日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(五)

前説

気になっていったことがあります。

日本近代文学館の夏の文学教室での講義について書きましたが、明治の作家の作品から少し違う観点で明治を見られているとして別枠とさせていただいた講師のかたが5人いまして、まだ書いていなかったのです。(8月11日からの続き)

自分の中で上手くまとまらずどうしたものかとぐだぐだしていたのですが、ドキュメント映画『エトワール』を見て、力を貰いまして年内に自分のまとめ方で書いてしまおうと思い立ちました。思い立っただけではなく自分流に飛びますので、言っておきますが読まれるかたは時間を無駄にしたことに後悔されるとおもいます。

本題

ロバートキャンベルさんは『都会の中に都会ありー「銀街小誌」から読む明治の銀座ー』として、小誌や写真の資料があって、明治から大正、昭和への銀座の変遷を紹介されました。

たとえば、岡本綺堂「銀座の朝」(明治34年)によると、「夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑などの狼藉たる踏みて」が時間がたつと「六時をすぎて七時となれば、(略)。狼藉たりし竹も皮も紙屑も何時の間にか掃き去られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波を描きたる箒目の痕清く」となります。散乱したゴミが掃き清められ、その箒のあとが<青海波>なんです。清々しい銀座の商家前のようすです。

清々しさから、北村薫さんの『「半七捕物帳」と時代と読み』に飛びます。言わずと知れた『半七捕物帳』は岡本綺堂さんの作品です。江戸というのは、現代人とは相当違う環境のなかで生活していたわけで、闇とか、はだしの感覚とか、そういうことも愉しんで『半七捕物帳』を読んでほしいということだと思います。これは私の勝手な結論ですが、読んでいないので、読むとしたら個人的にそういうところを愉しみたいという想いなんですが。<青海波>ですからね。

北村薫さんと宮部みゆきさんの選んだ『半七捕物帳傑作選』もあるようですのでこの際読まなくてはです。

捕物帳といえば、会話も多いと思いますので、次は平田オリザさんの『変わりゆく日本語、変らない日本語』ですが、何が変わって何が変わらないのかメモからは推論できずです。

平田オリザさんは演劇の脚本を書いたり演出されたりしているかたですが、一作品も観ていないのです。平田さんなりの演劇論もあるようですがそれも把握していません。日本の演劇は近代からで、小説に比べると出足がおそいそうです。

面白かったのは、女性が管理職につくようになりましたが、男性の部下に対して何かやってほしい時、男性どうしなら命令口調でもいいでしょうが、そうはいかないということです。例えば、男性同士の上下関係なら「コピーとってくれ」でいいですが、女性の上司と男性の部下なら「コピーとってくれる」となるというようなことです。これからこうした関係に合う言葉が出来上がっていくのかもしれないということで、時代に合わせた言葉の変化ということでしょうか。

平田オリザさんの小説『幕が上がる』が映画になっているらしいのでこれは見たいです。見ます。

群馬に飛びまして、群馬在住の絲山秋子さんは『明治はとおくなかりけり』と群馬からの明治を話されました。榛名山の噴火で埋まってしまったものが、新幹線の工事で出てきたものがあり、明治の人は古代人を見ずに東武鉄道を見ていて、現代の人は東武鉄道がなくなっていて、明治の人を飛び越えて古代をみているという不思議な時間差について話されてもいました。

地方ではこれからも、電車路線の廃止で、どちらが新しいのか古いのかわからない風景となるところもあるでしょう。

群馬の代表的な文学者、山村暮鳥さん、萩原朔太郎さん、土屋文明さんでしょうが、群馬の文学館は離れていて使い勝手が悪いと言われていましたが、そうなんですよ。

群馬に関しては、自分が飛びました。前から前橋にある前橋文学館に行きたかったのです。そこに萩原朔太郎展示室があるのです。前橋は群馬の県庁所在地なんですが、高崎からJR両毛線に乗り換えなければならず、ちょっと時間的ロスのあるところで、街の中心が、JR前橋駅から離れていて、上毛電鉄中央前橋駅からの方が近く、この二つの駅がこれまた離れているのです。どうも、生糸関連の事業主の力がつよかったためのではないでしょうか。

前橋駅から乗ったバスのなかが木でできていてこれは素敵でした。バスを降りてから文学館への道が広瀬川沿いの遊歩道でこれも気持ちよかったです。文学館のなかも充実していて、朔太郎が作曲したマンドリンの曲も流れていました。

萩原朔太郎賞があって、受賞者に講演を聞いたことのある町田康さん、荒川洋治さん、伊藤比呂美さん、松浦寿輝さん、小池昌代さんのお名前がありました。

萩原朔太郎さんの孫である萩原朔美さんの「朔太郎・朔美写真展」も開催されていました。

私のほうは、朔太郎さんの娘で、朔美さんの母である、萩原葉子さんの『輪廻の暦』を数日前読み終わったところで、『蕁草(いらくさ)の家』『閉ざされた庭』を読んでからかなり時間が経っての三部作目です。

ここから土屋文明記念文学館にいくには残念ながら時間的ロスがありすぎました。

最後は、橋本治さんです。『明治の光』はお手上げです。橋本さんは読んでいてもそうですが、一つのことに沢山の知識が合体します。そして、ご自分が違うとおもわれると、初めから自分で調べるかたで、伊藤整の『日本文壇史』が面白いというので読んでみたら面白くないので、自分で調べ始めたという方なのです。

橋本さんの著書『失われた近代を求めて』シリーズを読むと光が見えてくるのかもしれません。

橋本さんの『桃尻語訳 枕草子』は「春って曙よ! だんだん白くなってく山の上の空が少しあかるくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!」というはじまりです。でもしっかり、まえがきは必読しなければいけません。「いきなり本文なんぞをめくられると多分目を回す方が一杯あるでありましょうから、こうして前説がついております。」

橋本さんの場合の前説は深い意味があります。そして、よくこんな話しことばで通し続けて書けるものだと恐れ入ってしまいます。恐れ入ったところでお終いです。

というわけで、私といたしましては、とにかく何とかしようとしていたことなので不出来は承知の助ですが、これで年越しができそうです。

 

ドキュメント映画『エトワール』

ドキュメント映画『エトワール』(2000年)は、パリ・オペラ座バレエ団に初めて撮影を許可された映画だと思います。その後『パリ・オペラ座のすべて』(2009年)が公開されましたが、こちらは映画館で観ていて、練習風景や、バレエ団の組織としての運営や企画、団員との話し合い、団員の年金のことなど、知られざる様子がわかりました。そして、振付師や演出家の要求を次々クリアしていく過程もすばらしかったのです。

『エトワール』は、オペラ座バレエ団の5階級のトップがエトワールで、エトワールを中心に、その他の階級の団員の様子やコメントなど、団員の練習と本番が中心に撮られています。

パリ・オペラ座バレエ学校に世界中から試験を受けに来て、受かったものは一年間訓練をうけ団員への試験を受け、晴れて団員となります。とにかく競争に勝った者が残れる場所なのです。

バレエの踊れる年齢には限度があり、バレエ団の定年は40歳で、年金が貰えるようになっているようです。定年で退団する人も、この世界しか知らなくて他の世界のことは何もわからないが、まだやり直せる年齢よ、思っていたほど淋しくないわというかたもいました。

エトワールから指導する側になった人は、辞めて練習から解放され好きに生活していたら、半年くらいで筋肉が緩んであちこちが痛くなって関節炎もひどくなって、急に肉体を解放してはダメよともいわれています。年齢からくる骨の痛みは周りの筋肉を鍛えてカバーするのと同じように、毎日練習するのは、素晴らしい跳躍やステップ、柔軟性を表現してくれるその筋力を落とさないためでもあるのでしょう。

