日本近代文学館 夏の文学教室 (5)

荒川洋治さん「伊藤整『日本文壇史』の世界」

伊藤整の死により、伊藤整の『日本文壇史』は18巻で終わっている。この文壇史はA君が何年にどこで誕生し、B君は何年にどこそこで誕生、A君が10歳のときこのようなことがあり、B君はそのとき8歳でこういうことがあった。その時C君はどこそこで生まれた。A君はその時、小説家A男になり、B君は学生でこういうことをしていた。B君はB夫となり小説を発表したが認められなかった。A男は次第に文学界から置き去りにされ、B夫は文学界の中心となり、その時C雄は、文学界の寵児と言われていた。こいうふうに作家が時代と共に年齢を重ね文壇で並ぶときはそれぞれどういう状態であるかが解るように書かれている。(実際には実名入り例だったのであるが、島崎藤村だったか、国木田独歩だったか忘れたので私が勝手にA、B、Cにした。)尾崎紅葉の一番弟子が泉鏡花で、弟弟子の徳田秋声と仲が悪かった。鏡花の弟豊春も作家になったが芽がでず、豊春が困っているので秋声は自分の貸家に住まわせたがほどなく亡くなってしまう。葬式で鏡花と秋声が顔を合わせ和解する。それが、秋声の小説『和解』である。

高見順の文学碑の除幕式の時、高校生の僕は、来ていた伊藤整に彼の本にサインをしてもらった。僕がお辞儀をすると、伊藤整も丁寧にお辞儀してくれた。高校生の僕にですよ。丁寧にお辞儀してくれたんです。(実演入り)『日本文壇史』は後世のための仕事です。

〔 実演も入るので楽しく聴いていたら正確さに欠け、A、B、Cになったが、同時進行で進んでいくように書かれているようで面白そうである。ただこの書き方は大変な作業である。偉いかたもきちんとお辞儀をされたほうが、後世に作品を読ませるように説明して貰えそうである。

高見順さんの文学碑ということは、東尋坊の荒磯遊歩道入口近くの碑であろう。福井に行った時、路線バスで東尋坊入口まで行き、そこから東尋坊に向かい、日本海の荒海を見つつ遊歩道を歩いた。高浜虚子、三好達治等の文学碑があり、こちらの歩き方からすると、遊歩道の終わり近くに高見順さんの文学碑があった。海を眺めるかたちで立っていた。遊歩道入口のバス停は広いのに何もない所でこんなところで置いてけぼりは困ると思ったものである。あの文学碑の除幕式に伊藤整さんと一人の高校生との劇的出会いがそこであったわけである。

バスがきちんと来てくれて、三国駅まで乗るつもりが、途中で高見順さんの 生家跡の町名のバス停がありあわてて降り、それが正解であった。そんな思い出の高見さんであるが、近代文学館の秋季特別展は『高見順という時代ー没後50年ー』である。

2015年9月26日~11月28日

記念講演会  ①9月26日14時~池内紀「高見順の蹉跌」             ②11月3日14時~荒川洋治「高見と現代」

伊藤比呂美さん「古典を読んで訳してその同時代を生きること」

今、座禅にはまっています。雑念が多いので絶対ダメだと思って居たら驚く速さで時間が通過したりします。『説教節』とか『日本霊異記』を訳していて、面白いので原文と訳文を読みます。『安寿と厨子王』『小栗判官』なども説教節からです。説教節の女性達は良く働きます。安寿にしろ照手姫にしろ、奴隷のように働きます。男は役立たずです。お経の一字一字に入り込んでいきます。四季には仏教感があり、それが無常にも繋がっていたりします。

〔カリフォルニア在住で、九州に実家があり、以前に聴いたときは、遠距離介護の話しをしておられたのを思い出す。玉三郎さんが出た時で、もう少し我慢して下さいね、お目当てはあとに控えていますからとも言われていた。興味のあることには分け入って進み何かしら面白いものを見つけるぞと突進して行きそうなかたである。それにしても、説教節とか日本霊異記とか、分け入ってできた道を後からついて行きたくなるような話ぶりであった。〕

対談 「「あの日」の後に書くことについて」 いとうせいこうさんと高橋源一郎さん

これは、聞いた方からのみとする。前半は高橋さんがいとうさんに聞くかたちで、後半はいとうさんが高橋さんに聞くかたちであったが、それぞれの話が交差したりするので、上手く書けないのである。お二人とも小説を書けないときがあって、いとうさんは15年くらい高橋さんは7年くらいあったそうで、書こうとすると吐き気をもよおしたりするのだそうである。もう一人の自分が書かせてくれない。

いとうせいこうさんは、みうらじゅんさんとの見仏記でDVD映像とか本でお目見えしているが、その頃は書けなかった時期であろうか。関西と関東のカキ氷談義など楽しかった。

いとうさんは東日本大震災のあとで書けるようになり、もう一人の自分が書けといって書かせてくれているようなのだと。書ける書けないはもう一人の自分に左右されているらしい。高橋さんは、詩は書こうとすると書けないのであるが、小説の主人公に詩を書かせると書けるそうで、小説を書くという行為は複雑怪奇である。

浅田次郎さんが、泣かせの作家と言われているが、泣かせようと思って書いてはいない。作家というのは冷徹でなければ書けないと言われていた。人が一人一人いるように詩人や作家もそれぞれである。聞いたことは、ほとんど忘れているが、どこかで聞いたなと思い出すこともあるであろう。

忘れるということは、今必要ではないこととする。雪が降って、自分の木の興味ある枝だけにふんわりと雪を残していってくれた感じである。解けない内に雪を固めて時間を稼ぎ、興味あることに水分を吸収してしまいたいものである。頭のなかでは想像できる雪も、現実の暑さは何んということか。関西のカキ氷をいつか経験しよう。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (4)

