小林秀雄と志ん生

小林秀雄さんの講演CD『随想二題 本居宣長をめぐって』を聞いた。小林秀雄さんは文芸評論家の大家であるし、本居宣長は国学者の大家である。文字で読む気はなく、言葉で聞くほうが少しは分かることもあるかも知れない。少し厳粛な気持ちで聞き始めたら、小林秀雄さんのイメージと違う。少し声が高く、調子が東京の下町あたりのおじさんの話し方である。誰かに話し方が似ている。誰だ。志ん生師匠である。(志ん生師匠は落語界の大家・おおやである)

本居宣長については言及しない。手の出しようがないので避ける。このCDの解説に安岡章太郎さんが「口伝への魅力」と題し、文章をかかれている。

「小林さんは非常な努力家で、講演一つたのまれても何箇月も前から話を用意して、練習する。」

一緒に岡山に講演に言った時の様子は次のように書いている。「私たちより一日早く岡山へ行き、ホテルの部屋に一人閉じこもったきり話の練習をしてゐた、と随行の人から聞かされた。そして、いよいよ講演会がはじまると、小林さんは遅れて私たちの控える楽屋に下りてきて、コップ酒を所望され、それを一杯飲みほして、ゆっくりと演壇に上がり、やや前かがみの姿勢で訥々と話はじめる。そのへんの呼吸は、たしかに志ん生をまなんだと思はれるフシもないではない。」

この文章を読み、こちらもコップ酒を飲んだつもりでもう一度小林さんの志ん生節で聞くと、偉い国学の先生が医者の仕事をしつつ、こつこつと自分の学問を自費出版する一人の研究者の姿となって浮かんでくる。

小林さんは言う。「宣長は自分の墓には山桜が一本あればいい。それだけでいいと言ったんです。」「『もののあわれを知る』ということは、心が練れることなんです。」落ちは落語より難しい。

 

 

井上ひさしの『うかうか三十、ちょろちょろ四十』

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は井上ひさしさんが24歳の時の、上演されなかった幻のデビュー作である。井上さんの原点とも云える脚本である。その上演をやっている。

6月2日まで新宿・紀伊国屋サザンシアターにて。(こまつ座第九十九回公演)

チラシの紹介によると 「昭和33年、井上ひさしは24歳。このとき、上智大学に籍を置きながらも、浅草のストリップ劇場フランス座で文芸部員兼進行係として働き、NHKのラジオドラマを書き、作家として戯曲を何本も書き続け、この年の文部省芸術祭脚本奨励賞を受賞しました。それが『うかうか三十、ちょろちょろ四十』です。」

フランス座のことは、井上さんの講演で面白、可笑しく聞かせて貰った事がある。そこできちんと戯曲を書き続けていたのであるから努力の人でもある。

高峰秀子さんが「わたしの渡世日記」の中で、黒澤明監督が助監督の時、映画「馬」の撮影地の宿屋の窓も無い裸電球のフトン部屋で、毎晩脚本を書いていたと書かれている。人に感動を与える人は皆どこかでコツコツと修練を積んでいるのである。

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は、井上さんの初期の作品の原点を感じさせる。東北弁を使っている。井上さんは地方の言語を慈しんでいた。歌。これも井上作品に欠かせないが、この作品では一曲だけである。

弥生のあられ/ 皐月のつゆは/ 働き者の味方ども/ しゃれた女房と/ 馬鹿とのさまは/ 根気がさっぱど/ つづかない・・・・

ある東北の村の娘に殿様が恋をする。ところがその娘には許婚が居り、殿様は振られてしまう。その帰り殿様とお付の侍医は雨にうたれ、殿様は記憶が無くなってしまう。10年後殿様は結婚した娘の住まいの前を通り、亭主が病気なのを知り気ままにいい加減な病気快癒の話をする。殿様は病人があればあなたは病気などではないと病人に信じ込ませて廻っている。

