平家物語の能 『清経』 (きよつね)

平家物語は古典芸能にも多く取り上げられている。国立能楽堂で、能「清経」を観ることができた。始まる前に「『平家物語』から能へ」の解説があり、大変参考になった。ただ清経は重盛の第三子であるのだが、物語の中で何処に出てきたのか記憶にないのである。捜したのだがいまだ判明していない。記述は四行くらいらしいのだが。

「清経」は世阿弥作で、そのほかにも世阿弥作の『平家物語』からの能は「頼政(よりまさ)」「実盛(さねもり)」「景清(かげきよ)」「忠度(ただのり)」「敦盛(あつもり)」などがあ。これらは修羅物(しゅらもの)といわれ、死んで修羅道に堕ちた武士の霊が、救いを求めてこの世に出現するという演目である。その他、義経 がでてくる「屋島(八島)」なども世阿弥作である。

「清経」のあらすじは、平家一門とともに西国に渡った清経が入水し、家臣の淡津三郎(あわづのさぶろう)が京の屋敷で一人待つ清経の妻に、形見の髪を届けにくる。妻は驚き悲しみ、遺髪を見ていると自分を残して命を絶ったことが恨めしく思われるので宇佐八幡に納めて欲しいと三郎に返してしまう。夜も更けて清経の霊が現れ、自分の形見の髪を手放したことを恨み、妻は妻でまた会えると約束したのにと恨む。清経は神にも見捨てられ絶望の末に決意した心情とそれまでの状況を語る。

最後に月に向かい笛を吹き今様を謡い、最後に念仏を十唱えて入水する。この場面の地謡が哀愁にみちている。

<人にはいはで岩代のまつ事ありや暁の、月にうそむくけしきにて舟の舳板(へいた)に立ちあがり、腰より横笛(ようじょう)抜き出だし、音もすみやか吹きならし今様を唄い朗詠し>

<西に傾く月みればいざや我もつれんと、南無阿弥陀仏弥陀如来、迎へさせ給へと、ただ一声(ひとこえ)を最期にて、舟よりかつぱと落ち汐の、底の水屑(みくず)と沈み行くうき身のはてぞ悲しき。>

この船上の笛を吹いてる清経の姿は、絵師・月岡芳年の『月百姿(つきひゃくし)』の中の「舵楼(だろう)の月」に描かれていると教えられたので調べると波静かで月に笛で語りかけているようである。また、経正の絵もあり「竹生島月」とあり、竹生島で琵琶をかなでている。

解説者によると、「舵楼の月」絵は、『平家物語』からでは無く能から発想したのではないかといわれていた。そう思える絵である。

入水後、修羅道に苦しむが最後に念仏を十唱えた功徳で成仏できるのであった。

数少ない能の鑑賞のなかで一番ゆったりと余裕をもって受け入れられ、一つ一つの動きや謡の内容・声・面の変化など楽しめた。それぞれ戦いによって追い詰められていく内面も修羅道で、それを能は様式美と面で普遍性を広げている。

「清経」は、男女の心情の相互理解の難しさもテーマとしているのだそうだが、動きとしてはその修羅場はないのでその点は深く感じなかった。

『平家物語』に誘われての新たな展開であった。

(国立能楽堂 12月公演)

解説・能楽あんない 『平家物語』から能へ 小林建二

狂言・大蔵流     「狐塚」 茂山千五郎・茂山正邦・茂山茂

能・宝生流       「清経」 當山孝道・水上優・高安勝久

 

 

忠度(ただのり)・経正(つねまさ)の都落ち

清盛の弟、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は都を去るとき歌の師である藤原俊成を訪ねて、世の中の乱れから数年歌の道を粗略にしていたわけではないが疎遠となっていたこと詫びる。自分は都を離れるが勅撰集のご沙汰があった時は一首なりとも入れていただきたいとお願いする。世の中が鎮まってから俊成は『千載集』の中に一首入れる。ただし帝からとがめを受けた平家の人なので「読み人知らず」と名を伏せ「故郷花(こきょうのはな)」という題の歌を一首。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな

