もぐらさんたち 【梁塵秘抄】 (りょうじんひしょう)

大河ドラマ「平清盛」 第40話。いい形で<梁塵秘抄>が出てきました。

「梁塵秘抄」とか「源氏物語」とか生活の中に溶け込んだ形でだすのが上手いですね。今回の脚本家さんは。

<舞え舞え蝸牛 舞わぬものならば ~>が出てきた時の異種を思わす後白河の雰囲気が面白いと思ったが、それが後の世にまで今様を残すと賽の目はでた。それを引き出す滋子がやわらかい。あのウェーヴした髪が、人と違っても動じない強さを感じさせ人物造形の手法の細やかさが出ている。

テーマ曲にも ラストに<遊びをせんとや生まれけん~>と今様が入る。出だしはピアノの一音一音から入っていくのが何処か違う世界に居て、そう母体の中にいて嵐の中に飛び出す前のやすらぎの世界のようである。

新聞のテレビ番組欄で「交響組曲 平清盛 大河ドラマ音楽の世界へ」を発見。9月20日に呉市で開催されたものの再放送でどっぷりとテーマ曲に浸った。作曲は吉松隆さん。平氏と源氏の曲調の違いなども説明してくださり、なるほどと改めてゆったりと聴けた。ピアノは<左手のピアニスト>舘野泉さんであった。映像ではあるが実際に演奏されているのを聴くのは初めてで嬉しい出会いとなった。大河ドラマのテーマ曲で口ずさめるのは「赤穂浪士」と「平清盛」であろうか。

もう一人の出会いは桃山春衣さん。梁塵秘抄などを歌い継がれている方で、郡上八幡で知ったのであるが記憶から薄れていて、検索して確認した。郡上八幡では<郡上踊り>に魅せられ、あの軽く下駄を鳴らす踊りに参ってしまった。今年の夏は東京青山での郡上踊りを見学した。岐阜から郡上にはいる山深さも魅力で、映画『郡上一揆』なども見た。ここにきて梁塵秘抄から桃山春衣さんが色濃く成ったのである。残念なことに他界されている。

もぐらさんたち 【西行花伝】

辻邦生さんの小説「西行花伝」をもとに、NHK・FMでラジオドラマを制作放送

「西行花伝・その一/花の巻」 平成九年(1997)1月2日(木) 21時~22時45分

「西行花伝・その二/雪の巻」 平成九年(1997)1月3日(金) 21時~22時45分

「西行花伝・その三/月の巻」 平成九年(1997)2月11日(木)23時10分~午前1時

合わせると5時間20分の放送である。幸いにもこのドラマはCD化され販売されていた。西行の名前というより声の出演者に引き付けられ購入したのである。

CD・Ⅰ/序の巻  青年義清の青春から出家の動機を探る発端篇。

CD・Ⅱ/破の巻  出家を許され西行と名のり歌と共に自分の道を捜しあぐねる若き僧西行の激動篇。

CD・Ⅲ/急の巻  西行高野山に籠り、<保元の乱>勃発。崇徳院の配流と崩御に悲哀    の乱世篇。

CD・Ⅳ/寂の巻  崇徳院の眠る讃岐白峰陵に詣で、その後心穏やかに歌と仏の道を歩き    73歳の春、望みどうり満開の桜の下で永眠する黄金の晩年篇。

<願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ>

<仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば>

声の出演  西行(佐藤義清)/竹本住大夫

藤原秋実(西行の弟子)/阪東八十助(現三津五郎)

西住(鎌倉二郎・西行の親友)/日下武史

堀川尼(待賢門院の女房の一人・歌人)/川口敦子

寂然(西行の師藤原為忠の四男・歌人)/鈴木瑞穂

寂念(西行の師藤原為忠の次男・歌人)/北村和夫

兵衛佐局(待賢門院の女房の一人・堀川尼の妹・歌人)/白坂道子

玄徹(宋伝来の医術の心得がある聖)/津嘉山正種

登場人物の表現技術に優れた方々の声の出演である。西行の半生を、西行の出合った人々の事を語りつつ、あるいは西行の生き様を語りつつはなしは綴られていく。西行を軸にした磁場は時には激しく、時には諦念を持って、時には穏やかに広がりを見せる。

「西行花伝」では、鳥羽院が崇徳帝を白河法皇の子であると思い込んでいるとしている。鳥羽院・崇徳帝・待賢門院の孤独と悲しみが大きな渦となって嵐となるのを西行は予感し、なんともし難い人間世界を越えるものとして歌の心を追い求めていく。生涯を終えるまで西行の道にも悟りの道が開けたのであろうか。生きている間、皆人はそれを望みつつ死を迎えるような気がするのだが。

凄く贅沢なラジオドラマである。ラジオを聴く時間を持てない者にとってCDに出会わなければこんな大きな作品があったことなど知らずにいたわけである。先ずは出会えた事に感謝!