さらに十年後同じ家には娘が一人で住んでいる。殿様が訊ねると、父は急に自分は元気だと働き始めそれが祟って死んでしまい、その後母も父を追うように亡くなったという。

殿様は自分のしたことが記憶に無い。何もしなかったほうが善かったのか。思いつきの政治のもたらす一時的な効果とその後の絶望を表しているようでもある。藤井隆さんが皆に認めらたいと思う殿様の軽はずみさと寂しさを可笑しみを含ませつつ演じている。

井上さんの場合常に希望がどこかに潜んでいるが、この芝居では残された娘が働き者で明るく健康的であることである。

この上演作品を観ると、井上さんがこの作品にその後の作品が幾重にも厚みを付けていく様が想像できる。少しづつ確実に膨らみを持たせつつ沢山の戯曲を産み出していったのである。

 

 

5月 歌舞伎座 『京鹿子娘二人道成寺』

玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』さらに面白くなっていた。驚くほかはない。踊りのレベルが上がれば工夫も増えるということか。

一人の踊り手がいる。その踊り手は自分の中で二人の踊り手を存在させていてその二人の踊り手を操っている。観ている方は一人の踊り手の内面の二人の踊り手を見せられている。一人の踊り手はなぜ内面の二人の踊り手を見せるのか。踊りに対して自分の中で抑制し合ったり、ここはもう少し逸脱しようかなと思う心の動きを見せても踊りは成り立つからである。一人の踊り手はこちらの表現の方が良いかもしれないと思う。しかし一つしか選べない。二つ選べるとしたら。こうなるのであるが。

さらに表面に出てきた二人の踊り手は踊りつつ会話をしている。花道の出は菊之助さんである。途中花道のスッポンから玉三郎さんが登場。「あなた余り気持ちよさそうに踊りすぎてよ」。「だって楽しい恋だったんですもの」。二人顔を見合わせて「おおいやだふふふ」とでも語りあっていそうである。これはこちら観る側の妄想であるが、ただ美しいとかこの表現力には圧倒されたとかの感動を通り越した面白さである。

烏帽子をつけ「さあしっかりいくわよ」。鐘に対する恨みも「それ以上表すと娘らしさが壊れるわよ」。「烏帽子の取り方も変えましょうね」。

手まり遊びも「ちょっと大きく動きます」。「勝手にどうぞ」。「ここはしっとり踊らせてもらうわ」。

そんな事を一人の踊り手が自分の中で楽しみつつ自問自答しているようでもある。菊之助さんが自分の踊りに手ごたえを感じ始めているのか苦しい自問自答ではない。観ているほうも「え、そうなるんだ」「なるほど思いもよらなかった」「玉三郎さんの色香を菊之助さんが押さえてる」「菊之助さんの恥じらいを玉三郎さんが引き出そうとしている」

「そんなに男を怨んじゃだめよ」。「だってあなた」。「さあ憂さを晴らしましょ」。

長唄の詞に乗り、お囃子連中の音に乗り、身体はあくまでも優雅に、観ているほうの指が、鏡獅子の弥生が獅子頭に動かされるように動いている。

「最期は言いたい想いはきちんと伝えましょうね」。「最期はそれぞれの想いでね」。

さやさやと皐月の風が歌舞伎座を吹き抜けてゆく。

 

 

 

『天保遊侠録』(てんぽうゆうきょうろく)

勝海舟の父親・勝小吉を主人公にした真山青果の作品で「天保遊侠録」という芝居がある。

小吉は旗本ではあるが無役であるため、役付きになりたいと思い上役を向島の料理屋で接待する。周囲の皆からどんなことがあろうと悋気を起こさないように注意される。しかし、持ち前の自由奔放さと江戸っ子気質であるから上役たちのこちらの弱みに付け込んだ勝手な振る舞いに堪忍袋の緒が切れる。言いたいことを言い役付きも終わりである。