敦盛の兄であり、経盛の長男である経正(つねまさ)は仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所に八歳から十三歳の元服まで稚児姿でお仕えていた法親王(ほっしんのう)にいとまごいに訪れる。法親王は戦の出で立ちなので遠慮する経正を庭から大床(おおゆか)まで上げさせる。経正は琵琶の名手でもあったのでお預かりしていた赤地の錦の袋にいれた琵琶<青山(せいざん)>を名残をおしみつつ、都に帰って来る事があればまたお預かりしますと言ってお返しした。

法親王はたいそうかわいそうに思われ歌を詠まれて一首おあたえになった。

あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

経正の返歌。

くれ竹のかけひの水はかはれども なほすみあかぬみやの中(うち)かな

この琵琶は仁明(にんみょう)天皇の御代に唐から伝えられた名器で、仁和寺の御室に伝えられたもので、経正は法親王の最愛の稚児であったので、十七歳のときこの名器を賜ったとある。

心に残るいとまごいである。

 

平家の笛

大原富枝の平家物語」を読み始めた。読みやすく、見逃していた細かいところに興味がいく。

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が大切にされていた笛のことなど。宮は<小枝(こえだ)>と<蝉折(せみおれ)>二本の笛を所持されていた。二本とも中国産の竹からできている。<小枝>は宮が御所から逃れる時忘れたのを信連が届け最後まで所持されていた。

<蝉折>は鳥羽院の時宋の皇帝から贈られたもので、蝉のような節のついた竹で作られた由緒あるもので、宮が笛の名手でいられたのでご相伝になった。宮はいまは最後と思われたので三井寺の金堂の弥勒菩薩に奉納されたとある。

よく知られているのは敦盛の<青葉>の笛であるが、「平家物語」では敦盛が熊谷次郎直実に討たれたとき身に着けていたのは<小枝(さえだ)>となっている。敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛を父経盛からやはり笛の名手であった敦盛に譲られたとある。<小枝>が(こえだ)と(さえだ)の二通りの呼び方で二本の笛があるのが面白い。

須磨寺には、敦盛卿木像(熊谷蓮生坊作)と青葉の笛が展示されていて、青葉の笛の説明がつぎのようにあった。 [ 弘法大師御入唐中 長安青龍寺に於いて天竺の竹を以ってこの笛を作り給ひ 笛を加持遊ばされしところ不思議に三本の枝葉を生す。大師帰朝の後 天皇に献上。天皇青葉の笛と命名。後 平家につたわり敦盛卿の笛の名手にて愛玩。肌身放さずもつ。] 右に青葉の笛、左に細い高麗笛があった。この笛も敦盛所持の笛なのか。

平家の公達は歌・舞・音曲・御所での儀式のしきたりを心得、さらに武芸にも優れていなければならなっかたわけで、これらすべてを兼ね備えられるとしたらスーパースターである。頼朝が鎌倉に幕府を開いた意味もそこにあるのか。

平家伝説と歌

平家伝説が様々のところにあるらしい。そしてそこには歌も残されている。

宮崎県の椎葉村にも平家の落人伝説がある。壇ノ浦で敗れた平家の残党が椎の里に隠れ住んでいた。残党狩りのため探索に来た源氏方の那須大八郎宗久(那須与一の弟)はこの隠れ里を見つける。しかし、慎ましく静かに暮らす落人の生活に感銘し、この地に留まる。やがて大八郎は、平清盛の末裔である鶴富姫(つるとみひめ)と恋仲となるが、鎌倉の命で帰国してしまう。鶴富姫は大八郎の子を産み、その女の子に婿をとりこの地の那須家の始祖としたとのはなしである。

民謡「ひえつき節」は大八郎と鶴富姫の悲恋を歌ったものだそうで歌詞を見ると出てくる。

庭の山椒の木 鳴る鈴かけて ヨーオーホイ (これは聞いたことがある)

