映画 『山中常盤(やまなかときわ)』

「山中常盤物語絵巻」を素材にした映画があった。

監督は羽田澄子さん。羽田監督は十三代目片岡仁左衛門さんの記録映画『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』 全六部を撮られたかたで、全六部を3日程かけて見たことがある。全部で11時間近くになる。見たのは1996年であるから、今見るともっと発見があるであろう。印象的だったのは目が不自由になられてから、形は全て身体が解かってられるので位置の確認をされていた姿である。出から何歩でこの位置に立ってそこから何歩でこの位置に来てと確認され、演じられると目が不自由とは思われない演技であった。

さらに羽田監督は武智鉄二演出の記録映画『東海道四谷怪談』も撮られている。伊右衛門が中村扇雀(現・坂田藤十郎)さんでお岩が白石加代子さんという異色の組み合わせである。これも見ることが出来た。こうであると捉えることが出来ずこれはこれとの感想である。当時様々な意見がだされたようであるが、文学者なども交えての議論百出という幸運な演劇環境で熱き時代であったと羨ましい限りである。

さて映画『山中常盤』であるが、見ていないのである。映画のチラシはとっていたのであるから、おそらく羽田監督の映画なので見たいと思ったのであろう。岩波ホールで2005年4月23日~29日までの一週間の特別上映である。羽田監督は、以前近世初期の風俗画の映画を作っていて(「風俗画ー近世初期ー」1967)絵をとることが非常に面白いことを知り、絵巻物を撮ってみたいと思い「この絵巻き・・」と思ったのが「山中常盤」だったのだそうである。文楽の鶴澤清次さんが作曲と三味線を、さらに浄瑠璃・豊竹呂勢大夫さん、三味線・鶴澤清二郎さん、胡弓・鶴澤清四郎さんも加わっている。

出遅れたというのか、岩佐又兵衛さんとはちょっとすれ違いのところがあるのである。

 

 

推理小説映画の中の橋

評論家川本三郎さんの文章に次のようなのがある。[ 東野圭吾原作、西谷弘監督の「容疑者Xの献身」では天才的数学者を演じた堤真一が萬年橋の袂のアパートに住んでいるという設定。朝、勤め先の高校に行くために彼は部屋を出て萬年橋を渡り、さらに清洲橋を渡って浜町方面へと出る。東京の美しい橋を二つ渡っていくのだから幸せだ。]

映画は見たのであるが、堤真一さんが萬年橋と清洲橋を渡っている記憶がない。隅田川らしき川縁を歩いていたのと勤めの途中のお弁当屋でお弁当を買い、お弁当屋の女性に好意をもっていたのは覚えている。その女性は彼の隣に住み、その女性に献身的に尽くすかたちとなるのである。原作を読んでいないのでこの二つの橋を渡るのが原作にもあるのか、映画だけの設定なのかは不確かである。

しかし、8月23日の<本所深川の灯り(3)>で<万年橋>を渡り見た<清洲橋>の美しさを、12月23日の<日本橋から品川宿(1)>では船から反対方向からの<清洲橋>もみているので、映像になっているのは嬉しい。やはり一度は渡らねば。

もう一つは、同じく東野圭吾さんの原作の「麒麟の翼」である。<日本橋>である。これは刺された男性が<日本橋>の麒麟の像の前で息絶え、そのことに重要なメッセージがあったという推理小説である。先ごろテレビでその映画を放映したので見たが小説を面白く読んでいながらかなり内容を忘れていた。映画は原作を損なわず良く出来ていた。日本橋三越劇場「お嬢さん乾杯」の舞台を観る前に、<日本橋>から男性が刺された現場、<江戸橋>の地下道へ行って見た。地下道といっても橋から降りてまた上にあがるという短いものである。橋の欄干も犯人が走りでて人とぶつかっているので、この橋でここで刺されたのだと妙に感心する。感心したのはそれだけでは無い。よくこの場所を見つけたということである。映画には出てこないが刺された男性は<日本橋>まで歩く。その道は右手は某証券会社の厳つい建物で左手もビルで人通りがすくないのである。夜ともなれば誰とも会わない事も可能である。

