市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(3)

市川雷蔵さんの『炎上』の主人公・溝口役はスター性を全て消し去っています。こんなに消し去れるものかと驚かされます。どこかにスターとしての顔を出さないと不安になるようにおもうのですが、それを消しても恐れない何かがあります。

市川雷蔵さんが映画に出てから4年目で48本目の映画でした。

原作から考えるとよく映画化に踏み切ったと思います。最後の「生きる」を変えています。なるほどとおもいました。原作と離れて映画は映画として観た方がいいでしょう。

炎上』(1958年・市川崑監督)

溝口が国宝の驟閣寺(しゅうかくじ)を焼いた犯人として捕まり、取り調べ室からの始まりとなります。溝口は小刀で二か所自分を刺し薬で意識朦朧の中を捕まったのです。何も話しません。

溝口の父が亡くなり、その遺言を持って驟閣寺に来た日のことから回想されます。要所、要所でさらにさかのぼって回想されたりしますが、その展開が見事です。そのことがこの作品の流れと、溝口の上手く語れない心情の流れをも助けていて効果的に作用しています。

何といっても雷蔵さんの一つ一つの表情がいいです。驟閣寺に再会した時の表情。自分が吃音であることを寺の人々の前で副師に大きな声で言われ、その後で老師が優しい笑顔で励ましてくれた時の安堵感のわずかな微笑み。

副師は、自分の息子を徒弟にしてもらえない鬱屈した気持ちが溝口に向かったのです。

母が寺に来ます。溝口は母が嫌いでした。母が不貞を犯していた回想となり、父が黙って岬の岸壁に立ち海を見ながら語ります。今度、驟閣を見せに連れていこう。驟閣ほど美しいものはない。驟閣のことを考えただけで世の中の汚い事を忘れてしまう。

溝口は母から寺が人手に渡ったことを聴かされます。父の病からの借金のためです。もう溝口の帰る寺はないのだから一所懸命修業して驟閣の住職になってくれるのが母の夢だといいます。

ところが老師は次第に溝口の話しをゆっくり聞いてくれることがなく溝口を避けるようになります。そんなとき、新京極で女性と一緒の老師で出会うのです。二度も。

溝口は大学で足の不自由な戸苅に近づきます。戸苅は人の表と裏の顔を知っていてズバズバと物を言います。その言葉に反応する溝口の表情も繊細に反応します。戸苅は汚い世間に踏み込んで同じように汚れてながめ、暴くようなところがあります。戸苅は老師が一番嫌がることをするように溝口をけしかけます。

溝口は女性の写真を朝刊に挟み老師に届けます。その結果、溝口は老師にどんどん見放されていきます。溝口は小刀と睡眠薬を買い、故郷の父と立った岬から海を眺め、小刀と薬を握りしめます。

溝口はかつての父の寺をそっと眺めます。知らない住職が出て行き次に父の葬式の列がでてきます。この回想の運びが素晴らしい。溝口もその葬列に加わり、海辺で火葬となります。じっと炎をみつめる溝口。ここで驟閣を美しいまま永遠のものにすると決めたのかもしれません。

勝手に寺を出た溝口は寺に戻されます。

溝内は戸苅と議論します。戸苅は実家が禅宗のお寺でお金を持った住職がいかに俗物で偽善者であるかを語ります。戦争が終わり、老師は世間的手腕があり驟閣を発展させました。溝口はしかし驟閣は違うと言います。驟閣はもともと美しいままそこにあったのだ。金儲けの道具にはしない。驟閣は変わらない。驟閣を自分が変わらせないと言い切ります。

そこに後ろ向きで座っていた女性が、かつて徒弟仲間の鶴川と南禅寺の勾欄から天授庵でみた美しい女性であった。生きているものは変わる。

老師がくれた授業料で溝口は五番町に行き遊郭に上がります。まり子という女が相手しますが、話しただけで何もせず帰ってきます。

驟閣には父の修業時代の仲間の和尚が来ていました。どうやらこの和尚の方が老師よりまともな仏教徒のようですが、溝口の決心を変える力はありませんでした。

溝口は、京都駅から東京に刑事に付き添われ護送されます。駅構内では人々があれが驟閣を焼いた犯人で、母親は鉄道自殺したとささやきます。車中で溝口はトイレに行きたいと言いデッキから刑事を振り払って飛び降り自殺します。

溝口の生きる一番良い道は驟閣のそばで修業し驟閣の住職になる事だったのかもしれません。しかし、その驟閣がお金を生み出し老師さえも変えてしまった。驟閣を美しいまま残すにはどうしたらよいか。溝口の考えた焼くという結論がこういうことだったのでしょう。

美しいとお題目を唱えていたらとんでもなくお金まみれであったというのは今もかわらないことでもっと醜悪になっています(オリンピックなども)。それが日本でも戦争で生き残った人々が作り上げたきた世界でもあるというのも明白です。

出演・溝口(市川雷蔵)、老師(中村鴈治郎)、戸苅(仲代達矢)、溝口に父(浜村純)、溝口の母(北林谷栄)、天寿庵の女(新珠三千代)、副師(信欣三)、鶴川(舟木洋一)、五番町のまり子(中村玉緒)

登場人物がそれぞれ問題を抱えていて、その役どころを皆さん細かい点まで考えられて演じられていて、当時の状況をデフォルメしてくれます。原作で「生きる」としたのは三島由紀夫さんの当時の心象を表しているのでしょう。

市川雷蔵さんは、この後市川崑監督では『ぼんち』(1960年)、『破戒』(1962年)で主演し、『雪之丞変化』(1963年)で助演しており、三島由紀夫原作では『』(1964年・三隅研次監督)に主演しています。『』では雷蔵さんは魅力的な真摯な生き方をみせてくれます。

市川雷蔵さん、37歳という短い生涯においてその幅広いジャンルの映画に出演されていたのには驚かされます。

追記: ここ数週間で観た映画の原作や脚本に川口松太郎さんの名前が多いのにこれまた驚きました。『雨月物語』『近松物語』『編笠権八』『日蓮』『大江山酒天童子』。『大江山酒天童子』は、『茨木(いばらぎ)』『土蜘(つちぐも)』『勧進帳』の変化球の挿入もあり超娯楽時代劇の醍醐味で衣裳が豪華でした。『日蓮』もというのにはその活躍ぶりがうかがいしれます。

追記2: 心配し過ぎと笑われるほうが気が楽です。

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