日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(二)

松浦寿輝さんは、「文学の戦場ー透谷・一葉・露伴ー」として、北村透谷、幸田露伴、樋口一葉を一つのくくりとしておられる。それは、この三人のかたが、言文一致による口語文に背をむけ文語文を使われたということです。

歴史の記述は同時に起こっていることを同時につたえることは出来ません。単線になります。これを複線にできるのが語りのしかけで物語化するしかない。この物語の文字の世界も明治の戦場であって、内なる闘争、外なる闘争、制度との闘争を、あえて古い文体をもちいた。

異質のなかでの闘い。漱石、鴎外の口語体の勝利だけでなく、敗者の復権ということ。

書き言葉の<坂の上の雲>をめざした文学者のなかにも、言文一致という流れに切り捨てられるものがなかったかという、もう一つの近代の可能性を照らされたのではないかということととらえました。進歩を信じ<坂の上の雲>をめざす明治ということを言われたのが松浦寿輝さんで、当時の文学にも文学者にも文体との闘争にも反映する表現のしかたとおもいます。

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』は近年映像化されましたが、生前はこの作品の映像化は、間違った捉え方をされては困ると言うことで許可されなかったときいています。

幸田露伴さんに関しては、出久根達郎さんが、「読まれざる文豪露伴」として、露伴さんの作品は『五重塔』は読まれているが、印刷屋が使わないような漢字をつかっていて難しくて読まれていないのが残念で、露伴さんの作品には注釈をつける必要があると言及されました。露伴さんの用いた文体によるわけです。

露伴さんの作品はには、少年小説、ユーモア小説、大衆小説、探偵小説らがあって、その作品を紹介され興味深く楽しく想像しながら聴いていました。<歩く百科事典>とまでいわれ、娘の幸田文さんに家事をしこんだほどあらゆることに通じていて、水の辞書まで作られたとのこと。現在の天皇陛下が皇太子時代の教育係りの小泉信三さんは、露伴さんの作品『運命』を講義されてもいます。

聴いていると読みたくなりますが、本を開いてみると、露伴さんの作品はふりがなだらけで後ずさりしてしまいます。幸田文さんが父の本が売れていないことを娘時代の生活の様子の中でも書かれています。読まれるための工夫ということは必要なことかもしれません。

樋口一葉さんに関しては、小池昌代さんが「音読で開く、樋口一葉の世界」として、実際に一葉さんの文章を音読されてその世界へ連れて行ってくれました。

一葉の和歌の師匠である中島歌子さんの歌の教え方は、基本があってそれにあてはめて優劣をつけていく古い方法で、実朝のほうが古い時代でありながら、本歌取りしながら自分の歌にしていった新しさがあった。一葉は優秀で代教もしていたが、和歌では逸脱しなかった古さを小説のなかで発散していったといわれ、作品にあたられる。

一葉さんの作品の表現が面白く、各章の入り方が身を投げるようにサクッと入り、終わりは、ポトポトとゆっくり終わって行くと言われ、音読をすすめられた。

透谷さん、露伴さんに比べると一葉さんは映像化もされていて、原文に触れたくなるきっかけもあるような気がします。そのきっかけの一つとして音読は力強い方法です。そこから口語体とは違う魅力に触れることができ、一葉さんを通して明治の市井の人々の哀歓が胸までせまってくることでしょう。

透谷さん・露伴さん・一葉さんの文体は、それぞれの文学者が創作するうえで、時代のながれにはゆずれなかったのか、自分の創作上必然的なこととして生じたのかは、それぞれの闘いのなかにあることなのでしょう。

言文一致という動きとは別の位置としてとらえられる文学者を知ることによって、言文一致という、教科書的言葉をよりリアルなものとしてとらえることができました。

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(一)

『文学の明治ー時代に触れて』

明治に入って、書き言葉と話し言葉が別々だったのを一つにして現代のように誰でも詩歌・小説などの文学を読めるようにしたのが、言文一致ということです。

今回の講義では、言文一致にいたり、そこから模索する作家や歌人たちの苦闘の足跡ともいえる展開です。明治という新しい時代のなかで、どんなテーマを提出し、文体とどう闘ってきたのか、作品などから言及されました。

講義の中心となる文学者と作品を年代で並べると下のようになります。

  • 二葉亭四迷 『浮雲』(1884年)
  • 森鴎外   『舞姫』(1890年)『阿部一族』(1913年)
  • 北村透谷  『蓬莱曲』(1891年)
  • 幸田露伴  『五重塔』(1891年)
  • 樋口一葉  『たけくらべ』(1895年)『にごりえ』(1895年)
  • 島崎藤村  『若菜集』(1897年)『破戒』(1906年)
  • 正岡子規  『歌よみに与ふる書』(1898年)『病床六尺』(1902年
  • 与謝野晶子 『みだれ髪』(1901年)
  • 夏目漱石  『吾が輩は猫である』(1905年)『坊ちゃん』(1906年
  • 田山花袋  『蒲団』(1907年)『田舎教師』(1909年)
  • 石川啄木  『一握の砂』(1910年)

二葉亭四迷の言文一致の小説『浮雲』から始まって、25年位の間にこうした作品があったわけです。

上の流れを軸に講師のかたの出られた順番をたどらず、私的に受け取ったこと、感じたことをおもいだしながら独断でとらえなおしていきたいとおもいます。文体も<である調>から<ます調>にかえてみました。

島田雅彦さんが、ロシア語専攻で二葉亭四迷さんの後輩ということで、言文一致をなした二葉亭四迷さんについて話されたました。(「実り多き紆余曲折」)講義を聴く前の夜、偶然にも映画『おろしや国酔夢譚』を観ていました。伊勢を出て江戸に向かう船がロシア領の島に漂着して、そこでロシア語を覚えるのですが、これは何か?とたずねかたの言葉を覚え次々物の名前をロシア語で憶えていくのです。そしてコミュニケーションをとっていくのですが、大変なことだと思いつつ観ていたので、島田さんからロシア語のやっかいさの説明を聴いていて、漂流民・大黒屋光太夫らの苦難さが倍返しとなりました。

