続 『日本橋』

昭和62年新橋演舞場の舞台『日本橋』の録画を見直した。今回の『日本橋』は玉三郎さんの鏡花の世界の『日本橋』で、昭和62年の『日本橋』は新派の『日本橋』で新派が受け継いできた芸の継承である。後半に入ってどうも繋がりが悪く感じていたのは、見返してみて納得できた。

この録画は平成4年のNHK・BSの新春スペシャル番組で玉三郎さんの芸を長時間に及んで放送したもので時間的関係から舞台が割愛されているためであった。其の事を踏まえても今回の『日本橋』の面白さは、新派の形を残しつつも、新たな世界を見せてくれた事である。

あらためて見直して仁左衛門さんの葛木は新派の芸に花を添えていた。伝吾との対決の場では迫力があり、最後に熊(伝吾)に投げつける台詞は鏡花の自然文学への切捨てをも含ませてきこえた。若い松田悟志さんを葛木に起用し、そこは玉三郎さん上手く鏡花の世界に取り込んだ。松田さんは玉三郎さんに言われたそうである。<頼むからダメだしを私にださせないで。恋人役にダメ出しなんてしたくないから>と。玉三郎さんらしい言い方である。

平成4年の録画の中で、篠山紀信さんと一緒の時、玉三郎さんは<篠山さんは話題づくりが上手いから>といわれた。話の内容から同じ解釈はできないが、昨年、篠山さんは写真展をされた時、木枯らしの吹く頃電車のホームから大きな山口百恵さんの海の浅瀬に水着の肢体を伸ばした写真が目に飛び込んできた。篠山紀信さんの写真展の案内板であった。こちらの肌の感触の寒さとその写真は物凄い温度さがあり、篠山さんはどうしてあの写真を選んだのだろう。私には宣伝効果が浮かび、そんな必要ないのにとちょっとムッとして見にいかなかった。素人と芸術家の感じ方の違いであろうが。

横道にそれたが、『日本橋』のお千世役の新人の齋藤菜月さんは雰囲気が役にぴったりである。お千世の着物が大正時代を善く現していて、柔らかくストンと下がりそれでいて体の動きを可愛らしく見せ、あれは齋藤さんの体の動きだけではなく布地の力もあったと思う。小村雪岱さんに言わせると装置とか衣装が自己主張してはいけないのだがやはりその力は大きいと思う。一石橋で清葉が裾から見せる麻の葉模様の白に近い空色と朱色の長襦袢、それをお孝はお千世に仕立てて稲葉家の二階で渡すのであるが、その長襦袢の事を鏡花は小説のほうで次のように表現している。(今回お孝がお千世に渡すこの場はなかった)

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」

お千世は花柳章太郎さんの出世作となった役である。このお千世役を見て小村雪岱さんは『日本橋』のお千世の絵を花柳さんのために描くことを約束するのである。(「日本橋檜物町」の中の花柳章太郎の文<二つの形美>)

 

<日本橋> →   2013年1月4日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)

沢山の遣り残しを抱えての年越し、そして、新年になりそうである。大河ドラマ『平清盛』は終わったけれど、自分の中での『平家物語』は続いているし、その他の事もまだまだ続きそうである。

泉鏡花の『日本橋』も、舞台や本の中身だけではなく本の装幀が水面下で続いていてここにきて顔をだしたのである。ある時、素敵なポストカードにめぐり合った。真ん中に日本橋・鏡花小史と書かれ、川を挟み両脇の河岸には倉が並び川には荷を運ぶ船が数多く行きかい、そこに赤・黄・薄墨色の蝶が多数飛び交っているのである。モダンな絵でこれが鏡花の『日本橋』の本の装幀とは思えなかった。気に入って購入し忘れていた。秋に「大正・昭和のグラフィックデザイン ~ 小村雪岱展」の広告を目にし<「大正・昭和のグラフィックデザイン>に引かれ見にいって驚いた。ポストカードの絵はやはり鏡花の『日本橋』の本の装丁で、この小村雪岱さんは『日本橋』が始めての装幀であり、ここから鏡花の多くの本の装幀をしているのである。

 