川本三郎さん「終戦前夜の永井荷風」

永井荷風は3回の空襲にあっている。人付き合いのしない荷風で老人(66歳)であり単身者である。空襲による孤独感と恐怖は大きかったであろう。(1回目)昭和20年3月10日の大空襲で麻布自宅偏奇館焼失。杵屋五叟宅へ。(2回目)5月25日、菅原明朗の紹介で住んで居た東中野の国際文化アパート空襲で焼失。菅原明朗と永井智子と明石へ向かい、岡山に移動。(3回目)6月28日岡山での大空襲にあう。この三つの空襲の体験は、その後の荷風の様子から考えて、トラウマとなり心的障害をきたしていたのではないか。荷風を支えていたのは、言葉である。

荷風を助けた人々。クラッシク音楽家の菅原明朗、声楽家の永井智子、菅原の弟子・宅孝二。明石に向かったのは宅の実家があったから。(訂正:菅原の実家である)永井智子は作家・永井路子の母である。菅原と永井は8月3日から3日間広島でコンサートがあり、5日の夜岡山に残した荷風が心配で泊まらずに岡山に向かう。泊っていたら被爆していたであろう。菅原はドイツ音楽ではなくフランス音楽を研究しフランス好きの荷風と好みが一致した。宅孝二はクラッシクからジャズに転向し、戦後、映画音楽を手掛けている。森繁久彌の社長シリーズなども。荷風の詞、菅原の作曲、智子の歌、宅のピアノでの演奏会もあった。

〔 資料もあり、広島原爆の後、荷風さんと谷崎さんとの岡山での再会のことなど『断腸亭日乗』から調べたことがあるので、長くなってしまう。市川市文学ミュージアムでの『永井荷風展』での講演でも、荷風の空襲によるトラウマとする考えは聴いているが、テーマは違っていたので少し触れただけだが、今回はきちんと日記をひいてなので説得力はある。フランス仕込のおしゃれな荷風さんには考えられない晩年の姿と行動の原因と考えておられるのである。価値観が変わったことは確かであるがそのトラウマの程度や影響は荷風さんの言葉、文章から読み解くことはできないのであろうか。それが知りたいところである。

永井智子さんという声楽家がいてその方が、永井路子さんのお母さんであるということを初めて知る。古河市に永井路子さんの実家があって、古河文学館の別館として公開されている。私が古河と『南総里見八犬伝』の関係から古河市を訪れたのは、東日本大震災の後だったので、非公開であったが、再公開されているようである。その旧永井家は智子さんの育った家でもあったわけである。古河城の櫓が歌舞伎『南総里見八犬伝』での<芳流閣屋上の場>の芳流閣のモデルとされているが、その痕跡はない。代わりに古河市の文学関係者のことを知る結果となったわけである。

その一人が子供雑誌『コドモノクニ』の編集者・鷲見久太郎さんである。映画『小さいおうち』の男の子の枕元にもこの『コドモノクニ』が置かれていて、奥さんの好きになる青年が男の子に読んであげる場面がある。『コドモノクニ』は大正から昭和初めにかけて出版された、贅沢で、子供たちの情操を深く考慮した本で、この男の子が大変幸せな環境にいることがわかるし、ここにこの本を出し子供文化の豊富な時代の先駆けであった時代の停止も感じとれる。

永井路子さんは、家の方針で、絵本を眺めることなく、すぐさま本を読むことを習慣づけられ目にしていないといわれ、郷里の大先輩の鷲見先生を後になって知ったことを残念に思われている。鷲見さんは、古河藩江戸詰家老で洋学者鷲見泉石の曾孫にあたり、鷹見泉石の住居も残っていて公開している。文学館に併設しているレストランはお薦めである。

音楽家の宅孝二さんが、映画音楽に携わり、市川崑監督の映画『日本橋』も担当をしており、永井荷風さんの交際する限りある周辺からは興味深いことが出現した。次の日、原爆が落とされることなど全く知らずに、音楽を聴き一時の倖せを享受していた人々もいたのである。移動演劇の桜隊の演劇人、丸山定夫さんや映画『無法松の一生』の吉岡夫人役の園井恵子さんなども被爆し亡くなられている。荷風さんが言葉を捨てなかったことによって、その日記をもとに様々な見分ができるわけである。〕

追記: 上記文章の中に<明石に向かったのは宅の実家があったから。>とありますが、宅氏の実家ではなく菅原氏の実家とのコメントをいただきました。調べますと確かにこちらの間違いでした。荷風は5月25日の夜、駒場の宅孝二氏宅に泊めて貰っています。6月2日、菅原氏夫妻とともに宅氏兄弟に渋谷駅で送られ、東京駅から罹災民専用大阪行の列車に乗り、3日に明石に到着。「菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」とあります。菅原氏の実家でした。訂正させていただきます。

日本近代文学館 夏の文学教室 (3)

黒川創さん「漱石と『暗殺者たち』のあいだで」

日露戦争後1905年から10年位。夏目漱石の『坊ちゃん』が1906年。この頃東京は路面電車が走り、その後電燈がつく。日露戦争後、清国からの留学生が多い。科挙が廃止され日本での勉学を目指す。さらに辛亥革命の芽が出ていて逃亡してくる人々もいた。孫文や黄興など。黄興は映画でジャッキー・チェンが演じている。(映画『1911年』)日本では1911年「大逆事件」で、大逆事件の犠牲者として新宮の  大石誠之助などがいる。ただ一人死刑になった女性が管野スガである。伊藤博文の暗殺。伊藤博文は幕末と明治に入ってからの伊藤博文は違っている。

〔 『坊ちゃん』は、四国松山を勝手気ままに評するが、東京を認めているわけでもない。坊ちゃんの気に入る町が日本にあるかどうか。破天荒の坊ちゃんを主人公にした漱石さんのふつふつしている胸の内が分るような気がしてきた。「祝勝会で学校はお休みだ。」とあるが、これは日露戦争のことであろう。うらなりの送別会で、野だが「日清談判破裂して・・・と座敷中練りあるき出した。」とあり、「まるで気違いである。」としている。『坊ちゃん』の違う切り口がありそうである。