そして<日本橋>を渡る手前に交番がありその前を通る。その日は交番前に2人の警察官が何か話しをしていたが、映画では一人の警察官が交番を離れて警護していて刺された男性を酔っ払いかなと不審に思う。でこの交番で救いを求めなかったのはなぜなのか。それが刑事(阿部寛)の鋭い疑問の一つである。そして翼がありながら<飛べない麒麟>。社会問題や教育問題をも含ませつつの展開。 <日本橋>から<江戸橋>をぐるりとめぐり、ほとほと翼のある麒麟に目を向けた東野さんに感心した。

その前にこの二つの橋の下を船めぐっているので、東野圭吾さんは、それはされていないであろうとつまらぬことに胸を張るが、麒麟の像のあの胸の張り方には太刀打ち出来ない。

映画「容疑者Xの献身」のの二つの橋が気になり、福山雅治さんのファンである友人にDVDを再び借りる。橋が出てくる。ドラマを追うのに忙しくて沢山の<萬年橋>と<清洲橋>を見逃していた。でも、実際に見た<清洲橋>が一番美しかった。「犯人が日本橋の交番に自首してきたそうです」の台詞があり可笑しかった。東野さんあの場所お気に入りなのかも。<四色の隣り合う色が同じ色に成っては美しくない>。泣かせる言葉である。友人の報告によると、福山さんは東野さんの原作「真夏の方程式」の映画に出演し夏頃公開。そして秋には是枝監督の映画にも出演らしい。DVDで友人にまたお世話になるかもしれない。

季節外れの日本橋の七福神も廻りたいものである。

 

 

 

三越劇場 新派『お嬢さん乾杯』

新派は今年、125年を迎えるのだそうでその新春の演目が木下恵介監督の映画「お嬢さん乾杯」の舞台化である。木下監督は今年、生誕100年。映画「お嬢さん乾杯」は昭和24年(松竹)の作品で脚本が新藤兼人さん。新藤さんは昭和22年に映画「安城家の舞踏会」の脚本も書いていて、原節子さんがどちらも没落貴族の娘役であるが、「お嬢さん乾杯」はラブコメディである。「お嬢さん乾杯」で木下監督は原節子さんのあらゆる表情を映してくれた。その原さんに身分違いの朴訥で不器用な佐野周二さんが一目惚れをして楽しませてくれる喜劇である。

新派舞台は自動車修理工場で儲け人生はお金と思っている・圭三(市川月乃助)が、没落しかけている家のお嬢さん・泰子(瀬戸摩純)とお見合いをする。圭三は身分違いと思っているから断るつもりが一目惚れしてしまう。そこから圭三の喜びと悩みが始まる。この二人の生活環境は泰子は自分の家(池田邸)と家族。圭三は働く以外は入り浸るバー「スパロ」とそこに集う人々と弟。舞台はその二つの<池田家>と<スパロ>の場面を行き来することによって二人の置かれている環境の違いとそれぞれの場で大切にされ好かれている事がわかる。ところが繁栄していた池田家の人々は成金を受け入れる事には素直になれない部分がある。そのあたりの心理描写は新派の芸歴が物を言う。泰子の母(波乃久里子)を軸に元華族の人々を無理なく形づくり静かに主張し、圭三はその空気にドギマギする。しかし、お嬢さんの美しさと触れた事のないお嬢さんの持つ世界に驚きと喜びを感じる。そのゆれを月乃助さんは、ちょっと美男子すぎるが上手く表現した。