おまや平家の公達ながれ~

那須の大八鶴富捨てて~

しっかりと二人のことが歌詞になっている。気にもかけずに聞いていた事になる。

宮崎県の民謡「五木の子守唄」も五木村に平家の落人伝説が語り伝えられ、落人伝説と関係があるともいわれているようである。

 

 

歌舞伎・書物混合の建礼門院周辺

歌舞伎の『建礼門院』での建礼門院徳子と右京大夫の語らいをもう一度おさらいした。右京大夫は自分が資盛の後をどうして追わなかったのか、母の病を理由にして逃れようとしたのではないか、と自分をさげすむ。それに対し建礼門院は資盛の最後の様子を語る。<資盛は美しく死んでくれました。最後と決まると都の空を眺め、右京と呼んでいるのを私に聞かれ頬を赤らめておりました。><もう一度会いたかったのであろう。>

小説を読んでいる前と後では、台詞の厚みが全然違う。

歌舞伎ではこの場に後白河法皇が御幸されるのであるが、『平家物語』の「大原御幸」には右京は登場しないし、小説「建礼門院右京大夫」では右京は大原を訪ねるが、後白河法皇が大原御幸したという記述はない。北條秀司さんの脚本は、建礼門院と右京、建礼門院と後白河法皇との対話で一層平家一門の悲哀と人間のどうすることも出来ない無常を劇的に強め救済へと導いている。

ここでもう一人<大原>で共通する登場人物がいる。大納言左局(だいなごんすけのつぼね)である。清盛の五男・重衡(しげひら)の正室で安徳帝の乳母であり、壇ノ浦で入水するが彼女も源氏の手で助けられてしまう。夫の重衡は<以仁王(もちひとおう)の乱>の時大将として鎮圧にあたり、その乱に加担した園城寺を攻め炎上させ、さらに園城寺に加担する奈良の東大寺・興福寺を攻め、奈良も炎上させ東大寺の大仏殿の二階に非難していた千余名の人を犠牲にする。

その重衡が一の谷の合戦で生け捕りにされる。彼はそこから京都、鎌倉へと送られ奈良の衆徒の要求で奈良に送られ斬首される。彼は鎌倉へ下る前、彼の希望で法然から戒律を授けられている(『平家物語』)が、実際には法然は重衡とあえるところにはいなっかたようである。(永井路子著「平家物語」)「建礼門院右京大夫」では、隆信が法然に帰依しての出家としており、どちらにせよこの時代に法然がでてきたのかと時代背景が記憶された。

『平家物語』では左局は壇ノ浦で助けられてから姉の所に同居し奈良に送られる重衡に会っている。そして打たれた首と体とを一つにして丁寧に葬っている。それを終え、建礼門院のそばで平家一門の菩提を弔うのである。そして阿波内侍と二人で建礼門院を見取られ仏事は忘れずにいとなみ、最後には二人とも、往生の素懐をとげたということである。

(歌舞伎・平成7年での大納言左局は中村歌女之丞さんが演じられていた。)

 

歌舞伎映像 【平家物語 建礼門院】

もぐらさんたちの増える勢いが速くて追いかけていられないので、もぐらさんたちは勝手にさせておいて気の向くままに。

歌舞伎名作撰 DVD 『平家物語 建礼門院』。これは平成7年11月歌舞伎座にて収録したものである。

建礼門院・中村歌右衛門/後白河法皇・島田正吾/右京太夫・中村魁春/          阿波内侍・中村 時蔵/

京の都大原の寂光院に、壇ノ浦で入水したが助けられてしっまた安徳帝の母君徳子が髪を下ろし尼(建礼門院)となって亡くなった人々の菩提を弔いなが暮らしていた。そこへかつて建礼門院に仕えていた女房・右京太夫が尋ねてきて最後までお供できなかった事など胸の内を語り、平家一門の最後の様子や源氏の兄弟不和の事など世の中の無常をしみじみと思いめぐらす。そこへ、後白河法皇が訪ねて来られる。建礼門院は、この悲しみのを創られた法皇には会いたくなっかた。やっとどうにか御仏の力で自分の気持ちを押さえているのに、また乱されるのは耐えられなっかた。法皇のたっての願いから後白河法皇と建礼門院の対面となる。