大石誠之助さんについては新宮の『佐藤春夫記念館』で知った。黄興の名前は初めて耳にした。孫文に関しての映画は『宗家の三姉妹』しか見ていないので『1911年』など観ておこう。大逆事件は政府の無謀な権力行使であった。〕

堀江敏幸さん「沈黙を迎えることについて」

仮面ライダーの変身ベルトは蓄電地で回って変身すると思っていたら、仮面ライダーの乗っているサイクロン号は原子力で動いていて、サイクロン号の走行する風力エネルギーで仮面ライダーは変身するのであると教えてくれる人がいて驚いた。自分の子供の頃から身近なところに原子力が組み込まれていたのである。1972年に帰国した横井正一さんへの戸惑い。

〔 仮面ライダーの件は、変身に科学的根拠など考えもしないし、特殊な能力ある者が変身すると思っていた。原子力って凄いんだよということしか考えていなかった頃の発想であろうか。<猿島>の展望広場に展望台があり、古いため中には入れないが、仮面ライダーの敵、ショッカーの初代基地として活躍している。建物の外観映像だけ使われ基地の中はセットでの映像であろう。横井さんは、どんな怒りや理不尽さを語られても良い立場の人であるが、大きな波風を立てることはなかった。〕

町田康さん「多甚古村とか」

井伏鱒二の『多甚古村』は日中戦争の頃の四国徳島を舞台にした、巡査が観察した人々の様子。巡査の観察と巡査の行動のづれが面白い。大阪弁なら忙しなくなるところが、徳島弁だと違って、その辺の井伏の方言の使い方によるリズム、さらに、あえて徳島弁でないイントネーションを使う井伏の手法。

〔 『多甚古村』はそんなに面白いのかと思わせてくれたので、これは読まねばと思った。本文から引用して読み上げてくれるのであるが、おそらく引用の文のあるページかメモされているのであろう。そのメモを見て、文庫本からのページを捜す。これがしばし時間がかかり、沈黙となり、次に探すときに「沈黙です。」と言われる。その町田さんの姿を眺めつつ、インデックスでも張って置けば良かったのではと思ったが、この時間の流れも井伏さんの『多甚古村』の時間と合うのかなと余計なことを考えた。そんなわけで、時間が立ってみると、井伏さんの思惑の原文の部分を忘れてしまった。読めば思い出すであろう。『多甚古村』の映画の代わりに『警察日記』の録画を観た。〕

山﨑佳代子さん「旅する言葉、異郷から母語で」

セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラード在住。旧ユーゴスラビアに留学したが、留学するとは思わなかった時に印象に残っていた映画が1970年に観た『抵抗の詩』である。原題が『血まつりの童話』。ナチスによってセルビアで一日で何千人もの人が殺された事実をもとにした映画である。ドイツ人が一人死ねばその何倍もの人を殺すとして数が増えていった。大人だけではなく子供にまでおよぶ。日本語とセルビア語で詩を書いている。そして、難民の人々の聴き書きをしている。

〔 ユーゴスラビアという国が幾つかの国に分れてセルビアという国が出来たようであるが、セルビアという国がもっと昔から過酷な歴史を担ってきたらしいということである。山崎さんが説明してくれた、映画『抵抗の詩』に描かれたナチスによる子供達の時代は第二次大戦ではあるが、その他の時代や現代のセルビア周辺のことはどう理解すればよいのか正直私には判らない状態である。ただ、山崎さんは多民族の人々の中で、ご自分は日本語とセルビア語を交差させ、日常と詩を通して語り続けておられるということである。争いの中に置かれた人々の普遍的な共通となる問題ということであろう。〕

日本近代文学館 夏の文学教室 (2)

木内昇さん「日常から見た歴史的事象」

いろんな切り口から時代をみるべきだ。佐賀藩は新政府に加わらなかった。新政府の長州は国のお金は自分のお金と思っている。武家と町民の文化は違っていたが、明治になって一緒になり、勝海舟は、国が庶民文化を一緒くたにするのをいやがった。江戸時代の識字率の高さ。外国では絵なぞは貴族しか持っていなかったが、日本では庶民が浮世絵を楽しんでいた。『三四郎』で、広田先生は日本は「滅びるね」と言った。高杉晋作の日記。中原中也に一番絡まれたのが太宰治。

〔 切り口が早くて繋がっているのであるが、感覚的にしか捉えていない。『三四郎』に関しては、その部分を読み返した。三四郎は、広田先生を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。」と思う。そして三四郎が日本もだんだん発展するでしょうというと、広田先生は「滅びるね」というのである。漱石の頭の中がそこにある。今までどういう事かわからなかったが、今という時代にやっと実感となる。事実のほどは知らぬが、<中原中也に絡まれる太宰治>が可笑しい。

横須賀の三笠桟橋から船で15分のところに<猿島>というのがあり、友人に誘われ暑い日に行った。そこで、今の政治家を2、3日食料無しで置き去りにしてはどうかという話がでた。ほんのわずかな時間、取り残され、閉ざされ、食糧もなく、さらに殺されるかもしれない状況の想像の中に自分をおく。倖せのことにそれはまだ、想像の世界でしかない。海辺では、家族や若い人がバーべキューを楽しんでいる。ペリーがこの島にペリーアイランドと命名したらしいが、「ダメ!もっと昔から<猿島>と名前があったのだから。」。記念艦「三笠」も見学。「勝ちすぎたんだよね。たまたま。」と友人がいう。日露戦争がたまたま勝ったのかどうか、私はきちんとその関係のものを読んでいないのである。勝ち過ぎたという気はする。しかし、戦争が始まって間違った始まりでも自分の国が勝つ事を願うであろう。勝って早く終わることを。そこが怖いのである。 〕

池内紀さん「森鴎外の「椋鳥通信」」

「スバル」に鴎外は「椋鳥通信」という海外の情報を伝えていた。無名の人が伝えているという形をとっていたが、皆、鴎外であるということを知っていた。横文字が多く読者は少なかったはずである。斎藤茂吉は読んでいた。キュリー夫人の不倫やトルストイの家出のことなども、伝えている。オーストリアの皇太子夫妻暗殺も伝え、その後戦乱となり情報も途絶えてしまう。この『椋鳥通信』の原語部分を訳し、ところどころに<コラム>をのせ、解かりやすいようにして構成し、上・中とまで出ました。

