんのでご注意を。焦ってしまいました。

最澄への私感から視感拡大(2)

最澄さんの概略が頭に入りましたので、ここからは舞台、映画などでみての視感といきます。ですから史実的にはハチャメチャなところがあり、それがまた楽しいという感想です。

道鏡さんはもう悪僧のレッテルを張られていますが、映画『妖僧』では孝謙天皇の純な愛に応えてしまったという筋でした。とにかくこの時代は、加持祈祷の力で奇跡を起こせる僧が尊ばれていたわけです。ところが、愛という感情によって道鏡さんは妖力を失ってしまうのです。破戒ということになるでしょうか。

歌舞伎の『鳴神』は破戒するように朝廷から絶間姫が差し向けられます。鳴神上人も加持祈祷、呪術の力のある僧なのです。天皇の世継ぎを祈りで成就して、そのみかえりに戒壇建立の約束をとりつけるのですが約束は守られなかったので、龍神を滝つぼに押し込め雨を降らなくさせたのです。民はあえぎ苦しみます。そこで絶間姫の美しさで色香に迷わせて龍神を放そうとするわけです。

戒壇建立とはたいそうなことを約束してしまったものです。それを無視されたのですから鳴神上人は怒りますよ。さらに色香に迷わされてしまうのですから。こういうところを笑いをも含ませて、色っぽく描くというのが歌舞伎の<カブク>ところなわけです。

桓武天皇の時代は蝦夷征伐ということで坂上田村麻呂とアテルイを思い起こします。最澄さんも生きていた時代なのです。『歌舞伎NEXT 阿弖流為アテルイ〉』が再演されるときはどんな配役になるのでしょうかね。僕たちがやりたいと名乗り出るでしょうか。冗談じゃないよ、まだ譲れないよと言うでしょうか。どちらにしても楽しみですが。

ちょっと意外だったのが、日蓮さんです。映画『 日蓮と蒙古大襲来』では奇跡的なことが起こりますし、<南無妙法蓮華経>と声だかにとなえる激しさからもっと新しい経典の解釈をしたのだと思っていましたら『法華経』にかえれなのですね。

「日蓮は、おそらくは法然の口称念仏から学んだと思われる口称題目という新しい法華仏教の信仰のあり方を発明したが、彼自らは、はっきり智顗と最澄の伝統の復古者であると考えていたのである。」(「最澄と空海」梅原猛著)

歌舞伎『日蓮』では、最澄さんが登場しましたが、こうして考えていけばすんなり納得できました。

歌舞伎舞踊『連獅子』の間狂言で「宗論」が入りますが、法華僧と浄土僧が自分の宗派が正しいと争って<南無妙法蓮華経>と<南無阿弥陀仏>を取り違えて唱えてしまうというものです。宗派の争いをこれまた笑いにかえます。狂言からとったものですが、能、狂言、文楽なんでもござれと取り入れていくのも歌舞伎ならではです。

前進座『法然と親鸞』は気になっていた舞台でした。前進座でDVDを販売していましたので取り寄せました。

3時間弱で大舞台でした。二回目の鑑賞では確認事項を調べたりしてかなり時間が要しました。法然の中村梅之助さんは70代後半、親鸞の嵐圭史さんは70代前半で、台詞の量と説得力の妙味に敬服しました。法然さんと親鸞さんは念仏を禁止されたり、流されたり、厳しい生き方を貫かれました。

驚いたのは熊谷直実が登場します。もちろん出家したあとです。直実さんは歌舞伎『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』でのラストの花道の引っ込みで止まっていまして、歌舞伎上の人物という形でおわっていました。法然の弟子になっていたのです。時代的にそういうときなのですね。法然さんや親鸞さんの生きておられた時代背景がみえてきました。文字だけではなかなか時代が浮かび上がらないのですが映像や舞台がいろいろなリンクの仕方で拡がってくれました。

今月は関連舞台が上演されています。『鳴神』は、『伝統芸能 華の舞』でツアー中ですし、「宗論」は歌舞伎座第2部で『連獅子』がありますし、国立劇場では『一谷嫩軍記』を上演しています。面白いつながりです。案内は下記をクリックしてください。

「伝統芸能 華の舞」2021年公演 (zen-a.co.jp)

