歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 『怪談乳房榎』 

『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝さんの怪談噺がもとである。怖いというよりも、三役早変わりなので、その妙味を味わい楽しむといった芝居である。勘九郎さんが奮闘三役早変わりで、いえ四役でした。最後は圓朝さんになってでられた。

この演目アメリカのニューヨークでも上演され大成功でその凱旋記念公演でもある。また、勘三郎さんが、三世実川延若さんから直接教えを受け、勘太郎さんは父・勘三郎さんから習い受けたという経緯のある演目である。本水も使い夏に相応しい出し物である。

ところが、私の見方を変えなくては、早変わりは楽しめなくなっている。今代役が出て引っ込んで、今度は勘九郎さんで、また引っ込んで、今走っているな。次は花道からだな。花道での早変わりはちょっと減点である。などと頭の中で動いてしまうのである。隣のかたは、「えっ!どうしてなの。凄い!」と楽しんでいて羨ましいかぎりである。一番困るのが、形を決める時、そこまでに行く過程で代役さんの身体の動きを見ていて、勘九郎さんでは無い身体が間にはいることによって、その流れが中断され決まった時の思い入れが出来ないことである。近頃とみにこのブツブツ感があり、自分の中でどう処理しようかと思案中である。

菱川師宣(勘九郎)という絵師がいて、この妻・お関(七之助)が大変な美人で二人の間には乳飲み子の真与太郎がいる。この二人には下男の正吉(勘九郎)が正直者で忠実に仕えている。美しさゆえにお関は酔っ払いの花見客にからまれ助けてくれたのが、浪人・磯貝浪江(獅童)で、浪江は最初から下心があり、重信の弟子にしてもらう。重信は頼まれた寺の天井絵を描くために、夜出かけてゆく。浪江はこの時とばかり、お関に言い寄り叶えられなければ真与太郎を殺し自分も死ぬと真与太郎を人質に取り、望みを叶えてしまう。

浪江の前に、悪事を働いたころの家臣・三次(勘九郎)が現れ浪江をゆするが、浪江は三次に金を渡し仲間にしてしまう。、次に酒の好きな正吉に酒を飲ませ、重信を誘い出させ殺害し、正吉にも重信殺しの片棒を担がせる。死んだはずの重信は、雌雄の龍の絵に眼を書き込むだけとなっている寺に戻っていて、両眼を描き入れると消えてしまう。

浪江は重信の後を継ぎ、お関が浪江の子を身ごもり乳が出なくなり泣きぐずる真与太郎が邪魔となる。正吉の親戚に里子に出すと言う事にして、正吉に真与太郎を殺すことを命ずる。正吉は、真与太郎を助けようと思うのだが、大きくなって浪江に感づかれ殺されるよりも何も知らないうちのほうが苦しみもないだろうと、滝壺に落とすのである。それを拾ったのが、重信の亡霊で、真与太郎を助けて育て怨みをはらせればお前を許すと言われ正吉は真与太郎を育てる決心をする。そこへ、浪江から正吉と真与太郎を殺すように言われて三次が現れ、滝壺の中でのもみ合いとなる。ここが、悪人三次と気が弱いが必死の正吉との見せ場である。三次は重信の亡霊によって滝壺へ引きずられ、正吉は必死で真与太郎を抱え花道を走るのである。

勘九郎さんは、絵師菱川重信、正吉、三次の三役を早変わりしこの物語をかたち作るのである。鷹揚な重信と亡霊重信、正直者だが物事の判断が段々つかなくなっていくが自分に目覚める正吉、悪事を悪事とも思わない三次、この違いを入れ替わりつつ演じわけるのである。この演じ分けも前半は際立つがやはり早変わりが始まると薄れてしまう。

この三次は、圓朝さんの噺には出てこない人物で、歌舞伎のために加えた人物である。どのように加えたのかしりたいので、圓朝さん『怪談榎乳房』を読んだところ、これが語り口がよく気持ちよく読めるのである。そして江戸の風景も描かれている。

滝壺は、『江戸名所図会』にも出てくるという角筈村(つのはずむら)の十二社(じゅうにそう)の大きな滝であったようだ。ここでの立ち回りを考え三次を登場させたように思う。この滝の表現が月明かりの中、正吉の気持ちと重なって良い場面である。そこに歌舞伎として動きを考えても不思議はない。

