浅草散策から「いわさきちひろさん」さらに浅草(4)

  • 宮沢賢治さんが浅草オペラを観ていたという記述をみつけた。『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)にである。1983年(昭和59年2月4日)、東京の新橋ヤクルトホールで『宮沢賢治没後50年記念のつどい』があった。「賢治へのいざない」の中で関係者から宮沢賢治さんがペラゴロの一人であったことが明らかにされ、1918年(大正7年)の暮れ以来、上京のたびに浅草オペラに通っていたのである。

 

  • その後花巻農学校の生徒を連れて修学旅行に行った際の函館港を詩にし次のようにうたっている。「あはれマドロス田山力三は  ひとりセビラの床屋を唱ひ  高田正夫はその一党と  紙の服着てタンゴを踊る」(『函館港春夜光景』)このとき浅草オペラはすでに無く、函館港の灯りに懐かしく思い出したのであろう。高田正夫は高田雅夫さんであろう。記念のつどいで田山力三さんは、「浪をけり風を衝く 舟人に海は家」を歌い、「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」と挨拶した。

 

  • 『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」(矢野賢二著)には宮沢賢治さんの「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了(おわ)りてチャリネの子、その影小くやすらいぬ。」(「銅鑼と看板 トロンボン」)を紹介している。チャリネというのは、西洋からのサーカス団「チャリネ曲馬団」が人気を博し、日本人による曲馬団が「日本チャリネ一座」と名乗り、チャリネがサーカスを意味していた。

 

  • 宮沢賢治さんは新しい芸能に興味がありそれを実際の演劇にも反映し、詩のなかにも新しい感覚として使っていたようにおもわれる。灯りと芸を演じる人を上手く組み合わせている。農業に関しても新しい方法を探求し胸の内には既成の物事にとらわれない生命が常にふつふつとわき上がっていた。それに肉体がついていけなかったのである。参考まで少し。「チャリネ曲馬団」を歌舞伎で一幕の舞踏劇にしたのが五代目菊五郎さんの『鳴響茶音曲馬』(なりひびくちゃりねのきょくば)』で黙阿弥さん作である。

 

  • 島津保次郎監督『浅草の灯』は古い映画でもありオペゴロやその当時のようすを面白おかしく紹介しているだけのもの思っていた。ところが、この映画はしっかり当時の浅草オペラとその周辺の人間関係などを撮っているということである。原作は浜本浩さんの小説『浅草の灯』でこの原作自体が架空の小説ではなく事実に即した浅草の生態「正義と勇気と友情と純粋な恋愛に生きた浅草の人々」の生活記録としている。金竜館の裏の射的屋や看板娘とペラゴロの様子。給料の前借りをしてドロンして夜逃げ。舞台と観客の様子など実際にあったことを盛り込んでいるのである。

 

  • 『浅草六区はいつもモダンだった』は、大正の浅草オペラ、昭和戦前のレビュー、軽喜劇、その流れからの戦後の六区の芸能のことが詳しく語られている。驚くのは『鉄砲喜久一代記』を書かれた茂在寅男さん(ペンネーム・油棚憲一)、が浜本浩さんに、自分に弟子入りして小説家にならないかと誘われていることである。茂在寅男さんが海洋小説の懸賞に応募し、その作品を選考委員をしていた浜本浩さんが気に入ったのである。茂在寅男さんは迷ったが海洋学者の道を選ぶ。『鉄砲喜久一代記』は、そのおかげでとも言えるような資料を丹念に調べ、読者の気をそらさない作品となっていて大変参考にさせてもらった。浅草六区に魅かれた起爆剤のひとつでもある。 『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

 

  • 五代目菊五郎さんも驚くほどの新しがり屋で、キクゴロがいてもいいくらいである。舞台に浅草公園を登場させている。イギリス人の風船乗りスペンサーが来日して上野公園の博物館まえでも公開し、それを歌舞伎にしたのが五代目菊五郎さんと黙阿弥さんである。『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』。「高殿」が凌雲閣で、そこに登って風船乗りを見物していた様々なひとが茶店に集まってそのうわさ「評判」をしているのである。そこに圓朝に扮した五代目菊五郎さんがあらわれるということらしい。もちろんその前半には五代目菊五郎さんが歌舞伎版スペンサーとなって演じている。ここでは浅草公園と十二階が歌舞伎に出てきたということだけにする。こちらはこの芝居と反対にそろそろ浅草公園から上野公園の博物館に誘われているようである。

 

  • 面白いことに浅草で不良だったサトウハチローさんの詩の挿絵をいわさきちひろさんが描かれている。いわさきちひろさんは、ずっーとかわいらしいものが好きだったようである。サトウハチローさんは色々なことにたずさわるが、すぱっと童謡詩人にもどる。かわいらしいものや小さいものがお好きなようだ。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(3)

  • 東京都練馬にある『ちひろ美術館』に行ったとき、あの可愛らしい絵の中の子供たちと同じように生きている子供たちが幸せであるようにという想いが伝わってきた。同時にいわさきちひろさんには過去に非常につらいことがあったのだなということを少し知ることができた。戦争のあった時代を生きてこられたわけであるから誰しも悲しいこと、後悔すること、怒りを感じることなど様々な感情を呼び起こす経験はされている。

 

  • ちひろさんが最初結婚されたかたは、自分で命を絶っていた。ちひろさんは自分の意志をはっきりさせず周りに押し切られて結婚し、そういう結果を招いたことに深い自戒の念があった。そして絵を捨てたことにも。前進座公演『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』は、戦後ちひろさんがそこから這い出し、絵で自立する3年半をえがいている。ただ、それと同時も結婚を申し込まれるというところで終わっている。結婚しても絵との結婚を妨げない人からの申し込みであったということになる。

 

  • ちひろさんがどうして絵で自立できたかという過程は知らなかったので芝居を観つつそうであったのかと明らかになる部分がほとんであった。松本から泊るところも決めないで出版社の面接に東京にでてくる。これが自立への第一歩であった。1946年(昭和21年・27歳)のことである。食料難である。泊めてもらえたのが、池袋モンパルナス(芸術家が修練の場所として住んでいた地域)の丸山俊子さんのアトリエであった。丸山俊子さんは丸木俊さんがモデルであるということがわかる。ちひろさんは、出版社にも就職でき、丸山俊子さんの早朝デッサンの会にも参加し、色々な人に絵の批評を受ける。

 

  • ちひろさんは、子供時代お母さんは教師をしており、恵まれた環境で「コドモノクニ」の子供雑誌などにも触れて豊かな感性をはぐくんでいる。絵の仲間たちから『コドモノクニ』とは高価なものを手にしていたんだね。などともいわれる。皆、自分の絵の線を探している。印象的なのは、丸山俊子さんがちひろさんに、人の絵にふらふらしないで自分の絵をめざせという。丸木俊さんは、『原爆の図』を描かれたかたで、いわさきちひろさんの絵とはかけ離れているようにおもえるが、その精神性は一緒であると理解されていたようである。ちひろさんも、自分の意見を主張しないで悲劇が生まれたとの想いから恐らく自分の絵に対する意志は曲げなかったであろう。

 

  • そんな時、紙芝居を制作したいという仕事が舞い込む。その編集者・稲村泰子さんは盛岡出身で宮沢賢治の信奉者でちひろさんも宮沢賢治は大好きであった。意気投合する。紙芝居はアンデルセンの童話で、原作を脚色している『お母さんの話し』である。そのあたりのふたりのやりとりも面白い。ちひろさんに結婚を申し込む人・橋本善明さんは青年活動家で宮沢賢治を知らくて、ちひろさんと稲村さんにずっこけられる。今回この舞台の脚本は、前進座の俳優・朱海青さんでこの作品が脚本家デビューである。よく出来上がっていると思う。下宿のおばさんが庶民の感覚を代弁したりしている。

 

  • ちひろさんは、満州で身体を壊し他の人より早く日本に帰ってくる。そのことも残された人々のその後を考えると苦しいものがった。芝居には出てこないが、お母さんが国のためにした仕事など、その後に見えてきたことに対する贖罪のような感情がたえずあったと思われる。それでも自立し絵に対する気持ちを大切にしようという意思が<私、絵と結婚するの>に現れている。東京での女学生時代、岡田三郎助さんに師事し女性の公募展で入選もしていてその才能は芽を出していたのである。ちひろさんの子供たちには、その芽をつまないでの祈りのようなものさえ感じる。

 

  • 前進座の歌舞伎や時代劇ではない現代物である。役者さんも、現代物でのほうがその演技力を発揮できるかたもおられたのではないだろうか。いわさきちひろ生誕100年に舞台化され新たな前進座の前進となったように思える。ちひろさんの絵の色使いとか線とかも改めて味わってみたくなった。