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さらに、挿絵、舞台装置、映画のセットなども手がけていた。年末近くに図書館で「日本橋檜物町」(小村雪岱著)が見つかり小躍りしてしまった。大正・昭和初期を匂わす文章力はすばらしい。遺した文章は多くはなく、この本は雪岱の死後、有志の計らいで出来た貴重な一冊とある。よく本にしてくれたと思う。

鏡花のことも書かれており<東海道膝栗毛は御自分でもいろ扱ひとまで言って居られ、枕元に2・3冊、旅行中も数冊入れていた>とあり意外であった。

幼くて父を亡くし小村さんは大変苦労されているが人物も草木を見る目も澄んでいる。川越で生まれ4歳で上京、5歳で父を失いそれまで住んでいた下谷根岸から祖父母と共に川越の叔父の家へ引き取られる。浅草の花川戸から荷物と共に船で途中一泊して川越へ越す。その時反対に田舎から東京に渡る船にぼんやり水面をみつめる女性について<今にも降り出しさうな曇空の下の滔々と濁った大川の水の上で、思ひがけなくも見かけた其の姿を、限りなく美しくも亦淋しく思った事でした。>川越に落ち着いてから<其処は旧城下の廓内で、菜種や桐の花が咲く夢の様な土地でしたが、船の中の女は時々思ひ出されて、その運命が儚く想像されるのでした。>と書かれている。

すでに母も失くし15歳で上京し、日本橋檜物町の安並氏の家に入り、このかたの厚意によって画道の修行に励めたようである。

歌舞伎の舞台も多く手がけ、戸板康二さんは、『一本刀土俵入』の取手宿我孫子屋の場について<菊五郎(六代目)の駒形茂兵衛の入神の技とともに、この場面がわすれられなかったと見え、長谷川(伸)氏は自宅の玄関に、その模型舞台を、置いていた。>とある。

舞台装置と映画のセットとの相違点、衣装、小道具などについても短い文の中に、説明文ではなく一つのエッセイとして書かれ、文を味わいつつ仕事ぶりを堪能できるという幸運に巡りあえた。その幸運を記しているうちに新しい年も迎え良き年となりそうである。

本との縁ある出会い

パソコンで想わぬ映像や書き込みに出会うのも嬉しいが、本との出会いは格別である。

図書館で「冥途の飛脚」を捜していたら、その隣に「“古典を読む” 平家物語」(木下順二著・岩波)が並んでいる。『平家物語』に出てくる人物を<忠盛・俊寛・文覚・清盛・義経・知盛>物語の中から追いもとめ、それぞれの生き方を捉えている。文覚を『平家物語』から選び抜粋していたので、抜け落ちが無いかどうか確認でき助かった。

「“古典を読む” 平家物語」の、<巻尾に>に木下さんが『平家物語』と本当に付き合いだしたのは、 <1957年、故・石母田正君の「平家物語」(岩波新書)に接した時からだと言っていい>と書かれてある。石母田さんの本は、木下さんの本と出会う数日前に初めて入った古本屋さんで目にし購入していた。またまた奇縁である。

木下さんは、画家・瀬川康男さんと組まれ「絵巻平家物語」(全九巻)を作られた。瀬川さんが凝りに凝って刊行に八年かかったとある。一人一巻で岩波の本に<祇王・忠度>を加えている。この本は児童書であるが、年数をかけただけに絵・文章ともに味わい深く解かりやすい。

さらに木下さんは<山本安英の会>で “群読” という問題を考え始め、「『平家物語』による群読ー知盛」を発表、上演し、その延長に「子午線の祀り」があるという。

この「子午線の祀り」は、1999年に出演・野村萬斎・三田和代・鈴木瑞穂・市川右近・木場勝巳・観世栄夫・等で見ている。その物語の膨大さに感動したのであるが、細部は解からなかった。その頃『平家物語』は頭の中にはない。もう一度観たいものであるが、戯曲だけでも読む事とする。

 

