映画館「銀座シネパトス」有終の美 (10) 「秋立ちぬ」「ロマンス娘」

映画館「銀座シネパトス」も2013年3月31日、今日で閉館である。ここでの最後の映画が成瀬巳喜男監督の「秋立ちぬ」と、杉江敏男監督の三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)の「ロマンス娘」となった。

「秋立ちぬ」 (1960年)

監督・成瀬巳喜男/脚本・笠原良三/出演・大澤健三郎、乙羽信子、一木双葉、藤間紫、藤原鎌足、夏木陽介、加東大介、賀原夏子

子どもの世界に大人の世界が微妙に影を落とし、その影ははっきりとした姿を現さないが子ども達は自分達の感じるままに受け入れ、それぞれの旅立ちをひと夏を通して経験する。見たいと思っていた映画なので、最後に銀座シネパトスで観られたことは幸せであった。

父の死 により少年(大澤健三郎)は母(乙羽信子)と二人で信州から東京の銀座の地下鉄駅の地上に立つ。母の兄(藤原鎌足)を頼り、新富町あたりの叔父の八百屋へ落ち着く。途中新富橋で少年は日本舞踊のお稽古帰りの少女に出会う。少年にとって昼間から着物を着ている少女は物珍しく印象を強くする。八百屋を生活空間(茶の間)からお店を映す手法はよく使われるが、成瀬監督はその狭い空間から市井の人々の生活や町の変化を捉えるのが非常に上手い方である。少年の母はすでに自分の住み込む仕事場を見つけていて少年は一人叔父の八百屋に取り残される。叔父の息子(夏木陽介)が少年の心を引き立ててくれるが、偶然にも橋の上で会った少女が母の働き先の旅館の娘であり、彼女が彼の満たされぬ感情と共鳴する相手となる。少女の母(藤間紫)は二号さんで、父にお嫁さんが二人いることを知っている。知ってはいるがはっきりした事実関係は解からない。そのため自分の境遇を少年に話す。少年も聞きつつ実態は解からない。少年の母が旅館のお客と駆け落ちしていなくなる。少女は<中年女が男に狂うと子どもを捨てるほど怖い>と大人が話していたことを伝える。少年は次々起こる事態になすすべも無い。ただ少女の言葉は少年に棘となっては刺さってこない。

少年は山の中で育っているので海が見たいという。少女は松坂屋デパートの屋上へ連れて行きあれが海だと教える。少年はがっかりする。少女は父が帰ってきて楽しいはずが本宅の子と会う事となる。少女は次第に自分の居る場所の不確かさを感じ始める。少女は本当の海を見に行こうと少年を誘いタクシーで晴海埠頭に行く。少女にとっても少年にとっても本物の海を見る事によって何かが変わるような、気持ちの空白を埋めてくれるような気持ちなのかもしれない。しかし海は埋め立てられ少年の想像していた海ではない。少女はここでも現実的なことをいう。ここは埋め立てられてアパートが立つのよ。少女のほうが確かではないが現実が見えている。このことは少女が旅館を去る上で悲しいが、この現実感で乗りきって欲しいと微かに期待するところである。

少年は信州からカブト虫をつれてきた。少女がカブト虫を夏休みの宿題として学校に持っていくためデパートで買うと言う。少年は自分のカブト虫を貸すから買うなという。ところが少年のカブト虫は逃げてしまう。従兄弟が2回目のカブト虫探しを止めにして遊びにいってしまう。そこへ少年の田舎のおばあちゃんからりんごが届く。その中からカブト虫が飛び出す。この展開は素晴らしい。少年は喜び勇んで少女の家に向かう。しかし、少女は引越をしてしまっていた。少女の父が旅館を売ってしまったのである。少年は少女と会った橋の欄干にカブト虫を乗せる。

沢山の複雑な気持ちを子どもを通して感じることになる。少女の正直な疑問の言葉が時には可笑しさを誘うのは、大人の複雑さがもっと単純な欲からきていることの証であろうか。そんな大人の影を受けつつ二人は影を逃れ自分達の世界を夏休みに作り上げたのである。

「ロマンス娘」 (1956年)

監督・杉江敏男/脚本・井出敏郎・長谷川公之/出演・美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ

三人娘の娯楽歌謡映画である。カラーであるが非常に映像が変色していてDVDで観ているので帰ろうかと思ったが音の迫力が違うので最後まで観てしまった。三人が宝塚劇場で三人のショーを観る場面がある。そのショーの映像はこの三人娘がその後には現れることのないエンターテイナーであることがよく解かる。特に美空ひばりさんの「やくざ若衆祭り唄」は歌も動きもこのリズム感は何処から来るのであろうかと見惚れてしまう。江利チエミさんのミュージカルも観たかったなあと思う。