とにかくどの階級の団員も、単調な日常で、練習と舞台だけといってもよいような感じで、出演者に選ばれなければ誰かが故障したときの代役となるのですが、踊れることが生きているあかしとばかりにしっかりノートして自主練習し、踊ることしか自分のなかにはないといった人達です。それはそうだと思います。小さい頃から、このために遊びたいのも我慢して練習に励んできたのですから。踊ることが大好きな人達なのです。

パリ・オペラ座バレエ団は古典も新作も公演するので、イリ・キリアンさんやモリス・ベジャールさんも振り付けに来ていまして、こうして、ああしてというのをすぐ表現できる身体なのには驚きます。そして見ていてその完成度が楽しいのです。

実際の舞台では、衣装から見える素肌からは汗がにじみ出ていて、舞台から引っ込むと倒れてしまう団員もいます。トウ―シューズを履く前に足の豆にテーピングをして化膿止めに抗生物質を飲んだりと一回の短い出でも、踊ることが全てなのです。

何分か何秒のために長い練習時間があるのです。

エトワールも、エトワールになったからと言って上達するわけではなく同じ状態でエトワールになるので、その責任の重圧のほうが大きい場合もあり、今までの競争なり練習はそのための技術と精神力の両方のバランスを取って来た時間でもあるといい、バランスのとりかたが難しいと語ります。

同じメンバーでいる長い年月は、人によっては周りはライバルであり仲間であり、お互い深くは入り込まないし、孤独でもあり、時にはお互いがわかっているので信頼できる部分もあり特殊な狭い世界をかたち作っているとのこと。

そうした言葉を消してしまうほど、踊っているエトワールは、やはりエトワールの輝きに満ちていて映像であっても観る者を魅了し感動させます。

調べてみたら『エトワール』の後の『パリ・オペラ座のすべて』にも出てくる団員のかたも沢山いました。

二コラル・ル・リッシュ、マリ=アニエス・ジロー、オーレリ・デュポン、アニエス・ハテステュ、クレールマリ・オスタ、マニュエル・ルグリ、ウィルリード・モリスなど。

『パリ・オペラ座のすべて』は記憶部分が少なくなっており、『エトワール』から9年ほど経っているのでその変化を知りたく、もう一回みたいのですが、この時期ですからあきらめます。

『エトワール』は今年最後の映画の一本とします。凄く力を貰える映画でした。

来年の2017年には新しいドキュメント映画『パリ・オペラ座 夢を継ぐ者たち』が公開予定です。

 

国立劇場『仮名手本忠臣蔵』第三部(2)

天川屋義平内の場

「天川屋義平は男でござる」で有名な場です。歌舞伎では、商人の家族劇でもあります。

堺の商人・天川屋義平(歌六)は、使用人もやめさせ妻・お園(高麗蔵)も実家に帰します。幼い息子は少し気の抜けた丁稚・伊吾(宗之介)が面倒をみますが、幼いゆえ母を恋しがります。そこへ舅・太田了竹(錦吾)が何で娘を実家に帰したのか、それならかたちだけでも去り状を書けと義平にせまります。義平は考えたすえ退き状を書きます。立場によって<去り状><退き状>となるのが面白いです。<三行半(みくだりはん)>ともいいます。

この了竹が性悪で、去り状をもらったからは娘は自由の身、次の嫁ぎ先へ今日にもと自分の利益優先です。そんな後に今度は十手持ちがあらわれ、大星由良之助に頼まれ武器類を用意しているであろうとの取り調べで、長持ちをあけようとします。

ここからが義平が長持ちに座っての町人の意気地をかけた世間一般に知られている台詞となるのです。子どもを人質にとられ刃を向けられても「誰だと想う、天川屋義平は男でござる」と言ってのけ、さらに子どもを奪い取り、いっそ自分の手でと息子を殺そうとします。

そこへ、由良之助(梅玉)が現れ疑いをかけたことを謝ります。捕手は、義士の大鷲文吾(松江)、竹森喜多八(亀寿)千崎弥五郎(種之介)、矢間重太郎(隼人)の4人だったのです。由良之介の警戒心を見せる場でもあります。

義平の妻・お園(高麗蔵)は去り状を持ってやってきて、息子に合わせてくれと義平にせまりますが、義平はどうしても駄目だとお園が投げ返した去り状を突き返し、お園を外へ出します。今度はそのお園の持っている去り状を奪い取り、お園の髪を切って去る二人の覆面男にお園は悲鳴をあげ、義平が驚きお園を家にいれます。

そこへ由良之助が現れ、大鷲と竹森にやらせたことで、尼になれば嫁にはいけないであろうと時期を待つようにと去り状と切り髪を渡し、義平の働きに、義士の合い言葉を、天川屋にちなんで<天>と<川>にすると告げるのでした。

歌六さんの声と出の大きさ、啖呵の台詞の勢いで、義士を支える町人の心意気がでました。そして、由良之助の指図で行動する、義士の松江さんと亀寿さんのきびきびしてぬかりの無い動きと台詞が、種之介さんと隼人さんに一歩リードしていて舞台を引き締めました。

錦吾さんの了竹に強欲さがあり、わからずに翻弄されるお園の高麗蔵さんに自分で何とかしようとする一心さがあり、宗之助さんの丁稚に気の抜けたひょうひょうぶりが緊迫した場に変化をもたらしてくれました。

梅玉さんの由良之助の穏やかに落ち着いたたたずまいに、由良之助って、上演回数の多い場面では気づかなかった細かい所まで気遣いしているのだと、『仮名手本忠臣蔵』の別の一面を観させられました。

一転、二転する展開をはっきりみせてくれ、予想外の趣きある場面となりました。

最後の場面『十一段目』は、「高家の表門」「高家の広間」「高家の奥庭泉水」「高家の柴部屋、本懐、焼香」「花水橋引き揚げ」と流れていきます。

「高家の表門」では由良之助を筆頭に義士たちが集合していています。原郷右衛門(團蔵)、大鷲文吾(松江)、竹森喜多八(亀寿)がしっかりした佇まいと声量で脇をひきしめてくれます。團蔵さんらに続く松江さん、亀寿さんが心強く感じられる雰囲気になってきました。最後の力弥は女形の米吉さんで一同の中での幼さが出ていました。

矢間重太郎(隼人)、織部安平衛(宗之介)、赤垣源蔵(男寅)、織部弥次兵衛(橘三郎)、矢間喜兵衛(寿次郎)らによる、<天>とく川>の合い言葉の約束事。由良之介の梅玉さんが陣太鼓を打ちます。この打ち方は、来月の歌舞伎座『松浦の太鼓』につながります。

「高家の広間」は、高師泰(男女蔵)と力弥の立ち廻りと茶坊主(玉太郎)と矢間重太郎との立ち廻り。

「高家の奥庭泉水」は、和久半太夫(亀蔵)と千崎弥五郎(種之介)の立ち廻りがあり、うちかけをとって小林平八郎(松緑)が現れ、竹森(亀寿)との気合の入った雪の庭での立ち廻り。竹森足が滑って池に落ち、はい上がって来るのを小林は討とうとしますが、邪魔が入り、池より上がった竹森に切られ、織部弥次兵衛の槍で自らの脇腹を突き死闘のすえ倒れます。

「高家の柴部屋、本懐、焼香」は、柴部屋から矢間重太郎と千崎が師直を見つけ出し、切り付ける師直を由良之助が討ち取ります。

亡君の位牌の前に師直の首級(しるし)を供え焼香しますが、一番は初太刀として矢間重太郎、二番は不憫な最期を遂げた勘平の代理の勘平の義理の兄・平右衛門(錦之助)とし、その他の代表として由良之助が焼香し、かちどきの声をあげます。