その時、小吉と一緒では麟太郎(海舟)の先行きが思いやられると考えたお局になっている小吉の義姉が、隣の別室に麟太郎を呼んでいた。麟太郎は父の一部始終を見ていて、叔母の言う通り大奥に勤めるのである。この時の麟太郎は父を負かせてしまうほどの賢さを見せ、父は父、子は子の人生だなあと思わせたのである。

麟太郎は7歳の時、十二代将軍家慶の五男・初之丞に仕えるのであるが、この初之丞が夭折し、9歳でお城から下がるのである。芝居では父と子それぞれの生き方と思えたが「氷川清話」を読むと小吉の血が確実に流れていると感じてしまう。

観たお芝居の方は小吉が吉右衛門さんで窮屈な感じで接待をし、ぶちまけた時はきっぷの良い江戸っ子で、麟太郎との別れには親の切なさを格好よく演じられていた。麟太郎役の子役さんもなかなかの賢さを出していたが名前の方は分からない。この時の甥役の染五郎さんを観て染五郎さんの三枚目がいいと確信したのでる。世間からずれている小吉より勝ってずれている加減が良かったのである。

そういえば『西郷と豚姫』の西郷も吉右衛門さんであった。愛嬌があり腹の据わった西郷であった。このあたりの芝居はリラックスして観られる演目ではあるが、「氷川清話」を読むと、軽くは言っているが生死の狭間を潜り抜けていたわけで、胎の中心の深さが常に決まっていなくてはならないと思う。小吉もただ自由奔放の変わり者ではなく時代の風に会えば何を仕出かすか分からないといった大きさが無くては単なる人情話に終わってしまう。海舟の道に至る無頼さの味が必要である。

 

『西郷と豚姫』

歌舞伎の『西郷と豚姫』は京都揚屋の中の間での一幕ものである。体格が立派で気立てがよく明るいお玉は豚姫と呼ばれている。お玉は親も無く天涯孤独であるが面倒見もよく皆に慕われている。そのお玉の想い人は薩摩藩の重役西郷吉之助である。西郷の事を想いふさいでいるとき、西郷が幕府の刺客から追われてお玉の前に現れる。

西郷は藩主にも幕府にも自分の考えが受け入れられず八方塞がりである。お玉は西郷とのことが八方塞がりで、西郷はお玉の心情と自分を重ね合わせ自分はお玉と死んでもよいと思い、お玉に一緒に死のうという。お玉は西郷の真情に天にも昇る想いである。そこへ、藩主の勘気が解け新たな使命が与えられたと大久保利通と中村半次郎が訪れる。

西郷は大久保達が藩から預かったお金を受け取り、その多くをお玉に手渡す。お玉との今先ほどの約束を破ってしまったことへの詫びとこれが今生の別れかもしれない思いからである。お玉はいらぬ心配をかけまいと西郷の真情を胸に収め、お金を受け取るのである。

亡き勘三郎さんのお玉は今でも思い浮かぶ。何も考えることは無い。ただ観ているだけでお玉の気持ちが伝わってくる。西郷への想いのやるせなさ。喜び。可笑しさ。悲哀。どうしてこの人はいとも簡単にお玉の心の動きを表現できるのであろうか。確かに勘三郎という役者が演じているのであるが、その役者と役の皮膜が薄いのである。薄いというよりも透明に近いのである。時としてそれに我慢が出来ず生の役者勘三郎を見せてお客もそれが大好きで大喜びするのであるが、このお玉にはそれがなかった。あくまでもお玉である。大きな体でありながらいじらしくて可愛いいのである。それでいながらいざとなれば懐が大きくてこれは女形でしか表せられない女性かもしれない。

 

勝海舟 『氷川清話』

佐久間象山が勝海舟の妹婿である。随分と面白い繋がりになった。そこで勝海舟の『氷川清話』を手にし開いてみたら頭から出てきた。

「おれが海舟という号をつけたのは、(佐久間)象山の書いた「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」という額がよくできていたから、それで思いついたのである。」