原案・松本猛/台本・朱海青/演出・鵜山仁/出演・有田佳代、新村宗二郎、松川悠子、益城宏、中嶋宏太郎、浜名実貴、黒河内雅子、西川かずこ、渡会元之、嵐芳三郎、上滝啓太郎、嵐市太郎、松涛喜八郎

 

  • 宮沢賢治さんが自作の戯曲の上演をしたのが、勤務していた農学校が岩手県立花巻農学校となり新校舎落成・県立校昇格の記念式典である。上演したのは『植物医師』『飢餓陣営』である。(1923年・大正12年)『飢餓陣営』は浅草オペラの影響があり、宮沢賢治さんは浅草オペラを見たとされている。まだいつ賢治さんが浅草オペラに接したのか、実証される文献にはお目にかかっていない。あのガチガチに固まってみえる宮沢賢治さんが浅草でオペラを観たと想像するのは楽しいし、それを岩手で実行しようとしていたなら先進をいっている。

 

  • 春と阿修羅』を自費出版したのが1924年(大正13年)で、それを激賞したのが、辻潤さんの『惰眠洞妄語』(読売新聞)と佐藤惣之助さんの『十三年度の詩集』(日本詩人)である。このお二人、浅草の「ペラゴロ」で「ゴロ」はゴロツキではなくフランス語のジゴロ(地回り)からきていて辻潤さんが命名したとの話もある。その「ペラゴロ」が宮沢賢治さんの『春と阿修羅』を一番に押したのであるから浮き浮きしてしまう。宮沢賢治さんの心の中は弾力豊かに跳ねていたとおもえる。

 

  • ちひろ ー私、絵と結婚するのー』のチラシの絵が「窓ガラスに絵をかく少女」で『あめのひのおるすばん』に入っているらしい。早く帰って来ないかなとひとり窓から外を見ているうちに窓ガラスの水滴に気が付きそれに人差し指で絵を画いているのだろう。パンフレットの中にも「指遊びをする女の子」という右手の人差し指を動かして遊んでいるらしい絵。その人差し指が強調されていて少し長い。「絵をかく女の子」は親指と人差し指でクレヨンを持ち絵を画いている。高畑勲監督(合掌)の『火垂るの墓』の節子ちゃんが親指と人差し指にドロップをはさみ口に入れるのを思い出す。

 

  • 映画『アンデルセン物語』(1952年)はダニ―・ケイがアンデルセンを演じるミュージカル映画である。デンマークのオーデンスに住むアンデルセンは靴屋の仕事もせずに、お話を作っては子供たちに聞かせるのである。弟子のピーターは気が気ではない。子供たちが話に夢中になり学校へ行かないのである。町の偉い人達はオーデンスの町から追放すると決める。ピーターは追放をアンデルセンに気づかせないようににコペンハーゲンに行こうと誘いだしコペンハーゲンに着く。ところが、国王の像の台座に登ってしまいけしからんと牢屋にいれられてしまう。アンデルセンは窓から外をのぞくと女の子が寂しそうにしている。友達がほしいのかいといって、左手にハンカチをかぶせ、親指に目鼻を画いて小さくたってくじけないと楽しく歌って聞かせる。そして右手の親指と仲良くなる。女の子は自分の親指をみつめる。女の子は寂しいときは親指姫と遊ぶのかな。

 

  • この映画は、アンデルセンの失恋も描いてもいる。バレリーナに恋をして、『人魚姫』の話しを捧げる。そのお話はバレエの台本につかわれ、恋するバレリーナによって人形姫は踊られるのである。ところが、アンデルセンの勘違いで恋は破れてしまう。病気で頭の毛がない男の子に『みにくいアヒルの子』を聞かせその子は納得して元気になる。その子のお父さんが出版業をしていてアンデルセンのお話しを新聞に乗せる。作家アンデルセンの誕生である。アンデルセンはピーターと故郷へもどるのであった。

 

  • 『人魚姫』のバレエ舞台の振り付けが時代的に考えると新しく誰の振り付けかと思ったらローラン・プティであった。なるほど。アンデルセンの恋するバレリーナはパリ・バレエ団のジジ・ジャンメイルが演じている。ちひろさんのお陰でほったらかしの映画『アンデルセン物語』のDVDの封も切ることができた。ちひろさんのアンデルセンのお話の挿絵はどんな絵であろうか。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(2)

  • 木馬館』浅草でここへ何回も来るとは思っていなかった。浅草そのものが観光ガイド的な場所であった。毎月一回は大衆演劇を楽しむため『木馬館』を訪れる。予定はたてずその時の気分だったり、友人に声をかけて決まったりする。今回は浅草公会堂での前進座『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』の夜の部の観劇を入れていたので昼は『木馬館』と決まった。

 

  • 大衆演劇の芝居小屋によって違うこともあるが、整理券を出すところもあり『木馬館』も出している。その時によって入場者の波があるのを知る。友人を誘い私は予定がありぎりぎりにいくので先に入っていてと言ったところ彼女らしい見やすい席に座っていたので安心した。こちらもほど良い席に座れた。一度など友人と時間を潰してから行ったら整理券がでていて並んでいる。座れたのは一番後ろの丸椅子であった。どこでも観やすいのでそうこだわらないが、先に覗いて整理券のあるときはそれを受け取ってから散策にでかける。要領がよくなってきた。

 

  • サトウハチローさん自身の<木馬館の恋>がある。当時の『木馬館』はジンタが流れ乗り物の木馬が回る小さなメリーゴーランドであった。今もその木馬が建物の外から見えるように展示されている。ハチローさんはこの木馬に乗り続けた。身体の大きなかたであるからあの小さな木馬に乗った姿は想像しても恰好よいものではないが、木馬館の女の子に恋をしてしまったのである。お金は父・紅緑さんに「乗馬をやっている」といってお金をもらっている。おしィちゃんには全然通じていない。告白などできない。

 

  • 以前、今戸の渡し場で船頭の手伝いをしたことがあった。渡しの船で向島から浅草を決まった時間に往復する美しい娘さんに恋をしてしまう。ある日、向島から後をつけると浅草金魚飼育所の看板の家に入った。数日後ハチローさんは意を決し娘さんをお嫁さんにしたいと申し込みことにいく。金魚屋を訪れ兄貴らしい人に、いつも渡しで浅草に行くあの娘さんをお貰いしたいと申し出る。兄貴が言った。あの娘ですか。あいつは俺の女房なのですが。

 

  • そのことがあり今度は木馬館でラムネを売っているお婆さんに仲介を頼むことにした。木馬に乗り過ぎてズボンの内股はすり切れ、両方の手のは手綱のタコが出来ている。喉が渇くのでラムネを日に何本も飲むためラムネ売りのお婆さんとも顔みしりである。お婆さんは、毎日木馬に乗っている人に嫁はこないだろうとあっさり拒否する。このお婆さんはあの女の娘の母親であった。コントになりそうな実体験である。

 

  • 木馬館』の大衆演劇も楽しく大笑いの場面もあった。大衆演劇には笑いのセンスの良い役者さんが多い。何が飛び出すか分からないところがお化け屋敷さながらで、突然変な人が現れる。初めての人は、皆の笑いについていけず何事かと思い、もしかしてあの美しい役者さんがこの人なのかと3歩ぐらいおくれて気が付く。そのうち芝居の笑いに吸い込まれる。ただこの変な人は、恰好良い人に居場所をとられてしまう。そして形が決まって幕となる。まあこれは一つの例で、様々のバージョンがあるので何とも出たとこ勝負である。珍しく、昼夜同じ演目で役者さんが代わるという。残念ながら夜は<ちひろ>さんである。

 

  • 歌舞伎座12月夜の部はAプロ、Bプロとややこしい組み合わせになっているがどうせなら『あんまと泥棒』の松緑さん(泥棒権太郎)と中車さん(あんま秀の市)も入れ替えて演じて欲しかった。それぞれの色があって面白かったと思うが残念である。

 

  • 大衆演劇、舞踊ショーも含めて、またまた楽しませてもらった。東北の友人が、お得な電車の切符のときにそちらに行きたいから計画してほしいと言ってきた。こちらの旅に合わせるというが大きな病気もしているしそうもいかない。温泉かなと思っていたが、そうだ大衆演劇に行こう!というわけで大衆演劇付き宿泊と決めた。よろぴ~!と返信がくる。こちらも手続き簡単で助かった。喜んでもらえるかどうかは出たとこ勝負である。まあおしゃべりだけでもいいわけであるから楽しもう。そしてもう一つ浅草で実行できた。

 

  • 人力車。ついに乗った。大したことではないがなかなか予定もあったりで好い状態でつかまえられなかった。『木馬館』の送り出しは混んでいるであろうと裏から抜けて路地を出たら車屋さんがいた。ラッキーである。乗り心地と目線の高さを知りたかった。そして人の少ないところを。こちらの要求をわかってくれた。車輪はタイヤで座席のクッションもよく乘り心地が良い。観光はいらないと思っていたが、さすがプロである。知らない事を教えてくれる。