それに対する泰子は、圭三の世界に戸惑う。しかし馴染もうと努力する。素直な性格であるから次第に圭三の善良さが解かってくる。瀬戸摩純さんは頑な美人と思わせたお嬢さんの感情の変化を、自分を主張しつつじわじわと見せてゆく。そして飛び越すところが良い。手袋の上からのキス。さらに飛び越す術を「スパロ」のママ(水谷八重子)が教える。ママは圭三の暖かい仲間の中心でもある。

圭三は、人生はお金と思っているが女性を縛るためには使わない。その事が彼の戦争孤児を弟(井上恭太)として育て、弟の幸せを勝手に作っている自分に気づき結婚を許す。

圭三の<お嬢さん乾杯>は、お嬢さんの存在とその内面の世界なのである。

舞台美術も待たせる時間を短くし、<池田家>と<スパロ>を上手く移動させ、<場>ごとに二人の感情の起伏と変化を乗せていった。それぞれの<場>で、水谷八重子さんは明朗に圭三の聞き役として、波乃久里子さんは泰子の気持ちを確かめつつ複雑な感情の池田家のまとめ役として役どころを発揮した。新派のその時代の生活音や自然音を大事にする劇団の特色を今回は戦後間もない頃の歌謡曲の音響で時代を現す。<ピアノ>も重要な意味があり、実際に舞台にピアノが登場し、さらに泰子の瀬戸さんが実演したのは、この作品に大きな力と成った。映画では圭三がバレーの舞台を観て涙を流す良い場面があるが、それを出来ない舞台としての違う強さとなった。それが<スパロ>ではレコードとなる。繋がりもすっきりした。泰子がかつての婚約者の話をする時のギターの使い方も効果的である。舞台『お嬢さん乾杯』としてしっかり確立していた。

お嬢さんの家族/祖父(安井昌二)・祖母(青柳喜伊子)・姉(石原舞子)・姉の夫(児玉真二)  圭三の「スパロ」の仲間/川上彌生・鴫原桂・等  縁談を勧めた取引先の佐藤/田口守   [ 脚本・演出/成瀬芳一 ]

パンフレットに評論家の川本三郎さんが木下恵介映画について寄稿されていて、木下監督の実験的映画作りの一例として「カルメン純情す」では、カメラを斜めにし、「野菊の如き君なりき」では回想シーンを楕円型にトリミングしたとある。昨日、レンタル店で「野菊の如き君なりき」を手にしつつもどしたのが悔やまれる。川村さんの「銀幕の銀座」(中公新書)には『お嬢さん乾杯』も載っている。舞台では銀座とは限定していないが、新橋演舞場で花柳章太郎と初代水谷八重子の「鶴八鶴次郎」をやっている話題が出てくるので銀座なのかもしれない。

新派125年「初春新派公演」でもあり、艶やかに舞を取り入れた口上もある。

 

続・続 『日本橋』

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」の小説「日本橋」から、市川崑監督の映画『日本橋』の一場面を思い出した。

清葉(山本富士子)が、お孝(淡島千景)の病を知り見舞いのため稲葉家への路地を歩いていく。この家かしらと二階を見上げると二階の窓から舞扇が空に飛び上がるのを見る。二階では寝ているお孝が<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を着て何回となく舞扇を空に飛ばしては堕ちてくるのを受け取っている。それがふわっと窓から飛んで清葉の腕の中に落ちる。清葉はそれを抱きかかえる。お孝は二階の欄干から姿を現し清葉を見下ろすが清葉の事はわからず視線をそらす。

この舞扇を天井に向かって投げ上げ受け取るシーンは実際に淡島さんがされてたそうで、舞扇が上がると舞扇だけをカメラが捉えるのだから他の人が飛ばしてそこを撮れなくもないが一生懸命自分で投げては受け取っていたとインタビューで語られている。この時代の役者さんは皆努力の塊である。

花柳さんに描いて贈った小村雪岱三さんの《お千世》はこの<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を愛しげに抱きかかえている。この絵は今、日本橋西河岸地蔵寺教会にある。

