現在・過去・現在・未来への回線

日々の報道や観てきた映画、ドキュメンタリーなどから想いは様々に巡っていく。過去の人々が経験してきたことを今見つめている。

常磐線の全面開通。9年かかった。良かったと思ったら、放射線量の高い帰還困難区域はまだ存在していてそこを通るのである。そこを飛び越えて東北に来て下さいということである。東北を元気にすることは大切である。この開通を喜ぶなら、帰還困難区域のことへも思考の回線をつなぐ必要がある。現状が落ち着いたら乗車し車窓を眺めたい。

ドキュメンタリー『“中間貯蔵施設”に消えるふるさと福島 原発の町で何が~』では、“中間貯蔵施設”というのを知る。福島県内の除染で出た除染土などの除染ごみを仮りに置く場所である。30年間の仮りの貯蔵施設である。その場所を所有している人々の苦渋の決断を伝えてくれた。自分がこの世にいなくなったあとにどうなっているのかをも思考しての決断である。

アメリカ文化ヒップホップに興味をもって映画やドキュメンタリー映画などを追い駈けていたら日系アメリカ人のことにぶつかった。ドキュメンタリー映画『N.W.A & EAZY-E:キングス・オブ・コンプトン』(2015年)は、ヒップホップグループ「N.W.A」のイージ―・Eの半生を描いたドキュメンタリーである。グループの映画としては『ストレイト・アウト・コンプトン』(2015年)がある。

ドキュメンタリー映画のほうで、メンバーのイージ―・Eとドクター・ドレ―を会わせたのが日系アメリカ人のスティーブ・ヤノという人であった。スティーブ・ヤノは、ローディアム(カリフォルニア州ロサンゼルスの南部の蚤の市)の伝説のレコード店の店主である。当時彼は、地元の大学院で心理学を学んでいた。この店に行けば流行りのレコードが全てそろっていて、ミックステープもあり、皆、彼の店で音楽を調達していた。

スティーブは音楽をわかっていて、ドレーのミックステープも置いていた。イージ―もこのレコード店を訪れていてドレ―に会いたいとスティーブに伝えていたのである。三人は電話で話したようである。それが「N.W.A」結成のきっかけとなるのである。日系アメリカ人がアメリカ文化に関係していたということを知ってから次の報道に目が留まる。

カリフォルニア州議会下院本会議は2月20日、第2次大戦中の強制収容など不当な扱いにより日系人の公民権と自由を守れなかったことを謝罪する決議案を可決したというのである。決議案の提出の中心議員が日系アメリカ人のアル・ムラツチでカリフォルニア州は日本人移民の多い場所であった。調べたら、1988年、アメリカ政府は公式謝罪をしている。

強制収容所に関しては、ドキュメンタリーで『シリーズ日系人強制収容と現代 暗闇の中の希望』を昨年観ていた。こちらはカナダでの日系人強制収容所でのことである。教育を受けられない子供たちのために収容所に高校を設置しそこで教えた女性カナダ人宣教師と子供たちとの交流が紹介されていた。そこで受けた教育はその後の子供たちの成長に大きな力となっていた。カナダ政府も日系人強制収容に対しては1988年謝罪している。

これらの事実を知ってもらいたいと思っている人々は、世界中が行き来する現在、過去の差別的考えを知ってそういう状況が発生することがないようにと願ってのことであろう。新型コロナウイルスのまん延する現在にもあてはまるように思える。

この機会にこの映画を観ておかなければ。映画『バンクーバーの朝日』(2014年・石井裕也監督)。今だからこそ差別と閉塞感がひたひたと水か煙のように迫ってきた。野球によって何か変わるのではないかという希望は強制収容所への道となってしまう。

3年間働けば一生楽に暮らせるとの話しから日本人はカナダのバンクーバーに到着する。ところが白人より低賃金で、日本人の真面目さはかえって反感をもたれる。バンクーバーで生まれた子供たちは働きながら野球チーム朝日で野球の練習に励む。体力的にもチームは最下位であったが、チビといわれながらも体力差を頭脳プレーに変え日系人を勇気づけ野球を面白くした。

日華事変がはじまりますます職が無くなっていく。朝日は優勝して対外試合に呼ばれ野球で新しい世界があるように見えた。息子(妻夫木聡)は父(佐藤浩市)に「野球ができるならここで生まれてよかった」と伝えるが、真珠湾攻撃により敵性国人として強制収容所へ隔離されるのである。

日系人が自由になったのは日本が負けて4年後であった。2003年、朝日軍はカナダ野球の殿堂いりをするが、その時大半の選手がこの世を去ったあとであった。この映画は、バンクーバー国際映画祭で観客賞を受賞している。

映画『ハワイの夜』(1953年・マキノ雅弘監督)では、二大スターの共演ということで恋愛作品となっている。日華事変の頃、ハワイでの水泳の親善大会で日本人男性(鶴田浩二)と日系人女性(岸恵子)とが出会い、第二次大戦となってもその想いは変わらず死を賭けて再会を果たす。深くは掘り下げていないが、親と二世の子供たちの千々乱れる苦悩は伝わってくる。移民できた親たちは日本への郷愁が強く、ハワイで生まれた子供は自分はアメリカ人だと宣言し志願して戦争にいく。

国立歴史博物館で企画展示「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」を開催していて興味があったのであるが知ってから日にちが無く観ることができなかった。残念である。過去に生きた人々は現在の私たちへ様々な足跡を残していてくれる。その回線を少しでも感知していたいものである。未来への回線は・・・