 

  • 実際に走って乗るなら樋口一葉さんの『十三夜』や『無法松の一生』の時代の人力車よりも現代の人力車である。特に時間が長いと快適さが違うであろう。車屋さんは説明しつつ、こちらの質問に答えつつスイスイ進んでくれる。路地の四つ辻なども人をよけ上手く回ってくれる。今日は人が少ないということである。江戸通りも停っている車をよけつつ走行車の横を走る。人に対しては邪魔かなと思うが車に対してはなぜか優越感である。高いせいもある。家並みもいつもより高い目線なので古い家並みとして映る。桜の時期の墨田川沿いがお薦めという。いいだろうな。その時は人力車の日として考えなければ。

 

  • 人力車のあとは、車屋さんに聞いた沢山の芸能人などのサイン色紙が飾ってある洋食屋さんへ。壁全面に飾ってある。たまたま座ったところに大杉漣さんのサイン色紙が目に入った。(合掌)浅草でというのが心ならずもうれしかった。さてまだ少し時間があるので駒形橋を渡り吾妻橋からもどることにする。駒形橋の真ん中でカメラを据えている若い男性がいる。気になってずーっとここで撮っているのか尋ねると朝から20分置きにシャッターをきっているという。一つの風景の時間の経過を追っているらしい。別の場所で映して一枚に編集したのをみせてくれた。編集が大変らしい。この風景なら時間の経過がはっきりして素敵な作品になるであろう。写真関係の学生さんだった。吾妻橋に近づくと尾形船の灯りもあって浅草と隅田川の相性のよい風景となる。ではこれからちひろさんに会いに行く。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(1)

  • 浅草の浅草寺境内も確かめることが多い。先ず、「ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。」からである。 『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館) ありました。想像していたよりも小ぶりでしたが、お参りするまえにこの龍神像に逢えるというのもいいものである。高村光太郎さんより光雲さんのほうが身近になりそうだ。
  • 嵐山光三郎さんの『東京旅行記』の中に当然浅草がある。この旅は1990年頃で他二名の三人で回っている。「一人だと本当に蒸発しかねないから、三人でお互いに見張っていた。」とあり、飲んだり食べたり、好きかってな感想がハチャメチャで、吹き出してしまう。日の出桟橋から船で浅草に向かうのであるがそのハスキーなガイド嬢の声に対する反応。「ガイド嬢の低音鼻声は、掛布団かぶって布団のなかで女から秘密をを打ちあけられたような気分で、くすぐったくなる。」こちらはその反応にいぶかしくなる。
  • 吾妻橋に到着し、すぐ浅草寺方向には向かわない。反対側のアサヒビールで黒ビールである。どうにかこうにかやっと浅草寺に御到着である。「本殿の天井を見上げると堂本印象作の飛天が描かれている。この飛天に会いたかった。」一人は好きなタイプだといって目をうるませ、一人は気に入らないようである。著者は、観察しつつ好き勝手なことをいっているが落ちが「どちらかというと好きなタイプです。」とくる。というわけでこちらも飛天様をながめる。三人の印象がのり移っていて可笑しさがこみあげる。現代風の美女であらせられる。遠い平安時代の飛天様ではない。そこがまた気取らない浅草の飛天様ともいえる。

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  • 本堂の後ろの噴水の場所には、平成中村座があって2018年11月の浅草の風景である。浅草は懐かしがりつつも今を楽しむ場所である。
  • 沢山の碑があり解説板もある。今回結構真面目に読んだりながめたりした。『天水桶(てんすいおけ)』 太平洋戦争が激しくなりご本尊の観音さまを天水桶に納め地中深く埋めて戦火から守った天水桶である。『胎内くぐりの灯籠』 江戸時代からこの灯籠の下をくぐると子供の虫封じや疱瘡のおまじないになるという。灯籠自体は新しい。

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  • 活動弁士の碑』活弁の創始者・駒田好洋さんの名前がなかった。生駒雷遊さんは、サトウハチロウーさんが浅草でオペラファンの「ペラゴロ」のころ弁士として大変人気のあったかたである。ハチローさんは帝国座の弁士部屋に古川緑波さんに連れて行ってもらう。詩人仲間でもありえない弁士同士の会話の言語表現に感心する。「海坊主の親類」(ハチローさんはあだ名をつけるのが得意であった)と近づきになった。海坊主の親類は大辻司郎さんのことである。司郎さんは、ハチローさんのお金のないのを知って生駒雷遊さんのところに連れて行く。この男は朝からノーチャブらしくカラケツ詩人なのでハイ両ばかりやって下さいませんかと頼む。雷遊さんは、一円札を司郎さんに渡す。細かくしてあげると外で両替をしてハチローさんの手に50銭玉を一つ乗せ、相互扶助の精神で生きようとのたまった。ハチローさん、感激から感嘆の溜め息にかわった。(『ぼくは浅草の不良少年』玉川しんめい著)

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  • 獅子文六さんなどは、染井三郎さんを最高としている。低い声で抑揚なしで説明するが人の心を捉えたとしている。喜劇では杉浦がクスグリをやらずセンスがよかったが途中できえたようだとあり碑にも名前がない。花井秀雄さんに関しては、八字ヒゲの顔や説明文句まで思い出している。獅子文六さんはオペラよりも活動写真派で外国映画のイプセンの『ノラ』や『幽霊』に感動している。(『ちんちん電車』)
  • 喜劇人の碑』横に名前があり、喜劇人ではない人の名も。それらは世話人の方の名で喜劇人の名は碑の裏にありました。さすが裏技。榎本健一(エノケン)さんの名前もあり、サトウ・ハチローさんとの関係は菊田一夫さんともつながる。エノケンさんは、カジノ・フォーリーから観音劇場で「新カジノ・フォーリー」を旗揚げ、さらに玉木座にうつって「プぺ・ダンサント(踊る人形)」を結成。ハチローさんは、このプぺ・ダンサントの文芸部長になる。しかし流行歌の作詞家としての仕事も加わり忙しく脚本を書く時間がない。あらすじとギャグを提供し5歳年下の菊田一夫(22歳)さんが脚本にしてサトウハチロー作で発表。さらにエノケンさんは浅草松竹座でエノケン劇団を旗揚げする。
  • サトウハチローさんと菊田一夫さんは、古川ロッパさん、徳川夢声さん、大辻司郎さんが常盤座で旗揚げした「笑いの王国」に加わる。古川緑波さんはハチローさんとは早稲田中学での同級生で優等生であった。生駒雷遊さんのところに連れて行ってくれた時にはすでに映画の紹介や批評の仕事をしていたのである。今度は喜劇俳優となり、さらに「声帯模写」というジャンルを作り出す。菊田一夫さんもこうした経験からのちに人気作家として活躍し、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』につながっていく。これらは『ジュニア・ノンフィクション サトウハチロー物語』(楠木しげお著)から参考にさせてもらった。簡潔でサトウハチローさんを通じてエノケンさんの流れも童謡の流れもよくわかった。
  • 中学生の頃、サトウハチローさんは、父の佐藤紅緑さんから何回も勘当されるが、親の七光りも当然ある。田端では室生犀星さんにお金を借りる。役者は大入りが出ると財布の紐もゆるむので新派の大矢市次郎さんなどにもおこづかいをねだっている。新国劇の澤田正二郎さんも劇団でハチローさんを預かったりしているが長くは続かなかった。
  • オペラの演し物のプログラムの第一が新劇、第二が少女歌劇、第三がオペレッタ、第四がグランドオペラとなっている。ペラゴロ組は金龍館党と日本館党に分れひょうたん池の藤棚でたむろしてお互い対向して歌い出す。それを黙っていられないのが中之島の芝生を陣取る活動写真組。ヤジったり喧嘩となったりする。ところが夜の八時になると半額となりその知らせのベルがなると取っ組み合いをしていてもそれぞれの劇場めざしかけだすのだそうである。皆、若さはあってもお金がなかったのである。ハチローさんなどは次第にすべての劇場が顔パスとなる。
  • 石井漠記念碑』谷崎潤一郎さんの筆により「山を登る」とある。獅子文六さんは、石井漠さんが「牧神の午後」を踊ったのを日本館あたりで見ている。ヨーロッパで「牧神の午後」が発表されてそう間のない頃だと思うとし浅草がいかに先端をいっていたかがわかる。獅子文六さんはカジノフォーリーの頃は外国に行っていて日本にはいない。サトウハチローさんは獅子文六さんより10歳年下で、石井漠さんの日本館の楽屋にもたむろしていた時期がある。サトウハチローさんの交友関係は広く様々な分野の卵たちでもあった。