「花水橋引き揚げ」は舞台正面の丸くカーブした橋の奥から義士の面々が姿を現します。そこへ、若狭之助(左團次)が現れ、由良之助と対面。由良之助は本懐を遂げたことを報告します。若狭之助は自分も師直から恥辱を受け、もしかすると自分が判官の立場であったかも知れぬと礼をいい、それぞれの名前を聞きたいと申し出ます。

ここから由良之助をはずして四十六人一人一人の名乗りとなります。これは時間がなければできない場面と思いますが、三ヵ月間、この『仮名手本忠臣蔵』に携わった人々の代表でもあり良い場面でした。

四十七士が橋の前で並んだ姿はまさしく民衆が歓喜した浮世絵のような立ち姿で、判官の菩提寺光明寺へと花道をゆうゆうと去っていくのでした。

芝居では場所を江戸から鎌倉にしていますので、両国橋は花水橋となり、泉岳寺は光明寺となるわけです。

若狭之助の左團次さんが、扇を上げ目出度い目出度いといいます。最後に由良之助の梅玉さんそれを受け静かに花道へと入っていきます。というわけで、目出度く幕となりました。

さて、こういう企画はいつになりますか、もう個人的にはお目にかかれないでしょう。幾つかの場面は観れるでしょうから、その時は、今回の役者さんたちが、どんな役をされるのかを楽しみにしておくことにします。

長く伝えられてきた作品は台詞も練り上げられ、重要な台詞が沢山あり、その配分のしかたが大変であることもわかりました。こちらを重くするか、いやこちらかなど、迷路のような感じもします。

来年の新たな出会いを楽しみに、お芝居はこれにてチョン。

 

国立劇場『仮名手本忠臣蔵』第三部(1)

三カ月続いた忠臣蔵も終わりの月となりました。三ヶ月に分けてということでしたので上演時間にもゆとりがあるためでしょうか、ラストは、浮世絵に出てくるような引き上げの場となりました。

道行旅路の嫁入り

加古川本蔵の妻・戸無瀬(魁春)と娘・小浪(児太郎)が、許婚の大石力弥のもとへ行く旅路です。舞台の後ろの背景と竹本を聞いていますと、東海道を使って京の山科へとむかっているようです。詳しく知りたいので上演台本を購入しました。

松並木から富士山の姿となり、薩埵峠(さったとうげ)、三保の松原、駿河の府中、鞠子川、宇津の山、島田、吉田、赤坂、琵琶湖の浮見堂、庄野、亀山、鈴鹿越え、土山、石部、大津、三井寺、山科へと、こんなにたくさんの宿場名がでていました。富士山からは煙が出ていたころのようです。

この舞踊は観かたを誤っていたのかもしれません。次の『山科閑居の場』での内容が頭にあって、『道行旅路の嫁入』も悲劇的に捉えてしまいますが、まだ先の運命はしらないのですから、もうすこし愉しむ気持ちで受け取ったほうがよいのかもしれません。

小浪の児太郎さんは力弥に会えるのですから嬉し恥ずかしで振りも一生懸命です。戸無瀬の魁春さんは歌右衛門さんの面影が垣間見られましたが、義理の母親ということもあって責任感のためか老けた感じでした。反対にここは生さぬ仲の娘と、旅で出会う様々なことを楽しむということでもいいのではないかとも思いました。

そして『山科閑居の場』できりっと母の腹を見せるというかたちで、その想像できなかった変化と闘う姿として強調されてもいいような気がします。<限りある舟急がんと、母が走れば娘も走り>のところが戸無瀬について走る小浪も可愛らしく一瞬たのしかったので、『道行旅路の嫁入り』の台本の全体像から考えて、娘のための旅で初めてこころが通い合う時間とも考えられました。

自分の中でも、もう一回考え直したい作品の一つとなりました。

師走に舞台での思いがけない東海道中の再現に出会い、友人の個人的事情から鈴鹿越えは残っていますが、東海道中の今年の締めとなりました。

山科閑居の場

<雪転し>から始まりました。祇園から一力の女将(歌女之丞)等を連れて山科の自宅に帰る由良之助(梅玉)、大きな雪の玉を転がしつつのご帰還です。むかえる妻のお石(笑也)がお茶をだすと無粋と言われます。せっかくの酒が覚めるということですが、栄西が二日酔いの源実朝にお茶を出したのいわれを思い出しました。

<雪だるま>といえば胴とその上に乗せた頭で<だるま>となりますが、台詞に<雪まろめ>の言葉があり、コロコロ転がしていくうちに大きな雪の玉となることをいうのですね。素敵なことばです。

その雪まろめに対して由良之助は、力弥(錦之助)に何と思うかと聴きます。この由良之助と力弥の問答、さらに、この場の終焉に大きな意味を持って雪まろめは出現するのです。

戸無瀬(魁春)と小浪(児太郎)大石宅に到着です。戸無瀬はどんなことがあろうと小浪を力弥に嫁がせる覚悟です。それに反しお石はつれなく力弥に代わって去るとしてその場を立ち去ってしまうのです。戸無瀬の帯に差した扇子が真ん中にあって、これは、主人本蔵に代わってという意味で刀を持参していて、その刀を差す場所をあけているということなのでしょう。

残された戸無瀬、義理の母ゆえかと自刃を決意し、小浪は力弥に捨てられては生きて行けぬと母の手で死にたいと申し出ます。ふたりはお互い納得し、母は娘に刀を振り上げます。今回嬉しかったのは早い段階で自分の耳が虚無僧の尺八の音をとらえたことです。気にせず舞台に集中していたのですが、ふーっと音が入ってきたのです。「やったー!」です。

「御無用」と二回声がかかり、戸無瀬は虚無僧の尺八の音かと戸惑いますが、止めたのはお石でした。二人の心意気に免じ祝言を許すというのですが、差し出す三方へ本蔵の首が欲しいというのです。

凄い展開です。主君塩冶判官が本懐を遂げられなかったのは本蔵が止めたからで、そんな男の娘と力弥をそわせられるかということです。

そこへ虚無僧に身を変え尺八を吹いていた本蔵(幸四郎)が現れ、お石を愚弄しお石は槍をとります。しかし女の身にて本蔵にあしらわれてしまいます。母を助けるため力弥が飛び出し本蔵に向かいます。ところが、本蔵はここぞとばかり、力弥の持つ槍で自分の脇腹を刺すのです。

幸四郎さん、現れた時から悪役のような憎憎しさの大きさを見せ、自ら引きつけた死を由良之助の梅玉さんは見抜いており、初めて本蔵は誰にも語らなかった本心を由良之助にあかします。そして、せつせつと小浪に対する親心となります。自分の死をもって娘の倖せを願う塩冶側から恨まれている親子の情をここでは描かれているのです。

力弥がサァーと障子をあけると、そこにはあの雪まろえが二つの五輪塔となっていました。力弥が日蔭に作り置いたのです。由良之助は力弥に言いました。< みな主なしの日蔭者。日陰にさえ置けばとけぬ雪 > 良い台詞が散りばめられています。

本蔵は嫁の親として信用されたことを喜び、婿への引き出物として師直の屋敷の地図を渡します。さらに身内として心配する本蔵に力弥は雨戸を外す工夫をみせます。ここは大石家と加古川家の縁戚となった特殊な交流でもあります。そして由良之助は、力弥に一夜の暇を与え、一足さきに虚無僧姿で堺へ向かうのです。