〔 鴎外さんという人は、公人として超多忙でありながら、本を訳したり、小説を書いたり、海外の情報まで選択して紹介までしていたとは、驚きである。それも、ゴシップ的ことまでもである。鴎外さんは、『舞姫』のごとく、若かりしころ大恋愛をして自分の立身出世も捨てようとした人であるから、ゴシップ的なことも、人間の一面として重要な部分としたのかもしれない。『舞姫』のエリスのモデルの方は、NHKの特集であったか、一応そうであろうとの確率の高さで探しあて、彼女は母方の遺産が入り生活を助けてくれ、新しい家族に恵まれ穏やかな最後を送ったと放送されたことがある。

<トルストイの家出>は、映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が関係ありそうで、DVDが出番を待ってそばにある。文京区森鴎外記念館で『谷根千“寄り道”文学散歩』を展示していた時、鴎外の作品関係の文学散歩の地図があり、これも、涼しくなった時のために出番を待っている。

鴎外記念館に3本映像があり、その中で安野光雅さんが、無人島に一冊本を持っていくとしたら鴎外の『即興詩人』であり、山田風太郎さんも『即興詩人』と言っていたと語っている。これには驚いた。読んでいないから何とも言えないが、山田風太郎さんと鴎外さんとは意外な組み合わせである。〕

山田太一さん「きれぎれの追憶」

戦時下の様子を知る人が少なくなって、映像で描かれるものにも首をひねるものがある。たとえば、豆かすをご飯に混ぜて食べていて、「豆を選んで食べている」というセリフがある。大豆油を搾り出したあとの豆かすである。選んで食べるようなものではない。大岡昇平の『野火』の場面で、福田恒存と大岡昇平が論争をしている。、福田恒存は、大岡の表現に異議を唱えている。

〔 豆かすの話しも、福田さん大岡さん論争も、作家が書いていることが、そうは思わないであろうと、事実ではないとする考え方のそれぞれの立場を説明しているわけであるが、これは、浅田次郎さんのウソと関係する。そもそも小説は歴史的事実のみではなく、人間も書く。体験していない者としては、出来る限り事実と生活をも忠実に書きつつその中でどう人は考え感じたかを書かなくてはならないわけで、体験していなくても書かなくてはならない。ウソのないように。

体験した人が書いたものにも、違うという意見もあるわけで、戦争作品がどれだけ大変な作業であるかが分る。福田さんと大岡さんは仲が良かったそうであるから、あえて福田さんが自分の思ったことを伝えたのであろう。山田さんは、そいう福田さんの詠み方を、それは違うであろうとしていたが、『野火』を読んでる途中なので何とも言えない状況である。

戦争物を書くと言うのは本当に大変だと思ったのは、映画『一枚のハガキ』で、兵隊さんたちは、検閲の中にいる。家族への返信や近況報告を正直に書けないのである。もしかすると、残された手紙には本心は書かれていないかもしれない。そこにすでにウソがあるかもしれないのである。語れない死者の言葉を書くと言うことは重い仕事である。しかし、書かなければ論争の対象にもならず、無かったものとなる。考える必要もなくなる。

福田恒存さんと大岡昇平さんの論争文がないかと探していたら、高見順さんと大岡さんの対談があり個人的に興味を持った部分で締める。大岡さんの『野火』が最初に発表されたのは、宇野千代さんが『スタイル』という雑誌でもうけたお金で出した、季刊雑誌「文体」ということである。宇野さんのお気に入りの連中の雑誌ということで『野火』は注目されず、「展望」にのったら評判をとったので、大岡さんは「癪にさわったね。」と言われている。面白い。〕

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (1)

7月20日~25日までの6日間、文学に関係する19人(聞き手、対談者を含む)の方々の話しを聴いた。<話しを聴いた>としたが、きちんとそれぞれテーマがあって、そこに集約されていく講義・講演といえるがこれは内容をきちんと伝えないと誤解を要することにもなるので、受けた方は<話しを聴く>というかたちにして、そこからテーマと関係あり、無しの刺激や切り口の面白さから受けた受け手の自分勝手の次の行動や、個人的好みによって進んだ動きについて書く。

<行動>すると書くと格好よいが、DVDを見たり、多少本を読んだということに過ぎない。それと、<話し>のなかで、余談的ことに強く反応するテーマを逸脱する興味本位の楽しみ方もしているので聴いた話しから逸脱している可能性ありでもある。

52回の夏の文学教室自体に大きなテーマが設定されている。『「歴史」を描く、「歴史」を語る』である。<「文学」において、小説や日記など、さまざまなかたちで、「歴史」はつむがれてきました。文学者が見つめ、書いてきた「歴史」を、現在活躍中の作家の方々に大いに語っていただきます。>

水原紫苑さん「谷崎潤一郎の戯曲」

谷崎の戯曲『誕生』『象』『信西』『恐怖時代』『十五夜物語』『お国と五と平』『無明と愛染』『顔世』を紹介。読む戯曲としての面白さがあると。

〔 歌舞伎座での『恐怖時代』は、芝居の出来不出来は別として、こういう世界もあったのかと良い意味で驚いた。小説の『盲目物語』を芝居にしていて、玉三郎さんと勘三郎さんの舞台を思い出すが、もう一工夫して面白いものにして再演してほしい。 〕

藤田宜永さん「谷崎の探偵小説」

「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」から谷崎の語学力からしても、海外の探偵小説は相当読んでいてその手法を取り込んでいる。登場人物は暇とお金があり、散歩好きで、都会に位置している。

〔 この四作品はよんでいたので、皮膚感覚がもどってきた。同時に大正時代の都会の一角に立ち、周りの景色を眺めているようであった。ちょっとおどろおどろしく、江戸川乱歩の世界も思い起こす。山田風太郎さんの『戦中派復興日記』を読み終わったところで、生身の江戸川乱歩さんも登場する。乱歩さんは、勝手にその作品の世界と共に生身も大正から昭和の初めの作家としていたので、ここでまた、後ろにタイムスリップさせて時間のズレを修正する。 〕