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  • 嵐山光三郎さんの浅草散策のころの六区の常盤座の演し物は、ミュージカル『浅草バーボン・ストリート』で、出演は小坂一也、佐々木功、演出・滝大作、監修・柳澤慎一とある。次回は麿赤児の大駱駝艦の公演で、音楽・坂本龍一、美術・横尾忠則。光三郎さんらは、麿さんが近くのソバ屋にいたから、「やあ」と五秒あいさつして手焼きせんべい屋をのぞき新仲見世通りから浅草寺へと向かうのである。では奥山の碑巡りもこの辺にしておくこととしよう。

 

追記: 黒澤明監督はお兄さんから勧められた映画をたくさん見ていた。お兄さんは映画弁士となり、トーキーの時代となり弁士の生活がおびやかされ組合の委員長もされるが自ら命を閉じてしまわれた。後に映画『綴方教室』で徳川夢声さんが「君は、兄さんとそっくりだな。でも、兄さんはネガで君はポジだね。」といわれたそうである。(「蝦蟇の油」)

 

演劇『大寺学校』から新派『犬神家の一族』

  • 観ていない録画演劇を観なくてはと次は『大寺学校』に挑戦。これも観始めて気分が乗らなくてすぐに止めてしまったのである。新派の大矢市次郎さんが1967年に文学座に客演した舞台である。作者は久保田万太郎さん。大矢市次郎さんの演技お見事。渡辺保さんは大矢市次郎さんのは芸で、一緒に出演している三津田健さんのが演技だと言われいる。そして大矢市次郎さんは歌っていると。

 

  • 明治末の私立学校が舞台で、江戸時代の寺子屋が私立学校として存続したのである。公立にたいする代用学校とも呼ばれた。浅草にある大寺学校の校長が主人公である。窓からは十二階が見えている。女生徒がおしゃれして教室に忘れ物をとりにくる。どこへ行くのかと峰教師にきかれて、観音様の菊市へいくという。菊をささげて別の菊をもらってくるのだそうで、頭痛に効くという。浅草らしい風景がかたられる。

 

  • 峰教師は老校長(大矢市次郎)と意見が合わず学校を辞めてしまう。学校の創立二十周年記念の祝賀会があり、卒業生などが盛り上げる。その様子からすると校長の考え方の古さが垣間見えてくる。峰教師が辞めたのも、平等な扱いとして注意した生徒が校長が長い付き合いをしている「魚吉」の子で校長は穏便にとおもうが、峰教師は自分の意志を通すのである。「魚吉」との関係を、光長教師(三津田健)にお酒を飲みつつ語るところが見事なのである。身体は次第に酔っていくのが演技しているとは思えない自然さである。ところがセリフはきっちりと語るのである。

 

  • 光長教師のほうはも次第に酔っていく。そして三津田健さんは、酔ってしゃべることもはっきりしなくなる様子まで演じている。大矢市次郎さんのほうも相当飲んでいてリアルに語ればろれつが回らなくてもいい状態である。身体はそれを表しているのである。しかしとつとつと語っていく。「魚吉」の先代とは若い頃からの深い友情で結ばれていた。そしてお互い結婚し「魚吉」に娘が生まれる。その娘の婿養子が字が読めなかったので、読み書きを教えたのが校長であった。先代は亡くなるが養子は自分を大切に想ってくれていると自負している。「魚吉」とはそういう関係なのだと語る。

 

  • 時代も変化していて、浅草にも公立学校ができるとのウワサが出ている。その場所が今「魚吉」のある場所で、「魚吉」は土地を売って広小路のほうに店を移すという話しなのである。もし本当なら、大寺学校のそばに公立学校ができるということで大寺学校は当然閉鎖へと追い込まれるであろう。そんな大事なことを魚吉が一番に自分に話さないないわけがないと大寺校長はいう。ウワサでしかないと。大寺校長は浄瑠璃を語る。そして幕である。大寺校長の胸の中にある想いはよくわかる。しかし、今の「魚吉」の学校での娘の扱いに抗議したらしい様子からすると大寺校長の想っているように向うがおもっているかどうかは難しい。

 

  • 大寺校長は、子供たちの家庭環境もよくわかっていて細かく目を配っている。学校経営も昔ながらの地域の情と情のつながりのようであるが、祝賀会の幹事たちの様子からすると周囲も違ってきているらしい。そのことが大寺校長には見えていないし周囲も面と向かっては言えない雰囲気である。お酒は好きなようであるが晩酌も日曜だけのようで、言葉としては出てこないが、教育者として仕事のあるときは何があるかわからないと考えているようである。そういう律義さが見える。最後の語りは、観客が大寺校長のそばでお酒を酌み交わしながら話に耳を傾けている気分に浸らせられた。これが歌うということなのかと思った。

 

  • 新派『犬神家の一族』を観て新派というものをもう一度考えさせられた。『犬神家の一族』は横溝正史さんの良く知られた推理小説である。それゆえ誰かが殺されてなぜということになるのである。前半は自分の息子が殺されたということで犬神家の次女・竹子と三女・梅子が嘆き悲しむのであるが遺産相続の権利がなくなるということもあってかなりヒステリックに叫び、いたしかたのないことであるが食傷気味であった。それが改善されるのは、何者かわからないお琴の師匠・宮川香琴がの水谷八重子さんが語り始めるところから空気が変わった。

 

  • 白いマスクをかぶった長女・松子の息子・左清(すけきよ)と復員兵と青沼静馬の存在がそろそろ金田一耕助のなかで熟し始めていることも予想できる。内容をわかっているのであるがそれをどう展開させるのであろうかと、やっとここから芝居にのっていくことができた。もうひとつ気になったのは松子の殺しの場面を見せたことである。まあそれはいいとして、水谷八重子さんの語りから、波乃久里子さんに流れがいくことによって新派らしいセリフ劇となってきた。そして、喜多村緑郎さんの謎解きとなりそれを助けるのが佐藤B作さんである。謎解きの助けではなく、皆の驚きを静めて金田一が語りにやすいようにしてくれる功績である。

 

  • 展望台を舞台上で上手く使われていた。左清と復員兵との争いの場や最後の警察との撃ち合いも。あのマスクは、セリフが聞きづらかった。傷もありマスクをかぶっているからのリアリティよりも声の質での変化で聞かせた方が二役の面白味があるとおもう。新派としての語りを歌舞伎から移った若き役者さんはこれからも心してさぐっていってほしいと思う。大矢市次郎さんの大寺校長をみてそう思った。水谷八重子さんと波乃久里子さんはもっと強くご自分の芸を主張すべきである。

 

  • 脚色・演出は齋藤雅文さんであるが、近頃すこし理詰めで盛り込み過ぎではと感じるところがある。遺産相続のややこしさ。斧、琴、菊の犬神家の家宝と殺人の関係。戦後の生糸の衰退。戦争で起こった悲劇。そして、なぜ犬神家の当主がこんな遺言をのこしたのであろうかの提示。観ている方も最後は、金田一耕助さんの喜多村緑郎さんが優しく新しい命を授かった小夜子に優しい言葉をかけて去るところが、新派らしいなとの想いであった。

 

  • 新派は、なにをやってもその時代とその場所の雰囲気と佇まい、新派の語りとはなにかを追求していくことが要求されている劇団である。そのことが大切なことに思える。大矢市次郎さんの大寺校長は、新派に対して思う、思う、思う、としきりに思わされる芸であった。小さな場所からその地域性と時代をあらわす世界。大きく見えても人間の欲だけが渦巻いている世界。どちらの世界も新派として進むことは可能である。と思った。

出演/水谷八重子、波乃久里子、瀬戸摩純、河合雪之丞、浜中文一、春本由香(交互出演・河合宥季、喜多村緑郎、田口守、鴫原桂、佐藤B作 etc

『犬神家の一族』新橋演舞場 11月25日まで

 

  • 新橋演舞場の夜の部が終って歌舞伎座の前にくる。もしかして最後の『双面水澤瀉』が観れるのでは。どんぴしゃり。最後の一幕に間に合った。観て10日ばかりしかたっていないが、舞踊が一層しっくりとしてきたようである。一か月公演は若い役者さんにとっては幸せなことだなあと感じる。責任感をも背負って生き生きして観えた。

 

演劇録画鑑賞『雨』

  • 猿之助さんが亀治郎時代に井上ひさしさんの芝居『』に出演していた。実際には観ていないがテレビの録画があった。一度挑戦したが10分ほどでやめてしまった。猿之助さんは今月は法界坊という汚いなりの役であるが、こうした役は『』以来だという。そうなのである。汚いなりで亀治郎さんは聞き役であまりしゃべらないのでそれで止めてしまったのである。ここから膨大なセリフとなる。江戸から<金物拾いの徳>は、山形に行く。その土地の方言を寝る時間を割いて練習し、違う人物の特性を知り身に着けるために必死となる。その努力は死への道であった。

 

