前進座 『東海道四谷怪談』(2)

その後は『四谷怪談』どうなるのか。砂村隠亡掘りで、釣りにきた伊右衛門と直助がであう。直助は薬うりであったのが今はうなぎとりとなっている。そこで、非人となった伊藤家のお弓と召使のおまきとも遭遇するが、ふたりとも堀に落ち無惨な最後となる。

お岩と小仏小平(こぼとけこへい)の死骸が裏表に打ち付けられた戸板が流れてくる。小平も塩谷家につながるもので病の主人を助けるためにと伊右衛門から薬をぬすみ責め殺され、あげくのはては、お岩と不義密通者として戸板にうちつけられ流されたのである。

戸板に死骸を打ち付け流すというこれまた猟奇的な場面であるが、これは実際にあったことで、南北さんはこのほかにも実際の事件から集めとりこんでいる。当時の人々は、そういう情報も混ぜあわせつつ、これはあのことだと思わず「待ってました」と声をかけたかもしれない。

「深川三角屋敷の場」。伊右衛門とお岩の流れと、もう一つ、直助とお袖の流れがどうなるのか。直助とお袖は一緒に暮らしている。お袖は、夫与茂七の仇をとるまではと見せかけの夫婦として暮らしている。

この場でもお岩の幽霊は登場する。直助がうなぎとりとなりお袖は古着を洗う内職をしている。そのことが、お岩と小平の着ていた着物が古着やに渡り、それを洗って古着屋が店に出すというながれの途中でお袖のもとに流れてくるのである。そして直助によってお岩の櫛もお袖のところに流れつく。上手いながれで、お岩がここで出現できる設定もつくられている。洗い物のたらいからお岩の手がのび、直助が隠亡掘りでかきあげたお岩の櫛を取りあげたり、かえしたりするのである。ここは怖いというより可笑しさがある。直助の矢之輔さんの役の幅がひかる。

お袖は、直助に仇討ちのためとあれこれ言いよられついに身をゆるしてしまう。そこへ与茂七があらわれる。

お袖は知らずとはいえ二夫に交えたことから、直助と与茂七に殺されるようにしむけ死をえらぶ。死ぬまぎわお袖が直助に渡したへそのをの書き置きで、お袖は直助の実の妹であり、さらに自分が殺したのはのは主人の息子であったことを知る。畜生にもおとると直助は自刃してしまう。直助とお袖のほうは、自分で命をたつのである。ここに「深川三角屋敷の場」の伊右衛門とお岩とは違う直助とお袖のもう一つの層ができあがる。抜擢の若い臣弥さん期待に答える。

そして、もうひとつが与茂七によって義士の層が重なる。与茂七の菊之丞さん、義士の雰囲気をかもしだし、三角屋敷の場は終わる。

伊右衛門が隠れ住んでいる蛇山庵室の最終の場になるのであるが、そのまえに<夢の場>がある。ここは美しい場面からはじまり、気分をかえてくれる。この場は原作を変え演出上の工夫である。七夕に出会う伊右衛門と美しい娘。しかし抱いた娘は、お岩の骸骨であった。

この場の一瞬が、お岩のはかない夢の一瞬ともうつる。國太郎さんと芳三郎さんコンビが浮き彫りとなり、芳三郎さんの時としてかげりのある伊右衛門像に反映される。

伊右衛門の最後。お岩の亡霊と捕手とに囲まれ、与茂七と小平の女房お花によって伊右衛門はとどめをさされる。四谷の仇討ちはたされるのである。

創立85周年は、歌舞伎の『東海道四谷怪談』と決めていたのであろうか。第三世代を中心にして歌舞伎演目を上演してきた。前進座の劇場を閉じ、落ち着いて舞台に専念できる状況とはいえないなかで、ここまでに至ったということは喜ばしいことである。

梅之助さんは亡き人となられてしまったが、次の世代への手渡しを確信されていたことと思う。責任をはたされた。

パンフレットの整理の途中で、どういうわけかその一山の一番うえに、前進座公演の『法然と親鸞』のパンフレットがありそのままになっていた。『東海道四谷怪談』を観劇したあとにそれが目にはいった。中村梅之助さんが法然で嵐圭史さんが親鸞である。私のなかでの梅之助さんの最後の主役は、この作品ということになる。