島田雅彦さん「おとぼけの狡智」

谷崎は戦中も『細雪』という作品で戦争には何の関係もないことを事細かに細々と書いていた作家である。自分だけの世界に入っていた。作品として『春琴抄』に触れる。谷崎は語学もでき頭の良いひとなので、自分の性癖にあった文学としての昇華形式を海外の作品にすでに見つけていた。

〔 この機会だからと山口百恵さんと三浦友和さんコンビ映画『春琴抄』の録画を観ていた。よく判らぬ世界であるが、琴と三味線を弾く場面の曲に興味が湧き、佐助が眼を縫い針で突く場面の映像はドキドキした。22日にテレビNHKBSプレミアムで『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』が放送された。島田雅彦さんも参加されていた。国立劇場で12月19日に邦楽公演として『谷崎潤一郎ー文豪の聴いた音曲ー』がある。〕

中島京子さん「『小さいおうち』の資料たち」

『小さいおうち』は、昭和5年~昭和20年まで日中戦争から第二次世界大戦までの15年戦争時代をかいている。その時代の空気、様子を知るために読んだ小説などを紹介。『細雪』(谷崎純一郎)、『十二月八日』(太宰治)、『女中のはなし』(永井荷風)、『女中の手紙』(林芙美子)、『たまの話』(吉屋信子)、『黒薔薇(くろしょうび)』(吉屋信子)、『幻の朱い実』(石井桃子)、『欲しがりません勝つまでは』(田辺聖子)、『古川ロッパ昭和日記』ら、もっと沢山あるがそれをどういうときに参考にしていったか。

〔 こちらも録画『小さいおうち』を観ていたので、資料がどう使われたが想像できた。日清、日露戦争に勝ち、小さいおうちのオモチャ会社に勤めるご主人が、これで中国がオモチャの購買地域となりこれからじゃんじゃんオモチャが売れると張り切っている。簡単に中国との戦争に勝ち、オモチャが売れると思っている。疑うことのない庶民感覚である。ところが、戦争は長引き、ブリキから木のオモチャへと変わってくる。庶民感覚と少しづれた奥様を思うお手伝いのタキさんの不安と心配は一つの行動に出る。いつからが戦争かがわからない怖さ。 〕

和田竜さん「僕が読んできた歴史小説」

鵜飼哲夫さんが聞き役でトークの形である。名前の<竜(りょう)>は、母が坂本竜馬が好きでつけた。大河ドラマの北大路欣也さんの坂本竜馬のときである。好きな歴史小説は司馬遼太郎と海音寺潮五郎。『のぼうの城』は、『武将列伝』にも出てこないような人を書きたかった。今の漫画の人気は、何の努力もせずに備わっている何んとか一族の主人公とか、超能力を持って居る主人公ものが受ける。

〔 『村上海賊の娘』と『のぼうの城』が同じ作家であったとは。『のぼうの城』は観たいとは思わなかった。レンタルで『陰陽師』のそばにあっても無視であった。おふざけ過ぎよと思っていたのである。観たら八王子城と同じ時に秀吉に託され石田三成と聞いたこともない成田長親との対決である。おふざけと見えたのは、実際は戦を避けることを考えた人であった。建物一つにしても責任をだれもとらない国が、勇ましいことをいっても、だれが責任を持ってくれるのか。忍城は埼玉県行田市である。行かなくては。 〕

浅田次郎さん「戦争と文学」

戦争が終わってから6年たって生まれたのですから戦争のことは知らない。物心ついたときには、戦争の跡というのはほとんどなかった。傷痍軍人がところどころで見かけたが怖かった印象がある。戦前は日本は海洋王国ですから、戦中民間の船が多く沈んだ。そのことを書いたのが『終わらざる夏』。戦争を知らないからウソのないように調べて書く。疲れます。戦争文学は売れなくても書かなくてはならない。『戦争と文学』20巻の編纂をしたが、これらの作品が会話文が少なく地の文が圧倒的に多いのに驚いた。会話文が多いとストーリーがわからない。

〔 残すこと、伝えること、発掘すること等の重要性を思う。受ける方は読むことが重要であるが、今回は映像で短時間決戦である。浅田次郎さん原作の『日輪の遺産』、同じ佐々部清監督ということで横山秀夫さん原作の『出口のない海』を観る。『日輪の遺産』は思いがけない内容であった。こういう事があったとしたら若い人はどう行動するであろうか。純粋であればあるほど内なる純粋さに添い、死を選んでしまうのか。それにしても、大人たちはなぜもっと早く戦争を終わらせなかったのか。どれだけの若い命の青春が幕を下ろされてしまったことか。戦争映画として『死闘の伝説』『一枚のハガキ』も観る。歌舞伎役者さんたちが映像の中で予想を超えて伝えてくれた。浅田さんの、若い優秀な近代歴史の研究者が出てきているの言葉が希望を灯す。どう答えがでようと、きちんと検証されることが大事である。〕

 

『陰陽師 平成講釈 安倍晴明伝』(夢枕獏著)

夢枕にはまだ立たられてはいないが、夢枕獏さんとは、今、相性が良いみたいである。本屋さんで『陰陽師 平成講釈 安倍晴明伝』を見つけるというか、呼ばれたというか。

帯には <少年・尾花丸は、いかにして安倍晴明となりしかー 名付け親は蘆屋道満だった!?> <陰陽師外伝>とある。安倍晴明の生い立ちと成長記録が書かれているのであろうか。今のこちらの状態としては、熱中症の水分のようなものである。

安倍晴明の先祖から始まって、保名が出てきて、白狐もでてきて、その間に生まれた子は信太丸で、えっ!尾花丸ではないの。信太丸は白狐の母親の後を追いかけて行方知れず。その後に、保名と加茂保憲の娘・葛子姫との間に生まれたのが、尾花丸である。そんな、もし、このまま信太丸が行方不明のままなら作家として許せないと思っていたところ、許してしまう結果となるのである。