この段は、大きな武家社会の流れのなかで、加古川本蔵の娘が力弥の許嫁であったという設定によって、主役である大石家と加古川家の家族劇となっています。そうすると、勘平がおかるの実家に落ちたことで、こちらは貧しい田舎の猟師の家族劇ともいえ、山科は武士の家族劇をあらわしているととれます

火花散る場面の多い山科ですが、お姫さま役としての印象が強い笑也さんのお石には驚きました。風格は無理としても芯のあるお石で、新境地を開拓されました。錦之助さんの力弥、隼人さんの力弥とは違う芸による若さの力弥で、小浪の初々しさに負けぬはじらいと仇討の一途さをあらわされていました。児太郎さんは、国立劇場と歌舞伎座での大役に押しつぶされることなく頑張られ、充実した師走となられたことでしょう。

『仮名手本忠臣蔵』三部の中心的九段目を、魁春さんは義理の身の複雑な心境をあらわし、梅玉さんは短い出でその腹の内をおだやかに静ひつに出され、幸四郎さんは、武士のたたずまいと風格を崩さずに主君に仕える身と、一人の親としての情愛の変化を起伏をもってあらわされ、この段の見どころをささえられました。

 

歌舞伎座『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』の二回目

参りました。良い意味でこんなに変わってしまうのかと。

先ず席に座り、あれっ!と思ったのが緞帳です。緞帳に<LIXIL>とあり、私が京橋のギャラリーで見た和紙展はこの「LIXILギャラリー」だったのです。

舞い扇も和紙からできています。紙は折ると折り目がついて閉じたり開いたりします。布は折っただけでは折り目がつきません。

一度目の『二人椀久』のとき、花道での舞い扇が無地の裏表色違いに見えたのですが、椀久と松山のときは金の三日月のような絵が入っていて、二人でその扇を眺めるのですが、扇に月夜が映っているような感じで、これは椀久が木に隠れたときに取り変えたのか、それとも、花道での扇を私が見誤ったのか、二回目はしっかり見定めようと思って見ましたら、前回と扇が違っていました。銀をちりばめたような模様が入っていて、今回はそれに合った雰囲気でした。

勘九郎さんの椀久には涙ぐんでしまいました。椀久は全く他の人が入れない世界の中にいました。前回もそれはありましたが、その非じゃありませんでした。自分だけの世界のなかで動きにまかせて自分のリズムで踊りつつ漂っているのです。

松山が出てくるのは決まり事でわかっています。今回は椀久に呼ばれて松山が出現するのだという事を教えられました。椀久に松山を出現させる力があったということです。椀久に呼ぶ力がなければ松山は出て来ないのです。言い方を変えれば踊り手に力がなければ松山は出てこないのです。

玉三郎さんの松山が静かにゆったりと現れました。それが当たり前のように。当たり前じゃないんですが当たり前であるということが大事なんです。上手く云えませんがそこは感じるしかないです。勘九郎さんが感じさせてくれたのですが。

そして二人だけの世界の中で、時には軽やかに楽しそうに踊ります。前回は、ちょっと待って、この踊りこんなに暗かったかなあと半信半疑だったのですが、そうですこの感じですとやっと、勘九郎さんと玉三郎さんの『二人椀久』として味わうことが出来ました。時間が経過すれば変わるとは思いましたが、こんなに満足でき堪能でき愉しめる世界になっているとは。やはり日を置いて二回観るにしておいて良かったです。

そして扇を二人で眺めつつ、玉三郎さんが、花びらを扇からつまんで飛ばすような仕草があり、扇の柄と関係しているのかなとも思いました。

現仁左衛門さんが襲名のおり<仁左衛門展>がありまして私が見ている時お弟子さんでしょうか、『二人椀久』の扇を今はこれではないのでと取り換えにこられたことがあります。「早く気がついてよかった」と安堵されていて、やはり踊っていかれるうちに踊りの世界と合うものを選ばれていくのかなと思ったことがありました。

書いていると、前回観た『二人椀久』も捨てがたくなります。こうやって、組む方によってその踊りの世界ができ上っていくのかと前回の踊りも、何かいとおしくなります。でもそれは、より作り上げられていく世界が上を目指しているからでしょう。

これが、玉三郎さんの若い役者さんや芸能者の育て方です。自分が愉しんで踊れたり演じたりできる世界まで引っ張て行き、その世界でゆうゆうと愉しんで踊られるのです。

松山を出現させた椀久、松山を愉しませることができたのか。勘九郎さん前回より松山を受け入れる態勢十分です。並んで背中合わせに座り、お互いの手が並びます。あの手重なるのであろうかと視ていましたら、お互いの肩と背が押し合いをしてそして手が重なりました。

ここは手が重なるところですから、ではないんです。お互いの心の流れがなす所作なんです。参った、参ったです。20日弱でこの世界になるのかと、椀久に連れられていった幻の世界でした。長唄もやはり素晴らしい。踊りと一体でした。

京鹿子娘五人道成寺』は、それぞれの持ち場が明らかになり、一人での『京鹿子娘道成寺』の踊りと重なって整理されあそこは、誰と誰が組んで、ここは玉三郎さんがということが浮かんできます。女子会はもちろん楽しかったですが、それぞれの踊りの輪郭がはっきりしてより立体感のある道成寺になっていました。

花道の出は七之助さんで花道のスッポンから勘九郎さんが出て二人で踊り、勘九郎さんが消えて七之助さんが所化との問答へ。所化の亀三郎さん、萬太郎さん、橘太郎さん、吉之丞さん、弘太郎さん等が声もさわやかに白拍子花子の美しさを楽しんでいました。

烏帽子を受けとり、そこからは玉三郎さんです。烏帽子も和紙で出来ているのではないでしょうか。赤の衣装から薄桃色の衣装に引き抜きされて、本舞台が玉三郎さん、勘九郎さん、七之助さんで花道に梅枝さんと児太郎さんと。児太郎さん、国立劇場との掛け持ちでした。

勘九郎さん・七之助さんと梅枝さん・児太郎さんが本舞台と花道の位置を取り換えます。そのあたりもさらさらと動かれて交替して綺麗です。

花笠踊りは児太郎さんで花笠も和紙なのではないでしょうか。恋の手習は玉三郎さんで、あの手ぬぐいの材質は何なのでしょうか。柔らかさからすると綿ではないでしょう。そんなことも気になりました。手ぬぐいの扱いが優しく美しく色っぽく品があり千変万化で、玉三郎さんにあやつられる幸せな手ぬぐいです。

羯鼓(かっこ)は息のあった勘九郎さんと七之助さん。そして、紺と紫の混ざったような衣装の梅枝さんが雰囲気を替え、引き抜きで白地になり、五人の鈴太鼓。前回はここが印象的だったのですが、それぞれ踊り込んできたからでしょう、そこまでの踊りにきちんと起伏が残り、やりましたねと語り勢いを付けつつ、さあー最後の仕上げにいきましょうかと暗黙の了解という感じで鐘入りに向かいます。女子会美しくて恐ーい。

鐘の上は、玉三郎さんと勘九郎さん、下の段差に七之助さん、梅枝さん、児太郎さんでした。ずっと愉しくて指で拍子をとりつつ観ていました。

休憩時間に久しぶりで舞台写真を見にいきましたが、皆さんいい表情をされていました。記念に玉三郎さんを真ん中に鈴太鼓を持って座っている微笑ましい娘五人の写真を購入してきました。

これで、勘九郎さんの椀久、玉三郎さんの松山、玉三郎さん・勘九郎さん・七之助さん・梅枝さん・児太郎さんの白拍子花子しっかり記憶の一ページに納めました。

頭の中で『京鹿子娘道成寺』の音楽と映像が断片的に回っています。

 

 

