ぶらりぶらり『日本橋』

地下鉄駅を出ると凄い人だかり。何があるのか。箱根駅伝の通る時間だった。それにしても歩道に何層もの人垣である。日本橋の麒麟も心なしか大人しく見える。走者が通ったようだが人の頭が歓声とともに左から右に動いただけ。今度はチラッと見えた。速い。待ちもしないでその時間に居合わせるとは縁起の良い年と成るかも。応援しつつ地下鉄の通路を潜り三越側へ渡る。遠くなるが走者の全身が見える。無駄な脂肪の無い身体なので驚く程細い。誰彼関係なく拍手して応援してしまう。消耗していそうな走者には声をかけたくなる。沿道に人も少ないなと思ったら<一石橋>だった。

栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)を放してやる風情は何処にもない。日本橋の方を見るともう一本橋がある。そこまで戻ると<西河岸橋>とある。日本橋から一石橋までの八重洲側を西河岸、三越側を裏河岸と呼ばれていた。この辺りの日本橋川の両岸は蔵が並んでいたのであろう。

一石橋八重洲側のビルの間に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。中には入れないが外からガラス越しに左手に《お千世》の額がぼんやり見える。花柳さんの文によると<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った>とあるが、この<ガンガンと音を立てる鰐口>これはその通りで御堂の小ぶりに対して音の大きさに驚いた。このお寺の絵馬が雪岱さんの描かれた<お千世>の顔であった。

案内の文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

雪岱さんは此のことに対し鏡花先生と結びつけ次のように書いている。<実際日本橋檜物町数奇屋町西河岸あたりは先生に実にお馴染みの深い土地でありました。><先生御信心の西河岸の地蔵様には先年花柳章太郎氏の奉納されました「初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな」の句を御書きになりました額が掲げられてをりまして、>とあり、その額の絵を自分が描いたとは一言も書かれてないのである。前面に自分が出ると云う事がなく、それは舞台装置などの仕事に対する姿勢とつながっている。しかししっかり物事の内を知っている。龍泉寺町や入谷に対し<木遣りをやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。>木遣りを寂しく思わせる空気。雪岱さんは、「日本橋」が書かれた時代に日本橋檜物町に住んでいる。歌吉心中のあった家である。周りの人は気味悪がるが彼は、気にかけない。そういうことも起こりうる町と感じているのであろう。そのあたりが、受け入れて浄化する鏡花世界とぴったり合ったのかもしれない。

ただ現実の町にはその姿は全くない。ゴジラに踏み潰してもっらって、ドラえもんのポッケトからかつての町を取り出し再現してもらいたいがそうもいかないので、ただ雪を降らせたり、駒げたの音を作ったりしてぶらぶらするだけである。そこからも一本八重洲側の通りには竹久夢二が開いた<港屋>の碑がある。そこから一石橋にまたもどり、<一石橋迷子しらせ石碑>の前を通り常盤橋、新常盤橋と歩き神田駅から電車に乗った。日本橋川、神田川を船でめぐり、その後、川をなぞって歩くのもありかなと考える。仲間に提案して考えてもらおう。

「小村雪岱」( 星川清司著)の本もあるらしい。はっきりした舞台装置と映画の美術が知りたいものである。

 

<日本橋> →  2013年1月7日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)