この後、圓朝さんになって勘九郎さんが出てきて、見事仇討ちを果たし、赤塚村の乳房榎の説明となるが、いままで動きのある芝居を目で見ているので、耳だけとなるときちんと理解するのは容易ではない。なんとなくそうかと納得させられる。<その後の正吉、真与太郎について詳しく知りたい方は、話が長くなりますので、機会がありましたらまた次のお時間に>ということにしておく。

獅童さんと七之助さんコンビ、どうも男女の味わいが薄い。三次の悪役が設定されたので、浪江は色悪でなければならないのであろうか。その辺がわからない。登場人物の解釈が甘いように思う。

芝居から少し離れるが、圓朝さんのことで安藤鶴夫さんが、「明治17年の<怪談牡丹灯籠>の出版は当時の文学者に言文一致という、まったく画期的な示唆を与えることになった。」といわれているが、納得できた。二葉亭四迷がどのように文章を書こうかと迷い坪内逍遥先生に聞いたところ「君は圓朝の落語を知っていよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たらどうかという。」(明治39年『余が言文一致の由来』)と記している。当時は、これが落語という話言葉だったから今と当たり前の文章なのである。誰かが語っているという設定の小説を読んでいる気分であった。圓朝さんがいなければ、言文一致はもっと遅れていたのかもしれない。

そして、『怪談乳房榎』のゆかり町巡りが出来そうである。

大須演芸場

名古屋の大須演芸場が来年の1月で閉館となる。それを知って行動するのは忸怩たるものがあるが、一度は大須演芸場に座りたいと思っていた。関西方面への旅の時は何回か計画したのであるが、公演時間の関係から上手く組み入れることが出来なかった。なぜその場に座りたかったのか。志ん朝さんが1990年からそこで独演会を始めたと知っ時からである。

志ん朝さんが亡くなった2001年の10月に友人二人と犬山、明治村、名古屋の旅を計画していて、早過ぎる死に気落ちしつつの旅であった。二人の友人とは小中からの長い付き合いではあるが三人での旅は初めてである。長い付き合いを良いことに新幹線の中でも、今しゃべりたくないから二人で気にしないで談笑してと勝手を決めさせてもらう。次第に気分も晴れ間を覗かせ、名古屋での宿泊の夜は居酒屋でのお酒も美味しく飲めた。次の日、ひつまぶしを大須観音で食べようということになり、大須といえば大須演芸場もあるなと思い出す。大須観音にお参りし、大須演芸場の場所もわかり、ひつまぶしのお店を探す。友人がここが好さそうと当たりをつける。当たりであった。私たちの横の席で年配の方たちが、志ん朝さんの亡くなったことを話題にしている。物凄い親しみを込めて残念であると話されている。

こんなところで関東の落語家さんがこんな親しみをもって話されるとは、やはり志ん朝さんはさすがである。本当に残念でなりませんと思わず話しかけてしまった。その中のおひとりはこのお店の大女将さんで、そのお仲間と談笑されていたのである。そのお仲間が帰られて、大女将さんが私たちに話しかけられ、名古屋弁が生活から消えていくことを嘆かれていた。そして、名古屋弁を残すために小さなメモ帳のような製本された冊子を作られていて、お土産にどうぞとそれぞれに下さったのである。本当にこの地に愛着をもたれているのである。私たちは恐縮しつつ有難く頂戴した。

その旅から帰ってからである。大須演芸場の窮状を知った志ん朝さんがここで独演会を開催をされるようになったと知ったのは。そうであったのか。あの親しみの感じは。納得できた。その時一度は大須演芸場に座ろうと思ったのである。大須演芸場が無くなるということを聞かなかったら、まだ先伸ばしにしていたかもしれない。