当時は原語での授業で二葉亭四迷さんは途中で大学をやめ独学でツルゲーネフの「あいびき」「めぐりあい」などを翻訳され、最初は原文に忠実にそして改訂版をだされ、読みやすくされています。

できるだけ話し言葉に近いかたちにしてくれたわけです。そのことによって翻訳小説も広がっていきました。

思考錯誤して自分の力で書くことによって、思索のプロセスを見直してもどってみれば、違う道が見えてくるのではないかという提言でした。このことは、その前に講義された藤田宜永さんの漱石さんとつながったのですがそのことは置いておきます。

自分の力でというのは、パソコンの検索ばかりに頼らず人力でということも含まれているわけです。

映画『おろしや国粋夢譚』を検索したら、この映画をロシアで撮った時のサンクトペテルブルクの対外関係委員長会議長が今の大統領のウラジミール・プーチンさんと記されていました。予想外のこういうこともでてくるので、程々の検索もちょっと捨てがたいものです。

ただ、幸田露伴さんの『五重塔』の発表が、1891年と1892年とするものがあり、どちらなのかと本の年表にあたったところ、1891年から連載がはじまり次の年の1892年で終了していたので、1891年と1892年とする二つがあったわけです。出始めの1891年にしました。一応は人力もいとわないつもりでいますが。出どころがはっきりしないと落ち着かない気分がします。

森鴎外さんは、保育園の頃から縁のあったとされる平野啓一郎さんが鴎外大好きを熱く語られました。保育園の劇の発表が「安寿と厨子王」で、先生にあなたしかこの役を出来る人はいないといわれ、山椒大夫をされ、その時『山椒大夫』を書いたのが森鴎外というひとだということを耳にし、その後、森鴎外を読む機会がありもっとも影響を受けた作家となるわけです。説教節では山椒大夫は復讐されるが、鴎外はそうはせず、制度の改正で山椒大夫はますます栄えるのです。

近年、自助努力、自己責任ということがいわれるが、人は制度上などからどうすることもできない状況にいる人がいるわけで、鴎外はそういう状況下の<諦念>ということを書き表していますということを、『舞姫』『阿部一族』『髙瀨船』など作品から読み解かれた。

私的にも『舞姫』などは、最後、友人を恨んでいて自分の意思のないことにあきれたが『阿部一族』などは映画で観て、どうすればいいわけ、こうしたくはないがこうする以外に道はあるのかというふうに思ったが、そこに<諦念>ということが生じるわけです。

鴎外さんも突き進んで個人の史伝を書かれていきます。死に際しては全ての鎧をなげうち「森林太郎」という一人の人間とし亡くなられるという話しの下りは、夏の暑さに涼やかな風がきました。

歌舞伎でも『ぢいさんばあさん』は宇野信夫さんの脚本・演出で上演されます。癇癪を起こし人を殺した武士が、37年ぶりに妻と逢うのです。原作では、隠居の仲の良い夫婦を周りが物珍し気にうわさするところからはじまり、若い頃の話しになるが、芝居では、時間のとおりに進み、二人が老いてから逢う場面が見せ場です。

<諦念>からハッピーエンドのようであるが、息子を失ったという<諦念>はずーっと流れているのです。

<諦念>で留まっているということではなく、時として<諦念>というものに向き合えば何かが見えてくるかもしれない。

今回の明治は、<坂の上の雲>をめざして進むことしか考えなかった明治のなかにいきた文学者の視点のそれぞれで、そこから読者は何に触れえるかということとおもいました。

 

新たな視点 <江戸・文七元結・寅さん>

加来耕三さんの講演会『すみだと北斎&海舟 歴史裏話』を聞きにいく。<北斎&海舟>なら聞きたいと思ったのだが、希望者が多くめでたく抽選に当たったのである。時間は1時間で加来さんいわく、いつも1時間半なので短めでと言われたが、まさしく、勝海舟さんの話が短かった。

まず歴史は疑ってくださいとのこと。江戸っ子というが、いつからが江戸っ子なのか。<火事と喧嘩は江戸の花>というがどうしてか。火事が多かったことはわかりますが、どうして喧嘩が多かったのですか。

時代劇でいえば、江戸の火事は火消しでマトイである。恰好いい。その火消し同士がけんかするのであるから、てやんでとなってやはりいなせで花なのではないかなと思ったら、喧嘩が多かったのは、言葉が通じなかったからとのこと。江戸をつくるために地方から人が集まってきているため、言葉の壁がありコミュニケーションが大変だったらしい。江戸弁ができあがるのはずーっと後ということになる。

江戸のシンボルマークは江戸城だったが、江戸城の天守閣は焼けおち、新しいシンボルマークを打ち出したのが、葛飾北斎の富士山。加来さんの言われたごとくこれも疑ってかかりたいところであるが、いやこれはおみごとである。もしかすると、江戸城の天守閣が残っていたら、葛飾北斎さんはここまでの賞賛はえられなかったかもしれないし、北斎さんの絵の発想も突き進まなかったかもしれない。技と発想が上手く結びつくということ、これは鑑賞者に幸せをもたらしてくれる。

「暴れん坊将軍」の吉宗の時代はもう天守閣がなく、あのテレビに映るお城はどこか。疑問をもつと最初からしっかり見ることとなる。タイトルだけ見たりして。

いつの頃からであろうか、大河ドラマも、物を食べる演技でその人物の性格を誇張するようになった。さもいわくありげに食べるのである。食べる回数が多すぎ、あれは個人的につまらないシリアスな演技だとおもう。

『東海道中膝栗毛』は初めてのベストセラーで次が『東海道四谷怪談』で、先の<東海道>にあやかって『東海道四谷怪談』としたということで、これは私もなぜと思ったのでピンポンである。ちなみに、実際の旧東海道歩きは、鈴鹿峠越えを残して、京都三条大橋まで到達した。この暑さの鈴鹿峠越えはひかえたのである。到達してみると残っているのも、楽しみがもう一度あるということで良いものである。歌舞伎座八月の『東海道中膝栗毛』はラスベガスに行くそうで、お手並み拝見とする。

勝海舟さんに関しては、海舟さんの祖父の話で終わってしまい残念であった。お金のあるものが御家人株を買うという時代になっているわけで、函館の五稜郭にいってみて、海舟さんに対する興味がつよくなったのと通じあい加来さんのお話しは大変面白く参考にさせてもらった。