佐久間象山その人については「佐久間象山は、物識りだったョ。見識も多少もっていたよ。しかしどうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたらどうだろうか・・・。何とも保証はできないノー。」

横井小楠(この人の事は詳しくは分からないのであるが海舟は買っている)と比較し「佐久間の方はまるで反対で、顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平生緞子の羽織に、古代様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強い男だから、漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生がたずねて来ても、じきに叱りとばすというふうでどうにも始末にいけなかった。」としている。

海舟は自分の価値感で直感的に人を判断することに長けているようで、様々な人の人物評を簡潔に自分の好き嫌いも含めて書いている。海舟は<動>の人である。知識だけあって実践の伴わない人は優秀とは思っていない。象山は<知>の人で同じ<知>でも横井小楠の方が上でこれに西郷隆盛の<動>が加わればこわいことになると。海舟は幕府に抱えられているからこわいこととは幕府が潰れるという事である。芝、田町の薩摩屋敷で勝と西郷の会談が行われ徳川氏の滅亡は免れたのではあるが、その時の西郷の様子などは、非常に読みやすい。『氷川清話』じたいが「話」で、話し言葉なのである。

勝は自分は弟子は持たないとしている。なぜなら弟子がいると祭り上げられるからで、西郷がそうであるという。しかし、「おれは西郷のように、これと情死するだけの親切はないから、何か別の手段をとるョ。」といっている。自分はずるいからそのような立場になってもそれを回避するであろうと言っているようにも取れる。

驚いたことに、西郷と豚姫のことも書かれている。これは歌舞伎演目に「西郷と豚姫」というのがあるのであるが勝は次のように話している。

「西郷は、どうも人にわからないところがあったョ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さい奴なら、どんなにしたってすぐ肚の底まで見えてしまうが、大きい奴になるとそうでないノー。例の豚姫の話があるだろう。豚姫というのは京都の祇園で名高い・・・(略)西郷と関係ができてから名高くなったのだが・・・豚の如く肥えていたから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛していたのョ。しかし今の奴等が、茶屋女と、くっつくのとはわけが違っているョ。どうもいうにいわれぬ善いところがあったのだ。これはもとより一つの私事に過ぎないけれど、大体がまずこんなふうに常人と違って、よほど大きくできていたのサ。」

 

池田満寿夫の青

再放送のテレビ番組に画家の池田満寿夫さんがでていた。福島県裏磐梯の五色沼の青色の謎を訪ねる旅であった。かつて五色沼は近くのユースホステルに泊まり、散策したことがあるので沼ごとの青色が違っていた記憶は残っている。

池田さんは五色沼の青色がどうして出来るのか、その色を出そうとしても出し切れないと。スタッフは水中に潜り調査した。水の中に白いもやがある。池田さんはそれは地下から上に向かう何かの力のような気がすると。水源をたどる。五色沼の源とされる沼の水。途中の湿原の水。それらを合わせると化学反応を起こし白いもやができる。白いもやの粒子に太陽の光が当たり青く見える。その粒子の大きさによって様々な青ができるのである。天然の絵の具である。

池田さんは語る。芸術は表面的である。自然はもっと深い。たとえば陶器でその色を出そうとしてもそれは表面で見えるもので、自然は沼の色はいくつもの水の層に光があたって屈折した色で、もっと深い色となる。

池田さんの<色>が美しいと思ったのは長野市松代の「池田満寿夫美術館」であった。それまで池田さんの<色>に対して 強く魅かれることはなかった。展示物と展示方法の良さもあった。心地よい暖かさを感じた。そもそも「池田満寿夫美術館」があるのも知らなかった。長野で一日どこを廻ろうかと観光案内に入ったら、他のご婦人が先に同じように尋ねていて、案内の人が松代はどうか、バスで行けると案内している。この話にのろうと、バスの時間を聞くと急げば間に合うと言われ、松代を散策することとなる。松代に着き早めの昼食を取るべき食堂へ。観光案内地図を広げると、「池田満寿夫美術館」がある。そこを最終目的地とする。