新橋演舞場『舟木一夫特別公演』

友人と暖かくなったら会いましょう、涼しくなったら会いましょうと言っているうちに一年が過ぎ、はや年末であります。今年のうちに会いましょうと、新橋演舞場での観劇となりました。

一、『華の天保六花撰 どうせ散るなら』 二、シアターコンサート

天保六花撰とは、河内山宗俊、片岡直次郎、三千歳、金子市之丞、暗闇の丑松、森田屋清蔵の六人のことらしいです。

歌舞伎では、河内山、河内山の弟分の直次郎、直次郎の情婦の三千歳、三千歳を想う市之丞、直次郎の弟分の丑松といった関係で登場しますが、今回の芝居は全くそれにこだわらず、6人が、自分たちの面白いと想う生き方をしようという無頼の徒のお話しです。筋書は市之丞が考えます。

金子市之丞(舟木一夫)、河内山宗俊(笹野高史)、片岡直次郎(丹羽貞仁)、森田屋清蔵(外山高士)、三千歳(瀬戸摩純)、丑松(林啓二)

市之丞の道場に、宗俊がある藩の家老・北村大膳(小林功)を案内してきます。「さあ、さあ、さあー」と。笹野の<ささ>と音をかけているらしいのですが、こちらは、出始めから河内山が北村大膳を案内してきてどうするの、「ばかめ!」はこの芝居にはないのであろうかと思いました。そこは齋藤雅文さんのこと、これが上手く回っていくのです。

北村大膳は松江藩の家老で、その松江藩のお殿様(真砂京之介)相手に、河内山は高僧に化けて直次郎の許嫁の腰元・おなみを助けに行くのですから。河内山は行きたくありません。河内山は市之丞にぼやく、ぼやく、超ぼやくです。すでに大膳に顔は知られていてウソが発覚する確率は高く、ウソとわかると命は無いものと思ったほうがよいのです。

河内山ぼやきつつも、知恵者の市之丞から人差し指を一本出されたり、「ご老中」とのヒントをもらうと、まあ弁の立つこと、見得まで切ってしまいます。笑ってしまいます。

笹野さんが河内山宗俊をすると聞いたら、勘三郎さんはきっと「え!」と言って面白がったことでしょう。「あなたが演るなら、私も演りますよ。その時は観に来てくださいよ。」と言われたとおもいます。

河内山は市之丞の作戦通り「ばかめ!」とのたまって花道を去ります。なるほどこうくるのかと流れの自然さに拍手です。

もうひとつ大きな人の情の流れがあります。直次郎の母(富田恵子)が、田舎からでてきます。直次郎は母に殿様になっているとウソをついており、市之丞の発案で天下の影の実力者である中野石翁(里見浩太朗)の別宅を拝借するのです。この直次郎親子と市之丞に生じる情愛。

そして、勝手に屋敷を拝借したことが石翁に知れてしまいます。筋を通す市之丞と石翁との心に通う後戻りできない人の世。家斉の死によって石翁は権力が失墜し老中水野忠邦の改革の時代で、そばに仕えていた者が忠邦の実弟で(田口守)屋敷には捕り方が。

石翁の中に自分と同じ無頼をみた市之丞は死に場所をみつけます。そして、そこには、河内山と丑松もいました。空には守田屋の上げた花火が大きな音をたてます。

最後の<どうせ散るなら>の立ち廻りは圧巻です。久しぶりに時代劇映画の実践版を楽しめました。捕り方の六尺棒の扱いに動きがあり、そろって床に倒す音もきまり、舟木さんも美しくきっちり受けを決められ殺していきます。

市之丞と石翁の場面も、時代劇の良き時代の空気が漂い、時代劇ファンにとっては、見る機会の少なくなってきた風景の生の舞台と思います。今の若い人たちの殺陣とはまた違った息があります。

笑いあり、涙あり、立ち廻りあり、豪華な舞台装置と、若い人では出せない芝居となりました。

ピンポイントで面白いこともありました。直次郎の母が、直次郎の座っている椅子を、和尚さんの座るような椅子に座ってというのですが、まさしくで、台詞細かいと思いました。京橋のギャラリーで和紙展をみてきましたので、舞台の行灯、唐紙、障子、市之丞が盃を拭く<和紙>の果たす効用などにも目がいきました。

流れる音楽にも注目です。

作・齋藤雅文/演出・金子良次/その他の出演・伊吹謙太郎、川上彌生、近藤れい子、真木一之

二、『シアターコンサート

こちらは、あっけにとられていました。どうしてこんないい声がでるのであろうかと。友人は高橋真梨子さんのファンなのですが、舟木さんの歌を聞いて、コンサートのあと「これは相当訓練しているわよ。それでなかったら、芝居のあとにあんな声出ないわよ。舟木さん歌い方変えたわね。舟木さんは音を長くつなげる歌い方で、こんな響きのある歌い方ではなかった。もともとじょずな人だけど、今の歌い方のほうがいい。」といっていました。

私は柳兼子さんの「みなさん、年を取ると歌えなくなるのではなくて、歌わなくなるんでしょ」の言葉を思い出しました。

舟木さん歌の途中でトークしてくれましたがよく覚えていません。A面とB面のとき、A面はこういう流れでいこうという指針があっての曲が多いですが、B面はそれに比べると結構その流れでないものがあって面白いものがあるとそんなことを話されていました。

コンサートも重くならずに、流れがよく声の響きを愉しませてもらっているうちに終わってしまいました。歌って芝居より儚いものですね。

友人も行きたいとは言ってくれましたが、暮れに時間をとらせて満足してもらえなかったらどうしようと案じましたが、愉しんでくれてホッとしました。私も、齋藤雅文さんの舟木さんとの三部作見れたので、一丁上りです。

友人がこんなことも言ってました。「里見さんは流石の貫禄ね。でもいつも変わらないのよね。この方、天狗にならないのよ。」言われてみるとなるほどと思いました。

かつての時代劇映画見始めると止まらなくなります。年末には厳禁です。

 

東京国立博物館『禅 心をかたちに』 映画『禅 ZEN』

11月27日に終わってしまった国立博物館での特別展の『禅 心をかたちに』へ行ったのですが、捉えどころがなくて書きようがなく気にかかっていたのです。

劇団民藝『SOETSU 韓くにの白き太陽』の登場人物、浅川巧さんの映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)から高橋伴明監督の映画『禅 ZEN』が出現。勘九郎さんが勘太郎時代の映画で、今は観たくないの枠に入っていたのですが、特別展の『禅 心をかたちに』がぼやけているので見ることにしました。

宗教家の伝記映画は、命をかけて修業をし仏の教えを受けて伝導するもので、ほとんど泣かされてしまうパターンとしてわかっているので避けていたのですが、少し解りやすい形で禅を伝えて欲しいとの想いもあったのです。

特別展の『禅 心のかたち』は臨済宗とその流れをくむ黄檗宗(おうばくしゅう)で、京都の萬萬福寺へ行った時には聞きなれなかった黄檗宗がわかりました。萬福寺はJR奈良線黄檗駅から近いので行きやすいお寺で、山門も建物も中国風でお腹の大きな布袋像があって<まんぷく>と重なって親しみやすさがあります。

東博にも来られていましたが、羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)像は、お腹のなかを手でばーっと引き裂いて見せていまして、中に仏さまの顔があり、自分のなかに仏がいるのだということを示しています。最初みたときは驚きます。この黄檗宗は江戸時代に中国から伝わっています。

禅宗が中国から伝わり広まるのは鎌倉から南北時代で京都五山といわれていますが、南禅寺はその五山の上の別格で、そういう意味でも石川五右衛門と南禅寺の山門には劇中の権威に対する思惑が含まれています。この件、かなりしつこいですが。