『東海道四谷怪談』のパンフレットに黒柳徹子さんの「なつかしい前進座」という一文が載っている。その中に『巷談本牧亭』『天保の戯れ絵ー歌川国芳』『面倒な客』の上演名がある。歌舞伎以外にも、前進座で観たい舞台はたくさんありそうである。前に進むこれからの舞台にも期待したい。

原作・鶴屋南北/脚本・小野文隆/演出・中橋耕史/出演・河原崎國太郎(お岩、小仏小平、おもん、お花)、嵐芳三郎(民谷伊右衛門)、藤川矢之輔(直助権兵衛)、忠村臣弥(お袖)、瀬川菊之丞(佐藤与茂七)、武井茂(四谷左門)、柳生啓介(按摩宅悦)、松涛喜八郎(伊藤喜兵衛)、山崎辰三郎(お弓)、早瀬栄之丞(お槇)、本村祐樹(お梅)、姉川新之輔(伊右衛門母お熊)、益城宏(秋山長兵衛)、清雁寺繁盛(関口官蔵)、寺田昌樹(中間伴助)、渡会元之(奥田庄三郎)、中嶋宏太郎(利倉屋)

 

前進座 『東海道四谷怪談』(1)

前進座 創立85周年記念 中村梅之助追悼 5月国立劇場公演

今回の前進座公演『東海道四谷怪談』には「深川三角屋敷の場」もはいっている。この場面が入ると入らないでは、『東海道四谷怪談』の厚みが違ってくる。

<東海道>がどうして前につくのか、東海道を歩くものとしては気になり、あれこれ考えてしまった。<東海道>は赤穂浪士の<義士に至る道>である。赤穂城を明け渡し、仇討をきめ、江戸へ義士としてはいるための道である。<四谷怪談>のほうは、江戸にありながら、義士たちから外れたものたちのはなしである。

鶴屋南北(四世)さんは、市井の人々のなかで実際に起こった事件を組み込みながら、義士を表とするなら裏を面白くみせる芝居を考えたとおもわれる。それも怪談という、まさしく裏街道のはなしである。四谷には四谷大木戸があったがこれは東海道ではなく、甲州街道と青梅街道につながっていて東海道からずれている。青梅とお梅。これまた面白い。お梅にほれられて、伊右衛門の方向性が全く変わってしまうのである。考えすぎであるが。お岩の父が四谷左門であるから、そのあたりともいえる。色々詮索したくなる南北作品である。

『東海道四谷怪談』は初演の時、忠臣蔵が一番目の狂言でありそのことがわかっていて南北さんは、忠臣蔵に関連づけてかかれたのが定説のようである。なんにせよ、臨機応変の南北さんである。

前進座にとっては、三回目の上演で、34年ぶりである。河原崎國太郎さんがお岩で、嵐芳三郎さんが民谷伊右衛門を受け持つ。おふたりは前進座第三世代の中心である。そして、「深川三角屋敷の場」を、藤川矢之輔さんが直助権兵衛、忠村臣弥さんがお袖、客演の瀬川菊之丞さんが佐藤与茂七である。

伊右衛門は、お岩とお袖の父であり自分の舅でもある四谷左門を殺す。直助はお袖の夫の与茂七を殺し、自分たちが仇をとるとお岩と妹のお袖をそれぞれの家に連れて行く。この時の上手の伊右衛門と下手の直助の悪人としての姿がはっきりと描かれ次への足掛かりとなった。じつは与茂七と思って殺したのが人違いであったが、顔の皮をはがしわからなくしてしまい、与茂七とおもわせるあたりも猟奇的悪をつよめる。

四谷左衛門と与茂七は赤穂浪人で与茂七は塩谷判官のかたき討ちに参加している。その二人が亡くなったわけで、お岩とお袖は親と夫の仇をとってくれるという伊右衛門と直助を頼るしかない。ここに、ウソの仇討ちができあがる。伊右衛門も直助ももとは塩谷家につながるものたちなのである。そこを断ち切る。<仇討ち>という表と裏がチラチラと見え隠れである。

お岩は子供を産み産後がおもわしくない。そんなお岩が伊右衛門はうっとうしくなっている。そこへ、隣の伊藤家から出産のお祝いと、産後にきく薬をお岩においていく。お岩に言われ伊右衛門は伊藤家にお礼にいく。