映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』

村上元三著「平清盛」に<遠藤盛遠(えんどうもりとう)という侍が、渡辺渡(わたなべわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、夫を殺そうと企てたが、かえって袈裟の首を討ってしまい、自分は出家をするという事件が起こった。>とあり、それを聞いた清盛は<「武士が刀を抜くときは、よくよくのことがあったときでのうてはならぬ」>と言わせている。ここでは恋のために刀をぬくとは何と天下泰平か、と言う意味にもとれる。

この事件を題材にしたのが、菊池寛の戯曲「袈裟の良人」であり、それを原作に映画化したのが「地獄門」である。

映画の時代背景は平治の乱時期で、清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、遠藤武者盛遠は袈裟と会う。袈裟は上西門院の女房で、争乱の際、上西門院の身代わりとなりそれを警護したのが盛遠である。清盛は熊野から即立ち返り乱も平定し、戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願うが、袈裟が渡辺渡の妻である事が解かりその願いは退けられる。それでも諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り、自分の思いを叶えるためには渡の命さえも奪うと告げる。良人の身を案じた袈裟は良人を殺してくれと盛遠に頼み、良人と自分の寝所を取替え良人の身代わりとなって自分が盛遠に討たれるのである。それを知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出るのである。

菊池寛の戯曲は「袈裟の良人」とあるだけに袈裟の死んだ後の渡辺渡の独白に力を入れている。盛遠は自分を討たない渡に業を煮やし、自分の髷をふっつりと切り<おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見ているがよい。>と袈裟の菩提のため諸国修行に出ることを伝え立ち去る。

<お前はなぜ悲鳴を挙げながら、俺に救いを求めて呉れなかったのか。俺が、駆け付けて来てお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戦う。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だったろうか。>

<盛遠は、恋した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、発菩提心には、これほどよいよすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思うて成仏するだろう。が、残された俺は、何うするのじゃ。>

<盛遠は、迷いがさめて出家するのじゃ。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覚者と見離されて、墨のような心を以って出家するのじゃ。>

<お前の菩提を弔うてやりたい!が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔うのには、適わぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念仏を唱ふのに、かなって居よう!あゝさびしい。>

<俺の心には長い闇が来たのじゃ。袈裟よ!袈裟よ!なぜ、お前はこの渡を、頼んで呉れなかったのか!>

菊池寛さんの台詞は凄い。かなり削除して書いたが、これほど無常観を独白する心情をいれつつ盛遠の意識していない部分まで客観的に見つめている台詞を書くとは。

映画は平安末期の混乱と色彩と恋と救いを描き、戯曲は大衆をも取り込んで不安に満ちていた末法世界への入り口を描いている。

 

地獄門は戦に敗れた者のさらし首の場所であり、二度目に袈裟と盛遠の出会う場所であり、盛遠が袈裟を求めてさ迷う通り道でもある。

 

 

村山源氏

下北沢の本多劇場「バカのカベ」の観劇のあと古本屋で村山リウさんの「源氏物語」と遭遇。一度だけ村山源氏の講義を受けた事がある。主婦の友社であったような気がするのだが。
物語よりも衣装・色・髪かたち・着こなし・道具の事などを詳しく説明された。

「平家物語」を読んでいて、例えば維盛が頼朝追討の出陣の容姿は<赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着て、連銭葦毛の馬に黄覆輪(きぷくりん)の鞍(くら)をおいて乗っている。>とある。こういう出で立ちがぱっと絵になって目に浮かぶともっと楽しいと思う。

時間的余裕がなく村山源氏の講座は一回しか聴けなっかたが、こういう入り方も今となれば面白い。「源氏物語 ときがたり」は全二冊で読みやすそうである。前回の古本屋は映画関係の本であったが、今回は古典関係の本に目がいき、古典は人気がないのかかなり安価で買うほうはニコニコで加減しつつも相当の重量を我慢して持ち運んだ。

「日本列島恋歌の旅」~梁塵秘抄と後白河院~では後白河院の今様への愛着は半端ではなく、<三度も声帯を破ってしまったというのだから、相当のマニヤ、歌キチ。プロ級の打ちこみ方といえるだろう。>と杉本苑子さんは書かれている。<艶っぽい歌詞の氾濫かと思うと、さにあらず。圧倒的な量を占めるのは神や仏への信仰歌なのだ。> さらに<したたかな策士のように見られているけれど、運に恵まれて危急を切りぬけた場合も、なるほど多い。帝王などになるより皇族のまま、グループ・サウンズでも結成し、気楽な一生を送ったほうが、あるいはお仕合せであったかもしれない。>と結んでいる。