松代には松代城があり、1560年に武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。1622年に真田信之が上田城から初代松代藩主として移って以来、真田氏10代が城主として続く。真田家と関係してたのだ。

食堂の壁に松井須磨子関連の写真が。食堂のご主人に聞くと松井須磨子生誕の地といわれる。古い町で何かありそうとは思ったが戦国時代から明治、現代まであり過ぎるくらいある町であった。大河ドラマ「八重の桜」に出てきた佐久間象山も松代の生まれで、象山神社や記念館、高杉晋作などともひそかに会った建物・高義亭もある。松代に行った時は象山はよくわかっていないので記念館はパスしている。

自転車を借りて廻り最期に「池田満寿夫美術館」で青だけではなく<色>を楽しんだのである。散策の疲れから思考能力も低下しているので、ただ<色>を楽しんだ。その時のことが、テレビ番組と重なり、一人の画家の<色>を楽しめた時間の心地よさを思い出していた。画家は悪戦苦闘して色を捜したのであろう。こちらはその苦闘をあちらに置いて心地よき時間を受け入れる。

 

 

神田祭と神田の家

神田明神の資料館で江戸時代の【神田祭】の盛大な様子を知る。山、鉾、人形、花などを飾りつけた山車が36番まであり、山車は本で数えるのだそうで、40本前後の数である。それが曳き出されるのであるから、江戸の町が埋め尽くされる感じである。その山車が続く祭礼の絵図が展示されているが、36番までの絵もあるのでそれを順番に眺めその大きさを想像すると、自ずとその行列の長さが思い起こせる。どれも8メートルを越えていたとある。

山車も10番は<鞍馬山>で義経と天狗の人形が。能・芝居・歴史的ヒーロー物が多い。22番<紅葉狩>。27番<小鍛冶宗近>。28番<佐々木高綱>33番<源義経>などである。天下祭と呼ばれた神田祭は江戸城の中にまで入り将軍や奥方たちも上覧していた。田安御門から江戸城内に入り、上覧前を通過、竹橋御門を経て常盤橋御門から江戸城外へと出ている。

歌舞伎の「夏祭浪花鑑」(故・中村勘三郎さんが得意としたと書かれていた)の長町裏の場で団七が舅・義平次のいじめに耐えかねて手を掛ける時、後ろの黒板塀から高津神社の夏祭りの山車の上部が見え通りすぎてゆくが、歌川国芳の浮世絵ではその山車を神田祭りの山車で画いている。昔の本郷座のポスターもそうであった。ご愛嬌で関東にかえたのであろう。

神田明神そばの宮本公園内に[神田の家]がある。屋上回遊庭園から降りたほうがわかりやすいが、その建物は江戸時代から神田鎌倉町(現在の内神田一丁目)で材木商を営んできた遠藤家の関東大震災後に建て替えた店舗併用住宅である。オリンピック開催にともない木造建築は立ち退きとなり府中に移築し、木造建築の伝統的技術を兼ね備えていることから千代田区の有形文化財となり、遠藤家が神田明神の氏子総代を務めていたこともあり今の地で活用されている。8、18、28日は有料で説明付きで内覧できる。(但し時間が決められている)今の職人さんでは直すことの出来ない細かい仕事や、生活しやすい工夫と隠れたおしゃれさもある。この家を残された当主は史跡将門塚保存会でも尽力されている。

この保存会の方々であろうか、信仰されている方であろうか、将門塚にお線香をあげに来られていた。短い時間に二人の方に会った。将門は今も庶民のそばにいるのである。

神田明神にはお馴染みの銭形平次親分の顕彰碑が明神下を見守る場所に建っており、日本画家・水野年方顕彰碑、京都伏見稲荷大社の神職の国学者・荷田春満に江戸で最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高で、賀茂真淵も芝崎家に一時住んでいたことから国学発祥の地碑なども建っている。