建礼門院は押さえがたく自分の法皇に対する恨み辛みを全てを法皇にぶつける。法皇はその刃を受けるためにきたのだと伝える。自分は武士と武士を争わせ、兄と弟を争わせその勢力を弱らせ、かつての貴族による摂関政治を夢見たのだと告げ、おのれの罪深さを恥じ入る。

その時建礼門院は阿弥陀の声を聴く。許しなさいと。建礼門院はその事を法皇に告げ、浄土で御会いしましょうと微笑むが、法皇は、私はあなたと同じ所にはいけない、地獄にて皆の責め苦を受けましょうと語り別れをつげるのである。建礼門院は穏やかなお顔でいつまでも法皇の去り行くお姿に静かに手を振られるのである。

歌右衛門さんと島田さんの『建礼門院』は実際に観ている。歌右衛門さんは魁春さんたちに手を借りての立ち居振る舞いであったが建礼門院の気持ちは、その手先から顔の動かしかたから、島田さんの法皇の台詞に対する間合いからじわじわと伝わってきた。人とそこに積み上げてきた演技の技術というものが溶け合うとこうなるのであろうかと思った。それを<芸>とも呼ぶのであろうが。新歌舞伎という事もあってか島田さんは島田さんの演技で受けられてお二人の台詞劇は見事であった。後白河法皇と建礼門院だけの空間ではなくもっと広い空間に思えた。

ところが「平家物語」を読み、映像をみたら、許せるだろうかと疑問に思ってしまった。「平家物語」の平家一門の最後は、悲惨である。実際に受けた身にしてみればそう簡単にはと考えてしまった。北條秀司さんが10年を費やして書かれたそうで、どの辺を苦慮されたか解からないが、この許せるかどうかではないだろうか。

ただ「平家物語」を読んでいたので、出てくる人物の名前がどういう人かはすぐ想像できた。舞台では、建礼門院と右京太夫の会話が無意味に流れていたのであるが、法皇の訪れる前の重要な台詞だと解かった。阿波内侍が信西の娘である事も。「平家物語」では阿波内侍が法皇をお迎えし法皇が変わり果てた内侍に気がつかず名乗るのである。右京と資盛の事は書かれてあったかどうか記憶にない。このあたりも小説になっているようである。

もう少し時間をおいて映像は観てみたいと思う。今度はどう感じるか。

もぐらさんたち 【新・平家物語】

古典の「平家物語」を読み終わる。そこで、 映画『新・平家物語』とNHK大河ドラマ『新・平家物語』(総集編/上の巻・下の巻)を観る。吉川英治著「新・平家物語」を原作としている。

映画『新・平家物語』(大映・1955年)は三部作の一作目と知る。残念ながら一作目しか観ていない。

[ 二作目『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年)/三作目『新・平家物語 静と義経』(1956年)]

一作目の『新・平家物語』は、若かりし頃の平清盛(市川雷蔵)を描いていて、清盛の一生からすると物足りない感じがする。映画派であるが「平家物語」を読み終わってみると、映画では時間が足りない。大河ドラマも総集編ということで、合計3時間ほどではあるが若き日から<清盛の死><大原御幸>と後白河法皇が建礼門院徳子を尋ねるところまで描かれているので一応の到達感はある。
大河ドラマの『新・平家物語』は、新劇界・歌舞伎界・映画界・新派の役者さん達が入り組み、この方がこの役でと、役と役者さんの組み合わせも楽しませてもらった。 今年の清盛(松山ケンイチ)と後白河院(松田翔太)の対決も良いが、仲代達矢さんと滝沢修さんの対決は演技的にも深みがあり見所である。 次の台詞まで少し間がありその次にくる予想だにしない演じかたは、こうくるのかと感じいってしまう。それは、双六ではなく碁の打ち合いの音がする。