出演者の中に快楽亭ブラックさんの名がある。<落語界の鬼才>とある。奇縁か鬼縁か。ブラックさんの名前を知ったのは、新聞に連載していた映画紹介の記事からである。見た映画見ない映画、どちらの映画も紹介や感想を毎回楽しみに読ませてもらっていた。そして、師匠の談志さんとの一緒の落語会で初めて聞かせてもらう。開国のころを題材にされていたのか(記憶が定かではない)外国人も登場し今まで聞いたことのない噺で面白かったのである。その後、浅草公会堂での新春浅草歌舞伎で、綿入れ半纏のブラックさんらしいいでたちの姿を見かけたことがあり、歌舞伎も見られるのか(落語家さんなのだから当たり前といえば当たり前ですが)と思っていたら、歌舞伎の本を出された。私の考えと違うところがあったので、本に挟まっていた葉書に意見を書き出版社に送ったが読んで貰えたかどうか。

今回の演目は「錦の袈裟(けさ)」。無難なまとめかたでした。志ん朝さんを思い出させてくれたのは、前に出ていた出演者の方をいじった時。志ん朝さんも前に出ていた方の話を聞いていて、ある二世の落語家さんが誰々の息子できちんと前座の修行もしたんですと言われたのを、落語家なんてたいした修行なんてしなくたってなれます。修行しているというのは、翁家のような曲芸で、あれは修行しなくては出来ません。と言われたのを思い出した。志ん朝さんは若手の修行の場としても演芸場を大切に考えられていた。

それに対し談志さんは、落語協会を辞められたため、お弟子さんたちはその日から自分たちで落語をやる場所を探すこととなった。志の輔さんも下北沢での出発時の話をされていたが、皆さん這い上がってこられた。次世代の育て方も様々である。ブラックさんはさらに違う育ち方をされたようであるが。<場>を維持するということは、演者と客との闘いでもある。それを提供する方の闘いも想像以上であろう。名古屋で生の演芸が見たり聞いたり出来なくなるのであろうか。

アクの強い芸人さんの中に、どういう事からここにいることになったのであろうか、と思わせる娘さんが出てきた。お茶子さんのような立場か、前座の芸人さんとも思われないが舞台の道具立てをする。お茶子さんのような着物を着ていて、機能的な動きで好きな動きである。次の出演の落語家さんの座布団を運んできた。それをトンと置いた。上には背の低いマイクを乗せていてそれを舞台の中央に置き、コンセントなのであろうか舞台の小さなふたを開けセットする。体が沈みそうもない座布団を持ち上げてから置いて、座布団中央の押さえの糸を、やっても無理だけれどと(これは私が新しいとは言えない座布団で綿を押さえている数本の糸もくたびれて見えて、整えても無理だけどやるに越したことはないと思った気持ちとの重なりで彼女の仕草と重なった気持ちの反映であるのだが)糸を少し整える。そして程よい動きで右そでに消える。落語が終わって彼女の動きを見るのが楽しみだった。コンセントを外し、そのマイクを座布団の上にポンと乗せそれを抱えて右そでに消えた。ただそれだけであるのに、機能的でそして程よい動きが気持ち良い。彼女は意識していないであろう。役目だからやっているのであろう。程よい動きというものが、程よい心持ちにするということを感じさせてくれた。

大須演芸場のお土産である。

 

立川志の輔 『中村仲蔵』

落語の『中村仲蔵』はそう長い噺ではない。天明の頃、歌舞伎の血筋ではない、後に名優と言われた中村仲蔵が名題にまでなり、その最初に与えられた役が「仮名手本忠臣蔵」の五段目の斧定九郎(おのさだくろう)である。この役はは名題下が勤める役どころで、仲蔵にして見れば嫌がらせともとれるものである。仲蔵は何んとかこの役を自分の工夫で見せたいと願い舞台にのぞむのである。

志の輔さんは「仮名手本忠臣蔵」の説明から入った。『牡丹灯籠』の時は、その人間関係の複雑さから概略を説明された。今回は<赤穂事件>から47年たって初演され、それも時代を鎌倉に変え、登場人物の名前も変え、単なる<赤穂事件>が敵討ちの話「仮名手本忠臣蔵」となって蘇らせたた事を話された。そして、「仮名手本忠臣蔵」の粗筋を十一段目まで解説していくのである。

これが幸いなことに、歌舞伎の場面、場面を思い出させ、あの時のあの役者さんはこうだったと思い出させてくれるのである。さらにそこでの役者さんの華があったか、腹があったか、心理がにじみ出たかまで走馬灯のように浮かび上がらせてくれ、やはり「仮名手本忠臣蔵」は大作で役者を見せる出し物であると再認識させてくれた。その中で、斧定九郎の役はお客が弁当を食べつつ、ここで定九郎が与一兵衛のあとからどてらをきて出てきて呼び止めて終わって、次がと箸を動かす程度の役である。大作なるがゆえに如何に斧定九郎という役がつまらない役であるかを叩きこんだわけである。その役を仲蔵はどうしたのか。

