えんぴつで書く『奥の細道』から(11)

奥の細道』も、日本海に沿って歩き始めることになります。下の地図の市振の関の右横のの丸印は親知らずです。

私的な旅は芭蕉さんの旅とは違っていて、東京から佐渡へ、金沢へ、能登へと観光が目的で重なる部分が少なくなります。

ある方は酒田までを一部とし、酒田を立つときから二部に分けられるといわれていて、私の感覚もそれに近いです。森敦さんは酒田から越後路あとを起承転結の<>としています。

芭蕉は酒田が名残惜しく日を重ねますが、金沢までは130里ということで出立を決して再び歩き始めます。ところがしばらく記述がなく次に記されているのが、鼠の関(念珠の関)を越えて市振(いちふり)に着いたと書きます。ここまでの9日間は暑さと湿気に悩まされ病が起こって筆をとれなかったとしています。そして市振で二句載せています。

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

・今夜は七月六日七夕の前の夜であると思うといつもの夜と違うようにおもえる。

そして、「荒海や 佐渡に横たふ天の河」の雄大でいながら流人の島に対する繊細さも感じられる句がきます。おそらく出雲崎で眺めた佐渡と荒海に七夕の天の河を組み合わせたからでしょう。

市振りに着く前に難関の親知らずを通ってきています。そのことはこの後宿で寝るときに書いています。

「今日は親知らず、子知らず、犬戻(いぬもど)り、駒返(こまがえ)しなどいふ北国第一の難所をこえて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに」

<に>ときました。どうしたのでしょう。隣の部屋から若い女の話し声がしたのです。女は二人でどうやら新潟から来た遊女らしく、伊勢参りの途中らしいのです。年配の二人の男が同行してきたらしいのですが男たちは明日引き返すようです。自分たちの身の上を嘆き悲しむのを夢うつつに聞きつつ疲れている芭蕉は寝入ってしまいました。

次の朝、女性たちは女二人では先の旅が不安ですので芭蕉たちの後ろからついていかせてくださいと涙ながらに頼みます。芭蕉はあちらこちらと留まるので無理です。人の流れに任せていけば、神明の加護があり伊勢に導いてくれるでしょうといって先に出立してしまうのです。つめたい。途中までならとでも言ってあげればよいのにとおもいましたが芭蕉もしばらくは気がかりだったようです。

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

<萩と月>はもの悲しさを感じさせます。遊女とのことは曾良に話をしたら書き留めたとしていますが、曾良の日記には記されていないそうです。ゆとりのない自分の老いを改めて感じてあえて記したのかもしれません。それとも終盤の旅に色をそえたのでしょうか。 

黛まどかさんと榎木孝明さんが『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で出雲崎親不知市振を紹介してくれました。知らない地域でしたので大変参考になりました。

出雲崎は佐渡島から運ばれた金で栄えた街で、金の輸送にたずさわる廻船問屋が100軒近くあったそうです。街道筋には間口が狭く細長い妻入りと呼ばれる家並みが続いています。

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親知らずの海岸線

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今は海上を高速道路が通っています。

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親知らずを無事通過できると市振にて海道の松が迎えてくれます。

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芭蕉が市振で宿泊した桔梗屋の跡

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出雲崎といえば良寛さんです。良寛関連の施設が幾つかあるようです。良寛は芭蕉が亡くなって60数年後に誕生されていて、芭蕉を敬愛していた文章がのこっているようです。禅僧として芭蕉さんとは違う視点での句を残されました。