 

 

もぐらさんたち 【西行】

西行は、武芸・和歌・蹴鞠に優れていて鳥羽院の北面の武士として仕える。しかし、23歳(1140年)で妻子がありながら出家する。この時代出家しても世俗との関係は継続していたようであるが、西行は浮世を離れ仏道・山伏修行に身をおいたようである。出家の原因は鳥羽院と崇徳院親子をめぐる皇位継承らの争い、鳥羽院の中宮待賢門院への悲恋とも言われている。

待賢門院は1142年に仏門に入り1145年に崩御している。その後待賢門院の生んだ第四皇子が後白河天皇となるが、兄崇徳上皇と勢力が分裂し<保元の乱>となり崇徳院は讃岐に配流となる。西行は崇徳上皇の讃岐での崩御に心を痛め讃岐の崇徳上皇の白峰陵に詣でている。

崇徳院は「金葉集」「詞花集」の編纂を勅宣している。<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>(川瀬の流れが早いので岩にせき止められた滝川の水は分かれてしまうがいつかは逢いたいと思う)は「詞花集」に収めらてていて百人一首の77番目の歌である。

百人一首の80番目に待賢門院に仕えた待賢門院堀川の歌が載っている。<長からむ心も知らず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ>(あなたが長く私を思ってくれるかどうかわからない。今朝の私は黒髪の乱れたように心がちゞに乱れてもの思いに耽っている。)

百人一首の86番目に西行法師の歌が。<なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな>(嘆けと言って月が私を物思いにさせるのであろうか。まるでそうであるかのように流れ落ちる私の涙よ。)

待賢門院堀川と西行法師の歌は「千載集」からである。「千載集」は後白河院が勅宣して編纂されたものである。

もぐらさんたち 【崇徳院】

落語に「崇徳院」という噺がある。歴史上の崇徳院は自分の皇子を帝位に就けることが出来ず、弟が後白河帝となる。崇徳院は政争に巻き込まれ保元の乱が勃発し、その争いで敗者となり出家して仁和寺に籠もるが、讃岐に流されてしまい讃岐で悲憤の中崩御される。

落語はその崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>を使っての噺である。熊五郎のお世話になっている家の若旦那が心の病になっているので原因を聞きだす役目となる。若旦那は恋の病で上野の清水観音の茶店でふくさを拾ってあげた娘の事が忘れられないでいた。手がかりは娘がお礼に短冊に書き残した崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>だけである。それを手がかりに熊五郎は娘さんを捜すのである。

古今亭志ん朝さんの「崇徳院」をCDで聴き直した。熊五郎と若旦那のやり取りが絶妙である。江戸っ子の職人の熊五郎は恋わずらいの若旦那の気持ちなど全然解からないから若旦那の話を混ぜっ返す。若旦那はため息吐息であるからその熊五郎に対し優男の頼りなさで答える。「元気ならぶつよ~」。この若旦那がなんともいい。歌舞伎の和事を声だけで表現している。客の笑い声が聴こえるので若旦那のときはそれなりの動きをしているのであろうが、声だけで十分伝わってき想像できる。流石である。

大河ドラマではこの歌は崇徳帝との佐藤義清(のりきよ)との間で交わされ政争の苦悩を表しているように使われている。一方それとは別に純粋の恋い歌としてみるむきもある。この佐藤義清が出家して西行となるのである。

 

平家物語

大河ドラマの「平清盛」の10話位までなら録画しているという方に録画のDVDを借りて見始めた。清盛を白河院の落胤とし、その事が色々に交差しあい情念が強くなっているようである。

映像は映像として、やはりこれは「平家物語」を読まなくてはいけないような気がしてきた。「平家物語」は叙事詩である。この物語は琵琶法師によって語り継がれてきたものである。語るための調子を持った文体である。読むとしたらもちろん現代語訳ではあるが、本当は原文を声にだして味わうのがよいのであろう。