江戸時代は長いわけで、江戸時代といってもどこのあたりという視点が必要のようである。

視点ということで、映画の山田洋次監督から新たな視点を授けてもらった。シネマ歌舞伎『人情噺文七元結』『連獅子/らくだ』の演出をされていて、歌舞伎学会の企画講演会でお話しを聞けた。

シネマ歌舞伎、落語、映画関連の話しが様々な角度から聞かせてもらったが、そのなかでも、新しい視点が二つあった。一つは「文七元結」の長兵衛は文七に会って幸運であったというのである。長兵衛は、バクチ好きの借金だらけのどうしょうもない人間である。人情噺の主人公になるような人間ではない。ところが、お店の大切なお金を紛失してしまい死ぬしかないという文七に出会い、長兵衛は娘のおかげで手にしたお金を文七にやってしまうのである。

この出会いがよりによってなんで俺なんだよと長兵衛は思うのである。えいっとお金を渡し走り去る。そのあと、しがない長屋の住人はとてつもない情のある主人公として光輝くのである。文七に会っていなければ、真面目になった長兵衛であろうか、もとの黙阿弥の長兵衛である。

もう一つは、『男はつらいよ』の風景映像である。山田監督は、この映画のために様々な場所へいかれるが、寅さんならこの風景をどうみるであろうかと思われて観ているといわれた。函館での寅さんの映画は三本ある。函館をロケ地としている映画は調べて観た限りでは30本ほどあり、海、港、函館山、倉庫群、洋館、教会、路面電車など絵になりやす場所で観ながらあそこだということがわかるのである。ところが『男はつらいよ』の場合、「函館」とクレジットされないとわからないほど観光的な場所はさらりとしている。

そうなのである。寅さんが観る風景は自分の商売が成り立つ場所と寅さんがかかわりが出来た人の生活の場それが見えているのである。

山田監督の映画の中で歌舞伎役者さんが出演している作品ということで『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』を観た。マドンナはいしだあゆみさんで、そのマドンナと出逢うのが京都の陶芸家役である十三代目片岡仁左衛門さんの家である。葵まつりの場面がでてくる。それは、寅さんが商売をしつつみているような映像である。仁左衛門さんに連れられてお茶屋にいくが、寅さんが心配してのぞく先にあるお茶屋さんである。

寅さんにとって知られている有名な場所、建物、寺院仏閣など関係ないのである。自分の眼でみた風景が、心地よいか、楽しいか、悲しいか、苦しいか、嬉しいかなのである。今まで寅さんを観ていてウケを狙っている台詞かなと思ったりした台詞が、これは寅さんにはそう見えているのだとわかり、新鮮な眼で映画が観れたのである。

その寅さんの視点で風景をみつつ映像をみると風の向くまま、気の向くままの気分になる。そして人間国宝の陶芸家の大先生も寅さんにとっては<じいさん>であり、お茶碗もただの茶碗なのである。

もう一つ山田監督は映画を観た土地のひとが、自分の住んでいるとこは良いところだと思ってくれるように撮りたいといわれていた。

勘三郎さんは、資料の山田監督との対談で、<あたらしい古典>という言葉を使われている。技と新しい視点が合体した古典という意味なのではないかと思った次第である。そうなのである。その勘三郎さんを観たかったのである。

視点と実証、視点と技。こちらは視点と好奇心を苦もなく頂戴させてもらう。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (5)

荒川洋治さん「伊藤整『日本文壇史』の世界」

伊藤整の死により、伊藤整の『日本文壇史』は18巻で終わっている。この文壇史はA君が何年にどこで誕生し、B君は何年にどこそこで誕生、A君が10歳のときこのようなことがあり、B君はそのとき8歳でこういうことがあった。その時C君はどこそこで生まれた。A君はその時、小説家A男になり、B君は学生でこういうことをしていた。B君はB夫となり小説を発表したが認められなかった。A男は次第に文学界から置き去りにされ、B夫は文学界の中心となり、その時C雄は、文学界の寵児と言われていた。こいうふうに作家が時代と共に年齢を重ね文壇で並ぶときはそれぞれどういう状態であるかが解るように書かれている。(実際には実名入り例だったのであるが、島崎藤村だったか、国木田独歩だったか忘れたので私が勝手にA、B、Cにした。)尾崎紅葉の一番弟子が泉鏡花で、弟弟子の徳田秋声と仲が悪かった。鏡花の弟豊春も作家になったが芽がでず、豊春が困っているので秋声は自分の貸家に住まわせたがほどなく亡くなってしまう。葬式で鏡花と秋声が顔を合わせ和解する。それが、秋声の小説『和解』である。

高見順の文学碑の除幕式の時、高校生の僕は、来ていた伊藤整に彼の本にサインをしてもらった。僕がお辞儀をすると、伊藤整も丁寧にお辞儀してくれた。高校生の僕にですよ。丁寧にお辞儀してくれたんです。(実演入り)『日本文壇史』は後世のための仕事です。

〔 実演も入るので楽しく聴いていたら正確さに欠け、A、B、Cになったが、同時進行で進んでいくように書かれているようで面白そうである。ただこの書き方は大変な作業である。偉いかたもきちんとお辞儀をされたほうが、後世に作品を読ませるように説明して貰えそうである。

高見順さんの文学碑ということは、東尋坊の荒磯遊歩道入口近くの碑であろう。福井に行った時、路線バスで東尋坊入口まで行き、そこから東尋坊に向かい、日本海の荒海を見つつ遊歩道を歩いた。高浜虚子、三好達治等の文学碑があり、こちらの歩き方からすると、遊歩道の終わり近くに高見順さんの文学碑があった。海を眺めるかたちで立っていた。遊歩道入口のバス停は広いのに何もない所でこんなところで置いてけぼりは困ると思ったものである。あの文学碑の除幕式に伊藤整さんと一人の高校生との劇的出会いがそこであったわけである。

バスがきちんと来てくれて、三国駅まで乗るつもりが、途中で高見順さんの 生家跡の町名のバス停がありあわてて降り、それが正解であった。そんな思い出の高見さんであるが、近代文学館の秋季特別展は『高見順という時代ー没後50年ー』である。