薬を飲んだお岩は顔をおさえ苦しみもだえる。伊藤家は孫娘のお梅が伊右衛門に一目惚れしてお梅を輿入れさせるためお岩に毒をわたしたのである。

ここからお岩の醜い顔となり髪の毛が抜ける場面であるが、照明が暗くわかりずらい場面であるが、今回照明があかるく一つ一つの動作がみやすく、変貌のさまがわかった。國太郎さんのお岩はやつれてはいるが美しく、伊藤家が伊右衛門のお岩に対する気持ちを絶つために考えた陰謀のねらい目が納得できた。

ただ、柱に刺さった刀にお岩が誤って首を刺し亡くなる場面は明るすぎてしどころが見えすぎてしまうのでここまではすこそづつ照明を暗くしたほうが意外性がでるであろう。

伊藤家の狙いは見事功を奏した。伊右衛門は、お岩をみかぎり質いれにと蚊帳まで持ち出してしまう。江戸での蚊帳は生活環境から必需品である。それも幼子にとっては。蚊帳まで持ち出す伊右衛門は、その非情性を増幅させる。南北さんかためていく。

伊右衛門は、伊藤家のおかげで塩谷家にとって仇の師直への仕官の道もひらけ、お梅と祝言の運びとなるが、お岩の亡霊によって、お梅もその祖父をも殺してしまう。お岩の反逆がさく裂する。

『四谷怪談』の映画のポスターなどは、この殺しの場面の伊右衛門の顔とお岩の顔が大写しとなり<怪談幽霊映画>のイメージをアピールしていた。それだけで観たい観客と観たくない観客にわかれた。観たくない観客にはいるが、今回は数種観させてもらった。

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿から二川宿(2)

旧東海道にもどり新居宿を通り国道1号にぶつかり西に曲がると、源頼朝が茶の湯につかったといわれる<風炉の井>。国道1号から旧東海道にはいると、室町将軍・足利義教(あしかがよしのり)が紅葉をめでたといわれる<紅葉寺跡>。

さらに西に進むと元町(元宿)である。ここに白須賀宿があったのであるが、1707年(309年まえ)の地震による大津波により潮見坂の上に白須賀宿は移されるのである。

<潮見坂>は西国から江戸への道程で、初めて太平洋と富士山がみえる景勝地とされている。大海原はみえたが富士山はみえなかった。

潮見坂の上に無料休憩所をかねた展示館「おんやど白須賀」がある。ここで昼食である。

食事処がないので、朝、駅弁を買ってリュックにいれてきた。普通の幕の内の駅弁である。深く考えもせず、リュックにたてに入れたのに弁当の中身がずれていなかった。途中、駅弁のことなど気にもかけずゆさゆさと歩いてきたのに、横にして持ち歩いたようにそのままの状態であった。日本の駅弁を見直してしまった。

「おんやど白須賀」の展示室にある和紙でつくられた、潮見坂をいきかう旅人を配置したジオラマに感心した。旅人は小さいのであるがさらに細かいところまでよく表現されていて、男性の旅人のかぶっている手ぬぐいのかぶりかたが全部違えてあったりする。あれあれなどと次々と発見があった。

歌舞伎の写真もあった。説明によると地元のかたがたでの公演のようであるが、「忠臣蔵外伝 東海道白須賀宿の場」とある。

元禄8年に浅野内匠頭と吉良上野介が白須賀宿の本陣に宿泊したという史実より白須賀を舞台にした脚本を「湖西歌舞伎保存会」と市川升十郎氏により書かれたとある。「赤穂の塩」「吉良の塩」「潮見坂」と塩づくめでまとめられ、白須賀に関する人物や名物もでてくるとのこと。

内容は「時は元禄13年、白須賀本陣に浅野内匠頭が宿泊、吉良上野介は参勤交代の途上急に腰痛になり白須賀に泊まることに、そこで塩づくりの秘伝を聞く良い機会と浅野を訪ねたが話は・・・・」で、その後、潮見坂を早飛脚が通り江戸城での刃傷が知れ渡るということらしい。

