『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』(朝井まかて著)

奥の細道』の酒田のところで解説に、井原西鶴の『好色一代男』と『日本永代蔵』にも酒田が出てくるとありました。松尾芭蕉と井原西鶴。同じ時代に生きていたのです。西鶴というと浮世草子作家、今なら大衆小説家というような印象だったのですが、俳諧から始まっていたのです。

たしか大阪生國魂神社に像がありました。何かをここでやったと解説文がありましたが覚えていませんでした。1673年(寛文13年)生國魂神社で万句俳諧を興行したのです。12日の日数をかけて一万句を巻きました。200余人が出句、それを『生玉万句』として出版します。大阪で出版した初めての俳書です。

芭蕉はその次の年1673年に江戸へ出ます。西鶴の行動は知っていたと思います。芭蕉は芭蕉で俳諧の新しい道を暗中模索の状態だったと思われます。京、大阪ではなく江戸に出た松尾芭蕉。大阪で何とか注目を浴びたいと様々な試みをしていた井原西鶴。面白いではないですか。ありました。朝井まかてさんの『阿蘭陀西鶴』。

この作品、織田作之助賞を受賞しています。織田作の銅像も生玉にあり、面白い組み合わせと思いました。遅れて近松門左衛門も文楽で出てきます。超面白い時代です。絵師の排出した若冲の時代みたいです。

生玉万句』が出版された頃本流だったのが貞門派で、新しい句を打ち出す西山宗因(のちに談林派)の宗因流に対し面白さを求めて軽すぎると揶揄され阿蘭陀流と言われたりしていました。それを受けて西鶴(この時は鶴永)『生玉万句』で何が悪い自ら阿蘭陀流であると宣言したのです。その後、西山宗因の一字をもらい西鶴とし阿蘭陀西鶴として次々と新しい試みに挑戦していくのです。

井原西鶴に関しては資料が少ないらしいのですが、朝井まかてさんは、西鶴の盲目の娘・おあいが自分の父・西鶴の人となりを語るという形にしています。盲目ゆえに耳から聞いた父の作品は全て覚えていて、訪れる人や父の外での話から父の人をたらしこむやり方などよく心得ていて客観的にみています。その娘・おあいの想いと同じに読んでいる読者はある時点からおあいと一緒に方向転換させられます。

人は自分の顔が物を言っているのを知らないものです。そのことをおあいは歌舞伎役者の辰彌から知らされるのです。美しいだけを求められている役者ならではの冷めた意見だったのです。おあいはいつも父に対して批判がましい顔つきをしていて、西鶴のおあいに対する愛情をちっともわかっていない顔だと彼はスパッと指摘するのです。

その後、ほかの人からもおあいが父に対して勝手に思い込んでいたことが違っていたのだということに気づかされます。この展開が作家の力加減の上手さです。こちらもほろりときます。

西鶴の成してきた作家活動と、その中で翻弄されてきた家族の感情やそれを恨みにしないで生きていく生き方が静かに当たり前のように進んでいきます。西鶴も新しさを求めて突き進み最後は庶民の生活を描く『世間胸算用』で締めとなるのです。

世間胸算用』の出版された1692年におあいは亡くなり、次の年の1963年(元禄3年)に西鶴も亡くなります。

芭蕉さんから西鶴さんにいくとは『奥の細道』を読み始めたとき思いもよりませんでした。そんな道筋にありがとうございますです。西鶴さんには一度は近づきたいとおもっていましたので。『阿蘭陀西鶴』が新たな道しるべとなってくれました。

阿蘭陀西鶴