2015年9月26日~11月28日

記念講演会  ①9月26日14時~池内紀「高見順の蹉跌」             ②11月3日14時~荒川洋治「高見と現代」

伊藤比呂美さん「古典を読んで訳してその同時代を生きること」

今、座禅にはまっています。雑念が多いので絶対ダメだと思って居たら驚く速さで時間が通過したりします。『説教節』とか『日本霊異記』を訳していて、面白いので原文と訳文を読みます。『安寿と厨子王』『小栗判官』なども説教節からです。説教節の女性達は良く働きます。安寿にしろ照手姫にしろ、奴隷のように働きます。男は役立たずです。お経の一字一字に入り込んでいきます。四季には仏教感があり、それが無常にも繋がっていたりします。

〔カリフォルニア在住で、九州に実家があり、以前に聴いたときは、遠距離介護の話しをしておられたのを思い出す。玉三郎さんが出た時で、もう少し我慢して下さいね、お目当てはあとに控えていますからとも言われていた。興味のあることには分け入って進み何かしら面白いものを見つけるぞと突進して行きそうなかたである。それにしても、説教節とか日本霊異記とか、分け入ってできた道を後からついて行きたくなるような話ぶりであった。〕

対談 「「あの日」の後に書くことについて」 いとうせいこうさんと高橋源一郎さん

これは、聞いた方からのみとする。前半は高橋さんがいとうさんに聞くかたちで、後半はいとうさんが高橋さんに聞くかたちであったが、それぞれの話が交差したりするので、上手く書けないのである。お二人とも小説を書けないときがあって、いとうさんは15年くらい高橋さんは7年くらいあったそうで、書こうとすると吐き気をもよおしたりするのだそうである。もう一人の自分が書かせてくれない。

いとうせいこうさんは、みうらじゅんさんとの見仏記でDVD映像とか本でお目見えしているが、その頃は書けなかった時期であろうか。関西と関東のカキ氷談義など楽しかった。

いとうさんは東日本大震災のあとで書けるようになり、もう一人の自分が書けといって書かせてくれているようなのだと。書ける書けないはもう一人の自分に左右されているらしい。高橋さんは、詩は書こうとすると書けないのであるが、小説の主人公に詩を書かせると書けるそうで、小説を書くという行為は複雑怪奇である。

浅田次郎さんが、泣かせの作家と言われているが、泣かせようと思って書いてはいない。作家というのは冷徹でなければ書けないと言われていた。人が一人一人いるように詩人や作家もそれぞれである。聞いたことは、ほとんど忘れているが、どこかで聞いたなと思い出すこともあるであろう。

忘れるということは、今必要ではないこととする。雪が降って、自分の木の興味ある枝だけにふんわりと雪を残していってくれた感じである。解けない内に雪を固めて時間を稼ぎ、興味あることに水分を吸収してしまいたいものである。頭のなかでは想像できる雪も、現実の暑さは何んということか。関西のカキ氷をいつか経験しよう。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (4)

川本三郎さん「終戦前夜の永井荷風」

永井荷風は3回の空襲にあっている。人付き合いのしない荷風で老人(66歳)であり単身者である。空襲による孤独感と恐怖は大きかったであろう。(1回目)昭和20年3月10日の大空襲で麻布自宅偏奇館焼失。杵屋五叟宅へ。(2回目)5月25日、菅原明朗の紹介で住んで居た東中野の国際文化アパート空襲で焼失。菅原明朗と永井智子と明石へ向かい、岡山に移動。(3回目)6月28日岡山での大空襲にあう。この三つの空襲の体験は、その後の荷風の様子から考えて、トラウマとなり心的障害をきたしていたのではないか。荷風を支えていたのは、言葉である。

荷風を助けた人々。クラッシク音楽家の菅原明朗、声楽家の永井智子、菅原の弟子・宅孝二。明石に向かったのは宅の実家があったから。(訂正:菅原の実家である)永井智子は作家・永井路子の母である。菅原と永井は8月3日から3日間広島でコンサートがあり、5日の夜岡山に残した荷風が心配で泊まらずに岡山に向かう。泊っていたら被爆していたであろう。菅原はドイツ音楽ではなくフランス音楽を研究しフランス好きの荷風と好みが一致した。宅孝二はクラッシクからジャズに転向し、戦後、映画音楽を手掛けている。森繁久彌の社長シリーズなども。荷風の詞、菅原の作曲、智子の歌、宅のピアノでの演奏会もあった。

〔 資料もあり、広島原爆の後、荷風さんと谷崎さんとの岡山での再会のことなど『断腸亭日乗』から調べたことがあるので、長くなってしまう。市川市文学ミュージアムでの『永井荷風展』での講演でも、荷風の空襲によるトラウマとする考えは聴いているが、テーマは違っていたので少し触れただけだが、今回はきちんと日記をひいてなので説得力はある。フランス仕込のおしゃれな荷風さんには考えられない晩年の姿と行動の原因と考えておられるのである。価値観が変わったことは確かであるがそのトラウマの程度や影響は荷風さんの言葉、文章から読み解くことはできないのであろうか。それが知りたいところである。

永井智子さんという声楽家がいてその方が、永井路子さんのお母さんであるということを初めて知る。古河市に永井路子さんの実家があって、古河文学館の別館として公開されている。私が古河と『南総里見八犬伝』の関係から古河市を訪れたのは、東日本大震災の後だったので、非公開であったが、再公開されているようである。その旧永井家は智子さんの育った家でもあったわけである。古河城の櫓が歌舞伎『南総里見八犬伝』での<芳流閣屋上の場>の芳流閣のモデルとされているが、その痕跡はない。代わりに古河市の文学関係者のことを知る結果となったわけである。

その一人が子供雑誌『コドモノクニ』の編集者・鷲見久太郎さんである。映画『小さいおうち』の男の子の枕元にもこの『コドモノクニ』が置かれていて、奥さんの好きになる青年が男の子に読んであげる場面がある。『コドモノクニ』は大正から昭和初めにかけて出版された、贅沢で、子供たちの情操を深く考慮した本で、この男の子が大変幸せな環境にいることがわかるし、ここにこの本を出し子供文化の豊富な時代の先駆けであった時代の停止も感じとれる。

