八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (2)

八月納涼歌舞伎の、雑感を加える。

『野崎村』のを観るのは久し振りのような気がする。六月の『助六』。海老蔵さんの助六、実は曽我五郎のヤンチャぶりが面白く、それを支える福助さんの揚巻がしっかり者で、そのコントラストが舞台を生き生きとさせていた。それがあったので、今回のお光はどうなるであろうかと楽しみであった。この作品、前半のお光が久松との祝言の浮き浮きした様子、久松の奉公先のお嬢さん・お染が出現して焼きもちをやく様子と可笑しみの場面に捉われて、お光が久松とお染を結ばせるため尼になるところが弱くなる事がある。福助さんはその辺りも心して演じられ、可笑しみが悲恋へと変化する流れを上手く演じられた。駕籠と舟で別々に帰る久松とお染の旅路もいずれは一つと成る喜びを含ませているのに、お光にとっては、そこにとり残されながら一人旅となる悲しさを押さえつつしっかり表現していた。友人は、何年振りかの歌舞伎なのでお染・七之助さんが、一つ一つの仕種と表情が丁寧で成長したのに感動していた。

『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』(髪結新三)は、名場面は沢山あるが、今回は、新三・三津五郎さんと弥太五郎源七・橋之助さんとのやり取りに緊迫感があった。新三は小悪党で弥太五郎源七は乗物町の親分である。新三は親分が事を大きくしたくないために我慢しているのを良い事に言いたい放題である。新三の子分の勝奴・勘九郎さん、これがまた小憎らしい。観ている方も弥太五郎源七の顔を潰され刀に手をかけたくなるのが分かる。それほど三津五郎さんはキリキリと親分を嘲弄し、大きく構えてきた橋之助さんもドンドンプライドを潰されていく。そのため、深川閻魔堂での親分の仕返しが納得でき、この新三は何時かは誰かに殺される小悪党である事が宿命と思える。その小悪党が苦手な大家・彌十郎さんとのお金のやり取りも程々で気を抜いてくれる。

『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(かさね)は、因縁が分からないと理解しがたい踊りのように思える。単にお岩さんのように醜くなりその恨みと思うが、そうではなく、与右衛門が殺したかさねの父親がかさねに憑りつくのである。かさねはその為に本来のかさねではなくなり、与右衛門はかさねを殺すことになる。殺しの美学的所作事が、今回は暗すぎ気が乗らなかった。福助さんと橋之助さんのコンビ、息が合うはずなのにしっくりしなかった。こちらの見方が悪いのかも知れない。五月の『廓文章(くるわぶんしょう)』(吉田屋)の仁左衛門さんと玉三郎さんコンビが良く映らなかったので、ショックを受けており、自信がない。

『狐狸狐狸ばなし』は可笑しさと同時に、シリアスな話でもあると思った。いつも笑わせられるだけでなのであるが、伊之助・扇雀さんと又市・勘九郎さんが浮気な伊之助の女房おきわ・七之助さんを仕返しに気をふれさせ、<「狐狸狐狸ばなし」だねえ>と言いながら花道を去る時、本当に狐と狸の化かし合いだと思わされる。さらにもう一つの化かし合いが加わり、終わることのない『狐狸狐狸ばなし』である。適度のダマし合いは笑いで済まされるが、これが際限なく続くとなると笑いでは済まない『はなし』となる。扇雀さんと勘九郎さんが体の動きで笑いを誘ってくれる。