原因として塩が関係していたということを聞いたことがあるが、それと白須賀を組み合わせたようで、地元ならではの脚本化である。

ゆっくり食事、休憩をさせてもらい歩きはじめると潮見坂公園跡がある。徳川家康がここに茶室を作り、武田勝頼を破って尾張に帰る織田信長をもてなしたということである。明治天皇も行幸のさいここで休憩されている。海のみえる位置にテーブルとベンチがあり、休憩地としては最適である。そばに中学校があり、何かのときは避難所となるのであろう。

本陣や脇本陣はのこってはいないが、道の両側に火防樹のマキがのこっている。津波をさけるため坂の上に移ったが、冬の西風で火事の回数が多く、火事の広がるのをくいとめるために土塁の上に植えられる。昔はどこの宿場でも植えられていたようで、静岡でのこっているのはここだけである。静岡県には53宿のうち22宿あり、そのなかでのこっているのであるから希少価値である。

いろいろな災害を経験し、それを防ぐ方法を江戸時代のひとびとも一生懸命考えたのである。

わたしたちも無事坂をこえることができほっとしたのであるが、境川の境橋をこえ三河国の豊橋にはいり二川宿で押せ押せの行程となった。

交通の便のない白須賀宿が頭にあり、二川宿は小さい宿場なので簡単に考えていたが、江戸時代は小さくても現代のみどころとなると違ってくるのである。

二川宿 < 本陣・旅館・商家の3か所を見学できる日本唯一の宿場町 > とある。

商家「駒屋」に寄り、カフェもあるので一服とおもったら、次の本陣のほうが大きくて見る時間がかかると教えられる。5時までなので見学をして一服はやめる。米ジュースとやらが呑みたかった。商家は主屋があり奥に奥座敷がありさらに奥に土蔵があり奥へ奥へと進み最後に蔵があるという細長いつくりである。

二川宿資料館には、本陣と旅籠屋「清明屋」が移築され、さらに資料館もありたっぷりと江戸を味わうことができる。二川宿も1707年と1854年の大地震には大きな被害があり、その間4回の大火にみまわれている。1863年には14代将軍家茂が上洛のため、1865年には長州征伐のためこの二川宿で休憩している。江戸幕府の終焉のあしおとも聞いていたわけである。

関所、旅籠、商家、東海道のもろもろのことに興味があるなら、JR東海道線の新居町駅と二川駅で下車して見学すると歩かないで江戸時代の旅をおもいえがけるであろう。ワークシートがそれぞれあって、関所、高札に書かれていること、江戸時代の旅の心得、宿場の人口、本陣の数、旅籠の数などきちんと整理されている。

軽くみていた二川宿で、小気味よく押さえこまれてしまった。

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿(1)

江戸より30番目の舞坂宿から新居宿そして白須賀宿と続く。白須賀宿は、江戸時代前からの地震のあとを残している。熊本地震の前に歩いたのでその時は、遠い昔の地震のこととの印象があったが、熊本地震後は、日本の地下活動と地上の時間間隔が重なりあう時期ということを強く実感することとなった。

JR東海道線の舞坂駅から南に松並木があり旧東海道にでる。見付け、常夜灯、一里塚跡をすぎると「旧脇本陣の茗荷屋」が復元されて見学できる。

実際には、旧東海道歩き3日目の雨の日にJR高塚駅から舞坂宿を通り浜名湖の国道1号を歩きJR新居駅までとしたのである。国道1号を歩くため、地図をみる回数が少なくてすむからである。雨の日地図を見つつ歩くのは大変である。

「旧脇本陣茗荷屋」に着いたときは、ポンチョに雨のしずくがたまっていた。脇本陣としては旧東海道でただひとつ残されていたもので、書院棟を解体、修理して復元したものである。舞坂の本陣二つは跡だけの標識である。係りの女性のかたが、浜名湖の今切(いまぎれ)のことを説明してくれた。

浜名湖は湖の南側が陸つながりだったのである。1499年(517年まえ)の大地震でその陸の部分が切れ、淡水湖だった浜名湖に海水が流れこむ。そして、江戸時代に整備され新居宿までは船で渡ることとなる。船がないので私たちは国道1号線をあるくわけである。浜名湖は風が強いが今日はおだやかだといわれる。なんとか傘をさせる状態なので助かる。

