旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿から二川宿(2)

旧東海道にもどり新居宿を通り国道1号にぶつかり西に曲がると、源頼朝が茶の湯につかったといわれる<風炉の井>。国道1号から旧東海道にはいると、室町将軍・足利義教(あしかがよしのり)が紅葉をめでたといわれる<紅葉寺跡>。

さらに西に進むと元町(元宿)である。ここに白須賀宿があったのであるが、1707年(309年まえ)の地震による大津波により潮見坂の上に白須賀宿は移されるのである。

潮見坂>は西国から江戸への道程で、初めて太平洋と富士山がみえる景勝地とされている。大海原はみえたが富士山はみえなかった。

潮見坂の上に無料休憩所をかねた展示館「おんやど白須賀」がある。ここで昼食である。

食事処がないので、朝、駅弁を買ってリュックにいれてきた。普通の幕の内の駅弁である。深く考えもせず、リュックにたてに入れたのに弁当の中身がずれていなかった。途中、駅弁のことなど気にもかけずゆさゆさと歩いてきたのに、横にして持ち歩いたようにそのままの状態であった。日本の駅弁を見直してしまった。

おんやど白須賀」の展示室にある和紙でつくられた、潮見坂をいきかう旅人を配置したジオラマに感心した。旅人は小さいのであるがさらに細かいところまでよく表現されていて、男性の旅人のかぶっている手ぬぐいのかぶりかたが全部違えてあったりする。あれあれなどと次々と発見があった。

歌舞伎の写真もあった。説明によると地元のかたがたでの公演のようであるが、「忠臣蔵外伝 東海道白須賀宿の場」とある。

元禄8年に浅野内匠頭と吉良上野介が白須賀宿の本陣に宿泊したという史実より白須賀を舞台にした脚本を「湖西歌舞伎保存会」と市川升十郎氏により書かれたとある。「赤穂の塩」「吉良の塩」「潮見坂」と塩づくめでまとめられ、白須賀に関する人物や名物もでてくるとのこと。

内容は「時は元禄13年、白須賀本陣に浅野内匠頭が宿泊、吉良上野介は参勤交代の途上急に腰痛になり白須賀に泊まることに、そこで塩づくりの秘伝を聞く良い機会と浅野を訪ねたが話は・・・・」で、その後、潮見坂を早飛脚が通り江戸城での刃傷が知れ渡るということらしい。

原因として塩が関係していたということを聞いたことがあるが、それと白須賀を組み合わせたようで、地元ならではの脚本化である。

ゆっくり食事、休憩をさせてもらい歩きはじめると潮見坂公園跡がある。徳川家康がここに茶室を作り、武田勝頼を破って尾張に帰る織田信長をもてなしたということである。明治天皇も行幸のさいここで休憩されている。海のみえる位置にテーブルとベンチがあり、休憩地としては最適である。そばに中学校があり、何かのときは避難所となるのであろう。

本陣や脇本陣はのこってはいないが、道の両側に火防樹のマキがのこっている。津波をさけるため坂の上に移ったが、冬の西風で火事の回数が多く、火事の広がるのをくいとめるために土塁の上に植えられる。昔はどこの宿場でも植えられていたようで、静岡でのこっているのはここだけである。静岡県には53宿のうち22宿あり、そのなかでのこっているのであるから希少価値である。

いろいろな災害を経験し、それを防ぐ方法を江戸時代のひとびとも一生懸命考えたのである。

わたしたちも無事坂をこえることができほっとしたのであるが、境川の境橋をこえ三河国の豊橋にはいり二川宿で押せ押せの行程となった。

交通の便のない白須賀宿が頭にあり、二川宿は小さい宿場なので簡単に考えていたが、江戸時代は小さくても現代のみどころとなると違ってくるのである。

二川宿 < 本陣・旅館・商家の3か所を見学できる日本唯一の宿場町 > とある。

商家「駒屋」に寄り、カフェもあるので一服とおもったら、次の本陣のほうが大きくて見る時間がかかると教えられる。5時までなので見学をして一服はやめる。米ジュースとやらが呑みたかった。商家は主屋があり奥に奥座敷がありさらに奥に土蔵があり奥へ奥へと進み最後に蔵があるという細長いつくりである。

二川宿資料館には、本陣と旅籠屋「清明屋」が移築され、さらに資料館もありたっぷりと江戸を味わうことができる。二川宿も1707年と1854年の大地震には大きな被害があり、その間4回の大火にみまわれている。1863年には14代将軍家茂が上洛のため、1865年には長州征伐のためこの二川宿で休憩している。江戸幕府の終焉のあしおとも聞いていたわけである。

関所、旅籠、商家、東海道のもろもろのことに興味があるなら、JR東海道線の新居町駅と二川駅で下車して見学すると歩かないで江戸時代の旅をおもいえがけるであろう。ワークシートがそれぞれあって、関所、高札に書かれていること、江戸時代の旅の心得、宿場の人口、本陣の数、旅籠の数などきちんと整理されている。

軽くみていた二川宿で、小気味よく押さえこまれてしまった。