  • 予定外に早く予想しなかった死がやってくるのであるが、或る面では人の生きるということもそういうことであるようにもみえる。ただ怖いのは徳だけ知らないで周りは皆、徳の死のために動いていたのである。自分たちが生きるために。集団の同調する怖さでもあり、そしてそうしてしか生きていけない悲しさでもある。観客はラストになるまでそのことはわからない。その隠蔽さは観客にも見抜けないのである。それがまた怖い。言ってみれば観客もその一員になっているということである。

 

  • 金物拾いの徳>は、自分は生まれながらの金物拾いでこれからもずーっと金物拾いであると思っている。両国橋下で徳は紅花問屋の主人・喜左衛門と人違いされる。徳は相手にしないが、その男は信じて疑わない。あなた(喜左衛門)が急に居なくなって、美しい女房のおたかさんもあなたの帰りを待っているという。<美しい女房>。これに徳はまず魅かれる。ちょっと行ってみようかとでかける。途中徳を悩ませるのは方言である。行く土地、行く土地で違い、語尾になにかをくっつければよいのかなと思えばそんな単純なことではなかったりする。

 

  • 羽前平畠藩に入り、やはり帰ろうとすると乳母が現れ喜左衛門さんだといって大喜びである。乳母が疑わないのならと徳は天狗にさらわれて言葉も頭のなかも奪われてしまったことにする。女房・おたかも喜び、周囲もやんやと騒いで寝屋へと送り出される。ここで人違いとばれるであろうと徳はひやひやするがなんとか通過することができる。最初徳はなり澄まして金目の物を持って逃げようとするが、いやいや待て、おたかのいるこの生活を続けたいとおもいはじめる。疑っているものは多い。そのための努力は惜しまない。このあたりは健気な徳である。

 

  • しかし、正面から邪魔立てする人間があらわれる。徳はその人間を消していく。喜左衛門には深い仲の芸者がいて、徳が喜左衛門でないことを見抜くのである。そしておたかが違う人であると知っていながら自分をかばってくれたことを知る。そのおたかに徳はますます情愛を感じていく。ここも重要な罠の一つだったのである。徳と同じように観客にもその罠はわからない。(わたしだけで他の人はわかっていたかもしれない)紅花の造り方の極意も知り、徳を喜左衛門その人であるとおもう人がほとんどとなる。

 

  • 徳に知らされていなかったことがあった。徳が喜左衛門と会ったとき「俺は殺されない」というようなことを言っていたので、あれ!と思った。徳は気がつかない。それは喜左衛門が切腹することを定められた人なのだという事である。すべてはそこに集約されていたのである。それを知った徳は、自分は喜左衛門ではなく徳だという。ところがそれを証明してくれる人は、徳が自分ですでに消していたのである。

 

  • 喜左衛門(徳)が死んで、弟(喜左衛門)がおたかと結婚することになっていたのである。感想で猿之助(亀治郎)さんが、本物の喜左衛門が死んで徳が生きててもいいかもといわれたが、私もそう思った。徳は努力に努力をして言葉も喜左衛門の頭中も手にするのです。その一途さが愛すべき徳となっているのである。徳がなぜと思うようにこちらも、それはないでしょうとおもってしまった。すべておたかに対する徳の気持ちから端を発していて、おたかの情愛と信じていた徳である。ところがおたかはもっと広い人間関係である藩や農民を集約した代弁者であり実行者だったのである。

 

  • 金物拾いの徳>は金物を見つけるとすかさず拾った。<喜左衛門の徳>は、<金物拾いの徳>の習性さえも捨ててしまっていた。拾わなかった五寸釘に刺されてしまう。たかは死んだ徳を抱きかかえ、あなたのことは一生忘れませんというのである。こちらは徳の気持ちになって、御冗談じゃない、死んでからまであなたに操られたくない思ってしまった。でも、徳はそれで満足するかもしれないなあ。自分では想像もしていなかった人間になれたのだから。能であれば、亡霊がでてきて語るのであるが。徳は<金物拾いの徳>が本物なのか<喜左衛門の徳>が本物なのか。ただ<喜左衛門の徳>は、周囲から上手く誘導されて作られた徳であることは確かである。

 

  • 徳の亀治郎さんは、やはり歌舞伎役者の亀治郎さんであった。もう歌舞伎役者に作られた身体表現なのである。歌舞伎役者がやるものは全て歌舞伎であるというゆえんがわかる。この芝居は江戸時代の話しなので特にそれが顕著であった。しかしそれは良い方に生かされ、世話物の上手さが出ていた。次から次へとためされる場面が続くが飽きさせないだけの巾があった。おたかの永作博美さんは明るくてこんな人がだましたりはしないとたかをくくって騙されてしまった。井上作品の唄とそれに乗った動きも、このにぎやかさにも騙されたことを後で知る。

 

  • 方言が一つの地域の約束ごとでそのことが結束を固めていることも改めて感じる。外から観るとそれは可笑しさも誘うが、中に入るものにとってはバイブルのようなものである。そういえば、徳が死ぬ場面の後ろの梁と柱は十字架のようにもみえた。よそ者を誘い出し中に入らせて犠牲としたのである。色にふけったばっかりには結構あちらこちらにあるわけである。この芝居が気になっていたので片づけられてよかった。徳の双面であった。井上ひさしさんはこの若き新しい舞台を観ておられないのである。残念。(2011年上演)

作・井上ひさし/演出・栗山民也/音楽・山田貴之/出演・市川亀治郎(現・猿之助)、永作博美、山本龍二、山西惇、たかお鷹、花王おさむ、梅沢昌代、etc

 

11月 「国立劇場」「歌舞伎座」

  • 今回はあらすじについて触れるかどうかはいまのところ未定である。自分のなかでこうなってこうなるとすっきりさせたくなれば書くであろう。どちらも歌舞伎音楽に惹きつけられたのである。音楽を言葉で表すのが厄介である。とらえられないのに気にかかる。ジリジリした状態であるが、観劇は楽しかった。時間の前後が目茶目茶なのであるが、ラジオを聴いたことが触発されているかもしれない。

 

  • NHK・FMで金曜日、11時~11時50分『KABUKI TUNE(カブキチューン)』という放送がある。昨年までは『邦楽ジョッキー』であったのがかわったのである。すいませんが聞いてるわけではありません。興味は非常にあるのですが。パーソナリティーが歌舞伎役者の尾上右近さんで、正確には、清元栄寿太夫(7代目)の名前もありまして今月の歌舞伎座では、清元も語られて役者としても出演されるという劇的な登場をされている。

 

  • ラジオの『KABUKI TUNE(カブキチューン)』で、歌舞伎座からの録音中継をするというので今回は興味があり聞いたわけである。それも再放送。朝の5時~5時50分。その日一日の生活時間に狂いが生じ、国立演芸場の「花形演芸会」の申し込みを忘れたというおまけつきである。気が付いていたとしても購入は無理だったと思うが。ラジオのほうは歌舞伎楽屋の臨場感があり聞いた甲斐があった。そのなかで竹本葵太夫さんがしびれるような素敵な声で出演されていた。その時は、国立劇場の『通し狂言 名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』を観たあとであった。葵太夫さんが浄瑠璃を語られる「大岡邸奥の間庭先の場」が見せ場であった。

 

  • 葵太夫さんは、歌舞伎座の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』でも語られていてお忙しい月である。この舞台の石川五右衛門の吉右衛門さんの大きさと真柴久吉の菊五郎さんが上と下でバランス良く対峙して、内容なんてどうでもいいような歌舞伎の醍醐味であった。そして思ったのは、歌舞伎役者さんは体の中に浄瑠璃の音が入っていないとその動きに大きさと面白味が加わわらないのではということである。ただ観ていてもそれがこうだとはわからないし説明できない。何か息の詰め具合の微妙さがあるような気がする。

 

  • 葵太夫さんがラジオで言われて印象的だったのは、竹本では葵太夫さんが一番上なのだそうである。教えてもらえる先輩がいない。清元は沢山先輩がいていいですねと。そうなのかと驚いた。江戸からの音楽は伝えていかなければならないわけでそちらも大切である。歌舞伎は演者も音楽もナマが本来の形である。その基本を守りつつも新たな試みもしていかなければならないわけで、若い歌舞伎役者さんに求められているのは新旧二刀流の構えである。となると、尾上右近さんは三刀流でなければならないとうことになる。ということは、『ワンピース』のゾロということか。口にも刀。

 

  • 国立劇場の『名高大岡越前裁』は天一坊改行と名乗る男が八代将軍徳川吉宗のご落胤(らくいん)だとして世の中を騒がせそれを大岡越前守が名お裁きをするという話しであるが、実際には大岡越前守はこの事件にはかかわっていなかった。どなたが裁かれたのかしりたいところであるがそれは置いといて、この芝居では、大岡越前守は切腹まで追い込まれるという危機一髪のところで証拠がそろい、お裁きとなる。この切腹場面が「大岡邸奥の間庭先の場」である。