志の輔さんは小さな噺の中に大きな「仮名手本忠臣蔵」を入れてしまったのである。歌舞伎の中の小さな落語の噺ではないのである。落語の中に歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を封じこめたのである。なぜ出来たか。前もって「仮名手本忠臣蔵」を説明することによって聞き手は仲蔵になっているのである。仲蔵の口惜しさ。何いってるか。工夫を見つけてやる。仲蔵の頭も身体も、「仮名手本忠臣蔵」の全てが入っているのである。聞き手は芝居の粗筋を知っただけであるが、仲蔵の気持ちは十分にわかる。志の輔さんの罠にはまってしまった。

上手く工夫が浮かぶようにと、柳島の妙見様へお参りし、37日の満願の日の帰り道、蕎麦屋で雨宿りしていると浪人が駆け込んでくる。黒羽二重の紋付に、五分月代(ごぶさかやき)、大小をさし、着物のすそは高くはしょり、壊れた蛇の目傘。 できた! 斧定九郎は、赤穂の家老職のむすこである。どてらの身分ではない。

斧定九郎の出。反応無し。お客は驚き静けさのあとに・・・。反応無し。最後まで無反応。                        しくじった・・・・!

役者修行のため身を隠して旅へ。人の中を歩いていると、定九郎を褒めている声が聴こえる。一人でも褒めてくれる人がいる。聞き手はもう仲蔵になっているから、嬉しくて目がじわじわとしてくる。違う芝居の定九郎の話が出てくる。えーっ!それじゃ、下手人は勘平じゃない。これには参ってしまう。降参である。泣かせておいて笑わせる。勘平が定九郎を殺した犯人にされてしまった。定九郎が勘平より上になったのである。よくドラマで思いがけない人が人気が出て消えてしまうところを消さないでと嘆願するようなものである。この情から笑いへの転換、情の上に笑いを重ねる職人芸。

志の輔さんは、松竹の回し者ではありませんが、歌舞伎座11月、12月は「仮名手本忠臣蔵」ですと。こちらも、松竹の回し者ではないが、11月の斧定九郎は松緑さん。12月は獅童さんである。今の歌舞伎の斧定九郎のしどころを楽しむのも良いかもしれない。

志の輔さんの『中村仲蔵』は二度目であるが、江戸時代の名題下は幾つかに分かれていて仲蔵がいかに芝居が好きで一生懸命だったか、蕎麦屋に駆け込んだ浪人がゆったりと大きくつくられたこと、泣きから笑へのかぶさりかた、この辺が濃厚になっていた。その位の濃厚さがなければ噺の中に大忠臣蔵は取り込めないであろう。

志の輔さんの『牡丹燈籠』

『牡丹燈籠』は大変ややこしい話である。歌舞伎でも観た事があるが、カランコロンと美しい娘お露さんと乳母のお米さんが牡丹燈籠をもって恋しい恋いし新三郎さんに会いに来るということがすぐ目に浮かぶ。ところがこの話は敵討ちの話でもありながら、怪談話として一番印象的でゾクゾクする部分を話されることが多い。と同時に長すぎて1、2時間で話せるような内容ではないのである。それを、志の輔さんは2時間半ほどでやってしまおうという企画である。行ってみて初めて知ったのであるが。

始めに『牡丹燈籠』の全てをお客様に判ってもらう事を説明され、その複雑な人間関係を先ずおおきなボードと磁石の付いた名前札で説明に入った。それをここで説明することは出来ないが、よく理解出来た。『塩原多助一代記』に出てくるようなイヤーな継母も出てくる。圓朝さんはこういうタイプの女性に会った事があるのであろうかと考えてしまう。志の輔さんは圓朝全集でこの『牡丹燈籠』を読んだとき、聴きなれているお露さんやお米さんなどの名前が幾ら立っても出てこないのに驚いたそうであるが、そうであると聴いているので、こちらの方はなるほどと思って志の輔さんの解り易い講義を受ける。頭の中で複雑な人間関係が整理されていく。今でもボードの名札が浮かぶのであるからなかなかの工夫である。志の輔さんの出演されているテレビ番組のスタッフの力ということであるが事実のほどは解らない。ここまでは一人の男の仇討に到る経緯であるが、その仇討の相手は討たれる事を覚悟している。ところが違う人間に理不尽にも殺されてしまい、その男は、さらなる仇討に向かうのである。