お千世の役をもっらた花柳さんは稽古が終わった雪の日<重い高下駄を引ずって、西河岸の延命地蔵や一石橋や、歌吉心中のあった路次口を探し、すつかり鏡花作中の人物気取りで歩きまはつたものです。><再び、延命地蔵尊に詣つた私は「何とかして此のお千世の役の成功を希ひ、早く一人前の役者になれます様に・・・」願をかけたのです。>(大正4年本郷座初演)

昭和13年明治座での『日本橋』の再演。花柳さんは再びお千世役。<祈願の叶う嬉しさ>に花柳さんは約束していた雪岱さんの絵を奉納する事を思い立つ。雪岱さんは快く引き受けられ《お千世》の額は無事納められた。その後泉鏡花さんが此の額に 《初蝶のまひまひ拝す御堂かな》 の句を添えられ、花柳さんも 《桃割に結ひて貰ひし春日かな》 一句添えられた。

やはりたとえ様変わりしていてもふらふらその辺りを歩きたくなるものである。

 

<日本橋> →  2013年1月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

北林谷栄さんとミヤコ蝶々さん

水木洋子さんはエッセイの中でお二人の事を書かれている。

北林さんは映画「キクとイサム」の時 <その最初の打ち合わせに農村漁村の分厚い風俗写真集や、へキ地で老婆から譲りうけた着物や帯や、財布のアカじみた数々をかつぎこんで、どれにしようかと見世をひろげる北林谷栄の土根性は、映画を金かせぎと考える人たちには見られない一本気であり、またヅラ(かつらのこと)一つにしても、予算で意にそわないものは、自前を投じても他であつらえなおすという慎重さは、顔に描くシワひとつにしても背や腰に入れるフトンひとつにも彼女独自のチミツな工夫がある。>

水木さんは映画「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」の北林さんの競演するお婆さん役にミヤコ蝶々さんを希望した。 <映画で北林さんと競演の時、ひそかに8ミリで自分の歩きつきを研究し、北林さんはコンタクトレンズに凝るなど、火花の散る両者であったが、私の目算通り、蝶々さんは創り上げた相手に対し、さりげなく淡々と味を滲み出して天下の婆さん女優に遜色を見せなかった。>

ミヤコ蝶々さんは <それからお婆さん役が続々ときて、音を上げ、イメージがこわれると断るようになったと聞いている。>

「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」のラスト、自殺を考え薬を飲もうとする蝶々さんが見るテレビの中に北林さんが、マイクを突きつけられテレビ局の演出のもっていきたいほうにしゃあしゃあと養老院で上手く行っていると答えている。北林さんは自殺まで考えて飛び出して来た所なのだからバラ色の世界の場所ではない。蝶々さんもそれは解かっている。でもここだけしか自分の居場所が無いと悲観するよりも、同じ行動を取った友もいるということに生きる価値を回復させるのである。したたかな老人にならなければ。

役者としてもそれぞれの個性を貫くしたたかな心意気をもたれたお二人である。

こちらでも少し触れている →https://www.suocean.com/wordpress/2012/12/16/

映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』

村上元三著「平清盛」に<遠藤盛遠(えんどうもりとう)という侍が、渡辺渡(わたなべわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、夫を殺そうと企てたが、かえって袈裟の首を討ってしまい、自分は出家をするという事件が起こった。>とあり、それを聞いた清盛は<「武士が刀を抜くときは、よくよくのことがあったときでのうてはならぬ」>と言わせている。ここでは恋のために刀をぬくとは何と天下泰平か、と言う意味にもとれる。