 

  • 白装束の大岡越前守と妻・小沢の間には息子の忠右衛門も自分も切腹をさせてくれと父に頼みこむ。大岡の梅玉さんと小沢の魁春さんに挟まれ、市川右近さんがきっちりと演じられ、その臨場感を守られた。浄瑠璃の語りはあるが、梅玉さんと魁春さんは大げさに演じるわけでもなくむしろ淡々としているのであるが、その覚悟のほどは広い劇場に浸透していく。大岡はすでに将軍の怒りをかい閉門の身でありながら再吟味の場を作り証拠が不十分で覆せなかったのである。立ち回りが一切ない舞台だけにこの場で大岡の窮地を家族の情で伝え、さらなるお裁きへの踏み台としての場面としてよく出来上がっていた。

 

  • 歌舞伎座での『十六夜清心』での清元にのっての極楽寺の僧侶・清心と遊女・十六夜との心中である。清心の菊五郎さんと十六夜の時蔵さんの身体の音楽性の年季が如実であった。自然に心と体が動いて行く。栄寿太夫さんの声綺麗である。ただ清元も詞を聞き取るのは難しい。心中した清心が泳ぎが上手で死ねなかったのであるが、再び死のうとして端唄が聞こえてくる。端唄は聴きやすい。端唄を聴いて清心が死ぬのをやめてしまうのがなんとも可笑しい。浄瑠璃系はむずかしい。若い栄寿太夫さんによって若い方が清元になじまれ、より歌舞伎の深さと楽しさを探られることを期待する。こちらは、曲と離して読むことから始めないとだめなようである。

 

  • 文売り』は清元の舞踏である。雀右衛門さんが一人で踊る舞台はめずらしい。文売りという恋文の代筆業のことであり、それを売って歩く女性が登場する。現れた場所が逢坂の関ということで二つの道が一つになるという恋の成就をかけているのであろう。様々な人物の踊り分けもあり、詞を調べて目を通してから観ると楽しさが増すことと思う。『素襖落』は狂言を舞踏劇にしたもので、太郎冠者がお姫様に素襖をもらって主人らと取り合いになるという喜劇性だけが頭に残ってた。ところが竹本の義太夫と長唄両方の登場となる。松緑さんは最初から愛嬌ある表情で、喜劇性と那須の与一の扇の的を射る踊りもあるというものである。それも酔いつつなので、こんなに大曲の踊りだったのだと思わせられた。

 

  • お江戸みやげ』は、舞台が開いた時、この芝居は歌舞伎座では広すぎるなと思わされた。結城紬の行商人の話しで色彩的には地味な人情物である。お辻の時蔵さんとおゆうの又五郎さんの演技の機微は申し分ないがそれが伝わるには広すぎる。お辻は、お江戸の大切な思い出ともなる人気役者の片袖を貰い。この片袖、『名高大岡越前裁』でも重要な意味がある。法沢(天一坊)が自分が死んだと思わせるために片袖を使うのである。後にこれが命取りの証拠となるのであるが。法沢の右團次さんも好い人とおもわせてさらさらと悪事を働いて行く。それに加担する弁の立つ山内伊賀亮の彌十郎さん。悪事の役者もそろい名お裁きの一件も落着。テレビでの大岡越前といえば加藤剛さんである。(合掌)

 

  • 隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 法界坊』は、『ワンピース』の仲間たちが歌舞伎座に集結の感である。ルフィの猿之助さんが法界坊で、いいだけ仲間たちに絡んでいる。一番絡まれているのが手代の要助の隼人さんで実は松若丸で、「鯉魚の一軸」を探している。え!大阪・松竹座で一件落着だったのではなかったの。あれからまた紛失したらしい。絵の鯉はもどったが軸の本体は人の手から手えと移動してのてんやわんや。ルフィの代役をした尾上右近さんのおくみは代役のお礼の意味か、法界坊に言い寄られてしまう。そして文売りが書いた恋文ではなく法界坊本人が書いた恋文が道具屋甚三の歌六さんに読み上げられてシュン。要助は番頭の弘太郎さんにも落とし入れられる。はっちゃんよりはまっている。いい男はひたすら笑わずに耐える。うむ!

 

  • 双面水澤瀉」では、法界坊に殺された野分姫の種太郎さんと甚三に殺された法界坊の猿之助さんの亡霊が合体して、もう一人のおくみとしてあらわれる。肉体の猿之助さんが、常磐津と竹本の掛け合いで野分姫と法界坊の踊り分け。亡霊を退治する観世音像をかざす渡し守おしずの雀右衛門さん。音楽と肉体。肉体と幽霊。三浦雅士さんの講演の話しが重なってくる。(寺山修司展記念講演『ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウシュ』神奈川近代文学館)かなりいびつなモンタージュが頭の中を駆け巡る。書き手本人だけが面白がっているのでほっといて自分で観劇するのが一番である。

 

『満映とわたし』に登場する映画『無法松の一生』(3)

  • 岸富美子さんと内田吐夢監督は中国の人々に映画の編集理論と技術を教えることになる。富美子さんにとっては内田吐夢監督と一緒に教壇にたてることは夢のようなことであった。富美子さんは、編集におけるモンタージュを教えるために映画『無法松の一生』(1943年・昭和18年)を選んだ。阪妻さんの無法松である。あの映画の終盤の盛り上げかたを編集によってどう工夫しているか。モンタージュとは何かを語りたいとしている。この映画の撮影は宮川一夫さんで、彼の出世作となった。富美子さんもそれを喜んでいる。宮川一夫さんは、アメリカで亡くなった兄・聡さん(次男)の一年後輩にあたり兄と大変親しかった。家庭の事情もしっていたので日活時代は富美子さんを慰めてもくれた。

 

  • 「映画のクライマックスは、カッティングに次ぐカッティングで、すばらしい臨場感をだしている。坂東妻三郎の演じる車引きの無法松が櫓太鼓を叩くカット、海で波しぶきが上がるカット、祭りに集まる群衆のカットが、打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、目まぐるしくモンタージュ(編集)されているのだ。」編集は西田重雄さんでもの静かなかたであったので富美子さんは、そのギャップに驚いたようである。内田監督も賛成され、リズムと音の必要性とそれと画をどうやって組み合わせるかを講義されたらしい。聞く方の真剣さも想像できる。

 

  • かつてテレビで映画と音についての番組があって、ヒッチコック監督の映画『サイコ』で女性が車で逃げる場面を音ありとなしでやっていて、音楽が加わることによる緊迫感とスリリングさが増すことについて解説していた。無しと有りでは全然臨場感が違っていた。反対に音がなくて不気味なのが映画『鳥』である。何事もないように電線だった思うがそこにとまったカラスが映される。ベンチに座っている女性が映され、再びカラスを映す。それが映されるたびにカラスの数がふえているという怖さ。『鳥』についてはちょっと記憶があいまいなのであるが見つかれば観直したい。

 

  • 映画『無法松の一生』は稲垣浩監督で、吉岡大尉未亡人に対し車夫の松五郎が未亡人に対する気持ちを打ち明けた部分が内務省の検閲で削除されてしまう。戦意高揚にふさわしくないということである。そして戦後は、戦勝の提灯行列の場面がGHQに削除される。稲垣浩監督は、完全版として1958年(昭和33年)三船敏郎さんでリメイクしている。小倉祇園太鼓を叩く松五郎は、無学の自分がボン(敏雄)の高等学校の先生の役にたち、さらにボンの役にたったと自信に満ち高揚した場面である。リメイク版から想像するにその高揚感と吉岡未亡人がお化粧したのをみて、高等学校の教師の出現にも少なからず動揺し、秘めていた気持ちをおさえられなくなった。そのあとは、お酒の力のみで生き、死をむかえるのである。

 

  • 1943年のほうは、言ってみればズタズタに削除されているが、白黒で風景が明治に近い感じがする。阪妻さんの松五郎に対し吉岡未亡人を演じているのは広島の原爆で亡くなられた園井恵子さんで、松五郎だけではなく支えてあげたくなるタイプである。リメイク版は高峰秀子さんで、もしかすると一人でも頑張っていけそうかなと思わせるが、カラーでもあるし三船敏郎さんの強烈さに対するには好い組み合わせである。脚本は伊丹万作さんで、リメイク版には伊丹万作さんの脚本を守るぞというように稲垣浩監督の名前も脚本に加えてある。この時すでに伊丹万作監督は亡くなられている。

 

  • 1943年版は、松五郎が、かえり打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ打ちと打っていき、そこからモンタージュが使われ、そのまま思い出の場面へとつながり、回っていた人力車の車輪が止まる。そして雪景色が映る。そのあとに松五郎の遺品を整理する場面となるので、松五郎が吉岡未亡人に自分の気持ちを伝える場面は完全に削除されているわけである。松五郎が自分は汚れていると苦悩する場面がなく、竹を割ったようなさっぱりとした人間として締めくくられているのである。吉岡未亡人からもらったお金には手を付けず、さらに少しずつ未亡人とボンの名義で貯金していたのである。無学ながらも自分の生き方を貫いたヒーローとして当時の観客は涙したことであろう。本来の映画は、人間松五郎にも踏み込んでいたわけである。