湖岸には当時の船着き場「北雁木跡(きたがんぎ)」の石碑がある。雁木というのは階段状になっている船着き場のことで、舞坂宿には3つの渡船場があり、「北雁木」は大名や幕府役人用、真ん中は「本雁木」とよばれ旅人用、南は荷物の積み下ろしに使ったとある。

赤い弁天橋をわたると道は国道1号線に合流し車道とは分れた歩道があるので雨の中でも歩きやすい。湖の南をみると今切口がみえる。浜名バイパスの浜名大橋がかかり切れたところの橋脚がしっかりと太くなっている。JR弁天島駅のまえを通過しそこからJR新居町駅までで終了し食事とする。

新居町駅から新居宿、そして白須賀宿は路線バスがなくなっているので二川宿まで一日で行けるように、晴れる2日目をあてた。

新居宿は船着き場に新居関所がある。今切関所とも呼ばれていたようである。徳川家康が天下統一をしたのが1600年である。新居に関所がつくられたのも1600年(416年まえ)で、その後地震や津波で移転をくりかえし、現在の位置に落ち着いたのは1708年(308年まえ)で、1854年(160年まえ)に大地震があり1855年から5年かけて建て替えられた関所が現在ものこっている建物である。解体修理され全国でただひとつのこっている関所である。渡船場跡も再建され、新居関所資料館もある。

さらに、近くには紀州藩の御用宿で一般客も利用した「紀伊國屋」も資料館として公開しており、見どころが多い。この建物は明治に火事で焼失し江戸後期の旅籠の様式をのこして建て替えられ昭和30年代に廃業する。「旅籠紀伊國屋」をでるとき係りのかたが、この建物の裏を少しいくともうひとつ古い建物があるので無料ですから時間があったらみていってくださいといわれる。

元芸者置屋「小松楼」(小松楼まちづくり交流館)。ここがまたおもしろかった。新居関所は、明治でお役目ごめんであり、そのあと小学校や役場として使われる。この南側にあたる地域は明治末から昭和初期まで歓楽街としてにぎわっていた。芸者置屋兼小料理屋をしをしていた「小松楼」が残って空き家だったのを、有志がはたらきかけ国の有形文化財に指定され公開にいたったのである。

ふすまの下張りにお客の勘定書きなどが貼られていて、この地域の人たちがそれをみて、遊び人だと聞いていたがやはりそうだったのかと、縁続きのひとの名を証拠としてみつけたりするそうである。ここのご主人の商売人としての顔は、芸者さんがお客の座敷にはいる北側の廊下にあった。そこは表とは違う少しささくれだったすき間のある廊下であった。客にみえるところとみえないところの差がはっきりしていた。こんなに差があるのをみるのは初めてである。

長唄の師匠をしていたご主人もいて、その娘さんが、長唄の本を切りとり、住まいの部屋のふすまにおもしろく張りつけてあった。老松の唄などもある。当時の芸者さんたちの写真もあったが、美人ぞろいであった。戦後は数年下宿屋としてもつかわれたらしい。

江戸から明治、大正、昭和と時代の変化に対応してきた新居宿の歴史が想像できる。

旧東海道の話しから、「小松楼まちづくり交流館」の係りのかたが、本を引き出しからだして見せてくれる。静岡県の東海道のマップ「さすが静岡東海道」で、パソコンで検索していて見つけたマップである。静岡県の観光課でだしていてそれを頼まれてつくられたかたであった。本になっているとは知らず、マップをダウンロードして使わせてもらっていた。それも三島から白須賀まであるのを知らず、小夜の中山峠から使わせてもっらていたが残念ながら白須賀でお終いである。本は品切れだそうである。

時々歩かれて、直したい箇所があるといわれる。わたしたちも、箱根から三島への工事中でとぎれていた旧東海道が気になっていたが、あれは三島大橋の工事で三島大橋ができてなくなってしまったとのこと。近頃旅の広告で目にする観光名所である。そうかあの巨大なコンクリートの柱は三島大橋につづくためだったのである。もうあそこは国道を歩くしかないのである。

旧東海道を歩く人の数はしれているし、経済効果はうすいですからね。

「小松楼」を残すためにも尽力され、新居宿が充実しているのは、こうした人々の隠れた力があってこそである。今書きつつ、税金のがれをするお金持ちや、公費と私費の区別のない人たちのあさましさをフッーとふきとばす。