様々な繋がりがモグラ叩きのモグラのように飛び出してきた。

落語・歌舞伎・今様・梁塵秘抄・郡上八幡・源氏物語・西行・地獄門・明石etc・・・・

「源氏物語」は殿上人の物語である。「平家物語」になると武士の地位まで下がり歌・舞・音曲を武士階級も貴族の真似をしつつ楽しむようになる。そのあたりを大河ドラマは上手く取り入れつつ果敢に闘っているように思われる。

大河ドラマ 38話「平家にあらずんばひとにあらず」は古典「平家物語」を使われているようだ。テレビの禿(かむろ)は創作かと思ったら「平家物語」の[禿髪(かぶろ)]の段に<十四から十五、六の童を三百人えらび、髪を禿に切らせ、赤い直垂を着せて召し使っていたが・・・・平家のことをあしざま口走る者があると・・・・禿がたちまち仲間に触れまわし・・・その者の家に乱入し、私財諸道具を没収したうえ、当人を捕らえて六波羅へ引き渡した>とある。

<入道相国清盛の妻の兄、平大納言時忠(ときただ)卿のごときは、「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」と高言を吐いた。>

これは物語では始まって早い時期にでてくる。大河ドラマは古典の「平家物語」を探りつつ新たな清盛像を描いているのかもしれない。

 

平清盛

NHKの大河ドラマの「平清盛」が色々取りざたされていたが、2回で見るのを止めてしまった。基本的にテレビの続き物のドラマを見続けるのが苦手で映画派である。

村上元三「平清盛」を読んだところ面白い。帝、上皇、法皇と院政が形作られて行くのが解かるし、武士の台頭していく様も面白い。殿上人の世界の魑魅魍魎さ。そして今とは違う寺社の力。寺院の強訴というのが、神輿を担ぎだして京に入り込み混乱を起こすという手法は仏に仕えるというよりも、子供が衆人の真ん中で寝転がってバタバタ手足を動かし大人達を困らせているようで苦笑ものである。清盛はその辺も利用し武士が居なくては貴族は成り立たないと認めさせていくのだが。

今は信仰よりも美術品的にあるいは観光的に鑑賞してきたお寺などの名前が出て来て、その、木造建築、歩いた道、周辺の風景が平安後期に移動して小説の中に現れ、ただ見てきただけの浅はかな旅も少しは役に立つようだと思ったりしつつまた小説の中に入って行ったりした。

<延暦寺の僧兵は日吉社の社人(しゃじん)とともに、日吉社の神輿(みこし)を担ぎ、総勢五百人ほどで洛中になだれ込んで来た。>

観光バスで延暦寺から琵琶湖側に降りて来た時、日吉大社を通り坂本の町を眺めここにはまたいつか来ようと思った。そして三井寺、坂本と尋ねる事ができた。そのことが荒法師の猛り声と共に浮かび上がり、現世に変遷してきた寺院もまた人間の欲得にまみれていたと思うと親しみも湧くものである。延暦寺と三井寺(園城寺)も派閥問題等で対立していたようで、かの弁慶も延暦寺の荒法師で三井寺の鐘を戦利品として叡山まで引き摺り上げたという伝説も残っている。

旅の小話・・・・・ 三井寺には近江の昔話「三井の晩鐘」のはなしもある。この話を題材にした日本画を残され夭折した三橋節子さんのことも偲ばれる。(「湖の伝説 三橋節子の愛と死」梅原猛著)

三井寺を訪ねた時は、33年に一度開扉される秘仏 如意輪観音坐像にも御会いでき思い出深き旅となった。そして坂本では穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣をいたるところで眺めることができた。

弁慶の主人義経は鞍馬であるが、常盤御前を母とする牛若の兄・今若・乙若は醍醐寺にて出家する。醍醐寺というと秀吉の<醍醐寺の花見>が浮かぶが、まだ武士が権力を握れ無い頃、醍醐寺で命を救われた若子が出家したという時間空間もあったのである。

そんなこんなを考えつつ小説を読み終わり遅ればせながら大河ドラマを見始めた。面白い捉え方をしている部分と誇張され過ぎてる部分と半々である。清盛の新しい国造りの発想は面白い。ただ濃すぎる演技には閉口する。ドラマは役者の演技も楽しむものだが、そこまでやらなくても貴方の役どころは解かりますよと言いたくなる部分も或る。

自分が大河ドラマを見続けるには、それにそくした小説を読んで自分の中で筋を組み立ててからでなければ楽しめないようである。