多種多様の映画を上映してくれ本当に有難うございました。

<銀座シネパトスに乾杯!>

追記:  成瀬巳喜男監督作品を好んだ大瀧詠一さんは、「秋立ちぬ」と「銀座化粧」のロケ地をしっかり調べたようである。(「成瀬巳喜男 映画の面影」川本三郎著)

ル テアトル銀座 『三月花形歌舞伎』

海老蔵さんの誠実な舞台であった。等身大の舞台と感じた。口上を聞きさらに納得していた。海老蔵さんは父上團十郎さん、勘三郎さんに教えを受けたことを幸せと率直に受け止め今はひたすらそれを自分の身体でなぞることに喜びを感じているようであった。特に今回は、團十郎さんと親子で「オセロ」の舞台の予定であったが、團十郎さんの歌舞伎座柿葺落4月公演に備え「オセロ」から「三月花形歌舞伎」の話があった時、即、勘三郎さんの追悼公演にしたいと思い、勘三郎さんから教えを受けた「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」と「高坏(たかつき)」を選んだそうである。

想像であるが、勘三郎さんの映像は見ずに教えられた言葉を思い出しつつ、共演の役者さん達とのバランスを取りつつ作られていったのではないだろうか。中村亀鶴さんの一寸徳兵衛と団七の組み合わせが良い。団七も徳兵衛も人に引き立てられてやっと今現在男だてとして生きていられる身分である。その仲間意識が二人の立ち姿ですっきり見せてくれる。良い対称である。いざ一人になってみると団七は強欲な義父・義平次に助けられ男だてになったが、牢にも繋がれ、その間義平次の娘で自分の嫁・お梶と倅の面倒をも見てもらっている。義平次は金のため、団七の旧主の恋人を他所へ斡旋しようとする。それをされては団七の男が立たない。この義平次(片岡市蔵)の団七のなじり方は、それまで爽やかな男だてだった団七に浪花のじっとりした暑さをじわじわと感じさせる。ついに団七は義父を殺す事となる。そこからの見得の形の善さは、海老蔵さんきっちり身体一面の刺青を生かして決めてゆく。花道が無く、通路が花道である。義平次殺しも泥は使わず水のみである。賑やかな神輿の一群の人々について観客の間を逃げてゆく。

今回は屋根上の捕り物がつき、花形歌舞伎の若さも満開である。

「口上」では勘三郎さんとの思い出、團十郎さんの人柄などを湿っぽくならないように愛情込めて楽しそうに話される。このお二人に身近に教えを受けたことに心から感謝されているのが伝わる。特に十二代目團十郎さんは父十一代目が早くに亡くなられ殆ど教えを受けていない状態であり、その事を考え合わせると海老蔵さんの中で何かが芯となって残されているように思われる。<歌舞伎を宜しくお願い致します>の最後の締めは歌舞伎をこよなく愛した勘三郎さんと團十郎さんの願いでもある。

「高坏」は勘三郎さんがされていた仕草だと思われる愛嬌の箇所が幾つかあったが、おとぼけは海老蔵さんならではの雰囲気である。以前から亀鶴さんの行儀のよい踊りに何時か伸びると思っていたが、高足売り、なかなかよかった。砕けすぎず、次郎冠者のとぼけた所を崩さずに騙してしまった。爽やかな「高坏」であった。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (9) 「如何なる星の下に」「銀座の恋人たち」

「如何なる星の下に」(1962年)

監督・豊田四郎/原作・高見順/脚本・八住利雄/撮影・岡崎宏三/美術・伊藤熹朔

出演・山本富士子、池部良、加東大介、三益愛子、乙羽信子、植木等、池内淳子、大空真弓、森繁久彌

スタッフの字幕に撮影の岡崎宏三さんと美術の伊藤熹朔さんの名前を見つける。見る目が違ってくる。伊藤さんは新劇や映画の舞台で活躍していた方で、 腕に抱え込んだ継続 (2013年1月1日)に出てくる小村雪岱さんが古典的仕事をしていた頃、伊藤さんは現代的仕事をされていた。演劇人の千田是也さんのお兄さんで幅広く活動されていた。<寅さん記念館>で美術という仕事はセットの全体図を把握して描き、それに基づいて大道具さん小道具さんが作り上げていくのだそうである。

タイトル字幕の川面の映像から目が離せなくなり、山本富士子さんが切り盛りしているおでん屋のセットの隅々までが気になってしまった。少し開いていた襖が閉められると、すうーっと閉められた襖を右にした部屋の映像となったり、お店のカウンターをお客側から映していたのが調理場の入り口から縄暖簾越しに映したりと手が込んでいる。

