15分片づけの恩恵

  • たくさんのメモ帳が残っていて、15分片づけで一つ手をつけたら、半日没頭していた。その中に、救世観音(法隆寺)とあり、異形→円空もそれをまねる とあり、簡単な線画がある。仏像の衣がギザギザと角張っていて、内から気を発していることを表しているとあり、法隆寺の救世観音の衣もそうなのである。さらに髪がロック歌手のように逆立っているのも、気が発しているのである。これは目もつり上がっていて護法神とされるものである。円空さんの神仏像が飛鳥様式といわれるのがこういう形からである。どこかで円空仏に出会いそこでの解説のメモだったのかもしれない。

 

  • そのメモのあとに、堀の内の妙法寺とある。東京都杉並区堀の内にある日蓮宗の本山。 厄除けのご利益がある寺院として知られている。江戸時代から人気のある寺院であり、古典落語「堀の内」の題材にもなる。身延山久遠寺に別院清兮寺(せいけいじ)。 これは、身延山久遠寺に行ったとき清兮寺の本院が東京であったので検索してメモしたらしい。この妙法寺が春に訪れた柳島法性寺でいただいたコピーの中にでてきた。

 

  • 北斎さんと柳島妙見さまとの関係や北斎さんが日蓮宗の信者であったという伝記もあり、日蓮宗本山である池上本門寺と名刹堀ノ内妙法寺へも時々参詣していたとする文があったのである。妙見菩薩は日蓮宗で重視されている菩薩で、富士山も日蓮宗では重要な山岳なのだそうで、『富嶽三十六景」『富嶽百景』などからもその関係を展開している。近松門左衛門さんが江戸と関係ないのにその石碑がみつかり近松研究家を驚かせたそうで、それは、近松の曾孫が建てたもので、近松さんの菩提寺である尼崎市の広済寺にも同じような碑があり、妙見さまが祀られているからではないかとされている。

 

  • 矢野誠一さんの文章もあって、落語と芝居から中村仲蔵のよく知られている定九郎の工夫の話しがあり、さらにそれが落語になったとき、速記者や落語家によって題名がかわるということが興味をひいた。初代三遊亭金馬口演・石原明倫速記は『蛇の目の傘』、悟道軒圓玉速記は『名人初代中村仲蔵』。矢野さんがきいた古今亭志ん生は『名人仲蔵』、八代目林家正蔵(彦六)は『中村仲蔵』でやっていたとある。『堀ノ内』は上方では『愛宕詣り』となる。このメモも落語にひかれて書きとめたのかもしれない。落ちがあってよかった。これも必要なし、これももう終了とどんどん処分していけるのが気分を楽しくさせる。

 

  • さて一つの事がらでのメモ帳が『日本近代文学館 夏の文学教室』である。昨年のを見直すと、一年経っているのでチンプンカンプンである。その中で記憶にある一つが鹿島茂さんの『パリの島崎藤村』である。これは、角館に行った時、武家屋敷を見て歩こうとした初めの屋敷の前に「新潮社記念文学館」なるものがあったのである。新潮社の創設者・佐藤 義亮さんが角館出身でその顕彰として設けられたらしい。そこから始めてた。苦労して出版業に成功したことも面白かったが、島崎藤村さんのところで、姪のこま子さんとのことがあって、新潮社がお金をだしてパリに行ったとあった。藤村さん逃げたのかとむっときた。ところがそのメモを失くしたのでそのままであったが、鹿島茂さんがそのことに触れてくれた。佐藤 義亮さんが3万円を出したと。記憶違いではなかった。

 

  • 多くの文学者が藤村さんを見送り、田山花袋さんは藤村さんのパリ行に嫉妬したそうである。『新生』を発表したときは田山花袋さんも複雑な気持ちになったかもしれない。パリに行っていたのは1913年4月年から1916年4月までの3年間である。その間、新潮社から作品集や『春』などを刊行しているので新潮社もそれなりの目算はあったのであろう。