2111kabukiza_hh1000_e8d42fca71b22da9d8106e03a92677e5.jpg (1000×1414) (kabuki-bito.jp)

2021_11kabuki_hon_f_rev.jpg (1200×1697) (jac.go.jp)

舞台、映画に関しては興味がありましたら下記でどうぞ。

2021年7月6日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

2021年6月30日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

2017年3月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

2015年7月12日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

最澄への私感(1)

桓武天皇は奈良の仏教が堕落しているとして、長岡京に遷都します。孝謙天皇と道鏡のこともあったからでしょう。仏教が朝廷に深入りすることを嫌ったのです。ですから、奈良仏教寺院の長岡京への移転は禁止しました。

ところが長岡京遷都の立役者・藤原種継が殺され、十年で長岡京は廃されることとなり、次の候補地が今の京都となり平安京がつくられます。

そんな時代の流れの中で最澄は仏教はどうなるのであろうと思ったでしょうが、もう一度『法華経』を学び直そうと比叡山に籠るのです。最澄は中国の天台大師・智顗(ちぎ)が中心に据える『法華経』精神を探求します。

桓武天皇は遷都と蝦夷征伐に力を入れますが、それが上手く行かず、さらに同母弟・早良(さわら)皇太子に死を命じ自分の息子を皇太子にします。ところがその安殿(あて)皇太子(後の平城天皇)が病気がちで桓武天皇の心配はつきません。

そうした流れの中で道鏡を退けた和気清麻呂を通じて桓武天皇は最澄に注目するようになり、最澄の草庵が補助金をたまわります。

高雄山寺(神護寺)で最澄は一流のお坊さんに天台仏教を講義し評判となります。

桓武天皇は新しい政治をと想い、奈良仏教とは違う最澄の天台教学に新しい仏教としてとらえたのでしょう。

最澄は入唐を願い、還学生(げんがくしょう)となります。一年間で帰国します。唐では天台は衰えつつあり、密教が流行していました。最澄は志を貫き天台をしっかり学び、密教も少し学んできました。

最澄が帰国すると桓武天皇は病気が重くなっており、祈祷祈願が求められました。

最澄は密教を高雄山寺で広め、僧たちに灌頂しました。桓武の死の間際に天台は国教宗教として認められ、年分度(ねんぶんど)という毎年二人の僧を出家させる権利が認められました。一人は止観業(しかんごう)・天台止観の瞑想の行、一人は遮那業(しゃなごう)・密教を学ぶというかたちにしました。天台の思弁的体系と純粋な修行法だけでは満たせなく広く布教するためには密教の祈祷仏教も必要と考えたのでしょう。

しかし、最澄の加持祈禱は桓武天皇を病から救うことはできませんでした。最澄はまた比叡山にこもります。

同じに留学生(るがくしょう)として入唐した空海は、流行の密教を学び多くの経典、曼荼羅、法具らを持ち帰ります。

最澄は空海から密教を学びたいと思い、空海を神護寺に連れていきます。そして空海から灌頂さえも受けるのです。密教に関しては空海が自分よりも上であるということを素直に認めていたのです。真摯に学びますが、相手から見ればしつこいとおもうだろうなと思わせるほどです。最澄は仏教の根本の幹を太くしておくにこしたことはないと学ぶのですが、空海にしてみれば、自分が唐で学んできた最新の流行りの教えである密教を、そこまでもっていってしまうのかという想いがあったでしょう。そこから二人の亀裂ははじまります。

さらにそこに最澄が自分の後継者にともおもっていた弟子の泰範が空海の弟子となってしまうのですから最澄はがっくりしてしまいます。空海は接した人を魅了するところがあったようです。ただその後、泰範の名が出ることはなくどうなったかわからないのだそうです。

比叡山は、毎年二人の僧を出家させる権利が認められましたが12年間修業しても正式な僧の資格をもらうには東大寺戒壇院でしか受けられません。東大寺に行くと、なにかと奈良仏教への誘いを受け半数が比叡山に戻てくるかどうかの状態でした。