山本さんが池部さんをお店から上がれる部屋に、お店の入り口ではない調理場を右手にした入り口から入らせる。その時はお客としてではない特別の意味合いがあるわけで上手く使っている。そして、その部屋の隣には、右半身不随の父親(加東大介)と酒乱の母親(三益愛子)がいる。その前からこの両親と家族に縛られていた主人公・山本は一層負担が大きくなり、池部に微かな期待をするのであるが、池部はその現実を受け入れることが出来ず、涙の横顔を見せるだけである。その時の山本さんが凄い。「あんた帰んなさい。」それまで嬉しそうに浮き立っていた彼女の変化。お見事である。役としても役者としても。山本富士子さんは単なる美人女優ではない。身体の中を流れている血のその時その時の流れの状態を表現できる役者さんである。

汚れた川の前に立っていても、綺麗な川の前に立っていてもその現実から目をそらさずみつめられるヒロインである。それゆえに美しさも際立つのである。ラスト雪がうっすらと積もり、池部さんは黙って肩を落とし立ち去る。こういうダメ男でも池部さんの場合はどういうわけか絵になるのである。芸人崩れの父親。その場を調子よく乗り換える男(植木等)。手の込んだ騙しかたを見せる山本さんの元夫・森繁久彌さん。役者も揃っている。

佃の渡し、佃島、日劇、銀座の喫茶店、夜の三吉橋周辺、その近くのホテル等監督が残して置きたかった当時の街の様子もしっかり捉えている。この映画は銀座シネパトスで2回見た事になる。

「銀座の恋人たち」(1961年)

監督・千葉泰樹/脚本・井手俊郎/出演・団令子、草笛光子、原知佐子、宝田明、三橋達也、小泉博、加山雄三、水原弘

銀座の洋品店、喫茶店、小料理屋の二代目世代の恋愛劇である。上手く収まっていたと思ったら、一つ壊れると次々崩壊して行き、別々の結びつきが出来上がり、目出度しめでたしのハッピーエンドである。銀座っ子らしく皆お洒落な大人である。店が閉まると住居は別で車に乗り合わせてアパートや自宅へ帰る。小料理屋さんなどの使用人さんはお店に泊まるところがあるのか、夜遅くまでお店の前の道路でキャッチボールなどを楽しんでいる。キャッチボールのごとく軽い明朗映画である。

柴又・寅さんの旅

「寅さん記念館」が出来てから一度も訪れていなかったので柴又へ寅さんに会いに行く。京成高砂駅で京成金町行きに乗り換え一駅で京成柴又駅である。駅前で寅さん像に迎えられ帝釈天参堂のお団子屋さんなどお店を眺めて歩くとすぐ帝釈天願経寺に到達する。

今回驚いたのはお寺(帝釈堂)の建物に彫られている彫刻一群がさらなる透明ガラスの建物で蔽われ、雨風に晒されること無くそばで見れるようになっていたのである。彫刻の高さまで階段ができ近くから細かい部分まで鑑賞できるのである。「彫刻ギャラリー」と銘打ち有料であるが面白い試みである。一周見終わると回廊を渡りお庭拝見となる。暖かいので黄色の小さな蝶々が楽しそうに遊んでいる。

お寺を抜け山本亭へ。地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者が建てられた書院造と洋風建築の和洋折衷の建物であるがそこを通り過ぎ、江戸川の土手に向かう。途中、さくらさんの住んでいそうな場所を通る。たんぽぽや芝桜がちらちら目に映る。長閑である。遠くに鉄橋が見え電車が気持ち良さそうにすうーっと動いていく。矢切の渡しは一度舟で渡ったことがある。向こう岸から「野菊の墓」の舞台を歩いたのである。1955年木下恵介監督の映画「野菊の如き君なりき」(回想シーンを楕円型にトリミングしてあった)を思い起こす。

「寅さん記念館」は美術・大道具・小道具さんやメイク、衣裳さんの仕事の小さな映像もあり参考になった。くるまやの撮影スタジオでは、お店と皆が食事をする部屋の間に階段があり寅さんの二階の部屋の隣にもう一部屋ある。この階段は映画では解からなかった。台所から寅さんが上がる階段だけだと思っていた。映像など見ていたら結構時間がかかる。寅さんのグッズ売り場で、雑誌を発見。「旅と鉄道」(寅さんの鉄道旅)鉄道好きの山田監督と川本三郎さんの対談あり。ゲット! 「山田洋次ミュージアム」では寅さん以外の山田監督の世界が。

時間切れで山本亭はパス。観光地で写真を撮っている人がいるとちょっと避けてしまう。一番良い位置で撮りたいのはわかるが、占領されてしまうと周囲が興ざめする事もある。せっかくの旅の風景の流れが悪くなるときがある。ツアーの時などは、目の付くカップルやグループは避ける。そうでない時は親切気取りでさっさと写してあげるのである。お寺の庭などではボーっとしていたいのに動きまわられるとガクッとなる。時間差でなるべく避けるのであるが。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (8) 「暁の追跡」