 

  • GHQに削除された部分は宮川一夫キャメラマンが所有していて、DVDでは、その部分を挿入した映像も観ることができる。ただ音は無しである。なぜ宮川一夫さんが持っていたのか。それは映像の確認用として所有していたのである。提灯行列と花火を重ねて写っているが、それは編集機器が発達していなかったため、キャメラで合成しつつ撮影していたのである。その他、フイルムの感度やキャメラの性能が低いため、夜の撮影は夕景撮影で、そのあとで処理して夜景としたようである。そのため、宮川さんはその撮影具合を自分の目で確認したかったのであろう。当時のスタッフの力量と苦労のあとがかえってわかることとなった。だからこそ満映の映画人は映画機器を守るべく奔走したのである。映画人の想いは、日本にいても、満州にいても変わらなかったのである。

 

  • 『大アンケートによる 日本映画ベスト150』という本がある。初版が1989年であるから昭和から平成に変わった年にだされている。この本を参考に映画を選んだ時期もあったがずーっとご無沙汰であった。久しぶりで観ていない映画を数えてみたら120本は観ていることになる。この本から離れて違う繋がりで観ていた映画もその後たくさんある。『無法松の一生』は8位で観た人の観た時の感想が載っている。

 

  • 「小学生の頃お使いに行く時、阪妻の車夫のかけ足にホレて、あのガニ股的歩きをマネてよく転んだ。」「戦中の中学生に、庶民の男の美しさを教えてくれた。」とあり、広く子供たちにも松五郎は印象に残ったようである。さらに、「学徒出陣でもう映画をみることもあるまいと思いながら見た忘れがたい作品。」「産業戦士慰問映画として感激しながら見たのを覚えている。」当時の人々は、削除されたことなどには関係なく自分の想いを映画の中にぶつけていたのであろう。

 

  • 伊丹万作監督が岩下俊作さんの小説『冨島松五郎伝』を映画化しようとしたが病臥中のため稲垣浩監督が撮ることになったとある。そうであったのか。稲垣浩監督はリメイクして完全版を残し伊丹万作監督に代わって作品を守り通したわけである。松五郎が継母に辛くあたられ4里離れた父の仕事場へ一人行く田んぼの風景は、こんな美しい風景があったのかと見惚れてしまう。そのあと、木々の中をお化けに追いかけられているような怖さを味わう場面などは映像的工夫を凝らしている。リメイク版は削除もないだけに、人力車の車輪の回転場面の映像が松五郎の気持ちを代弁するように何回も登場する。一度止まった車輪がよっしゃ!もう一回走るぞと生き込んでいるようであった。

 

『満映とわたし』に登場する映画『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(2)

  • 山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)には、富美子さんの兄・福島威さん(五男)が山中監督に指名されるようになり大喜びで参加、福島宏さん(四男)もチーフキャメラマンとして参加している。この映画のユーモアさが好きである。まだ映像にお二人の名前はないが参加したことを知ってさらに裏で頑張る映画人の息を感じる。音楽にも気をつけながら観る。「とうりゃんせ」が色々なバージョンでながれていた。丹下左膳の一作目が大河内傅次郎さんだそうで、それまでの丹下左膳像を見事に変えてコミカルにしている。殺陣も少ない。(古いので完全版なのかどうかはわからない。GHQなどによってもカットされたりしてもいるので。)

 

  • 丹下左膳の大河内傅次郎さんは矢場の用心棒でその経営者の女主人が歌手の喜代三さんで、ふたりのやり取りがいい。大河内さんのコミカルさと歌手の喜代三さんのさらりとした伝法さを上手く引き出しぶっつけている。喜代三さんも三味線を弾きながら『櫛巻きお藤の唄』を歌われていてさりげない粋さをだしている。ただ丹下左膳はお藤の歌を嫌い、熱が出るといって置物の猫を後ろ向きにして抵抗し座をはずす。「お酒がまずくなるなら量が減って結構な事よ」と即、お藤にやり込められる左膳。

 

  • 矢場の客がゴロツキに殺されてしまい、その子を引き取ることになる。お藤は孤児になった子を「こんな汚い子はいやだよ」といいつつ、ぱっと画面が変わるとご飯を食べさせている。「なんでわたしが」といいつつ、パッと画面が変わると一緒に暮らしている。その軽快な転換が上手い。山中監督流で、編集するひとは驚かれながらなるほどとおもったであろう。このテンポがからっとした空気とクスッの可笑しさをさそう。

 

  • 百萬両の壺とは、柳生家の「こけざるの壺」が百萬両のありかを隠している壺と判明する。ところが、この壺は兄が江戸に養子に行った弟に祝いとしてやってしまっていて、それを取り戻そうと家来が江戸におもむく。しかし、あまりにも汚い壺なので弟は屑屋に売ってしまい、屑屋は長屋の子供の金魚入れにやってしまったのである。この子が孤児となり矢場で暮らすことになった安である。この矢場に養子の侍が遊びに来てすったもんだのすえ、壺は安が持ってきた金魚の壺とわかり、養子の手もとに百萬両の壺はもどるのである。しかし呑気なもので養子は壺を探すと言って盛り場で遊んでいられるため、手に入れたことは隠して左膳にしばらく壺を預かってくれといってエンドである。

 

  • 途中、左膳がどうしてもお金が入用になって道場破りにいった先の道場主がこの養子でお互い驚く。左膳は養子に頼まれて負けてやりお金を受け取りお金を作ることができるのである。これも安のためであった。そして道場の弟子たちとの試合が唯一立ち廻りといえる。一歩を大きく飛んで勝負がついているという殺陣である。痛快時代劇としては立ち廻りが少い。左膳とお藤と安の偶然に出来上がったホームコメディーともいえる。教育方針でも二人は対立し、相手の様子をうかがいつつ安のことを心配するのである。左膳は暴漢に襲われるとき安に目をつぶって10数えろといって一刀のもと斬ってしまい二人が通りすぎてから暴漢は倒れる。左膳は自分の腕を見せるのではなく、安に人を殺すところをみせないのである。

 

  • 大河内傅次郎さんの丹下左膳の映画に出演した高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』によると、大河内傳次郎さんは強度の近眼で、それでいながら本身の刀を使うので切られ役の俳優さんは大変だったようである。ご本人がチャンバラの最中に縁側を踏み外して庭へ転落したり、石燈籠にぶつかったりするのでまわりの人間はハラハラしながら左膳を目で追っていたという。高峰秀子さんはさらに、大河内さんはセリフおぼえも悪く、運動神経もあまり優れているとは思えない。しかし、「近眼だからこそ、思慮深く見え、セリフを思い出し、思い出ししながらする芝居の「間」が、なんともいわれぬ「味」になっていた。」と書かれている。

 

  • 高峰秀子さんは女人禁制の嵯峨小倉山の「大河内山荘」に招待され、そこで並んでの写真撮影の許可がおりている。それまで「大河内山荘」の内部の撮影は禁止されていた。秀子さん16歳の乙女の時である。気に入られたのであろう。大河内さんの左膳に秀子さんが出演した映画は、『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』(1939年・川口松太郎作・中川信夫監督)である。高峰秀子さんは、この前篇は、千葉周作に片腕を斬り落とされた左膳が土手を突っ走って逃げる長いカットは息をのむ名演であったという。前篇とありここがよくわからないのであるが観たいものである。一作目の左膳も観たいがフイルム残っているかどうか。こういう仕事のお金は「大河内山荘」を作り上げるためにつぎ込まれたらしい。

 

  • 高峰秀子さんがいう「間」は、『丹下左膳余話 百萬両の壺』では喜代三さんに「どうしてよ」とさらさらっと言われると口ごもってしまうあたりがなんともいいのである。左膳がすぐセリフがでないほうが二人のやり取りを面白くさせるのである。大河内さんの不器用さを山中監督は計算に入れて撮っていたであろう。そこがおもしろいのだと。福島威さんは富美子さんにも山中貞雄監督のことは、はすばらしい才能であると話していて喜び勇んで仕事をしていたようである。しかし、その他の仕事も引き受け本人の想いとは反対に身体の方がついていけず肺を患い命とりとなるのである。家族のためと同時に仕事にのめり込んでいった若き映画人の名前が残されたことにより映画や、山中貞雄監督への献花ともなっている。
  • 構成・監督・山中貞雄・(小文字)萩原遼/撮影・安本淳/録音・中村敏夫/音楽・西梧郎/編輯・福田理三郎/出演・大河内傅次郎、喜代三、宗春太郎、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子

 