重いおもいをしても、書物からほとばしる面白さは、それを忘れさせてくれる。

村山リウさんで思い出すのは<友人たちとの外での食事などは割り勘にさせてもらってます。はじめの頃は、多少仕事もし収入もあるので皆さんの分を払った事もあったのですが、自分の名を鼻にかけていると言われ、お金を払ってまで言われたくない。割り勘にして、ケチと言われるほうがまだいいですよね。>と言われて皆さんを笑わせていたのをなぜか覚えている。かなりの年齢になられていたが自分の意見をはっきり言われ清々しいかたであった。

 

 

忠度(ただのり)・経正(つねまさ)の都落ち

清盛の弟、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は都を去るとき歌の師である藤原俊成を訪ねて、世の中の乱れから数年歌の道を粗略にしていたわけではないが疎遠となっていたこと詫びる。自分は都を離れるが勅撰集のご沙汰があった時は一首なりとも入れていただきたいとお願いする。世の中が鎮まってから俊成は『千載集』の中に一首入れる。ただし帝からとがめを受けた平家の人なので「読み人知らず」と名を伏せ「故郷花(こきょうのはな)」という題の歌を一首。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな

敦盛の兄であり、経盛の長男である経正(つねまさ)は仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所に八歳から十三歳の元服まで稚児姿でお仕えていた法親王(ほっしんのう)にいとまごいに訪れる。法親王は戦の出で立ちなので遠慮する経正を庭から大床(おおゆか)まで上げさせる。経正は琵琶の名手でもあったのでお預かりしていた赤地の錦の袋にいれた琵琶<青山(せいざん)>を名残をおしみつつ、都に帰って来る事があればまたお預かりしますと言ってお返しした。

法親王はたいそうかわいそうに思われ歌を詠まれて一首おあたえになった。

あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

経正の返歌。

くれ竹のかけひの水はかはれども なほすみあかぬみやの中(うち)かな

この琵琶は仁明(にんみょう)天皇の御代に唐から伝えられた名器で、仁和寺の御室に伝えられたもので、経正は法親王の最愛の稚児であったので、十七歳のときこの名器を賜ったとある。

心に残るいとまごいである。

 

平家の笛

大原富枝の平家物語」を読み始めた。読みやすく、見逃していた細かいところに興味がいく。

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が大切にされていた笛のことなど。宮は<小枝(こえだ)>と<蝉折(せみおれ)>二本の笛を所持されていた。二本とも中国産の竹からできている。<小枝>は宮が御所から逃れる時忘れたのを信連が届け最後まで所持されていた。

<蝉折>は鳥羽院の時宋の皇帝から贈られたもので、蝉のような節のついた竹で作られた由緒あるもので、宮が笛の名手でいられたのでご相伝になった。宮はいまは最後と思われたので三井寺の金堂の弥勒菩薩に奉納されたとある。

よく知られているのは敦盛の<青葉>の笛であるが、「平家物語」では敦盛が熊谷次郎直実に討たれたとき身に着けていたのは<小枝(さえだ)>となっている。敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛を父経盛からやはり笛の名手であった敦盛に譲られたとある。<小枝>が(こえだ)と(さえだ)の二通りの呼び方で二本の笛があるのが面白い。

須磨寺には、敦盛卿木像(熊谷蓮生坊作)と青葉の笛が展示されていて、青葉の笛の説明がつぎのようにあった。 [ 弘法大師御入唐中 長安青龍寺に於いて天竺の竹を以ってこの笛を作り給ひ 笛を加持遊ばされしところ不思議に三本の枝葉を生す。大師帰朝の後 天皇に献上。天皇青葉の笛と命名。後 平家につたわり敦盛卿の笛の名手にて愛玩。肌身放さずもつ。] 右に青葉の笛、左に細い高麗笛があった。この笛も敦盛所持の笛なのか。