そのため最澄は比叡山でも授戒できるように朝廷にねがいでたのです。嵯峨天皇の時代でした。奈良仏教はこれにこぞって反対でした。最澄は認められないと、自分の文が説明不足なのだとまた書き足して提出します。それでもまただめならまた書き足すのです。このあたりも最澄さんらしいところで、生真面目で、言葉をかえるとしつこいですし粘りづよいです。間に立った人も嵯峨天皇もむげにはできず扱いに困ったとおもいます。

上の座像図をみても、拍子抜けするほど穏やかな優しいお顔です。闘ってきたとは思えないお顔です。声を荒げることのない方だったようです。ですから、弟子の泰範に対する手紙も怒るのではなく懇願する感じでもどってきなさいと書いています。

(この像図は「聖徳太子及び天台高僧像十種のうちの最澄図」で聖徳太子が『法華経』を根本経典としていたことを今回のトーハク展示で知りました。)

そして、最澄の死後それは認められるわけです。

弟子たちもねばり強いです。最澄が学び足りなかった密教は空海から教えを拒まれましたが、最澄の死後、弟子の円仁、円珍が唐に行き学びます。ただその頃中国では仏教は衰退していて学ぶのは大変だったらしいです。そして天台も空海の密教と並ぶものになったのです。

さらに源信によって比叡山、とくに横川は浄土教のメッカとなり、法然、親鸞のごとき浄土教の僧を生みます。

禅もまた天台で行われる止観業と深い関係をもち天台智顗の止観業が中国禅と深い関係をもっているのだそうです。比叡山から入唐した栄西、道元につながるのでしょう。

日蓮は、天台仏教の根拠地のはずの叡山が密教や浄土教や禅によって占拠されてしまったのを嘆いて、『法華経』にかえれと叫んで、智顗、最澄の延長線上なんだそうです。

『ひろさちやの感動するお経 第1~8巻』のCDがあり聞いたのですが、その時はわかったような気にさせられますが、やはりわかりません。下手に触れるともっと混乱しますのでお経などははぶいて極簡略に自分用にまとめてみました。

東京国立博物館・特別展『最澄と天台宗のすべて』

トーハクへは、上野公園の噴水のそばを通っていくのですが、今回は科学博物館への道をいきました。そして発見しました。

<多摩産木材を活用した園路舗装> 荒廃がすすむ多摩の森林の活性化保全、地域温暖化防止のために、間伐材を含む多摩木材を活用しているのです。木ですので腐ればまた取り換え間伐材の消費を促進するのだそうです。(東京都)

時には定番ではない道も歩いてみると違う出会いがあるかもしれません。

比叡山は観光の地としてツアーで行ったことがあるのですが、夕方について時間がなくて根本中堂の外観だけで、比叡山は修行の場で見せないところなのだと勝手に思ってしまいました。そのイメージが強く、その後、比叡山下の坂本は気に入り二回行きましたが、比叡山に行こうとは思いませんでした。

DVD『新TV見仏記 ⑦ 比叡山・大津編』で見どころ沢山なのを知り残念なことをしたと思っていました。

トーハク『最澄と天台宗のすべて』は展示物が充実していました。音声ガイドを借りまして、最初はそうですね、なるほどと納得していましたが、後半には猿之助さんの解説の声に頑張りますと誓いを立てて観てきました。予約制のためしっかり観れるので嬉しいのですがこれまた大変なんです。いつもは人がいっぱいで資料的文字系はパスすることが多かったのです。

今回は最澄さんの直筆もしっかりみました。三筆の一人である嵯峨天皇の直筆にはその文字の空間のバランス感覚に驚かされました。(三筆・嵯峨天皇、空海、橘逸勢)

最澄さんは桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇時代にまたがって朝廷の変化する時代に僧として生きられ、桓武天皇に認められました。

同時代には空海さんがいて、二大天才が同時代に存在していたわけです。空海さんは文筆がすぐれていて、文人の嵯峨天皇に好かれました。

そして今回の『最澄と天台宗のすべて』を前に、最澄さんに関する本として『雲と風と』(永井路子著)、『最澄と空海ー日本人のこころのふるさと』(梅原猛著)を読みました。さらに、『週刊 古寺を行く 延暦寺 10』をながめ、DVD『比叡山延暦寺 行と教学の霊峰 』(NHK)をも観て、かなり事前に最澄さんと延暦寺には触れておきました。