ここで休憩となり、その前に休憩のロビーの様子も再現する。「<これから話にはいるのよね。あなた聴いていく。あれだけ説明されたんだから聴いていったほうがいいんじゃない。そうお、あなたが聴いていくなら、私も聴いていこうかしら。>などという会話がこれからロービーで交わされることでしょう。」そういう会話はありませんでした。今の登場人物がどう話と繋がるか楽しみであった。90分の長丁場である。実際にはもう少し時間がかかったが。

話のほうは、お露さんと新三郎さんの出会いから始まる。お露さんは会えない新三郎さんを恋焦がれて死んでしまうのである。『四谷怪談』のお岩さんとここが違うのである。<恋しい>と<恨めしい>は。なるほどと思った。ここからは歌舞伎でも観ていながら忘れていた部分が蘇ってきた。そうだ、そうだったんだよなあ。お蔭さまで『牡丹燈籠』の全容が判明しました。

志の輔さんの目的はそこにあると理解しました。それが判ると、『牡丹燈籠』のどの部分の話を聴いたとしても、その噺家さんの語り口の違いが分かるとおもいます。今度は、話だけではなく、噺家さんを味わう事ができます。そんなわけで、後日、圓生さんの『牡丹燈籠』のテープを聞きました。「栗橋宿」と「関口屋のゆすり」です。面白い。話の中のこの場面だなと思うから圓生さんの上手さもであるが、どう圓生さんがその場面を現したいかが微力ながら分かるのである。すご~い!さらに有料放送で放映された志の輔さんの『牡丹燈籠』を友人に頼んで録画してもらっていたのである。実は忘れていたのであるが、他のものを探していて発見。すご~い!すごすぎる!しっかり聴き直しました。

これで『牡丹燈篭』どの部分が出てきても完璧です。ただし時間は強いですからね。忘却とは忘れ去ることなり。こういう場合も<恋しい>でいきます。

 

小三治さんの『道潅』と『船徳』

一年振りであろうか。小三治さんの生落語は。『道潅』と『船徳』の二席である。

『道潅』は、落語の中に出てくる<隠居>の存在がいい位置を占めている事に気がつく。何気なく聴いているが<大家>は家賃を払わなくてはならないので金銭的関係が付きまとうが、<隠居>は生活圏の中の生き字引きみたいな人で、さらに思いもよらない知識を与えてくれる存在である。八つあん、熊さんが自分の知らない世界の知識を得てその知識を仲間に伝授しようと試み、どういうわけか不首尾に終わってしまうことが多い。それほど有難がらずに素直に受け入られるのが<隠居>の話で、この<隠居>の存在は、どこかの世界の黒幕よりよっぽど値のある人である。こちらも隠居の話を、八つあんと同じように素直に耳を傾けられる雰囲気を造りだしてくれる。(太田道潅が山中で雨にあい、近くの村娘に雨具を借りようとした。娘は山吹の枝を差し出した。<七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき>の古歌になぞらえたもので、みのと蓑をかけて雨具が無いと伝えた。それを家来に説明され、道潅が歌道に精進したと隠居は教えてくれる)

『船徳』は、若旦那が真面目である。親から勘当された道楽息子であるからどこか抜けてはいるが、自分なりに一生懸命な若旦那である。そう思わせる為であろうか、あまり若旦那に話させない。若旦那を預かっている船宿の親方が若旦那の語りを代弁する。「船頭になりたいですって。あなた無理を言っちゃいけません」のように若旦那の台詞とこちらの当惑を語っていく。そのため、この話のときは、始めからチャラチャラした若旦那でその辺から笑わせるかたちのものが多いが、聴いていると、若旦那が存外真剣なのが分かる。若旦那は若旦那なりに自分の力を試したいと思っている。『船徳』のこんな若旦那は初めてである。