  • 丹下左膳が映画に登場するのは『新版 大岡政談』(1929年)である。DVD『阪妻 坂東妻三郎』の中にほん少し『新派 大岡政談』の大河内さんの左膳の立ち廻りが映っていた。講談などで大岡越前守の名お裁きが題材とされた話しが多数できあがり、林不忘さんが小説として『新版 大岡政談 鈴木源十郎の巻』のなかに丹下左膳を登場させた。映画『新版 大岡政談』の映画も幾つかつくられ丹下左膳がヒーロー化していって「丹下左膳」が独立したようである。『新版 大岡政談』のなかでも伊藤大輔監督と大河内傅次郎さんの丹下左膳が人気を博した。本来の丹下左膳は斬りまくる。手もとにある『続・丹下左膳』(マキノ雅弘監督)では、大河内さんは大岡越前守と左膳の二役である。

 

  • 続・丹下左膳』(1953年・マキノ雅弘監督)は、続であるので前の続きの映像がスタッフや出演者の字幕のバックに映っている。二人の侍が橋の上で切り合いをしていて回りを捕り方が囲んで御用と叫んでいる。「妖刀乾雲、坤龍の二刀を求めて死を賭して闘う者」と字幕が入る。その一人が川におちる。橋の上の侍は「坤龍」と叫ぶ。これが丹下左膳である。丹下左膳は饗庭藩の武士で藩主に妖刀乾雲、坤龍の二刀を手に入れるよう命じられた。ところが、世を騒がせていると大岡越前守に正された藩主は左膳など知らないと言い切られ左膳は復讐にもえる。最後は大岡越前守に守られながら藩主を倒し妖刀乾雲、坤龍の二刀を投げ出し高笑いする。

 

  • 前篇がないので細かいところはわからないが、この妖刀は別々になると呼び合いその刀を持っている者はその呼び合う力によって人を斬りたくなるようである。その刀に左膳も翻弄される。マキノ雅弘監督は、戦前の丹下左膳の姿を踏襲したらしい。脚本は伊藤大輔・柳川眞一とあり、録音が『丹下左膳余話 百萬両の壺』と同じ中村敏夫とあった。『続 丹下左膳』では、録音助手、撮影助手などの名前もクレジットに記載されている。本来の左膳は悲壮感に満ちた立ち廻りのようである。その中でまったく原作の左膳とは違うパロディ化した左膳なのに、やはり『丹下左膳余話 百萬両の壺』の左膳が魅力的である。どちらの左膳も創り出した大河内傅次郎さんと山中貞雄監督の引き出しかたの上手さに乾杯。

 

『満映とわたし』に登場する映画『会議は踊る』(1)

  • 満映とわたし』には岸富美子さんやその家族が係った映画のことが出てくる。新たな見る視点をもらった。映画『会議は踊る』は、音楽が好きで録音関係の担当になった兄・福島威(五男)が自分も歌い、富美子さんにも教えてくれた主題歌である。威(たけし)さんがドイツ語をカタカナで覚えて教えてくれたのである。このことが後に会うドイツ人の女性編集者・アリスさんと富美子さんとの交流に役立つこととなる。

 

  • 映画『会議は踊る』は、オペレッタ映画の最高峰と言われ、当時の映画人やその後の映画人たちも注目している。大ヒットしたのが主題歌の『ただ一度だけ』で、ウイーンの手袋屋の売り子がひょんなことからロシア皇帝に見染められ酒場で逢瀬を愉しむ。皇帝からの迎えの馬車が来てお城に向かうまでのシーンがワンカットの移動撮影で、その間歓喜の娘がこの歌を歌い続ける。やはり観直さなくてはならない。

 

  • ナポレオンが敗れ囚われ戦争が終わる。ドイツの宰相はヨーロッパの首脳をウィーンによんでウィーン会議を開こうとしている。ドイツの宰相が、寝室の寝床から様々な部屋の盗聴ができるというところで笑ったことを思い出したが、そのあとおふざけすぎた映画だとおもったように思う。今回、時代の技術的なことを考えて見返していると、オペレッタであるが虚々実々の皮肉も効いていて面白い。

 

  • ドイツの宰相はロシア皇帝に色仕掛けで会議を欠席させようと一生懸命である。ところが、ロシア皇帝の部下は、皇帝の身の危険を守るため影武者を用意する。その入れ替わりがさらに娯楽性を増幅させる。さらにロシア皇帝をダンスパーティーに釘付けにするため貴族の婦人が、ロシア皇帝がウィーンの貧しい人々救済のため、チャリティーキスをすると勝手に宣言する。ところがこのことによってロシア皇帝は忘れていた娘と再会できるのである。

 

  • 会議のほうは各首脳はダンスの音楽に誘われて退席してしまう。座っていた椅子だけがゆれている。まさしく <会議は踊る> である。宰相一人で思い通りに決議することができるのであるが、すでに遅し、ナポレオンは脱出しフランスに上陸したとの知らせが入る。各国首脳はあたふたと帰国の途に就くため人々は去り一人取り残されるドイツの宰相。

 

  • 娘とロシア皇帝は酒場でたのしんでいた。ナポレオン脱出の知らせにまた会える日までと娘に告げ帰っていく。娘はもう会えないことを知っている。娘を元気づけるように酒場の人々は『ただ一度だけ』を合唱する。音楽に乗ってロマンスも描かれ、政治を漫画チックに風刺して明るく終わっている。やはり移動撮影は長かった。ロシア皇帝が現れ驚くドイツ宰相。コップに注ぐ水があふれ、それをもう一つのコップが水を受ける。その手はロシア皇帝であったというようなアップの挿入などは、人の感情を代弁していて面白い。ロシアバレェなどもでてきて音楽性もゆたかである。

 

  • 淀川長治さんが、「それまで音楽映画はアメリカのタップが主であった。ドイツのデーットリヒの『嘆きの天使』は音楽はいかにもドイツ的である。ところがこの『会議は踊る』の音楽はヨーロッパ的で驚いてしまった。素晴らしい。」と解説している。映画音楽の流れとしてはそういうことらしいのである。そして日本でも主題歌が大流行するわけである。制作は1931年で、日本公開は1934年(昭和9年である。撮影や編集の面での音楽の豊富さに日本の映画人が感嘆したのがよくわかった。

 

  • アリス・ルートヴィッヒさんは、ドイツ映画『制服の処女』シリーズの一篇『黒衣の処女』の編集をされた方だそうだが残念ながら『黒衣の処女』は観ていない。『制服の処女』は手もとにあった。この映画は、職場の先輩がお姉さんのデートの時監視役でついて行き、お姉さんと彼氏の間に座ってみたという映画で、この話を聞いた時は皆笑ってしまった。先輩は兄弟が多く一番下で、一番上のお姉さんは母親がわりであった。観たのが小学校へあがる前で、字幕の字はよめなかった。それで内容はわかったんですかと聞くと、「観ていればだいたいわかるわよ。」という。そのことがあり有名な作品でもあるので店頭で安いのを見つけた時に購入していたのであろう。まだ観ていなかった。まさかこんな機会があるとは。

 

  • 制服の処女』は、母を亡くし感情の起伏の激しい少女が、叔母に連れられて寄宿舎つきの学校に入学する。その学校での少女の体験が描かれている。規律と清貧がモットーの学校で学生たちはお腹を空かせている。少女はお世話係の生徒に学校を案内される。案内されるバックには生徒たちの合唱の歌が聞こえる。そしてぱっとアップの歌う生徒が映される。その口と歌詞が合っている。なるほどこれが編集かとおもった。できあがったものを勝手に編集されたらそれは困る。もしかすると、この口の動きと歌が合わなくなる。そうするとまた編集し直すわけであるが、事前に言われていれば意見交換ができ仕事もスムーズにいくであろう。

 

  • アップされる歌う生徒は、その歌詞をお腹が空いたと替え歌にして歌っているのである。主人公は皆があこがれる女教師に特別の感情を抱き、そのことが校長に知られ厳しい指導を受け自殺を試み未遂となる。校長は皆の批判の目にうなだれて歩いていく。たしかに字幕がわからなくても内容は何んとなくわかりそうである。場所は学校と寄宿舎で、登場人物の厳格そうな校長、感情の激しい主人公、優しくも凛とした女教師などである。あの少女は今喜んでいる、泣いている、あの校長はやっつけられたのだと。なるほど。

 

  • 黒衣の処女』は『制服の処女』で助監督だったかたが監督され、女生徒と教師役の役者さんが二人そのまま主演されている。アリスさんの編集の能力は、富美子さんが生涯の編集の恩師と思うほど編集能力が高かったと想像できる。編集の目で観ていると細かいところまで目がいく。『黒衣の処女』は、1933年に公開されている。富美子さんがルイスさんと一緒に仕事をした『新しき土』は1937年公開である。『制服の処女』は1931年公開である。