「暁の追跡」(1950年)

監督・市川崑/脚本・新藤兼人/出演・池部良、杉葉子、水島道太郎、伊藤雄之助、田崎潤

新橋駅前に勤務する警察官・巡査(池部良)を主人公にしている。警察関係も協力している。(字幕案内が消えるのが早く記憶していられない。)戦後の混乱を乗じての犯罪も多かったのであろう。警察官の指揮を高める意味合いもあるのかもしれない。警察官も危険を伴いながら薄給。皆が戦争の傷跡を抱えている。

予想外の面白さ新米銭形平次 の視点と似ている。格好良い取締り役ではない。悩み、辞めようかと思ったりする。恋人役が同じ杉葉子。伊藤雄之助が拳銃暴発の事故で後輩を怪我させ警察官をやめキャバレーのトランペッターとなる先輩警官で出ている。気楽と言いつつ彼もお金がない。

非番明けで寮に帰って寝ようとした池部は、子どもが熱を出している他の警官のために無許可で勤務を代わってやる。それを見て先輩の警官(水島道太郎)は甘いと忠告する。池部は反発する。一人不審な男が連行されてくるがその男が逃走し池部はその男を追跡し、男は線路に上がり列車に轢かれて死亡する。(この列車は大宮行きの京浜東北線だそうで、さすが鉄道好きの川本さんである)その事で勤務を代わったこともばれ、自分のせいで不審な男をも殺してしまったと自責の念に駆られ勝鬨橋を渡り男の家を訪ねる。男の妹が貧しい者達がどうやって生きて行けというのかと、池部をなじる。男は麻薬組織に関係していたことが解かり、男の妹もその仲間に利用され殺されてしまう。池部は恋人から転職を勧められているが、男の妹の死から悪と戦う事に使命を見い出し始める。トラックで麻薬組織の一斉捕縛に向かうとき渡るのが清洲橋である。やはり格好良い橋である。

その撃ち合いで先輩の水島が殺されてしまう。その水島を抱きかかえる時の池部の表情が虚無的と言おうか、南方帰りのためか、表現できないような表情をする。ここで初めて死に行く同志を抱きかかえ悲嘆に暮れる表情ではない。言われぬ何かを含んでいる。

静かな道を納豆売りの少年の声が響き、帰る警察のトラックを見つけた納豆売りの少年は、そのトラックを見るため駆け出す。その少年が大きく成るまでこの街は大丈夫であるとの暗示であろうか。

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館) の写真チラシが、この「暁の追跡」の写真で交番の入り口に暑そうにして立っている。その頭上に<SHINBASHIEKI‐MAE POLICE BOX>とある。映画では判らなかったが時代を表している。

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (7) 「セクシー地帯」

セクシー地帯(ライン)」(1961年)

監督・脚本・石井輝男/出演・吉田輝雄、三原葉子、三条魔子、池内淳子、細川俊夫

映画名と映画の面白さのギャップに可笑しさを感じてしまう。川本三郎さんは「ニューヨーク・ロケで作られた犯罪映画の秀作、ジュールス・ダッシン監督の『裸の町』(1948年)を思いださせる。」と書かれているが、その映画は見ていないので何ともいえないが、フランスのサスペンス映画と言っても良いような隠し撮りの楽しさがある。服部時計店の時計塔の時間表示を映しつつ、銀座の夜の中を動く俳優さん達と一般人の動き、街の明かり、ショウウインドウの光など白黒のよさも含め見所満載である。サスペンスなので捜したり、逃げたりの場面が、通行している人達が不思議に振り返ったり、立ち止まったりしてドキュメント風で臨場感があり、当時の銀座の雰囲気がよく解かる。

恋人(三条魔子)が殺され、その殺人犯に仕立て上げられた男(吉田輝雄)が、女スリ(三原葉子)の助けを借りて、コールガールの組織を捜し出し、警察に捕らえさせるのである。女スリの三原葉子さんが演技してるかどうか判らない自然体の明るい小悪魔さんで、後に時代が要求する作られた小悪魔的個性の女優さんが出てきたが、三原さんのような女優さんがいた事を知ったのは収穫である。彼女はちゃかりどんどん掏って、事件の糸口を掴んでゆく。彼女がそもそも男が上司から預かった物を掏り、それがコールガール組織の会員証だったことが発端なのである。彼女は偶然にも、組織のボスのお金を掏り、組織のアジトに潜入することになる。男もそのアジトを捜し出し二人の素性がばれてしまい、いよいよ殺されるという時、彼女は、いくら地下室といっても音は響くからもっと人のいない時間にしたほうが良いと殺されるほうが提案し、それもそうだと納得させてしまう。ばかばかしいようだが三原さんのテンポに皆、見る側も納得させられてしまう。その時、ボスのポッケトから爪切りを失敬し、それに付いている小さなナイフで縛られた紐を切るのである。制限時間は午前1時半。服部時計店の時計が刻々時間を知らせる。