神田明神に行く時はJRお茶の水駅から聖橋の右手欄干沿いに歩いて、橋の上からJR総武線・中央線の電車と地下鉄丸の内線の電車が三本交差するのが見れた。帰りははお茶の水橋に周りそこから聖橋を眺めると聖橋が神田川に逆さまに映り、橋の下のアーチが円を描いている。この丸いアーチの中を地下鉄丸の内線の電車が通って行く。人口的な風景なのにその中をかい潜って見せてくれる健気な風景である。

 

平将門の人気

『平の将門』(吉川英治著)を読む。<将門遺事>に次のようにある。

「江戸の神田明神もまた、将門を祠(まつ)ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪(えんざい)を解いて、その神田祭りをいっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀反人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を勅免祭りともいったという。」

今年は四年ぶりの神田祭が5月9日から15日までおこなわれる。神田明神の資料館に行けば将門の事も分かるかなと思い出かける。その前に大手町にあるという首塚へも。地下鉄の大手町駅の5番出口から出ると左手すぐに幟と白壁が見える。

説明板によると「酒井家上屋敷跡 江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」。これは驚きでした。原田甲斐と将門が繋がるとは。将門が戦で命を落としたのは、天慶3年、2月14日、38歳である。将門首塚の碑には次のような説明が。「昔この辺りを芝崎村といって神田山日輪寺や神田明神の社があり傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼損したので復刻し現在に至っている。」

この後、延慶二年(1309年)神田明神のご祭神として祀り、徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張する際現在の江戸城から表鬼門にあたる場所に移動し、首塚の碑は大手町にそのまま残ったわけである。神田明神の正式名称は神田神社でご祭神は、だいこく様、えびす様、まさかど様である。

資料館ではー江戸の華 神田祭をしりたいー【大江戸 神田祭展】の特別展を開催していた。そこで面白い説明があった。江戸時代将門の凧が好まれて空に多く舞ったという。朝敵といわれた将門の凧が空を舞ったのは江戸以外ではあまりみられなかったそうだ。もう一つは将門は妙見様を武神として篤く信仰していて将門が彫ったといわれる妙見尊像が奉られていた。妙見様は本体は北斗星・北極星といわれている。それで思い当たることがあった。吉川英治さんの本の解説に劇作家の清水邦夫さんが、将門生存説があり将門には七人の影武者がいてその影武者が将門の身代わりとなり将門は生きのびたとする説で、茨城県のあちらこちらに七騎塚とか七天王とかの塚が残っていて、名古屋あたりにも七人塚があると書かれている。清水さんは将門を戯曲にしていて将門のことを色々調べたらしい。そこで思ったのである。この七という数字は将門の妙見様信仰の七からきているのではないかと。他の数字でもよいであろうが、将門の事をよく知っている身近なところからこの伝説は生まれたようにおもうのである。

歌舞伎の舞踏劇<将門>は、山東京伝の将門の遺児たちの復讐の物語をもとにした芝居の大詰めの踊りで、将門が余りにも呆気なく敗死してしまったことに対する庶民の思い入れもあるような気がする。江戸時代にはもっと人気があったと想像するのだが。

清水さんは東京の近郊の鳩の巣の神社にも将門を祀っていると書いている。奥多摩の鳩の巣渓谷は歩いた事がある。参考にした雑誌を見たらJR青梅線鳩の巣駅の上に将門神社があり、暑い日だったので行くのを止めた記憶が蘇る。今なら無理してでもも行ったであろうが、その時は将門への興味は薄かったのである。将門っ原とありそこは居館跡とある。その雑誌では将門神社の説明が次のように書かれている。

天慶(てんぎょう)の乱をおこした平将門は権力に圧迫されて苦しんでいた民衆に人気を集め、いつしか民衆の英雄として都内のあちこちに将門伝説をのこした。ここ将門神社もその子良門が亡父の像を彫って祀ったといわれる場所。

これからもあちらこちらで将門神社や将門伝説に会うことであろう。