平家の公達は歌・舞・音曲・御所での儀式のしきたりを心得、さらに武芸にも優れていなければならなっかたわけで、これらすべてを兼ね備えられるとしたらスーパースターである。頼朝が鎌倉に幕府を開いた意味もそこにあるのか。

 

須磨寺にある平敦盛と熊谷直実の像

 

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敦盛を呼び止める熊谷

 

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振りむく敦盛

 

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芭蕉の句碑 (須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇)

 

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歌舞伎・書物混合の建礼門院周辺

歌舞伎の『建礼門院』での建礼門院徳子と右京大夫の語らいをもう一度おさらいした。右京大夫は自分が資盛の後をどうして追わなかったのか、母の病を理由にして逃れようとしたのではないか、と自分をさげすむ。それに対し建礼門院は資盛の最後の様子を語る。<資盛は美しく死んでくれました。最後と決まると都の空を眺め、右京と呼んでいるのを私に聞かれ頬を赤らめておりました。><もう一度会いたかったのであろう。>

小説を読んでいる前と後では、台詞の厚みが全然違う。

歌舞伎ではこの場に後白河法皇が御幸されるのであるが、『平家物語』の「大原御幸」には右京は登場しないし、小説「建礼門院右京大夫」では右京は大原を訪ねるが、後白河法皇が大原御幸したという記述はない。北條秀司さんの脚本は、建礼門院と右京、建礼門院と後白河法皇との対話で一層平家一門の悲哀と人間のどうすることも出来ない無常を劇的に強め救済へと導いている。

ここでもう一人<大原>で共通する登場人物がいる。大納言左局(だいなごんすけのつぼね)である。清盛の五男・重衡(しげひら)の正室で安徳帝の乳母であり、壇ノ浦で入水するが彼女も源氏の手で助けられてしまう。夫の重衡は<以仁王(もちひとおう)の乱>の時大将として鎮圧にあたり、その乱に加担した園城寺を攻め炎上させ、さらに園城寺に加担する奈良の東大寺・興福寺を攻め、奈良も炎上させ東大寺の大仏殿の二階に非難していた千余名の人を犠牲にする。

その重衡が一の谷の合戦で生け捕りにされる。彼はそこから京都、鎌倉へと送られ奈良の衆徒の要求で奈良に送られ斬首される。彼は鎌倉へ下る前、彼の希望で法然から戒律を授けられている(『平家物語』)が、実際には法然は重衡とあえるところにはいなっかたようである。(永井路子著「平家物語」)「建礼門院右京大夫」では、隆信が法然に帰依しての出家としており、どちらにせよこの時代に法然がでてきたのかと時代背景が記憶された。

『平家物語』では左局は壇ノ浦で助けられてから姉の所に同居し奈良に送られる重衡に会っている。そして打たれた首と体とを一つにして丁寧に葬っている。それを終え、建礼門院のそばで平家一門の菩提を弔うのである。そして阿波内侍と二人で建礼門院を見取られ仏事は忘れずにいとなみ、最後には二人とも、往生の素懐をとげたということである。

(歌舞伎・平成7年での大納言左局は中村歌女之丞さんが演じられていた。)

 

小説 「建礼門院右京大夫」 

建礼門院右京大夫>(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という方は、建礼門院に仕えていた女房・右京大夫の事である。建礼門院は、清盛の娘で高倉天皇の中宮・徳子、安徳天皇の母である。院号は実際に出家しなくても与えられるもののようで徳子も出家する前に院号をもらっている。建礼門院と呼ばれるようになるのは出家してからと思うが、この頃の一人の呼び名が色々かわり、主語が変わるので惑わされてしまう。だれだれの娘であったり、結婚しても夫の官職の名前に北の方とついたり、その前誰かに仕えていればご主人の名前や御殿の名前がついたり、あるいは住んでいる場所の名前がついたりと慣れるのが大変である。

<右京大夫>の名も、女房名で後ろ盾となってくれた藤原俊成のその時の官職名から付けられたものである。官職の上下もよく解からないのでこの時代の事が理解できたかどうか疑問であるが、なんとか建礼門院右京大夫の心の流れと、著者・大原富枝さんのこの小説を書かしめた心の芯となっているものは見えたように思う。