永井路子さんは、家の方針で、絵本を眺めることなく、すぐさま本を読むことを習慣づけられ目にしていないといわれ、郷里の大先輩の鷲見先生を後になって知ったことを残念に思われている。鷲見さんは、古河藩江戸詰家老で洋学者鷲見泉石の曾孫にあたり、鷹見泉石の住居も残っていて公開している。文学館に併設しているレストランはお薦めである。

音楽家の宅孝二さんが、映画音楽に携わり、市川崑監督の映画『日本橋』も担当をしており、永井荷風さんの交際する限りある周辺からは興味深いことが出現した。次の日、原爆が落とされることなど全く知らずに、音楽を聴き一時の倖せを享受していた人々もいたのである。移動演劇の桜隊の演劇人、丸山定夫さんや映画『無法松の一生』の吉岡夫人役の園井恵子さんなども被爆し亡くなられている。荷風さんが言葉を捨てなかったことによって、その日記をもとに様々な見分ができるわけである。〕

追記: 上記文章の中に<明石に向かったのは宅の実家があったから。>とありますが、宅氏の実家ではなく菅原氏の実家とのコメントをいただきました。調べますと確かにこちらの間違いでした。荷風は5月25日の夜、駒場の宅孝二氏宅に泊めて貰っています。6月2日、菅原氏夫妻とともに宅氏兄弟に渋谷駅で送られ、東京駅から罹災民専用大阪行の列車に乗り、3日に明石に到着。「菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」とあります。菅原氏の実家でした。訂正させていただきます。

日本近代文学館 夏の文学教室 (3)

黒川創さん「漱石と『暗殺者たち』のあいだで」

日露戦争後1905年から10年位。夏目漱石の『坊ちゃん』が1906年。この頃東京は路面電車が走り、その後電燈がつく。日露戦争後、清国からの留学生が多い。科挙が廃止され日本での勉学を目指す。さらに辛亥革命の芽が出ていて逃亡してくる人々もいた。孫文や黄興など。黄興は映画でジャッキー・チェンが演じている。(映画『1911年』)日本では1911年「大逆事件」で、大逆事件の犠牲者として新宮の  大石誠之助などがいる。ただ一人死刑になった女性が管野スガである。伊藤博文の暗殺。伊藤博文は幕末と明治に入ってからの伊藤博文は違っている。

〔 『坊ちゃん』は、四国松山を勝手気ままに評するが、東京を認めているわけでもない。坊ちゃんの気に入る町が日本にあるかどうか。破天荒の坊ちゃんを主人公にした漱石さんのふつふつしている胸の内が分るような気がしてきた。「祝勝会で学校はお休みだ。」とあるが、これは日露戦争のことであろう。うらなりの送別会で、野だが「日清談判破裂して・・・と座敷中練りあるき出した。」とあり、「まるで気違いである。」としている。『坊ちゃん』の違う切り口がありそうである。

大石誠之助さんについては新宮の『佐藤春夫記念館』で知った。黄興の名前は初めて耳にした。孫文に関しての映画は『宗家の三姉妹』しか見ていないので『1911年』など観ておこう。大逆事件は政府の無謀な権力行使であった。〕

堀江敏幸さん「沈黙を迎えることについて」

仮面ライダーの変身ベルトは蓄電地で回って変身すると思っていたら、仮面ライダーの乗っているサイクロン号は原子力で動いていて、サイクロン号の走行する風力エネルギーで仮面ライダーは変身するのであると教えてくれる人がいて驚いた。自分の子供の頃から身近なところに原子力が組み込まれていたのである。1972年に帰国した横井正一さんへの戸惑い。

〔 仮面ライダーの件は、変身に科学的根拠など考えもしないし、特殊な能力ある者が変身すると思っていた。原子力って凄いんだよということしか考えていなかった頃の発想であろうか。<猿島>の展望広場に展望台があり、古いため中には入れないが、仮面ライダーの敵、ショッカーの初代基地として活躍している。建物の外観映像だけ使われ基地の中はセットでの映像であろう。横井さんは、どんな怒りや理不尽さを語られても良い立場の人であるが、大きな波風を立てることはなかった。〕

町田康さん「多甚古村とか」

井伏鱒二の『多甚古村』は日中戦争の頃の四国徳島を舞台にした、巡査が観察した人々の様子。巡査の観察と巡査の行動のづれが面白い。大阪弁なら忙しなくなるところが、徳島弁だと違って、その辺の井伏の方言の使い方によるリズム、さらに、あえて徳島弁でないイントネーションを使う井伏の手法。

〔 『多甚古村』はそんなに面白いのかと思わせてくれたので、これは読まねばと思った。本文から引用して読み上げてくれるのであるが、おそらく引用の文のあるページかメモされているのであろう。そのメモを見て、文庫本からのページを捜す。これがしばし時間がかかり、沈黙となり、次に探すときに「沈黙です。」と言われる。その町田さんの姿を眺めつつ、インデックスでも張って置けば良かったのではと思ったが、この時間の流れも井伏さんの『多甚古村』の時間と合うのかなと余計なことを考えた。そんなわけで、時間が立ってみると、井伏さんの思惑の原文の部分を忘れてしまった。読めば思い出すであろう。『多甚古村』の映画の代わりに『警察日記』の録画を観た。〕

山﨑佳代子さん「旅する言葉、異郷から母語で」

セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラード在住。旧ユーゴスラビアに留学したが、留学するとは思わなかった時に印象に残っていた映画が1970年に観た『抵抗の詩』である。原題が『血まつりの童話』。ナチスによってセルビアで一日で何千人もの人が殺された事実をもとにした映画である。ドイツ人が一人死ねばその何倍もの人を殺すとして数が増えていった。大人だけではなく子供にまでおよぶ。日本語とセルビア語で詩を書いている。そして、難民の人々の聴き書きをしている。