臨済宗での功名な祖師たちの肖像や肖像画などが多くありましたが、そのあたりはよくわかりません。書や教本などもさらさらとながめました。一応音声ガイドは借りたのですが。

禅のはじまりは<達磨(だるま)>です。インドから中国に渡来します。雪舟さんの絵には、座禅する達磨に自分の腕を切り達磨に入門を願う僧の絵がありました。国宝です。たとえ腕がなくなったとしてもという決意をあらわしているのでしょうが、白隠さんの絵のほうがユーモアがあっていいです。

白隠禅師は日本臨済宗の教えを完成させた祖といわれているんですが、殴り書きみたいに多くの禅画を描かれていて人気のあるかたです。大きな顔のみの達磨の絵。「富士大名行列図」には、<参勤交代は庶民を苦しめる浪費>と書かれてありまして、ユーモアがあるのに鋭さもあります。

臨済宗の祖は、中国唐代の臨済義玄(りんざいぎげん)で、絵によると恐ーいお顔をされています。「喝(かつ)!」と一声を発した荒っぽさもあったとか。

気に入った禅僧の肖像画は、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)さんです。出世をのぞまず質素な生活をされたそうで、その姿絵は、右腕を挙げた手は頭頂にあてられ熊谷直実の花道での嘆きの姿ですが、直実とは違って、こまったなあ本当に絵にするのといった感じです。座っている椅子は節だらけで、下に置かれている沓はわらでできているようです。<こころをかたちに>がわかりやすい絵姿でした。

こんなのもありました。源実朝が二日酔いのとき、栄西(ようさい)が茶と「茶徳の書」を献上したという逸話があると。

源実朝を暗殺し、三浦一族に殺されてしまうのが実朝の甥の源公暁ですが、この公暁が映画『禅 ZEN』の道元の友人として出てくるのです。となるとなんとなく時代はわかるとおもいます。さて、映画のほうに移ります。

道元は禅宗のなかの曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖です。

原作が小説なので、史実のほどはわかりませんが、道元にとって、公暁はいつも心のなかにいたことがラストでわかります。流れの筋はわかりやすく流れています。道元は留学僧として中国の宋に渡ります。そこで自分が教えを受けたい師をもとめついに巡り合い悟りをひらきます。

日本にもどり自分の学んだ禅宗の布教を共に修業した僧とはじめます。さらに宋で公暁と似ていて、道元が公暁!と呼びかけた僧も日本に渡ってきてくれます。ただひたすら、座禅による修行です。そして、そのままを受け入れる修業でもあります。

布教が広まると比叡山の僧に迫害を受け、越前に移りそこでつくられたのが永平寺なのです。生活のために身を売る女との問答、時の天下人・北條時頼との問答など、勘九郎さんの道元は台詞に落ち着きと信念があって涼やかです。時頼に鎌倉に残るようにいわれますが、越前の小さな寺が自分の場所であるとしてことわります。

台詞の声を聞きつつ、勘三郎さんの響きが時々あり、そのへんで押さえておいてと思いました。勘三郎さんの響きが多くなると、動きが違ってくるような気がするのです。自分の領域を多くしておいて欲しいです。『二人椀久』も『京鹿子娘五人道成寺』もこの道元の静かな表情が基本でいいのかもしれません。

座禅の時へその前で手のひらを上にむけて両手を重ね、親指の先を接する印相は禅定印(ぜんじょういん)といい、その空間に仏さまがいるのでそうです。子供が手のひらを毬を上と下ではさむような形にしていて、「それは違いますよ」と注意されるのですが、「雨が降っていますから」といいます。そこには小さな道元がいました。

人の進む道はそれぞれの空間に生じるわけで、それぞれの修行の道です。到達点はなく、とどいたと思ったらまた進まなくてはいけないのです。

体験しましたが座禅をして無になるのは大変です。感じて考えてあちらにふらふらこちらにふらふらしているのが今はいいです。

なんとか<禅>もつたないまま終わらせられました。

監督・脚本・高橋伴明/原作・大谷哲夫(「永平の風 道元の生涯」)/音楽・宇崎竜童、中西長谷雄/出演・中村勘太郎(現勘九郎)、内田有紀、藤原竜也、テイ龍進、高良健吾、安居剣一郎、村上淳、勝村政信、鄭天庸、西村雅彦、菅田俊、哀川翔、笹野高史、高橋恵子

 

 

劇団民藝『SOETSU 韓(から)くにの白き太陽』

<SOETSU>(そうえつ)というのは、柳宗悦さんのことです。正確には<やなぎむねよし>ですが<そうえつ>と呼ばれることのほうが多いとおもいます。民藝運動に力をいれたかたで、私的には「名もなき人々のつくった生活のための工芸品の価値を高めた人」との認識で、宗悦さんの本は難しそうで読んでいません。

私が三回足を運んだ世田谷美術館の『志村ふくみ展』の志村ふくみさんは、第五回日本伝統工芸展に<秋霞>を出品して宗悦さんから破門されています。「民藝を逸脱し、個人の仕事をした」ということなんですが、友人にいわせると、二人の子供を抱えているんだもの、可能性も見極めて自由にしてあげたんじゃないのかなという意見で、破門されたことによって個人としての名前を出して突き進む道ができたということでもあります。

柳宗悦さんは『日本民藝館』を設立する前に、韓国に『朝鮮民族美術館』を設立開館させています。その時代は日韓併合の日本が朝鮮総督府をおいて朝鮮を統治している時代で、朝鮮の独立運動の三・一などが起こった時代でもあったのです。そういう時代に宗悦さんは、朝鮮の人々が日常に使われている食器や膳、中国の青磁とは違う白磁の壺などに<美>を感じてそれを残そうと行動するのです。

作者は長田育恵さんで、井上ひさしさんに師事された時期がありました。様々な人々と交流のあった宗悦さんですから全体像は難しいですが、その中でも時代的に日韓併合時代に焦点を合わせられ、この時代をよく判らない者としては、少し時代の裂けめを感じることができました。

登場人物が、柳宗悦、宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、宗悦の書生の南宮璧(ナングンビョク)、浅川巧・浅川伯教(のりたか)兄弟、宗悦の妹・今村千枝子、総督府の役人である千枝子の夫・今村武志、宗悦と同じ学習院出身の軍人・塚田幹二郎、斎藤実総督、宗悦が朝鮮で定宿とした女将・姜明珠(カンミョンジュ)、明珠の養女やその婚約者の独立運動家などで、それぞれの思惑が交差します。

朝鮮総督府は三・一独立運動で威圧的な武断政策から、文化政策に変更します。そうしたなかで宗悦さんは周囲の協力のもと『朝鮮民族美術館』を設立して朝鮮の民藝を残そうとします。朝鮮の人からは、文化政策の懐柔的戦略の一つに過ぎないとみなされたりもしますが、残すことに意味があると開館までこぎつけるのです。

宗悦さんの奥さんである兼子さんは資金集めのため、朝鮮でコンサートを開いたりして経済的に宗悦さんを助けます。

千葉県我孫子市に『白樺文学館』があり訪れたことがあるのですが、この地は白樺派の武者小路実篤さんや志賀直哉さんも住んだところで、『白樺文学館』近くの志賀直哉邸宅跡には書斎部分が残されています。『白樺文学館』には兼子さんが使われていたピアノがあり、地階は音楽室になっていて兼子さんの歌曲が流れていました。その時購入したCD(「柳兼子 現代日本歌曲選集 第2集 日本の心を唄う」)のなかには、80歳すぎてから録音されたものもあり「みなさん、年を取ると歌えなくなるのではなくて、歌わなくなるんでしょ」といわれています。