この事件を題材にしたのが、菊池寛の戯曲「袈裟の良人」であり、それを原作に映画化したのが「地獄門」である。

映画の時代背景は平治の乱時期で、清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、遠藤武者盛遠は袈裟と会う。袈裟は上西門院の女房で、争乱の際、上西門院の身代わりとなりそれを警護したのが盛遠である。清盛は熊野から即立ち返り乱も平定し、戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願うが、袈裟が渡辺渡の妻である事が解かりその願いは退けられる。それでも諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り、自分の思いを叶えるためには渡の命さえも奪うと告げる。良人の身を案じた袈裟は良人を殺してくれと盛遠に頼み、良人と自分の寝所を取替え良人の身代わりとなって自分が盛遠に討たれるのである。それを知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出るのである。

菊池寛の戯曲は「袈裟の良人」とあるだけに袈裟の死んだ後の渡辺渡の独白に力を入れている。盛遠は自分を討たない渡に業を煮やし、自分の髷をふっつりと切り<おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見ているがよい。>と袈裟の菩提のため諸国修行に出ることを伝え立ち去る。

<お前はなぜ悲鳴を挙げながら、俺に救いを求めて呉れなかったのか。俺が、駆け付けて来てお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戦う。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だったろうか。>

<盛遠は、恋した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、発菩提心には、これほどよいよすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思うて成仏するだろう。が、残された俺は、何うするのじゃ。>

<盛遠は、迷いがさめて出家するのじゃ。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覚者と見離されて、墨のような心を以って出家するのじゃ。>

<お前の菩提を弔うてやりたい!が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔うのには、適わぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念仏を唱ふのに、かなって居よう!あゝさびしい。>

<俺の心には長い闇が来たのじゃ。袈裟よ!袈裟よ!なぜ、お前はこの渡を、頼んで呉れなかったのか!>

菊池寛さんの台詞は凄い。かなり削除して書いたが、これほど無常観を独白する心情をいれつつ盛遠の意識していない部分まで客観的に見つめている台詞を書くとは。

映画は平安末期の混乱と色彩と恋と救いを描き、戯曲は大衆をも取り込んで不安に満ちていた末法世界への入り口を描いている。

 

地獄門は戦に敗れた者のさらし首の場所であり、二度目に袈裟と盛遠の出会う場所であり、盛遠が袈裟を求めてさ迷う通り道でもある。

 

 

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館)

俳優の池部良さんが亡くなられて三回忌ということで、早稲田大学演劇博物館で「~不滅の俳優~池部良の世界展」が開催されている。チラシに中村歌右衛門さんの楽屋でのお二人の写真が載っていたのでこれはお珍しいと近寄って見させてもらった。

歌右衛門さんとの写真は池部さんが初めて歌舞伎座の楽屋を訪ねたときのもので、1951年2月、4月に歌右衛門さんは六代目を襲名するので襲名の2ヶ月程前であろうか。3枚あって2枚は歌右衛門さんが八橋(「籠釣瓶花街酔醒」かごつるべさとのえいざめ)の花魁姿である。歌右衛門さんはほんのりとした品を秘めた美しさで、池部さんは若かりし頃もダンディーである。もう一枚は楽屋部屋でお二人火鉢の前で。大切に保存されていたようで歌右衛門さんの署名もあり素敵な記念すべき写真である。この時のことは、池部さん「銀座百点」(2010年10月号 銀座八丁おもいで草紙)に書かれている。

三島由紀夫さんが池部さんを絶賛していたという文章も読むことができた。

『映画芸術』(1971年2月号)「対談 三島由紀夫・石堂淑朗 戦争映画とやくざ映画」

『日本残侠伝 死んで貰います』の池部さんに対し <他人のためにやっていることを、自分のこととしている・・・・何というか、自分の中に消えていく小さな火をそっと大切にしているようなあの淋しさと暗さが何ともいえない> と語っている。

やくざ映画に出るきっかけとなったのは、篠田正浩監督の『乾いた花』のやくざ役を俊藤浩滋プロデューサーが見て懇願して『昭和残侠伝』に出てもらったそうだ。『乾いた花』は加賀まりこさんの衣装が森英恵さんのデザインで、虚無的な若き女性の着こなしを見たいと思っていた作品である。その作品が池部さんの次のスッテプとなった作品とは、早く出会いたいものである。

