織田信長関連テレビドラマ(3)

  • 織田信長となれば、明智光秀を外せない。ただ光秀がなぜ信長を討ったかというのは諸説ある。疑問の残る「本能寺の変」である。テレビドラマ『敵は本能寺にあり』(2007年)は、光秀の家来・三宅弥平次が主人公で、光秀の娘を妻とし後に明智左馬助を名乗る。原作は加藤廣さんの『明智左馬助の恋』である。明智左馬助は染五郎(十代目幸四郎)さん。

 

  • このドラマでは安土城がかなり重要な役をしている。そして、明智光秀が築城した琵琶湖に突き出た坂本城も出てくる。CGであろうが、湖面に建つ坂本城が美しい。琵琶湖に面したこの二つの城。その美意識が対抗しているようだ。当然安土城が坂本城を見下ろしている。あの時代、今の関東の富士山的象徴が琵琶湖だったようにおもえる。左馬助は馬の名手で、時には馬で琵琶湖を渡りますと信長に告げる。これもキーポイントである。

 

  • 左馬助の妻になった光秀の娘・綸(りん)は、左馬助と夫婦約束の仲であったが、信長により荒木村重の嫡男・村次に嫁ぐ。荒木村重の謀反により綸は離縁され光秀のもとに帰され、左馬助の妻となる。ドラマと離れるが、信長が送った使者・黒田官兵衛を監禁したのが荒木村重である。その後荒木村重は逃走し、そのため荒木一族は処刑され、この時乳母に助けられたのが村重の子・岩佐又兵衛である。後に絵師となり、歌舞伎・文楽『傾城反魂香』の浮世又平のモデルともなり、『山中常盤物語絵巻』を描いたその人である。光秀の娘が荒木家に嫁いでいたとは。この綸も戦国の中での数奇な人生である。

 

  • 左馬助は信長(玉木宏)に家来になるように言われるが、光秀(中村梅雀)にあての無い自分を救ってもらった恩義があると断る。信長は肉親や情など信じられない。信じられるのは力だと主張。左馬助のお館様の想いが詰まった城の中を見せて欲しいという言葉に信長は、見せない。見たくば奪ってみろと。左馬助は光秀の信長に対する複雑な気持ちを計りつつ光秀の心が晴れるよう御所の馬ぞろい、家康饗宴などを手伝い進言もする。しかし、左馬助の力ではどうすることもできない方向に事は進んでいき「本能寺の変」へとむかう。

 

  • 本能寺の焼け跡から信長の死骸はみつからなかった。抜け穴があり、その抜け穴は何者かに崩されていた。左馬助は極秘に阿弥陀寺の住職に呼ばれ、信長の遺体と対面し深く葬ることを頼む。静かに安土城の天主閣へ登って行く左馬助。光秀に加担した公家の近衛前久は天主閣を見て降りる時、見なければよかったと恐れた場所である。天主閣には狩野永徳が待っていた。陽の登る前にお呼びしたのはこれをお見せしたかったのですと東側の戸を少し開け陽の光を入れる。するとその一条の光が襖絵の皇帝を顔を照らしだした。帝をないがしろにしようという気持ちは無かったという意味であろう。

 

  • 左馬助は、信長にいつか琵琶湖を馬で渡るのをお見せすると告げていた。綸を残した坂本城へもどる道はふさがれている。お館様、ご覧くださいと左馬助は馬で琵琶湖を渡るのである。そして坂本城の炎の中で綸とともに最期をとげる。『時は本能寺にあり』とあるように、「本能寺の変」までが刻々と描かれている。左馬助はとらえきれない信長の魅力と、光秀の苦悩も推し測り、その間でみつめていた乱世。最後は清々しい気持ちで琵琶湖渡りをする左馬助である。

 

  • 個人的には、安土城の内部を知った時、仏の世界の上に人間世界の天主閣をもってきてそこに座すということは、信長は人として自分が支配者となると決めていた人であると思えた。そこを最後に違う光を与えた変化球にこのドラマの面白さがあり優しさが。信長さん金平糖食べていました。信長と家康が能の「敦盛」を見物し、その謡の中で、饗宴係りを降ろされた光秀が自分の進む道を準備しているなど、しっかりとそれぞれの思惑を見せてくれた。

 

  • 大河ドラマ『国盗り物語』(1973年/原作・司馬遼太郎)の総集編(前篇・後編)がレンタルできた。このドラマ、斎藤道三(平幹二朗)から始まり織田信長(高橋英樹)に続くという設定になっていて、斎藤道三という人物が知りたかったので好都合である。明智光秀(近藤正臣)が道三に仕えていて光秀のたどって来た道もわかる。ただ、総集編であるから展開が速い。

 

  • 坂口安吾さんの『信長』によると斎藤道三は <坊主の出身で、坊主の中でも抜群の知恵者で、若年からアッパレ未来の名僧と評判された腹の底の知れないような怪物だった。寺をすてて油売りの行商人となり、美濃の守護職土岐氏の家老長井の家来となり、長井を殺して代わって土岐氏の家老となり、さらに土岐氏を追い出し愛人をうばい美濃一国を手中に収めた> とあるが、そういう流れである。前篇で簡潔に見れた。

 