噂に聞いていた現七代目清元延寿太夫さんの源頼朝の少年時代(岡村清太郎)を観れたのは、これかと嬉しかった。上手だったとは聴いていたが想像以上であった。

総集編では出てこないが、佐藤義清(西行)が蜷川幸雄さんであったようで、これは観たかった。

遠藤盛遠(文覚)が近藤洋介さん。総集編では、清盛が白河院の子であることを清盛に告げたのが盛遠であると話の中だけにその名が出て来る。

平家物語」で盛遠が出家後(高雄神護寺の僧文覚上人)、頼朝の挙兵を促したと <巻の五・文覚の荒行>に書かれてあった。ただ「平家物語」には、なぜ盛遠が出家したかについては書かれていない。その後盛遠は清盛の長男重盛の子・維盛の若君・高清(六代)を助けようとしたり、頼朝が亡くなってから後鳥羽天皇に反旗をひるがえしたり映画『地獄門』のラストとの寂滅さとは違う、政治的活動をする。

<大原御幸>は「平家物語」をしっかり締めている。歌舞伎の『平家物語 建礼門院』を改めて映像で観ようと思う。

もぐらさんたち 【梁塵秘抄】 (りょうじんひしょう)

大河ドラマ「平清盛」 第40話。いい形で<梁塵秘抄>が出てきました。

「梁塵秘抄」とか「源氏物語」とか生活の中に溶け込んだ形でだすのが上手いですね。今回の脚本家さんは。

<舞え舞え蝸牛 舞わぬものならば ~>が出てきた時の異種を思わす後白河の雰囲気が面白いと思ったが、それが後の世にまで今様を残すと賽の目はでた。それを引き出す滋子がやわらかい。あのウェーヴした髪が、人と違っても動じない強さを感じさせ人物造形の手法の細やかさが出ている。

テーマ曲にも ラストに<遊びをせんとや生まれけん~>と今様が入る。出だしはピアノの一音一音から入っていくのが何処か違う世界に居て、そう母体の中にいて嵐の中に飛び出す前のやすらぎの世界のようである。

新聞のテレビ番組欄で「交響組曲 平清盛 大河ドラマ音楽の世界へ」を発見。9月20日に呉市で開催されたものの再放送でどっぷりとテーマ曲に浸った。作曲は吉松隆さん。平氏と源氏の曲調の違いなども説明してくださり、なるほどと改めてゆったりと聴けた。ピアノは<左手のピアニスト>舘野泉さんであった。映像ではあるが実際に演奏されているのを聴くのは初めてで嬉しい出会いとなった。大河ドラマのテーマ曲で口ずさめるのは「赤穂浪士」と「平清盛」であろうか。

もう一人の出会いは桃山春衣さん。梁塵秘抄などを歌い継がれている方で、郡上八幡で知ったのであるが記憶から薄れていて、検索して確認した。郡上八幡では<郡上踊り>に魅せられ、あの軽く下駄を鳴らす踊りに参ってしまった。今年の夏は東京青山での郡上踊りを見学した。岐阜から郡上にはいる山深さも魅力で、映画『郡上一揆』なども見た。ここにきて梁塵秘抄から桃山春衣さんが色濃く成ったのである。残念なことに他界されている。