〔 ユーゴスラビアという国が幾つかの国に分れてセルビアという国が出来たようであるが、セルビアという国がもっと昔から過酷な歴史を担ってきたらしいということである。山崎さんが説明してくれた、映画『抵抗の詩』に描かれたナチスによる子供達の時代は第二次大戦ではあるが、その他の時代や現代のセルビア周辺のことはどう理解すればよいのか正直私には判らない状態である。ただ、山崎さんは多民族の人々の中で、ご自分は日本語とセルビア語を交差させ、日常と詩を通して語り続けておられるということである。争いの中に置かれた人々の普遍的な共通となる問題ということであろう。〕

日本近代文学館 夏の文学教室 (2)

木内昇さん「日常から見た歴史的事象」

いろんな切り口から時代をみるべきだ。佐賀藩は新政府に加わらなかった。新政府の長州は国のお金は自分のお金と思っている。武家と町民の文化は違っていたが、明治になって一緒になり、勝海舟は、国が庶民文化を一緒くたにするのをいやがった。江戸時代の識字率の高さ。外国では絵なぞは貴族しか持っていなかったが、日本では庶民が浮世絵を楽しんでいた。『三四郎』で、広田先生は日本は「滅びるね」と言った。高杉晋作の日記。中原中也に一番絡まれたのが太宰治。

〔 切り口が早くて繋がっているのであるが、感覚的にしか捉えていない。『三四郎』に関しては、その部分を読み返した。三四郎は、広田先生を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。」と思う。そして三四郎が日本もだんだん発展するでしょうというと、広田先生は「滅びるね」というのである。漱石の頭の中がそこにある。今までどういう事かわからなかったが、今という時代にやっと実感となる。事実のほどは知らぬが、<中原中也に絡まれる太宰治>が可笑しい。

横須賀の三笠桟橋から船で15分のところに<猿島>というのがあり、友人に誘われ暑い日に行った。そこで、今の政治家を2、3日食料無しで置き去りにしてはどうかという話がでた。ほんのわずかな時間、取り残され、閉ざされ、食糧もなく、さらに殺されるかもしれない状況の想像の中に自分をおく。倖せのことにそれはまだ、想像の世界でしかない。海辺では、家族や若い人がバーべキューを楽しんでいる。ペリーがこの島にペリーアイランドと命名したらしいが、「ダメ!もっと昔から<猿島>と名前があったのだから。」。記念艦「三笠」も見学。「勝ちすぎたんだよね。たまたま。」と友人がいう。日露戦争がたまたま勝ったのかどうか、私はきちんとその関係のものを読んでいないのである。勝ち過ぎたという気はする。しかし、戦争が始まって間違った始まりでも自分の国が勝つ事を願うであろう。勝って早く終わることを。そこが怖いのである。 〕

池内紀さん「森鴎外の「椋鳥通信」」

「スバル」に鴎外は「椋鳥通信」という海外の情報を伝えていた。無名の人が伝えているという形をとっていたが、皆、鴎外であるということを知っていた。横文字が多く読者は少なかったはずである。斎藤茂吉は読んでいた。キュリー夫人の不倫やトルストイの家出のことなども、伝えている。オーストリアの皇太子夫妻暗殺も伝え、その後戦乱となり情報も途絶えてしまう。この『椋鳥通信』の原語部分を訳し、ところどころに<コラム>をのせ、解かりやすいようにして構成し、上・中とまで出ました。

〔 鴎外さんという人は、公人として超多忙でありながら、本を訳したり、小説を書いたり、海外の情報まで選択して紹介までしていたとは、驚きである。それも、ゴシップ的ことまでもである。鴎外さんは、『舞姫』のごとく、若かりしころ大恋愛をして自分の立身出世も捨てようとした人であるから、ゴシップ的なことも、人間の一面として重要な部分としたのかもしれない。『舞姫』のエリスのモデルの方は、NHKの特集であったか、一応そうであろうとの確率の高さで探しあて、彼女は母方の遺産が入り生活を助けてくれ、新しい家族に恵まれ穏やかな最後を送ったと放送されたことがある。

<トルストイの家出>は、映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が関係ありそうで、DVDが出番を待ってそばにある。文京区森鴎外記念館で『谷根千“寄り道”文学散歩』を展示していた時、鴎外の作品関係の文学散歩の地図があり、これも、涼しくなった時のために出番を待っている。

鴎外記念館に3本映像があり、その中で安野光雅さんが、無人島に一冊本を持っていくとしたら鴎外の『即興詩人』であり、山田風太郎さんも『即興詩人』と言っていたと語っている。これには驚いた。読んでいないから何とも言えないが、山田風太郎さんと鴎外さんとは意外な組み合わせである。〕

山田太一さん「きれぎれの追憶」

戦時下の様子を知る人が少なくなって、映像で描かれるものにも首をひねるものがある。たとえば、豆かすをご飯に混ぜて食べていて、「豆を選んで食べている」というセリフがある。大豆油を搾り出したあとの豆かすである。選んで食べるようなものではない。大岡昇平の『野火』の場面で、福田恒存と大岡昇平が論争をしている。、福田恒存は、大岡の表現に異議を唱えている。

〔 豆かすの話しも、福田さん大岡さん論争も、作家が書いていることが、そうは思わないであろうと、事実ではないとする考え方のそれぞれの立場を説明しているわけであるが、これは、浅田次郎さんのウソと関係する。そもそも小説は歴史的事実のみではなく、人間も書く。体験していない者としては、出来る限り事実と生活をも忠実に書きつつその中でどう人は考え感じたかを書かなくてはならないわけで、体験していなくても書かなくてはならない。ウソのないように。

体験した人が書いたものにも、違うという意見もあるわけで、戦争作品がどれだけ大変な作業であるかが分る。福田さんと大岡さんは仲が良かったそうであるから、あえて福田さんが自分の思ったことを伝えたのであろう。山田さんは、そいう福田さんの詠み方を、それは違うであろうとしていたが、『野火』を読んでる途中なので何とも言えない状況である。

戦争物を書くと言うのは本当に大変だと思ったのは、映画『一枚のハガキ』で、兵隊さんたちは、検閲の中にいる。家族への返信や近況報告を正直に書けないのである。もしかすると、残された手紙には本心は書かれていないかもしれない。そこにすでにウソがあるかもしれないのである。語れない死者の言葉を書くと言うことは重い仕事である。しかし、書かなければ論争の対象にもならず、無かったものとなる。考える必要もなくなる。