この本のネタ本も紹介され、夢枕獏さんは、平成の講釈師・夢枕獏秀斎となって語り、手の内も見せ、実生活の観劇のことや旅の途中であることなども出現し、怪しき手を使われる。そのため、読み終わってからこちらも、えーと、この歌舞伎は観ていたような、いないようなとチラシを捜すやら、DVDを観るやらてんてこ舞いさせられたのである。

夢枕獏さんは玉三郎さんの舞踊『楊貴妃』の作詞をされている。さらに『三国伝来玄象譚(さんごくでんらいげんじょうばなし)』の舞踏劇脚本も書かれているとのこと。ありました。1993年10月昼の部です。羅城門の鬼女・沙羅姫を玉三郎さん、安倍晴明を橋之助さん、源博雅を弥十郎さん、蝉丸を十八代目勘三郎さんが勘九郎の時である。しかし、内容が全然思い出せない。『人情噺文七元結』のお久で松たか子さんが出られていてその姿と『鷺娘』は記憶に残っているのであるが、理解できなかったと思われる。

というわけで、歌舞伎のこともチラチラとでてきて、短いが結構気になることを書かれているのである。コクーン歌舞伎のこと。『お夏狂乱』などの解釈も興味深く、玉三郎さんのDVDを観なおしたが、解かるはずもない。

時には、漫談風で笑わせられたり、歴史的面白を加味されたりして変幻自在である。そしてしっかり、尾花丸(安倍清明)と蘆屋道満の呪詛合戦も堪能させてもらった。

『陰陽師』は歌舞伎と映画でしか観ていないが、それらと比較すると『安倍晴明伝』は雰囲気が違っていて人形アニメのような映像が頭の中で映し出されていた。

そして、様々な地層が断面図となって現れるように、歴史的人物や、伝説的人物、妖怪などがそれぞれの地層としてずーっと横に流れて続き、また新たな地層が現れるといった感じである。

一気に読ませてもらった。益々、京都に違う面白さが加わり、それがまだ残っているというのが有難い。

歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2)  歌舞伎座『陰陽師』は2013年の「九月花形歌舞伎」だったのである。自分の書いたのを読みつつ、このメンバーで再演して欲しいと思うが、今となっては無理であろう。しかし、もう少しきちっと歌舞伎の型を作りあげれば、次の若手へ引き継ぐ演目の一つになると思う。

 

 

映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』(1)

映画『陰陽師』に至る。どうもまだ霞んでいて観るのを伸ばしていたが、伸ばしただけあってどうして平安京の貴族社会の時代の中で陰陽師が重用されたのか納得でき始めた。

映画『恋や恋なすな恋』の中で、京の天地に異変が続く。東では富士山が爆発したとの情報が流れ、京の空にも白い虹が出たり、金環日食のような現象が起きたりする。現代でも地底のことは予想できない部分が多いのであるから、平安時代はもっと不安がいっぱいの時代である。その時代の天文学の権威が加茂保憲で、その弟子に安倍保名と芦屋道満がいて、この二人のうちだれが師の後を継ぐかという話しが出来上がるわけである。

そういう時代を経て、安倍保名から子の安倍晴明の時代となる。そして安倍晴明を主人公とした物語ができる。その一つの形が夢枕獏さんの小説『陰陽師』で、それを原作として、歌舞伎になったり映画となり、現代とは異なった世界へ誘ってくれるわけである。そのブームからかなりずれての参加である。芦屋道満は晴明のライバルともされ、この辺は定かではない。架空の人物ともいわれ、悪しきライバルとしての位置にいる。

歌舞伎などでも、亡くなっている人を蘇らせて、それを操ったり乗り移ったりして悪事を働くという話しが出てくる。今回、大きく一つ解かったのは、京都には封じているものが沢山あるということである。亡くなったからそれでお終いですまないのである。その祟りを恐れて封じ込めているのである。関東は武士の作った地域であるから、神として崇めて終わりとしたり、どこか武士的発想であるが、京都の場合は、祟りをおそれて、封じ込めているが、いつそれがよみがえるか分からないという繋がりがある。それが、平安京の成り立ちから続いた貴族社会の名残とも言えるようである。

そこを、押さえると興味の無かった<よみがえり>も、平安時代の人々の畏怖の気持ちが伝わってくるのである。

それを考える材料となったのが、『京都魔界地図帖』(別冊宝島)である。今までなら目にも止らぬ内容である。本屋の歴史関係のところでスーと手が伸び気に入った。映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』が、俄然面白くなる。

平安京は桓武天皇が遷都される。その前は、長岡京に遷都されるが、遷都の中心的役割をした藤原種継が暗殺される。その首謀者として桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)とされ、早良親王は自ら命を絶つのである。そのことがあって、長岡京の遷都を止め、平安京遷都となったのである。

今までの権力争いや、早良親王のあとの異変も大きく影響していたのであろうが、平安京は南は朱雀、北は玄武、東は清龍、西は白虎に守られた都なのである。北東は魔が入りやすい方角の鬼門で、それを封じるために比叡山延暦寺が位置している。

比叡山を創建したのは最澄で、桓武天皇は奈良仏教の勢力が次第に強くなり、そのことも考慮し、唐から新しい仏教を学んできた最澄や空海を認めたのである。

映画『陰陽道』では、それだけ魔界から守られた京にも、早良親王の霊を蘇らせる者が現れ、安倍晴明の出番となるのである。怨霊や物の怪などがでてくればそれを封じる結界が作られるが、安倍晴明の場合は五芒星(ごぼうせい)が結界となる。これも天文学や占星術などが絡まり合って一つの知識とされたのであろうが、これ以上はお手上げで、安倍晴明といえば、五芒星が結界となり、守ってくれたり、悪霊を封じ込めてくれるものと思って、はらはらどきどきしながらやったーと思うことにする。

映画に到達しなかった。結界を張られているのかもしれない。

 