 

  • 有島生馬さんの紹介でパリ14区に賄いつきの下宿暮らしとなる。下宿の前は、ポール・ロワイアル女子修道院があったところで、藤村さんの住んだ頃は、産院になっていて、自宅でお産の出来ない人が、そこで産んで赤ちゃんポスト預けるということだったようだ。藤村さんも事情があってのパリですからどこにも出ずに静かに暮らしていた。そこへ小山内薫さんが訪ねて来て、外へ連れ出し、ニジンスキーのバレエを観たり、ドビッシーの演奏を聴いたりしている。藤村さんがニジンスキーのバレエを観たなんて驚きです。小山内薫さんがその時パリにいなかったらなかった事です。

 

  • 明治の人は、賛美歌から英語を学んでいるので音楽感覚はあったということで、これも初耳でした。さらに、その後、藤村さんと賄い婦さんとの間に何かなかったかと現地まで調べいったかたがいたらしく、賄い婦さんはシモンさんといい当時56歳で何もなかったようです。聴いていて苦笑してしまいましたが、文学史的にも大スクープとなったかもしれません。モデルは誰かなどと捜されますが、自然主義文学は私小説でもあり、いろいろ議論のタネが私的な部分になる原因でもある。

 

  • 『戦争と巴里抄』の「リモオジュの客舎にて」では、第一次世界大戦がはじまり、パリを離れリモオジュの田舎に移るが、この宿舎は「ここの年老いた主婦は巴里の宿のシモネエ婆さんの姉にあたる人です。」と書かれてあり、シモンさんは面倒見の良い人の様である。シモン姉妹は婆さんとされており、有島生馬さんも、下宿を紹介するにあたっては考えられたと思う。そんなわけで、知らなかったパリでの藤村さんの様子が少しわかったのである。

 

  • 明日から『日本近代文学館 夏の文学教室』第55回が始まる。今年は暑いので止めようと思ったが、少し涼しかったので頑張る気になった。しかし、暑さの中出かけ、冷房の中で睡魔に襲われるような予感である。そんなわけで、書き込みはしばらくお休みである。これはメモになるが、有島武郎さん小説『生まれ出づる悩み』のモデルである画家の『木田金次郎展』が府中市美術館で開催している。(~9/2)これは忘れないで行きたい。

 

復習アラカルト

12月の観て聴い読んでのものから、復習かつ手探りで進んだ。

『赤い陣羽織』の原作スペインの喜劇『三角帽子』のバレエ『三角帽子』の録画を捜したらあった。

2009年「パリ・オペラ座バレエ、バレエ・リュス・プログラム」として、『薔薇の精』』『牧神の午後』』『三角帽子』『ペトルーシカ』の四公演である。

バレエ『三角帽子』はスペイン喜劇らしく、フラメンコを取り入れている。振付はレオニード・マシーンである。粉屋夫婦と代官という設定である。初演の時、粉屋をマシーンが踊っており、古典とは違う画期的な振り付けとなっている。

代官を粉屋夫婦がやりこめてしまい、代官は仕返しに粉屋の主人を逮捕し、その間に粉屋の女房に言い寄るが橋の上から川に落とされてしまう。代官は粉屋の中で寝てしまい、兵士たちが逃げた粉屋と勘違いして代官を袋叩きにする。村人たちと粉屋夫婦がともに悪徳代官として踊りつつ、代官の人形を放りあげる。

バレエは物語としてのストーリーがあるが、踊りが見せ場なので、所々に、ここは踊りを楽しむという場面がある。村人の群舞でもそこに幾組かの主軸があったりして、芝居のストーリー性に慣れているとどういう関係なのかと何処かで考えていて愉しみ逃してしまうことがある。