サスペンスであるから何かが起こるわけで、その爪切りを吉田さんは受け取りそこねて落としてしまう。三原さんは、不器用ねとなじりつつもそれを解決する。さて脱出しようとするとドアには錠前が。彼女は、父が錠前空け屋だったと髪にさしたピンで挑戦し始める。男はもしここで死んでも君のような人と一緒で悔いは無いという。石井監督の脚本のスピーディーさでもあるが、三原さんのキャラは男にそう言わせる吸引力がある。無事逃げ出したところが工事現場。川本三郎さんの力を借りれば「ビルから出ると、目の前は、銀座と新橋のあいだを流れていた汐留川。ちょうど高速道路を作るために工事中で、二人は工事現場のあいだを逃げる。」とある。見そこねたが西洋の古城のような形の映画館「全線座」も映ったらしい。吉田さんと三条さんが築地川をボートに乗りデートする場面ではこの映画館キャッチできた。

「全線座」。おしゃれな名前ではないなと思ったら、昭和6年に公開されたソ連映画、エイゼンシュテイン監督の農村改革を描いた「全線」から付けられたそうである。(「銀幕の東京」川本三郎著) なるほど。

コールガールとして若き池内淳子さんも出てくる。やはり美しい。会社員である男・吉田さんは三原さんにも池内さんにも知られざる世界を案内してもらう事となる。

三原さんが、アジトから飛ばしたSOSの紙飛行機が、彼女を知っている刑事(細川俊夫)に偶然発見され二人は助かるのである。偶然過ぎるが、それが気にならないテンポと洒落と当時の風景がある。サスペンスに引きつけられながら当時の銀座にタイムスリップしているような魅力ある映画である。

追記: 川本三郎さんの本から銀座を探していたが、浅草も出てくるのである。まだ調べていない。

追記2: 『セクシー地帯(ライン)』観直すことができた。「全線座」確認できた。建物に「ホール全線座」とあり、屋上に「ZENSENZA」とある。(現在・銀座国際ホテル)

浅草の場面は、池内さんがエンコは私の古巣として吉田さんを案内する。六区で、夜なので二人の後ろに新世界の五重塔を模した塔が明々と映る。そして浅草日活の前を進む。広告には『大草原の渡り鳥』が。『堂堂たる人生』も同年である。

『昭和浅草映画地図』(中村実男著)には、セキネ(洋菓子)とあるが看板の「ネ」だけが映り洋菓子屋さんらしい。現在はと調べたら、同じ位置のようにおもえるが、セキネはシュウマイと肉まんのお店になっており確定できない。その他、すしや通り、新仲見世が映る。

銀座で、三原さんが吉田さんを追いかける場面で、路地の飲食店に「お多幸」の提灯が映る。日本橋のお多幸さんには行ったことがあるので調べたら、日本橋の前は銀座5丁目にあったということであり、その時のお店であろう。ただ、のれん分けもしていて違う経営のお多幸さんもあることを知る。

映画のタイトルが斬新で、外国雑誌の写真を切り張りして、間にキャストや出演者の名前を出している。夜の銀座、浅草の様子など、やはり魅了される映像の多い映画である。(撮影・須藤登)

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (6) 「女人哀愁」

「女人哀愁」(1937年)こちらも戦前の映画である。

監督・成瀬巳喜男/脚本・成瀬巳喜男、田中千禾夫/出演・入江たか子、伊藤薫、堤真知子佐伯秀男

戦前で古く、映画の題名からして耐えるお涙頂戴の話であろうと思っていたらどうして、戦争は女性の前に進むべき生き方を後ろに戻してしまったのかもしれないと思わせられた。

主人公・広子(入江たか子)は銀座のレコード店に務めている。「銀幕の銀座」にはクラシックのレコードが売れていたという事だから、クラシック音楽にもそれなりの知識があると云う事で、母にダンスなど出来ないと言われ従兄・良介(佐伯秀男)の妹と踊ってみせたりもして、自分の生き方を意識的に古風に押し込めている。その古風さを良介は広子の意思からくる生き方として自然に受け止めていて広子も良介に本心を隠さずに話せる相手である。

広子は父を亡くし母と弟の学校の事もあり資産家の息子と結婚をする。そこでひたすら嫁として嫁ぎ先の家族に仕える。入江たか子さんが華族出身と云う事もあってか、その動きが美しく品があり程よいてきぱきさで苛められているという印象が薄くなんとも小気味良くその美しい動きを見るだけで価値がある。彼女にとってお手伝いとして使われようとそれは覚悟の上でそれに耐える強さはもっている。ただ夫が自分をそれだけの女と思い、それ以外はただ意思の無い美しい人形と思っていることに納得が行かない。夫の妹が駆け落ちをし、その相手から妹に会いたいからと頼まれる。相手は妹のために会社の金を使い込み逃げていた。夫や義父母は自分達に災いが降りかかるのを恐れ居場所を問いただし、相手を警察に突き出すという。