日本近代文学館 夏の文学教室

2015年の「日本近代文学館 夏の文学教室」が、7月20日から7月25日まで有楽町のよみうりホールで開かれる。今回のテーマは<「歴史」を描く、「歴史」を語る>である。

その1日目が、谷崎潤一郎没後50年として

「谷崎潤一郎の戯曲」(水原紫苑)、「谷崎潤一郎と探偵小説」(藤田宜永)、「おとぼけの狡智」(島田雅彦)である。

その中でも、「谷崎潤一郎と探偵小説」に惹かれる。『谷崎潤一郎犯罪小説集』の文庫を本屋で見つけ購入し未読であった。<探偵小説>と<犯罪小説>の区分けの基準が分らないが、どこかで繋がるような気がする。

『谷崎潤一郎犯罪小説集』に入っている作品は『柳湯(やなぎゆ)の事件』『途上』『私』『白昼鬼語(はくちゅうきご)』の4作品である。谷崎さんの場合、文字でありながら皮膚感覚にべったり張り付くよう巧妙な文章表現である。ただ会話部分での粘着力ではないのが助かる。会話的手法でベッタリ密着感を感じさせるものは嫌いである。

上方歌舞伎なども、結構この密着感があるが、あれはやはり、上方弁だから通用するのであろう。セリフの繰り返し、甘え、ぼやき、つぶやきなど、形がないだけに好き嫌いがはっきりするかもしれない。私の場合は好き嫌いよりも、捉えがたい軟体性にある。凄く面白いときと、よく分らないというときがあり、上方歌舞伎は難しいと思ってしまっている。

谷崎作品にもどすと、自分が触れているような感覚を呼び起こされ、それが不快でも、推理小説的読み方をしているので、やはり結末が知りたいと思って読み進むと、その不快感が解消されるような結果となり、いかに作家によって、あるいは語り手によって似非体験をさせられていたかがわかるのである。

『文豪の探偵小説』には、次の文豪たちの探偵小説が載っている。

『途上』(谷崎潤一郎)、『オカアサン』(佐藤春夫)、『外科室』(泉鏡花)、『復讐』(三島由紀夫)『報恩記』(芥川龍之介)、『死体紹介人』(川端康成)、『犯人』(太宰治)、『范の犯罪』(志賀直哉)、『高瀬舟』(森鴎外)

これを探偵小説の分類に入れてしまうのかと思う作品もあるが、これだけの文豪たちの短編を一気に楽しめるという点でも面白い編纂である。

谷崎さんの『途上』は<犯罪小説>と<探偵小説>の両方に属しているが、確かにどちらともいえる作品である。江戸川乱歩さんは谷崎さんの作品は読んでいたようで、この『途上』は特に高く評価していたようである。

湯川という人物が私立探偵に声をかけられる。私立探偵はあなたの調査を依頼されたが、直接本人に聞くのが一番と思いましてと質問をしていくのである。会話が中心であるが、この二人は金杉橋から新橋方面に向かい日本橋の手前の中央郵便局前から兜橋、鎧橋を渡り水天宮へと至り、この私立探偵が最初に見せた名刺の「私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋区蠣殻(かきがら)町三丁目四番地」の私立探偵事務所まで歩くのである。

二人の会話を目で追いつつ、こちらも歩いて移動している気分なってしまう。場所を明記されるとそこを歩きたくなるこちらの嗜好からであろうか、淡々と続く会話と共に一緒に歩いている。次第に湯川が歩きつつ周りの景色など眼中に無くなり、私立探偵の歩くのに合わせてついて行くかたちとなり、私立探偵事務所に引き込まれて行く動線を読者に実感させてしまうのである。

谷崎さんは、「日本橋区蠣殻町二丁目十四」の生まれである。現在は中央区人形町で、生家跡はビルとなり碑があるようだが、まだ行っていないのである。明治座に行った時に行こうと思いつつその時になると忘れてしまう。まさしく、<途上>状態である。

今年の文学教室は初日から魅力的な設定にしてくれた。あれも聴きたし、これも聴きたしである。

 

八王子城跡

小説『RDG レッドデータガール』に<八王子城>が出てきて初めて八王子市にお城があったのを知る。ただし山城である。天守閣のある城ではない。

『RDG レッドデータガール』では、( 熊野古道の話題増殖 ) 主人公の泉水子(いずみこ)が東京の高校に入学するが その高校が八王子にあるらしいことがわかる。そして、泉水子たちは肝試しに夜、<八王子城跡>に登るのである。ここで初めて<八王子城>とその歴史を知る。<八王子城>に行かなくてはと仲間うちで話しつつ、行こうとすると雪が降ったりして延び延びになってしまった。

仲間の一人が、高尾山で春限定の精進料理があり、それも行きたい のだがということなので、高尾山と八王子城の二つを組み合わせることにする。雨の時は中止なので予約しなくてよい精進料理とし、11時からなので10時半に高尾山薬王院での待ち合わせとする。元気な人は先に、高尾山入口から山頂まで登り、降りてきて藥王院で待ち合わせである。

<八王子城>が本命であるから、体力温存組はケーブルカーで上がり、薬王院に向かう。ご本尊の随身は大天狗と子天狗(烏天狗)である。今回で高尾山は三回目であるが、全てケーブルを使っていて次の機会には、下から登ることにしよう。一度はダイヤモンド富士を見るために一人で来たが、期待していたよりもダイヤモンド富士は地味であった。

精進料理は、これから行動するものにとっては胃に優しかったが、これからが本番という気持ちも薄めてくれて、さあこれからと気合を入れる。

JR高尾駅北口からバスが出ていて、平日は八王子城跡まではバスは出ていない。霊園前でバスを降り歩きとなる。途中に北条氏照と家臣の墓がある。氏照はここでは死んでいない。