若旦那の徳さんにお客がつき、船頭として船を漕ぎ出す。小三治さんの徳さんは一生懸命漕ぐのである。聴いている方は漕ぐわけではないが、小三治さんの漕ぐ様子を見ていると次第に力が入ってくる。最初に「今日の話は涼しくありませんからね。」と言われたのが思い出される。船がグルグル回るのも、石垣に船が寄ってしまうのも、一生懸命なんだけれども、何処か力の入れ方が違うんだろうなあと思わせる。「こつと言いますけどね、先ずはやってみて、さらに無駄なことを沢山やって見なければ、そう簡単にこつなんてものは掴めるものじゃありませんよ。」と、一生懸命の徳さんの後ろで小三治隠居さんが事もなげに涼しい顔で言われているように見えてくる。

小三治さんの『船徳』のテープがあったので聴き直してみたら、基本は同じであるがもう少し若旦那が自ら語っていて軽いところがある。今回の若旦那は<船頭徳さん>に成りきろうとかなり固い決心の若旦那であった。落ちに、客が船を下りる時「大丈夫かい」と尋ねられ「船頭を一人雇って下さい」と伝えるのが、自分はプロではありませんのでと認めているかたちとなる。でもこの徳さんは、まだまだ船頭になることを諦めなさそうである。この徳さんの存在は、きちんと船の漕ぎ方が出来るからである。そう話を持っていこうとしても、その形ができなければ、中途半端な腰の座らぬ話で終わってしまう。その辺りが長年努めてこられた力であろう。

 

もぐらさんたち 【崇徳院】

落語に「崇徳院」という噺がある。歴史上の崇徳院は自分の皇子を帝位に就けることが出来ず、弟が後白河帝となる。崇徳院は政争に巻き込まれ保元の乱が勃発し、その争いで敗者となり出家して仁和寺に籠もるが、讃岐に流されてしまい讃岐で悲憤の中崩御される。

落語はその崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>を使っての噺である。熊五郎のお世話になっている家の若旦那が心の病になっているので原因を聞きだす役目となる。若旦那は恋の病で上野の清水観音の茶店でふくさを拾ってあげた娘の事が忘れられないでいた。手がかりは娘がお礼に短冊に書き残した崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>だけである。それを手がかりに熊五郎は娘さんを捜すのである。

古今亭志ん朝さんの「崇徳院」をCDで聴き直した。熊五郎と若旦那のやり取りが絶妙である。江戸っ子の職人の熊五郎は恋わずらいの若旦那の気持ちなど全然解からないから若旦那の話を混ぜっ返す。若旦那はため息吐息であるからその熊五郎に対し優男の頼りなさで答える。「元気ならぶつよ~」。この若旦那がなんともいい。歌舞伎の和事を声だけで表現している。客の笑い声が聴こえるので若旦那のときはそれなりの動きをしているのであろうが、声だけで十分伝わってき想像できる。流石である。

大河ドラマではこの歌は崇徳帝との佐藤義清(のりきよ)との間で交わされ政争の苦悩を表しているように使われている。一方それとは別に純粋の恋い歌としてみるむきもある。この佐藤義清が出家して西行となるのである。

 

納涼住吉踊り

納涼住吉踊りが、浅草演芸ホール中席昼の部で行われている。(8月10日~20日)

八代目雷門助六さんの踊りを志ん朝さんが習い、それを公開披露し、時を経て浅草演芸ホールで開催されるようになる。、志ん朝さん亡き後は、四代目三遊亭金馬さんが、今は金原亭駒三さんが座長として頑張られている。

志ん朝さんはこの寄席の住吉踊りが最後の舞台で、その前から痩せられたなと気がかりではあったが、周囲の方々にも知らせることなく病身を隠して舞台を務めあげられた。

亡くなられた翌年の住吉踊りは盛況であったが、出演された芸人さん達はあまりに大きな存在だった志ん朝さんを失い頼りきっていただけに、如何したら良いのかわからない、とにかく務めあげようと金馬さんのとぼけた明るさを頼りに頑張られた。