福田恒存さんと大岡昇平さんの論争文がないかと探していたら、高見順さんと大岡さんの対談があり個人的に興味を持った部分で締める。大岡さんの『野火』が最初に発表されたのは、宇野千代さんが『スタイル』という雑誌でもうけたお金で出した、季刊雑誌「文体」ということである。宇野さんのお気に入りの連中の雑誌ということで『野火』は注目されず、「展望」にのったら評判をとったので、大岡さんは「癪にさわったね。」と言われている。面白い。〕

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (1)

7月20日~25日までの6日間、文学に関係する19人(聞き手、対談者を含む)の方々の話しを聴いた。<話しを聴いた>としたが、きちんとそれぞれテーマがあって、そこに集約されていく講義・講演といえるがこれは内容をきちんと伝えないと誤解を要することにもなるので、受けた方は<話しを聴く>というかたちにして、そこからテーマと関係あり、無しの刺激や切り口の面白さから受けた受け手の自分勝手の次の行動や、個人的好みによって進んだ動きについて書く。

<行動>すると書くと格好よいが、DVDを見たり、多少本を読んだということに過ぎない。それと、<話し>のなかで、余談的ことに強く反応するテーマを逸脱する興味本位の楽しみ方もしているので聴いた話しから逸脱している可能性ありでもある。

52回の夏の文学教室自体に大きなテーマが設定されている。『「歴史」を描く、「歴史」を語る』である。<「文学」において、小説や日記など、さまざまなかたちで、「歴史」はつむがれてきました。文学者が見つめ、書いてきた「歴史」を、現在活躍中の作家の方々に大いに語っていただきます。>

水原紫苑さん「谷崎潤一郎の戯曲」

谷崎の戯曲『誕生』『象』『信西』『恐怖時代』『十五夜物語』『お国と五と平』『無明と愛染』『顔世』を紹介。読む戯曲としての面白さがあると。

〔 歌舞伎座での『恐怖時代』は、芝居の出来不出来は別として、こういう世界もあったのかと良い意味で驚いた。小説の『盲目物語』を芝居にしていて、玉三郎さんと勘三郎さんの舞台を思い出すが、もう一工夫して面白いものにして再演してほしい。 〕

藤田宜永さん「谷崎の探偵小説」

「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」から谷崎の語学力からしても、海外の探偵小説は相当読んでいてその手法を取り込んでいる。登場人物は暇とお金があり、散歩好きで、都会に位置している。

〔 この四作品はよんでいたので、皮膚感覚がもどってきた。同時に大正時代の都会の一角に立ち、周りの景色を眺めているようであった。ちょっとおどろおどろしく、江戸川乱歩の世界も思い起こす。山田風太郎さんの『戦中派復興日記』を読み終わったところで、生身の江戸川乱歩さんも登場する。乱歩さんは、勝手にその作品の世界と共に生身も大正から昭和の初めの作家としていたので、ここでまた、後ろにタイムスリップさせて時間のズレを修正する。 〕

島田雅彦さん「おとぼけの狡智」

谷崎は戦中も『細雪』という作品で戦争には何の関係もないことを事細かに細々と書いていた作家である。自分だけの世界に入っていた。作品として『春琴抄』に触れる。谷崎は語学もでき頭の良いひとなので、自分の性癖にあった文学としての昇華形式を海外の作品にすでに見つけていた。

〔 この機会だからと山口百恵さんと三浦友和さんコンビ映画『春琴抄』の録画を観ていた。よく判らぬ世界であるが、琴と三味線を弾く場面の曲に興味が湧き、佐助が眼を縫い針で突く場面の映像はドキドキした。22日にテレビNHKBSプレミアムで『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』が放送された。島田雅彦さんも参加されていた。国立劇場で12月19日に邦楽公演として『谷崎潤一郎ー文豪の聴いた音曲ー』がある。〕

中島京子さん「『小さいおうち』の資料たち」

『小さいおうち』は、昭和5年~昭和20年まで日中戦争から第二次世界大戦までの15年戦争時代をかいている。その時代の空気、様子を知るために読んだ小説などを紹介。『細雪』(谷崎純一郎)、『十二月八日』(太宰治)、『女中のはなし』(永井荷風)、『女中の手紙』(林芙美子)、『たまの話』(吉屋信子)、『黒薔薇(くろしょうび)』(吉屋信子)、『幻の朱い実』(石井桃子)、『欲しがりません勝つまでは』(田辺聖子)、『古川ロッパ昭和日記』ら、もっと沢山あるがそれをどういうときに参考にしていったか。

〔 こちらも録画『小さいおうち』を観ていたので、資料がどう使われたが想像できた。日清、日露戦争に勝ち、小さいおうちのオモチャ会社に勤めるご主人が、これで中国がオモチャの購買地域となりこれからじゃんじゃんオモチャが売れると張り切っている。簡単に中国との戦争に勝ち、オモチャが売れると思っている。疑うことのない庶民感覚である。ところが、戦争は長引き、ブリキから木のオモチャへと変わってくる。庶民感覚と少しづれた奥様を思うお手伝いのタキさんの不安と心配は一つの行動に出る。いつからが戦争かがわからない怖さ。 〕

和田竜さん「僕が読んできた歴史小説」

鵜飼哲夫さんが聞き役でトークの形である。名前の<竜(りょう)>は、母が坂本竜馬が好きでつけた。大河ドラマの北大路欣也さんの坂本竜馬のときである。好きな歴史小説は司馬遼太郎と海音寺潮五郎。『のぼうの城』は、『武将列伝』にも出てこないような人を書きたかった。今の漫画の人気は、何の努力もせずに備わっている何んとか一族の主人公とか、超能力を持って居る主人公ものが受ける。

〔 『村上海賊の娘』と『のぼうの城』が同じ作家であったとは。『のぼうの城』は観たいとは思わなかった。レンタルで『陰陽師』のそばにあっても無視であった。おふざけ過ぎよと思っていたのである。観たら八王子城と同じ時に秀吉に託され石田三成と聞いたこともない成田長親との対決である。おふざけと見えたのは、実際は戦を避けることを考えた人であった。建物一つにしても責任をだれもとらない国が、勇ましいことをいっても、だれが責任を持ってくれるのか。忍城は埼玉県行田市である。行かなくては。 〕