宗悦さんが我孫子に住まわれたのは叔父の嘉納治五郎さんの勧めがあってなのです。プーチン大統領の日本人で尊敬するひとの嘉納治五郎さんが叔父さんだったとは。本通りから狭い坂道を入ったところに、宗悦さんの住まわれて三樹荘跡があり、敷地内は非公開ですが、その前にある嘉納治五郎別荘跡は緑地となっていて入れたとおもいます。

浅川巧さんは、甲府にある山梨県立美術館に行く途中で大きな映画の案内があり、韓国との友好を成した人のようで、ここの出身のひとなのだと思ってそのままにしていたのですが、芝居をみていて、このかたかなと思って調べましたらそうでした。映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)。

朝鮮の山が伐採だけで、植林されないのを何とかしたいとしていて、兄の関係から宗悦さんと巡り合い、朝鮮白磁の収集に協力します。そして韓国で骨を埋めます。

日本人に好意的な宿の女将との交流などが続く中、時代の流れの中で、人の想いにも変化がおこります。そうした経験を経てその後の日本での民藝運動の柳宗悦へとつながっていくのだと暗示させられます。

宿の女将・姜明珠の最後の宗悦に対する詞が本心だったのか、子どもをかばうための言葉だったのか、それとも両方だったのかが観客の自分のなかではっきりしませんでした。

朝鮮王朝は朝鮮の人民に不当な扱いと貧困の苦しみを与えていたようですが、それを救うとしてその国の生活の美しさを壊してはならないという想いが柳宗悦さんを動かしたのでしょう。そんな宗悦を篠田三郎さんは、ひょうひょうとしながら言いたいことは主張して突き進む意志の強さをあらわしました。実在のかたははっきり見えてくるのですが、フィクションであると思われる人物は、今回は時代と異国ということもあって演じるのに苦労されたように思われました。

別々にそれぞれの生き方で芝居一本出来てしまうような登場人物をなんとか宗悦でつなげたことの大変さには敬服します。

作・長田育枝/演出・丹野郁弓/出演・柳宗悦(篠田三郎)、柳兼子(中地美佐子)、姜明珠(日色ともゑ)、浅川巧(齊藤尊史)、浅川伯教(塩田泰久)、今村武志(天津民生)、今村千枝子(石巻美香)、南宮璧(神敏将)、塚田幹二郎(竹内照夫、斉藤実(高橋征郎)etc

日本橋・三越劇場 12月18日まで

 

工藝に関してはこれでお終いかなと思っていましたら、『21世紀鷹峯フォーラム』(第二回)というのをやっています。ガイドブックを高倉健さんの追悼特別展で手にしたのですが、100の連携、300におよぶ工芸イベントがのっていて驚きです。

もちろん「日本工藝館」ものっていますが、<創設80周年特別展 柳宗悦・蒐集の軌跡>は11月で終わっています。このフォーラム、2016年10月22日~2017年1月29日までですが、無料のギャラリーもあって、日本の工藝をあらためて愉しむことができます。残念ながら終わったところもあってもう少しはやく知りたかったと思うものが沢山ありました。これは来年までつながります。

追記: 映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)みました。国家間が政治的に争っている時でも、芸能、芸術、文化はひっそりと、時には凛として光り輝いているのが素晴らしいですね。知らなかったことを教えてくれる演劇、映画の力も素晴らしいです。

 

『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』

樋口一葉さんの『大つごもり』のようにお金の拝借はしないで年はこせそうですが、時間はどこからか盗んできたいところです。

見なければよいのに『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』の録画をみてしまったのです。やはり面白かったです。かなり時間がたった舞台ですので、現在入りの良い舞台などの比較としても面白い現象の変化がみれます。

一番見落としていて今回驚いたのは『恋ぶみ屋一葉』の脚本が齋藤雅文さんであったということです。こういう物も書かれていたのだと新しい発見でした。

録画の『頭痛肩こり樋口一葉』は1984年の「こまつ座」旗揚げ公演です。

脚本・井上ひさし/演出・木村光一/出演:一葉・香野百合子、母の多喜・渡辺美佐子、妹の邦子・白都真理、母が奉公していた旗本稲葉家のお嬢様のお鑛・上月晃、父の八丁堀同心時代の隣組の中野八重・風間舞子、幽霊の花蛍・新橋耐子

樋口家の明治23年から明治31年のお盆までの出来事としています。お盆としているのは花蛍という記憶喪失の幽霊が登場するためでもあります。あの世とこの世の世界を同じ次元としていて、そこには悲しみはありません。ここが井上ひさしさん独特の構成でもあり、樋口一葉という若くして亡くなった悲劇の女流作家を悲劇にはしないで笑いを起こして描き表わしているのです。それでいながら一葉さんが伝わってきます。

江戸から明治維新を上手く乗り越えられなかった旗本や下級武士の生活。吉原での源氏名が花蛍という幽霊の怨みがめぐりめぐって一葉をも通過して中島歌子から皇后さまにまでいたる人の気持ちの影響力。一葉の作品の登場人物と同じ生き方をしてしまう重なりぐあいなど味わいどころは一杯なのです。

旗揚げ公演ということもあってか、動きが大きく、歌も入るので、それまでの新劇の枠を超えていて、観客の笑い声が大きいのです。この飛んだり滑ったりの観客を笑わせ入場客を一杯にする今の演技術につながっています。ところが、この作品はその後、動きよりも聞かせどころに移行していきます。私が観た範ちゅうではということですが。

2000年新橋演舞場の新派公演。

演出・木村光一/出演:一葉・波野久里子、多喜・英太郎、邦子・紅貴代、稲葉鑛・水谷八重子、中野八重・長谷川稀世、花蛍・新橋耐子

2009年浅草公会堂

演出・齋藤雅文/出演:一葉・田畑智子、多喜・野川由美子、邦子・宇野なおみ、稲葉鑛・杜けあき、中野八重・大鳥れい、花蛍・池畑慎之助

新派は動きを押さえ、当たり役の新橋耐子さんの幽霊の動きを際立たせるという感じで、浅草は新橋耐子さんの当たり役に挑戦した池畑慎之助さんが、踊りの訓練をしているしなやかな動きで幽霊の動きを見せるというところが印象的でした。さらに浅草公会堂での舞台装置が、菊坂の借家の路地の階段をあらわし、菊坂の雰囲気充分でした。

1984年の時、笑い満載だったものを、その後は、一葉さんの作品と重なることが伝わるようなゆったりさをもたせていました。同じ作品で登場人物や演出、舞台装置、音楽などで違った印象を与えるものです。録画のほうは、脚本も読んでいてみたので、笑いも作品の重なる部分もたっぷり堪能でき、井上作品が当時新しい風をおこしたであろうことが十分理解できました。

浅草公会堂で井上ひさしさんをお見かけしたのが最後のお姿となりました。講演会などでのユーモアがあって深いお話も聞くことが出来なくなり時間は過ぎていきます。

恋ぶみ屋一葉』は1994年に読売演劇大賞最優秀作品賞を、杉村春子さんが大賞と最優秀女優賞を受賞されています。

作・齋藤雅文/演出・江守徹/出演:杉村春子、杉浦直樹、藤村志保、榎本孝明、寺島しのぶ、英太郎

杉村春子さんが、88歳のときです。何がそうさせるのかという激しい動きもないのに可笑しいのです。笑いつつふっと今のどこが可笑しかったのかと疑問視しているのですが、わからないのです。間なのでしょうか。弦に触れて出る音がかすかなのに微妙にその違いが苦労なくとらえさせてくれるのです。構えていなくても伝えてくれるのです。ドタバタにしなくても伝わる可笑しさ。こんな女優さんはもうでてこないでしょう。