それだけに最澄さんが生きておられたころの展示は確認的要素がありましたが、死後の天台宗の流れは知らないことが多かったのです。第一会場は確認で、第二会場では、全国に散らばっている天台の至宝を目にすることができました。

比叡山延暦寺は、新しい宗教家、栄西、道元、法然、親鸞、一遍、日蓮らを輩出した勉学、修行の場でもあるのをあらためて紐解けた感じです。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく 白河・会津のみち、赤坂散歩』で、「徳一」のところで、最澄と空海について書いてあり、そのことが頭にあって最澄という人を知りたいとはおもっていたのです。映画『空海』に少し登場しますが、最澄さんの映画はなく、宗教は解釈のこともあり難解で近寄りがたかったのです。とっかかりが見つからなかったので今回は最澄さんのことを知るうえで良い機会でした。

司馬さんの著書によりますと、僧・徳一は奈良の興福寺で学び、奈良仏教の堕落ぶりに批判的で会津で草庵を結び布教につとめ、慧日寺(えにちじ)という大きな寺を建て私学大学のようなお寺だったそうです。さらに、日本史上、最大の論争家としています。

徳一さんは、空海さんと最澄さんに論戦を挑むのです。最澄さんは真面目に論争に応じます。論争があまりに激しく、最澄さんの健康をむしばみ、死の遠因をつくったのではとまでいわれています。

「空海の場合、徳一の論争をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかさがうかがえる。」

この文章から、最澄さんのことが頭のどこかにありやっとすっきりしました。

ただこの論争は、最澄が記録していて後世にとっては大いなる幸いでもあると司馬さんはいわれています。

雲と風と』の著者・永井路子さんは、空海さんと比較しつつも最澄さんびいきのため、最澄さんの生真面目さが人が好すぎるとしています。会津の僧徳一との論争では、最澄さんの残された命の時間から、そんなことに時間をとられている場合ではないとやきもきしています。

最澄さんは、嵯峨天皇に東大寺での戒壇院での授戒だけでなく、延暦寺で修業した僧は延暦寺で授戒を受けれるように請願していたのです。最澄さんの後押しをするだけに、そんな永井路子さんの心情が読み取れて微笑ましかったです。願いが認められたのは最澄さんが亡くなったあとでしたから。

梅原猛さんのほうも客観的で、僧徳一との論争の長さはやはり最澄さんにとって法華経教学の理論を固めるうえで必要であったとしています。

徳一さんとの論争については展覧会では触れられてはいなかったとおもいます。(見逃していなければ)

沢山の仏像のなかでも楽しませてくれたのが十二神将立像(愛知・瀧山寺)の4体でした。その姿のポップさに、驚くやら、この仏師は異端児だったのだろうなあと感嘆しました。この仏像に関しては、みうらじゅんさんといとうせいこうさんの掛け合いの感想が聞きたいところです。

BS日テレの「ぶらぶら美術館」11月9日 夜8時 特別展『最澄と天台宗のすべて』の放送があります。展示物が多いのでどのように観られるのか、山田五郎さんのコメントもたのしみです。

展示会場では映像も多いです。制覇するためには最澄さんに劣らぬ真面目さと粘り強さが必要かとおもいます。

追記: 「東京国立博物館ニュース」によりますと本館14室で「浅草寺のみほとけ」を展示中(~12月19日)です。現在は聖観音宗ですが、中世には天台寺院としていて仏像13件17体を展示と書かれています。知っていれば観てきましたのに。期日的に観にいけそうですが。特別展では、国宝の『法華経』や『浅草寺縁起絵巻』も美しい状態で展示されていました。

追記2 深大寺の慈恵大師(良源)座像は巨大なのに驚きました。おみくじを始められたのはこの方とも言われています。加持祈祷の力もあったようです。

追記3 猿之助さんと春日太一さんの時代劇の映像の話面白かったです。猿之助さんとの共演者の演技に対する姿勢がよく語られていてさりげなく濃密な話を聞けました。監督・キャメラマン・スタッフの話も興味深かった。猿之助さんの冷静な分析力が冴えていました。

時代劇づくりの裏側のチケット情報 – イープラス (eplus.jp)(終了)