その他、池部さんへのインタビューの録音テープも流されているが、落ち着いて聴けないのが残念である。ポスターも近頃映像ではみれないであろう珍しいものもある。池部さんは前面に出て個性的に演じるタイプではない。女優さんの相手役というイメージもある。無理となればさりげなく身を引く引き方が上手い。そういう人がスウッーと前に出たときの男気が絵になるのかもしれない。

演劇博物館なので、映画関係の展示はまれである。時代別演劇関係の展示や『八代目市川団十郎展』もあり、いつも幾つかはパスしている。金~日曜日の1時から4時までは解説して下さる方がおられとの事。一度利用してみたい。

 

 

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もぐらさんたち 【新・平家物語】

古典の「平家物語」を読み終わる。そこで、 映画『新・平家物語』とNHK大河ドラマ『新・平家物語』(総集編/上の巻・下の巻)を観る。吉川英治著「新・平家物語」を原作としている。

映画『新・平家物語』(大映・1955年)は三部作の一作目と知る。残念ながら一作目しか観ていない。

[ 二作目『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年)/三作目『新・平家物語 静と義経』(1956年)]

一作目の『新・平家物語』は、若かりし頃の平清盛(市川雷蔵)を描いていて、清盛の一生からすると物足りない感じがする。映画派であるが「平家物語」を読み終わってみると、映画では時間が足りない。大河ドラマも総集編ということで、合計3時間ほどではあるが若き日から<清盛の死><大原御幸>と後白河法皇が建礼門院徳子を尋ねるところまで描かれているので一応の到達感はある。
大河ドラマの『新・平家物語』は、新劇界・歌舞伎界・映画界・新派の役者さん達が入り組み、この方がこの役でと、役と役者さんの組み合わせも楽しませてもらった。 今年の清盛(松山ケンイチ)と後白河院(松田翔太)の対決も良いが、仲代達矢さんと滝沢修さんの対決は演技的にも深みがあり見所である。 次の台詞まで少し間がありその次にくる予想だにしない演じかたは、こうくるのかと感じいってしまう。それは、双六ではなく碁の打ち合いの音がする。

噂に聞いていた現七代目清元延寿太夫さんの源頼朝の少年時代(岡村清太郎)を観れたのは、これかと嬉しかった。上手だったとは聴いていたが想像以上であった。

総集編では出てこないが、佐藤義清(西行)が蜷川幸雄さんであったようで、これは観たかった。

遠藤盛遠(文覚)が近藤洋介さん。総集編では、清盛が白河院の子であることを清盛に告げたのが盛遠であると話の中だけにその名が出て来る。

平家物語」で盛遠が出家後(高雄神護寺の僧文覚上人)、頼朝の挙兵を促したと <巻の五・文覚の荒行>に書かれてあった。ただ「平家物語」には、なぜ盛遠が出家したかについては書かれていない。その後盛遠は清盛の長男重盛の子・維盛の若君・高清(六代)を助けようとしたり、頼朝が亡くなってから後鳥羽天皇に反旗をひるがえしたり映画『地獄門』のラストとの寂滅さとは違う、政治的活動をする。

<大原御幸>は「平家物語」をしっかり締めている。歌舞伎の『平家物語 建礼門院』を改めて映像で観ようと思う。

映画 『馬』

映画『』と記せばやはりこの映画の事に触れないわけにはいかない。

』 1941(昭和16)年 東宝映画

監督・脚本・山本嘉次郎/製作主任・黒澤明/出演・高峰秀子・藤原鎌足・竹久千恵子

物語は、生まれた仔馬を貰えるということで妊娠馬をあずかった農家の少女いね(高峰秀子)が、まずは親馬のはなの世話を母親に嫌味を言われるほど一生懸命になる。そして約束通り生まれた仔馬を貰い少女いねと仔馬の交流が始まる。仔馬のうちに借金のため売られた馬を自分が紡績工となり仔馬を買い戻す。無心で心を込めて育てた仔馬も2歳となり結果的には生活のために軍馬として高く売らなくてはならないラストの別れは判っていながらどうする事も出来ないいねの気持ちと同化する。