すすめてくれた「旅籠紀伊國屋」の係りのひとにもお礼を言って白須賀宿にむかう。

DVD『江戸ゆかりの家の芸 坂東三津五郎』

3月以来、歌舞伎について書き込みをしていない。3月の書き込みも中途半端である。なぜか。

それは『金閣寺』にある。この前に観た『金閣寺』が、2015年1月 歌舞伎座1月 『金閣寺』  である。雪姫が七之助さん、松永大膳が染五郎さん。、此下東吉が勘九郎さんである。今年の3月が、雪姫が雀右衛門さん、松永大膳が幸四郎さん、此下東吉が仁左衛門さんである。前者と後者では、芝居の厚みと深さが違うのである。後者を観て、こんなに違いがでてしまうのかと唖然とさせられた。

後者の厚みと深さを表す言葉がみつからなく、歌舞伎の書き込みができなかったのである。

その後も楽しく拝見はさせてもらっているが、そこから回復していない。そんな時、芸の真髄シリーズの『江戸ゆかりの家の芸 坂東三津五郎』のDVDを観たのである。十代目三津五郎さんの踊りで、最初の『楠公(なんこう)』の武張った踊りの形の美しさにくぎ付けになってしまった。素踊りで体の線がはっきりしている。

楠正成と息子・正行の別れと、後半は正成の湊川での足利軍との合戦の様子である。踊りでありながら、芝居の型の一つ一つを見ているような流れである。初めて観る踊りで、最後に三津五郎さんのインタビューがあり、この企画ために初めて踊られたとのこと。今まで身体に蓄積されていたものが、あらためて一つ一つ構築されてできあがった身体表現の美しさにスカッとした気分にさせられた。三津五郎さん56歳の時である。

型にはめられてはめられて、そこから出てくる<気>であり<芸>である。

『大江戸両国花火』、三津五郎さんの振り付けで、武蔵と下総に両国橋が架けられての川開きの花火の様子で、雰囲気がよく映し出されていた。

『流星』『喜撰』は洒脱な踊りでお家芸として得意とするものである。『流星』は、やっと会えた牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の前に流星が現れ、同じ長屋に住む雷夫婦の喧嘩の様子を面白おかしく知らせるのである。この流星は悦に入って四役をこなして踊りで説明するが、牽牛と織女にとっては邪魔をしてるだけのようで最後にその可笑しさも加わった。

『喜撰』は、先ごろ歌舞伎シネマでもみていたが、DVDのお梶は菊之助さんである。

牽牛は巳之助さんで織女が尾上右近さんで、今月の歌舞伎座がよみがえる。今月の夜の部最後が「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」である。白拍子花子が菊之助さんで、白拍子桜子が海老蔵さんという娘二人道成寺の部分もあり、玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』のDVDも見直してしまった。

夜の部の最初の演目『勢獅子音羽籠』では、菊之助さんのお子さんの寺嶋和史くんが、初お目見得である。ものすごく恥ずかしがりやのようで、それでいて舞台に立つのは嬉しいようである。今は僕これしかできないよと菊之助さんに抱かれて手をふる素の和史くんも、これから少しずつ型の世界に入っていくのであろう。

若手は若手で頑張っているなと思う反面、先輩たちのを観ると落差を感じることは、これからも遭遇することと思う。DVDで所化の役者さんの短いセリフの声でも、今のほうがトーンがよくなっているなと感じられるということは、時間が解決していってくれるということである。

 

 

映画『瀬戸内海ムーンライト・セレナーデ』

函館の旅のあと追いをしている。映画、歴史、文学などであるが、同時進行で、さらに寄り道もあり無法状態である。

函館が出てくる映画が、25、6本あって、20本は見たのである。旧作レンタル10本で14日間の貸し出しサービス期間がかさなり、これが強い味方であった。さらに、見たいとおもっていた映画もレンタルする。

その一本が、阿久悠さんの「瀬戸内三部作」の一本であり、篠田正浩監督の「少年三部作」の一本である『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』である。それぞれの三部作に共通する作品として『瀬戸内少年野球団』があるが、個人的内は『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のほうが好きである。