もぐらさんたち 【西行花伝】

辻邦生さんの小説「西行花伝」をもとに、NHK・FMでラジオドラマを制作放送

「西行花伝・その一/花の巻」 平成九年(1997)1月2日(木) 21時~22時45分

「西行花伝・その二/雪の巻」 平成九年(1997)1月3日(金) 21時~22時45分

「西行花伝・その三/月の巻」 平成九年(1997)2月11日(木)23時10分~午前1時

合わせると5時間20分の放送である。幸いにもこのドラマはCD化され販売されていた。西行の名前というより声の出演者に引き付けられ購入したのである。

CD・Ⅰ/序の巻  青年義清の青春から出家の動機を探る発端篇。

CD・Ⅱ/破の巻  出家を許され西行と名のり歌と共に自分の道を捜しあぐねる若き僧西行の激動篇。

CD・Ⅲ/急の巻  西行高野山に籠り、<保元の乱>勃発。崇徳院の配流と崩御に悲哀    の乱世篇。

CD・Ⅳ/寂の巻  崇徳院の眠る讃岐白峰陵に詣で、その後心穏やかに歌と仏の道を歩き    73歳の春、望みどうり満開の桜の下で永眠する黄金の晩年篇。

<願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ>

<仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば>

声の出演  西行(佐藤義清)/竹本住大夫

藤原秋実(西行の弟子)/阪東八十助(現三津五郎)

西住(鎌倉二郎・西行の親友)/日下武史

堀川尼(待賢門院の女房の一人・歌人)/川口敦子

寂然(西行の師藤原為忠の四男・歌人)/鈴木瑞穂

寂念(西行の師藤原為忠の次男・歌人)/北村和夫

兵衛佐局(待賢門院の女房の一人・堀川尼の妹・歌人)/白坂道子

玄徹(宋伝来の医術の心得がある聖)/津嘉山正種

登場人物の表現技術に優れた方々の声の出演である。西行の半生を、西行の出合った人々の事を語りつつ、あるいは西行の生き様を語りつつはなしは綴られていく。西行を軸にした磁場は時には激しく、時には諦念を持って、時には穏やかに広がりを見せる。

「西行花伝」では、鳥羽院が崇徳帝を白河法皇の子であると思い込んでいるとしている。鳥羽院・崇徳帝・待賢門院の孤独と悲しみが大きな渦となって嵐となるのを西行は予感し、なんともし難い人間世界を越えるものとして歌の心を追い求めていく。生涯を終えるまで西行の道にも悟りの道が開けたのであろうか。生きている間、皆人はそれを望みつつ死を迎えるような気がするのだが。

凄く贅沢なラジオドラマである。ラジオを聴く時間を持てない者にとってCDに出会わなければこんな大きな作品があったことなど知らずにいたわけである。先ずは出会えた事に感謝!

 

 

もぐらさんたち 【西行】

西行は、武芸・和歌・蹴鞠に優れていて鳥羽院の北面の武士として仕える。しかし、23歳(1140年)で妻子がありながら出家する。この時代出家しても世俗との関係は継続していたようであるが、西行は浮世を離れ仏道・山伏修行に身をおいたようである。出家の原因は鳥羽院と崇徳院親子をめぐる皇位継承らの争い、鳥羽院の中宮待賢門院への悲恋とも言われている。

待賢門院は1142年に仏門に入り1145年に崩御している。その後待賢門院の生んだ第四皇子が後白河天皇となるが、兄崇徳上皇と勢力が分裂し<保元の乱>となり崇徳院は讃岐に配流となる。西行は崇徳上皇の讃岐での崩御に心を痛め讃岐の崇徳上皇の白峰陵に詣でている。

崇徳院は「金葉集」「詞花集」の編纂を勅宣している。<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>(川瀬の流れが早いので岩にせき止められた滝川の水は分かれてしまうがいつかは逢いたいと思う)は「詞花集」に収めらてていて百人一首の77番目の歌である。

百人一首の80番目に待賢門院に仕えた待賢門院堀川の歌が載っている。<長からむ心も知らず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ>(あなたが長く私を思ってくれるかどうかわからない。今朝の私は黒髪の乱れたように心がちゞに乱れてもの思いに耽っている。)

百人一首の86番目に西行法師の歌が。<なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな>(嘆けと言って月が私を物思いにさせるのであろうか。まるでそうであるかのように流れ落ちる私の涙よ。)

待賢門院堀川と西行法師の歌は「千載集」からである。「千載集」は後白河院が勅宣して編纂されたものである。