この話は、右京大夫と二人の男性との恋の話ともとれるが、そこを取り巻く世界は平家の繁栄と衰退の時間の流れと重なり、権力争い、武士と貴族、当時の男と女の関係、歌の力、自然に対する感じ方等々、豊かに織り成しているので簡単にこうでしたとは言えないのであるが、ここはここで一度整理するためにやらずばなるまい。

右京大夫は高倉天皇の中宮徳子の御所へ宮仕えしそこで、清盛の長男・重盛の次男である平資盛の思われ人となり結ばれる。右京大夫の父は名筆家の出で「源氏物語」の研究もされ、母は琴の妙手であり、彼女は文にも書にも音楽にも歌にも造詣が深った。彼女は見るもの聴くものことごとく深く感じ入り、さらに臆することなく自分の気持ちを表現できる力を持っていた。そんな彼女を思う人がもう一人いた。藤原隆信、似絵を見出した方で、神護寺の源頼朝像・平重盛像などは彼の作ではともいわれている。彼は貴族で歌も優れていて右京よりかなりの年上。世の中を斜交いに眺めている所もあり、右京は年下の未熟ではあるがどこかに武士としての定めをいつしか身に付けていた資盛に魅かれて行く。

<あなたは武士の家の子としての私を考えられたことがおありか?ないだろう?武士は宮廷の守護のためにある家柄のもの、命を受ければどちらへなりと忽ち兵を動かさなければならぬ。兵を動かしては勝つか負けるか、二つに一つ。生か死か、名誉か汚辱か、それだけだ。><祖父君は別格にお強い方だ。ときに敢えて法皇の君にさえ否とお応えなされる力がおありだ・・・> これは右京に語った資盛の言葉である。

右京は母の病気のため御所から退がる。安徳帝のお生まれの時も、その後平家一門が戦に破れ西国に落ちていく時も、外からでしか情報を得られない。そんな中、資盛は覚悟を決め、もうたよりはしない、決してあなたをおろそかに思っているわけではない。と伝える。ところが押さえがたくおのれの禁を破り文と歌が届く。このやりとりの箇所で、これはあの昭和の戦争の若者たちと同じではないかと感じた。こうやって文を交わせる者もいれば、その機会も閉ざされて死に立ち向かわなければならなかった者もあった。そんな事なども思って読み終わり作者のあとがきを読む。

<資盛の運命は第二次世界大戦に死を覚悟して出陣した学徒兵たちの心情に重なり合い、彼女の歌集は彼等に愛読されたと申します。><私自身、ある人の戦死を今も胸に刻んで生きており、これがこの作品を書くモチーフともなっています。>

清盛の直系として重盛は平家一門の統帥となるが、大納言成親が鹿ケ谷の陰謀で清盛を裏切る。重盛は成親の妹を娶り、重盛の長男維盛は成親の娘を妻としている。父重盛が亡くなる。東国の頼朝との戦で大敗する維盛。祖父清盛が亡くなり、平家一門は清盛の後添えの時子の息子宗盛たちに中心は移って行く。一族から孤立していく維盛、資盛たち兄弟。維盛が戦局から離脱し入水。右京は西山にこもりつつ資盛を思いやる。生け捕りにだけはならないことを願いつつ。ついに安徳帝も二位の尼(時子)に抱かれ入水。女院(徳子)も入水するが助けられてしまう。そして資盛も兄弟たちと共に入水したと知らされる。彼女の長い長い悲嘆の時間が続く。

大原に建礼門院を訪ねる右京大夫。訪ねるといっても正式には届け出をしなくてはならないらしく、隠れての訪れであった。平家に対してはたとえ出家し山の奥で篭っていてもうるさかったのであろう。それだけ不自由な侘しいくらしであったということか。

その後右京は後鳥羽帝の内裏に宮仕えする。これは想像であるが、右京は不自由な建礼門院のために品物を送り助けていたのではなかろうか。20年仕えるが後鳥羽院も隠岐に流されるという事となり、それを機に御所を退がる。この時代は平家滅亡という後でも何も変わらぬ御所の様子を、かつての心躍らせた時と対比し冷静にみつめている。