脚本もよくて、登場人物が思いもしなかった巡り合わせとなり、そこに『シラノ・ド・ベルジュラック』のように、恋文の代筆がからんでくるのです。

尾崎紅葉の門下生である前田奈津(杉村春子)は、一葉のような女流作家を目指しますが、今はあきらめて下谷龍泉寺町で吉原の遊女などの手紙の代筆業をしています。紅葉門下の後輩である加賀見涼月(杉浦直樹)は売れっ子小説家となっていて、二人は文学の話しも通じるよい距離感の仲なのです。涼月はかつて芸者の恋人・小菊(藤村志保)との仲を、師の紅葉に裂かれてしまい、小菊は川越にお嫁にゆき若くして亡くなってしまいます。奈津と小菊は親友で、奈津は涼月とともに小菊を懐かしみます。

ところがこの小菊が生きていたのです。そしてさらに小菊の息子・草助(榎木孝明)が小説家になりたくて涼月のところの書生になっていて、息子を川越にもどすべく小菊が奈津の前にあらわれます。草助は吉原の芸者・桃太郎(寺島しのぶ)と恋仲に。実は草助は涼月との子どもだったのです。お決まりの感じですが、それがなんともいい雰囲気で話が展開していくのです。芸の力です。

奈津はかつて小菊の涼月への恋文の代筆もしていたのです。杉村春子さんと杉浦直樹さんのコンビの間のずれ具合も絶妙でした。

この公演は、最初齋藤雅文さんの別の作品で制作発表もしたあとで、どうも違うとの判断から、映画『午後の遺言状』の撮影をしていた杉村春子さんにも了承をえに行き、前売りぎりぎりで差し替えたのだそうです。

齋藤雅文さんは、関連するものを集めてオリジナルとして組み立てるのが上手い脚本家さんです。『恋ぶみ屋一葉』の題名もすっきりしています。奈津さん、一葉さんが欲しいと眺めていたという簪をもらうんのですが、フィクションの使い方も自然で、ほど良い作品としてのアクセサリーにしてしまいます。

『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』で、樋口一葉さんとの<大つごもり>も早めに楽しく終わることができました。

 

 

十二月歌舞伎『寺子屋』『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』

寺子屋』は、勘九郎さん、松也さん、梅枝さん、七之助さんが大役に頑張っておられるが、やはり若すぎます。こういう時代物はやはり先輩たちが空気を締めてくれるから若手も光るので、自分のしどころだけでいっぱいいっぱいであるからして、からみが面白くならず、すーっと流れてしまう感じです。

今回観ていて、大役がくるこないではなく、先輩たちの間に入って順番に教えを受けて進むということが、いかに恵まれたことであるかということが実感されました。しかしそんなことは言っていられない歌舞伎界の現状ですから、とにもかくにもこの作品の自分の原点を見つけていただきたいです。

勘九郎さんは、きちんと作品の解釈をできる人です。泣き過ぎないでください。松也さんは声の響きが良いのですが、それに甘えすぎずに工夫してください。梅枝さんは古風さがよいところですので、そのままで全体の浮わつきを押さえてください。七之助さんは泣いて松王丸に怒られたらじーっと耐えてください。

これは、私が観た『寺子屋』の先輩役者さんたちの良かった場面を勝手に思い出してピンポイントで思った感想です。そして一番肝心なことは、こうした感想を吹き飛ばす負けん気と若さを発揮していただきたいです。

勘九郎さんの他の作品ことを書かせてもらいますが、井上ひさしさんの『手鎖心中』を小幡欣治さんが脚本にした『浮かれ心中』というのがあります。兎に角世の中に注目されたい栄次郎が絵草子を書いて死後にその絵草子が世の中に認められるのですが、ラストで栄次郎は宙乗りであちらの世界へいくところで、友人の太助が栄次郎に声をかけます。 <茶番でも本気に勝てる気がしてきた。太助の名前を式亭三馬にかえてあなたの分まで書きます。> 栄次郎は答えます。<たくさん書いてくれ。絵草子の中には夢と笑いがつまっているのだから。>

勘三郎さんの栄次郎と三津五郎さんの太助の時、勘三郎さんならではの華やかで、観客は手をたたき盛り上がるしでこのラストがぴりっとした栄次郎と太助の絆がなくて、私的には不満だったのです。ところが、勘九郎さんの栄次郎と亀三郎さんの太助の時 <茶番でも本物に勝てる> の言葉が生き、栄次郎のばかばかしい生き方が無駄ではなく太助に受けつがれるのだとジーンときまして、そうだよこの作品はこうこなくてはと、すっきりしたことがあります。

勘三郎さんのときはもっと盛り上がったがという意見のかたもいましたが、たとえ勘三郎さんでも盛り上がればいいというものではなく作品の中から観客に伝えたいことがあるとしたらそれを伝えなくてはと、私は勘九郎さんに軍配をあげました。

何を言いたいかといいますと、古典でも勘九郎さんは勘三郎さんを越す時がくるということです。ということで、『寺子屋』のことを書くテンションが上がりませんでしたが、若い役者さんたち時代物も頑張ってください。

二人椀久』の勘九郎さんは動きを一つもおろそかにはしないぞという感じでした。玉三郎さんの松山との踊りにもまだゆとりがありませんでしたが、日にちが立てば、変化していくことでしょう。今回はどう変化するかを確かめにいきます。

京鹿子娘五人道成寺』は最初から、玉三郎さん、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんの五人も白拍子花子がいるのでは、一回ではとらえきれないと二回いくことに決めていました。五人の配置はどうなるのか。最後、まさか五人が鐘に乗るわけではないであろうしと楽しみでした。

目移りはしましたが、花道二人で本舞台三人とか、それが入れ替わったり、「恋の手習い」は玉三郎さん一人で踊られてたっぷりという感じだったり、おかしかったのは、梅枝さんがひとり紫地の衣装を引き抜くと、四人の白拍子花子がさーっと登場して鈴太鼓を使うのです。白拍子花子の女子会で、そこに玉三郎さんが違和感なく加わっているのが可笑しくて、鈴太鼓の軽快さが楽しさを増してくれます。しかし、鐘に対する恨みを忘れているわけではありません。鐘の上は玉三郎さんと勘九郎さんで蛇の尾をあらわすように下に段差をつけて七之助さん、梅枝さん、児太郎さん三人が並ばれました。並んだ順番は記憶していません。

書きつつ思いました。二回目もぼーっとして楽しんで来ようと。

道成寺を観ていて一つ気にかかっていたことがやはりとおもうので書き足します。十月の新橋演舞場の『GOEMON 石川五右衛門』ですが、出雲阿国の壱太郎さんが五右衛門の愛之助さんからフラメンコを習って踊る場面があるのですが、あそこは、五右衛門から受け継ぐという意味で途中から日本の楽器をもって、阿国が歌舞伎に取り入れたとしてつなげて欲しかったと思ったのですが、今回その気持ちがよみがえりました。

そして権力者秀吉の座る場にはあの秀吉なのですからその工夫を考えてもらいたかったです。舞台装置が鉄骨のような無機質感を出していましたが、フラメンコとのコラボということなのでしょうが、芝居の中には流れがあるわけですから、筋を説明するながれとフラメンコだけでは薄すぎると思いました。

五右衛門と南禅寺の山門の場も、あれは、五右衛門が南禅寺の山門を自分を大きく見せるために盗んだともいえるんじゃないでしょうか。そこを台詞だけで聴かせる意味はなんなのか。秀吉も登場しているのに。よくこのへんもわかりませんでした。パフォーマンスに終わってしまった感じでした。

歌舞伎も次々と新しい試みがある昨今ですので、観客も整理のつかぬまま混乱気味ですので筋違いにはご容赦を。