新橋演舞場 『九月大歌舞伎』

坂東三津五郎さんが病のため休演である。歌舞伎座の8月に心満たされる演技を受け、舞踏「喜撰」がよく掴めていないのでDVDも出ていることだし、少し探って見ようかなどと考えて居た矢先である。友人で同じ病で手術をし、体力がつくまでかなり時間を要したのを知っているので、ゆっくりと治療にあたって戴きたいものである。それまでDVDで堪能して心静かに待つことにする。

『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の綱豊は中村橋之助さんである。この役は橋之助さんに合う役であると思って居たのでゆったりと観ることが出来た。役の大きさはまだでも、台詞が納得させれるか、そこが真山青果作では重要である。片岡我當さんの新井白石と、赤穂の浪士たちに仇討をさせたいものだと吐露し、白石が手で目頭を押さえるあたり綱豊の考えが固まっていくのがわかる。赤穂浪士・富森助右衛門が御浜御殿での浜遊びを見学したいと知り、吉良の面体を確認するためなら仇討があるのかもしれないと綱豊は読み、助右衛門を傍近くに呼び探りを入れる。仇討を悟られてはいけないし、吉良の顔を確認したいし、そのあせる気持ちを中村翫雀さんはソワソワしたり、ふてぶてしさを見せたり、綱豊との対決に面白味を加えた。

浅野大学によって浅野家再興が認められれば、仇討は意味がなくなる。その鍵を握っている綱豊は明日浅野家再興を願い出るという。行き場の無くなった助右衛門は、妹の手引きで、吉良を討つことに決める。これから舞台に出ようと能装束に身支度した吉良上野介に槍を突く。それは、吉良の身代わりの綱豊卿で、助右衛門の知慮のなさを叱責する。大石は自分の手で浅野家再興を差出し、自分の手から仇討という大義名分を逃してしまうかもしれない立場にある。その苦しみは如何ばかりか。そこに至る道を考えろ。そこに至る事が大事なのだ。橋之助さんは能装束姿の美しさと、台詞により仇討への過程の美しさをきちんと押し出して絞めてくれた。演じるにしたがい、大きさは加わっていくであろう。

『不知火検校』、悪がどんどん増幅されていき面白かった。河内山宗俊よりも非情で、不知火検校からすればお数寄屋坊主の河内山などはお人よしの悪人なのかもしれない。魚売りの富五郎は自分の子が生まれるための金欲しさから、親元に帰る途中の按摩を殺しお金を手に入れる。ところが、生まれてきた子は目が見えなかった。この子は不知火検校という盲人の最高位の所に弟子入りし富の市と名乗り一人前の按摩となる。小さいころから手癖も悪く、悪巧みにたけている。まるで悪のツボを心得ているように、そのツボを確実に一針うち悪を成功させていく。相手が騙されたと思った時にはすでに手の出しようがないのである。その辺りを松本幸四郎さんは富の市や自分の師匠を殺し二代目不知火検校になるまでの一針を手もとを狂わせることなく、時としては嬉々として、非情に成し遂げていく。その成し遂げる過程が、最後花道で一般庶民は検校に嘲られるが、嘲られるのが当たり前なくらい、ただただ、えっ、そうなるわけとあっけにとられるのである。

台詞の中に、熊谷宿の場面では、生首の次郎に呼び止められると、呼び止められた敦盛ではあるまいになどと、敦盛と熊谷直実の場面を引き合いに出したり、歌舞伎座での演目『新薄雪物語』や、常盤御前に例えたりとチラリチラリと台詞に色を添えてくれる。歌舞伎独特の江戸の悪の華、堪能しました。富の市や不知火検校に接するとき、相手は、どこか自分のほうが優位に居ると思っているところがあり、そこが、ねらい目でもあるわけである。油断をさせて置いて、全ては自分の手の内である。ただ、不知火検校の悪の大きさに恐れをなした小者が、不知火検校の弁慶の泣きどころであった。