小三治さんの『道潅』と『船徳』

一年振りであろうか。小三治さんの生落語は。『道潅』と『船徳』の二席である。

『道潅』は、落語の中に出てくる<隠居>の存在がいい位置を占めている事に気がつく。何気なく聴いているが<大家>は家賃を払わなくてはならないので金銭的関係が付きまとうが、<隠居>は生活圏の中の生き字引きみたいな人で、さらに思いもよらない知識を与えてくれる存在である。八つあん、熊さんが自分の知らない世界の知識を得てその知識を仲間に伝授しようと試み、どういうわけか不首尾に終わってしまうことが多い。それほど有難がらずに素直に受け入られるのが<隠居>の話で、この<隠居>の存在は、どこかの世界の黒幕よりよっぽど値のある人である。こちらも隠居の話を、八つあんと同じように素直に耳を傾けられる雰囲気を造りだしてくれる。(太田道潅が山中で雨にあい、近くの村娘に雨具を借りようとした。娘は山吹の枝を差し出した。<七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき>の古歌になぞらえたもので、みのと蓑をかけて雨具が無いと伝えた。それを家来に説明され、道潅が歌道に精進したと隠居は教えてくれる)

『船徳』は、若旦那が真面目である。親から勘当された道楽息子であるからどこか抜けてはいるが、自分なりに一生懸命な若旦那である。そう思わせる為であろうか、あまり若旦那に話させない。若旦那を預かっている船宿の親方が若旦那の語りを代弁する。「船頭になりたいですって。あなた無理を言っちゃいけません」のように若旦那の台詞とこちらの当惑を語っていく。そのため、この話のときは、始めからチャラチャラした若旦那でその辺から笑わせるかたちのものが多いが、聴いていると、若旦那が存外真剣なのが分かる。若旦那は若旦那なりに自分の力を試したいと思っている。『船徳』のこんな若旦那は初めてである。

若旦那の徳さんにお客がつき、船頭として船を漕ぎ出す。小三治さんの徳さんは一生懸命漕ぐのである。聴いている方は漕ぐわけではないが、小三治さんの漕ぐ様子を見ていると次第に力が入ってくる。最初に「今日の話は涼しくありませんからね。」と言われたのが思い出される。船がグルグル回るのも、石垣に船が寄ってしまうのも、一生懸命なんだけれども、何処か力の入れ方が違うんだろうなあと思わせる。「こつと言いますけどね、先ずはやってみて、さらに無駄なことを沢山やって見なければ、そう簡単にこつなんてものは掴めるものじゃありませんよ。」と、一生懸命の徳さんの後ろで小三治隠居さんが事もなげに涼しい顔で言われているように見えてくる。

小三治さんの『船徳』のテープがあったので聴き直してみたら、基本は同じであるがもう少し若旦那が自ら語っていて軽いところがある。今回の若旦那は<船頭徳さん>に成りきろうとかなり固い決心の若旦那であった。落ちに、客が船を下りる時「大丈夫かい」と尋ねられ「船頭を一人雇って下さい」と伝えるのが、自分はプロではありませんのでと認めているかたちとなる。でもこの徳さんは、まだまだ船頭になることを諦めなさそうである。この徳さんの存在は、きちんと船の漕ぎ方が出来るからである。そう話を持っていこうとしても、その形ができなければ、中途半端な腰の座らぬ話で終わってしまう。その辺りが長年努めてこられた力であろう。