広子は納得できない。妹にそれでよいのかと詰め寄る。妹は自分の役目を理解し相手のところに駆けつける。広子は離縁される。彼女は喜んでそれを受け入れ堂々と自分の意見を述べ婚家から立ち去る。川本三郎さんも書かれているが、イプセンの「人形の家」を思い浮かべる。ノラより自分の意見をきちんと述べ立てられる。離婚後良介に会い、こういう女は困ったものよねというようなことを話す。自分で自分の事を分析できる女性で、良介もそれが解かっているのでへんに同情したりせず爽やかである。母と弟の事もある家庭事情の設定であるから泣きつつ我慢させるのかと思ったがそうはならなかった。彼女は事も無げにまた働きに出るわと前に進むのである。本当は広子と良介がお互いが分かり合える似合いのカップルであるのだが、お互いにそれは出来ないことを前提にしているので、凭れ合う事もなくそれぞれの意思ある人間関係が、見終った後もすくっと気持ちよく席を立つことが出来る。戦前にこうした映画があったことが嬉しい。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (5) 「花籠の歌」

「花籠の歌」(1937年/松竹)戦前の映画である。

監督・五所平之助/原作・岩崎文隆「豚と看板娘」/脚色・野田高吾・五所亭          出演・田中絹代 、佐野周二、徳大寺伸、川村惣吉、高峰秀子

東京のとんかつ屋を舞台にその看板娘とそこに通う大学生の青春恋愛映画である。その当時の銀座、とんかつ屋の二階の窓から見える東京の風景など「銀幕の銀座」(川本三郎著)に興味深く書かれているので読めば楽しく想像できる。映画を観てから改めて読み返し、なるほどと感心させられつつ思いださせてもらった。

とんかつ屋の看板娘・田中絹代さんは溝口監督の田中絹代さんと違って愛くるしくて可愛らしい。溝口監督と田中絹代、小津監督と原節子。確かに演技的にもその計算された美しさも良いのであるが、彼女たちの初期の映画の原石としての瑞々しさがなんとも新鮮である。それに対し高峰秀子さんのちょっとひねた演技には、デコちゃんらしいと笑ってしまう。此のくらいの年齢で、もう大人達に対し素直にはなれないわよという態度があり、誰も真似の出来ないところである。演技指導があっての事なのか、あの子役は面白いからやらせておこうとの判断なのか。役がとんかつ屋の看板娘・田中絹代さんの妹で、どうも女優の勉強をしているらしく、自分が売れる女優になれるかどうか疑問の言葉を吐くが、周りは注目しない。なんせ看板娘に皆の目は集中しているのだから。姉が恋人の佐野周二さんとの事で泣いていると、デコちゃんはどうしたのと心配し慰めつつ、周りの男たちをちらりと見回し、何とか出来ないのとあんた達とでも言っている様である。仲代さんが高峰秀子さんの事を<日本の女優には非常に珍しく、人間のニヒリズムってものをやっぱり強烈に出した人ですよ>(「仲代達矢が語る日本映画黄金時代」)と的確に言われている。

看板娘・お嬢さんに恋焦がれているコックの中国人・李さんは徳大寺伸さんでこの俳優さんが徳大寺伸さんという名前である事を今回はっきり記憶に残した。作詞家・西條八十にあこがれ作詞家を目指していて、お嬢さんに捧げる歌を作りたいと思っている。しかし、恋破れ、とんかつ屋を去るのである。この中国人・李さんのとんかつの腕と看板娘でこのとんかつ屋は持っていたのであるが、李さんが去り、慣れない佐野周二さんが婿に入りどうなることかと思いきや、看板娘の父(川村惣吉)は2年後には<すき焼き屋>にしよう、きっと儲かると言って明るく終わるのである。

原作名「豚と看板娘」が映画名では「花籠の歌」と変わっているのが面白い。これは中国人・李さんの作詞しそうな題名である。

「銀幕の銀座」にとんかつ屋の出てくる映画として、川島雄三監督の「とんかつ大将」と「喜劇・とんかつ一代」、小津安二郎監督の「一人息子」が紹介されている。「喜劇・とんかつ一代」は見ていない。「とんかつ太将」はとんかつが好きで貧しい人達の治療にあたっている医師を中心とした話である。その医師が佐野周二さん。その友人で佐野さんが戦地に行っている間に佐野さんの婚約者と結婚してしまうのが徳大寺伸さんである。「とんかつ大将」は浅草が舞台で、そう簡単にはとんかつは口に入らない。貧しい人にとってあこがれのとんかつである。「一人息子」のとんかつ屋は砂町あたりだそうである。「花籠の歌」で佐野周二さんの友人で寺の息子の笠智衆さんは「一人息子」では、信州の学校の教師で、教師を辞め勉学に燃え東京に出るのである。この先生の勧めで、一人息子を貧しいながらも母は一人で働き続け、東京の学校まで出すのである。母が一人息子に会いに行ってみると、息子は結婚し子どももおり、夜学の教師となり細々と生活し、かつての先生もこれまた細々ととんかつ屋となっている。こちらのとんかつ屋は総菜屋のようである。母にとっては期待はずれの納得のいかない<とんかつ>である。