バレエという舞踊を見せるためのストーリーと思った方がより楽しめる。この作品ではさらに、スペインという設定を生かす為であろう、フラメンコを取り入れ、それとバレエとを融合させている。バレエを見ていると、とにかく身体のみの表現に圧倒される。飛んだり跳ねたりするが、バレエは天を目指して、和物は反対に足が地に着き、地球の中心を目指しているように見える。

久しぶりでバレエの映像をみて、古典は古典として、さらに探し求められる身体表現の無限さに驚かされた。こういう刺激も有効である。

長唄『秋の色種』(七代目芳村伊十郎長唄特選集)をCDで聴く。他の長唄の作品『勧進帳』、『京鹿子娘道成寺』『鷺娘』『鏡獅子』など伊十郎さんで聴いているのですぐに入っていける。

松虫の音ぞ <虫の合方> 楽しき

清掻く琴の爪調べ <琴の合方>

あとのほうが<琴の合方>というのである。両方とも<虫の合方>と思っていた。歌舞伎とは関係のない演奏を目的としているので、なかなか出会う機会がない長唄『秋の色種』である。出会うと谷崎さんでなくとも気に入ってしまう音曲であるが、やはり谷崎さんに一礼である。

他の音曲も心掛けて置いて再会したいものである。

もう一つ年内に片付けたいのが『図書館戦争』なのであるが、4冊の半分から進んでいないので友人に進まないというと、じゃアニメで一気にいったらということなので(一)を見たら違和感がなく面白い。先ずアニメで一気にいくことにする。

 

銀座再発見

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のパンフレットを探していたら、「東京文学探訪~明治を見る、歩く(下)」(井上謙著)が見つかる。NHKラジオのカルチャーアワーのテキストである。2001年であるから、その頃時間があれば訪ね歩こうと思って購入したらしい。ラジオは聞いていない。これが地図つきで参考になる。銀座の朝日ビル前の石川啄木歌碑の写真がある。

本郷菊坂散策 (2) で啄木さんが上野広小路から切通坂を上って貸間の住まいに帰った、その勤め先が銀座の東京朝日新聞社なのである。年譜によるとその以前に生活困窮から、金田一京助さんに助けられ「蓋平館別荘」 (現太栄館で玄関前に<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>の歌碑がある) に移り住み、さらに同郷の当時の東京朝日新聞編集長斎藤真一さんの厚意で校正係りとして入社し、切通坂上の「喜之床」二階に引っ越し家族を呼びよせるのである。

当時、銀座四丁目付近は新聞社がひしめき合っていた。東京朝日新聞は銀座四丁目交差点から並木通りに入りみゆき通りを横切り新橋方面にある。現在は朝日ビルとなり、そのビルを眺めるかたちで、啄木碑がある。例の美男子のレリーフつきである。<京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな>。銀座は京橋区であったらしい。この位置とするなら、電車本通線で銀座四丁目から京橋→日本橋→宝町三丁目→須田町まで行き、そこで上野線に乗り換え、須田町→万世橋→上野広小路へと移動し、そこから湯島天神を通り切通坂を登って帰路についたのではなかろうか。

この頃、啄木さんは自虐的な生活でローマ字日記を書いている。24歳。肺結核のため27歳(数え年)で亡くなるが、その頃交流していた土岐善麿さんが自分の生家である浅草にある等光寺で葬儀を行っている。土岐さんは、啄木さんの第二歌集の出版契約に奔走し、啄木さんの死後出版された歌集『悲しき玩具』は土岐さんの命名である。(第一歌集『一握の砂』)土岐さんの第一歌集はローマ字である。