  • 信長』は、坂口安吾さんも数多く資料を集められたのであろう。登場人物が多数あって入り組んでいる。映画、テレビドラマを少し観ていたので、違いや、この映画のこの部分か。時間差をずらせて映画やドラマは面白く引っ張ているものだと場面や登場人物を思い浮かべる。複雑に裏切りや駆け引きがあるので、小説では、軽さを出そうとカタカナがでてきて、信長は頻繁にバカと称されている。テレビドラマ『織田信長  天下を取ったバカ』の題名も納得がいく。信長が濃姫と話すときも、オレ、オマエで現代の若者のような会話であったりして坂口安吾さんの工夫が感じられるし、信長周辺が大変参考になった。

 

  • 安吾さんは『信長』に対する作者の言葉として「信長とは骨の髄からの合理主義者で単に理攻めに功をなした人であるが、時代にとっては彼ぐらい不合理に見える存在はなかったのだ。」としているが『信長』を読むとそれがよくわかる。信長と道三を結びつけたのは平手政秀である。四面楚歌の信長を守ってくれたのが道三である。信長が織田家のトップにたつと、その弟は信長の家臣からも軽くみられる。だれも信長を認めないのであるから、弟たちの家臣たちは面白くない。家臣は弟をたきつけ、あわよくばその主人を操って自分が支配しようとする。信長の周囲はそんな城が幾つかある。それをおさめていくが、そのとき道三の後ろ盾が味方である。

 

  • ことが起れば、うつけのときに行動していたところが合理的に生きてくる。自分が身体をつかってしたけんかの手法。相手の戦隊を崩させ、自らそこに飛び込む。戦隊を崩させるのも長い槍隊。槍は一回確実につけばよい。そのあとは刀にかえろ。槍を抜いてまた使うなど時間の無駄。鉄砲隊は三列。時間差なく撃ち込む。これは相手の前列の兵にとっては脅威である。驚いているところへ大将が飛び込んでいくのであるからまたまた驚かされる。驚かせるのが好きである。

 

  • 道三との面談の衣裳で皆を驚かせた信長は、衣裳が驚かすことを発見したとおもう。その後の新しい物への興味とそれを披露したときの周囲の驚きを楽しんでいたところがある。驚いているうちに次を成す。ただそこまでの用意も面白い。茶もやるが、「茶の湯は貧富をとわず余人をまじえず膝つき合わせて交じりを結べる」。諸人と交わっても怪しまれず、間者たちとの情報も誰にも悟られず得られる。四面楚歌であるから誰も信用できない。子供の頃から見聞きするのは好きだから情報を得る方法がわかっていてさらに、誰にもさとられないように情報を得て、自分で考えるのである。突然動きだす。説明はないから皆驚く。

 

  • 信長』によると、尾張の守護・斯波義銀(しばよしかね)を国守とあがめ清洲城に招き信長は北矢蔵へ隠居。今川義元に使者をだし三河の吉良家を三河の国守とさせ、斯波家と吉良家を三河で参会させる。吉良家は力は劣っているが、足利将軍家に子がなければ三河の吉良家の子が継ぎ、吉良家に子がなければ今川家の子が将軍家を継ぐ定めがある。斯波家に権威を与えるためであり、信長が出陣の時、清洲城を斯波義銀の権威に守らせるためでもある。世間の権威を使う理も心得ている。

 

  • 道三は、土岐氏の愛人を奪うがそのお腹には土岐氏の子が宿っていて道三は息子として育てる。その息子・義龍は自分の出生を知り自分が正しい血筋とし、道三を討つのである。その時信長は道三を助けることができなかった。その後も信長の身内や家臣の謀反は続く。そして上洛する今川義元との桶狭間の戦い。大雨で信長軍の動向はさとられず、一気に義元の後方の陣地を襲い勝利するのである。運と信長の理とそれまでの経験が合体したのである。

 

  • 信長は、道三の築いた稲葉山城を奪い、新たに岐阜城とする。ここからは、最後の室町幕府将軍の足利義昭と信長の駆け引きが加わり、そこに明智光秀も関係し、さらなる信長の天下取りへの戦がはじまる。司馬遼太郎さんの原作『国盗り物語』を読むのがよいのであろうがもう少しあとにする。信長は、異国からの知識も理にかなっていると思えば受け入れ、地球が丸いのを地球儀で納得している。宗教なども、信じると他国にまで丸腰で布教にくる宣教師と武力を持つ我が国の寺社と比較したことであろうし、権威だけの貴族も信用していない。それにしても自分の死骸を残さなかったというのも信長の最後の理のようなきがする。驚いたか、どうだ謎を解いて見ろ。

 

  • 金平糖が気になり調べると、京都の老舗店が、銀座に昨年の12月に支店を出していた。制服で話題になった泰明小学校のそばである。歌舞伎座の下にある木挽町広場には大阪が本店の金平糖の出店があり試食させてくれた。粒の小さな塩金平糖は真ん中に赤穂の塩が入っているとのことで色も綺麗である。透明の小瓶に金平糖を入れ色と☆を愉しみながら、ときに口にほうりこむのがいいな。左向きの左馬は右に出る者がないとの意味があるらしい。福島の相馬焼の紹介で知った。名前に左馬助とか左馬之介などとあるのはそういう思いを込めてつけられたのであろう。相馬焼も不屈の精神で震災から立ち上がられて頑張っておられる。