「一人息子」(1936年)砂町・「花籠の歌」(1937年)銀座・「とんかつ大将」(1952年)浅草・「喜劇・とんかつ一代」(1963年)上野である。

 

自転車のしまなみ海道 四国旅(番外篇)

旅好きの仲間と四国の話から、彼女は自転車でしまなみ海道を渡ったという。青春18きっぷ利用者なのだが、自転車のしまなみ海道は季節的に青春18きっぷでは無理と判断。10月、夜行の高速バスで東京から京都に行き、鉄道の日を記念しての格安切符で(初めて聞く切符である。情報感謝。)岡山から四国に渡り今治へ。そこで泊まり次の日の朝8時、自転車で出発。尾道着午後3時だそうである。尾道大橋は渡らず、向島(東京はむこうじまだが、むかうしまと読むようだ)から尾道渡船でフェリーを利用。

<尾道渡船><フェリー><自転車>。映画「さびしんぼう」ではないか。彼女は映画は見ていないからこちらの反応が解からない。大林宣彦監督の尾道三部作「転向生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の一作である。映画で<さびしんぼう>が出て来た時、この<さびしんぼう>を上手く違和感なくつなげていけるのであろうか。下手すると手口が解かる手品となって白けさせるかもしれないと思ったが、きっちり役目を果たした。尾道のどこか懐かしい石垣の坂道やフェリーで通学する残された風景の力でもあるが、心が<さびしんぼう>という形となってチクチクと痛みを感じさせる。

しまなみ海道をバスで渡る時ガイドさんが、「自転車で渡れるんですよ」と説明してくれ渡ってみたいと思った。そして即、火野正平さんが怖くてこの橋はパスしたことを思い出す。NHK/BSプレミアムの旅番組「にっぽん縦断・こころの旅」である。そのことを彼女に話しすと、その番組は時々見るがそこは見ていないと。こちらも時々見ていてたまたまその旅の部分を見たのである。その話を聞いていた仲間が、あの番組に高校時代の部活が終わっての帰り道、夕焼けの美しい場所を投稿し、残念ながら採用にならなかったという。色々書きすぎて焦点がボケてしまったと反省していた。山口生まれで、「龍馬伝」にはまり、毛利や清盛の瀬戸内海の話など短時間ではあったが、熱く語り聞かせてもらった。でも会津の人は今でも長州は嫌いという人がいると思うとも。たしかに歴史を見ていくとそれぞれ言い分があり、どこかで風が変わってしまうようである。

旅の話にもどすと自転車の彼女は、尾道の夜、予定通り焼きそばとうどんのお好み焼きを二種類食べれて満足のしまなみ海道自転車旅だったようである。

彼女は青春18きっぷで関西から夜行で東京にもどり、その足で再び下り身延山の枝垂桜を見てきた事もある。その行動は理解できる。宿泊までして早朝身延線で身延山に上り、下って身延線で甲府に出ようと思ったのに、身延線出発時間を間違え大幅な時間のロスから甲府周りを諦めたことがあるから。

青春18きっぷで全部という贅沢な旅も体力的にきつくなり、連絡の悪いところは新幹線などを使うが、車窓としては在来線のほうが勝っている。防音のためのコンクリートの壁に挟まれていると旅というより運ばれているだけで楽しみはお弁当か。在来線は4人がけのシートが少なくなり横並びなのでお弁当を楽しむ雰囲気ではない。そこがさびしいところである。

 

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (4) 「君の名は」(一部~三部)