第二の発見は、画家の岸田劉生さんが銀座生まれであったということである。世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子ー知られざる精神の系譜』を開催していて、そこで知ったのである。岸田吟香というかたが、「吟香が和英辞典をヘボン博士に協力して完成した礼として水薬の目薬の製法を伝授され、日本ではじめての目薬として売り出したのが精錡水だった。」(『父 岸田劉生』岸田麗子著) この目薬を銀座で売っていたのである。薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を銀座に構え、事業家、出版人、思想家、文筆家として活躍した人である。劉生さんは、東京日日新聞に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して銀座の生家の思い出を書かれている。それによると、<明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、服部時計店のところで生れ、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代まで育った>としている。鉄道馬車だったのである。麗子さんが訪れた時は、<銀座の本家は、表通りの立派な本家ではなく、表通りの一つ後ろの通りで、越後屋の裏あたり>としている。劉生さんの作品である<麗子像>や<坂道>などは、神奈川県藤沢の鵠沼(くげぬま)時代のもので、銀座などは思いもよらないことであった。ヘボン博士はローマ字を考案した人で、それを啄木さんや土岐さんが使ったのである。

もう一つは発見と言えるかどうかであるが、銀座の山野楽器で歌舞伎関係のDVDを購入したところ、特典として歌舞伎座のポストカードがついてきた。それが、第一期(1889年開場)、第二期(1911年~1921年)、第三期(1924年~1945年)、第四期(1951年~2010年)、第五期(2013年開場)の五枚の歌舞伎座の写真であった。これは嬉しかった。第一期と第二期は白黒で第三期は少しセピア色、第四期は真っ青な空で光の陰影がはっきりしていて、第五期は夜のライトアップされた姿で後ろのビルを闇にそれとなく隠している。歌舞伎座は三月、四月を鳳凰祭として公演している。今年は松竹が歌舞伎経営を始めた大正三年(1914年)から100年を迎えるので、ポストカードはその記念なのかもしれない。今回全ての席から花道七三を観えるようにしたことは画期的である。関西の劇場で二階席から花道が観えなくて信じられない経験をしたことがある。

森鴎外さんが、二つの歌舞伎座を知っていたのであるが、それが、第一期と第二期であることがわかった。鴎外記念館でそのことを書かれていて何時の歌舞伎座か失念していたので大したことではないが、気になっていた。これですっきりした気分になれた。

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

 

前進座『明治おばけ暦』 (改暦2)

もう一つ明治に入ってから改暦があった。それは、2012年の前進座創立八十周年記念公演『明治おばけ暦』で知る。今回改めて振り返った。

明治5年11月、暦問屋角屋では来年明治6年の暦を小売に渡しひと段落ついた後で号外が出る。明治6年から太陽暦を採用する改暦の号外である。明治6年には6月の後に閏6月があり、1年が13ヵ月ある年であった。太陰暦では2年か3年に一度、閏月を設け1年を13ヵ月にして調整しなければならなかった。太陽暦にすれば4年に一度、1日を増やせばすむのである。ところが改暦となると明治5年の12月は2日で終わり、3日目は明治6年1月1日なのである。暦問屋角屋は大変である。小売から前の暦は返品となり急遽摺りなおした新しい暦は人気がなく売れない。ついに角屋の主人は大赤字のため自殺に追い込まれる。芝居が好きで芝居にうつつを抜かしていた息子の栄太郎と戯作者・河竹新七は、改暦をすすめた大隈重信を懲らしめる芝居を考える。

この芝居の作者は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の山本むつみさんである。河竹黙阿弥となる前の新七が出てきたり、他にも歴史的なことや、当時の庶民の生活や心情がでてきたり、かなり盛りだくさんである。そうなのか、そうなのかと思って観ているうちは良いのだが、見終わってみると改暦の混乱さのような状態であった。架空の話も加わりお気楽のようでいて中々奥が深いのであるが観るほうの理解度がそこまで手が届かなかった。