それよりも良いと思うのが、『少年時代』である。こちらは、東京から富山に疎開した少年と地元の少年たちとの交流を描いているが、少年の世界も美しいことばかりではなく、力関係があり、そのなかでどう生きて行くかが問われる作品である。その人間関係が大人社会とも類似しているのである。ただ過ぎてみれば少年時代は、甘酸っぱい涙とともに短時間で終わるということである。

『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、主人公が、阪神大震災のニュースを見つつ、「神戸が燃えている」状態から戦争中、淡路島から空襲で焼ける神戸を見た少年時代にもどるのである。

少年の父親は厳格な警察官である。長男は17歳の時志願兵となり戦死してしまう。次男は父親に反発してぐれている。少年は三男で下に妹がいる。母は、父親に従順ではあるが思ったことを時には主張する。

この5人の家族が戦後の混乱する中、淡路島から父の故郷である九州の宮崎に、長男の遺骨をお墓に納めるための家族旅行をするのである。

神戸からフェリーに乗り九州に向かうのであるが、そのフェリー上での、様々な事情をかかえた人々との交流が、考え方を変えない父親を中心に少年の前に繰り広げられる。

それぞれの過去を抱えつつ戦後を生きるために皆必死である。瀬戸内海には時として地雷が発見されたりもし、戦争が終わっても安全とは言えないのである。そうして中で甲板にしか居場所を作れなかった人々は、楽しくやりましょうと歌をうたったり、映画の弁士が阪妻の『無法松の一生』の映画を映してくれたりする。

雨で中止となると、少年の手の平に映画が映る。阪妻の『雄呂血』である。

弁士の活弁が見る者をひきつける。捕吏に囲まれ立ちまわりの場面。「平三郎はわれにかえりふっと気がついたとき、かれの眼に映じたのはまわりにある無数の屍であった。ああ!おれはついに人を斬った。ああ!おれはついに人殺しになった。」平三郎は慨嘆し刀を捨てとらえられるのであるが、その時の平三郎である阪妻さんの表情の絶望感が何とも言えない。痛快娯楽時代劇とはちがう人気をあつめたのが、この映画のなかの映像でわかった。

『無法松の一生』は、戦中は内務省か戦後は進駐軍から一部カットされ、『雄呂血』は進駐軍から禁止されたチャンバラ映画である。価値観の違いを上からのみ押し付けられる時代の流れである。

父と少年は、船を下りてから映画館で『カサブランカ』をみる。父は真剣に観ていながら少年にはアメリカ映画は嫌いだと言い放つ。

地震がなければ、この連休には瀬戸内海の別府航路を使って九州に入る観光客も大勢いたことであろう。いつの日か、この航路から大きな月を見たいものである。

この映画に、震災と戦争という映像が重なってどちらも残酷な現象であるが、戦争は人が起こす現象である。今回も不眠不休に近い状態の自衛隊の救助活動をみて、あの方達を人殺しとなるかもしれない場所に送り出していいのであろうか、やはりもっと時間をかけ冷静になって考えなければ。

そして、大きな災害を抱え込んでいるこの国は、若い人の力が必要である。非正規雇用という不安定な比率が増加しているような社会体制では土台も不安定である。そのあたりから考えて積み直しをしなければ、大切な減少している若い人の力を使い捨てにしてしまうことになりかねない。

映画のなかの家族の次男は、父親に反発しながら自分の生き方を探し、それでいながら父との約束を守る青年でもあった。

長男の遺骨の入っている骨壺に入っていたのは・・・・

震災の神戸港を歩くかつての少年は、今の人々と過去の人々から何かを受け取ったようである。

阿久悠さんの「瀬戸内三部作」(『瀬戸内少年野球団』『瀬戸内少年野団・青春篇/最後の楽園』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』)

篠田正浩監督の「少年三部作」(『瀬戸内少年野球団』『少年時代』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』)

監督・篠田正浩/原作・阿久悠(『飢餓旅行』)/脚本・成瀬行雄/撮影・鈴木達夫

出演・長塚京三、岩下志麻、笠原秀幸、鳥羽潤、吉川ひなの、羽田美智子、高田純次、火野正平、河原崎長一郎、麿赤児、余貴美子、フランキー堺、西村雅彦、竹中直人