「君の名は」(第一部・第二部・第三部) 1953年~1954年

監督・大庭秀雄/原作・菊池寛/脚本・柳井隆雄/出演・佐田啓二、岸恵子、淡島千景、月丘夢路、川喜多雄二

東京の空襲で出会った二人の男女が、空襲の後、数寄屋橋の上にて半年後に会おうと約束する。もしそれがダメならその半年後に。半年後に女性の氏家真知子(岸恵子)は行けず、1年後に再会。しかし後宮春樹(佐田啓二)は真知子から「明日結婚します」と告げられ成すすべも無く別れる。お互いに名前も知らなかった事から真知子の友人の綾(淡島千景)等の協力で会う前に名前はわかる。さらに真知子の見合い相手の浜口勝則(川喜多雄二)は後宮を一緒に捜してくれる。後宮の姉の悠起枝(月丘夢路)は自分の不幸な結婚と恋人の裏切りから男性不審に陥っており、弟に対する真知子の気持ち程、弟が貴方の事を思っているかどうか解からない、男の気持ちは変わるものであると告げる。それを聞いた真知子は、浜口の親切さと叔父の勧めもあり、浜口と結婚を決意するのである。後に悠起枝はその時の発言を誤るのであるが、この時、自分の意思を変えた真知子の責任でもあり、その事が不幸の始まりでもあり、修正への道のりでもある。

結婚した浜口と真知子の物事に対する考え方の相違が出始め、それは浜口にとって真知子が後宮を忘れられないからだと考え、夫浜口の嫉妬心が増幅していく。おせっかいの綾は、真知子と後宮は運命の二人なのだから一緒になるべきだと考えパイプ役を勝手に引き受けている。この人がいなければ最終的なハッピーエンドは無かったのかもしれないが、静かにしていれば事も無く二人は諦めたのかもしれない。微妙な立場であり、筋立てに変化をもたらす人である。淡島さんならではの役である。屈託なくじれったがったり自分のお節介に呆れたりしていて、嫌味でないのが良い。

真知子と春樹の別れている場所として、佐渡の尖閣湾、北海道の美幌峠・摩周湖、九州の雲仙・普賢岳など観光地も上手く使っている。今見ると自然が自然としての荒々しさが残っている。特に雲仙普賢岳の樹氷は知らなかったので、その氷に覆われた枝々の間からアップで映す岸恵子さんの表情も美しい。

佐渡の尖閣湾では女として押して押しまくり悠起枝から恋人を奪う奈美・淡路恵子さん、じっと耐える月丘夢路さん、自分の生き方を模索する岸恵子さん、自力で生活を切り開いていく淡島千景さん、それぞれの女性像をも菊池寛の原作をもとに大庭監督は冷静に撮っている。さらに、真知子の叔母である望月優子が普通の一般的日本女性でありながら、真知子の環境の変化に伴い真知子の気持ちを代弁していくのが小気味良い。真知子はこの叔母を頼りにしているが、見ている方もこの叔母が出てくると今度は何をいうのであろうかと楽しみであり、その一言に館内明るい笑いとなる。ごく当たり前の事を言っているのだが、ずっと言えないできた一言が効く。

北海道では、アイヌ人であるユミ・北原三枝さんが個性をぶつけ、真知子・岸恵子さんとの馬車で美幌峠を走るそれぞれの表情が興味深い。ユミは真知子に負けじと馬を走らせる。揺られながら真知子は自分の選んだ道を今度は手放さないと覚悟している。北原三枝さんの情念のほとばしりが北海道の自然に負けていない。有名な「黒百合の花」(織井茂子)は歌謡番組の映像では見て聞いていたが、どう映画で使われているのか知りたかったのでそれだけでもこの映画を見た価値がある。映画の中の歌謡曲というものもあるのである。菊池寛という人は女性の個性なり前に進む女性像を上手く書ける人である。甘いところもあるが、突き進ませると成ったら待つ暇など与えない。奈美とユミの自死。

その他、身を売っていた梢・小林トシ子とあさ・野添ひとみの再生。不幸のどん底にいた悠起枝と梢の幸せ。様々の人々の生き方を通過しての真知子と春樹のやっとの春。

古い映画を見ると俳優の層の厚さをいつも感じる。笠智衆、大阪志郎、柳永次郎、須賀不二男なども出ている。さらにこれだけの女優陣を撮る醍醐味もあるであろうが三部作という長さに挑戦した大庭監督の力量もたいしたものである。一回ではあらすじが解かる程度なのでもう一回見たかったが時間的に無理であった。

一部の撮影円谷英二さんの名前もあった。空襲の特殊撮影の担当だったのであろう。音楽は古関裕而さんが担当。映画の中の歌は作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而。

「君の名は」「黒百合の花」(織井茂子)・「忘れえぬ人」「数寄屋橋エレジー」(伊藤久男)・「君は遥かに」(佐田啓二・織井茂子)・「綾の歌」(淡島千景)

佐田さんと淡島さんの歌声は聞いたような聞かなかったような、はっきりした記憶がない。俳優さんの演技に気をとられ最後まで歌の歌詞は残らないものである。歌謡映画として、メロドラマとして、戦後の女性たちの生き方のダイジェストとして、菊田一夫さんのエンターテイメントの代表として楽しみ方は幾らでもある。

 

数寄屋橋の碑  真知子と春樹が再会を約束した橋は今はない。数寄屋橋公園に橋の遺材を残して碑が建てられました。