「私の渡世日記 上」(文春文庫)に高峰さん自身が、撮影の様子や山本監督・製作主任黒澤さんの事など冷静な目で書かれている。また撮影外での馬との交流も書かれているが随分荒っぽいことを少女スターにやらせていたと思う。

この映画は昭和14・15・16年と三年越しで撮影されている。東北の四季が盛り込まれており軍馬を育成する事は国策でもあったので出来た贅沢かもしれない。大スター三船敏郎さんを見出したのは山本嘉次郎監督でデビュー作が黒澤さんと山本監督のもとで助監督をしていた谷口千吉監督の『銀嶺の果て』、その後、黒澤明監督の『酔いどれ天使』『野良犬』と続くのである。『馬』のカメラマンは春・夏・秋・冬それぞれ4人が自分の得手とする季節を担当していたというのも他ではないであろう。黒澤さんがこの『馬』から学んだ事は、後の自作映画に影響を与えていると思う。時代劇の馬の扱いかたとか隊列を組ませて歩かせたり走らせたりセット・衣装など。

撮影ロケの馬は移動させる事が出来なかったので現場でそれぞれ違う馬が調達され、小道具さんがその度に同じ馬と見えるように部分的な毛の色を変えたりする作業に高峰さんは同情しているが、馬と信頼関係を演じている高峰さんの大変さも並ではない。役者というのは肉体労働者である。

』を見直した。馬に注目して見ていたが、人物も馬も自然描写も丁寧である。

いねの馬に対する献身さは、母に嫌味を言われても馬中心である。馬のはなが病気になった時、真冬に雪に埋もれながら山道を青草求めて歩く姿は、こうと決めたら曲げない彼女の性格をよく表している。その性格が母親に叱られる原因でもあるのだが、はなが出産する場面は、父親の活躍の場で家族が一体化していく様子がよく出ている。この場面はこれからも映画ファンを魅了するであろう。生まれた仔馬が自分の力で立ち上がるのを応援する家族の姿を馬側からも撮っていて家族の顔が輝いて笑い声で溢れる。

馬の方の映像はドキュメンタリーのようである。また借金のために仔馬を売って、親馬が馬小屋から逃走して走りまわるシーンも長いショットである。その姿からいねは紡績工となって仔馬を買い戻すのであるが、母親が一番反対する。体を壊しでもしたらどうするのかと。いねの友達も皆行っているのだが、まだまだ紡績工の労働条件の過酷だったことがうかがい知れる。

お盆にいねが帰ってきて仔馬をこぞうと呼んで捜すが解からない。こぞうはいねの後ろからずうっとついていく。美しいシーンである。こぞうはいねの想像を超えて成長し立派な体格になっていたのである。しかしそれは別れの時でもあった。

こぞうは馬市で競りにかけられる。550円と高値で軍馬として買われることとなる。これでいねの紡績会社への借金も払うことが出来、紡績工から開放される。だがいねにとってそれは喜びとはならなっかた。その矛盾のなかでじっとこぞうを見送るいねの涙顔。いねの激しいときは激しく、決心したときは抑えた姿がそのまま共感できる。

興味をひいたのは、いねの兄が編んだバスマットが、東京駒場民藝館の東北地方農業民芸展覧会で評判を得て100枚の注文がきて手付けとして30円送られてきたことである。この民藝館は1936年に柳宗悦が駒場の自宅隣に建てて「民芸運動」の拠点としていたわけで映画の中でその活動の一端を知れたわけである。「日本民藝館」は今でもあり、近くには「日本近代文学館」「旧前田侯爵邸」がある。

