『秀山祭』の「寺子屋」

「菅原伝授手習鏡ー寺子屋」は、忠義の為に関係のない子を殺し、忠義の為に自分の子を殺させると言う話である。現代の解釈では理解出来ない事である。故に、芸が必要となるのである。訓練された肉体の全てを使い、理解できない世界へ導き入れ観た人の何処かの琴線に触れて納得させたり感動させたりしなくてはいけないのである。

<いけないのである>と言う言い方も可笑しいが、木戸銭を頂いてやっている訳ですからやはりそうなると思います。人気があって顔さえ見ていれば良いのであればそれでも良いが、恐らく演じている役者さんの方が嫌になるであろう。

松王丸(中村吉右衛門)・千代(中村福助)・武部源蔵(中村梅玉)・戸浪(中村芝雀)・春藤玄蕃(中村又五郎)・園生の前(片岡孝太郎)

千代が小太郎を連れて源蔵の寺子屋へ入門させる。千代は用事があるからと戸口を出る時小太郎が母の袖を引く。この時すでに松王丸・千代・小太郎の三人は約束事をしている。ここで<三角形>の図式が見えた。事或るごとにこの<三角形>の関係が違う<三角形>を作っていくのである。先ずこの三人の約束事とは、主君の子・菅秀才の身代わりとなって小太郎が命を捧げると云う事である。だから小太郎は母の袖を引いたのであるが、<まだ幼くて>と千代は戸浪に言い訳する。戸浪に悟られないように親子の別れである。福助さんは凛として溢れる悲しさをそっと現す。

源蔵はかくまっている菅秀才の首を差し出すよう言明され花道から思案しつつ帰ってくる。誰かを身代わりにと考えているが皆田舎育ちの子で身代わりと解かってしまう。そこへ今日きた小太郎を見てこの子だと決心する。ここでは源蔵・戸浪・菅秀才の三角が源蔵・戸浪。小太郎の三角になる。

玄蕃が首を受け取りに来る。そこへ菅秀才の顔を知っている病み上がりの松王丸が登場しする。ここから松王丸の腹芸が始まる。今まで菅秀才の父、菅丞相に敵対していたが味方となることを決め親子三人の約束事もそこに一点があるのである。しかし玄蕃にも源蔵にも解からせず小太郎の首を菅秀才の首として受け取らなくてはならない。ここで源蔵夫婦・松王丸・玄蕃の三角形となる。この三角を崩さないようにして目的を遂げるための松王丸の芸が必要なのである。吉右衛門さんの松王丸は松王丸の言動一つ一つが首実験まで上手く運ばせる為のものであると云う事が納得できた。偽首の可能性もあるから用心するように玄蕃に強く指示して反対に玄蕃をけし立てつつ味方である事を印象付け、反対に源蔵夫婦には緊張感を増幅させ失敗の無いように引き締めさせているのが解かる。

そうしつつ、我が子の命落とす瞬間を知り、首実検では我が子の首と知りつつ菅秀才の首であると明言する。このあたりは、役者さんと観客の交信である。お互いが上手く交信出来たか出来ないかで物語は膨らんだり萎んだりするのであり、面白いか詰まらないかになるのである。

源蔵夫婦の梅玉さん・芝雀さんそして玄蕃の又五郎さんはしっかり、松王丸のドラマツルギィーの中に入ってくれ構築してくれた。これが芸である。

守備よく玄蕃が首を持ち帰り、菅秀才の首は小太郎であった事が解かってくると観客は今度は役者と一緒に涙するのである。舞台上は園生の前・菅秀才親子と源蔵・戸浪夫婦と松王丸・千代夫婦の三角形である。しかしそれぞれの台詞から松王丸・千代・観客の三角、松王丸・小太郎・観客、千代・小太郎・観客ら様々の三角形が交信し合って様々な感情が沸き立ちどこかでそれが一つになり拍手となるのである。

今回はこんな事が頭の中で整理されていった。やはりそれは、力のある役者さんのなせる技と思う。

もう一つ重要な三角形がある。松王丸が小太郎の死を褒めてやったあと「それにつけても不憫なんのは桜丸」と、松王丸が三つ子の兄弟である桜丸を思いやる言葉を吐く。寺子屋だけを見た人は解かりづらいであろう。

そもそも三兄弟の悲劇は使える主人が別々であった事である。梅王は道真、松王は道真に敵対する時平、桜丸は天皇の弟に使えている。その桜丸の行動が原因で道真は九州に左遷させられる事になるのである。その事に責任を感じ桜丸は自害する。その事を松王は嘆くのである。小太郎のような頑是無い子が成し遂げた事に比べて、桜丸の死が犬死だったのではないかと。

この松王の台詞で、観客は改めて、梅王丸、松王丸、桜丸、三兄弟の繋がりを思い出すのである。

(新橋演舞場 「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部)