そして70代半ばにして、藤原定家から新しく勅選集を編むので歌を見せて欲しいと文がくる。そして名前は何としますかと尋ねられ<「建礼門院右京大夫」の方>と答えるのである。

<あの世とやらがあるものならば、そして死者に魂があるものならば、必ずや資盛の君がそこで、「建礼門院右京大夫」という名でわたくしの歌を残ることを眺め、どんなに喜んで下さることであろうか・・・・・。>

流れとしてはこんな感じであるが、定家の父・俊成と右京の母とは愛し合って子までもうけている。それを年下の右京の父が思い入れ右京の母と結ばれるのである。そして生まれたのが右京。その俊成の後添えに入った方の連れ子が隆信である。隆信は右京の母を理想の女性と見ているところもあり、なかなか趣がある愛の形も描かれていて一筋縄ではいかない。

右京が身近に言葉を交わし、歌を差し上げたり、合奏を楽しんだり、舞を見たりし楽しませてくれた平家一門の美しき公達の変わりようは貴族ではなく武士であったという事である。一人一人のしぐさ、口ぶり、冷やかしなど浮かんでくる細かなことから平安から鎌倉への大きな世の中の流れまで喜怒哀楽すべてを歌で表現したのが建礼門院右京大夫なのである。

としたり顔で締めくくろうとしているが、<歌>難しい。小説の流れの中でなんとか汲み取った気にしているが指と指の隙間から逃げていくような感覚である。こちらが先に逃げる事とする。

もぐらさんたち 【新・平家物語】

古典の「平家物語」を読み終わる。そこで、 映画『新・平家物語』とNHK大河ドラマ『新・平家物語』(総集編/上の巻・下の巻)を観る。吉川英治著「新・平家物語」を原作としている。

映画『新・平家物語』(大映・1955年)は三部作の一作目と知る。残念ながら一作目しか観ていない。

[ 二作目『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年)/三作目『新・平家物語 静と義経』(1956年)]

一作目の『新・平家物語』は、若かりし頃の平清盛(市川雷蔵)を描いていて、清盛の一生からすると物足りない感じがする。映画派であるが「平家物語」を読み終わってみると、映画では時間が足りない。大河ドラマも総集編ということで、合計3時間ほどではあるが若き日から<清盛の死><大原御幸>と後白河法皇が建礼門院徳子を尋ねるところまで描かれているので一応の到達感はある。
大河ドラマの『新・平家物語』は、新劇界・歌舞伎界・映画界・新派の役者さん達が入り組み、この方がこの役でと、役と役者さんの組み合わせも楽しませてもらった。 今年の清盛(松山ケンイチ)と後白河院(松田翔太)の対決も良いが、仲代達矢さんと滝沢修さんの対決は演技的にも深みがあり見所である。 次の台詞まで少し間がありその次にくる予想だにしない演じかたは、こうくるのかと感じいってしまう。それは、双六ではなく碁の打ち合いの音がする。

噂に聞いていた現七代目清元延寿太夫さんの源頼朝の少年時代(岡村清太郎)を観れたのは、これかと嬉しかった。上手だったとは聴いていたが想像以上であった。

総集編では出てこないが、佐藤義清(西行)が蜷川幸雄さんであったようで、これは観たかった。

遠藤盛遠(文覚)が近藤洋介さん。総集編では、清盛が白河院の子であることを清盛に告げたのが盛遠であると話の中だけにその名が出て来る。

平家物語」で盛遠が出家後(高雄神護寺の僧文覚上人)、頼朝の挙兵を促したと <巻の五・文覚の荒行>に書かれてあった。ただ「平家物語」には、なぜ盛遠が出家したかについては書かれていない。その後盛遠は清盛の長男重盛の子・維盛の若君・高清(六代)を助けようとしたり、頼朝が亡くなってから後鳥羽天皇に反旗をひるがえしたり映画『地獄門』のラストとの寂滅さとは違う、政治的活動をする。

<大原御幸>は「平家物語」をしっかり締めている。歌舞伎の『平家物語 建礼門院』を改めて映像で観ようと思う。