もう一ついねの一家が預かった馬の品種がノルマンで当時軍馬はノルマンと決まっていたそうである。ということは時代によって馬の品種も違うわけで、黒澤監督などの時代映画はその辺はどうだったのであろうか。この映画『馬』に関してはその時代のノルマンを存分に堪能できる。

さらに今では歴史的建造物としてしか見られない住居の中の馬小屋のある生活が余すことなく描かれていて、馬と共に生きた農耕文化の一時期の生活をいねを通して体感できるのも映画の力である。

追記: その後、映画の馬がノルマンにサラブレットを交配したアングロ・ノルマンと知る。軍馬生産振興のために政府からの指示で制作された映画だそうであるが、少女と馬の交流が心に残る映画となっている。アングロ・ノルマンの馬は今は「幻の馬」で馬を見るだけでも貴重な記録映画となっている。

追記2: アメリカ映画で馬と少女の映画と言えば1945年のエリザベス・テイラー主演の『緑園の天使』である。こちらの少女は夢に向かってひたすら行動する。

映画 『夢』

黒澤明監督・脚本の映画 『』(1990年)を見直した。

浅草にある 布文化と浮世絵の美術館「アミューズ ミュージアム」で <美しいぼろ布展>を開催している。青森の厳しい自然のなかでは綿花の栽培は無理で麻布が主で綿布は大事に大事にされ、布というものは繕われ、重ね合わされ、さらに刺し子をして身を守る物として代々伝えられていった。さらに使い古しの着物は細く切り裂かれ、それを織り上げ新しい布(裂織・さきおり)として再生させるのである。

その青森の本物の野良着を使ったのが、映画『』の最後の夢、水車の村のお葬式の葬列に出てくる村人たちの衣装である。その衣装集めを頼まれたのが<美しいぼろ布展>の中心的人物、田中忠三郎さんで一人こつこつと江戸~昭和にいたる衣服や民具をあつめ生まれ故郷の衣服に対しては母親の言葉「布を切るのは肉を切るのとおなじこと」を胸に集められていて、寺山修司さんの映画『田園に死す」でも協力されている。

民族学者、民族民具研究者でもある田中さんの集めた膨大なコレクションの786点は国の重要有形民族文化財に指定されているという。(「物には心がある」 田中忠三郎著より)

映画『』の水車の村で笠智衆さんや村人が被っている帽子(端折・はしおり)は映画『馬』(1941年)を撮影していたとき、山本嘉次郎監督と助監督だった黒澤監督が津軽のその風俗の美しさに目を見張りその記念として買い求めた帽子で、それから50年後に映像の中でいかされるのである。

すげ笠を帽子のように形つくり前の部分が顔が見えるように美しい折り返しとなっている。この映画『夢』のコーナーも「アミューズ ミュージアム」にはあって、裂織の前掛けの美しさとともに目を楽しませてくれる。

そんな事から『』を見直したのだが、黒澤さんの先を見通す眼力には驚いた。そして水車の村を最後にした『夢』は人間の自然の姿を現しており、<夢>ではなく自然の摂理にかなった人の生き方でそうありたいと思う姿である。

この水車の村は、安曇野の大王わさび農場で撮影されている。撮影の時は水車を幾つか新たに設置している。JR穂高駅から自転車で大王わさび農場へ向かう風景は自然に抱かれているようで素晴らしい。駅の反対側には「碌山美術館」もあり、黒澤監督とは違う自分だけの<こんな夢を見た~>と言える『』の映像を創ることができる。

「アミューズ ミュージアム」は浅草寺の二天門に隣接していて、美術館の屋上からはスカイツリーも見え、なんといっても浅草寺を上から真近に見られるのが嬉しい。浮世絵の大胆な構図で眺めている気分になる。

追記: 残念ながら「アミューズ ミュージアム」は建物が老朽化のため閉館してしまいました。