浅田次郎さん「戦争と文学」

戦争が終わってから6年たって生まれたのですから戦争のことは知らない。物心ついたときには、戦争の跡というのはほとんどなかった。傷痍軍人がところどころで見かけたが怖かった印象がある。戦前は日本は海洋王国ですから、戦中民間の船が多く沈んだ。そのことを書いたのが『終わらざる夏』。戦争を知らないからウソのないように調べて書く。疲れます。戦争文学は売れなくても書かなくてはならない。『戦争と文学』20巻の編纂をしたが、これらの作品が会話文が少なく地の文が圧倒的に多いのに驚いた。会話文が多いとストーリーがわからない。

〔 残すこと、伝えること、発掘すること等の重要性を思う。受ける方は読むことが重要であるが、今回は映像で短時間決戦である。浅田次郎さん原作の『日輪の遺産』、同じ佐々部清監督ということで横山秀夫さん原作の『出口のない海』を観る。『日輪の遺産』は思いがけない内容であった。こういう事があったとしたら若い人はどう行動するであろうか。純粋であればあるほど内なる純粋さに添い、死を選んでしまうのか。それにしても、大人たちはなぜもっと早く戦争を終わらせなかったのか。どれだけの若い命の青春が幕を下ろされてしまったことか。戦争映画として『死闘の伝説』『一枚のハガキ』も観る。歌舞伎役者さんたちが映像の中で予想を超えて伝えてくれた。浅田さんの、若い優秀な近代歴史の研究者が出てきているの言葉が希望を灯す。どう答えがでようと、きちんと検証されることが大事である。〕

 

宝塚と義太夫

歌舞伎学会の講演会があった。 ≪演劇史の証言 酒井澄夫氏に聞く≫ 講演名は「宝塚義太夫歌舞伎研究会」である。宝塚と義太夫とどんな関係があるのか興味が湧いた。

酒井澄夫さんは、宝塚歌劇団理事・演出家ということである。申し訳ないことに宝塚は一度も見ていないのである。組も数種あり、スターも多くて何をどう見ればよいのかわからなく、観たものが、この程度なの宝塚はと思うような観方もしたくないと思ったりするのであるが、深く考えないでそのうちなんとかしよう。

公演は、エポックの部分が明らかになった感じで面白かった。

時代は昭和27年から昭和43年まで、宝塚の生徒さんが、<宝塚義太夫歌舞伎研究会>として自主的に義太夫歌舞伎の発表会(公演)をしていたという事実である。酒井さんの話では、こちらから見てスターでも、宝塚内部では皆さん生徒さんなのだそうである。皆さん、教えに対しては呑み込みが早く、言われた通りに身体で受け止め、それが舞台に立った時、華があるかどうかという事のようである。その事から一つ納得したことがある。

続・続 『日本橋』 で、淡島千景さんのインタビューに触れたが、多くの監督さんの作品に出られていて、それぞれの監督さんの印象について聞かれたとき、印象がないと言われていた。習いに習うだけで自分のことで精一杯で、監督さんを観察する余裕などなかったし、冗談を言い合うということも無かったんです。謙遜なのかと思ったが、宝塚で身につけられていた<習う>という基本がつながっていたのであろう。

講演資料によると始まりは、昭和26年の「義太夫と舞踏会」「宝塚義太夫の会」「宝塚歌劇と義太夫」、昭和27年「宝塚歌劇と義太夫」では、専科花組生徒出演者の中に、有馬稲子さんと南風洋子さんの名前がある。そして義太夫歌舞伎公演の第一回が開かれている。活躍したのは、天津乙女さん、春日八千代さん、神代錦さん、南悠子さん、富士野高嶺さん、美吉佐久子さん等である。名前をよく耳にするのは、天津さんと春日さんである。南悠子さんは、淡島千景さんと久慈あさみさんとともに<三羽烏>といわれたらしいが、やはり映画に移られたかたの名前がメジャーになってしまう。

この研究会の指導者が、義太夫が娘義太夫で活躍した竹本三蝶さんで歌舞伎は、二代目林又一郎さんである。このお二人の名前も今では表に出てこられることはない。二代目又一郎さんは初代鴈治郎さんの長男であるが、身体が弱く芸の力がありながら大きな役を続ける体力がなかったようである。又一郎さんの息子さんは戦死され、孫が林与一さんである。上方歌舞伎の衰退の時期に、この<宝塚義太夫歌舞伎研究会>の自主公演は行なわれていたのが興味深いことである。

美しい宝ジェンヌが、『壺坂観音霊験記』」の沢市や『車引』も演じていて、写真を見た限りでは違和感がなく、『車引』は雰囲気がよい。酒井さんが見始めた頃も、女がという違和感はなかったようである。天津乙女さんの『鏡獅子』の素踊りの映像を見せてもらったが、晩年とは云え、獅子になってからも力強かった。二代目又一郎さん、三蝶さん、天津乙女さんが亡くなられて<宝塚義太夫歌舞伎研究会>は立ち消えとなる。詳しく正確なことは、『歌舞伎と宝塚歌劇ー相反する、蜜なる百年ー」(吉田弥生編著)に書かれてある。

私は、かつての元宝塚出身の映画での役者さんでしか見ていないが、月丘夢路さん、乙羽信子さん、淡島千景さん、久慈あさみさん、新珠三千代さん、八千草薫さん、高千穂ひづるさん、有馬稲子さん、南風洋子さん、鳳八千代さんなど沢山の方々が、美しさだけではない個性を感じさせてくれる人物像をされていて好きである。そしてそれぞれに色香がある。それは、習って色をつけ、その色を自分のものにして、そしてまた習う。常に習う場所を空けておいているからであろう。ただ今のかたは、同じに見えてしまうのはどうしたことか。それだけの力を引き出してくれるかたも居ないということか。見るほうが駄目なのか。

「歌舞伎学会」の講演は誰でも聞きに行けます。資料代があり有料ですが。