八王子城は、三代目の北条氏康の三男氏照が築いた山城である。豊臣秀吉は小田原城を取り囲み、他の北条氏の城は配下の大名たちに攻めさせる。氏照は小田城で徹底抗戦の構えでこもっていた。八王子城は、前田利家と上杉景勝らの連合軍に猛攻撃で攻められ、城主なきまま一日で落とされて、多くの犠牲がはらわれる。この八王子城の落城が小田原城開城のかなめとも言われ、氏照は小田原城で切腹している。小田原にも墓があり、ここは、氏照の百回忌に建てられたものである。樹木の間にひっそり建っている墓は無念そうである。

脇道のお墓からもとの道にもどり進むと、ガイダンス施設があり、映像「八王子城物語」が見れる。ここでパンフレットなどを手にし、管理棟まで行きガイドボランティアをお願いする。お願いして正解であった。山城の知識などないので、見学しただけでは想像力が働かない。

普段住居としている御主殿部分と闘うための本丸とは離れていて、管理棟を軸に道が違うのである。まずは御主殿跡を案内してもらう。石垣ではなく<土塁>で周囲をかこんでいる。これが石垣よりもすべって登りづらいのである。それも関東ローム層の粘土質である。ただ雨などで崩れやすいので、間に石を挟む形にしている。関東が石垣の城が出来たのが遅く城作りが遅れていたと言われるがそんなことはない。自然の力を生かしたのであると強調される。上の方に古道があり、そこから橋が架かって御主殿へ入るかたちとなるが、今その橋は架かっていない。新しくするため古い橋は外されてしまっていた。

<御主殿の滝>。多くの人々が滝の上流で自刃して身を投じたため、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる滝である。「今、小説やアニメの影響で心霊スポットとして知られています。」「私たちも小説組です。」「見ての通り、飛び込むような滝ではありません。城は焼かれますから、ここに逃げ延びて自刃したとは考えられます。」確かに想像していたより小さな滝であった。

御主殿跡には礎石の後に石が並べられているが、一度掘り返してまた埋めたそうで本物ではない。その礎石には、柱の焼け跡が残っているそうで、仲間が、「ガラス張りか何かにして見えるようにするといいですよね。勿体ない。」という。「そうなんですよね。一つでも本物をね。」なるほど。跡が残るほど火の勢いが激しかったということか。御主殿は、役所や争い事の仲介のような仕事の場でもあった。客殿が北向きなのは、その前の庭が南向きで、植物や花などが南を向くから良い姿を眺められるということで、北向きなのだそうだ。なるほどそういうふうにも考えられる。「庭の奥の小屋は茶室ではなかったかと想像するんですがね。」ここから、ヴェネチア産のレースガラスや中国産の皿も見つかっている。

解説を聞くと、次第に御主殿が想像の世界に表れてくる。というわけで、時間がオーバーしてしまい、本丸まで4、50分はかかるため往復する時間が無くなってしまった。ここは自然に恵まれ、12月には鬼女蘭という白い鬼女の髪の毛のような花が咲くと言う。それを食するアサギマダラという海をも渡ってしまう蝶が飛ぶのだそうである。本丸は再度12月に訪れよとのことと判断し、帰路につくことにした。

連休前の暑い日で、これから本丸まで登る気力が失せてもいたのである。新緑のこの自然の中で凄まじい戦さがあったのである。年に数人道に迷うかたや、違う方向に下りてしまうかたがいるという。「精進料理食べてる場合ではなかったね。」と提案者がいうが。「いいわよ。魔女蘭に会いに来よう。」「違う。鬼女蘭!」

 

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(7)

地図を見て確認していたのであるが、奈良県庁と東大寺の間の道を真っ直ぐ北へ進むと佐保川にぶつかり、そこで二俣に別れ、直進が般若寺方面、右が柳生方面で、その柳生方面の道も途中で、柳生方面と浄瑠璃寺方面へと別れるのである。ただし、<旧柳生街道>は別に位置する。

私が、<般若寺>の帰りバスに乗ったのは、東之阪町バス停であろう。もしそのまま歩いてもどるなら、左に<転害門>をみて、右手の西方向に進むと<聖武天皇・光明皇后陵>があり、佐保路の一部である。御領を背に近鉄奈良駅方面の南に向かうと、<奈良女子大>がある。ここは、奈良奉行所の跡地で、本館と校門は明治時代の建築物である。そこから近鉄奈良駅へもどれば、行きとは違う道を戻れることとなる。

このことを、<般若寺>に行った友人に、こういう道もあったと教えると、「帰りはその道で帰ってきたよ。」とのこと。さすが調べていったようだ。完璧である。

友人は二月堂の<お水取り>を、上の回廊の方で見たそうで、今度は下から見たいとのこと。反対に私は機会があれば上で、見たいものである。あの下駄の音が聞きたい。

他の仲間が、「失踪したお兄さんを捜すため、妹が奈良を探し求め、奈良のほとんどが出てくる小説がある。」と言う。彼女の本の紹介には、なぜか乗りやすい。行ったところばかりなので、風景にのせた登場人物の動きなり、心理を追って行けばよい。ところが、一つ行っていない所があった。名前は出て来ないがある庭が出てくる。

そこは思いかけず雄大な風景が広がっていた。庭自体はそんなに広くないのだが、若草山や東大寺がすっぽり借景となって庭に深い奥行きを与えているのでだ。

この庭は、<旧大乗院庭園>と思われるのである。この小説に出てくる奈良で、ここだけは行っていない場所なのである。小説でも「五、答ふるの歌」の章で、かなり解明が深まるところである。小説に関係がなくても、訪れたい庭園である。次に訪れる時は、心して置こう。

小説名は『まひるの月を追いかけて』(恩田陸著)である。小説のほうは、兄を中心に二人の女性が、兄を通過しての心模様が映し出される。妹は旅を通して二人の女性のことを知り、そのことを通して幼い頃の記憶を紡ぎ出す。兄の中に存在する、遥か彼方にいるもう一人の女性との思いがけない巡り合わせとなる。奈良の風景が映像のように流れていく。

どちらも、近鉄奈良駅から歩いて行けるところなので、<奈良女子大>から<聖武天皇・光明皇后陵>までの道と<旧大乗院庭園>の空白部分を、埋められるであろう。