ここで、政府の改暦の事情に触れる。それまで役人の報酬が年俸制だったのが、明治4年から月給制になった。明治政府の財政は大赤字である。次の年が13ヵ月である。ここで改暦すると、12月は2日間であるから役人の月給12月分を払わないとし、さらに来年は12ヵ月で1ヵ月分払わなくてもよい。ここで2ヵ月分の給料が浮くのである。相当明治政府として助かったことになる。諸外国との関係からも、太陽暦にしたほうが統一され都合が良かったのである。ただ国民には極秘で明治5年11月9日に突然発表されたのであるから、暦問屋さんと同じような大変な事になった人々も多々あったであろう。この時、太陽暦や改暦について分かりやすい本をだしたのが福沢諭吉で、その著書『改暦弁』は大ベストセラーになったようである。

前進座『明治おばけ暦』 作・山本むつみ/演出・鈴木龍男/出演・嵐芳三郎、河原崎國太郎、嵐圭史、中村梅之助

 

映画 『天地明察』 (改暦1)

日本独自の暦を作った人、安井算哲(のちに渋川春海)の話である。こういう世界があるのかと、この映画を作られたことを歓迎します。天体と算術により、今までの暦に誤差がありすぎるということを証明し、新たな日本独自の暦を作るのである。この算哲は秀才であって天才ではなく、秀才が努力をするというタイプの人である。算術では初めから間違いをおかしたり、それでいながらぶつかっていくという行動にも好感がもてる人物である。その算哲の魅かれる人物達を周囲に設定し、算哲の人間性をうまく引き出して、見る方にも肩の凝らない展開にして、難解にならないように工夫されている。きちんと説明は出来ないが、このようにして暦がつくられたのかと興味は広がる。

算哲は徳川四代将軍家綱の時代、幕府の碁方を務めている。碁方とは将軍の前で碁の勝負を披露したり、幕府の要人に碁を教える人である。将軍家綱の後見役の会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)や水戸光圀にその才能を認められ、改暦(暦を改める)を託される。黄門さんでない光圀さんが見れるのも面白い。

ところが暦は朝廷が司るもので聖域であった。それまで、「宣明暦」を使っていたが次第に誤差が生じてきた。そこで算哲は「授時暦」が正しいとして、「宣明暦」「授時暦」「大統暦」の三つの暦の比較を三年間6回の日食、月食で証明しようとしますが、5回当たっていた「授時暦」が最後の6回目ではずれ「宣明暦」が当たってしまい、改暦は叶わない。そこで中国から伝わった暦ではどうしても日本では誤差が出てしまうため、さらなる観測を続け新たな日本の暦を作り上げるのである。そしてついに、貴族たちの妨害を押し破り、算哲のつくった「大和暦」は「貞享暦(じょうきょうれき)」の名をもらい採用されるのである。(この部分のまとめはNHK「知るを楽しむ・歴史に好奇心」のテキストを参考にさせてもらいました。これは2ヶ月分のテキストで、先に<映画王国・京都~カツドウ屋の100年>があり、こちらが目的でした。次の月は<古今東西カレンダー物語>で難しそうで読む気もしません。ところが、『天地明察』の映画を見てこの<古今東西カレンダー物語>を参考にさせてもらえるのですから映画の力は凄い。)

ライバルとの切磋琢磨、先輩たちの教え、師の教え、為政者からと期待、仕事仲間、夫婦愛等を取り込んで暦の世界に賭けた男たちの世界を堪能させてくれます。

名前・算哲の響きがいいです。算哲と呼ばれる度に見せる岡田准一さんの笑顔、驚き、悔しさ、苦渋もいいです。周りの役者さんも上手くはまっていて気持ちのよい流れです。一つ算哲に見せたいものがあります。北海道の阿寒湖畔のホテルの屋上露天風呂から見えた、冬の北斗七星です。本当に近いです。あの時の感動を算哲に分けてあげたい。「ウッオオー!」と目を輝かせると思います。

監督・滝田洋二郎/原作・冲方丁/脚本・加藤正人、滝田洋二郎/出演・岡田准一、宮崎あおい、佐藤隆太、中井貴一、笹野高史、岸部一徳、市川猿之助、市川染五郎、松本幸四郎