金馬さんが降板されてからであろうか派手さは無くなったが一人一人が頼らずに先ず踊りを覚えようと基本を目指し始めたように見えた。自分の芸も励みつつの練習は大変であったろうが、適当でも志ん朝さんが居るから大丈夫という雰囲気はなくなった。基本が固まってきたので、あとは楽しく踊っていることがお客に伝われば、もっとこちらも盛り上がって応援にも一層力が入るであろう。

にゃん子・金魚さんは相変わらず元気で楽しい。和助さんは新しい芸域を広げた。花島皆子さんはゆったりしたマジック時間。のいる・こいるさん出てくるだけで空気がざわざわ。川柳さんの笑和音曲噺は、真珠湾攻撃から4ヶ月はメジャーな軍歌でそれ以降2年半はマイナーな軍歌であったと実演。軍歌を聴いて戦争の悲惨さが身に染みた。順子さんはひろしさんを待ちつつ若手噺家を相手に順子・ひろしの漫才の間を披露。ひろしさんの代役は無理ですね。まねき猫さんはゆとりがでてきました。小円歌さんは三味も踊りも益々磨きがかかる。あれ古典落語の話題がない。そして女性が多い。すいません。暑いのと住吉踊りの時は後の楽しみで動きのある方に引っ張られます。

馬風さんから志ん朝さんの最後の弟子朝太さんが9月には真打ちに昇進の話。名前も志ん陽になるようです。雰囲気も陽です。馬風さんの<ここだけの話ですが>によると芸に厳しい落語協会小三治会長がきめたので芸のほうは大丈夫です。私のときは付け届けできめましたからと。

月日の立つのは早いものである。志ん朝さんが病気治療の頃談志さんは「癌でないというから心配なんだよ」。高座を降りて引っ込みの時「志ん朝、早く出て来い!ばかやろう!」

噺家さんの言葉は色々ひねっているのでそれなりの解釈をするのに時間の掛かる事が多い。

そんな談志さんも自分を見せきって亡くなられた。いや見せきったのかどうか、騙されているのかもしれない。お二人どんな話をされているのか。あちらでは多くの立ち見が出てるでしょう。あちらでは皆さん立っておられるのか。

程好い打ち水の小三治さん

小三治さんの「青菜」「小言念仏」二席を堪能する。「小言念仏」は小三治さんの十八番との解説もあるがこれは2回目の出会いでそのリズム感は軽快で楽しく笑わせてくれる。枕に陽と陰の話から入り陽を選ばれた訳である。

「青菜」の枕は、今日の暑さは特別なのでその暑さと湿度の関係などをゆったりと話しつつ、暑さに対する工夫などもかたりつつ本題へ。植木屋さんの仕事の話がなかなか含蓄がある。仕事の前日どう仕事をするか考えるが、やはり庭をみてから、松の右を払おうと思ったが、いやその左の木の方を払ってその下の灯篭を少しずらしてとかその場で眺めつつ思案するとの話が師匠の芸の段取りを聞いているような面白さがある。その事を受けて屋敷の主人が植木屋の仕事ぶりを家の者が庭に水を撒くと水溜りが出来たりするがあなたの場合は程よさがあって枝の間から落ちるしずくの間を風が通り涼やかな風となるというよううな事を話し、その庭を眺めつつ呑んでいたお酒を一口にして植木屋に勧める。お互いが庭を通して気持ちの通じたいい場面である。

植木屋がお酒を呑み始めてからが、屋敷の主人と植木屋の生活の違い、植木屋の性格のよさがその呑み方、食べ方などで表現しつつ、主人のゆったりと生活を楽しんでいる様があらわれこちらも暑さを忘れてしまう。

庶民の食卓の食材の青菜が主人と奥さんの隠語から、特別美味な物に変化するところであるが、それを植木屋が自分の家で試したいとして実行する。新鮮な青菜が、次第に当たり前の青菜にもどっていくようで落語的である。屋敷と長屋。このあたりも小三治さんにかかると敷居が高くなくそれでいて植木屋が感心する屋敷風情があり嫌味でないのが心地よい。

主人と奥さんの隠語→主人の「青菜を出しなさい」の奥さんの返答が「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官」(菜を食べてない。その菜を食らう判官)「じゃ義経にしておきなさい」(よしておきなさい)

植木屋と女房の隠語→女房「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官義経」植木屋「じゃあ弁慶にしておけ」

噺自体もよく出来ている。